2015年7月22日水曜日

研究用資料を製本して、本棚もスッキリ!

郷土研究をするのに、色々とコピーを取る事が多く、本棚の多くの面積(容積)を占めるようになってきています。
 私のように、限られた時代と人物を研究するだけでも多方面の資料をコピーする必要があるのですから、もっと広範に視点を持つ必要がある研究は相当な量になると思います。

資料としての書籍は、ある程度収まりが良いのですが、コピーしたものを整理して保存しておくのは、数が多くなると収まりも悪いし、見た目も悪いし、本棚上のインデックスとしての一覧性も悪く、何とかならないかと、長い間の悩みでした。

ところが最近、お手頃な値段で、コピー用紙束であっても1冊から製本をしていただける製本・印刷屋さんを見つけて、大助かり! ←どっかのテレビショッピングみたいですが...。

この長年の悩みが解消しつつあります。


(1)製本前の資料の状態

(2)「無線綴じ」で製本した状態 ※文字も本格印刷

(3)製本した資料の背の部分 ※紙がシッカリついて頑丈です

バインダーで留めていた頃は、見開きの部分がどうしても奥まってしまい、文字が読みづらい事もあったのですが、無線綴じ製本すると、あまり接合面が奥深く干渉しないので、難なく読めるようになりました。
 また、製本屋さんのプロの技で、ページを何度めくろうが、外れたりしなさそうな堅牢さです。やはりそういう専用のボンドがあるのでしょうね。
※実はこれが一番心配だったのですが、そんな心配は無用でした。頑丈です。

まあ、何と言っても、本棚に収まり、背の文字で一発視認ができるようになり、持ち運びも便利で、言うことなしです。本当に良い会社を見つけました。

ただいま、資料を鋭意、製本依頼中です。本棚もスッキリすると思うと、楽しみです。


追伸:ちょっと個人的には、将来的に論文集を出そうと思っているのですが、そういった事も対応してもらえるので、良い関係を作っておきたいと思っています。

【会社データ】
社名:株式会社大友出版印刷
所在地:〒544-0002 大阪市生野区小路3-11-9
URL:http://www.ohtomops.jp
連絡先:TEL(06)6751-2377
サービス内容:自費出版・自分史・ミニコミ誌・サークル誌・同人誌・卒業文集・学校新聞・各種テキスト・論文・各種パンフレット・ポスター・チラシ等
事業内容:製版業務・印刷業務・製本業務・版下業務
参考:製本についての同社公式説明ページ http://digital-work.co.jp/sassi/




2015年7月4日土曜日

信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について

私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。
 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。
 江戸時代でいうと「家老」と同等の立場のようで、官僚のような役割ももっていたようです。ただ、あらゆる点で中世は、江戸時代のように固定化した概念はあまりなく、その範囲も限定されたものでもなく、割と不規則だったように見えます。人物本位といったところがあると思います。
 その家老のような人物を4人選んだらしく、「四人衆(よにんしゅう)」と呼ばれる集団が、当主を補佐しています。そらからまた、この家老集団を出現させた需要として、池田信正が京都の中央政権に重く取り立てられ、同所に屋敷などを持つようになった事から、国元の政治を取り仕切る機関が必要になったからだと考えられます。

この四人衆時代の変遷があり、3期に分かれます。最後には内部分裂を起こし、池田家が解体となりますが、その最後まで中心的な役割を果たしていたのが池田紀伊守正秀です。
 以下に1期から3期までの四人衆の構成をご紹介します。

<第一期> (順不同)
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗山城守基好
 ・同苗十郎次郎正朝
当主と四人衆のイメージ画

<第二期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗周防守正詮
 ・同苗豊後守(正泰ヵ)

<第三期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・荒木信濃守村重

池田四人衆についての詳しくは「摂津池田四人衆の事」をご覧いただければと思いますが、この中心的な人物である池田紀伊守正秀については、生没年が不明です。私の守備範囲である年代の記録から判る範囲で、以下にご紹介します。
 ただ、没年については、1575年(天正3)以降、史料上に見られなくなりますので、その頃の可能性は高いと思います。この頃には随分と高齢だったとも想定されるため、その事も併せ考えると、没年の想定をこの頃に置くのも不自然では無いと思います。
 また近日に史料を上げて、詳しく正秀の行動をお知らせする事にしまして、ここではダイジェスト版でご紹介しようと思います。

