2024年6月29日土曜日

松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して

令和6年(2024)6月15日から、高槻しろあと歴史館にて、最近発見された松永久秀書状の展示が行われましたので、見てきました。

その書状は欠年史料でしたが、同館により、天文22年(1553)のものと比定されており、私も内容からして間違いの無い見立てだと思います。
 年記以下は、7月30日付のものですが、内容としては、その近辺の出来事を語った、いわゆる軍記物『細川両家記』『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』、また『言継卿記』の記述に加えて、その正確さを証明するかのように、新出史料は、それらの流れと一致する当時の情報交換が行われています。加えて、既出史料にはない出来事もあり、前述の軍記物などを補足するかのような興味深い要素も見られます。

一方で、同館を訪ねたついでに、何か目新しい資料はないかと物色していると、『しろあとだより:24号(令和4年(2022)3月発行)』があり、それもネット内でダウンロードして、記事を読みました。
 そこには、特に今回の展示を意識したはずは無いと思いますが、天文22年の芥川城落城時の「帯仕山」についての考察記事が載せられていました。
 今回もまた、奇縁がそこに...。私自身も、池田長正の動向を追う中で、天文22年という年が気になっていました。その年は、その前後で、断片的な長正及び池田衆の史料が見られるのですが、関連性を帯びておらず、その記述の意味を判断できずにいました。
 それからまた、この年は、京都の中央政権でも画期を呈した動きがあり、それまでの流れが変わる、要注意の年でもあります。

今回もまた奇縁のおかげで、保留状態にあったところを、前に進める動機を作ってもらいました。
 以下、天文22年の池田長正及び池田衆の動向の思索として、キーワードを挙げておきたいと思います。その前提として、馬部隆弘先生による天文22年頃の京都中央政権についてのご見解を紹介しておきたいと思います。
※戦国期細川権力の研究P705

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天文19年から22年までの間に、三好長慶方が臨時公事の賦課に積極的に関与し始めるのは、管領細川氏綱と長慶の主従関係が崩れ、特に天文21年2月に、長慶が御供衆に加えられて幕臣となった事が大きな理由である。ただし、天文22年前半まで、氏綱方と長慶方は、あくまでも別個に文書を発給していて、上下関係は歴然と残っていた。ところが、天文22年後半になると、氏綱内衆と長慶内衆の家格差は大幅に縮まり、両者の連署状が成立する。
 このように、公事と書札礼の両面を踏まえると、氏綱と長慶の関係性は、天文21年と翌22年の二度の転機を経て変化したと指摘し得る。
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これは非常に重要なご指摘で、この事で、これまでの欠年史料の特定が進み、非常に複雑な人物関係が繙かれるに至りました。
 それ故に、私の研究範囲である摂津池田氏の行動についても、ある程度の推測が立つようになりました。大きな前進です。
 この年も、正統な池田家惣領を主張する池田長正と、近世でいうところの家老的組織である池田四人衆の人々は、その主張を認めず、分裂していた可能性が高いように思われます。

例えば、欠年史料で、12月15日付けの池田四人衆が、当郡中所々散在へ宛てて下した禁制的法度は、後の考証(若しくは備忘録的メモ書きかもしれません)で「天文22年」としてありますが、実はこの考証は、馬部先生の研究成果による恩恵で、正確である可能性が増した訳です。池田四人衆の池田勘右衛門正村・池田十郎次郎正朝・池田山城守基好・池田紀伊守正秀が、当郡中(摂津国豊嶋郡)所々散在へ宛てて音信(折紙:直状形式)。
※箕面市史(資料編2)P411

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箕面寺山林所々散在従り盗み剪り者、言語道断の曲事候。宗田(池田信正)御時之筋目以て彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在る於者、則ち成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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箕面寺中枢機関であった岩本坊

この文書内容についてですが、実は天文20年5月付けで、同じ内容のものが、池田長正により作成されています。その後に、同内容で上記の触れを池田四人衆が出すというのは、その前例の打ち消しであり、その時点での権力の表明でもあります。
 これは、天文22年8月18日、細川晴元方の多田・塩川勢力が、「池田表」にて蜂起するのですが、失敗します。この事で芥川城は利を失い、この翌日に芥川城の芥川孫十郎(右近大夫)は、降伏を申し入れます。
 よって、この「池田表へ蜂起」に、池田長正が晴元方として加わっていたのではないかと、推測できるようになります。

池田長正は、先代惣領の筑後守信正の子でありましたが、その妻の舅である三好政長(宗三)が、その立場を悪用して、長正を介し、池田家そのものを乗っ取ろうとしていました。それがために、池田家中からは猛反発を受けていました。その中心を担ったのが、池田四人衆であった訳です。
 故に長正は自らの身分と権力の裏付けを、外来権力に頼らざるを得ず、三好政長を側近として重用した管領細川晴元の権力に依存した権力体となっていました。よって長正の行動も活動拠点も、常に晴元権力の所在地にあったと考えられます。
 逆説的にみれば、長正は池田城内には起居する事ができなかったとも考えられます。少なくとも天文22年当時は、城内に居住する条件になかったと思われます。
※細川両家記(武家部:群書類従20号)P613、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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『細川両家記』天文22年条:
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして則ち明くる日帰る也。
『足利季世記』天文22年・芥川落城之事条:
8月18日、晴元方の牢人摂津国多田の塩川伯耆守に一味して、池田表へ蜂起し、芥川の後巻きをせんと企みけれども叶わず散々に成り行けば。
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軍記物とはいえ、今よりもこの当時は、言葉選びには慎重だったと思います。「蜂起」という言葉をどうして選んだのでしょうか?「責め」ではなく。池田家内部からの動きも感じさせるのですが、ちょっと気になります...。
 そして、上記の軍記物の正確さを裏付ける、当時の史料が存在します。前管領細川晴元方塩川国満が、天文22年8月22日付で、池田表を攻めたことについて、平尾孫太郎某へ感状を下しています。
※池田郷土研究8-P39

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去る18日(8月18日)池田表に於いて太郎右衛門尉討死、比類無き忠節候。なお委細新九郎申すべく候。恐々謹言。
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芥川城からの遠望(撮影:2001年2月)
それからまた、芥川城に籠もっていた芥川孫十郎も、細川晴元権力に依存する人物で、その家中において池田長正と同様の構図・立場にありました。孫十郎は、三好氏一族に迎えられていましたが、叛服常無く、いわゆる「問題児」でした。
 そのような境遇から、この芥川孫十郎と池田長正は、しばしば行動を共にし、共通の目標に向かう動きもしていました。その状況を知る一端として、天文21年6月4日付けで、松永久秀が京都大徳寺塔頭大仙院侍衣禅師へ宛てた音信に、池田長正と芥川孫十郎についての記述がみられます。
※戦国遺文1-P121など

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尊書拝受致し候。仍って今度丹波国の儀、不慮の次第候。悪逆人の儀、退治の行候処、摂津国人池田兵衛尉(長正)・小河式部退城仕り候。則ち池田の城存分に申し付け候。芥河孫十郎事も造意の段白状候て、種々懇望半ば候。何れの道にも手間入るべからず候間、御心安く思し召されるべく候。此等の趣き、宜しくご披露預け候。恐々謹言。
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また更に、この史料について、軍記物の記述があります。天文21年5月23日、三好長慶が丹波国八上城を攻めていたところを、形勢不利となって陣を解き、撤退します。それについての記事です。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P612、長享年後畿内兵乱記(続群書類従第20号上:合戦部)P318

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『細川両家記』天文21年条:
(前略)5月23日の夜半に三好筑前守長慶勢、摂津国衆諸陣悉く有馬郡へ引き退かれ候なり。(後略)
『長享年後畿内兵乱記』天文21年条:
(前略)5月23日夜、丹波国多紀郡高城と雖も三好筑前守長慶取巻く。芥河・池田・小河反逆に依り取退雑節。(後略)
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池田長正と芥川孫十郎は、常に呼応した動きをする事が多く見られます。これは、共通の利益や状況を持つ、仲間的な行動だと、資料上から読み取れます。また、このことから軍記物の大筋の正確さは、信用に足りる(100パーセントとは言えなくても)ものであることも判ります。

