2023年4月29日土曜日

『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える

 摂津佐保城と同佐保栗栖山城について詳しく見る中で、その調査報告書には、非常に気になる指摘がされていました。個人的にも永年興味を持っていた中世の民俗学的なところであり、発掘調査報告書にも述べられている「人質」や、14ある曲輪の内、主たる構成要素であるものの曲輪1のみが火災を被った跡が確認された事には、注目しています。この、全体ではなく、一部の火災であるという状況は、「自焼」では、ないでしょうか?

【過去記事】佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える

これらについては、『戦国の作法』(藤木久志著:平凡社)に、興味深い研究成果がみられ、上記の調査報告書にある要素を補うものになるように感じています。
 例えば、「人質」について。織田信長に擁立された将軍義昭政権は、朝倉・浅井氏攻めから戻った後、事態の深刻度から、五畿内の主立った武家から人質を取っています。元亀元年5月上旬のことです。この時点に於いて発足して間もない将軍義昭政権は、なおの事、権威を基にした「人質」政策を打ち出す事が度々あったと思われます。
※信長公記(新人物往来社)P102

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◎越前手筒山攻め落とさるるの事
(前略)4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)さて、京表面々等の人質執り固め公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)
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また、織田信長から毛利元就への音信の中で、習いに則りそれぞれ人質を取ったと述べています。
※織田信長文書の研究-上-P409

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(前略)一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条(後略)
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これらの記述は、民俗学的観点で藤木久志氏が、中世の「人質」について、研究成果を示されています。
※戦国の作法P54

中世の町の復元例(三重県四日市市)
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◎身代わりの作法・わびごとの作法
中世の村は、破壊的な暴力の回帰や反復を避けるために、いったいどのような主体的な能力や作法を備えていたか。中世を通じて様々な紛争の庭で、そのはじめの段階にみられた「言葉戦い」という挑戦の作法(武装に先行する言技)も、その一つであったが、ここでは更に、紛争の解決の過程に特徴的に見られる「身代わり」や「人質」の作法、その最後の段階によくみられる「わびごと」や「降参」の作法、などについて調べてみよう。
 少なくとも15〜16世紀を通じて、中世の村が次第に自前の紛争解決能力を高めていたことは確実で、例えば、村という共同体のために払われる個人の犠牲に対して、村が集団として補償や褒美などを与える慣行を成立させていた事実は、よい例である。近世で「村請」の母体となる、自立した村の確かな原型がここにある。
 さて、中世の犠牲と言えば、私たちは服従や講話を誓う契約の証しに、しばしば童子が人質に取られ、童女が政略結婚の犠牲になったという話しを、歴史の悲劇や戦国ロマンとして、よく知っている。また、現代のハイジャック事件のような、荒っぽい人質取りも、ごく日常的に行われていた。
 更に、殺人事件の処理にさいし、被害者側に加害者 = 下手人本人ではなく、加害者の所属する集団メンバーの誰かを、解死人(げしにん)として引き渡し、被害者側はその謝罪の意思に免じて、原則として処刑しないという習慣があり、この解死人にも、よく子どもや集団内部の弱者が選ばれた、という興味ある事実も知られるようになっている。
 こうして様々な紛争解決の庭で、人質や身代わりに子どもや集団内部の弱者を立てる習わしは、その根本で一つにつながっていたのではあるまいか。いったい「質取りや「身代わり」の習俗は、中世後期の社会にどのような特徴をもって広がり、その底にはどのような意味が秘められていたか。
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この前提を基にして、個別の事例が紹介されており、関連する文節を上げてみます。
※戦国の作法P61

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(前略)つまり武家も寺家・公家も村人も、ともに質取り行為をしていたいのである。質取りというのは、この荘園の世界 - おそらくは広く中世の社会で、ごく普通に行われる紛争解決の一手段であったに違いない
 質取りされた人々はふつう「人質」「囚人」などといわれ、質取り行為は「留置」「搦取」「質取」「生取」「召取」「召籠」など様々に呼ばれている。まさにその言葉通り、人質にされる村人は武力で無理やり生け捕られ、既出の例のように縄でしばりあげられ、警固をつけて召し籠められる囚人で、例Gでは、要求をいれなければ斬り殺すぞと脅迫されている。
 だが、逃げ出して捕まり、殺されそうになった場合を除けば、人質があっさり殺されてしまった例は一つも見られない。このことは重要である。しかも、ただ身代金が目当てらしい、例Fを除けば、男女の区別もなしに無差別に質取りされるわけではなく、また、例B・Hのように、人質の資格なしとして釈放された例もある。この野蛮な中世の質取りにも、どうやらそれなりの作法 = ルールがあったらしいのである。(中略)
 これらの事例は、武家などによる質取りといっても、全く無差別に強行されたわけではなく、その背後には、目的に適った質取りの作法がひそんでいた、という事実をよくうかがわせてくれる。(後略)
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詳しくは、『戦国の作法』をご覧いただきたいのですが、紛争解決の手段として、人質を取るという事は、交渉の保証であり、当時の社会感覚として普通の習慣であった事が、解かれています。
 一方、「自焼」についても、非常に興味深い視点で藤木氏が解き明かしています。例えば、1515年(永正12)播磨国鵤庄の平方村での事件を紹介して説明しています。
※戦国の作法P83

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(前略)永正12年(1515)播磨鵤庄の平方村で、この庄の衆が不慮の喧嘩から守護方の衆一人を殺すという事件となった時にも、円満な解決を願うこの庄では、「解死人ヲヒカセ、在処ニ煙ヲ立、...礼ニ出」るという、一連の手順を踏んで詫びを入れた。たんに解死人一人を出せば済んだわけではない。
摂津原田城の古写真
 「在処ニ煙ヲ立」てたというのは、近江国菅浦の例で「煙をあげ」たのと同じ作法であろう。この庄では「少家一ツ、二百文二カウテ、ヤク」と書き留めているから、「在処」つまり事件現場の村で「」を「焼くのが謝罪の儀礼であったらしく、そのためにわざわざ小さな家一軒買い求めているのである。「礼ニ出」たのはこの庄で図師代の役をつとめる有力名主の一人であったが、「解死人ニハ、兵庫ト云者二、料足スコシトラセテ」遣したというから、別に解死人(名前からみて、あるいは村の乞食か)も、金で雇っていたわけである。(中略)
 「礼儀」に出頭する名主の全員が、まず名主の家格のシンボルであった家門を焼き、ついで本人自身も人格のシンボルである髷を剃り(おそらく名前も変え)、「黒衣・入道」の法体になって、村の神社に趣き鳥居の前で、相手方の名主たちに謝罪の礼をとるというからには、この作法にも、刑罰や処分というよりは、むしろケガレをはらう儀礼の色が濃厚である。
 また、百姓の家を「年老次第」に30軒選んで放火するという処分も、おそらくは「家」を基準として、年齢階梯の形で編成された「村」の、百姓たちの正規の成員たる資格 = 家格のシンボルであったに違いない。その意味で、この「村のわびごと」の作法は、解死人の儀礼とも深いつながりを持っていたといえよう。(後略)
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そして更に、次のような史料があります。1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌に連動して、非常に関係の深かった同国原田氏の家中でも内訌が起きました。その折、原田城を「自焼」という記述が見られます。
※言継卿記4-P440

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(前略)一、原田の城自焼せしめ、池田へ加わり云々。
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原田右衛門尉銘一石五輪塔

