2023年3月18日土曜日

元禄年間の全国的な好景気と江戸での下り酒のブランド化

元禄時代は、全国的に好景気に沸き、文化面でも復興期でした。当時の日本の政都であった江戸では、関西で醸造される酒の旨さからブランド化し、「下り酒」がもてはやされました。池田や伊丹の酒が銘酒として、引く手数多でした。
 「摂泉十二郷の江戸積入津樽数」によると、元禄10年(1697)の記録では、池田だけで江戸への総入津高の8.8%(56,476)にもなっていました。この頃、摂津国内で他に主要な酒造産地は無く、池田郷が独占状態でした。
 これは、元々池田で酒造りが行われていたという伝承を、ある程度裏付けるものではないかと思います。現在のように、科学の行き渡らない社会では、そう簡単に酒造業(他の生業も)を始める事ができません。もちろん、幕府の届出と許可が必要です。これもそう簡単ではありません。

その頃、池田郷では「万願寺屋」が筆頭酒造家でした。この万願寺屋は、荒木村重の系譜を持つと伝わります。他にも(東西)大和屋や鍵屋が、荒木一門でした。
 池田や伊丹は「在郷町」といわれ、徳川幕府直轄の地でもあったため、様々な特権があって、酒という嗜好品作りには有利な面もあったようです。こういった時代の流れをうまく取り込んで、荒牧屋も賢実に商売を拡大し、1717年(享保2)に初代山邑太左衛門を名乗り、酒造家として創業したのでしょう。
 もしかすると、1717年の発起は、諸事が調い、改元をキッカケとして実行したのかもしれませんね。

 

江戸時代・池田酒の商標


万願寺屋古写真 大正時代頃



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江戸送り酒の産地は西宮から灘へ

より大量に、より早く、を求められる時代の到来と、幕府政策により、江戸時代後半には、江戸積酒造体制の産地構成が変化します。初期の頃は、池田郷が独占状態でしたが、次第に生産地が増えていきます。それらは生産品の輸送に都合がいい、西宮から灘地域にかけて生産地活発になっていきました。
 時代により、味の嗜好も変わりますし、社会の経済情勢、商品供給の事情など様々な変化が起こります。そしてまた、幕府の酒造統制という政策にも依りました。
 1754年(宝暦4)には、徳川幕府が「勝手造り令」を出し、酒造業の奨励を行いました。この流れで、灘や今津の酒造が発展することとなりました。下落していた米価を引き上げる事を目的としていました。

「荒牧屋」は、この流れも上手く掴み、地の利もあって、既に酒造産地となっていた西宮からもそう遠くない、新興酒造地灘・魚崎へ進出する事になったようです。
 ただし、生産場所を変えるだけでは、産業が成り立ちません。流通の整備も同時に行う必要があります。原料の調達、製造した製品の出荷のための港など、一体的な環境が必要です。1717年(享保2)の酒造家として創業(初代山邑太左衛門の名乗り)は、諸事を整えての事であったはずです。
 一方で、元禄期以降の日本経済は下降傾向にあり、コスト削減策としても輸送の利便性の高い場所を求めたという可能性もあります。

 

摂泉十二郷の江戸積入津樽数


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銘酒 櫻正宗、正蓮寺、摂津池田を繋ぐ縁とその歴史

今回、全く予測もしていなかった事が、動画コンテンツのクリックから結びついたのは、偶然としかいいようがありません。この出会いの中で改めて思うことが色々あります。

前近代という時代は、特に縁故関係により信用を繋ぐという社会でしたので、無関係から接点になる事は、現代社会と比べれば、その可能性は非常に低かったでしょう。今でも無くはありませんが、経済的な面以外は、縁故関係での結びつきは、嘗てに比べると、小さくなっているのではないでしょうか。しかし、一方でそれは、社会の信用度が安定しているとも言えるかもしれません。
 それ故に、昔は、歴史を大切にし、正確に伝えることで、未来を拓くという習慣があったと思います。近年、科学的な研究が進み、非常に古い記録であっても、ある程度の正確性があると、証明されつつあります。私自身の研究からも、それは言えます。同時に、その時代の日本人の精神を語るものにもなっています。
 未来のため、子孫のために、自身が過去を引き継ぎ、今を真面目に生きるという営みを、淡々と続けてきた事が、今、科学的にも証明されつつあるように思います。それらの記録により、昔と習慣が変わった現代社会に、バラバラに存在しているかの要素(櫻正宗・正蓮寺・摂津池田城家老)が、全て繋がっている事例をまた一つ発見できました。今後、もっと詳しい資料が見つかるかもしれません。他へも拡大するかもしれません。今後が楽しみです。この温故知新で、疎遠だったものが絆になるのかもしれません。
 同じ時代に生き、また、新たな時代の為に、それぞれが真面目に生きれば、未来へ繋ぐことができるというのは、代々の先祖が証明してくれている事です。間違いはありません。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影


施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影
 

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2023年3月14日火曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、上津城を考えてみる

先に紹介した新田(多田)城についての関連記事です。この上津(うえつ)城は、塩川氏の拠点であった新田(多田)城と対を成す城で、両城の間には、主要道である能勢街道を南北に通しています。
 この至近でもあり、豊嶋郡にあった池田城は、発掘調査等から、その発展の過程で最晩年には能勢街道を城内に取り込む形態となっています。他地域にも、街道と城の関係は、密接である事例が多くあり、この新田城・上津城の関係も、例に漏れず、そのようであった事でしょう。残念ながら、新田・上津城については、あまり発掘調査が進んでおらず、多くが明かではありません。

先ずは、今ある情報を集めてみたいと思います。いつものように、以下に関連資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(上津城)P330

