2023年5月21日日曜日

摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察

偶然の出会いであった、大坂本願寺五十一支城の一つとされている伝葱生(なぎう)城を調べる内に、その付近にあった赤川寺と摂津池田家との関わりが浮かび上がり、これまた電撃的な、嬉しい出会いとなった事、非常に驚いています。
 赤川寺にしても葱生城にしても、両要素は摂津国榎並庄にあります。ここにある榎並城は、三好政長が居城しており、この人物は池田信正の義理の父親にあたります。要するに妻の父親、信正の舅です。ですので、榎並庄は、摂津池田家にとっても非常に関係の深い場所でもあります。
 この際、詳しく見て、これまでに知り得た要素の整理と再検討、また、今後の備えにもしておきたいと思います。先ずは、もう一度、赤川寺(大金剛院)と般若寺について見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1-P610(赤川廃寺跡)

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◎赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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この「大般若経」の奥書によると、寛喜2年(1230)に完成した経典600巻をその300年余り後の天文16年(1547)に池田信正が、摂津国豊嶋郡の久安寺(現池田市)へ寄進しています。この久安寺は、信正の居城池田城からも至近にある大寺院です。
 信正が西成郡(東成郡とも)の大金剛院(赤川寺)にあった大般若経を知り、久安寺に寄進するという経緯はどのような理由によるものだったのでしょうか。豊嶋郡の久安寺について、一旦、以下に示しておきます。
※大阪府の地名1-P319

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久安寺楼門
高野山真言宗。大澤山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書く(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。(中略)。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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久安寺は真言宗。大金剛院(赤川寺)は、天台宗です。その当時は、宗派が違ったかもしれませんが、両寺とも興りは古く、また、「般若経典」は、どちらの宗派も共通して尊ばれています。
 一方、この時代には、摂津池田家の菩提寺は塩増山大広寺としていたようですので、池田領内にあった久安寺などの大寺院とも、付き合いや親交があったのでしょう。

続いて、榎並庄について見てみましょう。ここは摂津池田家とも非常に関係の深い場所でもあり、長文になりますが、榎並庄部分を全文引用しておきます。
※大阪府の地名1-P625(城東区)

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現城東区野江・関目付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低地帯に存在した大規模な庄園。もと東成郡に属するが正確な庄域は定めがたい。近世には淀川南東、鯰江川以北の摂州25村を榎並庄と称しており(摂津志・享保八年摂州榎並河州八箇両荘之地図)、現旭区・都島区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたる。野江村の水神社付近には中世榎並城があったといわれ、馬場村(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目される。

〔摂関家領〕
「法隆寺別当次第」に長元8年(1035)から長暦3年(1039)まで法隆寺別当をつとめた久円が、その任中に西大門を造立するため「榎並荘一所」を売却したとみえる。しかし榎並庄には法隆寺だけではなく多くの領主の所領が錯綜していたらしい。承暦4年(1080)に当庄をめぐって内大臣藤原信長と信濃守藤原敦憲との間に争論が起こった際、榎並庄の四至内に所領をもつ者に公験を提出させたところ、藤原信長・藤原敦憲・故藤原憲房後家・皇太后藤原歓子・右中弁藤原通俊や四天王寺(現天王寺区)・善源寺(跡地は現都島区)らの多数が応じている(「水左記」承暦4年6月25日・同29日条)。この相論で藤原敦憲は父憲房が故関白家(頼通)から領掌を認められたときの政所下文を提出して対抗しているが(同書同年閏8月8日条)、結局、信長の圧迫を逃れるため関白藤原師実にその所領を寄進したようで、その頃から摂関家の榎並庄支配が急速に進展し、摂関家領となっている。建長5年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)の榎並に「京極殿領内」と注記があるのは、当庄が師実(京極殿)の時代に摂関家領として確立したことを示している。摂関家では前遠江守藤原基俊を預所に補任して支配させた。ところが基俊が預所職を子孫に伝える際、摂関家は榎並庄を上庄・下庄に分割、基俊の嫡女(冷泉宰相室)を下庄の、次女(清章室)を上庄の預所に任じた(「榎並庄相承次第」勧修寺家本永昌記裏文書)。このうち上庄の預所職は次女の夫清章に伝えられたが、保元2年(1157)4月、関白藤原忠通は榎並上庄を東方と西方に分け、清章の譲状に任せて、その着女を東方の預所に補任し庄務執行を命じた(「関白家政所下文案」・「榎並庄相承次第」同文書)。
 前掲近衛家所領目録によると、榎並庄を伝領した近衛基通は、鎌倉初期に上庄西方を近衛道経の妻武蔵に分与したが、上庄東方と下庄は本所の直轄とし、政所の年預を給主として支配させた。榎並上庄西方は「庄務無本所進退所々」に、榎並庄東方・同下庄は「庄務本所進退所々」に書上げられており、当時の東方給主は行有法師、下庄の給主は資平・行経であった。この上庄と下庄の位置を明確に示す史料はないが、延徳元年(1489)12月30日の室町幕府奉行人連署奉書案(「北野社家日記」延徳2年3月4日条所収)には「榎並下庄東方号今養寺、同上庄四分一号高瀬」とみえ、上庄の庄域が高瀬(現守口市)に及んでいる点から、上庄北部、下庄は南部に位置したものと考えられる。しかし平安末期から鎌倉中期にかけての摂関家に対する当庄の負担・奉仕については、わずかに関白忠実の春日詣の前駈るへの負担(「永昌記」嘉承元年12月17日条)、摂関家の元日の供御座の進納や吉田祭の費用の勤仕(執政所抄)、春日祭の舞人・陪従への負担(「猪隅関白記」正治2年正月10日条)などが知られる程度で詳細は不明。建長5年3月成立の高山寺縁起(高山寺蔵)には、中納言藤原盛兼が長日勤行の仏聖灯油ならびに人供料として当庄の私得分の田畑の一部を高山寺(現京都市右京区)に施入し、後日、関白近衛家実の計らいでその坪付を寄進した旨が記され、田畑の一部は高山寺の所領となっている。
「荘園物語」挿絵より:豊中市教
 鎌倉中期以降、当庄に対する武士の侵略が次第に激しくなり、建長2年2月6日、北条時頼は御教書(海蔵院文書)を出し、河内守護三浦泰村が榎並下庄を自分の所領と称して侵害するのを禁じ、代々摂関家領である旨を伝えている。しかし、その後も武士の侵略はやまず、暦応2年(1339)9月、足利尊氏が播磨国平野庄の替りとして榎並下庄東方や楠葉河北牧(現枚方市)年預名などを洞院家に付与した際、榎並下庄東方は「城三郎跡」と注されており(河東文書)、すでに鎌倉末期には下庄東方に幕府方の武士の某城三郎の所領が形成されていたことがわかる。これらの侵略は単に武力によって行われたのではなく、承久の乱以降、この地に地頭が設置され、秦村や城三郎が補任され、地頭職の支配を通じて所領を形成したのではないかと推定される。下庄がいつ東方と西方に分かれたかつまびらかでないが、少なくとも城三郎のときには東方がその所領となっており、東方と西方の分割は、庄園領主である摂関家と地頭との下地中分による支配の分割によって生じたものと考えられる。その城三郎の東方が足利尊氏に没収され洞院家領となったのであるが、永徳2年(1382)10月16日には山名氏清が榎並上庄東方の年貢のうち30石を山城石清水八幡宮に寄進しており(石清水文書)、争乱の展開の中で武士の侵略・押領が激化していった。
明治41年の榎並庄の状況
 こうした情勢のなかで、近衛家の支配は衰退を余儀なくされた。近衛家は榎並下庄の庄園領主権を京都北野天満宮の別当職を兼務する曼殊院門跡に寄進したものとみえ、正安3年(1301)7月29日付の伏見上皇院宣案(曼殊院文書)によって、門跡が相伝の理にまかせて下庄を領掌することが認められている。これが当庄と北野天満宮の関係を示す早い史料であるが、康永2年(1343)6月には、光厳上皇も榎並下庄東方を北野神社の別当大僧都に安堵する院宣(曼殊院文書)を出している。貞和4年(1348)4月には参議藤原実豊が亡息の菩提所領として榎並下庄西方の田地七町五反を長福寺(現京都市右京区)に寄進(長福寺文書)、さらに観応元年(1350)8月には興福寺が春日社領榎並庄など三庄の返付を北朝に訴えている。「御挙状等執筆引付」に、この三庄は永仁年間(1293 - 99)に春日社へ寄進され柛供を備進してきたが、まもなく顛倒されたとあるので、鎌倉末期から南北朝初期にかけて榎並庄が奈良春日社領となっていた時期もあり、当庄をめぐる庄園領主権がきわめて錯綜した様相を呈していたことがわかる。こうしうて近衛家の支配は消滅し、室町時代になると他の庄園領主に関する史料もみえなくなり、もっぱら北野天満宮領としてあらわれてくる。
〔北野天満宮領〕
北野天満宮は光厳上皇の院宣で榎並下庄東方を安堵されたあと、応永23年(1416)11月10日付の法印禅順譲状写(北野神社文書)に「榎並上庄 公方御寄進内 半分並下庄東方同下司公文職同田畠」とあるように、将軍足利義持の寄進もあって、15世紀中葉頃には榎並上庄半分と同下庄東西両方が北野天満宮領となっている(同文書)。「北野社家日記」などによると、初め榎並庄の管理支配に当たったのは、祠官家の一つ松梅院であった。しかし社家内部で競合対立があり、将軍足利義教のとき松梅院禅能が勘気を受け、かわって宝成院が奉行したのを契機に、15世紀後半を通じて榎並庄の管理支配権をめぐる両者の対立が断続的に繰り返された。とくに長享2年(1488)から延徳3年にかけて松梅院・宝成院双方がそれぞれ幕府首脳に働きかけて、当庄の管理支配権を激しく争った。「北野社家日記」延徳2年3月4日条によると幕府側でも困惑したとみえ、「榎並庄上東西半分、下庄東西一円」を松梅院禅予に、榎並下庄東方地頭職と同上庄四分一地頭職を宝成院明順に領知させるというきわめて曖昧な裁定を下している。両者が争っていたとき、現地では武士の侵略や庄民の抵抗がますます激しくなっていた。当時の「北野社家日記」には「榎並庄不知行」により神事が退転したという記事が頻出し、北野天満宮の庄園支配が崩壊の危機に直面していたことを物語る。天文10年(1541)12月15日付の後奈良天皇女房奉書(北野神社文書)も榎並庄について「ちかきころその沙汰いたし候ハぬゆえ」神事が退転していると記す。
榎並座発祥の地石碑
〔猿楽榎並座〕