詳細は不明ではありますが、摂津原田家中での内訌の結果、自らの城を焼いて、三好三人衆方の池田家へ加担したようです。この前々月の6月、池田家中で内訌後に城を出た、惣領の池田筑後守勝正は、一旦、原田城に入っています。その重大事態に、原田城に入るのですから、相当に深い関係です。そしてその直後に、その原田城で、この状況に至ったのですから、原田氏の大半は三好三人衆方の池田家へ加担することを決めたという事態から起きた、「自焼せしめ、池田へ加わり云々」だったと思われます。

それから、補足として、宣教師ルイス・フロイスの当時の上司への報告書や晩年にそれらの出来事を回想し、日本についての叢書をまとめた『フロイス日本史』の中から、関連する記述をご紹介します。
※耶蘇会士日本通信 下

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◎1571年(元亀2)9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡
(前略)彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
 和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。
 此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。(後略)
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また以下は、フロイスの晩年の編纂による叢書『フロイス日本史』です。これは『耶蘇会士日本通信』の発信当時には知り得なかった事、理解できなかったことを補足してあります。
※フロイス日本史(中央公論社刊)

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◎第1部94章 和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について
(前略)和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした。(中略)
 和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
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このように『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』での見解は、私の中では、以前からの興味とも接点があり、非常に示唆に富んだ内容でした。

藤木氏の研究などにより、『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にあるところの、「建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)」とは、儀礼的な「自焼」であり、「このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。」とは、その想定通りに「人質を収容する曲輪」だったのではないでしょうか。
 宣教師ルイス・フロイスの記録のように、和田惟政は統治の日が浅く、また、他国人でも有り、地域とのつながりも、信頼関係も構築し得なかった。それ故に、権力による統治を並存させなければならなかった。
 更に言えば、これらの条件が揃う時期、発掘調査から導き出された時期を考慮すれば、佐保来栖山城は、1571年(元亀2)8月の白井河原合戦に関わる経緯を持った、幕府方の地域拠点城であったように思われます。

民俗学の分野は、私のこれまでの記事には取り上げていませんでしたが、事象を理解するには、非常に有用であり、改めて民俗学の重要さを認識した次第です。今後とも民俗学を含め、様々な見聞を拡げていきたいと思います。


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2023年4月8日土曜日

佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える

永い間、気になっていた佐保城を訪ねる機会があり、行ってきました。お誘いいただき、実現しました。実際に現地を歩いてみると、文献からは判らない「感覚」を感じることができ、非常に有意義です。
 この佐保城がなぜ気になるかというと、白井河原合戦において、非常に重要な位置づけであるためです。ここは、幕府方の和田伊賀守惟政が本陣を置いた幣久良山から5.5キロメートルの距離にあり、徒歩でも1時間余りの至近距離にあります。

左手は中世頃の寺跡と推定 
当時の記録『尋憲記』8月29日条には、一、摂津国にて、昨日28日合にて和田父子其の外同名衆打ち死に。各家の衆237人、中間小者55人打ち取り由也。池田・淡路衆との合戦にて打ち果たし、則ち高槻・茨木・宿久城・里(佐保)城、以上4つ落居の由、慥かに沙汰と申し候処へ、城宗徳方(不明な人物)より上乗院へ書状同辺由也、とあります。
 いくつか、白井河原合戦について記録している当時の日記がありますが、佐保城についての記述は、『尋憲記』のみです。
 ちなみに『尋憲記』とは、奈良興福寺大乗院の門跡尋憲が綴った日記で、この頃、奈良方面でも合戦が盛んにあり、周辺地域の情報を小まめに書き残しています。奈良方面へも和田惟政は、度々出陣しており、この白井河原合戦の直前にも出陣していました。
 また、物理的な視点では、茨木・高槻(大阪府)方面で起きた戦争の速報が、合戦翌日に奈良興福寺大乗院(現奈良市高畑町)へ届いていて、その情報に佐保城を含む、高槻・茨木・宿久城の4つの城が落ちたと伝わっています。この内、高槻城が落ちたとの報せは、結果的に誤報でしたが、概ね情報は正確です。

この合戦により落城したという情報要素は、この時の状況から考えて、佐保城は和田方となっており、そこを池田勢が攻め落としたという事になりそうです。
 ただ、いつ頃から佐保城が和田方であったのか、明確な記述は見当たりません。また、佐保城と佐保栗栖山砦との関係性、城主や築城年代なども公的には不明で、故に白井河原合戦時の関係性もハッキリとしたことは材料の乏しさから不明といえます。
 今後の議論収斂に役立てばと思い、現在あたる事の出来る材料をまとめておきたいと思います。この小考の最後で、個人的見解をまとめてみたいと思います。
 先ずは定番、日本城郭大系からです。
※日本城郭大系12-P75

---(資料1)--------------------------------------------
佐保川の流れ
佐保城は、茨木市上音羽の多留見から発する佐保川が佐保の本庄で流れを東から南へと大きくかえる地点の北方の山頂に営まれた山城である。
 山は城山と呼ばれ、標高198mの独立丘的な形態を有する山であるが、背後(北)の山とは、わずか幅約30mの田圃を介して続き、その田圃との比高もわずか7-8mに過ぎない。したがって、背後からの攻撃には弱く、そのため、おおむね東西に長く延びる本丸の北側部分約80mにのみ土塁をめぐらしている。
 一方、南面はこの山から派生する支脈を介して佐保川に臨んでおり、その比高も約50mにも達しており、非常に堅固であるといえる。
 さて、本城は、わずかにくの字形に彎曲するものの、ほぼ真一文字に東西に延びる山頂部を本丸とする単郭式城郭と思われる。山頂南面中央部には大手口と推定される区域があり、2-3m四方の小さな平坦部が残っているが、そこには本丸を背にして高さ1.5m、幅70cm内外の巨石が三個立て並べられており、後世、大坂城の大手門桝形・同桜門桝形などの虎口正面における巨石使用の先駆として注目されるものである。この大手門に至る大手道は、つづら折となって続いているが、途中数カ所で巨石が2・3段積みあげられている場所があり、城郭に関わる何らかの施設の跡と思われる。大手道を下っていくと、山の中腹に10年程前に新築された住宅があり、その裏庭で大手道はとぎれてしまっている。したがって、それ以下の城郭施設の有無については、全く知ることができない。
 一方、本丸の北面する部分は、前述したように高さ40-50mの低い土塁が続いており、防衛力の弱い北方からの攻撃に備えたものであろうと推定される。本丸の平坦部は、枯れた松や竹林によって足を踏み入れることさえ困難な状態であり、内部の残存状況はまったくわからない。
 いずれにしろ本城は、石塁もほとんど持たない単郭式の小城郭であったと思われ、その北部に営まれていた泉原砦と同じく、能勢と茨木とを結ぶ山中の間道を扼するために築かれたものであっただろう。
 城主・沿革についても全く伝わっていない。ただ、建武3年(延元元:1336)頃、泉原には勝尾寺領高山庄の下地雑掌職を勤める泉原将監という人物があおり、それが泉原砦とも何らかの関係を持っていたと思われるところから、この佐保にもこの頃、佐保一円を支配した小土豪が存在したことは充分考えられる。
 なお、『東摂城址図誌』には、この城のほかに佐保砦跡として一城跡の存在を記している(字城屋敷)が、その遺跡は明かではない。
--------------------------------------------(資料1おわり)---

そして、日本城郭大系からです。しかし、この表題は佐保城ですが、どうも佐保栗栖山城を指しているようです。
※日本城郭全集9-P87(1967年8月刊)

