2023年12月13日水曜日

河内国若江郡箕輪村・古箕輪村の産土神「八幡宮」についての小考(由来・歴史・ルーツ)

東大阪市の中北部地域にある古箕輪には、産土神として「八幡宮」があります。そこに神社がある理由は、村の歴史そのもので、古箕輪集落になぜ「八幡宮」社なのか、少し気になりましたので調べてみました。本来、人々は神社(寺)に寄り合い、決め事をしていました。大変身近で、なくてはならない存在でした。
 また、人々は自然の摂理を上手く使い、調和して文化を育みました。この一帯は、新開池という大きな池沼がありましたが、大和川の付け替えという大土木工事により、環境が一変しました。その事とも村の成り立ちは大いに関係があります。

それについて先ずは、古箕輪八幡宮にある東大阪市による由緒の説明板をご紹介します。
※古箕輪八幡宮境内の説明板


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古箕輪八幡宮
もと箕輪村に含まれる古箕輪は、新開池の南東に位置し、大和川付替え以前は池の藻草を刈り、魚を採って生活していた漁村でした。新田開発後は農村となりましたが、南方の村々の悪水で例年作付けに水難を受けるため、踏車を使って悪水を排水し、また天水場であるため日照りの時には干害にみまわれたといわれています。
 氏神である八幡宮は、創建は不明ですが、本殿は一間社流造杮葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈籠に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。
 拝殿には、幕末から明治初めに奉納された元寇、神功皇后朝鮮出兵図、江戸時代の風俗図、天皇に将軍・御三家等が供をした加茂明神参詣図などの明細な絵馬が残されています。
 また、正面左にある燈籠は、天保2年(1831)銘の「おかげ燈籠」です。竿に「おかげ」と刻むこの燈籠は、江戸時代に伊勢参宮が流行し、ほぼ60年毎に「おかげ参り」と呼ばれる集団参宮が行われた際に、村人達が神恩を感謝して奉納したものです。東大阪市内には合計18基の「おかげ燈籠」が知られていますが、文政13年/天保2年(1831)のものが13基で最も多く、この頃伊勢参宮が非常に盛んであったことがわかります。
平成16年10月 東大阪市
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それによると「氏神である八幡宮は、創建は不明」とありますが、続けて「本殿は一間社流造杮葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈籠に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。」と記述し、神社の創建に遡るための、少々の手がかりを得る事ができます。
 そこで、学術的な村の歴史を知るために、いつもの地名シリーズから、該当項目を抜粋します。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎箕輪村(東大阪市箕輪)
箕輪旧集落の様子 ※2001年撮影
若江郡に属し、南は中野村。大和川付替えまでは、北に新開池があり、西方の菱江川、東方の吉田川に挟まれた平坦な低湿地であった。「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条によると、造太神宮役夫工米を各地の庄園の地頭が未進しており、そのなかに河内国の三野和がみえる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高148石余、小物成として葭年貢銀100匁、幕府領。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領150石余・同新田118石余。天保郷帳では箕輪村150石余と箕輪新田118石余とに分かれて記される。新田は元禄16年(1703)に開発され、高118石余・反別11町1反余。鴻池屋善次郎が1反歩につき5両3分の地代を納めた(享保5年「箕輪村新田明細帳」田中家文書)。以降高の変化はなく、領主の変遷は横枕村に同じ。延享元年(1744)の村明細帳(同文書)によると、宝永元年(1704)以前、新開池床のうち60町歩ほどが箕輪村領で、「池之内に而藻草を苅、魚を取、百姓身命ををつなぎ候」とある。当地はこの一帯では最も低湿地で、南方の村々の悪水で例年作付に水難を受けるため、水車大5両・小25両を用意して悪水を踏み出し、水害を防ぐ手段とした。また天水場のため、堀井・溜池など用水に役立つものはいっさいなく、日照りの時には干害の難にあった。家数187・人数917、牛8。産土神は八幡宮2社で、1社は座衆25人、1社は100余人。享保5年(1720)の新田の家数2(無高)・人数11(前掲新田明細帳)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。明治2年(1869)の新田を含めた家数155・寺2・人数756、牛20(同年「村明細帳」田中家文書)。真宗大谷派宝樹山淳信院聞称寺がある。明治7年箕輪新田が独立村となったが、同20年箕輪村と併合。
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同書によると、現在の古箕輪は、明治時代初頭までは「箕輪新田」と呼ばれており、その後は「小箕輪」との変化を経て現在の呼称に至るようです。また、産土神は八幡宮2社であるとしており、この内の1社が、古箕輪集落に祀られているものと思われます。
 それから、同記述中には、享保5年(1720)の新田の家数が2・人数11とあります。この規模では、村とは言えないように思います。大和川の付け替えなどによる工事(開発)は宝永2年(1705)です。古箕輪八幡宮の鳥居には寛保元年(1741)の銘が刻まれています。
 これらを整理すると、大規模新田開発が行われ始めた頃から段階的に箕輪村の新田開発を行うために、1720年頃に出先としての入植が始まり、その開発が概ね完了した頃の1741年に神社などの整備も行われて、集落として整ったのではないかと思われます。
 小箕輪集落は、箕輪村を起源としていますが、何度かの独立機運もあって、今となっては両村のつながりは無くなっているそうです。
 一方、この記述で大変気になるのは、「吾妻鏡」の建久元年(1190)の記述には、三野輪すなわち箕輪村に鎌倉幕府により地頭が置かれたようだ、としています。幕府の出先機関ともいえる地域の役所機能も備えた地頭が箕輪に置かれたならば「八幡宮」のルーツの可能性もそこにありそうです。その前に、地頭の意味について、概要部分を紹介してみます。
※ウィキペディアより抜粋「地頭」の項目
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD

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◎地頭とは
武士の館の一例
地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。
 平安時代(平氏政権期以前)には、荘園領主・国司(知行国主)が、所有する荘園・国衙領(公領)を現地で管理し領主へ年貢を納める職(荘官、下司、郡司、郷司、保司)を任命したが、鎌倉時代には源頼朝がその職の任命権を持つこととなり、朝廷も認めた。鎌倉幕府はこれを地頭職と呼ぶこととし、御家人から任命し、領主へは年貢を納めることを保証した。

在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事・警察・徴税権を持つこととなり、御家人の実質的な所領として認めることとなった。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。

幕府が御家人の所領支配を保証することを本領安堵(ほんりょうあんど)といい、幕府が新たに所領を与えることを新恩給与(しんおんきゅうよ)というが、いずれも地頭職への補任という手段を通じて行われた。地頭職への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認めることを意味していた。(中略)
 幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。 (中略)
 平氏滅亡後の文治元年(1185年)10月、源義経・源行家が鎌倉に対して挙兵すると、11月に上洛した北条時政の奏請により、義経・行家の追討を目的として諸国に「守護地頭」を設置することが勅許された(文治の勅許)。鎌倉幕府の成立時期にはいくつかの説があるが、守護地頭の任免権は、幕府に託された地方の警察権の行使や、御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものであり、この申請を認めた文治の勅許は寿永二年(1183年)十月宣旨と並んで、鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。(中略)
 頼朝傘下の地頭の公認については当然ながら荘園領主・国司からの反発があり、地頭の設置範囲は平家没官領(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定された。しかし、後白河法皇が建久3年(1192年)に崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった
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元々は平安時代に興りを持ち、後に鎌倉幕府なども荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職を指していたようですが、やがて幕府寄りの人物である御家人から選ぶようになり、それも収斂されて在地から選ばれるようになっていきます。
 これが時を経て地域権力化していくようですが、当初は鎌倉幕府による地頭職として、徴税・警察・裁判の責任者として、国衙と荘園領主に奉仕する立場であったと考えられています。その幕府の出先機関であるなら、源頼朝が信奉した、石清水八幡宮を勧請するのが自然な流れでもあるように思えます。
 この時期に地頭が置かれていたとする同じ若江郡に属する長田村(現東大阪市長田)にも神社はありますが、こちらも「八幡宮」を祀っています。同じような経緯だったのではないでしょうか。この補足資料をもう少しご紹介しておきたいと思います。
※大阪府の地名2(平凡社)P945