八上城遠景(撮影:2006年10月)
天文22年の夏、三好長慶が、その一族でありながら芥川孫十郎を芥川城に攻めたのは、丹波国方面から近江国西部にかけて、細川晴元方勢力の拠点があり、これと孫十郎が結び付いていた事からの処置でした。
 また、この年、将軍義輝も細川晴元を擁護する動きを見せ、行動を共にしていました。加えて、晴元には、摂津国の塩川・多田氏や能勢方面でも加担する勢力がありましたので、池田長正も丹波・摂津国境のあたりに居て、行動の機を謀っていたものと思われます。
 そんな中、芥川城を占領した三好長慶は、直ちに晴元勢を追って、丹波国に攻め入ります。この時、池田衆も従軍していますが、これは池田長正ではなく、池田四人衆方の勢力であったと考えられます。
 しかしながら、長慶方の軍事行動は、この時はうまく行かず、撤退。池田衆にも何らかの損害が出ていたようです。
※言継卿記3-P72、群書類従20号(武家部:細川両家記)P614、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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八木城からの遠望(撮影:2001年10月)

『言継卿記』9月19日条:
癸亥、天晴、天専終、戌刻自り雨降り。(中略)昨日(18日)丹波国へ立ちたる三好人数敗軍云々。内藤備前守・池田・堀内・同紀伊守・松山・石成等討死云々。但し松永弾正忠(久秀)殊無き事云々。
『細川両家記』天文22年9月3日条:
(前略)同18日に後巻して此の衆打ち勝ち、内藤肥前守(備前守)国貞・永貞父子と池田、堀内を打ち取り。此の外数多討ち死也。然れ共松永兄弟は難なく打ち帰られ候也。此の時内藤方の城丹波国八木難儀候所、松永甚長頼は内藤備前守聟也ければ、此の八木城へ懸け入り、堅固なる働きとも見事なるかなと申し候也。
『足利季世記』天文22年(芥川落城之事)条:
(前略)同18日、城よりも突きて出て、相戦う半ばに晴元より香西越後守元成・三好右衞門大夫政勝(宗三子息)大将にて後巻きあり。松永が後陣に控えたる内藤備前守・池田・堀内等を打ち取りければ悉く敗北して、寄手散々に落ち行ける。大将(別働隊)討たれければ、内藤が居城八木の城明けるに、松永甚介此の城に入りて敗軍を集め、城を持ち固めける。松永は内藤備前守が聟なれば、城中にも一入頼もしく思いける落ち武者かく計らいける事、武功第一也と沙汰しける。
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天文22年付けの諸史料にみられる、摂津池田についての記述は、やはり、このように池田長正と池田四人衆が、晴元・細川氏綱(管領現職)両派に分かれて行動しています。その視点で見れば、既知(既出)の資料群は、矛盾の無い記述内容です。

そしてこの年の暮、既述の12月15日付(史料2)で、池田四人衆が当郡中所々散在に宛てて下した法度は、池田衆にとっての縁故寺院であり、且つ、摂津・丹波国境に近い場所で、氏綱方の池田四人衆が勢力を得て、先に下した池田長正権力の効果を削ぐ意味を示したものであろうと考えられる訳です。池田四人衆の権力が優位に立ち、その時局を進めたようです。
 これ以降、池田長正は史料・軍記物でも見られなくなり、代わって池田四人衆関連の史料が頻出するようになります。

そういう意味で、今回の高槻しろあと歴史館にて行われた、松永久秀の新出書状展示は、この重要な、天文22年の京都中央政治構造の解明に寄与する発見だったと思います。

追伸:
この激動の年、更にこのような大事件もありました。6月9日、阿波守護であった細川讃岐守持隆(氏之?)を三好豊前守(長慶実弟)が殺害。持隆は細川晴元と兄弟であり、政治・軍事上の何らかの障害になっていると考えたのでしょう。しかし、これは「主殺し」であり、当時の倫理観に照らしても、国内外に動揺が走ったと思われます。
 8月13日、将軍義輝が都落ちし、その勢いに陰りがみられたこともあり、幕府奉行衆が大量に離反して、京都に戻ります。三好長慶は、地域統治に於いて、それらの協力も得られることとなりました。
 そして、これらの動きを見ていた、阿波足利家が、京都の中央政権復帰を望み、上洛の構えを見せます。大坂本願寺などへ関係各所へ音信を行っていました。

これらの要素を個々にみれば、新聞記事を見るのと同じですが、やはりこれらの動きは関連性があって、欲求や何らかの高まりの中で、連鎖して起きています。この頃には実力者に成長していた三好長慶は、解決すべき要素に優先度をつけて、各々解決を計ったために、この後、大きく飛躍していきます。


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2024年6月7日金曜日

摂津池田家惣領池田筑後守長正についてのまとめページ

池田長正という武将は、摂津国人で池田家の惣領となった人物ですが、時の資料(史料)が少なく、あっても断片的で、不明な点が多くあります。
 しかし、その長正の代で、後に池田家中から頭角を現す武将荒木村重の歴史的背景も明確にできる示唆があり、また、畿内地域でも有数の精力であった池田家政の実態が明らかになることで、中央政治の一部が明確にできるようになります。
 そして何より、直接的に、池田勝正が惣領となる経緯、その支援権力機構(体)である「四人衆」の実態が明らかになります。

池田長正の活動実態を明らかにする事は、多難ではありますが、取り組む意義が非常に大きいと考えています。

摂津国人池田筑後守長正について考える
摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性
摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!
摂津国人池田長正は、最終的に「筑後守」を名乗って惣領となっている証拠史料
松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して
丹波八上城に存在する「芥丸」(伝芥川某の持場)という気になる曲輪について ← NEW

【参考ページ】
摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て
摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察




2024年6月6日木曜日

摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!

今のところ不確定要素があるので、断言はできないのですが、可能性としては大いにある史料を見つけました。

私に、何かとご教示下さる「利右衞門」さんからのご連絡で、これまで見えなかった池田家の足跡の一部が見えました。これには不思議な事が起きて、一気に進みました。
 私もこれは読まなければいけないと、リストアップしていた『北野社家日記』『北野神社文書』ですが、1年程、グズグズした保留状態でした。そんなある日、ここに摂津池田氏の記述がありますよ、と、利右衞門さんから報せていただいたのです。これは「はよ、読め!」と天の声のように感じ、急いで史料を購入して読みました。
 いっぱい、ありました。鼻血が出そうでした。京都の北野社家と摂津池田家の四人衆筆頭池田紀伊守正秀は、非常に深く交わっていました。
 しかも、比較的史料の少なかった弘治2〜3年にかけての出来事・足取りが、濃密に記録されています。驚きました。

調べ事をしていると、本当に説明のつかない不思議なご縁とか、出来事があります。本当に導かれているような、不思議な事があります。それも、一度や二度ではありません。このような、機会に出くわす度に、私がやらねばならぬ、と励みにもなります。

さて、本題です。今回は、池田勝正の先代、長正について、重要な史料に出合いました。今のところ不確定要素があるものの、非常に想定の確定度合の高い史料であろうと、感じています。この史料背景と状況がある程度特定できれば、近畿地域の地域権力の変遷が部分証明できるようにも思え、気になっている間にできるだけ考えを深めておこうとしております。

その史料なのですが、以下に示します。禁制です。永禄4年7月24日付けで、右近大夫・右兵衛尉が連署し、北野境内へ宛てた禁制です。
※北野神社文書(史料纂集 古文書編)P104(史料番号:161号)

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一、軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、放火並びに竹木伐採事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩に於いて者、厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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私の見立てでは、この「右兵衛尉」とは、池田長正です。長正は後に、摂津池田家の惣領を示す「筑後守」を名乗っており、最終的に摂津池田家の代表となっている事は、史料上からも顕かです。
 一方の「右近大夫」とは、芥川で、それまで「孫十郎」を名乗っていた人物とみています。この人物は、三好長慶の一族に列しながら、背反常無く、どうも家中の立ち位置が安定せず、外来の権力に頼らざるを得ない内情であったと思われます。これは、馬部氏の研究を参考にしていますが、私の研究ノートでも、そのような動きは見られ、今のところ納得して、馬部説を個人的には支持しています。

元に戻って、池田長正も芥川孫十郎と同じ境遇であり、『細川両家記』などの軍記物や他の史料でもこの両名は、並んで名前がよく出てきます。家中での権力を得るため、外来の権力を後ろ盾にしており、どうも細川晴元の権力を充てにしていたようです。

そういった中で発行された、「北野神社文書の161号文書」だと想定しています。

しかし、現段階で人物特定するには不確定要素もあります。この文書は、控え文書で、本文のみで、署名した花押が省略されています。そのため、私の想定している人物ではなく、別人の可能性もあります。