---(資料2)--------------------------------------------
保川右岸、栗栖の中腹に東西約60メートル、南北約220メートル、回字形の城であった。別に東西約100メートル、南北約216メートルともあり、城山といわれ、字を宮ノ上という。別に東西、南北とも約60メートルの砦あり、城屋敷という。
 興廃の年月、歴史も明かではではないが、付近に泉原城、当城より南へおよそ2キロメートル、佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう(『摂津志』『東摂城址図誌』)。(北本好武)
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続いて、わがまち茨木(城郭編)での佐保城の記述です。
※わがまち茨木(城郭編)P70【執筆者】免山 篤

---(資料3)--------------------------------------
佐保城縄張図(わがまち茨木より)
大字佐保字馬場谷の通称城山に築かれた城砦である。佐保は泉原と同じく山間の佐保川中流に開けた盆地で、歴史は縄文期の庄ノ本遺跡に始まるのであるが、その後の遺跡は現在のところ不明である。泉原と同様に仁和寺の庄園として支配されていた。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、有安名のそれは30石〜50石と、異常に大きな名主であった。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いた。このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。
 さて、城であるが、佐保の元村と称する字庄ノ本集落の東に、北から延びてきた尾根が一度低下し、その先端から隆起して佐保川に向けて押し出した標高198メートルの小丘を利用して築かれている。主軸をほぼ東西におく長さ80メートル、幅30メートル位の楕円形をした単郭式の城で、北西の尾根に続く部分は幅20メートル位に切り開かれて、付近に「堀切」の地名を残している。この部分が、比高8メートル位と最も低く他は20〜30メートル位の急傾斜で囲まれている。
 城への入口は、山の西際に居住の山の持ち主でもある庄田氏宅の北側に開いている。村道から少し登った処に小郭があり、その南端から郭内への登り道が出ている。小郭の北側にも堀切状のものが北に造られている。道は少し登ると等高線に沿って幅が少し広くなり帯郭状になった部分を経て急坂が曲折して郭の東南に取り付いている。
 これとは別に曲折した道の途中から石を乱雑に積まれた部分を通って郭の南西側中央に造られた長さ7メートル、幅3メートル位の小平地に通ずる道があり、これが本来の郭の入口であろう。この地点には巨石が4個直線に並んでいるが、これは岩石節理の露出を郭壁に利用しているようである。
 郭内北側は、高さ1.5メートル位の土塁が構えられている。土塁は地点によって規模に変化が見られ、北西部分の規模が最も大きくなっている。これは比高の最も低い部分に対する配慮であろう。
 北の一角には矢倉台と見られる部分があり、その地点で土塁が一部切れているが、外部への道は見られない。それより東寄りに前記矢倉台と対になるあたりに土塁が郭内に突出した部分があり、塁もその岐点で高くなっている。
 郭の西北縁辺に径2メートル、深さ1メートルの円形土拡がみられ、狼煙の跡と思われる。郭内には人頭大の河原石がかなりみられるが、何れも浮いて存在する。外郭設備とし、東南側の土塁から7メートル程下った地点に南北に長さ30メートルの堀切が造られている。
 ほかに北側堀切に接して二段に小平地が造られ、上の段に一ヵ所、下段に二ヵ所の円形陥没が見られる。しかし構築の目的等は不明で、下段の一基は、かなり深く掘られているが、湧水の可能性の薄い地点であるので、井戸とは見られず、新しい掘削のようでもある。城地には矢竹が密生しているが、植栽された可能性がある。矢竹は当地方では、集落付近のみという片寄った分布が見られる。
 築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。時期は今のところ不明である。佐保氏に関しては史料を欠くが、豊後竹田の中川家文書中、山﨑合戦部分の記事中に(佐保喜兵衛)の名が見られるのと、市内千提寺のキリシタン墓碑銘に佐保カララ上野マリアの名が残るのみである。ちなみに「上野」は、「カミノ」で、佐保の別称である。余事ながら、これは千提寺のキリシタン史料を解く鍵の一つと考えている。
--------------------------------------------(資料3おわり)---

同じ資料から、佐保栗栖山砦についてです。
※わがまち茨木(城郭編)P73【執筆者】免山 篤

---(資料4)--------------------------------------------
佐保栗栖山城縄張図(わがまち茨木より)
『摂津志』に「佐保砦」とあるものである。佐保盆地の南を画する山脈が、佐保川によって切断された東側の突端、標高184メートルの来栖山頂に築かれた連郭式の城屋敷と称す。東西200メートル、南北100メートルの範囲に遺構を残している。尾根続きの東を除く三方は急斜面で囲まれた要害の地である。
 城への通路は佐保から福井に通ずる旧道より分かれて佐保川の枝流大谷川を渡って東方へ尾根沿いの道が通じている。いま一本、国見街道より尾根筋が東から通じ、途中郭の手前60メートル位の処に、長さ25メートルにわたって幅約0.5メートルの土橋が造られ通行を制限している。これを過ぎて少し進んだところで佐保の谷からの道と合流して郭の入口に至る
 虎口には、左右に竪堀が延びてその間に幅1メートル位の土橋が造られている。入口正面に比高4メートル、上面の径14メートル位の見張台状の小郭があり北側のみ土塁を構えてこれを第一郭とする。道はこの郭の南裾を通って次の第二郭へと通じている。
 二郭は、本丸に当たる第三郭との間に位置する30メートル四方位の不整円形をしたもので、当城で最も広い面積を占めている。郭内南東部には浅い5メートル四方位の凹地があり、その北に小さな土拡が2基見られる。
 二郭より一郭への通路は、現在一郭の西南に登り道があり、一郭の西に少し下って小平地が造られていることから、当時の入口は、そのあたりかも知れない。二郭の南に比高4.5メートル位の径18メートル不整五角形をした一郭がある。これが中心郭で、第三郭とする。南西に小平地を伴っている。三郭の西に長さ12メートル、幅8メートル位の郭があり、第四郭とする。北側に土塁を構え土塁の三郭裾への取付部から北に向かって竪堀が延びている。南側の東端、次の第五郭との境に長さ5メートル、高さ1.5メートル位の石積みが見られる。三郭の南には二郭と同じ高さで10メートル × 20メートル位の第五郭が造られ、第二郭とは小径によって結ばれている。
 郭の中央から南に向かって排水溝のような設備が地表に現存する。この二・五の両郭が生活の場と考えられ、土坑等はそれに関係するものであろう。
 四郭の西には少し高くなって長さ20メートル位の細長い郭があり、東半分には巨石の露出が多く見られるが、人工的な石の移動は見られない。これを第六郭とする。この郭も西に小平地を伴っている。六郭の西には6メートル程下って約6メートル四方位の小郭が造られ、これが城地の西端である。
 城の北側に井戸ヶ谷と称する谷があり、以前八角形の石積み井戸が残っていたと伝えられるが、現在埋没してみることができない。城の内外には土拡の存在を示す陥没地が多く見られるが、性格は不明である。山の持主、北浦照之氏の話しでは、手痕の付いた土器を拾ったことがあると云うことである。
 この城は佐保の入口を扼し、国見街道にも通じ、地の利を得ているのであるが、築城の時期、築城者については、全く史料を欠いている。戦国頃の築城と考えられるが、今後の調査に期待する。しかし、小規模ながら、完全に当初の地形をとどめた城砦として貴重な存在である。(後略)
--------------------------------------------(資料4おわり)---