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◎東大阪市「中世」条
京都府八幡市 石清水八幡宮
(前略)平安時代末の天養年間(1144-45)市域内水走の地が藤原季忠を祖としてこの地方の代表的中世領主水走氏が登場した。同氏は河内郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、氷野河(現大東市)・広見池など池河や、河内郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、市域一帯を支配していた。源平合戦のとき、大江御厨に源氏の兵粮米が課せられ、水走開発田にも兵粮米使が乱入したが、当寺の領主康忠は源義経に訴えて鎌倉御家人となり、本領を安堵されている。また市域の武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わった。乱(源平合戦)のあと市内の箕輪や長田に鎌倉幕府の地頭が置かれたらしく、「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に記された、地頭が伊勢神宮造営の役夫米を未済した所々の中に河内国三野和・長田の地名がみえる。石清水八幡宮領高井田の地頭は将軍家祈祷所として停止され、八幡宮の直接支配に戻った。また若江北条にも地頭給田があった。しかし鎌倉時代の市域は皇室領の大江御厨・若江御稲田、摂関家領玉櫛庄、中御門家領因幡庄、興福寺領若江庄、高野山領新開庄、石清水八幡宮領神並庄・桜井圓、枚岡社領荒本庄など公家寺社勢力が強く、その特権を帯びた供御人・寄人・神人らが諸産業・交易・交通などの業者として活躍し、やがて玉櫛庄民が日吉神人と称して八幡宮神人と利権を争い、若江住人が和泉国大鳥庄(現堺市)内の抗争に加担して悪党とよばれたように(田代文書)、庄園体制の旧秩序を攪乱して南北朝の内乱を導くに至る。(後略)
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ここには、箕輪村の項目にあった視点を更に拡げた記述があるのですが、石清水八幡宮領であった高井田村(現東大阪市高井田)にも地頭職が置かれていたところ、石清水八幡宮の直接支配に戻ったとあります。
 やはり、源頼朝と関係の深い八幡宮が、これらの動きに関わっており、場所としても要衝であったところに幕府が政策として、出先機関を置くようになったようです
 それからまた、このあたりは、川の流域でもある事から、土砂の堆積で年々陸地化が進み、次第に荘園開発されるようになったようです。
 「新開庄」ができ、続いて「新開新庄」が開かれています。以下、資料です。
※大阪府の地名2(平凡社)P968

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◎新開庄
中新開の諏訪神社 ※2013年撮影
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てよとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺壱百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これをうけた河内国守護細川氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
【参考記事】戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付替前の地形を探る)
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次いで、新開新庄についてです。
※大阪府の地名2(平凡社)P977

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◎新開新庄
新庄一帯にあった庄園。高野山金剛三昧院領新開庄を本庄とし、そこから分かれた新庄で、「河内国新開新庄」(文安3年9月12日「細川国賢書状案」高山寺文書)とか、「河内国新開之内新庄郷」(欠年月日「大聖寺殿塔頭長生院領所々目録」西園寺家文書)などとよばれている。弘安11年(1288)正月13日の尼如くわん寄進状案(高山寺文書)に「しんしやうのけししき二ちやう五反かうち二たんハ、ほんそんあみたの三そんに、えいたいをかきりて、きしんまいらせ候」とあり、新庄に2町5反の下司名田があって、そのうち2反を領主尼如観が寄進していることがわかる。尼如観は続いて同年4月に、新庄の下司名のうち給田3反を山城栂尾高山寺の「くうしやうの御はう」へ譲り渡した(同月20日「尼如観所領譲状案」同文書)。この田地は、文保元年(1317)10月4日の春胤奉書案(同文書)に「新開新庄郷内都賀尾田伍段」と記され、応安4年(1371)に、新開新庄下司の清冬が天役を高山寺の寺田に課し、栂尾雑掌が河内守護楠木正儀にこれを訴える事件があった(同年11月20日「楠木正儀書下案」同文書)。また前掲の細川国賢書状によると、当庄の「下司給内五段田」は、当時「高山寺方便智院領」であったという。
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箕輪村は、池川の水辺の淵にあり、年々地形も変化していたと思われます。「新開新庄」は、新庄村一帯にあった荘園で、鎌倉時代以降、島になったと思われます。新庄村についての資料です。
※大阪府の地名2(平凡社)P977