---(資料1)---------------------------------
上津城の築城時期は不明であるが、新田城の支城の一つとして築かれ、新田城から塩川を渡った東側丘陵上、旧平野村字(「東上津」「西上津」「権現」「竹の下」)にあったものと思われる。
 「多田文書」の「荒木の兵上津城来襲記録」(『荒木村重史料』所収)によると、多田春正が上津城主であった天正六年(1578)に荒木村重の兵が上津城を攻撃している。春正は防戦に努めたが、落城し、自害した。なお、多田春正は源満仲の末裔で、26代目であったという。
 現在、城跡は田畑に開墾され、あるいは民家が並び、城郭構造の詳細は不明になっている。
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続きまして、こちらも定番、日本城各全集(1967年刊行)の該当記事です。
※日本城各全集10(川西市上津城)P192

---(資料2)---------------------------------
多田城ともいわれ、塩川伯耆守の築城と、能勢妙見宮の文献にあるのみで、詳細については不明。
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そして更に、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384

---(資料3)---------------------------------
平野村(現川西市平野1-3丁目、新田3丁目、長尾町、多田桜木2丁目、東多田3丁目、東畦野山手1丁目、向陽台、平野)
新田村の東に位置する。地名は平野神社(現多太神社)に由来するといわれる。(摂陽群談)。慶長国絵図に平野村・新田村と併記され、村高は不明。元和3年(1617)の摂津一国御改帳および正保郷帳では東多田村と併記され、高652石余。領主の変遷は幕府領ののち、寛永17年(1640)摂津高槻藩領、寛文2年(1662)から慶応4年(1868)まで幕府領(川西市史)。当地の平野温泉は「摂津名所図会」「摂陽群談」に紹介された湯の一つで、安永9(1780)に「多田温泉記」が刊行され、その効能を宣伝する。汲み上げた源泉を温めて入浴した。文化8年(1811)に大坂東町奉行一行が多田院参詣のあと平野温泉で一泊。同8年には多田院御家人が湯元で会合。幕末の大火以後は寂れ、湯ノ町の地名を残すのみとなった。天保13年(1842)の諸商売村々書上帳(西本家文書)では、左官一(農間)・米酒商二・荒物商一・馬喰一・紺屋一・屋根屋一。禅宗平常院(現曹洞宗岡本寺)がある(元禄5年「平の村寺社吟味帳」岡本寺文書)。
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それから、上記に取り上げた「日本城郭大系」の該当記事に採用されている元の情報です。『多田庄十郎文書』に、荒木の兵上津城来襲について伝わっています。
※荒木村重史料(伊丹資料叢書4)P139

---(資料4)---------------------------------
口上覚
一、多田御家人と一統相唱候内多田名字壱人有之候。多田字之儀は従 満仲公・頼光公・頼国・頼綱と次第に嫡男二而致相続、多田本政所・新田政所と越中守正迄 満仲公より弐拾八代致相続、春正は平野村之内上津之城主、其節伊丹有岡之城主荒木之一族襲来上津之城一戦之砌春正自害、其の子小次郎丸有重以来至今二一庫邑井之内二居住、家禄之儀は越中守迄庄内並他所入組致領知来候所、右大坂大将軍之節被没収、依之有重以来無縁二而時節を相待居候内(中略)
 明和9年(壬辰:1772)二月 多田院 御役者中
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また、ウェブサイト『北摂多田の歴史』の「多田庄の歴史散歩」の項目に、「5-1.平野上津にあったとされる「多田上津城」と「正法寺」と「観音寺」」という項目があり、ここで、多田春正の自害は「永禄十年(1567)八月十日」の事と紹介されています。このサイトは、地域資料を多数収集され、詳細に分析されています。
北摂多田の歴史「多田庄の歴史散歩」
http://hokusetsu-hist.sakura.ne.jp/newpage1kawanishiiseki.html

ちなみに、この永禄10年の蓋然性を考えるなら、この頃はちょうど、池田家当主の勝正は、三好三人衆側につき、松永久秀と激しい闘争を繰り返していた時期です。この松永方に、伊丹・塩川氏が付いていますので、戦いの起こる情況としてはあり得ます。
 この年の10月10日、あの有名な奈良東大寺大仏を焼失する合戦があり、松永方は三好三人衆方に対して、起死回生の夜襲を仕掛ける程に追い詰められていました。8月と言えば、松永方が窮地に立っている時期でもありました。
 しかし、上津城の城主多田春正は源満仲の末裔(26代目)が、自害・落城したというのは、大きな出来事であった筈です。その後の顛末は今のところ調べに及んでいないませんが、多田家(嫡流)が一時的に滅んでいます。

一方、新田・上津に拠点を持っていた塩川氏は、北方の山下(やました)地域に拠点を移しますが、いつ頃移ったのかは、今のところハッキリしていません。しかし、多田の荘園の中心である多田院は、その後も同じ場所にあることから、これを守るためにも、また、街道の監視のためにも塩川氏は、支城を要所に配置していたと思われます。そのためにも新田・上津も規模を変化させながら、機能は維持していたと思われます。

さて、天正6年11月付けで、織田信長は、塩川領中所々へ宛てて(中山寺文書:兵庫県宝塚市)禁制を下しています。信長は電光石火の動きで、通路封鎖を行い、荒木村重方の拠点孤立化を実行しています。
※織田信長文書の研究 下巻 P402

---(資料5)---------------------------------
禁制 塩川領中所々
一、軍勢・甲乙人等、乱入・狼藉事。一、陣取事。一、伐採山林・竹木事。右条々、堅被停止了。若於違犯之輩者、速可被処厳科者也。仍下知如件。
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これは、この頃あった、荒木方の打ち廻りに対する対応のようです。10月28日の夕方、賀茂村・栄根村を荒木方が打ち廻りを行っています。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134 ※『穴織宮拾要記 本』

