2013年12月13日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))

白井河原合戦で和田惟政が池田衆の鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近かもしれません。

先日、高槻市しろあと歴史館で開催された「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」を見てきました。最近は、毎年のように高山右近を取り上げた企画展を開催してもらえるので、その度に足を運んでいます。

それまでは、正直、真新しさはあまり無かったのですが、今回は素晴らしかったです。様々な可能性、角度から検討が加えられ、資料の少ない高山右近を何とか具現化しようという姿勢が伝わる企画展示になっていたと思います。ですので、図録も素晴らしいです。

その中で、白井河原合戦の折、和田惟政の重臣として参加した郡兵太夫正信についての資料群(肖像画・甲冑・陣羽織など)も公開されていました。また、同氏の家系に伝わる由緒書きも公開され、それには白井河原合戦の様子が詳しく書かれています。

図録にも収められていますが、由緒書の釈文の気になる部分を見てみますと、

-史料(1)------------------------------------------------------------
(前略)
和田伊賀守も郡山より三町(約330メートル)計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町(約550メートル)計り堤此有り。是者、中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共、和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故、郡兵太夫も陣場より二町(約220メートル)程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候。其の時の馬者、黒馬の名馬たる由にて、彼の馬に向かい乍ら玄星も能く働き候事と申され候。馬もうな垂れ、終いに落ち申し候に付き、所々者、此の所に埋め、印に松を植え置き申し候。其の時、討ち死に申し武士の死骸共集め、埋め候所、臼の様に二つかつぎ、是を哉、茶臼塚と申し候。兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候。
(後略)
-------------------------------------------------------------
とあります。

少し細かく見てみましょう。

和田伊賀守も郡山より三町計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。
 若干距離感は違いますが、「糠塚と云う所」とは、幣久良山に陣を置いた事を指していると思われます。郡兵太夫は、郡村から出て幣久良山の陣へ入っていたと伝えています。

此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町計り堤此有り。
これも幣久良山の要害性を示すものです。和田惟政は、そういう場所を選んで陣を置いていた事が判ります。

中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共
記述によると、和田惟政は郡兵太夫などを率いて幣久良山の陣を出て、茨木川を渡って西進したようです。そして早朝、この付近で『フロイス日本史』 にある、
-史料(2)------------------------------------------------------------
(前略)
そして彼ら(和田方)は見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました池田衆の更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、池田方は真ん中に捉えた和田方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(後略)
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交戦となったのでしょう。「そして彼らは見つかると...」とは、和田惟政も何かを目的として、密かに行動していたらしい様子が描かれています。しかし、池田衆は既に、宿久庄村の東側あたりの山裾に隠れていたのでしょう。

和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故
宿久庄村の南東側あたりで交戦となり、ここで和田惟政は討ち死にしたのでしょうか。

郡兵太夫も陣場より二町程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候
和田惟政が戦死したため、重臣であった郡兵太夫はその場から、更に220メートル程移動しているようです。郡村の内にまで入っていたようですので、勝尾寺川を渡って南に移動していたようです。郡村へ帰ろうとしていたようです。郡村には城があったと伝えていますので、そこに戻ろうとしていたのかもしれません。
 そしてその時に郡兵太夫の乗り馬も倒れ、それが塚として残されたとの事です。それは今も伝わる馬塚なのでしょう。また、ここには戦死者も集められて埋葬されたとの事です。
 ちなみに、城はその後、池にしたと伝わっています。

埋め候所、(中略)、兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候
また、馬を埋めた所は、兵糧を炊く場所だったとの事です。 その時だけの事なのか、そういう固定的な場所だったのか、これについてはよく判らないのですが、他との関連性も掴めない場所です。郡村からは少し離れているような場所ですし、郡城と関係する施設なのかどうか、ちょっと今のところ判りません。