今のところ、上記禁制の補完史料としては、堺妙国寺日珖の日記『已行記』に芥河氏の存在確認ができる記述があります。
※已行記(堺市博物館報 第26号)P62-5

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永禄4年条、(前略)同9日(12月)、有馬中務某、芥河兄弟、河南兄弟、豊嶋父子、堀江猪介、鏡新尉受法、。
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堺にて三好豊前守入道実休が、堺妙国寺日珖に帰依したことから、これに続いてその組内衆が集団で帰依しているようで、その記録の中に「芥河兄弟」がみえます。この時点で、堺に居たことは確実で、また、顔ぶれからすると、所属としては三好実休の影響下での行動だったと思われます。これは、摂津国にルーツを持ちながらも、阿波国での基盤が成り立ちの柱であったことをうかがわせます。
 基本的に、三好方の行動は、組内の行動だったようですが、状況に応じて応援などに派遣されていたようです。『細川両家記』の記述などでは、和泉・河内国方面の担当であった、三好実休の組に三好下野守政生もみられるなどありますので、そのあたりのところは流動的な状況もあったと考えられます。

一方で永禄4年の動きを見ていますと、この年は新たな動乱の始まりでもあり、京都市中に多数の禁制が立ち、各組織とのやり取りも盛んに行われているようです。

その中で、上記禁制を掲げた2日後の26日付け、細川右京大夫入道(永川)晴元養護派近江守護六角衆左近大夫(隠岐賢広)右兵衛尉(平井定武)が連署で、京都清水寺に宛てて禁制を下しています。
※清水寺史3(史料篇)P124

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一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、寺内放火・竹木伐り採り事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩速やかに厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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この隠岐氏と平井氏については、『清水寺史』による注記です。

続いて、同年8月16日付け、山城国大山崎に宛てた禁制で、同じく六角方の宮木賢祐・蒲生定秀が連署して禁制を下しています。この内、宮木氏は「右近大夫」を名乗っています。
※島本町史(史料編)P433、蒲生氏郷(戦国を駆け抜けた武将)P81

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一、軍勢甲乙人濫妨狼藉、一、山林竹木伐り採り付、放火事、一、非分の矢銭・兵糧米相懸け事、一、国質・所質付沙汰の事、一、荏胡麻油商売他職之事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違乱の輩厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
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このように同じ時系列で、同様の官途を名乗った人物は確かに存在しており、『北野神社文書(史料纂集 古文書編)』の104ページ(史料番号:161号)で官途を名乗った人物は、六角方の人物である可能性もあります。例えば、宮木右近大夫賢祐平井右兵衛尉定武が連署で、北野境内へ宛てた禁制を発行した可能性もあります

ちなみに、先にご紹介した「利右衞門」さんのご教示によると、幕府関係者としての「永禄六年諸役人附」には、「右近大夫」「右兵衞尉」は見当たらないとのこと。

署名が特定できれば一番良いのですが、肝心の161号文書にそれは無く、特定の手がかりに少々悩んでいる途上です。

少し視点を変えてみます。永禄4年という年は、京都中央政治の画期であり、三好長慶が将軍義輝から桐紋使用を許されて御相伴衆となって、幕府の代理的な行動も出来る環境ともなっています。
 更に、永年の抗争に終止符が打たれ、細川晴元は摂津富田の普門寺へ入って、長慶の軍門に降り、晴元の旧臣も吸収されるカタチとなっていたようです。長慶は、統治領も拡がっていたことから、人材が必要となって、多少の問題児も吸収して活用していたように考えています。

そういった状況での出来事であり、可能性としては十分にあり得る状況だと考えています。もしこれが事実と判明すれば、長正の事も私にとっては、大きな史実としての証拠ですが、芥川右近大夫は、永禄4年に中央政権に関わる活動をして、京都の中央政治に復帰していたことになります。

池田長正の足跡がハッキリすれば、丹波荒木氏が池田家に関わるタイミングも明確になります。よって、荒木村重のルーツも明確化されますので、この長正の足取りを掴むことは、大きな意義があることです。
 

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摂津国人池田家惣領池田長正花押

 

2024年5月18日土曜日

豊後竹田の中川家の家老となった、摂津武士の戸伏氏について

ちょっと気になっているのですが、あまり深く調べる事も無く、時間が過ぎてしまいました。最近また気になり、備忘録として記事にしておきます。

現在は静かな町外れの住宅地ともなっている、大阪府茨木市戸伏町の集落ですが、戦国時代、この村出身の武士がいたようです。

元々は、永禄9年に、池田勝正がこのあたりで合戦をしたという伝承記録があり、それが気になったのがキッカケで戸伏村を知りました。その関連資料を以下にご紹介します。
※よみがえる茨木城(茨木町故事雑記)P163

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永禄9年(1566)10月20日、池田筑後守勝正茨木城に発向し、芥川城主中村新兵衛高次に与して長田河原に陣し、高槻之城主入江左近将監等と相戦う。入江は富田之間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。入江・中村等敗北し、勝正は茨木城に帰陣す。
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上記に出てくる人物名は、実在しますし、この頃、ちょうど勝正は「筑後守」を名乗りはじめた時期でもあります。この時、合戦の行われた「長田河原」とは、茨木市大住町付近のようで、この場所は戸伏村(郷)の範囲内です。戸伏村について、いつもの大阪府の地名を以下に抜粋して、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P188

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戸伏村(茨木市戸伏町、大住町、末広町)

赤色四角囲みの村が戸伏村を構成する集落(村)
茨木村の東、安威川右岸に位置。鎌倉時代初期頃は公家久我家の所領で、年月日未詳の久我家領目録(久我家文書)に摂津国「戸伏領」がみえる。文和元年(1352)2月18日の総持寺領散在田畠目録写(常称寺文書)によると、戸伏村字丸坪・字門田に総持寺の寺領があり、総持寺散在所領取帳写(同文書)の文安2年(1445)正月17日請取分にも戸伏のうちにあったとみられる総持寺領が記される。室町時代には相国寺(現京都市上京区)領戸伏庄があり、「鹿苑日録」長享元年(1487)8月12日条に「当寺領摂州戸伏上下村」に対し守護段銭免除の折紙が室町幕府より出された記事がみえる。また同書延徳元年(1489)正月11日条に、戸伏庄先庄主大蔵寺栄監寺が再任をもとめてきたので、任料100疋で補任状を発給している。なお応仁・文明の乱後のものとみられる摂津国寺社本所領並奉公方知行等目録(蜷川家文書)には三条侍従中納言家(三条西実隆か)領として「院御庄内(溝杭・茨木・鮎河・戸伏)」がみえ、当時は不知行となっていた。
 慶長10年(1605)摂津国絵図には「戸臥村」とあり高63石余。元和初年の摂津一国高御改帳によると高槻藩内藤信正領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には「戸伏村(庄村・中村・橋内村・牟礼村)」として1071石余が記され、京都所司代板倉重宗領。以後重宗の子重郷・重形と引き継がれ、天和元年(1681)重形の領地替で幕府領となった。享保19年(1734)以降の領主の変遷は中ノ城村に同じ。なお前記摂津国高帳にみえる庄村以下4村は戸伏村の枝郷で(元禄郷帳・天保郷帳)、戸伏村と郷的に結び付いていた。享保20年の摂河泉石高帳によると戸伏村本村のみの村高141石余。寺院には浄土真宗本願寺派戸伏山光照寺がある。明治16年(1883)庄村・中村・橋之内村・牟礼村が合併して戸伏村となる。
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明治時代後期の戸伏村の様子
『茨木町故事雑記』の伝承が、割と当時の状況を反映していると思われる要素として、永禄9年の政治状況は、将軍義輝殺害後に、中央政治が混乱し、次期将軍を巡って激しい争いが起きていました。三好三人衆と松永久秀が不和となり分裂、三好三人衆方が、阿波公方を擁立して、足利義栄を立てて京都へ攻め上ろうとしており、池田勝正は義栄擁立派として、積極的に行動していました。
 9月23日、義栄は摂津国武庫郡の越水城に入って、上洛の駒を一つずつ進めていました。12月5日、義栄は総持寺へ入り、その2日後、富田の普門寺へ入っています。同月28日、朝廷から従五位下左馬頭を叙任され、将軍職就任へ向けて、手続きも着々と進めます。

池田勝正の茨木方面の合戦(長田河原)は、そんな動きの中で行われたようで、『茨木町故事雑記』という伝承記録ではありますが、概ねの人物名、時代の流れに沿った時期は順当です。また、それを補完するかのような当時の史料もあります。
 年記未詳で、10月18日付け、三好三人衆方足利義栄擁立派と思われる松山彦十郎が、播磨国人別所大蔵少輔安治へ音信(返信)しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P231

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御状拝見せしめ候。仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。其れに就き(摂津国豊嶋郡)池田表之儀も万(よろず)伊丹(忠親)申し度くとて色を相立て之由候。然者此の者之儀申し談じ、越ち度無き之様及び断ずべく候条、手前に於いて御気遣い有るべからず候。次に其の表之儀に候はば、西表御在陣之由候。御辛労是非に及ばず、置塩与御方御召し之儀も相調え候由、別使へも御報せ申せしめ候。猶追って申し述べるべく候条せしめ。恐々謹言。
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文中の「仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。」とは、寝返りがあった事を伝えているように思われます。『茨木町故事雑記』にある、戸伏郷内の長田河原合戦は、その2日後の事です。

寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によれば、戸伏村は、庄村・中村・橋内村・牟礼村(この4村は戸伏村の枝郷)を含め、1071石余の生産高があり、小さくない規模です。

その戸伏村には、やはり武士がおり、摂津池田家中から頭角を顕した、中川瀬兵衛尉清秀の家老格に登った人物がいました。
※中川家文書(神戸大学文学部 日本史研究室)P4

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知行配分目録
壱万八千五百石      中川石千代(秀成)
弐千石「四千石(異筆)」 中川平右衞門尉
千五百石         熊野田千介
七百石          寺井弥次右衞門尉
八百石          戸伏助進
 以上弐万参千五百石
 (包紙)「秀吉様与之御配分付」(朱書)「四十一」」
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また、元亀2年(1571)8月28日早朝、摂津国島下郡宿久河原にて、いわゆる白井河原の大合戦が行われますが、この時、戸伏氏一党は、荒木信濃守村重・中川清秀勢に居て、手柄を立てたようです。
※中川史料集:太祖 清秀公条P22

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一、(9月)欠日 戸伏宗慶兄弟五人並びに、嫡子助之進白井河原合戦以来、御幕下に属し忠戦を励み、茨木御入城の節は近隣を唱呼して、御味方に属け島下郡も悉く、御幕下に属せしむ。その功に依って御人数御預け老職仰せ付けられる。
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この後に、荒木村重や中川清秀が、茨木城に移り、周辺を統治して勢力を拡大させます。茨木城の至近にある戸伏村は、茨木城からすると鬼門でもあり、安威川手前の要衝。また、高槻街道と総持寺を繋ぐ重要な街道も通しています。重要拠点の一つとして、支城的な役割りも持っていた場所だったと考えられます。

戸伏姓を持つ武士が実在した証拠として、当時の史料を上げておきます。『親俊日記』の天文8年(1539)12月28日条、幕府政所代蜷川親俊が、幕府奉行人松田丹後守晴秀などへ音信した中に、戸伏掃部助の名が出てきます。
※親俊日記1(増補 史料大成)P334、大阪府の地名1(平凡社)P154

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また詳しいことが判れば、情報を追加したいと思います。以下、現在の戸伏集落の写真を載せておきます。

【追伸】
戸伏村に含まれる、安威川を渡った先の庄村に長塩家(旧寺田氏)の墓があります。長塩氏といえば、三好長慶や細川管領家に見られる高位の人物です。墓石の形式からしても、五連投ですし、非常に古いので、もしかして、そのあたりに繋がる家が庄村に根付いているのでしょうか。これもとっても気になります。

旧寺田氏 長塩家の墓地として、ポツンと一家だけあります

様式が無茶苦茶ですが、五輪塔の残欠を重ねてあります

以下、戸伏村(集落)の様子です。

集落の中心部の町並み

素戔嗚尊神社(戸伏第2児童公園)

集落の中心部にある浄土真宗本願寺派 戸伏山 光照寺

集落の中心地にある城のような旧家1

集落の中心地にある城のような旧家2

集落の中心部分(左は素戔嗚尊神社:戸伏第2児童公園)

村の南出入口にあたるところで道は旧高槻街道

2024年5月17日金曜日

摂津国人池田長正は、最終的に「筑後守」を名乗って惣領となっている証拠史料

史料が少いのですが、池田家政の画期の一つ、また、荒木村重の出自の一部が明確になる人物としても、池田長正の事跡を追うことは非常に重要です。

この長正という人物は、池田勝正の先代であり、池田家の波瀾万丈の悲劇の中心人物であった当主池田信正の次の代にあたります。
 この信正の死後、池田家中は分裂し、信正の創設した「四人衆」なる、いわば官僚(家老)と、跡目を自称する当主長正(本人)とが対立し、それぞれに惣領を立てて、並行します。
 これには、非常に複雑な経緯があり、ここでは一旦割愛して、後日に詳しくご紹介します。
 この争いが、非常に激しく行われ、池田長正は池田城には、起居できなくなり、一旦外に出ていたと思われます。また、自己の権力を形成する基盤も無くなって、細川晴元権力、いわば外来権力の後ろ盾を必要とする時期が一定期間あったはずです。若年であった事も大きな理由です。

しかし、その池田長正が、池田四人衆との争いに競り勝ち、最終的に惣領の名乗りである「筑後守」を音信に署名しています。これは、勝手にやっている事では無いと思われます。四人衆との和解を経て、惣領を自他共に認められている証拠だと考えられます。

その史料と言うのは、今のところ一点のみです。欠年11月25日付、山田彦太夫に宛てた音信です。これは、能勢のM氏所蔵文書です。
※戦国の動乱と池田氏(池田市制施行50周年記念)P17

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先年以来相詰め届け之儀、祝着候。罷り出でられ候共、人数等割り入れるべく、必ず越されるべく候。然るに於いては忠節之筋目相違有るべからず候。恐々謹言。
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恐々謹言の書留ですが、目下に軍事動員をかけているような内容です。これは、余程の関係性があっての事だと思います。

これまでは、宛先の山田彦太夫が、どこの「山田」なのかわからなかったのですが、近年の私の要素の蓄積により、能勢のM氏が所蔵している理由は、彦太夫が能勢の住人である可能性が高いと考えるようになりました。これは、確定度合いが高いと考えておりますし、それを証明するための他の史料も探しながら、後日にそれらを明らかにしたいと思います。能勢方面には、山田という集落がありますし、そこには比較的規模の大きな「山田城」もありました。もしかすると、余野との関係性も長正の代で醸成されている可能性も高いです。

上記の史料は、欠年で、今のところ永禄4年(1561)と考えてはいますが、もう少し前の可能性もあります。
 内容的に、軍事動員ですが、能勢周辺の至近とは限らず、長正が軍事動員を割と大規模にしなければいけなかった時期。または、能勢周辺でそのような必要性があった時期。長正が、ある程度、権力を帯びていた時期。などなど。
 因みに、池田長正は、永禄6年(1563)2月に死亡しています。この年は、時代の変わり目のような年廻りで、3月に、前右京大夫(管領)細川晴元が死亡、8月に三好長慶の一人息子義興、12月に右京大夫(現職)が死亡しています。あまりにも重要要素が重なり過ぎており、疫病の蔓延があったのではないかと考えられます。

この池田長正の死後、速やかに惣領の継承が行われ、池田勝正が惣領となります。しかし、勝正も直ぐには「筑後守」を名乗らず、試用期間があった可能性もあります。と言うのも、勝正の惣領就任は、池田四人衆の承認の下で行われ、その権力下にあった可能性もあります。

 


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2024年5月15日水曜日

摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て

摂津池田家を見る上で、池田長正という人物は非常に重要な人物です。この長正の代で、池田家の発展の伸び代が芽生え、また反面、同族争いもしています。それから、この長正の代で、荒木村重につながる丹波出身の荒木氏が重く取り立てられます。

池田長正は、残された史料が断片的で、知りたい所の肝心な部分が今のところ見当たらず、それについては、周辺史料から推し量るしかありません。しかし、史料が無い訳ではありませんから、泣き言を言わずに証拠を紡ぐしかありません。
 その要素の一つで、同じような行動をする人物として、芥川孫十郎が居ます。しかし、この芥川姓はいくつか見られ、一つの筋としてみてしまうと、矛盾する動きをしており、混乱してしまいます。少なくとも私はそうでした。

この矛盾は、整理しておかねばならないと思っていたところ、私の尊敬する馬部先生のお見立てが、非常に参考になりました。またまた、備忘録的に、私の頭の中の整理としても、ちょっとブログに記事を投稿しておきます。

『戦国期細川権力の研究』からご紹介します。
※第二部 澄元・晴元派の興隆 第一章 細川澄元陣営の再編と上洛戦 3上洛戦の展開と軍事編成の変化「註:79」P250より

