2025年10月19日日曜日

元亀元年(1570)、摂津国大坂本願寺一揆の理由

浜口誠至氏の研究などによると、公卿三条公頼(転法輪流)の3人の娘が、細川右京大夫晴元(永禄6年3月没)、本願寺顕如光佐、甲斐守護武田晴信へ嫁いだとしている。
 これにより、元亀元年の大坂本願寺一揆は、管領格細川晴元の嫡子六郎の窮地を救う目的、すなわち血族の救済を理由に起こしたのではないかとの推定をする研究者もある。同年、三好三人衆は、大挙京都の奪還を目指して軍勢を摂津国中嶋内の野田・福島へ進めたが、幕府・織田信長勢に圧されて軍事的に劣勢となっていた。
 しかし、9月12日夜、大坂本願寺が教団をあげて一斉蜂起し、結果的には、その窮地を救うと共に旧中央政権である三好三人衆方の復権に加担するなった。

この大坂本願寺宗の武力蜂起に至る理由は、複合的であろうと思われるが、筆者は「教団の自衛」が第一義であり、その達成のために味方としての縁故をたぐり寄せた結果であったのが、実際であるようにみえる。以下、それに関する動きを史料をあげつつ考えてみたい。

この頃の本願寺宗(法主は光佐)は、三好三人衆方との交流を持っていないと思われる。少なくとも「顕如上人文案」集には見あたらない。

第十四代室町将軍義栄
永禄11年(1568)秋、足利義昭を奉じた織田信長が、京都へ大挙攻め上り、その時の中央政権であった三好三人衆の奉じる将軍義栄を駆逐してしまった。
 その後、危なげながらも信長の推す将軍義昭政権が幕府の体を保ち続けて、京都での政権を維持していた。これが元亀年間の激しい争いを経て、幕府の内紛を治めた信長が、「天正」と改元して、永年の闘争を終わらせた。

元亀元年(1570)9月12日夜、大坂の本願寺宗は、それまでの中央政権との融和方針を覆し、一斉武装蜂起に踏み切る。

時を少し遡る。

◎将軍義昭政権樹立当初の本願寺宗は、融和的な方針だった
永禄12年(1569)11月20日、本願寺光佐が、幕府奉行人明智光秀へ音信している。これは阿波国の本願寺宗門徒が、三好三人衆方に加担しない旨、その方針を伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(1)----------------
【本文】
御内書之趣き拝見致し候。仍て阿波国表之儀、門下之族此之方依り申し付け為、馳走致す之由、曾(すなわ)ち分別以て能わず候。惣別此の如く之段、双方合力助言之儀、一切之無き事候。此れ等之旨然るべく様申し入れせしむべく給い候。恐々謹言。
【注釈】
此の時之御使梅咲軒也。表書彼の御使よりこのみによって此の如く沙汰外…。
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また、同年12月28日付けの光佐の音信は、正親町三条公兄へ宛てられており、幕府からの命令による加賀国軽海郷(現石川県小松市軽海町)の領知返還について伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(2)----------------
(鳥)寔に未だ申し通さず処、御札本懐之至り候。抑も御家領加賀国軽海郷事、 綸旨並びに武家御下知之旨蒙り仰せ候。此の方に於いて更に疎略無く候間、御心安かるべく候。随而三種三荷送り給わり候。恐悦之至りに候。是れ従り又三色三荷推し之進め候。猶下間丹後法印申し入れるべく候。恐々謹言。
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史料の(1)と(2)は、時の本願寺法主が、阿波国三好家の奉じる管領細川家と公卿三条家(転法輪流)との血縁があることを既知で、それに幕府が対策を行っていると思われる。
 それ故に、本願寺光佐の書札集には、管領格細川六郎への音信が、一揆直後の暮れ(元亀元年)の挨拶まで確認できない。
 一方、元亀元年(永禄13)1月内までは、織田信長や幕府要人に新年の挨拶を行い、友好の絆の維持に気を配っている。
※本願寺日記(下)P590