中世の榎並庄の歴史において特筆されるのは、丹波猿楽の一座といわれる榎並座がここを根拠として台頭し活動したことである。榎並庄の猿楽は、初め近くの住吉社(現住吉区)への奉仕を通じて発達してきたが、鎌倉末期には、丹波猿楽の矢田(現京都府亀岡市)の本座、宿久庄(現茨木市)の法成寺座と並んで「新座」として京都へも進出するようになった。文永7年(1270)6月の京都賀茂社の御手代の祭礼に、本座・新座・法成寺座の三座猿楽が勤仕したとあるのが早く(賀茂社司古記)、南北朝期には名称も新座に代わって榎並座とよばれるようになり、「妙法院法印定憲記」康永3年4月19日条によると榎並座は醍醐寺清瀧宮祭礼の猿楽楽頭職を獲得している。足利将軍の保護を受け、世阿弥が伝える義満の前での榎並・観世立会能のエピソードも生みだされ(申楽談儀)、応永年間になると、矢田本座から伏見(現京都市伏見区)の御香宮・法安寺の楽頭職を買得するなど目覚ましい活躍を示す(「看聞御記」応永27年3月9日条など)。役者としては馬の四郎・左衛門五郎らが有名で、後者は能「鵜飼」「柏崎」の作者といわれる(申楽談儀)。しかし榎並座では応永30年に楽頭が譴責を受けて死に、後を継いだ弟も死去するという事件が起き、清瀧宮楽頭職が観世座に奪われるに至った(「満済准后日記」応永31年4月17日条)。これを契機に急速に衰え始め、わずかに「エナミ大夫生熊」(「満済准后日記」応永33年4月21日条)、「春童」(看聞御記」永享10年3月12日条)の存在が知られるだけで、以後榎並座の活動は中央の記録から姿を消す。
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榎並庄は低湿地で、洪水が起きやすいという難所ではありましたが、化学肥料も無い当時、洪水は肥沃な大地に変えてくれるという利点もありました。それ故に、敢えて、低湿地を選んで集落を形成するというところもあります。「輪中」はその典型です。

さて次に、その榎並庄にあって、その中心ともいえる榎並城について見てみます。
※大阪府の地名1-P627

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榎並城(城東区野江4丁目)
水神社
中世榎並庄に築かれた城で、野江水神社(野江神社)付近にあったとみられるが遺構は確認できない。「花営三代記」応安2年(1369)3月23日条に楠木正儀が天王寺から退却して榎並に陣したとみえ、古くから軍陣を布くのに適した場所だったようである。十七箇所城とも称したといわれ、同書同年4月22日条に正儀が「河内十七箇所」に退いたとみえ、明応2年(1493)の河内御陣図(福智院家文書)に森口(現守口市)南方、八箇所(現門真市など)西方に「十七箇所」と書き込まれているのは当然のこととする説もある。榎並城については「細川両家記」の天文17年(1548)10月28日条にみえるのが早く、三好政長・政勝父子と長慶の抗争は、その後ますます熾烈になり、翌年6月17日政長は榎並城を政勝に任せ、兵三千騎を率いて淀川北岸の江口(現東淀川区)に渡り城郭を構えて迎撃態勢をとった。しかし6月24日長慶軍は江口城を総攻撃し、政長を討死させた(細川両家記)。一説に政長は榎並城へ逃れようとして水死したともいわれる(暦仁以来年代記)。政長敗死の報を受けた政勝は、城を捨てて瓦林城(現兵庫県西宮市)へ退却した。「万松院殿穴太記」は榎並城について、もともと三好政長の居城で屈強の要害を構えていたと記しているので、おそらく天文年間に政長が築城したものとみてよいであろう。政長・政勝の後、当城がどうなったかつまびらかでないが、この地には石山本願寺合戦のときにも本願寺(跡地は現中央区)側の端城(陰徳太平記)が置かれたとみられる。
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この榎並城の城主であった三好政長は、既述の通り、自分の娘を池田家に嫁がせて、姻戚関係となっていましたが、それがいつの事だったのかは、今のところ不明です。戦国の乱世でも、婚姻は非常に重要な契約でしたので、道義的な習わしは守られ、血筋も大切に守られていました。

ところで、天文16年という年は、池田家にとっても京都の中央政権にとっても、激動の年廻りでした。
 少し遡って、天文12年(1543)7月、管領細川高国の跡目を称して、和泉国に於いて細川氏綱が挙兵します。様々な事情で次第に社会的な支持を受けるようになっていきます。
 摂津池田家は、当主(惣領)信正の舅とはいえ、その立場を利用して、池田家の権益を押領(横領)するような事もしていた三好政長に対して、池田家中が不満を持っていた時期でもありましたが、幼小の頃から永年に渡り支えてきた管領系譜の細川晴元は、重臣であり同郷でもあった政長の行動を諫める事もなく、処置もせず放置したようでした。この態度に対して、池田信正は自衛的な対抗措置として、当時、勢いを増していた細川氏綱方に加担する事を決め、細川晴元政権からの離叛を決行します。天文15年(1546)9月でした。

摂津池田城の推定復元模型
晴元は、直ちに摂津国方面の討伐を行い、池田・原田城などを激しく攻め、旧誼も顧みず、執拗に、大規模に攻撃を行いました。結果、氏綱方の支援もありましたが、抗いきれずに池田信正は、晴元方に降伏します。
 天文16年(1547)6月25日、同じ氏綱方にあった中心人物薬師寺与一元房が、芥川山城(現高槻市)で降伏したため、池田信正も晴元方に降伏し、摂津国方面は、一旦平定されました。しかし、河内・和泉国、山城国北部方面では、闘争が続いていました。
 更に、この機に乗じて、阿波国に退居していた将軍候補の家系でもあった足利義維が、京都への返り咲きを目指して、堺へ上陸してきます。これは、この年に将軍義晴と細川晴元との確執が表面化していた事の隙を見ての動きでもあります。

一方の池田信正は、出家し、僧体となって、作法通りの詫びを入れて、細川晴元の指示に従っていたようです。晴元方から離叛して、武力抵抗をしたとはいえ、晴元政権での功労者(しかも二代に渡る)でもあった事から、どのような処分にするのか、決めかねていたようです。

今西家屋敷
天文16年とは、そのような年であり、思惑の錯綜する時期でもありました。このような時代の中、境遇の中で、池田信正は「大般若経典六百巻(大般若波羅蜜多経)」を久安寺に寄進しています。
 この時点で、僧覚賢により最初に書写されて(寛喜2年:1230)から300年余り経ている事から、補修などを施して寄進したのでしょう。廃れかけていたものを、復興したようなカタチだったのかもしれません。「大般若経典」は、大乗仏教の原点とも言える大切な経典ですので、そういった考えや願いを込めての行動だったと思われます。
 少し気になる要素があります。天文15年(1546)頃に割と大規模に洪水や日照りがあったようです。
※豊中市史(史料編2)P526(今西家文書)

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三石五斗(将監殿・大垣内殿:相合わせ)、三石者(八木小五郎方・高野源二郎方)、五斗(中村源五方)、七斗(垂水上方)、弐斗(玉林分)、弐斗(片山分)、参斗(安井出雲守方)、七石者(八木七郎兵衞方)、四石者(渡辺源兵衛方)、四斗(田木五兵衛方)、六斗(古田彦左衛門方)、四石者(新三郎殿)、一石五斗(樋口太郎左衛門方)、八石三斗五升八合(田井源介殿抱え分・香西分)、三石者(厚東二介方)、五石者(小曾禰勘兵衛方)、拾四石者(下村方両人)、三石者(大林與三次郎方)、三石者(牧野宗兵衛方)、一石五斗(栗原方)、一石者(金前坊)、一石者(御中間新左衛門)、弐石五斗(中殿)、弐石五斗(塩山十郎左衛門方)、五石者(寺江與兵衛方)、五石者((河?)端彌次郎方)、八斗(古田三郎太郎方)、四石者(宇保平三郎方)、一石五斗(幡本十郎三郎方)、一石五斗(同名善十郎方)、弐石二斗三升弐合(御局様抱え分湯浅分)、一石者(河端甚三郎方)、一石者(福井勘兵衛方)、三石者(茨木伊賀守長隆殿)、一石者(吹田殿)、拾八石者(與四郎殿)、五斗(穂積源介方)、一石四斗(宇保與市方)、弐石者(景寿院分)、弐拾石者(榎坂殿)、五斗(寺野修理方)、四斗(津田彌六方)、四斗一升(伊丹大上分)、九石者(安倍備中守方)