---(資料6)---------------------------------
一、天正年中伊丹ノ城主荒木摂津守反逆之時、東ハ長柄川を限り津ノ国一ヶ国を放火ス。天正六年十月二十八日空曇りたる日、暮方伊丹より賀茂栄根村栄根寺へ火を掛ける。神主右衞門佐定明先殿内へ入り、御神体を守り出し、西之方松ノ木ノ根迄守り出し候ヘバ、はや大勢来たる。居宅ニハ家来共旧記共取り出し、妻子共引きつれ、北ノ口方ヘハ逃れず、池田山へ登り山越えに能勢大里村森下氏親類たる故、夜中に逃げ行く。家来妻子共に三十六人也。持ち逃げたる記録皮籠に二つ背負い也。、とある。
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この地域は、摂津加茂・栄根村(現兵庫県川西市加茂・栄根)方面は、荒木氏の池田家中での本拠地とも伝わる地域であり、特別な場所でもあります。また、付近は地形が隆起しており軍事的要衝でもあります。
 文中には、「北ノ口方ヘハ逃れず、池田山へ登り山越えに能勢...」とあることから、北側方面はキケンと判断していたことが判ります。通路も塞がれていたようです。

塩川氏はその当初から村重の行動に従わず、織田方として独自に行動していたようです。荒木方にとってこれは、喉元の急所に不安定材料を抱える事でもありました。その領界付近で、早くも交戦があったようです。
 資料5の塩川領中所々へ宛てた織田信長の禁制は、これへの対処だったようです。また、発行者が塩川氏では無かったのも重要ですね。

加えて、同年12月11日の織田方砦各所の記録によると、塩河伯耆守が古池田の受け持ちだったようです。これは、村重にとって、大きな誤算だったのでしょう。その影響は、続く高山右近、中川清秀、安部仁右衞門の織田方への投降に連なる要素も含んでいたのかもしれません。

さて、年が明けた天正7年、『信長公記』3月14日条。織田信長は「多田の谷」にて放鷹を楽しんでいます。
※改定 信長公記(新人物往来社)P244

---(資料7)---------------------------------
多田の谷、御鷹つかはされ候。塩河勘十郎、一献進上の時、御道服(どふく)下され、頂戴。忝き次第なり。
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信長は、この頃、池田城に本営を置き、戦況を確認していました。また、翌月18日、荒木勢が織田信長方の付城を攻撃しています。荒木方は、重要な場所を取り返して領内並びに丹波方面への連絡路を確保するために、部分的攻勢をかけています。
 これを受けて、同月27日、織田信長嫡子信忠が、中川瀬兵衛尉清秀などを伴って15,000の軍勢で能勢街道を北上、荒木方の拠点に対する根本対応を行って、連絡路の完全な遮断を行っています。この時、池田城から至近の止々呂美城を落としています。中川清秀がそれらの調略に活躍したようです。
※ちなみに、大阪府止々呂美には、塩川隠岐守入道の古塞という伝承があるようです。

信長は、同じ18日、塩川伯耆守長満へ銀子百枚を下しています。この交戦で功績のあった事、また、忠誠を尽くしている事への褒美だったのでしょう。塩川氏は荒木村重の政権離脱には加わらず、初期段階から織田方へ誼を通じたようです。
 同月月28日に織田信長が、塩川伯耆守長満・安東七郎(平右衛門)へ覚書を発行しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P436

---(資料8)---------------------------------

一、何口へ敵相動■、此方諸口出あい■を仕、各別可馳合、若油断之輩候者可為曲事、交名を可注進事。一、番等之儀、夜中ハ不及申、昼も無懈怠、其口其口を請取、不可油断事。一、諸口より敵と出合可停止。但、調儀之口も有之者相尋、其上にて可被沙汰事。一、番手人数無退屈、かたく可申付事。一、何篇当年中二ハ可為一着之条、不入動候て、可然もの鉄砲なと二あたらさる様、丈夫にはげミ簡要之事。
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この覚書の翌日。織田信長は、再度池田城の本営に入り、戦況を確認します。池田は、主要道を四方八方に通しているため、播磨国三木城、丹波国八上城の様子なども全て速やかに得る事ができます。この時の布陣の様子について『信長公記』は細かに記しており、「賀茂岸」(兵庫県川西市)の陣で、伊賀平左衛門、同七郎と共に、塩河伯耆守(長満)の名が見えます。
 ですから、先の信長の塩河伯耆守への覚書は、賀茂岸の陣で受け取って、これを読んでいたことでしょう。

多田庄は国内最大の荘園で、広大な領域を有していました。その多田庄の中心に多田院があり、その御家人を自覚する人々も庄内外に居住していました。更にその中に多田鉱山を含みます。この掌握のためにも、塩川氏を活用しようと織田政権は考えたのだと思います。逆の視点で見れば、荒木村重の織田政権からの離叛は、この鉱山を手中に収めていることの計算もあったのだと思います。

『北摂多田の歴史』の説を参考に、上津城と新田(多田)城の位置関係を、大正時代の地図にマークしてみました。上津城は、永年に渡り、気になっていたところですが、未訪問ですので、近日こちらも訪ねてみたいと思います。




「塩川氏の拠点新田(多田)城について」は、こちらの記事をご覧下さい


【修正】利右衛門さんのご教示を得て、文の修正を行いました。ありがとうございました。(2023年3月21日)

2023年1月14日土曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、新田(多田)城を考えてみる

ずっと気になっていた地域を訪ねました。令和5年の初詣に兵庫県川西市平野にある、平野神社を訪ねました。気持ちの良い素晴らしい神社でした。その折のブラ歩きで、新田城跡も知る事ができました。
 荒木村重の統治や天正6年の村重の織田信長政権から離叛した事による争乱について知るための非常に重要な地域です。また、細河庄との境界の情況について、その周辺情況も、しっかり見ておかないといけないので、気になっていました。

兵庫県川西市にあった、新田(にった:しんでんとも)城は、凄い城でした。塩川氏が山下に本拠機能を移す以前は、新田城が塩川氏の拠点城でした。あまり調べずに、別の場所を目的に訪ねた折に、偶然、気になった所がその城跡だったので、よく調べて、近日に再訪したいと思います。その下調べ的に、このこの記事を出しておきます。