最後に、佐保栗栖山砦の発掘調査報告書から、必要部分を抜粋したものを以下に示しておきたいと思います。以下は「第3章 調査の概要」「第7章 総括」「付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構」からです。
※佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -:2000年11月

---(資料5)--------------------------------------------
佐保栗栖山城の現在(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡は文献にその名前を残さない城跡であるが、この尾根には不自然な平坦面があり、調査以前から砦跡(山城)の存在が知られていた。(中略)曲輪1の平坦面から疎石建物が検出され、その北側と東側には土塁2がある。建物の礎石や床面は火熱を受けており、火災を被ったことが確認された。また、建物に使用されたと考えられる焼けた土壁も多量に出土している。(後略)
※第3章 調査の概要より

佐保栗栖山砦は「砦」と呼称するよりも「山城」と言うべき規模を有するものであることが明らかとなった。また、全面発掘調査により、郭同士の連絡機能が明確になり、様々な工夫がみられる注目すべき貴重な調査例となった。
◎佐保栗栖山砦の存続期間:出土遺物からは15世紀末から16世紀中葉までの期間が考えられ、出入口1の構造、各石積の使用状況、礎石建物、瓦の不使用から、現状の構造となって、放棄されたのが16世紀中葉の新段階であると考えられる。礎石建物や斜面の石積は短期的な存続を考えたものではなく、また、遺構の変遷も確認されたところから、15世紀末或いは16世紀前葉に築城され、16世紀中葉に破却されるという存続期間を推定する。
◎築城主体について:当砦跡は大規模な山城ではないが、在地集落在住者である小領主が築いた城としては規模の大きさや構造面から考えにくい。もう少し強力な権力が介在したと考えるべきではないかと思われる。村落に密着した在地支配の拠点として築城されたのではなく、何らかの軍事緊張に伴って築城されたことが推定される。近くには佐保城がありながらも異なったこの場所に栗栖山砦を築城している。その意義は大きいものであろう。
 但し、変遷で述べたように曲輪1を中心とした小規模の単郭山城であった古段階の時期を想定するならば、小領主、土豪の城郭として当初は機能していたことも考えておかねばならない。
◎最後に:以上のように佐保栗栖山砦跡は戦国期に拡がった防御技術を各所に積極的に活用していることがわかった。中世山城は築城主体・戦闘方法・社会情勢などの変化の中で、城自体にも様々な機能が求められ、それに応じて構造と共に著しく多様化を遂げていった。佐保栗栖山砦跡も半世紀に近い存続の中で様々な変化をしたことが明らかになった。(中略)
 佐保栗栖山砦跡の遺構・遺物から築城主体の権力構造の特色を導き出し、地域史・在地構造を分析し、さらに、一国以上の規模からもその存在について検討しなければならないのだが、充分な検討をするところまでには至らなかった。
※第7章 総括 第1節 佐保栗栖山砦跡の調査成果より

佐保栗栖山城(撮影2023.4.2)
◎佐保栗栖山砦跡以前の調査成果:砦跡の曲輪8の谷筋斜面から炭窯と考えられる窯が2基、曲輪3の南辺斜面から焼土坑が1基検出された。いずれも砦跡の下層から検出されており、砦の時期以前の遺構であることが確認された。出土遺物はごく少量であるが、10世紀に相当する土器が出土しており、これらの遺構の時期にあてることができるものと考えられる。(中略)佐保栗栖山砦跡の位置に10世紀には、人の行動が及んでいたことが明らかになった。
※第7章 総括 第2節 佐保栗栖山砦跡以前の調査成果より

◎佐保栗栖山砦は開発によって消滅することになったが、徹底的な発掘調査のおかげで多くの知見を我々に残してくれた。それは土木技術面から縄張り・立地に関わるものまで多岐にわたっている。
 そのうち全国的にも始めて確認されたと思われる曲輪造成技術に関わる事実は、曲輪11下面の地山刻み込みである。開発覚悟の全掘方針ではあっても、普通はここまでしないという最後のダメ押しの発掘で、私は現物を見る機会がなかったが、写真を送って頂いて驚いた。(中略)古代では珍しくないが、中世城郭では希である。
 (前略)同じ形は大和の十市氏関連の多武峰城塞群や穴師山などにある。(中略)十市氏の例をそのまま適用するのは難しいが、応用はできる。ヒントは、外側土塁が南側にはあるが北側にはない、という点である。(中略)だから南側だけ外側土塁の手法を採用したわけである。このような理屈に手慣れた様子は、1560年代前半の十市氏と同じレベルとみてよい。縄張りの編年作業に使える事例である。(中略)だとすると、規模こそ違え、姫路城二の丸の三国堀に相当する。曲輪1の西端の迫り出しの厳しさも、この関係で説明しやすくなる。(中略)
 そのころの本城は眼下の道を監視する軍事機能しか持たない閉鎖的な砦だったと思われる。それが改修されて、曲輪2が造成され(=堀が埋められ)、前述のような虎口と進入ルートの工夫がなされ、道との関係を積極的に追求するような性格の城に変質したのである。外と出入りする、開くということと、外と戦う、閉ざすということとの矛盾を解決するために、虎口の工夫がなされるのである。(中略)通路8の幅の広さも注目に値する。かなりの重要人物がこの通路を上下したに違いない。(中略)近世城郭では、こういう位置の曲輪は人質曲輪と呼ばれることがある。中世城郭では人質曲輪の確認例はない。それどころか人質曲輪のような機能を限定することが妥当かどうか疑問視されている。曲輪5の出土遺物の特徴からすると貯蔵庫の可能性があるようだ。(中略)
 このことから本城全体の性格を問うと、人質曲輪の可能性のある謎の曲輪5を秘匿=重用することを任務の一つに負わされて、改修されたのではないだろうか。
 本城は周辺との地理的な関係から見ると、高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎ城の可能性が高いが、それも細川・三好・松永等上部権力との関わり無しには考えられない。複雑な畿内政治に組み込まれる中で、特異な縄張りが必要になったのであろう。
※付章 佐保栗栖山砦の縄張りと遺構より
--------------------------------------------(資料5おわり)---

といっところが、現在のところの文献資料です。これらに加え、現地の観察から個人的に考えた(感じた)ことを以下にまとめてみたいと思います。

気になるのは、小盆地を囲む山地に城跡があることです。佐保・栗栖山城は、南北に走る亀岡街道の脇に立地し、監視・封鎖の用途としても機能していた思われますが、南西に伸びる盆地の端には岩坂村があります。この開口部にも手を打たなければ封鎖の意味が無くなり、筒抜けになってしまいます。
 岩坂村から粟生村方面への山道が伸び、両村は代々関係性が深いようです。中世末期から近世にかけての資料でも粟生村との関連性の親密さを感じさせます。現在の地名は「粟生岩阪(大阪府茨木市)」で、やはり伝統を踏襲しています。
 但し、岩坂村に隣接して神合(じごう)村があり、こちらは、佐保村に連なる関係であったようです。行政上の村切りかもしれません。とても複雑です。『大阪府の地名1』によると、1605年(慶長10)摂津国絵図には「五ヶ庄内谷」として「■■(梅原か)・屋上村・神合村・免山村・庄本村・馬場村」がみえ、近世初期に五ヶ庄と称された北摂山間諸村の南辺に位置した。とあります。
 さて、岩坂村についての推定ですが、岩坂村が粟生村と親密である状況が、中世にも続いていたなら、粟生の出先としての岩坂村だったのかもしれません。少々距離があるのは気になりますが...。
明治42年頃の佐保地域の様子