◎池田家中政治の中心人物
当時の史料には「四人衆」との記述が多方面で現れる事から家政機関として、外部組織にも認知されていた事は確実です。
 そしてまた、その四人衆は「禁制」も多数発行しており、そこに4名の署名があって、正秀の名も見られます。それから『言継卿記』に、正秀が公家である山科言継の屋敷を訪ねて会談したりしており、外交の面でも広範囲に活動していたようです。
 池田家は、京都周辺の主要な重要都市に屋敷や拠点を持っていたいとようです。前記の京都を始め、和泉国の堺、摂津国平野にはあったようです。これは、正秀個人の所有なのか、池田家としての共同資産なのかわ分からないのですが、用件のある度にお寺などで宿泊するよりは、屋敷や拠点を持つことは便利ですし、重要です。その地域への出先機関ともなります。
 それからその他の地域でも、例えば、摂津国尼崎、同大坂、同冨田、同芥川城下、河内国飯森山城下など、大きな都市や軍事拠点には何らかの機関もあったと想定されます。本願寺宗が、各地に布教拠点を設けますが、これと同じような事は、宗教活動で無くても必要ですので、当時の通信事情を考えても、効率を考えればどうしても必要になって来ると思われます。
 
◎正秀の名前について
池田正秀の名前についてですが、中世と現代とでは社会的な慣習が異なります。個人は「家」を中心に活動し、生活しています。家は途切れずに続き、自分自身はその通過点であると考えているため、「生ききる」事に人生の価値を置いています。一方で、極まった時の「潔さ」という一面もあったと思います。どちらにしても、「後世」を意識しての価値観だと思います。
 さて、現代的に言うと、姓と名は、池田正秀です。しかし、その当時には社会的地位と現在の立場などが、名前の間に入ってきます。歌舞伎役者や落語家などの伝統芸能では、こういった習慣がまだ残っていますね。
 正秀は「紀伊守」という官途を名乗る家系だったようで、その官途を名乗ります。また、紀伊守を名乗る前段階の名前もあったりして、その時々の年齢や事情によって変わっていきますが、諱(いみな)はあまり変わりません。
 それから、跡継ぎが育ち、家の代表者を嫡男に譲る時が来れば、後見役となって入道(仏門に入るなど)となり、入道号を名乗ります。多分、「正行」は、正秀の嫡男で跡継ぎです。彼は父と同じく紀伊守を名乗っています。また、跡継ぎの事だけでは無く、何らかの理由で代表を退く場合にも入道となり、浮世から離れます。
 正秀の場合の入道号は「清貧斎」です。読みは多分、「せいひん」だと思います。「せいとん」という読み仮名を『言継卿記』に1箇所だけ書き込んであるのですが、せいとんの意味が分かりません。誤記ではないかとも思います。
 当時の史料を見ると「池田紀伊守入道」とあり、これは正秀を指します。時代によっては、同じ名乗りを記録していますが、その場合には諱(いみな)が重要な判断基準となります。
 それから、茶道や連歌に通じる場合、「斎号」というものを名乗ることがあります。正秀はその両方に秀でていた事から斎号も持っていたようで、「一狐」とも署名しています。これの意味はわからないのですが、狐(きつね)は、中国の伝説にも登場する妖怪だったり、イナリのような、神格化された信仰の要素など、日本には古くから身近な動物でした。正秀はそれらの要素の何かに注目して、斎号を取ったのだろうと思われます。
 ちなみに、正秀がいつ頃から入道号を名乗ったかというと、この長正が無くなった永禄6年初頭頃からでは無いかと考えています。対立はしましたが、当主長正は池田家のためによく働き、長正が亡くなる頃は、正秀が長正に心を寄せていて、その死亡を悼んだのではないかと思います。
 長正が死亡した直後と考えられる、永禄6年らしい2月27日付けの摂津国多田院僧衆へ宛てた音信では、勝正の書状に添えて四人衆が同内容の書状を発行しています。これに正秀は清貧斎と署名しています。

