2015年3月1日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(序文)

個人的に本会会員のM.A.氏と親しく、色々と意見交換する中で、会報『村重』創刊号の「熊本県荒尾市の荒木氏系図」の話題となり、お手持ち分から該当項を送って頂いた。
 その中の史料で、織田信長が天正3年11月付けで、摂津・河内国内に都合40万石を荒木村重へ宛て行うとした朱印状(以下、荒尾市荒木家文書と表記)に興味を持った。但し、同じくM.A.氏提供の同文書の写真を見ると、月付けは11月では無く、2月である事が判明した。
 そしてまたこの伝承文書については、同文中で見解が示されており、「これは朱印が薄くはっきりしなかった。もうひとつは宛行状の文面にある「四十万石」が、当時のものとしては問題がありそうだということであった。これはそうであろうと思われる。つまり、この頃は近世のように検地による正確な測量が行われていないので、小規模な丈量はしても、大規模な領知を石高によってあらわすことはしなかったと考えられる。」とある。
 しかしながら、「このような問題はあるが、荒木氏に関する文書が同家に伝わった事については、何らかの大きな意味があるはずである。」と完全に否定できない背景や、何らかの可能性があるとの考えも添えられている。

信長文書としての真偽の吟味は別として、筆者もまた、この荒尾市荒木家文書について、内容の成立環境が整っていた可能性があり、人間的信用や当時の社会的契約としても、妥当な事実が存在した痕跡ではないかと考えてみた。
 また、今回はこれまでのように個人研究の中から探求する方法に加え、既に専門家の詳細な研究が存在する事から、それらを組み合わせて紹介する事で、限られた字数によって大きなテーマを考察するには効果的であると考えた。以下、脇田修氏や橋本政信氏の論文を中心に取り上げながら、その根拠を述べてみたい。








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