---史料(3)----------------
1月7日付:(織田信長宛て)
新春之嘉祥、更に休尽有るべからず候。仍って太刀一腰(金)馬一疋之推し進め候。表祝儀計りに候。猶下間丹後法印申せしむべく候也。穴賢。
1月16日付:(三淵伊賀守入道宛て)
(鳥)新暦之祝儀為、御太刀一腰(金)並びに御折十合、柳十荷之献じ候。宜しく洩れ申し入れせしめ給わり候。恐々。
【注釈】三淵へ樽代百疋。飯尾大和守、諏訪信濃守二人へ百疋づつ。伊勢守へ一腰、以上例年之儀也。下間丹後法印書状之遣わす。
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現大阪城内にある本願寺跡顕彰碑
◎織田信長が、本願寺宗へ大坂本拠からの退居を要求した

しかし、この頃、信長が本願寺宗に対して、大坂からの退居を要請したという。この史料の現存は確認できないものの、それを裏付ける複数の一次史料が複数現存しているため、退居要請は事実であろうと考えられている。これに関する史料をいくつかあげてみる。元亀元年8月22日付、光佐が紀伊国坊主衆中・門徒中へ宛てた音信みてみる。
※本願寺日記(下)P623

---史料(4)----------------
今般、越前国へ敵乱入之由候。此の上者、当寺之一大事籠城きはまり(究まり)無く候。然れば、何方(いずかた)もたのむべき様体無きにつきて、此の度懇志を励み、一途に籠城候べき心懸け之衆申し合わせ参上候はば、誠に以て難有り。弥々たのもしき次第為るべく候。就中珍からず候へ共、法儀の談合候て、安心決定の上には、弥々油断無く嗜み候べく候。不信の面々は、片時も急い而信をとられ候はば、有り難かるべく候。猶端坊(不明な人物)申し伝えるべく候。穴賢。穴賢。
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◎本願寺宗、一斉武力蜂起の準備行動
本願寺宗の武力蜂起は、9月12日とされる。それよりも1ヶ月前に、準備のためもあり、紀伊国方面の有力者へ決意表明をしている。
 続けて、本願寺宗の越中国瑞泉寺顕秀が、坪坂伯耆守入道(越前朝倉氏被官か)へ摂津国方面の様子を伝えている。
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519

---史料(5)----------------
前置き:
猶々京都へ御着き、慥かに示し下し候。有り難く存じ奉り候。将亦新五郎殿(不明な人物)御所労ハ、御本復の儀候哉。御心之無く存じ候。尤も書状以て申し上げるべく候共、此の由伝達頼み入り候。態と示し預け候。本望候。
本文:
態と本望示し預かり候。一、大様(意味は不明)19日之立ち、御着き御無事。殊更御門跡様御健気御座候儀、有り難く存じ候。一、去る18日(8月18日)上野法橋父子・刑法・筑法・按法、摂津国中嶋迄三好供候て御出馬、所々放火候て、納馬の儀、いよいよ御張りの段、珍重候。一、京表の儀、上意御用心の由、併せて当方いよいよ堅固之故候哉。重而之御一着候。示し給うべく候。一、此の口の儀、先ず以て異儀無く候。昨日者敵相働き、今夜者頻りに鉄砲戦に及びの事候き。相替り事候ハバ、申されるべく候。一、近江国北部の儀、如何聞き得申し候哉。越前朝倉(左衛門督)義景一段手強きの由申し候間、然るべく候。一着候者、後使承るべく候。楮以て追而申し述べるべく候。恐々謹言。
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この音信によると、8月18日には本願寺勢が、摂津国中嶋で三好三人衆勢と共に放火などの武力行使を既に行っている。