 時代により状況も色々で、敵になったり味方になったりすると思いますが、現地で聞いてみると、それぞれは親密な交流が続いていた訳でもないようです。ですので、共同体という意識も無く、敵味方に分かれる事も多々あったと思われます。

【佐保城について】
既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「築城は、地域守備を目的としたものであろうが、狼煙らしいものの存在から、ある時期には他地域との連合体制にあったことも考えられる。佐保川対岸にも小城郭様の地形が見られ、一連の城として佐保川沿いの旧道を守っていたものとも考えられる。
 築城の時期、築城者に関しては全く伝えるところは無いが、築かれた場所が地名からみて、庄の政所の所在地と見られ、中世庄官の流れをくむとみられる佐保氏の居住地でもあることから、一応、佐保氏が関係した城砦と憶測するものである。」と述べています。
 また、免山(めざん)・梅原の集落もこれを構成する一部であったと様にも見え、免山集落から城への道も複数本通じており、連動性があるように思われます。加えて、時期は不明ながら、発掘調査を踏まえると最初は小規模な関連施設的に栗栖山砦を連動させていたのかもしれません。
 そしてまた、城の眼下を通る亀岡街道は、何度も折れながら進みます。これは天然の「当て曲げ」でもあり、城の設備では「横矢掛かり」のような環境ができあがっています。軍事的緊張の高まりの折、ここを通り抜けるには相当な威圧になると思われます。真っ直ぐには進めませんし、両側に城の施設があります。

【村内に存在する別の権力】
現代社会でもある事ですが、基礎自治体の域内に上位行政体管轄の道(国道)が通っていたり、地勢上から上位行政体の機関が常駐する事務所(河川管理など)あったりします。
 これと同じく、中世にもそのような状況はあったと思われます。もちろん、その機能を引き受けることのできる体制であれば、城そのものも大きくなったり、中心政権内でも深く関わる氏族となって、それなりの大きな組織体となることでしょう。
 しかし、それができない状況では、上位権力の出先施設を置いて、運用すると言うことも当然ながら、あったでしょう。この佐保村の場合、村の統治機構の中(政所やそこから派生した地域の豪族)、その領域に、中央政権の城(栗栖山城)が存在したのではないでしょうか。
 それは、細川氏や三好政権あたりにそれが必要となり、その後の中央政権支配領域拡大(統治機構の変化)により、その役割りを終えたといった流れになる気もします。(元々の佐保と有安名という別の権力体(機構)が、時の状況により変質したのかもしれません。)その時期は、ちょうど16世紀中葉あたりで、荒木村重の統治する頃は、城郭形態も変化して、必要があれば有岡城など拠点城に人質は収容できるようになっていきます。
 この視点は、今のところ想像の域を出ませんが...。

【馬場村】
佐保地域の歴史的背景は、今のところ、不明な事が多いながらも解明の手がかりとして、有安名(みょう)があります。庄園時代は、佐保村と佐保村有安名で統治され、佐保村の年貢高8石余に対し、30石〜50石もある有安名が存在し、異常に大きな名主として注目されています。この体制は庄園が消滅する永正末年まで続いたと考えられています。
 これについて、既述の『わがまち茨木(城郭編)』にて、免山氏は、「このような有力名主の存在を語る資料として、字馬場の教円寺付近に残る鎌倉様式を示す巨大な宝篋印塔や室町期の大型五輪塔があげられる。また、同地の言代神社は、もと八所宮権現と称された。これは忍頂寺の鎮守と同名であり、仁和寺に連なるものである。このことは有安名主の居住地も自ら憶測されるものであり、これらの事実は仁和寺の庄園下当時の動きに関連するのであろう。馬場の地名もこの八所社に関わる地名であろう。」と述べられています。
 この経緯からすると、馬場村が、有安名主の居住地であり、このあたりは在地(免山・梅原など)とは少し経緯の違う地域となっていたようです。「馬場村」自体は他の周辺集落より大きめの規模で、且つ、集落の大きさに比べると寺の大きさが目を惹きます。加えて村の立地は要害性もあります。

佐保の盆地右奥は栗栖山城

【佐保栗栖山城】
小土豪では保ち得ない規模と構造、土木・造作技術、立地であることから別の上部権力体の城として存在していたのではないでしょうか。
 この位置なら、小規模で不十分な施設ならば守るのが難しいように思われますが、盆地全体の掌握のためには、最適化された施設とされたように思われ、同時に、旧来の亀岡街道の監視に加えて、清阪街道の監視・掌握も同時に行える規模に拡大・強化されているように思われます。
 旧政権から幕府に移管された芥川山城のように、この栗栖山城も同じような経緯があったのではないでしょうか。こちらは、直下に亀岡街道も監視でき、粟生方面等とも繋がる複数の間道のロータリー構造とも言える、盆地を掌握して街道全体を押さえる目的もあったように思われます。
 永禄11年秋以降、ここを和田・高山氏が強行に領したことで、周辺の敵対勢力は不利、または、一掃されて、追われた者が池田方に助けを求めに来たと伝わる伝承は、こういった状況から生まれているのではないかと思われます。

【白井河原合戦との関係】
亀岡街道を北に進めば、能勢・余野方面と繋がっており、ここの通行を確保(敵にとっては阻止)する必要性があり、要地である佐保は、手を打つ必要があると思われます。ですから、幕府方であった施設を池田勢が落とした。それは勝ち戦の勢いに乗って、8月28日当日に行われたと考えられます。これは、敵方のシンボルを破壊するという、政治・軍事的に大きな出来事であったかもしれません。地域の「開放(奪還)」といったような、強いメッセージにもなった事でしょう。
 佐保栗栖山城の発掘調査では、曲輪1の建物が火災を受けたとの見解が示されており、何らかの関連誌があるのかもしれません。火災は13から成る曲輪で、1ヵ所のみの検出で、全体から検出されるものでは無いので、「自焼」的な跡なのかもしれません。
 一方で、佐保栗栖山城の陥落は、それ以前の可能性もありますが、今のところ勝ち戦の勢いに乗って城を落としたと考える方が、自然だろうと思います。在地の佐保城の状況については、現在のところ不明です。

【白井河原合戦後の佐保栗栖山城】
前述により、佐保栗栖山城が、別の権力体によるもので、白井河原合戦に勝利した三好三人衆方池田勢が、同城を落としたと、仮定します。
 それが達成されると、亀岡街道を北上し、泉原村を経て余野へ。そして、その隣は犬甘野、亀岡への通路が開けます。途中の「余野」は街道の交差点で、東西南北どちらへも進むことができるロータリー交差点的立地です。いわゆる要衝です。
 そしてこの余野には、地名を冠した余野氏が居り、同氏は池田氏と姻戚関係にあります。佐保の交通障害が無くなった事で、丹波国方面から茨木城方面までの連絡と通交が可能となりました。
 佐保栗栖山砦跡発掘調査報告書内で想定されていた、「高山氏が淀川筋に進出する際の繋ぎの城の可能性が高い」とは、少々距離があり過ぎる上に、尾根筋・谷筋の一本道が無く、何度も山と谷を越える道となります。
 栗栖山城の関連性を考えるなら、亀岡街道上の要所を見た方が自然であろうと思えます。また、元亀2年(1571)当時の状況として、幕府方和田惟政の与力であった高山氏は芥川山城を、同様に栗栖山城も役割りを担っていたのではないかと思われます。
 芥川山城は丹波方面への備えですので、亀岡街道を有する栗栖山城も同じような役割りがあったのではないでしょうか。そういう意味では、丹波方面への街道の分岐点であった福井城も非常に重要な役割を担った筈で、『日本城郭全集』で述べられている「佐保川左岸に福井城があったので、おそらく戦国の頃、両城砦いずれも、興廃を共にしたものだろう。」とは、概ね言い得ているようにも思えます。
 さて、白井河原合戦で壊滅的な敗北をしてしまった和田方は、多くの人材を失い、高槻の本城を残して、多数の拠点も失っています。背後の山地支配も大きく後退しています。
 これにより、高槻城は北や西から常に狙われる事となり、支配地が小さくなった事で、敵の動きも事前に知ることが難しくなったとも思われます。丹波への街道を押さえることは非常に重要で、軍事・政治・経済活動のためには、それが統治の必要要素だったともいえます。
★関連記事:摂津余野氏について