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この芥川氏の後継者について、天野忠幸氏は『二水記』永正17年5月10日条や『元長卿記』同日条の既述をもとに、三好之長の子である芥川次郎長則が養子に入ったと指摘している。しかし、芥川家に複数の系統があることに注意が必要である。
 長則の後継者は天文18年頃まで芥川孫十郎を名乗っているが、天文21年までに芥川右近大夫と改めている。(「親俊日記」天文11年6月13日条。成就院文書 <『戦三』240>。離宮八幡宮文書266号 <『戦三』340>。)それとは別に、天文18年11月に細川氏綱の命に従って、西岡にて段米の徴収にあたっている芥川美作守清正がいる(東寺百合文書い函121号 <『戦三』724>・『鹿王院文書』593号 <『戦三』266>)。彼は、直前の同年10月までは四郎右衞門尉を名乗っているので、孫十郎とは明らかに別人である。(広隆寺文書 <『戦三』255>・東寺百合文書ソ函245号)。
 応仁の乱の頃、阿波には勝浦荘の藏年貢を押領する芥川次郎がいるので(『西山地蔵院文書』4-18(2)号)、長則はこの家を継いだとみるほうがよいかと思われる。「故城記」(『阿波国微古雑抄』224頁)では、勝浦荘に近い那東郡び芥川氏を確認できる。
 最終的に清正へと受け継がれる豊後守の系統は、四国で畿内復帰の機会を窺っていたと思われる。「細川両家記」享禄4年閏5月13日条に「阿波衆堺より出張也、典厩・香川中務丞、築嶋に陣取給ふ」とみえる「香川中務丞」は、同じ一件を指して「去5日芥河中務丞・入江彦四郎至摂州入国」(増野春氏所蔵文書 <『戦三』73>。東京大学史料編纂所影写本で一部修正)とあることから芥川中務丞の誤りである。ここでの芥川氏は、三好元長らと行動をともにして摂津への上陸を果たしている。摂津への復帰は、天文2年3月11日付けの将軍義晴の御内書で、伊丹氏や池田氏などの有力摂津国人に並んで、芥川中務丞が宛所となっていることからも窺える。(「御内書引付」<『続群書類従』第23号下>)。のちに晴元方に芥川豊後守がいることから、中務丞は歴代当主に倣い、豊後守に改称したものと思われる。(「親俊日記」天正8年閏6月13日条・『大館常興日記』同月13日条・15日条)。
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どこの家もですが、やはり、いくつかの系統があります。人物記などには、芥川孫十郎がよく出てきますので、耳馴染みがあり、地域史を知っている者からすれば、直ぐに摂津芥川氏と結びつけてしまいます。しかし、それをしてしまうと、混乱します。

馬部先生のお見立てでは、その芥川孫十郎は阿波国人であって、摂津との結びつきは希薄です。ただ、一方の摂津国人系で、阿波に一時的に身を寄せていた「四郎右衞門尉 - 豊後守」の系統のそもそもは、どちらも同族なのでしょう。

それで、この芥川孫十郎という人物が、池田長正と行動を共にしている事が多く、史料に散見されます。
 孫十郎は禁制の類いが多く出されていますが、それに対して摂津に強い結びつきを持つ豊後守系では、寺社などとのやり取りをしている自署文書が見られます。

今は、ザッと感覚的にご紹介しておきますが、芥川孫十郎は、確かに三好長慶系統の血族なのだとは思いますが、地盤が摂津に無いため、自らの権力基盤がありません。多分、収入というのも地場から得られるものはあまりなかったのでしょう。
 そうすると、三好長慶の近習的立場や様々な管理や取次などで、長慶の行動を支えたのかもしれません。孫十郎の活動拠点はよくわかりません。もちろん、本国の阿波からの身入りや立脚点はあったのでしょうけど...。
 それ故に、近畿地域での自らの権力の後ろ盾となる要素、人物、機会を求めて、表裏激しく行動しています。結局は立場を失って、阿波国に却ってしまいます。どうも、細川晴元の誘いを受けて、何度か乗っては失敗しているように見えます。

一方、池田長正を見てみます。この人物も、池田信正亡き後、権力基盤を失って、細川晴元の権力を後ろ盾に行動していた時期があり、芥川孫十郎と同じく、同じ時期に、付いたり離れたりしており、同じ境遇からか、両者は名を連ねることが少なからずありました。

馬部先生のお見立ては、私の迷いに光を当てていただいたように思えました。細川晴元権力の実態と経過を分析することは、非常に有意義だと思います。私の観察している摂津池田家は、その権力実態の証拠としても非常に興味深い歴史になることでしょう。

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主郭部分 2001年2月撮影

登城口から芥川山城を望む 2001年2月撮影

当時の石垣 2001年2月撮影

井戸跡 2001年2月撮影

当時の石垣その2 2001年2月撮影

主郭あたりからの眺望 2001年2月撮影

2024年5月10日金曜日

天正年間初期に、荒木村重が勧請した摂津古曽部日吉神社(大阪府高槻市)について

荒木村重についての発見やそれに関連する池田長正につながる大きな発見があったので、備忘録的に、記事にしておきたいと思います。後日、しっかり検証して、レポートとして書き直します。

この5月の連休に、ちょっとブラブラしようと思い、永年気になっていた高槻市の上宮天満宮周辺を見て回ろうと計画を立てました。
 このあたりには、和田惟政供養塔のある伊勢寺、三好義興の墓と伝わる霊松寺、西国街道上の要衝である上宮天満宮があります。ネット上でその周辺地図を見ていた所、古曽部に日吉神社がある事に気付きます。

古曽部は、古曽部焼という磁器生産地としては知っていたのですが、ここに日吉神社があって、その創建が荒木村重であったというのは、知りませんでした。5月3日。早速、心弾ませて訪ねてみました。

古曽部日吉神社の由緒を以下にご紹介しておきます。

(古曽部日吉神社パンフレットより)----------------------
古曽部の高台に鎮座します日吉神社は、戦国時代に武将・荒木村重によって創建されて以来、長らく古曽部の地主神として祀られて参りました。境内からの素晴らしい見晴らしはまさに圧巻です。古曽部は古くは「社戸」「許曽部」などとも表記され、「神社に関わる者」を意味する姓のひとつであったと伝えられています。
 天正元年(1573)7月、荒木村重が織田信長に謁した際、芥川城を落とした武功を賞されて、摂津守に任じられました。その折に、荒木村重は古曽部の地に正倉を創立して、近江国日吉神社から分霊を勧請し、祭典を執り行いました。
古くは祭典の折に、歴代城主が乗馬を献上するのが永年の恒例となっておりました。これが、日吉大神社の起源でございます。
社殿は、慶長十九年(1614)1月11日に再建されたもので、境内は385坪を有し、本殿は神明造・檜皮葺きに彩色を施されています。
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【参考】
古曽部日吉神社公式HP
 
とのことです。非常に興味のある地域の歴史です。確かに史実の流れもそのようになっており、荒木村重が、将軍義昭との抗争の中で、織田信長に加担したことの功績は非常に大きく、信長から称賛を得たのも事実です。参考までに天正元年のめぼしい動きを上げておきます。

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2/15 将軍義昭方池田衆、将軍警固として京都二条城に入る
2/17 二条城の防備強化普請を行う
2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
2/26 織田信長、荒木村重と摂津衆の扱いについて細川藤孝へ音信
3/5   高槻城内で高山友照と和田惟長が争い、惟長が城を出る
3/7   将軍義昭、織田信長からの和睦案を拒絶
3/12 丹波守護代格内藤忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参候
3/13 将軍義昭方池田衆、京都八条方面で陣取りを巡って東寺衆と喧嘩
3/14 将軍義昭、味方についた摂津池田遠江守へ内書を下す
3/27 将軍義昭、二条城の防御態勢を整える
3/29 荒木村重、細川藤孝と共に京都知恩院にて織田信長と会見
3/30 荒木村重、京都九条方面を打ち廻る
4/2   織田信長勢、洛外を放火
4/5   将軍義昭と織田信長の和睦会談が行われる
4/6   荒木村重、織田信長方の和睦交渉団に名を連ねる
4/7   将軍義昭と織田信長の和睦が成立
4/27 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団から起請文を受け取る
4/28 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団へ起請文を提出
7   荒木村重、芥川山城を攻める? ←出典確認中(三田市史に『野史』とある)
7/5   将軍義昭、眞木嶋城にて再度挙兵
7/18 将軍義昭降伏
7/28 「天正」に改元
8   荒木村重、織田信長より摂津一職を任される?
9/10 高山友照、摂津国本山寺知行安堵の旨を伝える
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色々思いついたのですが、今はキーワードだけ上げておきます。