◎文化人としての活動
正秀は、連歌会にも出座し、多くの歌を残しています。織田信長が京都で政権を始動させる前、三好長慶がその座にありましたが、長慶は連歌を愛好しており、それらの歌会にも度々呼ばれています。
 一方で茶道にも通じ、様々な名物茶器も所有して、「清貧釜(せいひんがま)」など、彼の名を冠する茶道具もありました。堺商人の天王寺屋宗及などが記した茶席・茶道に関する史料『茶道古典全集』には、正秀の名が頻出しています。
 
◎武士・武人として
正秀など四人衆は、当主信正から勝正の代まで少なくとも3代に関わる活動をしていますので、その間に数多くの戦場を経験しています。その経験から後年には、戦場でも老練な作戦立案や目利きができたようです。
 『信長公記』によると、1569年(永禄12)正月の京都本圀寺・桂川合戦での機転の利いた手配りに正秀を褒めたと記述されています。これは池田衆の名代としての事だったのかもしれませんが、特記事項として取り上げられています。
 その2年後、1571年(元亀2)8月28日、今の茨木市で行われた大合戦「白井河原合戦」では、非常によく練られた作戦を成功させ、不利だった状況を見事に挽回しています。この時は三人衆時代で、その中心は正秀だったと見られます。

◎家中での発言力と求心力
1548年(天文17)5月6日、当主信正が、管領細川晴元から切腹を突然に命じられ、池田家中が混乱します。その時、四人衆が暫定的に当主の代行的役割を果たしますが、その時も家中の対立があって、暫く当主の一本化ができずにいました。その一方の当主を擁立していたのが四人衆でしたが、その四人衆が推す人物が病気などで死亡してしまい、結局は長正を当主にする事で決着します。
 四人衆は、当主格と対立もでき、「家」としての意思決定もできる機関であった事が、それを見てもわかります。
 当主の並存期間には、四人衆が独自に領内へ法度(禁制的なもの)を公布し、前当主信正に代わる、若しくは、同等の機関である事を公言しています。そこには四人衆を構成する正秀など4名の署名があり、地域社会に対する公権力を発動しています。

◎最期には幕臣に取り立てられる
数々の経験から、1573年(元亀4)初頭には、将軍義昭の近臣として、幕臣として取り立てられています。この頃には池田三人衆も分裂し、池田一族は幕府へ加担。対する荒木村重は小田信長へ加担して、それぞれの道を歩みます。
 皮肉な事に、両者は両陣営から重く取り立てられ、村重も将軍義昭方との交渉役として活動する事となります。実際に顔を合わす事もあったのかも知れません。
 この京都の中央政権内での将軍義昭と織田信長の分裂という極限状態で、両陣営から池田衆の取り組みが盛んに行われていた事が窺え、それは如何に池田家が地域ブランドを持っていたかを示す事実でもあります。
 その事を知る当時の記述があります。イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記した報告書『耶蘇会士日本通信』には、内藤如安(丹波国人)の都に着きたる日(3月12日)、池田殿兵士2,000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の来着に依り、都は少しく沈静せり。、とあります。
 これを率いる事ができたのはやはり、池田正秀を抜きにしては不可能で、池田衆が動いた事の京都市中の反応も、その当時の実力に相対するものだったと考えて、間違いは無いと思います。




2015年3月17日火曜日

戦国時代の影と闇(はじめに)

戦国時代とは、応仁の乱から徳川幕府の樹立で、争乱が一応沈静化するまでの期間を捉えてそう呼ばれています。
 基本的には話し合いで問題を解決をしようとはしますが、武力での解決も合法化させていた時代が戦国時代です。殺傷は日常的で、生きることは戦いでした。弱い者は生きていけません。
 現代と比べると野蛮で、危険な事も日常的に溢れていました。やはり、今の方が何においても優れており、平和で安全です。私は懐古主義でもなく、戦国時代好きでもありません。社会の歴史の発展を見る機会になればと、ちょっとコラムを考えてみました。過去を知り、今の社会の意味を実感する事にもつながればと思います。

(1)病気に苦しむ人々
(2)喧嘩から殺し合いになる事も日常的
(3)人質が串刺しになる時代
(4)海岸に生きたまま捨てられる赤ん坊
(5)海賊・盗賊に追いかけられる人々
(6)個人は組織に所属しなければ生きられない時代
(7)度々ある大火
(8)無政府状態となる争乱地域