いつものように、以下、村と城についての資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(新田城)P330
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新田(しんでん)城は、別名「多田城」ともいい、旧多田新田村にあった。この地の東側に塩川が流れ、西側から南側に猪名川が流れて村の東南隅で合流している。広義の新田城とは、この二つの川に挟まれた地を指し、承平年間頃、源(多田)満仲およびその御家人(多田御家人)が集落を作り、代々住んでいた所という。
 しかし、一般的にいわれている狭義の新田城は、このうちでも特に軍事的な防御施設のあった所で、東部塩川沿いの丘陵部をさしている。この付近は、多田御家人中でも有力者であった塩川氏が代々守り”常の城”を置いていたが、天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。「明治8年新田村地字図(『川西市史』所収)」には、城跡の中心部に「城山」「城山ノ下」「城ノ下」「東堀」などの字名が見られ、昭和30年頃まで、田畑の土手に等間隔に並んだ疎石が残っていて、城壁跡といわれていた。現在、丘陵上は宅地化され、多田グリーンハイツとよばれているが、南麓に奥行き5-10メートルの削平段が数カ所と、下方に幅6メートル・深さ5メートルの竪堀跡と思われるものが残っている。
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新田城山公園という公園があるのですが、そこから東向きに丘陵を利用した城であるようです。また、塩川を超えた直ぐ東側にもある上津城と連動した機能を持っていたと考えられており、両城の間にある、塩川と能勢、妙見方面へ通じる重要な街道を監視するようにそれぞれ立地します。

続いて、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384
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新田村(現川西市新田1-3丁目、平野2丁目、多田院1丁目、向陽台1-2丁目、緑台2丁目、新田)
多田院村の東、猪名川と塩川にほぼ囲まれて立地する。多田の開発に伴う地名と考えられ、元禄11年(1698)の国絵図御用覚(多田神社文書)に「ニッタ」の訓がある。

 享徳元年(1452)12月29日の沙弥本立売渡状(同文書)に「多田庄新田村」とあり、多田院千部経中に村内高岡西窪を3石5斗で売渡している。文明8年(1476)高岡仲明が多田院御堂修理料として新田村内の木村屋敷前の田を寄進している。(同年10月8日「高岡仲明寄進状」同文書)。
 「細川両家記」によれば、永正16年(1519)秋、細川高国は都を立ち、越水城(現西宮市)の救援のため小屋・野間(現伊丹市)や新田・武庫川に陣取り、澄元方との合戦に及んだという。明けて1月、今度は澄元方が小屋や新田に陣取り、合戦したという。
 天文16年(1547)又六兵衞が多田院に羅漢供田として「新田村之内馬場」垣内加地子4斗を寄進している(同年7月6日「又六兵衞寄進状」多田神社文書)。この内馬場を現猪名川町域の内馬場とすると広域すぎて妥当ではない。
 天正10年(1582)9月1日の多田院・新田村際目注記案(同文書)によると、当時、新田村が東順松下町の際まで自領内として押領したため、多田院と新田村との間で境目論争が起きた。寺家より往古の支証を出し、塩川城に新田村在所の年寄どもや寺家僧衆が登城し、双方の言い分を聞いた上で、上寺の東は三間ほど、北は山の際の横大道・平野への横道を限って寺領内とするという裁定となった。

 なお、弘治4年(1558)山問頼秀は長谷乙浦山に関する平居・新田両村の山手代を万願寺に寄進している(3月11日「山問頼秀寄進状」万願寺文書)。
 城山之中にあったとされる新田城は、多田城ともいい、塩川氏の居城とされる。のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。現在遺構は消滅したが、城跡中心付近には城山・城山ノ下・城ノ下・東堀などの字があったといわれる。
 慶長国絵図に村名がみえ、平野村と併記されるが、村高は116石余であろう。領主の変遷は、寛文2年(1662)まで矢問村と同様で、同5年以降は多田院領として幕末に至る(川西市史)。寛文5年、四代将軍徳川家綱は、多田院社領として新田村の116石余を含む500石を寄進、同11年の社領寄進の将軍判物(写、多田神社文書)がある。多田院領の当村など三ヵ村では、享保9年(1724)に風損による年貢米25石余の引下げをはじめ、同17年に虫害による同じく62石余、元文5年(1740)には洪水により、明和8年(1771)には干損のため、天明2年(1782)には水害などと災害による減免を出願してきたが、天明6年には前代未聞の凶作として年貢引方を願出ている(清水平文書)。浄土宗宝泉寺がある。
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『兵庫県の地名1』中で、「のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。」との伝聞が伝えられ、加えて、『日本城郭大系12』には、「天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。」と、焦点を絞り込んでいます。
 天正年間に移ったキッカケは、山下付近で、鉱山開発が行われたために、本城を移したと思われます。荒木村重が天正元年から、織田信長権力の下で信任を受けて頭角を顕し、実質的な摂津国守護になっていたため、次第に国内が平定される中で、軍事・経済分野においても再構成がされつつありました。
 これも伝聞の範囲で今は収まっているのですが、『兵庫県の地名1』川西市笹部村の項目には、天正2年に河辺郡笹部村を分離して山下町を作ったとされ、この山下に城(元々支城などがあったのかも)を作り、町には吹場が集約されて鉱山関係者の居住地としたとあります。
 織田政権下で成長した荒木村重権力の下に入った塩川氏が、状勢の変化により、拠点を移したと思われます。因みに、この年、荒木村重もそれまでの拠点であった池田城を畳み、伊丹に新たな城を築いて、ここを本城としています。有岡城です。村重の領内は、天正2年から翌年にかけて、大規模な軍事拠点の再編成が行われていますので、多分これに伴う動きが、新田城から山下城への変遷にも関わると考えられます。

ということで、ザッと思いつく所をまとめてみました。また、詳しく現地を訪ねて、地形などを見たいと思いますので、その折にまた、この記事を補足します。

 