このように、今回の訪城で不明の闇に少々の光が見えるようになると、また別の要素にも考えが及びます。佐保城の用途・機能を考えるなら街道沿いに、いくつかの更なる施設も必要になるように思え、南條集落方面を見通すための監視所、梅原集落を守るためのいくつかの拠点もあったのではないかと思われます。

永年、保留状態であった佐保城についての思索は、今回の訪城で一気に進み、大変有意義でした。訪城をお誘いいただき、ありがとうございました。

【補足記事】
『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える


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2023年3月18日土曜日

灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)

ユーチューブのコンテンツは、様々な情報があり、森羅万象何でもあるように思います。何でもない、いつもの風景から地元情報、昔の話し、陸・海・空・宇宙、世界中、時空も超え、何でもあります。そんな中で思うのは、結局、それは自分の限界に気付きます。知っているモノしか選べない。

まだAI(エー・アイ)技術は黎明期ですが、そのAIが紹介してくれるコンテンツで、思いがけない発見に繋がることもあります。これは、大変に良いことですし、私も折々助かっています。本との出会いもそうです。

そんな流れで、ユーチューブのコンテンツから、大きな発見がありました。灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係です。過去の記事「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察」の関連記事です。以下の項目を立てて、ご紹介できればと思います。

どうぞご覧下さい。

櫻正宗と運命の出会いと驚きの偶然
摂津池田城家老の存在
摂津国河辺郡荒牧村について
荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷
寛永2年に荒牧屋(櫻正宗の前身)が創業した頃を考える
摂津国河辺郡荒牧村周辺の酒造りを見る
元禄年間の全国的な好景気と江戸での下り酒のブランド化
江戸送り酒の産地は西宮から灘へ
銘酒 櫻正宗、正蓮寺、摂津池田を繋ぐ縁とその歴史
『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

【関連記事】此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


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櫻正宗との運命の出会いと驚きの偶然

本当に何の脈絡も無く、ユーチューブ内での動画候補に上がっていたコンテンツをクリックしたのがキッカケでした。
 その動画に、私にとっては、もの凄い情報が収められていました。私の調べている、池田酒史・郷土史に関する濃密情報でした。『メタボのオッサンの唄』さんのチャンネルにある「【小林商店 直売所】此花区春日出100年続く激渋角打で日本酒と料理を堪能する【大阪市/此花区】」という動画の中、9:10から灘酒の櫻正宗についての紹介があります。この醸造元の代表である山邑家が、戦国時代の池田城家老と関係のあることが判明しました。


動画の中で紹介されていた櫻正宗公式ホームページにある該当部分を引用します。
※酒蔵の軌跡ページ(https://www.sakuramasamune.co.jp/history/

---(資料1)----------------------------------------------
1644:山邑家の原点
当社・櫻正宗の山邑家もまた、酒造りが本格化した伊丹・荒牧村で米を作り、余剰米で酒を造る農家でした。
 伝法の正蓮寺開山時に山邑の酒をたくさん寄進し、「荒牧屋」という屋号で1625(寛永2)年に創醸されました。その後、酒造に重きを置き、1717(享保2)年に初代山邑太左衛門を名乗り、創業しました。
創業の頃、荒牧屋の酒銘は「薪水」でした。酒銘には当代の歌舞伎俳優に関する者が多く、「薪水」もまたそれに習い、俳優の名を取ったものでした。
-------------------------------------------------

山邑家の家伝によると、山邑家は、摂津国河辺郡荒牧村にあって、余剰米で酒も造る農家で、「荒牧屋」の屋号を称し、1625年(寛永2)に創業したようです。

 

櫻正宗公式サイトの該当ページ ※一部強調表現加工

 

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摂津池田城家老の存在

摂津池田の伝家老屋敷位置
摂津池田家から台頭した荒木村重が摂津国守護職として有岡城主となり、摂津国内を治めていた頃、池田城家老として、5人の名が池田に伝わっています。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

---(資料2)------------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
-------------------------------------------------

上記にある家老の家系の内の2名が、「荒牧屋」を称した山邑氏と同じ時代に生き、縁をつなぎます。
 その家老の一人は、上月角■衛門で、その系譜を持つと思われる人物が、上月十大夫政重と考えられます。この人物は、荒牧(荒蒔)出身の赤松一族です。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

---(資料3)----------------------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年(1538)にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

【赤松氏上月十大夫政重之塔】
寛永19年午9月12日卒 法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
-------------------------------------------------

★上記、上月氏についての詳しくは「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/07/blog-post_3.html

資料3の伝承を読むと上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。

一方、もう一人の家老は、甲■伊賀守という人物で、その系譜を持つと見られるのは、甲賀谷又左衛門尉正長です。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より(抜粋)

---(資料4)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。(後略)
-------------------------------------------------

更に、尼崎長遠寺への莫大な貢献を知る事のできる関係資料です。
※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

---(資料5)----------------------------------------------

資料名
年代
内容等
1
多宝塔棟札
慶長11年
「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
2
多宝塔棟札
慶長12年
「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
3
日桓曼荼羅本尊
慶長13年1月2日
裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
4
客殿棟札
慶長18年4月6日
「大願主甲賀谷又左衛門造之」
5
日蓮書状
(乙御前母御書)
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日
願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
6
日蓮曼荼羅本尊
元和元年9月5日
裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
7
日桓曼荼羅本尊
元和4年11月17日
裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
8
日厳曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
9
日聡曼荼羅
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
10
日円題目
元和8年3月11日
裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
11
本堂棟札
元和9年5月
「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
12
甲賀谷正蓮書状
8月14日
長遠寺宛
13
鐘楼棟札 
寛永14年6月27日
「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
-------------------------------------------------


★上記、甲賀谷氏についての詳しくは「此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)」の過去記事をご覧下さい。
https://ike-katsu.blogspot.com/2019/08/blog-post_20.html

上記一覧による尼崎長遠寺への篤信行動から甲賀谷正長は、1637年(寛永14)頃までには没していたようです。ちなみに同寺へは、荒木村重や池田家当主であった池田勝正なども関係を持っていました。
 また、正長は隠居し、入道号を名乗っており、その名が「正蓮」で、日蓮宗に深く帰依していました。摂津国西成郡伝法の正蓮寺は、1625年(寛永2)に、正長が開基となって創建されたお寺です。
 精神的な拠り所としての日蓮宗への帰依だけではなく、港としても重要であり、尼崎や伝法に物流の拠点を持つ意図も同時にあったのではないかと思われます。両寺は街道によって繋がっています。
 ちなみに、その後、正蓮寺は七堂伽藍が備わり、大坂二十五ヵ寺に数えられる程に栄えます。正蓮寺川もその名の通り、正蓮寺にちなんで呼ばれるようになったようです。

