永禄12年8月13日、池田勝正など幕府勢は、但馬・因幡国守護の山名祐豊を討伐し、伯耆国など周辺で影響力を持つ尼子氏勢力にも備えるための布石を打って帰途につきます。
しかしこれは、幡州青山の合戦で、友軍であった龍野赤松政秀勢が敗退したため、退路を断たれる恐れもあって、播磨方面へ後退したものとも考えられます。ちょうど幸いに、山名祐豊の居城である此隅城を落とした事で目的は達成されており、幕府方の撤兵は外聞としても不自然でありません。
そんな中で、幕府方の検使(目付)であった朝山日乗が、同月19日付けで、毛利元就・同被官福原貞俊・同児玉元就・同井上春忠・元就衆小早川隆景・同被官口羽通良・同牛遠・同山越・元就衆吉川元春・同被官桂元重・同井上就重・元就衆同名輝元・同被官熊谷高直・同天野隆重へ宛てて音信します。
この内容は大変興味深い内容です。以下その内容を抜粋で紹介します。
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(前略)
一、出雲・伯耆・因幡三カ国合力為し、則ち、木下藤吉郎秀吉・坂井右近政尚人に五畿内衆20,000計り相副えられ、日乗検使の為罷り出、但馬国於銀山を始めとして、子盗(此隅)・垣屋城、10日の内18落去候。一合戦にてこの如く候。但馬国田結庄・同観音寺この両城相残り候。相城申し付けられ候。山下迄も罷り下らず、近日一途為すべく候。御心安かるべく候。一、備前・美作両国御合力の為、木下助右衛門尉・同名助左衛門尉定利・福島両三人、池田筑後守勝正相副えられ、別所小三郎長治仰せ出され、是も日乗検使罷り出、20,000計りにて罷り出、及び合戦。増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ケ所落去候。置塩・御着・曽祢懇望半ばに候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。只今小寺政職相拘わり候条、重ねて柴田勝家・織田掃部助忠寛(信昌)・中川重政・丹羽五郎左衛門尉長秀四頭申し付けられ候。15,000之あるべく候。近日為すべく候間、即時に小寺・宇野申し付け、(竜野)赤松下野守政秀一統候て、備前国三石に在陣仕り、宇喜多河内守直家・備中国人三村元親と申し談じ、備前国天神山根切り仰せ付けられるべく候。只今者播磨国庄山に陣取り候。
(中略)
左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。
(後略)
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通信内容は、事実である部分とそうでない部分が入り混じっています。不利な情況は伝えていませんし、更に伊勢方面から15,000の軍勢を播磨国へ入れると伝えています。しかし、この時点で実現は難しい誇張表現があります。実際にそれは行なわれていません。
興味深いところを少し見てみましょう。
「置塩・御着・曽祢懇望半ば候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。」との一節は、交渉と軍事的圧力で、屈するだろうとの見通しを立てているようです。更に、播磨国人の小寺・宇野氏(この時は敵方なのだが)に命じて、龍野赤松氏と合流し、備前国天神山に居城するに浦上宗景を討つ、と言っています。
その時、宗景の重臣である宇喜多直家や毛利方の備中国人三村元親も幕府方に加わる、としています。そして「根切り」、皆殺しにする、と伝えています。
実際、9月になると宇喜多直家は、浦上氏から離れて乱を起こします。幕府方は調略を行っていたのでしょう。
また同時に、「五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め」と、毛利元就へ支配領域の宣言を行っています。この時点で幕府は、いずれの国でも全域に支配が及んでおらず、不完全なままでしたが、勢力範囲を明確化させています。
そして更に「阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。」とつけ加え、更なる領域の拡大方針までも示しています。これらは毛利氏にとって、あまり面白くない動きだとは思います。九州の大友氏との調停を幕府に依頼する引き換えとして、どさくさ紛れに、毛利氏の弱みにつけ込んだような感もあります。
幕府が、永禄12年夏に播磨へ侵攻した理由は、そういった毛利氏との密約のようなものもあり、同時に領域の拡大もありました。
ですので、10月に池田衆が幕府方として再び播磨国へ入っていますが、幕府勢は夏の侵攻をきっかけに進駐して、軍勢をとどまらせたと考えられます。当番制などで、一定数を保っていたのでしょう。
10月14日付けで織田信長は加古庄に宛てて禁制を下します。宇喜多直家の調略も成功し、目途が立った事から、幕府方は再び軍事功勢を強めます。詳しい事は解らないのですが、同月26日、池田勝正など摂津衆が再び播磨国へ出陣し、室山(室津)城・乙(おと)城などを攻撃しています。
これは、三好三人衆とも同盟する浦上宗景方への攻撃で、播磨国から追い出す目的があったようです。同時に重臣の宇喜多氏の反乱も起きた事で、毛利方からの圧迫を強烈に受ける事になり、たまらず浦上氏は降伏します。
この時、幕府勢は瀬戸内海沿いを進んだらしく、英賀などこの方面の国人も幕府方に味方するようになっていたようで、海陸の通路を利用したと思われます。
それから、この時ちょっと奇妙な事件が起こります。池田衆が龍野方面に出陣していたのですが、その道中に鵤荘があります。池田衆はこの荘内に乱暴をはたらき、「御太子絵」を池田に持ち帰ったというのです。
しかし、元亀2年になって「色々と不吉な事が起こるのは、絵を持ち帰った事だろうから返す」といって、池田衆は斑鳩寺仏餉院に伝えています。
どうして池田家の一部が乱暴を働いたのか、よくわかりません。幕府に何度も徴用・動員され、不満が募っていたのかもしれませんね。将軍義昭方となり、守護格に取り立てられましたがそれから1年、休む間もなく幕府のために働かされています。