2015年3月16日月曜日

キリシタンと摂津池田家(はじめに)

ポルトガル船が日本へ辿り着き、鉄砲の伝来となったとされる年が1543年。続いてキリスト教が日本へ上陸したとされる年が1549年。これらの経緯は学校でも教わり、日本人の多くが知るところです。しかし、その細かな地域との関わりまでは、知らない人が多いと思います。
 キリスト教伝道師は、地方での布教よりも、日本の首都での布教と地位の向上を企図し、京都とその周辺、堺などに拠点を設け、積極的に活動します。その為、年々京都とその周辺で信徒も増えていきます。その活動について、宣教師により克明に記録され、その中には池田氏についても記述が見られます。
 池田のヒト・モノ・コトとキリスト教について、以下の項目毎にご紹介してみたいと思います。

(1)摂津国余野殿の妻マリヤとその娘(高山)ジュスタ
(2)北摂地域とキリシタン
(3)荒木村重とキリスト教
(4)池田の都市とキリスト教



2015年3月15日日曜日

池田教正が関係していた可能性のある永禄10年2月の池田家内訌(はじめに)

池田丹後守教正は、「正」を持つその諱(いみな)、活動地域からして、摂津池田家出身の武将であろうとする説が有力なのですが、今のところ史料上の決め手が無く、結論が出ないまま、半ば放置状態です。
 私も個人的には、それらの説を概ね受け入れてはいますが、断定できる史料を見つけるに至っていません。1528年(大永8・享禄元)から1579年(天正7)までについて、私がこれまで見てきた中で池田教正に関する素材を集め、一旦整理をし、研究発展の今後に期待しつつ、多くのご意見を受けたいと思います。

(1)永禄10年2月の池田家内訌を見る
(2)三好義継・松永久秀の重臣だった池田教正
(3)キリシタンとしての池田教正
(4)茶の湯の記録に登場する池田教正
(5)荒木村重と池田教正
(6)河内国若江三人衆と池田教正



2015年3月14日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(備考:『荒尾市荒木家文書』天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状)

この史料については、写真があるので、許可や環境が整えば公開したいとも思っている。しかし、今のところ、文字のみをご覧頂く事にする。
 史料について、発表時の会報『村重』創刊号でも、若干の考証がされている。加えて、個人的にも専門家に聞いてみたが、「正文ではない」旨の回答だった。
 史料についての筆者の考えは論文にして述べた。もう少し補足するとすれば、この文書を受け継いだ人々の誰かが、重要な文書であるために、できるだけ復元しておこうと、朱印部分などを加えたりしたが故に、全体的な価値や判断を狂わせるような自体にせしめたのではないかと考えたりもした。

痕跡も無いものを作る事は困難だと思われる。何らかの端緒があって、また、そのものがあって、現存のカタチになっている事は間違いないと思う。それに、この一点だけが伝わっているのでは無く、村重に関する史料が数点(会報に掲載されているのは4点)、荒木家に伝わっているのである。

くどいようだが、筆者はこの史料の価値は、全く無いとは言えないと考えている。

以下、天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状の翻刻。

今度其の元忠節の事に依り、摂津国江(与?)河内之中相添え、都合四拾万石宛行われ候条、以後忠勤抽んずべく候也。

天正三年二月 (信長印)
    荒木摂津守殿








2015年3月13日金曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:おわりに)