池田城家老の身分であったこの両名は、同時代に生きた人物でした。また、時代は太平の世となり、戦国時代に荒廃した事物が復興する中で、地域の自立、産業育成を各地が競い合いました。そんな中で、池田郷は酒造の先進地域の一つでもあり、酒造産業が急速に成長していました。

 

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摂津国河辺郡荒牧村について

少し話しは戻って、荒牧村について見てみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429

---(資料6)----------------------------------------------
◎荒牧村(伊丹市荒牧1-7丁目、荒牧、荻野7-8丁目、荻野)
鴻池村の北に位置し、村の北端を有馬街道が通る。荒蒔村とも(慶長国絵図など)。古代の牧があったとする説もある。川辺北条の条里地割が残り三ノ坪・九ノ坪などの小字がある。
 応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
 文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
 上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。

 文禄3年(1594)鴻池村・荻野村と一括で検地を受けた。慶長国絵図には荒蒔村とあり、集落は分かれていたものの石高は両村と一括。なお文禄3年9月日の中村検地帳(小池家文書)によると、中筋村(現宝塚市)から出作があった。正保郷帳では高849石余と他に新田高71石余。領主の変遷は鴻池村に同じ。用水は天王寺川・天神川・堂ヶ本池・上ノ池・下ノ池があった。小浜駅(現宝塚市)が近くにあり、百姓牛が駄賃稼ぎをしていたと思われ、天保14年(1843)には同駅を通らず生瀬宿(現西宮市)の荷物を伊丹駅に運んだとして論争になった(「間道通行詫証文」上中家文書)。
 寛文9年(1669)頃は、126軒・663人(「尼崎藩青山氏領地調」加藤家文書)、天保9年は105軒・435人、牛36(「巡検使通行用留」岡本家文書)。産土神は天日神社。明治41年(1908)愛宕神社を合祀。本殿は向唐破風付き一間社春日造で、17世紀から18世紀初期にかけてのものと推定されている。天台宗容住寺・浄土真宗本願寺派西教寺がある。容住寺は聖徳太子が摂津四天王寺から中山寺(現宝塚市)へ往還の際に大石に腰掛けて霊感を感じた場所に建立されたという。本尊十一面観音坐像は後世に補修されているが平安中期の作とされ、市内最古の仏像と考えられる。初め豊学寺といったが、貞享元年(1684)破却され、元禄6年(1693)再興(「容住寺建立訴状写」沢田家文書)。本堂・薬師門は同9年建立。周辺には太子信仰の伝承が多い。西教寺は寛文7年(1667)善求の代に寺号免許という(末寺帳)。
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荒牧村には城があり、赤松氏の流れを汲む上月氏が、相当規模の館城を構えていたと、当時の記録にもあります。戦国時代、200〜300人の動員力を持つ上月氏は、城下集落を形成していた事が窺えます。

寛永年間(1624 - 44)、第三代将軍家光の頃、政権基盤の強化政策の一環として、全国的に村切りが行われており、この地域も例外ではありません。「鴻池村」の条を見ると、以下のようにあります。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P428

---(資料7)----------------------------------------------
◎鴻池村(伊丹市鴻池、北野1 - 6丁目、荻野1丁目、同3丁目、中野北1丁目)
武庫川支流の天神川と天王寺川に挟まれた村で、新田中野村の北に位置する。文禄3年(1594)9月荻野村・荒牧村と一括で宮木藤左衛門尉の検地を受けた(延享4年「荻野村書上帳」荻野部落有文書ほか)。慶長国絵図、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では鳴池村とあるが誤写か。この段階では村切されておらず、石高は荒牧を本郷とし荻野と三ヵ村合わせて1782石余。(後略)
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元々荒牧村は、荒牧を本郷とし鴻池村と荻野村を合わさって存在して、1782石余の生産力を持つ村でした。ですので、中世は基本的にこの構成で成り立っていたと思われます。集落は分かれており、それぞれに寺は持つものの、荻野村に産土神として、春日大明神、鴻池村に宮座があり、鎮守神としての八幡社があります。宮座は左右の座があり、左座は24軒で荒牧村東政所から移ってきた家などで構成し、右座は33軒で同村(荒牧)本郷や西政所から移ってきた家などで構成した(「鴻池村地株五つの覚帳」武田家文書)ようです。
 このような宮座の状況を見ると、村切りされる以前の文化が続いていたことが分かります。離れた集落をどのように繋いでいたのかは不明ですが、戦国時代という有事では、物理的な何らかの方策を立てていたと思われます。

時代は降って、村切り後の荒牧村は、「正保郷帳」によると高849石余の生産力を持つ地味だったようです。これは決して小さくは無い生産高です。なお、中世の「石」は「貫」と併記されて用いられますが、そもそもは生産高であり、類似した感覚のようです。また、「石高」は、米の生産のみを指さず、商業活動なども含めた生産活動の算定に使われていました。

櫻正宗の前身「荒牧屋」の当主山邑氏は、この上月氏の集団に属し、時代の求めに応じて代々家を継いでいたものと思われます。

 

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荒牧屋(山邑家)と池田城家老職系譜を持つ上月政重は同郷

先述の通り、上月重政のルーツの地が荒牧村であり、そこに住まう山邑氏とは当然ながら古い縁故関係があって、元禄・寛永年間という日本国内の経済復興期に、家業飛躍の好機を甲賀谷正長に求めたのだろうと思われます。この頃、めぼしい酒造地がほとんど無く、池田郷は、江戸積の下り酒を独占していました。
 伝法の正蓮寺開基というハレ舞台で、「荒牧屋」の酒を多量に寄進できるというのは、これ程のビジネスチャンスはありません。
 伝法という地は、交通の要衝であり、多くの人々が交差する場所で、当然ながら銭も情報も集まります。そんな場所に手がかりができるのは、それだけで莫大な財産となります。
※※大阪府の地名1(平凡社)P747

---(資料8)----------------------------------------------
【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある
 当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。
 元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。
 享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
 大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。
 正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。
 もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた
 当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。
 川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
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池田から江戸までの輸送経路と運賃



それからまた、正蓮寺について、縁起を紹介しておきます。
※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

---(資料9)----------------------------------------------
【正蓮寺略縁起】
寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく)のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
 大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
【伝法の川施餓鬼】


享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
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縁起では、「甲賀谷又左衛門正長が篤信の武家」であったこと、「寛永2年(1625)、正長を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこり」であること、「甲賀谷正長(正蓮日宝禅定門)が生きている間に、予修として寺の開基を行った」ことが伝わっています。

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影 

 

施餓鬼当日の様子 ※2019年撮影

 

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寛永2年に荒牧屋(櫻正宗の前身)が創業した頃を考える

1625年に山邑家は、酒造業界へ新たな参入をした画期だったのかもしれません。創醸とはいえ、正蓮寺とのエピソードを考えると、それ以前から酒造りは行われており、品質と量の確保ができるレベルであったからこそ、正蓮寺開創に多量の酒を提供できたものと思われます。
 元禄年間過ぎ頃まで、酒造については、池田郷が酒の大規模生産地でした。その後は次第に生産地が増えますが、それまでにはかなりの時間を経ています。池田郷を中心として、関連要素の年譜をあげてみます。

荒木村重が織田政権から離叛した事により、織田勢に攻められ、池田の町は大きな被害を被ります。その荒廃から復興までの流れと、池田の町と周辺の人・事・物に関する出来事を一覧にしてみます。 

