摂津・河内両国は、直接的に京都と接している事もあり、様々な面で非常に重要である。この点でも織田政権下では「摂河」という一体化した地域として促えられる事 *16も多々あった。
永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山昭高が守護として領有していた。
その後、将軍義昭と信長が争う中で三好氏は滅び、その重臣であった池田教正など若江三人衆といわれる人々が信長に従って、その支配を引き継いだ。しかし、この集団は地域の代表的人々であり、統率するというには身分や効率性、主導性に劣っていたように見える。
こういった当時の状況もふまえ、荒木村重の人物的素要と個人的構想は、信長の目的に沿い、摂津国一職に加え、河内国の中・北部、則ち三好氏の支配地も信長から任された可能性があったように思われる。それについての要素がいくつか見出せる。
信長は元亀元年から大坂本願寺に対峙するにあたり、その伏線上としても、自らの政権(構想)での直接管理が有利と考えると、キリスト教の布教について積極的に許可し、その動きの中で村重も、その領内において、その方針通りに追認する。
河内国には元々、飯盛山城下を中心としてキリスト教徒の活動拠点が多く、こういった経緯も視野に入れて、同国内の本願寺宗への懐柔策ともしていたらしい。織田方が大坂本願寺を完全包囲するには、河内国の掌握が不可欠であった。
それからまた、年記未詳4月6日付けで村重が、播磨国人らしき原右京進なる人物へ音信した中に、「安見」という名の人物が村重の使者として現れる *17。安見といえば思いつくのが、河内国北部の有力国人であり、同国で畠山氏が守護であった時代に側近を務めた一族である。
その一致は現時点で確定的ではないが、村重と安見某が同時に史料上で確認できる事は、偶然とは考えられない。また、安見新七郎なる人物が、同地域の鋳物師集団も掌握している *18。河内鋳物師は全国的に知られた職人である。
一方、天正2年4月11日付けで池田教正が、村重とも関係があるらしい栗山佐渡守の知行について、沙汰状を発行している *19。
このように村重の河内(半)国領有を想像させる関連要素は少なく無く、また、織田政権の当時の状況からも全く不自然とは考えられないのである。
【註】
(16)「織田信長が八月一七日付で長岡(細川)藤孝へ宛てた音信」等。『新修 大阪市史』第五巻(182頁)。
(17)「荒木村重が四月六日付で播磨国人らしき原右京進某へ宛てた音信」『小野市史』第四巻 (380頁)。
(18)「長雲軒妙相が安見新七郎宿所へ宛てた音信」『中世鋳物師史料』財団法人法政大学出版局(171頁)。
(19)『尼崎市史』第四巻 (297頁)。
永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山昭高が守護として領有していた。
その後、将軍義昭と信長が争う中で三好氏は滅び、その重臣であった池田教正など若江三人衆といわれる人々が信長に従って、その支配を引き継いだ。しかし、この集団は地域の代表的人々であり、統率するというには身分や効率性、主導性に劣っていたように見える。
こういった当時の状況もふまえ、荒木村重の人物的素要と個人的構想は、信長の目的に沿い、摂津国一職に加え、河内国の中・北部、則ち三好氏の支配地も信長から任された可能性があったように思われる。それについての要素がいくつか見出せる。
信長は元亀元年から大坂本願寺に対峙するにあたり、その伏線上としても、自らの政権(構想)での直接管理が有利と考えると、キリスト教の布教について積極的に許可し、その動きの中で村重も、その領内において、その方針通りに追認する。
河内国には元々、飯盛山城下を中心としてキリスト教徒の活動拠点が多く、こういった経緯も視野に入れて、同国内の本願寺宗への懐柔策ともしていたらしい。織田方が大坂本願寺を完全包囲するには、河内国の掌握が不可欠であった。
それからまた、年記未詳4月6日付けで村重が、播磨国人らしき原右京進なる人物へ音信した中に、「安見」という名の人物が村重の使者として現れる *17。安見といえば思いつくのが、河内国北部の有力国人であり、同国で畠山氏が守護であった時代に側近を務めた一族である。
その一致は現時点で確定的ではないが、村重と安見某が同時に史料上で確認できる事は、偶然とは考えられない。また、安見新七郎なる人物が、同地域の鋳物師集団も掌握している *18。河内鋳物師は全国的に知られた職人である。
一方、天正2年4月11日付けで池田教正が、村重とも関係があるらしい栗山佐渡守の知行について、沙汰状を発行している *19。
このように村重の河内(半)国領有を想像させる関連要素は少なく無く、また、織田政権の当時の状況からも全く不自然とは考えられないのである。
【註】
(16)「織田信長が八月一七日付で長岡(細川)藤孝へ宛てた音信」等。『新修 大阪市史』第五巻(182頁)。
(17)「荒木村重が四月六日付で播磨国人らしき原右京進某へ宛てた音信」『小野市史』第四巻 (380頁)。
(18)「長雲軒妙相が安見新七郎宿所へ宛てた音信」『中世鋳物師史料』財団法人法政大学出版局(171頁)。
(19)『尼崎市史』第四巻 (297頁)。
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