◎法主光佐が武力蜂起を決意した事について、関係者への表明
そして、9月2日付、光佐が美濃国郡上惣門徒中へ宛てて音信し、織田信長に対して武力抵抗を行う旨を伝えている。
※岐阜県史(史料編:古代・中世1)P898

---史料(6)----------------
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難渋懸け申し付けて、随分扱い成りと雖も彼の方へ応じ候。其の詮無く破却すべく由慥かに告げ来たり候。此の上は力及ばず候。然ら者、開山之一流、此の時退転無き様、各不顧身命(不惜身命)、忠節抽んずべく事有り難く候。若し沙汰無き輩者、長に門徒為るべからず候。併せて馳走頼み入り候。穴賢。
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◎武力蜂起実行の檄文を各地へ発送
同月6日付、光佐は近江国中郡門徒中へ宛てて武力蜂起の檄文を送る。当時の一次史料『尋憲記』でもそれは触れられている。
※本願寺教団史料(京都・滋賀編)P13、八尾市史(史料編)P181

---史料(7)----------------
『本願寺教団史料』:
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題懸け申し付けて、随分扱い成り。彼方(向こう・あちら)応じと雖も候。其の專(何よりも大切なこと)無く、破却すべく由、慥かに告げ来たり候。此の上、力及ばず。然れば、此の時開山之一流退転無き様、各身命を顧みず、忠節抽んぜられるべき事、有り難く候。併せて馳走頼み入り候。若し無沙汰輩者、長に門徒為るべからず候也。穴賢。穴賢。
『尋憲記』9月6日条:
一、世上之説大坂より諸国へ悉く一揆起り候へと申し触れ候由沙汰候。
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この音信では、開戦の理由を具体的に述べられており、信長が大坂本願寺の居所退居を迫った事実を伺わせるのである。

宣教師筆とされる信長像
◎織田信長の軍事的攻撃目標は、三好三人衆ではなく本願寺だった

一方、軍記物ではあるが、『陰徳太平記』に興味深い記述がある。
※陰徳太平記(東洋書院)P54

---史料(8)----------------
信長大坂出張並びに所々合戦条:
(前略)9月4日、播磨国三木の別所孫右衛門尉、百五十騎、紀伊国畠山方玉置、湯河よりも軍兵一千余騎信長へ加勢す、同日の晩(くれ)に至りて公方義昭卿御下向有りて、欠郡中嶋の内、堀と云う所、細川右馬頭藤賢の城へ入り御有りて、旗本二千計りにて御座す。かかれは都合寄せ手の勢六万余騎に成りけり。抑(そもそも)今度信長大坂出張り指し当たる所は、三好退治たりと雖も、実は石山本願寺を攻められるべく謀計とぞ聞こえける
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織田信長は、三好三人衆を主たる敵とはしておらず、実は大坂本願寺を討つ目的があったというのである。これは、越前朝倉氏攻めでも同じ手を使っており、表向きは若狭国の「武藤氏討伐」を謳っていた。

◎大坂本願寺城下に近衛前久が身を寄せる
一方この頃、大坂本願寺内に公卿の関白近衛前久が身を寄せており、前久は将軍義栄政権樹立に貢献していた。この為に処刑される事を恐れ、丹波国黒井城を経て、本願寺方に逃げ込んでいた。9月10日、二條宴乗が、大坂にて前久に面会している。
※ビブリア53号P157(二條宴乗記)

---史料(9)----------------
9月10日条:
天晴。下■へ朝飯に参られるべく由伝え之有り。河伊同道候て参る。其の前に中路へ参る。朝飯色々罷り帰る。河伊にて又酒有り。其れより摂津国大坂へ参る。関白(近衛前久)殿様へ油煙三丁。一、上臈へ一丁。進左へ一丁。明日、河内国枚方へ参るべく由仰せ出され、御請け申す。
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前久は、将軍義昭や信長に対して敵愾心を抱いており、大坂から日本全国各地の有力者に工作を行っていた。
 そんな中、光佐は、前久と関係の深い公卿西洞院殿へも9月29日付で音信している。しかしこの頃、西洞院家は、永禄9年に無嗣による中断中であったらしいが、家人は活動していたらしい。
※本願寺日記(下)P591