  • 荒木村重は、天正5年9月に有岡城へも山王(日吉)神社を勧請している
  • 山王神は、古代氏族の秦氏が崇拝していた
  • 山王神は、開発、農業、治山、治水、開拓、酒造などに霊験灼かであること
  • 荒木村重は、丹波国に起源を持つ事を意識していた可能性
  • 荒木村重は、藤原系譜ではない
  • 古曽部郷の重要性(伊勢寺、霊松寺、上宮天満宮は全てその内にある)
  • 伊勢寺は、伊勢貞国(室町幕府政所執事)屋敷地を伊勢一党の菩提を弔うため寺地として寄進したと伝わる
  • 古曽部日吉神社地の要害性の利用(軍事戦術上の布石)
  • 芥川山と高槻城の間の要地
  • 西国街道の監視(南側は縄手で湿地であり、西国街道の監視には最適)
  • 楊谷寺 (柳谷観音)を経た西岡地域(長岡京方面)への直轄街道の確保
  • 高山右近に対する目付け的な行動及び補完関係


以下、資料的に写真も載せておきます。

 

古曽部日吉神社本殿

日吉神社境内地から南側を望む

古曽部日吉神社本殿への階段

古曽部日吉神社参道

古曽部村中心地の町並み

2024年4月11日木曜日

『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

昭和から平成に元号が変わり、世も変わろうとする頃、それまでの地域の軌跡を記録しておこうとする動きも、各地でみらます。その取組は、今となっては大変貴重な取組でした。
 『荒牧郷土史』は、非常に念入りな構成で、市史や県史と同様の知見をまとめた非常に価値の高い内容となっています。中でも特に、この項目では「酒造業」の既述をみたいと思う。先ずは、内容をそのまま引用させていただきます。

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◎酒造業
酒造業については、次の文書からこの村でも酒造業が行われていたことがわかります。

寛成(政)四年極月五日(1792年12月5日)
一、右極月五日大坂東御番所より北在組酒家酒造御改二付、与力・同心大勢にて加茂両家、小池・中山・荒牧・川面・大鹿・昆陽・古江凡拾六七軒斗御改被成諸帳面不残御持帰り被成、同六日御番所へ御召にて段々御吟味被遊候所、川面其外無株之分五人有之入牢被為仰付(「天明・寛政期酒造一件諸控」、四井幸吉文書『西宮市史』第五巻)

大坂東御番所から与力・同心が酒造改めのため北在組十七軒ほどの酒家に出向いて帳簿を残さず持ち帰り、あくる日順番に取り調べて酒造株を持たずに営業している五人を入牢させています。この文書によって荒牧でも酒造業が行われていたことがわかります。
 近代になってからは、岸添家が明治三年(1870)大坂出身の酒造家鹿嶋屋清太郎から貸株を受け、伊丹中之島町で酒造業を行っています。

現在の宮水湧水地の様子
 これとは別に江戸時代の終わりまで「荒牧屋」と称していた酒造家があります。現在も「櫻正宗」の銘柄で知られている神戸市魚崎にある山邑酒造株式会社です。この会社は享保二年(1717)の創業で、天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに西宮にも出作りし、とくに西宮藏の酒質が優れていることを知り、その原因を追及するうちに宮水の発見となりました。天保十一年(1840)のことです。
 現在の当主(山邑美保子氏)に伺いましたところ、残念ながら山邑家の過去帳は天保時代台風で水に浸かり判読できず、それ以前のことはわからないということです。
 ところで、江戸時代の商人の屋号を調べると、米屋・油屋など商品を付したもの、河内屋・播磨屋・大坂屋など国名や大都市の名を付したもの、山田屋・荒牧屋など農村名を付したもの、松本屋・大塚屋など人名を付したものに大別されます。その中で農村名を付した屋号は、その農村が出身地か、商業上の取引があったものと思われます。
 「荒牧屋」と荒牧村との関係を示す具体例として、天保12年西教寺に鯛島万兵衛とともに荒牧屋重次良が釣り燈籠を寄進しています。
 また、天保4年、荒牧屋もよという女の人が寡婦となって、一家そろって荒牧村の源左衛門に引き取られています。このような例から見ると、山邑家の先祖も荒牧村出身で、荒牧屋を称したものと思われます。
 ところで、「文政五年(1822)酒造米引手」では米の品種を大極から下々まで8種に分けて選定していますが、荒牧産米は大極から数えて5番目の「上」になっています。また『伊丹市史』第二巻によれば、米問屋鹿島屋利兵衛購入の荒牧産米は、主として掛米(もろみの仕込みに用いる米)に使われています。
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この中で、特に気になる既述の要素として、

天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は、大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに、西宮にも出作りし、...。

明治末から大正時代頃の伝法

という口伝です。2点気になる所があります。
 1つ目は、歴史的な一応の流れは、西宮から灘へ拡がったようですが、口伝ではその逆になっているようです。
 2つ目は、荒牧屋当主(六代目)が、大坂伝法町に住んでいたと伝わっている事です。1717年(享保2)に、荒牧屋にとって事業拡大や新体制となった画期で、「荒牧屋初代」と位置付けているようです。概ね一代の活動期間は20〜25年で計算すると、120〜150年後という事になります。ここを基点にすると、六代目の活動期は、1837年(天保8)から67年(明治元年)頃となります。
 一方で、荒牧屋は1625年(寛永2)創醸という事ですので、ここを基点にすると、六代目の活動期は、延享2年(1745)から安永4年(1775)という事になります。
 もしかすると、六代目の時代関係をどこに基準を当てるかによって、宮水の源泉発見も、もう少し前の時代になるのかもしれません。これは今のところ、勝手な想像ですが...。

現在の伝法の河港の様子
別の視点から見てみます。西宮市の公式見解としては、宮水の発見は1837年(天保8)ないし、1840年(同11)としており、また、その発見者を櫻正宗六代目山邑太左衛門としています。
 この事と荒牧屋の初代からの代重ねの道筋と概ね一致します。櫻正宗の公式見解として、「宮水の発見」との関連性から考えて、創業初代を享保2年(1717)としているようです。

それから、西宮や灘地域への拡大経緯ですが、これらを私なりに少々想像してみます。櫻正宗の公式見解と『荒牧郷土史』では、享保二年(1717)を初代と定義しています。創業から数えて六代目当主(天保年間:1831〜45)は、伝法町に住み、事業を拡大しつつあった中で、享保二年に新体制となったのでしょう。しかしこれは、それ以前から伝法町に住んでいたものと思われます。
 また、生産地も西宮から新興の灘地域へ進出して事業を拡大したのかもしれません。社会情勢や業界の成熟期など様々な要因で、更なる品質向上を求めていたところ、主要的生産地であった西宮で「宮水」の源泉に辿り着いたのではないでしょうか。
 もちろん、それまでにも銘水での酒造は行われていたとは思いますが、源泉からの安定供給により、更なる品質向上と生産量の増大によって、地域ブランド力の強化や差別化を図る意図もあったように思われます。時代を経て、酒造メーカーも増えて、競争の激化もあった事と想像します。
 今のところの「宮水発見」の公式見解は、1837〜40年で、これはほとんど、江戸時代末、いわゆる幕末にあたります。

「荒牧屋」が関連する地域の位置関係
一旦、既説をリセット(ご破算)しまして、以下、荒牧屋六代目が大坂の伝法に住んでいたという口伝について考えてみます。
 櫻正宗の公式見解によると、天保年間(1831〜45)に当主は大坂伝法町に住んでいたという事です。天保時代というと、江戸時代も末期で、幕府が倒れるまでに20年程です。その時代であっても、当主が伝法町に住まいを置いていたと言う事は、江戸時代を通じて、今で言う本社を伝法町に置いていたとも考えられます。
 同じく櫻正宗の公式見解では、1625年を創醸の年としており、この年が同地にある正蓮寺の創建(開山:日泉上人・開基:甲賀谷又左衛門尉正長)です。荒牧屋は、この創建時に大量の酒を提供しています。
池田から江戸までの輸送経路と運賃
 甲賀谷正長とは、摂津池田の高位の武士です。甲賀谷氏は、他にも尼崎の長遠寺(じょうおんじ)の大壇越であり、同寺では特別に顕彰されている人物です。ちなみに、両寺は共に日蓮宗です。また、甲賀谷氏の拠点である池田にも同宗の本養寺(京都本圀寺の第五世日伝の嫡弟玉洞院日秀の創建(応永年間1394-1428)と伝わる)があります。この日蓮(法華)宗は、近衛家とも繫がり深く、また全国に組織的ネットワークを持ちます。
 そういった状況もあって、伝法町の正蓮寺を基点にした関係性は維持していたとみられます。外形的には大消費地であると同時に、相場・物流拠点としての大坂・尼崎に近く、時局の把握と生産地への連絡を重視していた事が想像できます。ネットワークの中間地点に住んでいたというのは、無意味では無いのでしょう。
 その詳細は今後の課題にしたいと思いますが、荒牧の山邑氏、上月氏、甲賀谷氏の縁故がこれ程永く保たれていた事は、非常に興味深い事です。この事が、酒造・輸送(物流)・地域経済など、様々な謎を解くきっかけになれば良いと思います。