以上百五十石分。

右、春日社為御神供米百五十石之分、知せず于水損、諸給人為、前以って書き立て抽んず留木修理進並びに目代今西橘五郎彼の両人へ百五十石分切出上え者、別儀無く孰(いず)れ別儀無き者也。若し此の旨背き、難渋輩於者、此の方堅く成敗加え為るべく候。仍て後日為、目代に対し、染筆処、件の如し。
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今西屋敷付近の田んぼ
池田信正が、「南郷御供米切出注文」として、摂津国豊嶋郡の今西家へ神供米の切出注文発行していますが、この文中に「不知于水損、為諸給人前以書立(後略)」とあって、神供米収穫時期前に、事前に言葉を添えています。ちなみに、人物名の太字は、池田氏と関連すると考えられる人物です。

実は、天文13年(1544)7月8日から翌日にかけて、近畿・東海地域にかかて防風水害が発生していました。京都醍醐寺の僧、理性院厳助の記録『厳助大僧正記』には、四条・五条の橋、祇園大鳥居が流出するなど、京都で大きな被害が出ていたことが記述されています。
 ちなみに天文9年(1540)5月には、干損、間もなく一転して大洪水、同年秋には、イナゴの大発生による農作物の被害に見舞われるという、悲惨な状況でした。
 池田信正は、このような状況を鑑みて、契約の文面「南郷御供米切出注文」にその旨を入れ、やむを得ない時の布石を打っていたのだと思います。

大洪水で付近に流れ着いた地蔵尊

一方で、榎並庄に目を向けます。もし洪水があったとすれば、低湿地であった榎並にも被害が出ていた可能性は多分にあり、赤川寺も被害を受けていたのでしょう。
 このような状況から、池田信正と大金剛院(赤川寺)の接点ですが、今のところは直接的な資料に出会っていませんが、やはり、信正の舅であった三好政長の接点によるところではないかと思われます。また、大金剛院に「大般若経典」がある事は、当時から著名だったのではないでしょうか。

これらの要素を整理すると、信正の天文16年当時の状況、その領内にあった久安寺という大寺院、信正と三好政長の関係とその居住地であった、天文13年の大規模な洪水などという接点が、全て作用して、実現した出来事だったと、今は大まかな流れのみを推測するに留まります。
 天文13年の洪水で被災した赤川寺にあった「大般若経典」を、信正が、大切な経典でもあるために、救済的な目的で避難させ、久安寺に寄進したという想定もできるのかもしれません

今後の何かの手がかりになればと期待して、この記事を終えたいと思います。


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2023年5月6日土曜日

大坂本願寺五十一支城の一つ、伝葱生(なぎ)城について

全く偶然の出会いでした。大阪市旭区にある、城北公園は、市バスの行き先として名前を聞いたのですが、一度も訪ねたことが無かったので、今回初めて訪ねました。初めは、千林の商店街をウロウロし、その内に、京街道を辿って淀川へ。淀川の堤防道をのんびり歩いて、城北公園へ向かいました。その帰り道、お寺がありましたので、ちょっと寄ってみました。

指月山常宣寺です。付近に一石五輪塔があり、古い寺だと思いました。そうすると、案内板があり、この付近は葱生(なぎ)城があったと伝わる場所との事。元亀天正の乱で、織田信長方に対抗した大坂本願寺五十一支城の一つとされてます。五十一支城の事は知っていましたが、あまり熱心に関心を持たなかったので、この付近にもあった城のことは知りませんでした。驚きました。

その出会いがあり、これを機に、葱生城の事を少し調べて、資料を提示しておきたいと思います。いつもの手法で進めたいと思います。先ずは、日本城郭大系です。
※日本城郭大系12-P188

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◎葱生城(大阪市旭区大宮)
葱生は荒生とも書く。『東成郡誌』に「大字荒生の東方に古城址ありありと伝ふ」とあるが、築城者・築城年・正確な位置などいずれも不明である。石山合戦における本願寺の支城五十一の一つであろうか。『日本城各全集』では、大字「荒生」の東に続く大字「中」のもう一つ東隣の大字「江野」に含まれていた字「殿屋敷」を葱生城跡に比定しているが、確定はむずかしい。
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続いて、日本城各全集です。
※日本城各全集9-P130

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◎葱生城(大阪市旭区大宮)
荒生城とも書く。砦のあったと思われる場所は、明治42年頃までは、淀川左岸の堤下に沿った所にあった。明治18年、上流の枚方では堤防が決壊して、大阪市内をはじめ河内、摂津に大きな被害をもたらしたので、淀川の改修工事が行われるようになった。その際に川床が北に付け替えられて、現在の流れになったのである。だから付近一帯は、昔の面影が全然認められないのである。
 『東成郡誌』『旭区史』によると「葱生の東方に古城址あり」というのみで、築城者・築城年代については何らの記載もなく、不明であった。最近になり、旧家所蔵の古地図の発見により、砦のあったと思われる場所を確認するに至ったのである。
 その昔、葱生は、榎並庄に属し、庄内には灌漑用に淀川から引き入れた洫川(いじかわ)が縦横につけられていた。この淀川と洫川とに囲まれた一角に、殿屋敷という字名のある土地が砦跡である。その西方には、北城道東、北城道西という字名の地も隣接している。また、この殿屋敷の東方は、河内国に近い関係上、河内とは深いつながりがあったことと思われる。
 殿屋敷の地は北を淀川に接し、西方と南方を洫川に囲まれた東西約200メートル、南北の最長で70メートルぐらいの面積があるので、周囲の水路を利用して、要害としたであろうと思われる。
 しかし、いつの頃より砦として利用されたかについては、現在のところ資料による究明は不可能である。ただ、想像の域でしかないが、正平24年(1369)、楠木正儀が榎並に陣した年代を上限とし、石山合戦の天正4年(1576)を下限とする期間に、砦があったことは間違い無いと思う。
 このうちいちばん可能性のあるのは、石山合戦のおりに本願寺軍が、森口、毛馬、野江などに五十一支城を築いて信長方に備えた時、この葱生の東方にも砦が設けられたのではないかという仮説である。
 この殿屋敷の地は、森口と毛馬のほぼ中間に位置し、淀川を隔ててて、江口城址、茨木城址が望見せされ、南方は野江城(榎並城址)を経て、石山本願寺が約4キロメートルの彼方にある地点である。
 このように、本願寺を守備するための前進拠点には、格好の土地であるということが第一の理由である。また、付近の農民には一向衆徒が多く、合戦の折に稲田を刈って兵糧とし、本願寺に供している。その後、毎年、本願寺よりこぶし大の餅600個を、末寺を通じて信徒に交付している事実より推して、近在の農民信徒も、葱生城に楯籠もったのではないかと思われるのが第二の理由である。
 以上の他に、歴史に名の残る武将が築城したり、入城しておれば、当然なんらかの史料が残るものであるという理由からでもある。
 現在、淀川は殿屋敷のはるか北を流れ、周囲の洫川も全部埋められている。古地図に見られた数条のの道路だけが断片的に痕跡をとどめ、わずかに砦跡を確認する生きた資料となっている。殿屋敷の現状は住宅が密集しており、その付近の住民は数百年前の歴史が、地下で無言の内に見守っているとは知らずに、平和な生活を送っている。
 砦跡のあった殿屋敷の地は、大宮幼稚園の南側の一画であることを付記しておく。
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『日本城各全集』によると、城と関係の深いとされる殿屋敷の地は、葱生城のあったとされる「常宣寺」からは、東南方向へ800メートル程離れています。
 そして、大阪府の地名です。
※大阪府の地名1-P610

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庄園分布図(吉川弘文館)
◎荒生村(なぎう):旭区生江1-3丁目、鷹殿1-2丁目、都島区御幸町1-2丁目、高倉町1-2丁目
平安時代以降榎並庄を形成した村で、西は赤川村、北は淀川に臨む。淀川対岸の西成郡三番村(現淀川区)へ荒生渡がある。集落は村域北部に集中するが、慶長10年(1605)の摂津国絵図は淀川沿いに「ナキフの内」と記す小集落を載せ、「摂津志」にも属邑一とある。これは字池川(いけがわ)のことであろう(大阪府全志)。村名は本来、葱生(宝暦3年摂州住吉東生西成三郡地図)または、■生(寛永-正保期摂津国高帳)と表記するのが正しいが、「葱」の俗字である「■」を「荒」に誤記、定着して一般的な表記となったと考えられる。「摂陽群談」には「薙生(なぎう)」とみえる。また元禄郷帳なども荒生を「なぎう」と読ませているが、のちに「なぎ」と略称されるようになった(「地名索引」内務省地理局編)。いずれにせよ当地が古くから葱の産地であった(摂津志・古今要覧稿)ことによる名であろう。
 元和初年の摂津一国高御改帳に「なきう村」とみえ、大坂藩松平忠明領で高488石余。同藩領であったのは元和元年(1615)から5年まで、その後幕府領となり、幕末には大坂城代領(役知)。享保20年(1735)摂河泉石高帳は2石余の流作を記すが、江戸時代を通じて村高の大きな変化はない。名産には葱の他に越瓜(あさうり)があった(享保8年摂州榎並河内八個両莊之地図)。出潮引汐奸賊聞集記(大阪市立博物館蔵)によると、天保8年(1837)の大塩の乱の時、大塩平八郎から施行を受け、天満(現北区)に火災があれば駆けつける約束をした当村の住人忠七ら8名は、天満への途中で変を知り遁走している。村の東方には城跡があったと伝え、石山合戦における本願寺(跡地は現東区)の端城五一ヵ所の一つとも考えられるが城名を含め詳細は不詳。字小反田の糸桜山蓮生寺は浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来像に「摂津国欠郡榎並莊葱生」の墨書銘がある。字池川の指月山常宣も寺同派。
※■ = 草冠に忩
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摂津国榎並庄について、見てみます。中世時代の項目を抜粋します。
※大阪府の地名1-P609(旭区)