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◎新庄村(東大阪市新庄・新庄西・新庄東・新庄南)
新田構成図
若江郡に属し、南は本庄村。大和川付け替えまでは、北から西に新開池があり、南西を菱江川、東方を吉田川が流れる低湿地であった。明和7年(1770)の村差出明細帳(岩崎太郎家文書)によると、当村が開かれたころ新開海という大沼があり、沼の築州に百姓の居屋敷を定めていたが、数度に及ぶ大和川の洪水のため新開囲堤の内へ引越した。古屋敷に続く大沼・葭島も新庄村領で、作間に大沼で菱・海老・雑魚などをとって生活をし、葭小物成や運上銀を納めてきた。宝永2年(1705)の新田開発で大沼や囲堤外の地は鴻池新田となったが、その分の高6石余は減じられなかったという。
 正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高461石余で幕府領、小物成として葭年貢銀10匁。寛文6年(1666)より大坂定番米津田盛領となり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では米津領411石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳でも米津領で461石余、宝永4年より幕府領、享保20年(1735)より大阪城代太田資晴領(天保15年「高反別諸色書抜」岩崎太郎家文書)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で新田7石余を含み468石余。前掲高反別諸色書抜によると元文5年より幕府領。寛政6年(1794)には幕府領で高槻藩預地となる(「高槻永井氏預り所村々高付帳」中村家文書)、幕末には幕府領。享保7年の村明細帳(岩崎太郎家文書、以下同文書)によると堤新田(下畑7反余・分米6石余)があった。元文2年河内国高帳にみえる新田と思われる。三島新田との境にあり、もとは悪水井路で川違新田であった(享保20年村明細帳・天保15年村明細帳付図)。享保7年の村明細帳によると家数106・人数558、牛15。延享3年(1746)の村明細帳では家数124・人数694。他村よりの入作高はなく、出作高390石余・63人。田方は稲作7町8反余・綿作21町8反余(田方の約73パーセント)。綿作は連作になるため虫害や病害が多く、近年満作ということはない。宝暦10年(1760)の村明細帳では家数130(高持86・無高44)・人数658(うち僧1)、牛12、大工1(大工高40石は役高引、禁裏普請の時大工を勤める)。産土神は毘沙門天社。天保12年には木綿寄屋1軒があった(大阪木綿業誌)。浄土真宗本願寺派妙光山浄圓寺がある。
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今、見られる新庄村旧集落は、移転してきた後の形態としてですので、本来はもう少し、北や東の水際に近いあたりに位置していたようです。
 そして、その新庄村の南側に位置する本庄村について、続けて以下にご紹介します。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎本庄村(東大阪市本庄西1-3丁目・本庄中1-2丁目・本庄東・本庄)
若江郡に属し、東は箕輪村・中野村。大和川付け替えまでは南西の村境を菱江川が流れ、東方を流れていた吉田川との間に位置して低湿地であった。寛政2年(1790)の村明細帳(藤戸家文書)によると、「悪水平押落込、元来地低成村」で難儀し、付け替え以降は「用水通路曾而無御座、天水場に罷成」と日照りが続けば干害にあった。享保20年(1735)の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)によると、大坂の陣で慶長の検地帳を失い、寛文5年(1708)の検地でも同様であったが、享保6年に分帳となったという。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高703石余、幕府領。延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では幕府領で978石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では幕府領703石余、元文2年(1737)河内国高帳は幕府領で724石余。幕末には幕府領。寛政2年の村明細帳によると堤新田として下畑高4石余・反別5反余がある。享保6年に玉虫左兵衛・遠山半十郎の検地(6尺竿)をうけているので、大和川付け替えに伴う新田であろう。同帳によれば家数116・人数510。初め稲作2分であったが、大和川付け替え以降の天水場となり、木綿作8分・稲作2分となった。産土神は八幡宮(現六郷社)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。浄土真宗本願寺派天王山浄福寺がある。
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両村は、本来は一所として認知されていたところが、後に村切りが行われて別々の集落となったようです。また、「本庄村」の項目で気になるのは、「享保20年(1735)の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)によると、大坂の陣で慶長の検地帳を失い」とあって、この新開新庄にも戦火が及んでいた可能性を示唆しています。
 地理的には、両村は離れていますが、箕輪村に近い本庄村が、そこから離れた新庄村と一体化していたのは非常に興味深い実態で、これは、箕輪村に地頭が置かれたキッカケで、時代を経ても地域の政所的な役割りがあっての事かもしれません。因みに本庄村の浄福寺は天正3年間(1575)の創建と伝わっています。また、この村々のある新開新庄は、若江郡に属しており、郡の境は川であったと考えられます。
 箕輪村の南から東にかけて川があったようです。村は島(新開新庄)の南東淵にあり、集落には、いくつかの街道も通していました。故に、箕輪村周辺は戦国時代に戦火に見舞われていた可能性があったと思われます。
 ちなみに、浄福寺の創建と伝わる天正3年という年は、織田信長の配下となった荒木村重が、摂津・河内国内の大きな争いは概ね鎮圧された頃で、大坂本願寺の本拠を除いて、戦後の再建(政治再編)が進められ始めた年にあたります。荒木は、摂津国一職に加えて、河内国の北半分(若江・河内郡以北あたり)も織田信長から任されていました。ですので、この若江郡地域は荒木の支配地域にあたります。