天正7年10月3日付けのパードレ・ジョアン・フランシスコ書翰に、「其の(織田信長)臣下の一人にして二国の領主(摂津・河内を領せる荒木村重)たる者をして彼に叛起し数年来攻囲せる敵方(石山本願寺)に投ぜしめたり。」とある *20。この記述は、当時の状況を伝えるものであったのだろうと思われる。
 天正3年2月当時、信長が「摂津・河内」という重要地域の一職知行を村重に約した意図は、それによる京都(政権)の安定と大坂本願寺への布石として期待しためと思われる。織田政権の基礎作りにおいて、土着性を持つ村重に対し、摂津国に加えて河内(半)国をも任せたのは、特別な理由があった。
 それは信長が、複雑な政治情勢を考慮して、元々基盤のない畿内で分国を持つ事に慎重だったのではないかともされており、摂津国大坂に本拠を置く本願寺宗と敵対するについては、早急に在地勢力を取り込んで体制作りを行う必要があったためと考えられる。
 しかしながら、荒尾市荒木家文書の内容の問題としては、天正3年11月頃から村重は「摂津守」を公(おおやけ)に名乗るが、それ以前に信長が、公文書に摂津守を明記するかどうかという点がある。
 ただ、これまでに述べたように、織田政権の領国統治概念と当時の状況から考えると、有望で実質的な一職者である村重に対する、正式な(若しくは、新たな加増分の支配者として)一職知行契約の提示と考えるならば、時期的にも矛盾は無いように思われる。実際にこういった形の一職提示は、浦上宗景・三村元親 *21・播磨国守護系赤松氏などへの対応で多く見られる。
 先にも述べたように、天正3年11月には確実に、村重は自ら摂津守を公に名乗っているが、それは信長からの条件を満たした事で承認され、公的に摂津守を叙任した背景があったからなのかもしれない。
 何れにしても村重のその行動を支えたのは、地域内の一職契約と守護的裏付けがあったためと考えられる *22。また、然るべき時期に契約が提示された事は、村重の織田政権に対する、将来への基礎的な信頼関係構築ともなり得たであろう。

拙いながらも筆者が述べたように、文書自体の真偽は別としても、荒尾市荒木家文書については、それを発行するに至る、当時の政治環境が整っていように思えるのである。学界での研究論文の一部ではあるが、それらに照らしても、同文書(史料)は、公的な文書として成立する背景が全く有り得ないとは言い切れず、その可能性について筆者は、再び多角的な検証を行っても良いのではないかと考えるのである。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(20)八木哲浩編『荒木村重史料』伊丹資料叢書四(66頁)。
(21)「織田信長が八月五日付けで三村元親へ宛てた音信」『黄微古簡集』岡山県地方史研究連絡協議会。
(22)前掲註(6)、「三 一職支配=一円知行の本質」(補論)。







2015年3月12日木曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:二 村重の河内国との関係)

摂津・河内両国は、直接的に京都と接している事もあり、様々な面で非常に重要である。この点でも織田政権下では「摂河」という一体化した地域として促えられる事 *16も多々あった。
 永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山昭高が守護として領有していた。
 その後、将軍義昭と信長が争う中で三好氏は滅び、その重臣であった池田教正など若江三人衆といわれる人々が信長に従って、その支配を引き継いだ。しかし、この集団は地域の代表的人々であり、統率するというには身分や効率性、主導性に劣っていたように見える。
 こういった当時の状況もふまえ、荒木村重の人物的素要と個人的構想は、信長の目的に沿い、摂津国一職に加え、河内国の中・北部、則ち三好氏の支配地も信長から任された可能性があったように思われる。それについての要素がいくつか見出せる。
 信長は元亀元年から大坂本願寺に対峙するにあたり、その伏線上としても、自らの政権(構想)での直接管理が有利と考えると、キリスト教の布教について積極的に許可し、その動きの中で村重も、その領内において、その方針通りに追認する。
 河内国には元々、飯盛山城下を中心としてキリスト教徒の活動拠点が多く、こういった経緯も視野に入れて、同国内の本願寺宗への懐柔策ともしていたらしい。織田方が大坂本願寺を完全包囲するには、河内国の掌握が不可欠であった。
 それからまた、年記未詳4月6日付けで村重が、播磨国人らしき原右京進なる人物へ音信した中に、「安見」という名の人物が村重の使者として現れる *17。安見といえば思いつくのが、河内国北部の有力国人であり、同国で畠山氏が守護であった時代に側近を務めた一族である。
 その一致は現時点で確定的ではないが、村重と安見某が同時に史料上で確認できる事は、偶然とは考えられない。また、安見新七郎なる人物が、同地域の鋳物師集団も掌握している *18。河内鋳物師は全国的に知られた職人である。
 一方、天正2年4月11日付けで池田教正が、村重とも関係があるらしい栗山佐渡守の知行について、沙汰状を発行している *19
 このように村重の河内(半)国領有を想像させる関連要素は少なく無く、また、織田政権の当時の状況からも全く不自然とは考えられないのである。