---史料(10)----------------
【本文】
(引)尊書拝見せしめ候。抑当山御滞留之段、御忍びに依り只今承り様候。驚き存じせしめ候。仍て仰せ蒙り如く都鄙錯乱旧ハ事と雖も候。当寺へ織田信長恣に之所行且つ堪え難き次第候。随而条々御意之通り過当(当たり前では無い事)之至りに候。向後に於いて相応之儀疎意に存ずべからず候。就中御太刀一腰、御馬一疋拝領尤も珍重に存じ候。弥御本意之上重畳貴意を得るべく候。比れ等之旨宜しく洩れ(発し)せしむ宜(べ)く申し入れ給い候。恐惶謹言。
【注釈】
近衛殿へ御返礼 、御牢人にて当所に御逗留。
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内裏の正殿建築「紫宸殿
◎幕府方と一時的な停戦の動き

それからまた、光佐は、京都青蓮院関係者に10月付で音信している。これは9月20日頃、朝廷で正親町天皇の勅書を本願寺方へ下す用意をし、停戦の動きがあった事と関係するらしい。
※朝倉氏と織田信長(第8回企画展)P42

---史料(11)----------------
初めて染筆候。仍って南北総劇、今于に休まず候。其の和談之儀に就き、門跡為相調えられ候様入魂候者、一天大慶為るべく候。前々申し通し候条、内々細川兵部大輔藤孝自り試し由申すべく候。巨細庁務(鳥居小路経存)へ申し含め候間、詳らかに能わず候。
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青蓮院は門跡寺院であり、本願寺宗中興とされる蓮如は、ここで得度を受けた。その頃の本願寺宗は、この青蓮院の末寺であったという繫がりの深い関係ではあるが、元亀元年頃には、疎遠になっていたらしい。11月13日付で、光佐は、再び京都青蓮院垂髪中へ宛てて音信している。
※本願寺日記(下)P592

---史料(12)----------------
【本文】
(引)尊翰始め而拝披、尤も恐悦至極候。仍って今般不慮総劇是非無き次第に候。爰許之儀先ず以て異儀無く候。就中五明一本、杉原十帖拝受、路次等不輙之処、芳信謝し申し難く存ず計りに候。是れ従り綿三把、十帖之献上候。猶庁務申し入れられるべく之趣き宜しく申し入れ給わるべく候。誠恐。
【注釈】
「これは青門(青蓮院宮)へ御返札也。あなたよりの御礼節閣筆候。恐々謹言。本願寺殿、尊朝、此の時の御使は鳥居少路、于時庁務大蔵卿経存と云う歟。」
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ここへの音信も「始めて」と記している。杉原(紙)10帖が贈られており、今後は頻繁にやり取りする合意が図られている。

後年に描かれた光佐像(部分)
(石川県立歴史博物館所蔵)
◎本願寺光佐が三好三人衆方へ連絡する

大坂本願寺宗は、前久という人物を手の内に保持していた事も、武力抵抗に自信を持たせた一つかもしれない。
 上述の9月12日夜の本願寺宗一斉蜂起後、各有力者や組織と急速に結び付くようになる。9月19日付、光佐は、三好三人衆方の有力者である篠原長房へ音信し始める。
※本願寺日記(下)P591

---史料(13)----------------
態と一翰染め候。仍て今度渡海事早速同心有り、既に淡路国に至り着岸之由、欣悦之過ぐべからず候。弥以て相急がれ此の表着陣之儀、希(こいねが)う所に候。猶下間丹後法印頼総申し越すべく候条、詳らかに及ばず候也。
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10月1日付、光佐は再度、篠原長房へ音信する。