 
 

2023年1月5日木曜日

【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

 質問があり、その回答旁々、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(後編)です。ご活用下さい。

先日お伝えしました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)の続報です。幕府の重臣、将軍義昭の側近であった高槻城主和田惟政が、8月28日の合戦で戦死し、その後の流れをお伝えします。
大将の和田惟政が、三好三人衆方摂津池田衆に討たれ、瞬く間に近隣周辺は、池田方の手に落ちてしまいます。池田衆は、和田惟政やその主立った武将の首を持って、高槻城などに押し寄せます。その首を城外から見せつけるように掲げ、歓喜の声を上げたとフロイスの報告にはあります。首は、色々な場所、見せる必要のある城に持っていったようです。
 フロイスはこの時、合戦場から12キロメートル離れた、河内国三箇(サンガ)の教会(現大阪府大東市)にいたところで、この報に接したようです。何が起きているのかを確認するために、高山飛騨守のもとに使いを遣り、その日の午後には戻って、詳細を聞いたとしています。この日、朝から晩まで銃声を聞き、飯盛山(城)に上ると、2日2晩、高槻方面が燃えるのを認めたとあります。
しかしながら高槻城は、辛うじて落城を免れています。
以下は、その確認を元に、フロイスが報告を送っている内容です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰条
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(前略)総督(和田惟政)の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)総督の首級は、他の武士一同(主な和田方武将)と共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり。
-------------------
 

そして以下は、時系列で白井河原合戦が終息するまでを一覧にします。11月頃までは、戦闘状態が続いていました。土地勘は地図をご参照下さい。
 総合的には池田勢が勝利し、三好三人衆方が京都に迫る勢いでした。加えて、松永久秀など、奈良方面から北上する三好三人衆方一派もありました。更に、近江国方面からも朝倉・浅井勢が京都を覗う動きを見せていました。大坂本願寺も三好三人衆方です。
この情況で、摂津池田衆は、本拠の豊嶋(てしま)郡から、東側に大きく版図を広げることとなり、歴代池田家の最大の領域を手に入れます。


<8月>---------------
 28 幕府衆三淵藤英、夜半に摂津国高槻城へ入る
 29 三好三人衆方池田勢、白井河原周辺の諸城を攻撃を始める
<9月>---------------
   1   摂津池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
   2   摂津池田家家臣中川清秀、摂津国茨木城を領知する
   5  摂津池田勢、大挙して摂津国高槻城を攻める
   6   池田勢、戦闘に敗北
   9   摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
 中 摂津池田衆内吹田氏、摂津国吹田城に復帰?
 11 織田信長、近江国三井寺へ入る
 12 織田信長、比叡山を焼き討つ
 13 織田信長入京
 24 幕府衆明智光秀勢、摂津国(高槻)へ出陣
 25 幕府衆一色藤長など、摂津国(高槻)へ出陣
<10月>---------------
 10 摂津国池田家臣の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
   9   摂津国高槻の付城に三好三人衆方三好左京大夫義継が入る?
 14 織田信長、幕府衆細川藤孝へ山城国勝竜寺城の普請について音信
 26 織田信長勢先鋒、京都へ入る
<11月>---------------
   8   摂津池田衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
 14 織田信長、摂津守護伊丹忠親へ通路封鎖を行うよう通達
 15 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
 17 但馬守護山名祐豊、丹波国へ侵攻

 


 

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【前編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

質問がありましたので、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(前編)です。ご活用下さい。  

近年、少しずつ知られるようになりました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)ですが、この合戦は、単なる地域戦ではなく、将軍義昭・織田信長政権に対して、政局を変える事になった大戦でした。
 「白井河原合戦」とは、後年につけられた名前で、毛利家中でまとめられた『陰徳太平記』や豊後竹田家の中川家でまとめられた一家記(中川史料集)などで使われた言葉です。その時の既述が、順送りで現代に伝わっています。当時は、「郡山合戦」「宿久河原合戦」と呼ばれ、概ね実際と近い場所を呼称としています。
 合戦場所の呼称、江戸時代に書かれた、物語風の脚色が、白井河原に焦点を当てるため、幣久良山(てくらやま)眼下の川が主戦場のように意識されているのですが、これは事実からすると、違います。
主戦場は、あくまで幣久良山から西側の約2キロ程の地点です。幕府方大将の和田惟政は、ここで戦死しました。和田惟政の一団約200名は、三好三人衆方池田勢の鉄砲300丁の斉射を受けて、対戦した時点で、ほぼ壊滅状態でした。池田方は、囮として前哨させた荒木村重一千名程を前に立て、和田方を引き出し、西側に出てきたところで、丘に隠していた二千名が現れ、ここで鉄砲の斉射が行われます。
以下、当時の様子の記録、抜粋です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰
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(前略)翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)
 総督(和田)は大臚勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ、又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時、城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。(中略)敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワ(約2キロメートル)の所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。
 彼は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。
---------------------------------
 

この結果、和田方は、地域統治ができなくなり、そのまま一気に、京都への侵攻が現実味を帯びました。その結果、京都防衛の拠点、勝龍寺城(京都府長岡京市)の大幅な防備強化を行い、現在の城の形態は、この頃に起源があるとの見解を示しています。
また、この大合戦の周辺環境も将軍義昭・織田信長政権の空白で、弱り目でした。以下、箇条書きです。

  • 伊勢長島での本願寺門徒の蜂起(5月) ※本願寺衆の各地での蜂起
  • 松永久秀の反幕府行動の活発化(5月)
  • 幕府方毛利元就死亡(6月)
  • 六角承禎など近江国内で活動を活発化(7月)
  • 比叡山焼き打ち(9月)

この情況で、白井河原合戦は行われており、後に明智光秀によって起こされる「本能寺の変」に近い意図がありました。相手の弱り目で、大挙決戦を挑む。池田衆は多分、この情況(将軍義昭・織田政権の)を情報として知っており、この大きな流れを作っていたのが、近衛前久でした。この時は、大坂本願寺内に居り、全体を繋ぐ役割と地位にいたようです。

兎に角、この白井河原合戦前後で、地域統治のための多くの人材を失い、将軍義昭・織田信長政権は、京都確保が難しくなり、9月の比叡山焼き打ちは、この事態打開のため、強硬策に出たと考えられます。戦争は、人材を失う事が策としての難点です。

 


 

 


 

 

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2022年10月29日土曜日

何と!真言宗御室派大日寺に、戦国時代の武将松永久秀崇拝の毘沙門天が安置されている!よく知っているところだったのに、知りませんでした!