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【中世】
榎並庄は鎌倉時代末頃には近衛家の支配が衰退して奈良春日領となり、十五世紀後半には上庄の半分と下庄東方・同西方が京都北野社領となった。鎌倉時代から南北朝時代頃、当区には赤川村に赤川(せきせん)寺(大金剛院)、般若寺村に般若寺という大寺院があったが、いずれも洪水や戦乱によって消滅したと伝える。第二次世界大戦後、新淀川の河床から鎌倉時代の遺物が出土、大金剛院のものと推定されるが、現在は赤川廃寺跡として市の埋蔵文化財包蔵地に指定されている。現兵庫県川西市の満願寺には、赤川村大金剛院の住持覚賢が元仁2年(1225)から6年間かかって書写した大般若経六〇〇巻が残る。同教の寛喜2年(1230)の奥書には、赤川村は西成郡とされており、一説に当区西部はもと西成郡北中島に属したが、淀川の水脈変化により東成郡となったともいわれる。しかし淀川の流路については不明な点が多く、また東成郡・西成郡の混用例も少なくないので、赤川付近が西成であったと断定できる証拠はまだない。文明年間(1469-87)蓮如の教化により当地方にも真宗が浸透したと考えられ、元亀-天正年間(1570-92)織田信長と石山本願寺(跡地は現中央区)の合戦では荒生(なぎう)村・江野村に本願寺の端城の一つが置かれたと伝える。

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この地域にあった大寺院が気になります。赤川村の伝大金剛院についてです。
※大阪府の地名1-P610

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◎赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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これらの要素は、全て摂津国榎並庄内にあります。榎並庄は、現大阪市城東区野江・関目付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低湿地に存在した大規模な庄園でした。近世には淀川南東、鯰江川以北の摂州25村を榎並庄と称していて、現旭区・都島区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたり、野江村の水神社付近には、中世榎並城がありました。馬場村(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目されています。
 この榎並庄は、摂津池田家と姻戚関係にある三好政長(入道宗三)の支配領域でしたので、非常に関係の深い所で、重要な場所です。榎並庄と榎並城については、また別の記事に詳しく取り上げたいと思います。それからまた、この地域は、摂津・河内の国境でもあり、非常に敏感な場所でもあります。

三好政長は、池田家惣領信正の義理の父にあたりますが、この政長という人物は非常に欲深く、この縁をたどって、富裕であった摂津池田家の財産を我が物にしようと画策し、この個人の欲望が中央政権をも揺るがす程に影響を与えます。
 この不正が元で、政長は失脚し、また、管領細川晴元政権が転覆するほどの信用問題となりますが、そんな事には構わず、政長の跡継ぎである政勝もその方針を引き継ぎ、とことん池田家の財産にコダワリ続けます。

結局それは、実力を伴わず、願望の範囲に収束していき、時代は流れて、摂津池田家から頭角を顕した荒木村重が、事実上の摂津国一職を担うようになり、無効化していきます。

しかし、その三好政長一党の凄まじい執念を見るにつけ、人間の性(さが)の一端を見たように思います。その視点からの歴史も、現代を生きる私達の教訓たり得る事実として、非常に興味深い所があります。

その後、この三好一任斎為三の一党は、関ヶ原合戦を経て江戸幕府の旗本ととして、家を繋ぎます。三好家は、讃良郡南野、河内郡横小路(現東大阪市)、錦部郡小山田、高田(現富田林市)の四か村など、二千二十石余りの禄を得ていました。三好家は江戸在府のため、代官を派遣して領知を支配しました。その代官所跡の一つが、雁屋(現四條畷市)の公民館南側の民有地でした。何らかの由緒を提示して得られた領知なのかもしれません。

2023年4月29日土曜日

『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える

 摂津佐保城と同佐保栗栖山城について詳しく見る中で、その調査報告書には、非常に気になる指摘がされていました。個人的にも永年興味を持っていた中世の民俗学的なところであり、発掘調査報告書にも述べられている「人質」や、14ある曲輪の内、主たる構成要素であるものの曲輪1のみが火災を被った跡が確認された事には、注目しています。この、全体ではなく、一部の火災であるという状況は、「自焼」では、ないでしょうか?

【過去記事】佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える

これらについては、『戦国の作法』(藤木久志著:平凡社)に、興味深い研究成果がみられ、上記の調査報告書にある要素を補うものになるように感じています。
 例えば、「人質」について。織田信長に擁立された将軍義昭政権は、朝倉・浅井氏攻めから戻った後、事態の深刻度から、五畿内の主立った武家から人質を取っています。元亀元年5月上旬のことです。この時点に於いて発足して間もない将軍義昭政権は、なおの事、権威を基にした「人質」政策を打ち出す事が度々あったと思われます。
※信長公記(新人物往来社)P102

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◎越前手筒山攻め落とさるるの事
(前略)4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)さて、京表面々等の人質執り固め公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)
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また、織田信長から毛利元就への音信の中で、習いに則りそれぞれ人質を取ったと述べています。
※織田信長文書の研究-上-P409

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(前略)一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条(後略)
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これらの記述は、民俗学的観点で藤木久志氏が、中世の「人質」について、研究成果を示されています。
※戦国の作法P54

中世の町の復元例(三重県四日市市)
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◎身代わりの作法・わびごとの作法
中世の村は、破壊的な暴力の回帰や反復を避けるために、いったいどのような主体的な能力や作法を備えていたか。中世を通じて様々な紛争の庭で、そのはじめの段階にみられた「言葉戦い」という挑戦の作法(武装に先行する言技)も、その一つであったが、ここでは更に、紛争の解決の過程に特徴的に見られる「身代わり」や「人質」の作法、その最後の段階によくみられる「わびごと」や「降参」の作法、などについて調べてみよう。
 少なくとも15〜16世紀を通じて、中世の村が次第に自前の紛争解決能力を高めていたことは確実で、例えば、村という共同体のために払われる個人の犠牲に対して、村が集団として補償や褒美などを与える慣行を成立させていた事実は、よい例である。近世で「村請」の母体となる、自立した村の確かな原型がここにある。
 さて、中世の犠牲と言えば、私たちは服従や講話を誓う契約の証しに、しばしば童子が人質に取られ、童女が政略結婚の犠牲になったという話しを、歴史の悲劇や戦国ロマンとして、よく知っている。また、現代のハイジャック事件のような、荒っぽい人質取りも、ごく日常的に行われていた。
 更に、殺人事件の処理にさいし、被害者側に加害者 = 下手人本人ではなく、加害者の所属する集団メンバーの誰かを、解死人(げしにん)として引き渡し、被害者側はその謝罪の意思に免じて、原則として処刑しないという習慣があり、この解死人にも、よく子どもや集団内部の弱者が選ばれた、という興味ある事実も知られるようになっている。
 こうして様々な紛争解決の庭で、人質や身代わりに子どもや集団内部の弱者を立てる習わしは、その根本で一つにつながっていたのではあるまいか。いったい「質取りや「身代わり」の習俗は、中世後期の社会にどのような特徴をもって広がり、その底にはどのような意味が秘められていたか。
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この前提を基にして、個別の事例が紹介されており、関連する文節を上げてみます。
※戦国の作法P61

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(前略)つまり武家も寺家・公家も村人も、ともに質取り行為をしていたいのである。質取りというのは、この荘園の世界 - おそらくは広く中世の社会で、ごく普通に行われる紛争解決の一手段であったに違いない
 質取りされた人々はふつう「人質」「囚人」などといわれ、質取り行為は「留置」「搦取」「質取」「生取」「召取」「召籠」など様々に呼ばれている。まさにその言葉通り、人質にされる村人は武力で無理やり生け捕られ、既出の例のように縄でしばりあげられ、警固をつけて召し籠められる囚人で、例Gでは、要求をいれなければ斬り殺すぞと脅迫されている。
 だが、逃げ出して捕まり、殺されそうになった場合を除けば、人質があっさり殺されてしまった例は一つも見られない。このことは重要である。しかも、ただ身代金が目当てらしい、例Fを除けば、男女の区別もなしに無差別に質取りされるわけではなく、また、例B・Hのように、人質の資格なしとして釈放された例もある。この野蛮な中世の質取りにも、どうやらそれなりの作法 = ルールがあったらしいのである。(中略)
 これらの事例は、武家などによる質取りといっても、全く無差別に強行されたわけではなく、その背後には、目的に適った質取りの作法がひそんでいた、という事実をよくうかがわせてくれる。(後略)
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詳しくは、『戦国の作法』をご覧いただきたいのですが、紛争解決の手段として、人質を取るという事は、交渉の保証であり、当時の社会感覚として普通の習慣であった事が、解かれています。
 一方、「自焼」についても、非常に興味深い視点で藤木氏が解き明かしています。例えば、1515年(永正12)播磨国鵤庄の平方村での事件を紹介して説明しています。
※戦国の作法P83