---史料(14)----------------
【本文】
(鳥)渡海之儀■■■■■■ 随而誓詞到来、■■■■■■ 是れ従り下間頼総法印誓詞之申し付け候。本願寺光佐同前之事候。猶教行寺(摂津国富田)演説有るべく候也。、としている。同日付で、同じ宛先の音信もある。(鳥)一、今度渡海之儀尤も珍重■■■■■■。仍て太刀一腰、小袖五、馬一疋■■■■■■。猶下間丹後法印頼総申すべく候也。
【注釈】
大かた文章同前に、篠原孫四郎一腰、一疋、小袖三、篠原弾正忠一腰、一疋、小袖三、細川讃岐守真之殿太刀一腰、馬一疋、三好彦二郎長治殿太刀一腰、馬一疋、此の両所へは初め而御書遣わされ之間、祝儀迄也。
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◎本願寺光佐、管領格細川六郎へ音信を再開する
そして、この年も暮れる12月25日・27日付で、光佐が三好三人衆方の大将と目される管領格細川六郎に音信している。これは、永禄11年1月26日以来、約3年ぶりの事である。
※本願寺日記(下)P595

---史料(15)----------------
25日条:
暦軸の嘉佳、珍重候。仍て太刀一腰之進め入れ候。猶明春(不明な人物)早々申し展べるべく候。委細下間丹後法印頼総申し入れるべく候。穴賢。
27日条:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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 天正4年頃の石山合戦配陣図(部分)
◎本願寺宗の経済基盤を守る行動でもあった

こういった動き、また、時間の流れから、やはり本願寺宗の元亀元年の一揆は、織田信長が大坂から本願寺宗本拠を立ち退かせようとした事と、その勢力を武力で削ごうとした事により、本願寺宗は「教団自衛」のために武力蜂起したと考えられる。ちなみに、永禄11年秋の将軍義昭政権樹立後に、本願寺方へ5000貫の差出を課してもいる。
 また一方で、本願寺宗は独自に対外貿易も行っており、以下のような動きが、史料から判明する。天文16年10月1日付けです。
※石山本願寺日記(上)P558

---史料(16)----------------
細川右馬頭晴賢・松井十兵衛尉・小河左橘兵衛・水尾源介・並河四郎左衛門等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船三種(献上品脱カ)五人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ。(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)
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唐船の寺内乗り入れを幕府方へ申請している。
 海と川を直接的に支配できる立地から経済的な利便性、軍事面ともに非常に重要な地であった。それは本願寺宗が武力蜂起してから10年も戦い抜いた事が証明にもなるであろう。

◎本願寺宗の門跡寺院に列しているプライド
加えて本願寺宗は、永禄2年(1559)に朝廷の許可によって門跡寺院に列し、同4年に光佐は、僧正に任じられている。光佐の時代、同宗は畿内地域を中心に寺院を配し、大名に比する権力に成長して、最盛期となっていた。その自負心も、信長の態度への反発となっていたのかもしれない。

◎本願寺宗の武装蜂起は、「教団の自衛」が第一義の目的
血縁を頼るようになったのは、蜂起後の事であり、三好三人衆勢が、摂津国中嶋内で窮地に追い込まれた状況を救う為とは、行動の附属のように思われるのである。
 しかしながら、血族結合も当時の社会には根強い欲求があり、近衛前久が、同族である日野家出身の藤原氏系譜である出自を持つ、大坂本願寺を頼ったのは、他宗にはない血縁組織であった面もあったのかもしれない。要不要やその時の欲求の濃淡は、当然ながら存在する。
 管領格細川六郎と本願寺光佐の音信が、重要な期間中に見られないのは、大坂本願寺の元亀元年の武装蜂起は、管領格細川六郎の窮地を救う目的、すなわち血族の救済を理由に起こしたのではない。今のところ、そう判断をせざるを得ない。


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