摂津池田家の事とは、直接的な関係が薄いのですが、接点が無くもありません。摂津国内の東南端の地域で新開池に沿う、水際の港町であり、「渡し」がありました。
 また、ここは元亀元年(1570)の本願寺宗蜂起の折に、支城があった場所とも伝わります。川沿いに、南東に一里程先の摂津国森河内村の砦と連携していたと思われます。
 こんな要地ですので、大坂の陣の時もここに陣所が置かれ、それを巡って合戦もありました。

これらの要素について、遠からず、近からず、摂津池田との関係も無くはありません。

さて、この鴫野という場所は、私が子供の頃によく行った場所であり、様子をよく知っています。友達もいました。八剱(やつるぎ)神社のお祭りにも行き、地蔵盆にも行き、楽しい思い出もあります。
 令和3年(2021)の正月の初詣に、思い立って、久しぶりに八剱神社を詣でました。子供の頃とは違う視点で色々なものを見ると、何と!八剱神社に隣接する大日寺は、松永久秀が崇拝していた毘沙門天像が安置されているとのこと。とても驚きました。
 新開池は、深野池を経て、河内国飯盛山城につながっており、城から直接的に大阪湾に出る事ができる大動脈を活用して、戦国時代には、周辺地域が大変栄えました。
 松永久秀が崇拝した毘沙門天(像)とは、そういった情況によるご縁があったての事でしょう。

以下、大日寺に掲示してある、城東区役所による看板の内容です。

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弘仁年間(810〜824)、弘法大師様巡錫(じゅんしゃく)の折、鴫野に園女という女性がおり、既に二児を出産したものの、再び難産を経ねばならぬことは死の思いがいたしますと、お大師様にお助けを願ったところ、世の女性の難産を除くために一刀三礼の大日如来の像を刻み、大日寺を建立されたといわれています。
 大日寺は鴫野の村寺として、村の人達に大切に守られてきました。豊臣秀吉も大坂城築城の折、鬼門除けにお詣りをし、境内で休憩を取ったと伝えられています。江戸時代に編纂された書物「摂陽群談」「摂津名所図会大成」にも「大日堂」としてその名が見え、「子安の大日」として広く信仰されたことが記されています。摂津の国中の人が参拝して賑わい、毎月二十一日にはお大師様詣りの人々が一日中絶えなかったそうです。
 本堂にはご本尊子安大日如来(秘仏)のほか、如意輪観音、弘法大師、不動明王、阿弥陀如来、釈迦如来、役小角行者、女神等が並び、戦国時代の武将松永弾正少弼久秀崇拝の毘沙門天も安置されています。
 境内には小ぶりながら大坂冬の陣時代よりさらに古い時代のものではないかといわれる宝篋印塔もあります。
 ご宝物に徳川五代将軍綱吉の息女がお産の折、安産のお礼に奉納したと伝わる葵紋入りの戸帳、紀州徳川家より寄進されたと伝わる、お香入れ江戸時代の大般若経六百巻などがあります。
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それから、この大日寺のある鴫野村について、基本的な情報をいつもの様に、平凡社の地名シリーズから抜粋してご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)城東区鴫野村条