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(前略)永正12年(1515)播磨鵤庄の平方村で、この庄の衆が不慮の喧嘩から守護方の衆一人を殺すという事件となった時にも、円満な解決を願うこの庄では、「解死人ヲヒカセ、在処ニ煙ヲ立、...礼ニ出」るという、一連の手順を踏んで詫びを入れた。たんに解死人一人を出せば済んだわけではない。
摂津原田城の古写真
 「在処ニ煙ヲ立」てたというのは、近江国菅浦の例で「煙をあげ」たのと同じ作法であろう。この庄では「少家一ツ、二百文二カウテ、ヤク」と書き留めているから、「在処」つまり事件現場の村で「」を「焼くのが謝罪の儀礼であったらしく、そのためにわざわざ小さな家一軒買い求めているのである。「礼ニ出」たのはこの庄で図師代の役をつとめる有力名主の一人であったが、「解死人ニハ、兵庫ト云者二、料足スコシトラセテ」遣したというから、別に解死人(名前からみて、あるいは村の乞食か)も、金で雇っていたわけである。(中略)
 「礼儀」に出頭する名主の全員が、まず名主の家格のシンボルであった家門を焼き、ついで本人自身も人格のシンボルである髷を剃り(おそらく名前も変え)、「黒衣・入道」の法体になって、村の神社に趣き鳥居の前で、相手方の名主たちに謝罪の礼をとるというからには、この作法にも、刑罰や処分というよりは、むしろケガレをはらう儀礼の色が濃厚である。
 また、百姓の家を「年老次第」に30軒選んで放火するという処分も、おそらくは「家」を基準として、年齢階梯の形で編成された「村」の、百姓たちの正規の成員たる資格 = 家格のシンボルであったに違いない。その意味で、この「村のわびごと」の作法は、解死人の儀礼とも深いつながりを持っていたといえよう。(後略)
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そして更に、次のような史料があります。1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌に連動して、非常に関係の深かった同国原田氏の家中でも内訌が起きました。その折、原田城を「自焼」という記述が見られます。
※言継卿記4-P440

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(前略)一、原田の城自焼せしめ、池田へ加わり云々。
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原田右衛門尉銘一石五輪塔

詳細は不明ではありますが、摂津原田家中での内訌の結果、自らの城を焼いて、三好三人衆方の池田家へ加担したようです。この前々月の6月、池田家中で内訌後に城を出た、惣領の池田筑後守勝正は、一旦、原田城に入っています。その重大事態に、原田城に入るのですから、相当に深い関係です。そしてその直後に、その原田城で、この状況に至ったのですから、原田氏の大半は三好三人衆方の池田家へ加担することを決めたという事態から起きた、「自焼せしめ、池田へ加わり云々」だったと思われます。

それから、補足として、宣教師ルイス・フロイスの当時の上司への報告書や晩年にそれらの出来事を回想し、日本についての叢書をまとめた『フロイス日本史』の中から、関連する記述をご紹介します。
※耶蘇会士日本通信 下

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◎1571年(元亀2)9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡
(前略)彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
 和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。
 此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。(後略)
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また以下は、フロイスの晩年の編纂による叢書『フロイス日本史』です。これは『耶蘇会士日本通信』の発信当時には知り得なかった事、理解できなかったことを補足してあります。
※フロイス日本史(中央公論社刊)

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◎第1部94章 和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について
(前略)和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした。(中略)
 和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
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このように『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』での見解は、私の中では、以前からの興味とも接点があり、非常に示唆に富んだ内容でした。

藤木氏の研究などにより、『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にあるところの、「建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)」とは、儀礼的な「自焼」であり、「このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。」とは、その想定通りに「人質を収容する曲輪」だったのではないでしょうか。
 宣教師ルイス・フロイスの記録のように、和田惟政は統治の日が浅く、また、他国人でも有り、地域とのつながりも、信頼関係も構築し得なかった。それ故に、権力による統治を並存させなければならなかった。
 更に言えば、これらの条件が揃う時期、発掘調査から導き出された時期を考慮すれば、佐保来栖山城は、1571年(元亀2)8月の白井河原合戦に関わる経緯を持った、幕府方の地域拠点城であったように思われます。

民俗学の分野は、私のこれまでの記事には取り上げていませんでしたが、事象を理解するには、非常に有用であり、改めて民俗学の重要さを認識した次第です。今後とも民俗学を含め、様々な見聞を拡げていきたいと思います。


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2023年4月8日土曜日

佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える

永い間、気になっていた佐保城を訪ねる機会があり、行ってきました。お誘いいただき、実現しました。実際に現地を歩いてみると、文献からは判らない「感覚」を感じることができ、非常に有意義です。
 この佐保城がなぜ気になるかというと、白井河原合戦において、非常に重要な位置づけであるためです。ここは、幕府方の和田伊賀守惟政が本陣を置いた幣久良山から5.5キロメートルの距離にあり、徒歩でも1時間余りの至近距離にあります。

左手は中世頃の寺跡と推定 
当時の記録『尋憲記』8月29日条には、一、摂津国にて、昨日28日合にて和田父子其の外同名衆打ち死に。各家の衆237人、中間小者55人打ち取り由也。池田・淡路衆との合戦にて打ち果たし、則ち高槻・茨木・宿久城・里(佐保)城、以上4つ落居の由、慥かに沙汰と申し候処へ、城宗徳方(不明な人物)より上乗院へ書状同辺由也、とあります。
 いくつか、白井河原合戦について記録している当時の日記がありますが、佐保城についての記述は、『尋憲記』のみです。
 ちなみに『尋憲記』とは、奈良興福寺大乗院の門跡尋憲が綴った日記で、この頃、奈良方面でも合戦が盛んにあり、周辺地域の情報を小まめに書き残しています。奈良方面へも和田惟政は、度々出陣しており、この白井河原合戦の直前にも出陣していました。
 また、物理的な視点では、茨木・高槻(大阪府)方面で起きた戦争の速報が、合戦翌日に奈良興福寺大乗院(現奈良市高畑町)へ届いていて、その情報に佐保城を含む、高槻・茨木・宿久城の4つの城が落ちたと伝わっています。この内、高槻城が落ちたとの報せは、結果的に誤報でしたが、概ね情報は正確です。

この合戦により落城したという情報要素は、この時の状況から考えて、佐保城は和田方となっており、そこを池田勢が攻め落としたという事になりそうです。
 ただ、いつ頃から佐保城が和田方であったのか、明確な記述は見当たりません。また、佐保城と佐保栗栖山砦との関係性、城主や築城年代なども公的には不明で、故に白井河原合戦時の関係性もハッキリとしたことは材料の乏しさから不明といえます。
 今後の議論収斂に役立てばと思い、現在あたる事の出来る材料をまとめておきたいと思います。この小考の最後で、個人的見解をまとめてみたいと思います。
 先ずは定番、日本城郭大系からです。
※日本城郭大系12-P75

---(資料1)--------------------------------------------
佐保川の流れ
佐保城は、茨木市上音羽の多留見から発する佐保川が佐保の本庄で流れを東から南へと大きくかえる地点の北方の山頂に営まれた山城である。
 山は城山と呼ばれ、標高198mの独立丘的な形態を有する山であるが、背後(北)の山とは、わずか幅約30mの田圃を介して続き、その田圃との比高もわずか7-8mに過ぎない。したがって、背後からの攻撃には弱く、そのため、おおむね東西に長く延びる本丸の北側部分約80mにのみ土塁をめぐらしている。
 一方、南面はこの山から派生する支脈を介して佐保川に臨んでおり、その比高も約50mにも達しており、非常に堅固であるといえる。
 さて、本城は、わずかにくの字形に彎曲するものの、ほぼ真一文字に東西に延びる山頂部を本丸とする単郭式城郭と思われる。山頂南面中央部には大手口と推定される区域があり、2-3m四方の小さな平坦部が残っているが、そこには本丸を背にして高さ1.5m、幅70cm内外の巨石が三個立て並べられており、後世、大坂城の大手門桝形・同桜門桝形などの虎口正面における巨石使用の先駆として注目されるものである。この大手門に至る大手道は、つづら折となって続いているが、途中数カ所で巨石が2・3段積みあげられている場所があり、城郭に関わる何らかの施設の跡と思われる。大手道を下っていくと、山の中腹に10年程前に新築された住宅があり、その裏庭で大手道はとぎれてしまっている。したがって、それ以下の城郭施設の有無については、全く知ることができない。
 一方、本丸の北面する部分は、前述したように高さ40-50mの低い土塁が続いており、防衛力の弱い北方からの攻撃に備えたものであろうと推定される。本丸の平坦部は、枯れた松や竹林によって足を踏み入れることさえ困難な状態であり、内部の残存状況はまったくわからない。
 いずれにしろ本城は、石塁もほとんど持たない単郭式の小城郭であったと思われ、その北部に営まれていた泉原砦と同じく、能勢と茨木とを結ぶ山中の間道を扼するために築かれたものであっただろう。
 城主・沿革についても全く伝わっていない。ただ、建武3年(延元元:1336)頃、泉原には勝尾寺領高山庄の下地雑掌職を勤める泉原将監という人物があおり、それが泉原砦とも何らかの関係を持っていたと思われるところから、この佐保にもこの頃、佐保一円を支配した小土豪が存在したことは充分考えられる。
 なお、『東摂城址図誌』には、この城のほかに佐保砦跡として一城跡の存在を記している(字城屋敷)が、その遺跡は明かではない。
--------------------------------------------(資料1おわり)---