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灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)へ戻る

2024年4月9日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌直前、池田勝正が守護役(えき)として中嶋城の普請を行う)

この項目は「諸役負担、軍事負担、一部の権利返上」の補足である。同頁を併せて読んでいただきたい。この補足を行う事で、守護職を任じられる名誉と引き換えの苛烈な負担が池田家へ課されていたことが更にお分かり頂けると思う。
 状況としては、越前国守護朝倉氏攻めの結果、噂通りに近江国浅井家の幕府・織田信長方からの離反が判明し、この方面での争乱の火蓋が切られたカタチとなった。
 他方で、元々の幕府にとっての討伐対象であった、阿波国三好氏勢力は反幕府方として、京都を取り囲む包囲網を形成して、西から攻め上る構えを見せていた。元亀元年6月には、堺に軍勢が集まっている事が盛んに報じられ、不穏な空気を感じざるを得なくなっていた。これに備えるため、摂津守護である池田・伊丹方に、急遽の守護役が課される事となった。

十三公園(撮影:2006年2月頃)
これらの一連の動きは、織田信長の耳に入っており、京都の東西へその備えを行った。軍事面での戦術上、それを超えた戦略上も兼ねて、将軍自らの後巻きの出陣を進めていた。
 東部方面の近江国では、髙島郡の田中城(清水城館)を想定。西部方面の摂津国では、欠郡の中嶋城(現大阪市淀川区)をその場と決定していた。しかし同城は、そのまま使うには手薄であったらしく、急遽の補強を行う事となった。加えて、その補完的要地である榎並城(現大阪市城東区)にも手を加えている。
 この時、池田家(勝正)は、中嶋城の普請に2〜300名の人夫を出している。これは奴隷労働ではないので、当然賃金などの労役負担金品を池田家が供出している。

この中嶋城の対応については、典厩家の城としての社会的な象徴や認知があった事と、瀬戸内海と京都とをつなぐ交通と物流への監視、加えて、大坂本願寺への備えという意味があったと考えられる。
 後年、織田信長が政権として畿内地域で独立を始めた頃の天正2年夏、反織田方であった大坂本願寺を包囲するために、この中嶋から崇禅寺方面にかけて大合戦が行われており、この地域が要所の証左としての出来事もある。

池田家は、将軍義昭の実兄を殺害した阿波国三好家の一族であり、将軍義昭により守護職に取り立てられたとはいえ、疑いと迫害を多分に受けていた事は、数々の歴史的痕跡により容易に想像できる。
 元々、脆弱な足利義昭政権を支える為に、非常に重い課役を命じられていた事は、様々な史料からも判明する。池田家中は、それらに絶えられなくなった事と将軍義昭政権維持が危ぶまれる程の敵の軍事攻勢を前にして、池田家の人々は精神的にも追い込まれて、家中政治は断裂するに至った。同時に、藤原家の象徴的存在でもあった、近衛前久の反幕府行動もあり、同じ藤原一族としての池田氏も、その策動を意識せざるを得なかった事情もあるだろう。

<参考史料>
<永禄12年>--------------
正月 摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
 ※兵庫県史(史料編・中世2)P432
1/5 阿波足利家擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
 ※言継卿記4-299、群書類従20(合戦部:細川両家記)P631など
1/27 京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
 ※言継卿記4-P305など
3 幕府・織田信長勢、摂津国兵庫を攻撃
 ※(新)神戸市史(歴史編3・近世)P3など
3/2 摂津国豊嶋郡などへ徳政令発布
 ※箕面市史(資料編2)P413など
7 幕府・織田信長勢、播磨・但馬国方面へ向けて出陣
 ※龍野市史4(史料編1)P463など
8/1 摂津守護池田勝正、但馬山名氏討伐に従軍
 ※池田市史(史料編1)P81など
8/8 摂津守護池田勝正、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しの通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P900など
8/17 堺商人今井宗久、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しについて池田勝正へ音信
 ※堺市史5(続編)P898など
8/27 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P906
10/23 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P914
10/26 摂津守護池田勝正など幕府勢、播磨国へ出陣
 ※足利季世記(改定 史籍集覧第13冊)P255、池田市史(史料編1)P81など
11/11 摂津守護池田勝正、織田信長方から再度押領停止の通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P916、織田信長文書の研究-上-P323など
11/19 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P916

<永禄13年・元亀元年>--------------
1/23 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
 ※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア53号P134(二條宴乗記)など
2/2 将軍義昭、禁裏へ参内
 ※言継卿記4-P383
2/22 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P927
4/20 幕府・織田信長勢、京都を出陣
 ※言継卿記4-P407、多聞院日記2(増補 続史料大成)P181など
4/26 越前国天筒山・金ヶ崎城などが落ちる
 ※朽木村史(史料編)P147、信長公記(新人物往来社)P103など
4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
 ※朽木村史(資料編)P147+148、信長公記(新人物往来社)P103など
4/30 織田信長、京都に帰着
 ※言継卿記4-P411、多聞院日記2(増補 続史料大成)P182、ビブリア53号P146(二條宴乗記)など
5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
 ※織田信長文書の研究-上-P409など
6/1 摂津池田衆、摂津国欠郡中嶋城の普請を行う
 ※新修 茨木市史(通史2)P28など(狩野文書)
6/18 摂津池田城内で内紛が起こる
 ※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634など
6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
 ※言継卿記4-P425など
6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
 ※言継卿記4-P425
8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
 ※言継卿記4-P440、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P156など
8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
 ※ビブリア52号P155(二條宴乗記)、池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P440など


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2024年1月4日木曜日

河内国若江郡長田村の八幡宮

河内国箕輪村(現東大阪市箕輪)と同じ若江郡に属する長田(現同市長田)にも鎌倉幕府により地頭が置かれたようだとしています。この幕府による地頭の設置がキッカケで、同地にはそれぞれ八幡宮を祀るようになったのではないかと思われます。開幕した源頼朝は、八幡信仰者で、京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請していますので、幕府と関連する施設には、やはり八幡宮が祀られる傾向にあったのではないかと思われます。繰り返しになりますが、その記述部分を以下に紹介します。
※大阪府の地名2(平凡社)P945

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◎東大阪市「中世」条

新田構成地図
京都府八幡市 石清水八幡宮(前略)平安時代末の天養年間(1144-45)市域内水走の地が藤原季忠を祖としてこの地方の代表的中世領主水走氏が登場した。同氏は河内郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、氷野河(現大東市)・広見池など池河や、河内郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、市域一帯を支配していた。源平合戦のとき、大江御厨に源氏の兵粮米が課せられ、水走開発田にも兵粮米使が乱入したが、当寺の領主康忠は源義経に訴えて鎌倉御家人となり、本領を安堵されている。また市域の武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わった。乱(源平合戦)のあと市内の箕輪や長田に鎌倉幕府の地頭が置かれたらしく、「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に記された、地頭が伊勢神宮造営の役夫米を未済した所々の中に河内国三野和・長田の地名がみえる石清水八幡宮領高井田の地頭は将軍家祈祷所として停止され八幡宮の直接支配に戻った。また若江北条にも地頭給田があった。しかし鎌倉時代の市域は皇室領の大江御厨・若江御稲田、摂関家領玉櫛庄、中御門家領因幡庄、興福寺領若江庄、高野山領新開庄、石清水八幡宮領神並庄・桜井圓、枚岡社領荒本庄など公家寺社勢力が強く、その特権を帯びた供御人・寄人・神人らが諸産業・交易・交通などの業者として活躍し、やがて玉櫛庄民が日吉神人と称して八幡宮神人と利権を争い、若江住人が和泉国大鳥庄(現堺市)内の抗争に加担して悪党とよばれたように(田代文書)、庄園体制の旧秩序を攪乱して南北朝の内乱を導くに至る。(後略)

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長田の神社は現在「長田神社」と称していますが、今も八幡宮を祀っています。こちらも箕輪村と同じような「八幡宮」を祀る経緯を持つのではないかと思います。
 この長田村の歴史について、いつもの大阪府の地名から抜粋します。
※大阪府の地名2(平凡社)P980