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(現)城東区鴫野西1〜5丁目、鴫野東1〜3丁目、中浜1丁目、東中浜1丁目
新喜多新田の南にある。宝永元年(1704)に大和川が付け替えられ、新喜多新田が開発されるまでは、村の東から北へ大和川が流れ、北は今福村・蒲生村に対していた。村域東端の旧川沿いに集落がある。また、村西端で平野川・猫間川が合流、鴫野橋の下手で寝屋川に注ぐ。村北の川筋には剣先船の船着き場があった。「熊野詣日記」に、応永34年(1427)足利義満の側室北野殿の一行が熊野参詣の帰路「しきののわたり」を船で渡ったことがみえ、水上交通の要津であったことをうかがわせる。天文20年(1551)2月16日、本願寺証如の一行は「シキノツツミ」へ土筆取りに出かけており(天文日記)、当地付近は石山本願寺(跡地は現東区)の勢力下にあったとみられる。元亀元年(1570)に始まった石山合戦の時には本願寺側の五十一ヵ所の端城のひとつが置かれ(信長公記・陰徳太平記)、城中では食糧の時給が図られ、付近の門徒農民は本願寺に兵糧を献じたと伝える(城東区史)。しかし城の位置・守将などは不詳。慶長19年(1614)大坂冬の陣には、今福堤とともに鴫野堤にも西軍の柵が設置され、大野治長の銃隊長井上頼次の兵二千余人が守った。11月26日、東軍上杉景勝は四千人の兵を率いて鴫野口に迫り、井上頼次は戦死、柵は東軍が奪った。しかし今福堤の後藤基次隊の援護により西軍は再び柵を奪回、更に28日には東軍堀尾勢が鴫野口を攻撃、29日、西軍は鴫野・今福の営舎を焼き払って備前島(現都島区)に退いた(大坂御陣覚書・長沢聞書ほか)。
 文禄3年(1594)に検地が行われ、当時の村高714石余・段別51町3反余(田方47町5反余・畑方2町8反余・屋敷地8反余)、総反別に占める上田・中田の割合約8割(延宝7年「村検地帳」八剱神社蔵)。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領、その後幕府領のまま幕末に至ったとみられる。元和初年の摂津一国高御改帳には「志宜野村」とみえ高736石余。延宝7年(1679)の検地帳によると、同年の新検により村高は991石余・反別73町2反余となった。また名請人102人のうち隣村中浜村からの入作21人。当村百姓81人のうち100石以上の高持ちが1人、20石から100石が11人、5石から20石が29人、5石以下40人(うち1石以下15人)。なお村高はこの後若干減少。寛政4年(1792)5月、大雨で田が冠水、役所へ報告したところ、排水用の惣踏車人足調達法の不備を指摘され、高持・小作126人が始末書を提出した(川原家文書)。周2町以上の池に角田池・ツキウス池・新五郎池など41池があり、池底の泥土は肥料となったという(東成郡誌)。鴫野橋付近には悪水状樋があったが、慶応2年(1866)の大雨で破損した時には、奈良街道(暗峠越)以北の平野川・寝屋川に囲まれた村々が浸水した(近来年代記)。鴫野橋(現東区の新鴫野橋)は長さ29間余・幅2間の公儀橋で(文化3年増修改正摂州大阪地図)、京橋から筋鉄門を経てこの橋を渡ると当村と一部地続きの弁天島(明治2年当村に編入。現東区)に至る。弁天島から寝屋川南堤を通って当村集落部に至る道からは、北西方面に有馬富士が見え(浪花のながめ)、「浪華の一奇」(摂陽奇観)といわれた。
 鎮守社の八剱神社は、速素戔嗚命ほか五神を祀る。大坂冬の陣では、東軍佐竹義宣の陣所が置かれ、兵火で社殿を焼失したという。真言宗御室派大日寺は同社の神宮寺と考えられ、空海の創立と伝える。本尊大日如来は安産の守りとされ、子安の大日と号した。至徳山聞通寺は真宗大谷派で霊松寺とm号したという。梅影山来通寺も真宗大谷派、松樹山光曜寺は真宗仏光寺派。「摂陽群談」には村内に源頼光が戦勝を祈願したという袋中庵を記すが、「摂津名所図会大成」には廃されて旧跡もわからないとある。
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本当に、この出会いには驚き、年初から縁起の良い発見とご縁でした。しかも、宝栄山 大日寺の宗旨は、真言宗御室派で、私の家の宗派です。これが、一番のご縁だった...。

この小さな記事が、またどこかと繫がり、次第に大きな縁になって行くのでしょう。どんな事でも結局は、ひとつの流れになっていますね。これからもコツコツと目標に向かって糸を紡いでいきたいと思います。

 

 






2022年10月26日水曜日

高山ユスタと摂津余野・池田氏の関係を考える

 高山ユスタ生誕地の碑が大阪府豊能町余野に建てられています。ここは中世、余野氏が居城したといわれる余野城があったところでもあります。余野氏は在地の有力者で、周辺の野間氏や能勢氏とともに「能勢の三総領」と称されていた能勢一族衆でした。
 そんな余野氏が、摂津池田氏と高山右近とを結びつけていたとする記録が残っています。当時、日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスなどによって見聞きした出来事が記録されており、有名な『フロイス日本史』にまとめられています。

第三十九章「沢・余野及び大和国十市城の人々の改宗について」の中で、高山マリアとユスタの事が詳しく記されています。文が長いので、関係記述のみ箇条書きにしておきます。
 

  • そこには比丘尼(ビクニ)が大勢いた。そのうちの幾人かは、クロダ殿(余野蔵人)の奥方の親戚であった。奥方(マリア)は、その家柄からいえば、まことに高貴な人で、池田殿(当主は長正?勝正?)と称して、その国の最大の殿の一人の正当な娘であった。池田殿の家は天下に高名であり、必要とあればいつでも五畿内きっての極めて優秀な、万全の装備の整った一万の軍隊を戦いに繰り出したものであった。
  • この奥方の長女(ユスタ)と結婚(相手は当時13~4才の高山右近殿)した。
    ※高山右近は、1552年(天文21)生まれとされるので、1565年(永禄8)頃の結婚と考えられる。
  • 織田信長が、荒木との戦いの結果、信長は、池田の所領全部を他の諸侯に与え、この奥方の所領であった余野もその中にあった。その結果、彼女は追われて、困り果てたあまり高槻へ行った
  • 右近殿と彼女(マリア)の娘ユスタとが、高槻城主となっていた時、この母親(マリア)はもう大人になっていた息子達と、彼女が二度目の夫(蔵人殿の弟)から得た小さな他の子供達に伴われて、高槻に来たのであった。
  • 彼女(マリア)を襲った病気によって、デウスが彼女を御許にひきとりたもうた時、彼女はやっと四十歳くらいであった。
  • 信長が殺されたのと同じ年(1582年:天正10)に、その後継者である羽柴筑前殿が越前の国に攻め入って...。
    ※羽柴秀吉が越前国を攻めたのは、天正11年であるので、山崎合戦(天正10年6月)と混同しているのかもしれない。
  • マリアの年長の息子二人と、その年にキリシタンとなっていた彼女の夫(蔵人殿の弟)も一緒に同じ戦争で死んだので、マリアには三人の娘が残るばかりになった。皆キリシタンで...。
    ※賤ヶ岳の戦い(1583年:天正11)を経て、北ノ庄城の本拠で柴田勝家は自害して、一連の戦いは終わる。主要な衝突は賤ヶ岳合戦であり、この戦いでは、摂津国衆として高山右近・中川清秀が出兵し、その内清秀が戦死。その中に余野氏も含まれたのかもしれない。


とあって、その当時の様子を詳しく知る事ができます。
 また、この一連の高山マリア・ユスタに関する記述の中では、摂津池田氏の事についても興味深く記されています。マリアは、後に高山を名乗るようになったとしています。マリアは、四十歳くらいで亡くなっているようです。