そして、日本城郭大系からです。しかし、この表題は佐保城ですが、どうも佐保栗栖山城を指しているようです。
※日本城郭全集9-P87(1967年8月刊)

---(資料2)--------------------------------------------
保川右岸、栗栖の中腹に東西約60メートル、南北約220メートル、回字形の城であった。別に東西約100メートル、南北約216メートルともあり、城山といわれ、字を宮ノ上という。別に東西、南北とも約60メートルの砦あり、城屋敷という。
 興廃の年月、歴史も明かではではないが、付近に泉原城、当城より南へおよそ2キロメートル、佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう(『摂津志』『東摂城址図誌』)。(北本好武)
--------------------------------------------(資料2おわり)---

続いて、わがまち茨木(城郭編)での佐保城の記述です。
※わがまち茨木(城郭編)P70【執筆者】免山 篤

---(資料3)--------------------------------------
佐保城縄張図(わがまち茨木より)
大字佐保字馬場谷の通称城山に築かれた城砦である。佐保は泉原と同じく山間の佐保川中流に開けた盆地で、歴史は縄文期の庄ノ本遺跡に始まるのであるが、その後の遺跡は現在のところ不明である。泉原と同様に仁和寺の庄園として支配されていた。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、有安名のそれは30石〜50石と、異常に大きな名主であった。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いた。このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。
 さて、城であるが、佐保の元村と称する字庄ノ本集落の東に、北から延びてきた尾根が一度低下し、その先端から隆起して佐保川に向けて押し出した標高198メートルの小丘を利用して築かれている。主軸をほぼ東西におく長さ80メートル、幅30メートル位の楕円形をした単郭式の城で、北西の尾根に続く部分は幅20メートル位に切り開かれて、付近に「堀切」の地名を残している。この部分が、比高8メートル位と最も低く他は20〜30メートル位の急傾斜で囲まれている。
 城への入口は、山の西際に居住の山の持ち主でもある庄田氏宅の北側に開いている。村道から少し登った処に小郭があり、その南端から郭内への登り道が出ている。小郭の北側にも堀切状のものが北に造られている。道は少し登ると等高線に沿って幅が少し広くなり帯郭状になった部分を経て急坂が曲折して郭の東南に取り付いている。
 これとは別に曲折した道の途中から石を乱雑に積まれた部分を通って郭の南西側中央に造られた長さ7メートル、幅3メートル位の小平地に通ずる道があり、これが本来の郭の入口であろう。この地点には巨石が4個直線に並んでいるが、これは岩石節理の露出を郭壁に利用しているようである。
 郭内北側は、高さ1.5メートル位の土塁が構えられている。土塁は地点によって規模に変化が見られ、北西部分の規模が最も大きくなっている。これは比高の最も低い部分に対する配慮であろう。
 北の一角には矢倉台と見られる部分があり、その地点で土塁が一部切れているが、外部への道は見られない。それより東寄りに前記矢倉台と対になるあたりに土塁が郭内に突出した部分があり、塁もその岐点で高くなっている。
 郭の西北縁辺に径2メートル、深さ1メートルの円形土拡がみられ、狼煙の跡と思われる。郭内には人頭大の河原石がかなりみられるが、何れも浮いて存在する。外郭設備とし、東南側の土塁から7メートル程下った地点に南北に長さ30メートルの堀切が造られている。
 ほかに北側堀切に接して二段に小平地が造られ、上の段に一ヵ所、下段に二ヵ所の円形陥没が見られる。しかし構築の目的等は不明で、下段の一基は、かなり深く掘られているが、湧水の可能性の薄い地点であるので、井戸とは見られず、新しい掘削のようでもある。城地には矢竹が密生しているが、植栽された可能性がある。矢竹は当地方では、集落付近のみという片寄った分布が見られる。
 築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。時期は今のところ不明である。佐保氏に関しては史料を欠くが、豊後竹田の中川家文書中、山﨑合戦部分の記事中に(佐保喜兵衛)の名が見られるのと、市内千提寺のキリシタン墓碑銘に佐保カララ上野マリアの名が残るのみである。ちなみに「上野」は、「カミノ」で、佐保の別称である。余事ながら、これは千提寺のキリシタン史料を解く鍵の一つと考えている。
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同じ資料から、佐保栗栖山砦についてです。
※わがまち茨木(城郭編)P73【執筆者】免山 篤

---(資料4)--------------------------------------------
佐保栗栖山城縄張図(わがまち茨木より)
『摂津志』に「佐保砦」とあるものである。佐保盆地の南を画する山脈が、佐保川によって切断された東側の突端、標高184メートルの来栖山頂に築かれた連郭式の城屋敷と称す。東西200メートル、南北100メートルの範囲に遺構を残している。尾根続きの東を除く三方は急斜面で囲まれた要害の地である。
 城への通路は佐保から福井に通ずる旧道より分かれて佐保川の枝流大谷川を渡って東方へ尾根沿いの道が通じている。いま一本、国見街道より尾根筋が東から通じ、途中郭の手前60メートル位の処に、長さ25メートルにわたって幅約0.5メートルの土橋が造られ通行を制限している。これを過ぎて少し進んだところで佐保の谷からの道と合流して郭の入口に至る
 虎口には、左右に竪堀が延びてその間に幅1メートル位の土橋が造られている。入口正面に比高4メートル、上面の径14メートル位の見張台状の小郭があり北側のみ土塁を構えてこれを第一郭とする。道はこの郭の南裾を通って次の第二郭へと通じている。
 二郭は、本丸に当たる第三郭との間に位置する30メートル四方位の不整円形をしたもので、当城で最も広い面積を占めている。郭内南東部には浅い5メートル四方位の凹地があり、その北に小さな土拡が2基見られる。
 二郭より一郭への通路は、現在一郭の西南に登り道があり、一郭の西に少し下って小平地が造られていることから、当時の入口は、そのあたりかも知れない。二郭の南に比高4.5メートル位の径18メートル不整五角形をした一郭がある。これが中心郭で、第三郭とする。南西に小平地を伴っている。三郭の西に長さ12メートル、幅8メートル位の郭があり、第四郭とする。北側に土塁を構え土塁の三郭裾への取付部から北に向かって竪堀が延びている。南側の東端、次の第五郭との境に長さ5メートル、高さ1.5メートル位の石積みが見られる。三郭の南には二郭と同じ高さで10メートル × 20メートル位の第五郭が造られ、第二郭とは小径によって結ばれている。
 郭の中央から南に向かって排水溝のような設備が地表に現存する。この二・五の両郭が生活の場と考えられ、土坑等はそれに関係するものであろう。
 四郭の西には少し高くなって長さ20メートル位の細長い郭があり、東半分には巨石の露出が多く見られるが、人工的な石の移動は見られない。これを第六郭とする。この郭も西に小平地を伴っている。六郭の西には6メートル程下って約6メートル四方位の小郭が造られ、これが城地の西端である。
 城の北側に井戸ヶ谷と称する谷があり、以前八角形の石積み井戸が残っていたと伝えられるが、現在埋没してみることができない。城の内外には土拡の存在を示す陥没地が多く見られるが、性格は不明である。山の持主、北浦照之氏の話しでは、手痕の付いた土器を拾ったことがあると云うことである。
 この城は佐保の入口を扼し、国見街道にも通じ、地の利を得ているのであるが、築城の時期、築城者については、全く史料を欠いている。戦国頃の築城と考えられるが、今後の調査に期待する。しかし、小規模ながら、完全に当初の地形をとどめた城砦として貴重な存在である。(後略)
--------------------------------------------(資料4おわり)---

最後に、佐保栗栖山砦の発掘調査報告書から、必要部分を抜粋したものを以下に示しておきたいと思います。以下は「第3章 調査の概要」「第7章 総括」「付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構」からです。
※佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -:2000年11月

---(資料5)--------------------------------------------
佐保栗栖山城の現在(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡は文献にその名前を残さない城跡であるが、この尾根には不自然な平坦面があり、調査以前から砦跡(山城)の存在が知られていた。(中略)曲輪1の平坦面から疎石建物が検出され、その北側と東側には土塁2がある。建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)
※第3章 調査の概要より