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◎長田村(東大阪市長田:中1-5丁目、内介、西1-6丁目、東5丁目、長田)
1908年(明治41)測量の地図
若江郡に属し、標高3.75-5メートルの平坦地で北は稲田村。大和川付替えまでは、村の西を楠根川が流れていた。明治20年(1887)前後の仮製地形図では「長」に「ヲサ」とよみを付す。「新撰姓氏録」(河内国未定雑姓)の「長田使主 百済国人為君主之後也」は、当地に関係ある人物と伝える。「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に、神宮使が各地の地頭の造太神宮役夫工米未進を訴えた記事があり河内国の未進のうちに「長田」がみえる。本願寺証如の「天文日記」天文11年(1542)5月4日条に「斎を河内長田教法為志調備之」とある「長田」も当地と考えられる。
 慶長17年(1612)の村高は801石余、寛永5年(1628)高西夕雲により117石余が無地増高された。同19年には村が大方と小方に分けられた(布施市史)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高1243石余で、848石余が幕府領、394石余が山城淀藩領。延享2年(1745)の村差出明細帳(栗山家文書)によると、幕府領分が大方、淀藩領分が小方。大方は寛文2年(1662)大坂城代青山宗俊領となり、小方は明暦4年(1658)淀藩主永井尚政の三男尚庸領となる。延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大方は大坂城代太田資次領で610石余、改出117石余(無地増高)・120石余の計848石余。小方は永井尚庸の息直敬領で394石余。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同様。大方は貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり、同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)、元禄13年(1700)から幕府領(宝暦10年「村差出明細帳」百済家文書)。小方は貞享4年直敬の下野烏山入封に伴い同藩領となったが、元禄15年から幕府領(宝暦10年村差出明細帳)。
長田神社(八幡宮)本殿
 元文2年(1737)河内国高帳
では一村幕府領で884石余409石余。延享2年の村差出明細帳によると大方は高844石余・菖蒲池新田27石余(反別2町5反、石盛1石1斗)、川違新田12石余(反別1町6反余、石盛8斗)、小方は高396石余、長田村新田12石余(反別1町1反余、石盛1石。)なお、宝暦10年(1760)の村差出明細帳では大方・小方に分かれているが、安永8年(1779)の様子明細帳(田中家文書)では大方499石余、大方から分かれたと思われる中方396石余、小方409石余に分かれてる。幕末には京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩)領。なお、延享2年の村差出明細帳にみえる菖蒲池新田は宝暦10年の村差出明細帳では古新田とあり、元禄14年万年長十郎の地押(6尺竿)。川違新田は大和川付替えに伴うもので、享保6年(1721)玉虫左兵衛・遠山半十郎の検地(6尺3寸竿)。
 延享2年の村差出明細帳では大方の家数134・人数574、小方の家数57(高持46・無高10・寺1)・人数269。大方・小方で牛31、小船30(野通い・肥船)、竜骨車21・踏車28(ともに用水・悪水かき)。酒屋2・たばこ屋1・醤油屋1・たね買6、ほか1。余業は男女とも木綿稼。地蔵堂・禅宗常心寺・唱名庵・林鳥庵・摂取庵(現浄土宗)西願寺(現浄土真宗本願寺派)などが記される。安永8年の様子明細帳では、大方の家数94(うち寺2・庵3)・人数381(うち僧3)・牛12、中方の家数41(うち道場1)・人数193(うち僧1)・牛8、小方の家数58(うち寺1)・人数222(うち僧1)・牛5。平坦・低湿の地にあるため、南の新家村との堺に150間、荒本村との堺に79間の水請縄手をつくっていた(宝暦10年村差出明細帳)。文政5年(1822)松原宿の助郷村に加えられた(布施市史)。
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戦乱の世も終わり、社会が安定してきた頃の記録である、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高1243石余という、かなり大きな生産性を持つ村である事が分かります。
 江戸時代も社会が成熟してくると、経済的な停滞期も何度かあって、江戸時代中期頃に村切りが行われます。しかし、一貫して、生産性は衰えることも無く、幕末まで維持されていきます。
本願寺証如(光教)上人座像
 それから少し時代を遡って、『大阪府の地名』の記述中にある『天文日記』の該当部分を抜粋します。時は室町末期の戦国時代です。
※石山本願寺日記 上(証如上人日記)P420

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◎1542年(天文11)5月4日条
斎を河内国長田教法志為之調備。斎料為300疋之出す。仍って汁3・菜8。興正寺之呼び(此の門下也)教法方自り、相伴5人来たる。布施は100疋。兼誉・兼智等30疋宛。経照に20疋、坊主衆へは常の如く。(後略)
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「教法」というのは、人物名だと思われます。この時の法主は、「光教」で、この一族は、「教」「光」「兼」の文字を継ぎ、中でも「教」は、一族中枢に使われていたようですから、長田に配された人物は、教団内で非常に重要な位置付けにある人物だったと思われます。
 また、同じ本願寺関連の史料の中に「河内国長田」の記述がありますので、それもご紹介します。この年は本願寺宗が、時の中央政権との関わりを拗らせて、激しい武力闘争を行っていた頃でした。
※石山本願寺日記 下(私心記)P239

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◎1535年(天文4)6月10日条
敵出候。賢勝宿にて見物候。麦振る舞われ候。八時(午後2〜4時)に、森河内等崩れ候て、人数引き退き候。仍って中道・中間(浜?)まで敵焼き入り候。長田・稲田等落居候。
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天文4年の闘争では、やはり武士相手ですので、戦には適わない事が多かったようです。この時も長田と稲田の拠点は、敵方の手に落ちたと記述されています。

一方、『大阪府の地名』には、神社の記載がありません。東大阪市の神社全般に言える事ですが、経緯不明の場合も多く、この長田神社(八幡宮)も例に漏れずです。詳しくはまた、調査をしたいと思いますが、現地にある、東大阪市教育委員会の案内の内容を取りあえず、ご紹介しておきます。

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◎長田神社と子安地蔵
長田神社(八幡宮)鳥居
長田から西堤にかけて細長く続く旧集落は、古くは旧若江郡の北辺に広がっていた大きな湖沼(新開池)の南岸堤上にそって営まれた古い集落です。
 長田村の中央字相生と呼ばれた所に鎮座する長田神社は、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命、多紀理毘売命の三神を祀っています。神社の北方には字意伎宮屋敷、弓場と呼ばれた所があり、神社が焼失したため現在地に移されたといわれます。境内には本殿の他に末社として賽神社・愛宕神社・稲荷神社・水神社・琴毘羅神社があります。
 境内の北側には「摂取庵」と呼ばれる浄土宗の堂があり、鎌倉時代末期の木像地蔵菩薩立像(像高91cm)が安置されています。この地蔵像は、地元に伝わる「子安地蔵縁起」によれば、嘉禄年中(1225-27)、恵心僧都作と伝えられ、江州(滋賀県)堅田で子安地蔵としてまつられてきたものが、有縁の地である長田村へ移されたことがわかります。地蔵像及び子安地蔵縁起ともに、この地の歴史を伝える文化財として1974年(昭和49)3月25日に東大阪市文化財保護条例により有形文化財に指定されています。
東大阪市教育委員会 
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今の長田神社は、火災によって焼失したため、字意伎宮屋敷から現在地に移ったようです。その場所は、現在の場所から北へ200メートル程のところのようで、1908年(明治41)測量の地図では、既に現在地にありますので、それよりは以前の事ですが、それ程古い訳ではないようです。もしかすると、明治維新の混乱での事かもしれません。
 現在の神社は、寺地に再建されているようで、一乗寺との関係も浅からずあるようです。一乗寺は、天正8年創建と伝わり、この年は、織田信長政権下で、荒木村重の乱が収まる頃です。河内国中域は、荒木氏の委任支配下であり、同時に本願寺が織田方に降伏し、摂津・河内国の乱もひと段落する年です。長田村は、本願寺勢力の地域だったようですので、一乗寺創建の経緯はその事とも何か関係するのでしょう。

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◎一乗寺と善光寺阿弥陀三尊図
融通念仏宗 一乗寺 伝1580年(天正8)創建
一乗寺は、旧長田村の中央字中の町と呼ばれた所にあります。この寺は融通念仏宗の寺で、阿弥陀仏を本尊としています。
 記録によれば、天正8年(1580)に観信という人の開基と伝えています。寺には南北朝時代前後の作である絹本著色善光寺阿弥陀三尊図が残されています。
 善光寺式阿弥陀三尊は、鎌倉時代以降各地で信仰され、彫像は数多く伝わっていますが、仏画としての遺品は非常に少なく、一乗寺の三尊図は貴重なものといえます。
 近年の修理で三尊部分は描き改められていますが、その下の須弥壇や不動明王・毘沙門天の二像の緻密な描法等は、当初の趣を多分に残しています。
 鎌倉期の余影をとどめる善光寺阿弥陀三尊画像の貴重な遺品として、1985年(昭和60)1月23日に東大阪市文化財保護条例によって有形文化財の指定を受けています。
東大阪市教育委員会 
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今のところ、長田神社(八幡宮)周辺情報に留まっており、予備情報と言ったところですが、近日に調査して、情報を追加したいと思います。

 

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