永禄7年(1564)正月、余野城主余野氏が、縁戚にあたる高山飛騨守ダリオ(右近の父)の紹介を受けた、日本人宣教師ロレンソを城内に招き、城内に人を集めて宗教論争が展開されました。そして論争を終え、これを期に「蔵人殿」は、妻・子・兄弟・家臣など53名とともに受洗したと記録されています。
 余野には今もその城跡の梺に「オヤド」と呼ばれる小字があり、ここにかつては客を止める施設があったと考えられています。この場所で「宗教論争」が行われたと地元の研究家は考えておられます。そこに碑が建てられています。

追伸:永禄11年(1568)10月2日の織田信長による池田城総攻撃で、池田方として討死した足軽組頭「高山門内」は、この池田家と余野家から高山家に繋がる関連の人物だったのだろうかと少し気になっています。

 

 

大阪府豊能町余野にある高山ユスタ生誕地碑


大阪府豊能町にある摂津余野古城跡


大阪府豊能町高山にある伝高山マリア墓(摂津池田城主娘)

2022年10月17日月曜日

摂津池田家中の有力な家系、筑後守家と遠江守家について

1570年(元亀元)6月18日、摂津池田家中で内訌が発生し、官僚機構でもある池田四人衆の内、惣領池田筑後守勝正親派であった、池田豊後守正泰、同周防守正詮が殺害されて、事態は紛糾。勝正自身が城を出る程に深刻化しました。
 四人衆の構成員でもあった、豊後守正泰と周防守正詮が死亡したのは、その原因が定かではありません。勝正を裏切ったことにより、勝正自身が殺害したのか、勝正と対立する誰かによって殺害されたのか、真相は分からないのですが、私は、後者の理由によるものではないかと思います。反勝正派によって、勝正の側近が殺害されたと見ています。

また、この内訌後、間もなく、「民部丞」を名乗る人物が、勝正の後任として活動していることが見られ、これは池田家中の政変の度に見られる、遠江守家と民部丞家の人物であることから、この時ももう一つの有力家系である、遠江守家と民部丞家の台頭(活用とも)があったと思われます。
 殺害について、遠江守家グループを支持する人々による同意もあったと思われます。これにより、当主の殺害を避けつつ、家中での勝正親派を粛正し、強い意味を内外に表明したのだと思います。

時間を遡れば、勝正の惣領擁立自体も、四人衆権威の影響が大きく、勝正の惣領就任時の1563年(永禄6)3月にも内訌があり、四人衆の内、池田山城守基好、同十郎次郎正朝など8名が殺害されています。
 新たな惣領の就任時には、反勢力の整理が行われていた経緯もあるように思われます。

勝正の場合、惣領そのものの殺害が行われなかったのは、やはり、当時も主殺しは外聞が悪く、池田家の将来にも関わるブランド力の毀損に繋がる事を考えての事だと思います。もちろん、人情もあったでしょう。

勝正の動きを総合的に見れば、その前の惣領(信正・長正)に比べると、四人衆による後見の影響力が強い惣領権力であったと思われます。
 一方の四人衆は、自己の富裕と家系の存続は、運命共同体であり、この池田家を存続させなければ、自身の栄誉はありません。
 そのため、対外的な要因と、家中の欲求との整合性を合致させる必要があり、家中に対して、決断に対する説得力を帯びさせる工夫が必要になります。それが両立できなければ、承服されません。

特に家中騒動という、非常事態で常に表出するのが、筑後守系と遠江守系の有力両家の補完対処です。これは、実力のぶつかり合いと競争で、その時を凌ぐというよりは、四人衆という官僚組織が創設されてからは、半ば、お決まりのパターンのようになって、入れ替えが行われているように感じる情況も見られます。これは、深刻な家中対立を避ける意味があったのかもしれません。加えて、対外対応(混乱が長期化すれば攻め込まれるなどの懸念も)でもあり、家中の説得でもあったのではないかと思われます。
 現代社会でも使われる「二大政党政治」のような感覚かもしれません。

池田家を構成する人々に説明し、組織存続を図る基本要素を、方策を用いてその場を治めるには、この二大勢力の使い分けは、有効であったと思われます。これが、池田家政の官僚化の中で現れた現象ではないかと思われます。
 池田家が富裕になり繁栄するにあたり、上位権力との結びつきも年々深まるようになっていました。幕府の官僚機構との接点(天文21年2月13日付の本願寺日記では、飯尾新七郎なる人物が記録され、池田十郎兵衞の弟で、与力である。、としています。)もあった可能性もあり、制度の取り込みも行って、池田家中での応用も行われていたのかもしれません。
 次第に家政機関による内政の技術力も向上していたと考えられ、権限の集中や、より権威を高める動きもあったと思われ、惣領を決める上で、四人衆の権力体としての発言力の高まりが想定できます。

1570年(元亀元)6月、惣領筑後守勝正追放直後の7月、9月、11月に見られる「民部丞」による禁制は、池田家権力とも親密な場所である重要度を考えても、様式も踏襲されており、惣領格の人物です。しかしそれが、一旦廃されたと思われる動きを経て、再び元亀3年11月に民部丞が幕府に惣領として申請されて許されるに至っては、家中の権力の整理が行われたと思われます。その頃、池田四人衆を改め、欠員2名を補充せずに荒木村重を加えた3名体制となっていたのですが、この三人衆が、分裂します。血縁を持つ池田一族と新参の荒木村重などとの対立が深刻化します。
 民部丞を惣領として立て、遠江守も、池田家の重要人物として史料に見られるようになり、活動している様子がわかります。
 記録としては、対外的な文書によるものから類推する事になりますが、対外的な行動の前に、必ず身内での合意を取り付ける必要がある事から、それらは、一体化した行動であり、対外的なやりとりの文書の中に、その様子を読み取ることができると、考えるべきでしょう。

 

池田城跡公園(大阪府池田市)

摂津池田城の想像模型