佐保栗栖山砦は「砦」と呼称するよりも「山城」と言うべき規模を有するものであることが明らかとなった。また、全面発掘調査により、郭同士の連絡機能が明確になり、様々な工夫がみられる注目すべき貴重な調査例となった。
◎佐保栗栖山砦の存続期間:出土遺物からは15世紀末から16世紀中葉までの期間が考えられ、出入口1の構造、各石積の使用状況、礎石建物、瓦の不使用から、現状の構造となって、放棄されたのが16世紀中葉の新段階であると考えられる。礎石建物や斜面の石積は短期的な存続を考えたものではなく、また、遺構の変遷も確認されたところから、15世紀末或いは16世紀前葉に築城され、16世紀中葉に破却されるという存続期間を推定する。
◎築城主体について:当砦跡は大規模な山城ではないが、在地集落在住者である小領主が築いた城としては規模の大きさや構造面から考えにくい。もう少し強力な権力が介在したと考えるべきではないかと思われる。村落に密着した在地支配の拠点として築城されたのではなく、何らかの軍事緊張に伴って築城されたことが推定される。近くには佐保城がありながらも異なったこの場所に栗栖山砦を築城している。その意義は大きいものであろう。
 但し、変遷で述べたように曲輪1を中心とした小規模の単郭山城であった古段階の時期を想定するならば、小領主、土豪の城郭として当初は機能していたことも考えておかねばならない。
◎最後に:以上のように佐保栗栖山砦跡は戦国期に拡がった防御技術を各所に積極的に活用していることがわかった。中世山城は築城主体・戦闘方法・社会情勢などの変化の中で、城自体にも様々な機能が求められ、それに応じて構造と共に著しく多様化を遂げていった。佐保栗栖山砦跡も半世紀に近い存続の中で様々な変化をしたことが明らかになった。(中略)
 佐保栗栖山砦跡の遺構・遺物から築城主体の権力構造の特色を導き出し、地域史・在地構造を分析し、さらに、一国以上の規模からもその存在について検討しなければならないのだが、充分な検討をするところまでには至らなかった。
※第7章 総括 第1節 佐保栗栖山砦跡の調査成果より

佐保栗栖山城(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡以前の調査成果:砦跡の曲輪8の谷筋斜面から炭窯と考えられる窯が2基、曲輪3の南辺斜面から焼土坑が1基検出された。いずれも砦跡の下層から検出されており、砦の時期以前の遺構であることが確認された。出土遺物はごく少量であるが、10世紀に相当する土器が出土しており、これらの遺構の時期にあてることができるものと考えられる。(中略)佐保栗栖山砦跡の位置に10世紀には、人の行動が及んでいたことが明らかになった。
※第7章 総括 第2節 佐保栗栖山砦跡以前の調査成果より

◎佐保栗栖山砦は開発によって消滅することになったが、徹底的な発掘調査のおかげで多くの知見を我々に残してくれた。それは土木技術面から縄張り・立地に関わるものまで多岐にわたっている。
 そのうち全国的にも始めて確認されたと思われる曲輪造成技術に関わる事実は、曲輪11下面の地山刻み込みである。開発覚悟の全掘方針ではあっても、普通はここまでしないという最後のダメ押しの発掘で、私は現物を見る機会がなかったが、写真を送って頂いて驚いた。(中略)古代では珍しくないが、中世城郭では希である。
 (前略)同じ形は大和の十市氏関連の多武峰城塞群や穴師山などにある。(中略)十市氏の例をそのまま適用するのは難しいが、応用はできる。ヒントは、外側土塁が南側にはあるが北側にはない、という点である。(中略)だから南側だけ外側土塁の手法を採用したわけである。このような理屈に手慣れた様子は、1560年代前半の十市氏と同じレベルとみてよい。縄張りの編年作業に使える事例である。(中略)だとすると、規模こそ違え、姫路城二の丸の三国堀に相当する。曲輪1の西端の迫り出しの厳しさも、この関係で説明しやすくなる。(中略)
 そのころの本城は眼下の道を監視する軍事機能しか持たない閉鎖的な砦だったと思われる。それが改修されて、曲輪2が造成され(=堀が埋められ)、前述のような虎口と進入ルートの工夫がなされ、道との関係を積極的に追求するような性格の城に変質したのである。外と出入りする、開くということと、外と戦う、閉ざすということとの矛盾を解決するために、虎口の工夫がなされるのである。(中略)通路8の幅の広さも注目に値する。かなりの重要人物がこの通路を上下したに違いない。(中略)近世城郭では、こういう位置の曲輪は人質曲輪と呼ばれることがある。中世城郭では人質曲輪の確認例はない。それどころか人質曲輪のような機能を限定することが妥当かどうか疑問視されている。曲輪5の出土遺物の特徴からすると貯蔵庫の可能性があるようだ。(中略)
 このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。
 本城は周辺との地理的な関係から見ると、高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎ城の可能性が高いが、それも細川・三好・松永等上部権力との関わり無しには考えられない。複雑な畿内政治に組み込まれる中で、特異な縄張りが必要になったのであろう。
※付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構より
--------------------------------------------(資料5おわり)---

といっところが、現在のところの文献資料です。これらに加え、現地の観察から個人的に考えた(感じた)ことを以下にまとめてみたいと思います。

気になるのは、小盆地を囲む山地に城跡があることです。佐保・栗栖山城は、南北に走る亀岡街道の脇に立地し、監視・封鎖の用途としても機能していた思われますが、南西に伸びる盆地の端には岩坂村があります。この開口部にも手を打たなければ封鎖の意味が無くなり、筒抜けになってしまいます。
 岩坂村から粟生村方面への山道が伸び、両村は代々関係性が深いようです。中世末期から近世にかけての資料でも粟生村との関連性の親密さを感じさせます。現在の地名は「粟生岩阪(大阪府茨木市)」で、やはり伝統を踏襲しています。
 但し、岩坂村に隣接して神合(じごう)村があり、こちらは、佐保村に連なる関係であったようです。行政上の村切りかもしれません。とても複雑です。『大阪府の地名1』によると、1605年(慶長10)摂津国絵図には「五ヶ庄内谷」として「■■(梅原か)・屋上村・神合村・免山村・庄本村・馬場村」がみえ、近世初期に五ヶ庄と称された北摂山間諸村の南辺に位置した。とあります。
 さて、岩坂村についての推定ですが、岩坂村が粟生村と親密である状況が、中世にも続いていたなら、粟生の出先としての岩坂村だったのかもしれません。少々距離があるのは気になりますが...。
明治42年頃の佐保地域の様子

 時代により状況も色々で、敵になったり味方になったりすると思いますが、現地で聞いてみると、それぞれは親密な交流が続いていた訳でもないようです。ですので、共同体という意識も無く、敵味方に分かれる事も多々あったと思われます。

【佐保城について】
既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。」と述べています。
 また、免山(めざん)・梅原の集落もこれを構成する一部であったと様にも見え、免山集落から城への道も複数本通じており、連動性があるように思われます。加えて、時期は不明ながら、発掘調査を踏まえると最初は小規模な関連施設的に栗栖山砦を連動させていたのかもしれません。
 そしてまた、城の眼下を通る亀岡街道は、何度も折れながら進みます。これは天然の「当て曲げ」でもあり、城の設備では「横矢掛かり」のような環境ができあがっています。軍事的緊張の高まりの折、ここを通り抜けるには相当な威圧になると思われます。真っ直ぐには進めませんし、両側に城の施設があります。

【村内に存在する別の権力】
現代社会でもある事ですが、基礎自治体の域内に上位行政体管轄の道(国道)が通っていたり、地勢上から上位行政体の機関が常駐する事務所(河川管理など)あったりします。
 これと同じく、中世にもそのような状況はあったと思われます。もちろん、その機能を引き受けることのできる体制であれば、城そのものも大きくなったり、中心政権内でも深く関わる氏族となって、それなりの大きな組織体となることでしょう。
 しかし、それができない状況では、上位権力の出先施設を置いて、運用すると言うことも当然ながら、あったでしょう。この佐保村の場合、村の統治機構の中(政所やそこから派生した地域の豪族)、その領域に、中央政権の城(栗栖山城)が存在したのではないでしょうか。
 それは、細川氏や三好政権あたりにそれが必要となり、その後の中央政権支配領域拡大(統治機構の変化)により、その役割りを終えたといった流れになる気もします。(元々の佐保と有安名という別の権力体(機構)が、時の状況により変質したのかもしれません。)その時期は、ちょうど16世紀中葉あたりで、荒木村重の統治する頃は、城郭形態も変化して、必要があれば有岡城など拠点城に人質は収容できるようになっていきます。
 この視点は、今のところ想像の域を出ませんが...。

【馬場村】
佐保地域の歴史的背景は、今のところ、不明な事が多いながらも解明の手がかりとして、有安名(みょう)があります。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、30石〜50石もある有安名が存在し、異常に大きな名主として注目されています。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いたと考えられています。
 これについて、既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。」と述べられています。
 この経緯からすると、馬場村が、有安名主の居住地であり、このあたりは在地(免山・梅原など)とは少し経緯の違う地域となっていたようです。「馬場村」自体は他の周辺集落より大きめの規模で、且つ、集落の大きさに比べると寺の大きさが目を惹きます。加えて村の立地は要害性もあります。

佐保の盆地右奥は栗栖山城

【佐保栗栖山城】
小土豪では保ち得ない規模と構造、土木・造作技術、立地であることから別の上部権力体の城として存在していたのではないでしょうか。
 この位置なら、小規模で不十分な施設ならば守るのが難しいように思われますが、盆地全体の掌握のためには、最適化された施設とされたように思われ、同時に、旧来の亀岡街道の監視に加えて、清阪街道の監視・掌握も同時に行える規模に拡大・強化されているように思われます。
 旧政権から幕府に移管された芥川山城のように、この栗栖山城も同じような経緯があったのではないでしょうか。こちらは、直下に亀岡街道も監視でき、粟生方面等とも繋がる複数の間道のロータリー構造とも言える、盆地を掌握して街道全体を押さえる目的もあったように思われます。
 永禄11年秋以降、ここを和田・高山氏が強行に領したことで、周辺の敵対勢力は不利、または、一掃されて、追われた者が池田方に助けを求めに来たと伝わる伝承は、こういった状況から生まれているのではないかと思われます。