【註】
(16)「織田信長が八月一七日付で長岡(細川)藤孝へ宛てた音信」等。『新修 大阪市史』第五巻(182頁)。
(17)「荒木村重が四月六日付で播磨国人らしき原右京進某へ宛てた音信」『小野市史』第四巻 (380頁)。
(18)「長雲軒妙相が安見新七郎宿所へ宛てた音信」『中世鋳物師史料』財団法人法政大学出版局(171頁)。
(19)『尼崎市史』第四巻 (297頁)。







2015年3月11日水曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:一 摂津国統一過程と周辺環境)

荒尾市荒木家文書にある天正3年2月頃は、その宛先である荒木村重にとって、どのような環境であったのか考えてみたい。先ず、その背景としての経過と前年の様子を俯瞰してみる。
 天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依然、畿内とその周辺において義昭の影響力は強かった。摂津国内の旧政権守護格である池田・伊丹氏と大坂本願寺の動き、近江国では六角氏、伊勢国長嶋の本願寺宗、甲斐国守護武田氏の西進、安芸国毛利氏の東進の動きがあり、信長は対抗勢力に、速やか且つ、根本的な対応が必要であった。
 そんな中で村重は、池田・伊丹氏を制圧し、大坂本願寺も軍事的な封じ込めに成功。そして村重は、有馬郡守護の有馬氏を除いて、天正3年夏頃には、ほぼ国内を掌握して伊丹・花隈等の要所に城を築いて整備も行った。
 同時に織田方も伊勢国長嶋を制圧、近江国の六角氏勢力を壊滅させる等、可能な要素から各個対応を行った。残る要素へも十分な準備を整えて、計画通りに進めていたのだった。
 そして天正3年、信長はその計画を実行する。2月、部将となった明智光秀が丹波国へ進攻。他方、3月は河内国へ侵攻し、翌月に高屋城を降した。5月、三河国長篠で武田勝頼を破り、8月には越前国など北陸方面の一向宗を制圧。
 このように織田方は、畿内諸勢力と繋がる周辺勢力を撃破したため、孤立を深めた大坂本願寺方から和睦を引き出す程の優位に立った。また、信長はこの間に、京都で徳政令を発布。これは前例に無い程、大規模な対応を朝廷・権門へ実施し、政治的な対策も怠らなかった *15
 織田政権は、天正2年から翌年にかけて、体制作りと軍事的目標への決戦準備を行い、着実に達成させていた。村重もその計画通りに行動し、軍事・政治共に同政権を支えたのだった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(15)前掲註(6)、「二 天正三年徳政令と新知進献」(第四章 第一節)。







2015年3月10日火曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:二 柴田勝家の場合)

織田信長は将軍義昭の追放を決して以降、独自に「天下」を掌握しようとした頃から、一職支配・守護補任をし始める。長岡(細川)藤孝に山城国桂川西岸地域の一職を与え、塙(原田)直政に山城・大和国の守護を与えている。直政の両国守護は、当時でも前代未聞としている。
天正3年9月、信長は重臣の柴田勝家を越前国に封じた。その際、信長により「越前国掟条々」との朱印状を与え、織田政権下の一職支配において、統一権力としての支配原則とそれを委ねられた武将の関係を規定している。
 その中では、大綱をいくつかに分けて記されているが、特に第六条に「大国を預置」とし、それに対し「越前国之儀、多分柴田令覚悟候」とある事に脇田氏は注目している。これは、信長にとって越前国を柴田に預けたのであり、いつでも返却の義務を負うとの意味であるとしている。また、信長はかかる家臣への支配を、より強力にするために「目付」を置いている。
 しかし、一方で信長は、そういった任免権を完全に掌握しつつ、地域采配での一定の裁量権を柴田に与えている。これにより柴田は検地を行った上で、実際に知行の宛行いを執行する事も、一職支配には含まれていたと分析されている *14
 このように、一職支配下の地域においても信長が掌握しており、信長は上級土地所有権を確保しながら、政策の徹底管理をし、更に、人間関係をも規定して、管理不行き届きによる離脱や変転を未然に防ぐ策を講じていた。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(14)前掲註(5)、「二 統一権力と一職支配」(第三章 第一節)。