池田衆はこの後間もなく帰途についたようです。11月頃と思われます。今のカレンダーでいうと、12月中頃の寒い時期です。
しかしこれは、幡州青山の合戦で、友軍であった龍野赤松政秀勢が敗退したため、退路を断たれる恐れもあって、播磨方面へ後退したものとも考えられます。ちょうど幸いに、山名祐豊の居城である此隅城を落とした事で目的は達成されており、幕府方の撤兵は外聞としても不自然でありません。
そんな中で、幕府方の検使(目付)であった朝山日乗が、同月19日付けで、毛利元就・同被官福原貞俊・同児玉元就・同井上春忠・元就衆小早川隆景・同被官口羽通良・同牛遠・同山越・元就衆吉川元春・同被官桂元重・同井上就重・元就衆同名輝元・同被官熊谷高直・同天野隆重へ宛てて音信します。
この内容は大変興味深い内容です。以下その内容を抜粋で紹介します。
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(前略)
一、出雲・伯耆・因幡三カ国合力為し、則ち、木下藤吉郎秀吉・坂井右近政尚人に五畿内衆20,000計り相副えられ、日乗検使の為罷り出、但馬国於銀山を始めとして、子盗(此隅)・垣屋城、10日の内18落去候。一合戦にてこの如く候。但馬国田結庄・同観音寺この両城相残り候。相城申し付けられ候。山下迄も罷り下らず、近日一途為すべく候。御心安かるべく候。一、備前・美作両国御合力の為、木下助右衛門尉・同名助左衛門尉定利・福島両三人、池田筑後守勝正相副えられ、別所小三郎長治仰せ出され、是も日乗検使罷り出、20,000計りにて罷り出、及び合戦。増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ケ所落去候。置塩・御着・曽祢懇望半ばに候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。只今小寺政職相拘わり候条、重ねて柴田勝家・織田掃部助忠寛(信昌)・中川重政・丹羽五郎左衛門尉長秀四頭申し付けられ候。15,000之あるべく候。近日為すべく候間、即時に小寺・宇野申し付け、(竜野)赤松下野守政秀一統候て、備前国三石に在陣仕り、宇喜多河内守直家・備中国人三村元親と申し談じ、備前国天神山根切り仰せ付けられるべく候。只今者播磨国庄山に陣取り候。
(中略)
左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。
(後略)
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通信内容は、事実である部分とそうでない部分が入り混じっています。不利な情況は伝えていませんし、更に伊勢方面から15,000の軍勢を播磨国へ入れると伝えています。しかし、この時点で実現は難しい誇張表現があります。実際にそれは行なわれていません。
興味深いところを少し見てみましょう。
「置塩・御着・曽祢懇望半ば候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。」との一節は、交渉と軍事的圧力で、屈するだろうとの見通しを立てているようです。更に、播磨国人の小寺・宇野氏(この時は敵方なのだが)に命じて、龍野赤松氏と合流し、備前国天神山に居城するに浦上宗景を討つ、と言っています。
その時、宗景の重臣である宇喜多直家や毛利方の備中国人三村元親も幕府方に加わる、としています。そして「根切り」、皆殺しにする、と伝えています。
実際、9月になると宇喜多直家は、浦上氏から離れて乱を起こします。幕府方は調略を行っていたのでしょう。
また同時に、「五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め」と、毛利元就へ支配領域の宣言を行っています。この時点で幕府は、いずれの国でも全域に支配が及んでおらず、不完全なままでしたが、勢力範囲を明確化させています。
そして更に「阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。」とつけ加え、更なる領域の拡大方針までも示しています。これらは毛利氏にとって、あまり面白くない動きだとは思います。九州の大友氏との調停を幕府に依頼する引き換えとして、どさくさ紛れに、毛利氏の弱みにつけ込んだような感もあります。
幕府が、永禄12年夏に播磨へ侵攻した理由は、そういった毛利氏との密約のようなものもあり、同時に領域の拡大もありました。
ですので、10月に池田衆が幕府方として再び播磨国へ入っていますが、幕府勢は夏の侵攻をきっかけに進駐して、軍勢をとどまらせたと考えられます。当番制などで、一定数を保っていたのでしょう。
10月14日付けで織田信長は加古庄に宛てて禁制を下します。宇喜多直家の調略も成功し、目途が立った事から、幕府方は再び軍事功勢を強めます。詳しい事は解らないのですが、同月26日、池田勝正など摂津衆が再び播磨国へ出陣し、室山(室津)城・乙(おと)城などを攻撃しています。
これは、三好三人衆とも同盟する浦上宗景方への攻撃で、播磨国から追い出す目的があったようです。同時に重臣の宇喜多氏の反乱も起きた事で、毛利方からの圧迫を強烈に受ける事になり、たまらず浦上氏は降伏します。
この時、幕府勢は瀬戸内海沿いを進んだらしく、英賀などこの方面の国人も幕府方に味方するようになっていたようで、海陸の通路を利用したと思われます。
それから、この時ちょっと奇妙な事件が起こります。池田衆が龍野方面に出陣していたのですが、その道中に鵤荘があります。池田衆はこの荘内に乱暴をはたらき、「御太子絵」を池田に持ち帰ったというのです。
しかし、元亀2年になって「色々と不吉な事が起こるのは、絵を持ち帰った事だろうから返す」といって、池田衆は斑鳩寺仏餉院に伝えています。
どうして池田家の一部が乱暴を働いたのか、よくわかりません。幕府に何度も徴用・動員され、不満が募っていたのかもしれませんね。将軍義昭方となり、守護格に取り立てられましたがそれから1年、休む間もなく幕府のために働かされています。
池田衆はこの後間もなく帰途についたようです。11月頃と思われます。今のカレンダーでいうと、12月中頃の寒い時期です。