【白井河原合戦との関係】
亀岡街道を北に進めば、能勢・余野方面と繋がっており、ここの通行を確保(敵にとっては阻止)する必要性があり、要地である佐保は、手を打つ必要があると思われます。ですから、幕府方であった施設を池田勢が落とした。それは勝ち戦の勢いに乗って、8月28日当日に行われたと考えられます。これは、敵方のシンボルを破壊するという、政治・軍事的に大きな出来事であったかもしれません。地域の「開放(奪還)」といったような、強いメッセージにもなった事でしょう。
 佐保栗栖山城の発掘調査では、曲輪1の建物が火災を受けたとの見解が示されており、何らかの関連誌があるのかもしれません。火災は13から成る曲輪で、1ヵ所のみの検出で、全体から検出されるものでは無いので、「自焼」的な跡なのかもしれません。
 一方で、佐保栗栖山城の陥落は、それ以前の可能性もありますが、今のところ勝ち戦の勢いに乗って城を落としたと考える方が、自然だろうと思います。在地の佐保城の状況については、現在のところ不明です。

【白井河原合戦後の佐保栗栖山城】
前述により、佐保栗栖山城が、別の権力体によるもので、白井河原合戦に勝利した三好三人衆方池田勢が、同城を落としたと、仮定します。
 それが達成されると、亀岡街道を北上し、泉原村を経て余野へ。そして、その隣は犬甘野、亀岡への通路が開けます。途中の「余野」は街道の交差点で、東西南北どちらへも進むことができるロータリー交差点的立地です。いわゆる要衝です。
 そしてこの余野には、地名を冠した余野氏が居り、同氏は池田氏と姻戚関係にあります。佐保の交通障害が無くなった事で、丹波国方面から茨木城方面までの連絡と通交が可能となりました。
 佐保栗栖山砦跡発掘調査報告書内で想定されていた、「高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎの城の可能性が高い」とは、少々距離があり過ぎる上に、尾根筋・谷筋の一本道が無く、何度も山と谷を越える道となります。
 栗栖山城の関連性を考えるなら、亀岡街道上の要所を見た方が自然であろうと思えます。また、元亀2年(1571)当時の状況として、幕府方和田惟政の与力であった高山氏は芥川山城を、同様に栗栖山城も役割りを担っていたのではないかと思われます。
 芥川山城は丹波方面への備えですので、亀岡街道を有する栗栖山城も同じような役割りがあったのではないでしょうか。そういう意味では、丹波方面への街道の分岐点であった福井城も非常に重要な役割を担った筈で、『日本城郭全集』で述べられている「佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう。」とは、概ね言い得ているようにも思えます。
 さて、白井河原合戦で壊滅的な敗北をしてしまった和田方は、多くの人材を失い、高槻の本城を残して、多数の拠点も失っています。背後の山地支配も大きく後退しています。
 これにより、高槻城は北や西から常に狙われる事となり、支配地が小さくなった事で、敵の動きも事前に知ることが難しくなったとも思われます。丹波への街道を押さえることは非常に重要で、軍事・政治・経済活動のためには、それが統治の必要要素だったともいえます。
★関連記事:摂津余野氏について

このように、今回の訪城で不明の闇に少々の光が見えるようになると、また別の要素にも考えが及びます。佐保城の用途・機能を考えるなら街道沿いに、いくつかの更なる施設も必要になるように思え、南條集落方面を見通すための監視所、梅原集落を守るためのいくつかの拠点もあったのではないかと思われます。

永年、保留状態であった佐保城についての思索は、今回の訪城で一気に進み、大変有意義でした。訪城をお誘いいただき、ありがとうございました。

【補足記事】
『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える


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2023年3月18日土曜日

灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)

ユーチューブのコンテンツは、様々な情報があり、森羅万象何でもあるように思います。何でもない、いつもの風景から地元情報、昔の話し、陸・海・空・宇宙、世界中、時空も超え、何でもあります。そんな中で思うのは、結局、それは自分の限界に気付きます。知っているモノしか選べない。

まだAI(エー・アイ)技術は黎明期ですが、そのAIが紹介してくれるコンテンツで、思いがけない発見に繋がることもあります。これは、大変に良いことですし、私も折々助かっています。本との出会いもそうです。

そんな流れで、ユーチューブのコンテンツから、大きな発見がありました。灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係です。過去の記事「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察」の関連記事です。以下の項目を立てて、ご紹介できればと思います。

どうぞご覧下さい。

櫻正宗と運命の出会いと驚きの偶然
摂津池田城家老の存在
摂津国河辺郡荒牧村について
荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷
寛永2年に荒牧屋(櫻正宗の前身)が創業した頃を考える
摂津国河辺郡荒牧村周辺の酒造りを見る
元禄年間の全国的な好景気と江戸での下り酒のブランド化
江戸送り酒の産地は西宮から灘へ
銘酒 櫻正宗、正蓮寺、摂津池田を繋ぐ縁とその歴史
『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

【関連記事】此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


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灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)へ戻る

櫻正宗との運命の出会いと驚きの偶然

本当に何の脈絡も無く、ユーチューブ内での動画候補に上がっていたコンテンツをクリックしたのがキッカケでした。
 その動画に、私にとっては、もの凄い情報が収められていました。私の調べている、池田酒史・郷土史に関する濃密情報でした。『メタボのオッサンの唄』さんのチャンネルにある「【小林商店 直売所】此花区春日出100年続く激渋角打で日本酒と料理を堪能する【大阪市/此花区】」という動画の中、9:10から灘酒の櫻正宗についての紹介があります。この醸造元の代表である山邑家が、戦国時代の池田城家老と関係のあることが判明しました。


動画の中で紹介されていた櫻正宗公式ホームページにある該当部分を引用します。
※酒蔵の軌跡ページ(https://www.sakuramasamune.co.jp/history/

---(資料1)----------------------------------------------
1644:山邑家の原点
当社・櫻正宗の山邑家もまた、酒造りが本格化した伊丹・荒牧村で米を作り、余剰米で酒を造る農家でした。
 伝法の正蓮寺開山時に山邑の酒をたくさん寄進し、「荒牧屋」という屋号で1625(寛永2)年に創醸されました。その後、酒造に重きを置き、1717(享保2)年に初代山邑太左衛門を名乗り、創業しました。
創業の頃、荒牧屋の酒銘は「薪水」でした。酒銘には当代の歌舞伎俳優に関する者が多く、「薪水」もまたそれに習い、俳優の名を取ったものでした。
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山邑家の家伝によると、山邑家は、摂津国河辺郡荒牧村にあって、余剰米で酒も造る農家で、「荒牧屋」の屋号を称し、1625年(寛永2)に創業したようです。

 

櫻正宗公式サイトの該当ページ ※一部強調表現加工

 

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摂津池田城家老の存在

摂津池田の伝家老屋敷位置
摂津池田家から台頭した荒木村重が摂津国守護職として有岡城主となり、摂津国内を治めていた頃、池田城家老として、5人の名が池田に伝わっています。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

---(資料2)------------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
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上記にある家老の家系の内の2名が、「荒牧屋」を称した山邑氏と同じ時代に生き、縁をつなぎます。
 その家老の一人は、上月角■衛門で、その系譜を持つと思われる人物が、上月十大夫政重と考えられます。この人物は、荒牧(荒蒔)出身の赤松一族です。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

---(資料3)----------------------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年(1538)にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

【赤松氏上月十大夫政重之塔】
寛永19年午9月12日卒 法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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★上記、上月氏についての詳しくは「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/07/blog-post_3.html

資料3の伝承を読むと上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。

一方、もう一人の家老は、甲■伊賀守という人物で、その系譜を持つと見られるのは、甲賀谷又左衛門尉正長です。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より(抜粋)

---(資料4)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。(後略)
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更に、尼崎長遠寺への莫大な貢献を知る事のできる関係資料です。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

---(資料5)----------------------------------------------

資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
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★上記、甲賀谷氏についての詳しくは「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2019/08/blog-post_20.html

上記一覧による尼崎長遠寺への篤信行動から甲賀谷正長は、1637年(寛永14)頃までには没していたようです。ちなみに同寺へは、荒木村重や池田家当主であった池田勝正なども関係を持っていました。
 また、正長は隠居し、入道号を名乗っており、その名が「正蓮」で、日蓮宗に深く帰依していました。摂津国西成郡伝法の正蓮寺は、1625年(寛永2)に、正長が開基となって創建されたお寺です。
 精神的な拠り所としての日蓮宗への帰依だけではなく、港としても重要であり、尼崎や伝法に物流の拠点を持つ意図も同時にあったのではないかと思われます。両寺は街道によって繋がっています。
 ちなみに、その後、正蓮寺は七堂伽藍が備わり、大坂二十五ヵ寺に数えられる程に栄えます。正蓮寺川もその名の通り、正蓮寺にちなんで呼ばれるようになったようです。

池田城家老の身分であったこの両名は、同時代に生きた人物でした。また、時代は太平の世となり、戦国時代に荒廃した事物が復興する中で、地域の自立、産業育成を各地が競い合いました。そんな中で、池田郷は酒造の先進地域の一つでもあり、酒造産業が急速に成長していました。

 

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