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1578年 荒木村重領内池田郷へ織田信長勢が池田城下へ攻め入り打ち廻る
1579年 池田の町の再建が始まる
1582年 織田信長暗殺される
1584年 尾張小牧・長久手の戦いに池田知正が従軍
1584年 伊居太神社の神輿が再び出る
1589年 上月十大夫政重、池田備後守知正へ仕官
1592年 小坂前町を境に二分して、新たに中之町を作る
1595年 池田の町に大火が起こる
1600年 関ヶ原合戦、池田知正が徳川家康に従軍する
1604年 池田知正死亡
1605年 池田三九郎死亡(その父である光重が知正の跡を継ぐ)
1609年 池田備後守光重、摂津池田大広寺へ知正などの肖像画、釣鐘、10石の寺領を寄進
1613年 関弥八郎の不祥事に連座して、池田光重が失脚(駿河国法命寺へ蟄居)
1614年 大坂冬の陣、池田光重が有馬豊氏客将として参陣
1615年 大坂冬の陣
1616年 徳川家康没
1624年 大坂の町割りが概ね調い、人口は28万人と推定される
1625年 摂津国西成郡伝法の正蓮寺開創
1625年 摂津国河辺郡荒牧の「荒牧屋」創業
1628年 甲賀谷正長没か
1642年 上月政重没
1644-48  伝法から江戸への下り酒が積み出される(正保年間)
1658年  佃田屋が、江戸摘みの廻船問屋開業
1661-73  大坂の町づくりが概ね完成(河口整備含む)(寛文年間)
1661-73  摂津国西成郡伝法にて酒樽専門の江戸積問屋を開業(寛文年間)
1670年 伝法が幕府領となる
1684年 安治川開削により、伝法の輸送環境が不利となる
1688-1704 大鹿屋などが加わり、輸送業者の数が増加。(元禄年間)
1697年 池田の町絵図が作成される
1696年 摂津池田郷に、本養寺再建される(池田の主要な寺院が随時復興)
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創醸からの間、荒牧屋は、池田郷との関係を強くしていたのだろうと思われます。池田酒は、江戸へも出荷する程の量ですから、提携関係を保ち、製造から輸送まで、協働していたのではないでしょうか。

池田の酒造業は、次第に衰退するとはいえ、元禄年間をピークとして、その後も暫く、池田酒は北摂地域で独占的に江戸積入津樽数を維持しますので、莫大な稼ぎであったと思われます。
 池田郷は幕府の直轄地でもあり、様々な政治的便宜を得たりするなど、他地域には無い優位性があったと思われます。
 このピーク時の元禄10年(1697)に作成された、その当時の町の様子を記録した絵図が残っています。戦乱で失ったものを次々と取り戻し、寺社などは、この頃に再建されます。復興にとどまらず、町は拡大もしていた事と思われます。

元禄時代よりも少し前、正保元年(1644)に、愛宕火が、池田の町で興ります。これは民間から発生したもので、これに対して京都の愛宕神社から苦情が寄せられて訴訟となりますが、池田郷は幕府領でもあり、これを京都所司代板倉勝重が事を収めます。
 このエピソードは、町に活気があり、社会的上位の苦情も覆す程の勢いも感じさせる事から、やはり酒造業を中心とする産業の活況を挫かない配慮があったのかもしれません。
 「摂泉十二郷の江戸積入津樽数」の内訳を見れば、確かに、徐々に池田の酒造生産高は衰えています。しかし、元禄10年の池田郷の独占状態から、次の統計年である天明6年までは、100年近く時差があります。一世代20年として、5世代程の期間が空いていますので、その間に何があったのかは、精査する必要があります。池田郷の酒の生産量自体は6割以上減少していますので、それは、気になるところです。

その過程で、荒牧屋は、1717年に新たな取り組みで、更に時代に対応する決断に至ったのでしょう。この時、池田郷の優位性が崩れており、新天地を求めたのかもしれません。
 もう、この頃になると、人も世も変わり、それまでとは違う価値判断を余儀なくされていたのでしょう。池田との関係性も薄れつつあったのかもしれません。

池田酒史の中で、櫻正宗の前身である「荒牧屋」の名は見られませんが、どこかに未知の資料があるのかもしれません。

 

1911年頃の荒牧周辺地図 ※赤丸印が荒牧村

 

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元禄年間の全国的な好景気と江戸での下り酒のブランド化

元禄時代は、全国的に好景気に沸き、文化面でも復興期でした。当時の日本の政都であった江戸では、関西で醸造される酒の旨さからブランド化し、「下り酒」がもてはやされました。池田や伊丹の酒が銘酒として、引く手数多でした。
 「摂泉十二郷の江戸積入津樽数」によると、元禄10年(1697)の記録では、池田だけで江戸への総入津高の8.8%(56,476)にもなっていました。この頃、摂津国内で他に主要な酒造産地は無く、池田郷が独占状態でした。
 これは、元々池田で酒造りが行われていたという伝承を、ある程度裏付けるものではないかと思います。現在のように、科学の行き渡らない社会では、そう簡単に酒造業(他の生業も)を始める事ができません。もちろん、幕府の届出と許可が必要です。これもそう簡単ではありません。

その頃、池田郷では「万願寺屋」が筆頭酒造家でした。この万願寺屋は、荒木村重の系譜を持つと伝わります。他にも(東西)大和屋や鍵屋が、荒木一門でした。
 池田や伊丹は「在郷町」といわれ、徳川幕府直轄の地でもあったため、様々な特権があって、酒という嗜好品作りには有利な面もあったようです。こういった時代の流れをうまく取り込んで、荒牧屋も賢実に商売を拡大し、1717年(享保2)に初代山邑太左衛門を名乗り、酒造家として創業したのでしょう。
 もしかすると、1717年の発起は、諸事が調い、改元をキッカケとして実行したのかもしれませんね。

 

江戸時代・池田酒の商標


万願寺屋古写真 大正時代頃



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江戸送り酒の産地は西宮から灘へ

より大量に、より早く、を求められる時代の到来と、幕府政策により、江戸時代後半には、江戸積酒造体制の産地構成が変化します。初期の頃は、池田郷が独占状態でしたが、次第に生産地が増えていきます。それらは生産品の輸送に都合がいい、西宮から灘地域にかけて生産地活発になっていきました。
 時代により、味の嗜好も変わりますし、社会の経済情勢、商品供給の事情など様々な変化が起こります。そしてまた、幕府の酒造統制という政策にも依りました。
 1754年(宝暦4)には、徳川幕府が「勝手造り令」を出し、酒造業の奨励を行いました。この流れで、灘や今津の酒造が発展することとなりました。下落していた米価を引き上げる事を目的としていました。

「荒牧屋」は、この流れも上手く掴み、地の利もあって、既に酒造産地となっていた西宮からもそう遠くない、新興酒造地灘・魚崎へ進出する事になったようです。
 ただし、生産場所を変えるだけでは、産業が成り立ちません。流通の整備も同時に行う必要があります。原料の調達、製造した製品の出荷のための港など、一体的な環境が必要です。1717年(享保2)の酒造家として創業(初代山邑太左衛門の名乗り)は、諸事を整えての事であったはずです。
 一方で、元禄期以降の日本経済は下降傾向にあり、コスト削減策としても輸送の利便性の高い場所を求めたという可能性もあります。

 

摂泉十二郷の江戸積入津樽数


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