2021年8月12日木曜日

荒木村重の末裔!?が、「ポツンと一軒家」に取り上げられる!

 今度の日曜日(15日)、ポツンと一軒家という番組で、荒木村重の子孫と伝わる旧家が取り上げられるそうです。もし興味のある方は、ご覧下さい。

「ポツンと一軒家」番組の公式サイト
https://www.asahi.co.jp/potsunto/

番組の概要(ちょっと判りづらい)によると、鳥取西 部、島根・広島・岡山の県境にあるお宅が、荒木村重の末裔と伝わる家系だそうです。
 また、もう一軒。岡山県の深い山の中にあるお宅も、戦国武将とのかかわりがあるお宅だそうです。

番組のダイジェストでは、非常に古い薬師如来を大切に護り続けているともあります。

この番組について、私がツン!、あ、ピン!と来たことをご紹介しておこうと思います。必然性があるように思えます。この地域であることと、薬師如来を祀るということが、私には少し、心当たりがあります。

★先ず、地域のこと。実は私の一族の出庄は、今の広島県神石高原町の山奥で、もの凄く山深い所です。冬には雪もかなり積もるようなところで、人里離れた場所です。そこは、島根・鳥取・岡山の境目近くです。
 また、私の一族も武士だったらしく、平家の系譜と伝わっています。家も、後ろに山があり、一段高くなった所に建てられ、出入口は鍵型になっていた(ような)、小さな館城のような感じが今も残っています。

★荒木村重の子孫と伝わる今回の旧家は、そんな環境にも似た、地域であること。そのため、戦国時代など には、落ちてきた武将などを匿うこともあったかもしれません。

★それから、岡山県の総社市というところに荒木氏・池田氏の墓が多くあるようです。実地調査は出来ていないのですが、そのような情報を出されているサイトがあって、気になっていました。この場所は、川と官道(国道)・主要道を多く通す、要衝の地でもありました。

★一方、同じく岡山県倉敷市真備町有井というところに、摂津池田家の上級者一党が、毛利輝元から領知を貰っていた史料もあります。身を寄せていたと思います。
【過去記事】摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられ
ている史料

https://ike-katsu.blogspot.com/2016/05/blog-post_44.html

★更に、池田勝正の子孫と伝わるお宅も、福山市御領にあります。ここは、総社市から東へ40キロメートル程の所です。

★極めつけは、足利義昭が鞆浦に居住していました。近年は、明智光秀の謀反の黒幕は、「義昭」との説が定着しつつあります。有力な証拠が出たためです。

★昔の備後国(現広島県東端)やその周辺は、鉱山が多く、荒木村重一派は、後年、鋳物関連の流通に関わっていたため、鉱山にも繫がりがあった可能性もある。

★そして、「薬師如来」を崇拝すること。荒木村重が、池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護職(今の県知事のようなもの)を織田信長から任されます。その時に、手狭になった池田を出て、伊丹に首都を移す時、既存の城を拡張して有岡城を造ります。その城に村重は、守り神として日吉社を勧進していたようです。その当時の史料(天正5年8月の村重の手紙など)に現れます。また、その頃、神社もお寺も共存していましたので、日吉神社と比叡山は一体化しており、その比叡山の本尊は「薬師如来」です。

上記の要素をまとめると、池田・荒木氏の一派は毛利氏を頼り、西へ縁故を辿る動きが多くあり、それらの縁故は、荒木村重の没落を受けて、益々活用されたように思われます。
 総社市から鞆の浦までは、60キロメートル程の範囲に、池田・荒木氏の縁故地が多くあります。それらの環境から、この岡山県の山奥に暮らす、伝村重の末裔一族があっても、不自然では無いように感じます。それに、村重が崇拝していた薬師如来がそこにあること。

番組をご覧になる方は、そのような状況もあることを意識しながら視聴されると、また別の楽しみがあるかもしれません。

 

 

鞆城跡から鞆の浦の港を望む

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