その頃(大和川付け替え前)は、今の小箕輪集落にあたるところは小さな島で、箕輪村との間は湿地や沼、水際の浅瀬だったのではないかと思います。
 地形を見ると、箕輪村八幡宮と古箕輪村(箕輪新田)八幡宮のある地所は、共に海抜3.2メートル程であり、周辺各村の中でも最も高い位置にあります。
 これをみても、箕輪村に地頭が置かれた場所は今の箕輪八幡宮のあるところと考えられ、幕府の出先機関を置くには、最も選ばれやすい立地です。

その他、箕輪村周辺の集落を参考までに紹介しておきます。当初は、箕輪村周辺にもいくつかの集落はあったと思われますが、時代を経て、次第に規模が大きくなったと考えられます。やはり、条件の良い地勢は先に人が住みますが、その他では海抜が低くなり、住むには条件が悪くなっていきます。大規模なインフラ整備などで、周辺環境が変わらない限り、人の力では自然の作用を克服できないためです。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎横枕村(東大阪市横枕・横枕東店横枕西・荒本北・荒本西4丁目など)
未知の川があった想定図
若江郡に属し、菱江村の西にある。大和川付け替え後、村の中央を流れていた菱江川の川床に菱屋東新田が開発された。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高594石余、幕府領。寛文2年(1662)より大坂城代青山宗俊領となり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では同太田資次領で485石余と改出106石余と1石余。この改出は無地増高。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では太田領485石余・同新田162余。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で577石余。幕末には京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩)領。文政5年(1822)には松原宿助郷村に加えられた(布施市史)。浄土真宗本願寺派繍雲山横枕寺がある。

◎中野村(東大阪市中野村)
若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」字形で、自然堤防上に位置する。このことから考えて、かつて横枕村西方を流れる菱江川から分かれて新開池に流入する川があり、当村はこの川床を開発して成立した可能性がある。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免2ツ6分8厘。家数60・寺1、人数324。余業は男は木綿糸・日用稼、女は木綿稼。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
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この内、特に中野村は、大和川付替後に、水量の減った川床を開発して成立したと考えられています。あるいは、村が拡がったのでしょう。この村の伝承として、今の日吉神社は、元々今の高倉墓地にあったものを移転したとされています。
 この事は、地形が変わり、再開発に伴うものだったと考えられます。村そのものも移転したのかもしれません。中野村が日吉神社を祀るのは、この開発とも関係があるのだと思われます。産土神が山王権現宮で(現存せず)あるようですので、それが今の日吉神社として改められたのだろうと思います。これについては資料にあたっていませんが、そんな気がします。

中野村の項目にある、「かつて横枕村西方を流れる菱江川から分かれて新開池に流入する川があり」との記述にもある通り、この川が埋められた時期は、非常に興味深いです。大和川の付け替えのような大規模な河川改修の前の段階でも、中小規模の河川改修が行われていたようです。それは概ね、大坂の陣(1615年)が終わったあたりから想定できるのではないかと思います。

箕輪八幡宮
以前から個人的に気になっていた、「古箕輪の神社が、なぜ八幡宮なのか」が、最近出合った(というか既知の資料を読み直して気付いた)資料に、そのヒントがあり、今回ちょっとまとめてみました。

箕輪村周辺は、このような経緯がある場所ですし、鎌倉時代には庄園も設置されていますので、織田信長が登場する戦国時代末には、小土豪なども居たはずです。同村内の聞称寺境内には、五輪塔の残欠が多数見られ、関連性を感じさせます。
 それから、箕輪村に隣接する本庄村では、大坂の陣によって検地帳を失っており、また、同村の浄福寺創建は天正3年(1575)と伝わっています。この頃から、慶長20年(1615)頃までの戦乱の続く時代には、防御的に、交通網としても川を利用していたのではないかと思います。
 視野を広げると、箕輪村周辺は、概ね江戸時代を通じて幕府領でもありますから、重要な地域であった事も間違い無く、そういう面をみても、戦国時代には村や一族で守るためにも、そういった武士のような存在もなければ、政治・軍事的対処ができなかった思います。地頭の置かれた所でもあり、政所のような機能やブランドを残していた可能性もありますね。

想像は色々と膨らみます。

 

東大阪市箕輪・古箕輪にある八幡宮のルーツを考えてみる(はじめに )へ戻る

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