白井河原合戦で戦死した和田惟政も郡兵太夫も勝尾寺川を越えて、南へ逃れようとしているようですので、その方向には敵が居なかったと考える方が自然なのかもしれません。
 という事は、郡村や郡山村の辺りは、合戦当日にはまだ池田衆の手に落ちていたとは考え難いのかもしれません。池田衆は宿久庄城を落とし、そこから幣久良山方面に対峙しようとしていましたが、郡方面が確保できていないために池田衆は、前進方向の右手に不安を抱えながらも決戦を挑み、和田方に打ち勝ったといえるのかもしれません。

更に考えてみると、和田惟政は宿久庄村の山際の縁を回り込み、郡村方面からの挟撃を考えていたのかもしれません。200の手勢で強行したのは、こういった作戦と、前後の判断があっての事ではなかったでしょうか。また、宿久庄方面の残党など遊軍と何らかの呼応を行おうと、惟政は考えていたのかもしれません。
 何れにしても、買って知ったる自領ですから、多少の無理は利きますし、当然ながら、発想もそうなるでしょう。それが逆に、詰めの甘さとなり、池田衆にその辺りをつけ込まれたものと思われます。

これらの伝承が、ある程度正確なものだとすると、ちょっと白井河原合戦の詳細検討で修正する部分が出てきそうです。辻褄の一致するところは多く感じます。検討し、随時行いたいと思います。

この後もちょっと白井河原合戦について、書いてみたいと思います。






2013年11月23日土曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その1:内訌当日を分析する)

1570年(元亀元)6月の摂津国池田家中の騒動は、荒木村重にとっても、時の幕府にとっても大きな転機となった出来事でした。
 未だに謎の多い、荒木村重ですが、織田信長政権を支えた武将の一人として活躍し、それについては色々と知られつつあるようです。
 そんな村重について、情報を更に掘り下げようとすると、信長時代の数年間の事しかわからず、それ以前の池田家中での行動となると、ほとんど知られていません。ウィキペディアなど、村重について取り上げた記事を読んでみると、内容はほとんど同じで、村重の出世のエピソードとして、この池田家内訌から取り上げられている場合が多いようです。しかし、それらの内容も大体は正確ではありません。

池田城跡公園の大手門
実は織田信長、時の幕府の研究をする上でも、元亀元年のこの池田家の内訌については、非常に重要な要素を孕んでいるのですが、詳しく研究されたものは見た事がありません。
 そんな状況であり、自分で調べなければ何もわからないので、10年以上かかって池田勝正の事を調べる内に、この池田家内訌の事も色々と解ってきました。
 それからまた、来年の大河ドラマで荒木村重も取り上げられるようですので、そのお役に立てばと思い、村重も関わった池田家内訌について、いつものように、いくつかに分けて、ご紹介したいと思います。

さて、本題です。

元亀元年6月の池田家内訌は、18日から19日にかけて起きたようですが、当然ながら、その争いに至るまでには色々な要因が積み重なっています。様々な鬱積が重なり合って、内訌のカタチで爆発している訳です。
 それらの要素を含め、順に説明していきたいと思います。先ずは、その当時に記録された、池田家内訌についての史料をご紹介します。最初に、京都に居た公卿山科言継の記録を見てみましょう。池田家内訌については、19日〜26日までの条で見られます。
※言継卿記4-P424

-史料(1)---------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。武家へ参り、摂津国池田二十一人衆、四人衆の内同名豊後守(正泰)・同名周防守正詮両人昨日生害云々。惣領筑後守勝正刀根山へ落ち行き、次に大坂へ落ち行き、小姓両人、小者両人計り、観世三郎元久供云々。御前(将軍義昭)に参り、様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務太輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。
6月26日条:
(前略)。池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。池田の城へ三好日向守・石成主税助等之入り由風聞。
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山科言継は、京都在住の公卿である事から、いち早く情報を掴み、関心を以て記録しています。また、彼は個人的にも池田家中の重要人物である池田紀伊守正秀とも面識があり、池田家の事はよく知っていたようです。池田氏は、幕府を支える摂津守護職を任される家であり、その意味でも重要な立場にあった事から、関心の高さは自然な事です。

それから、奈良興福寺多聞院の坊官である英俊が、この池田家内訌について、日記に残しています。この多聞院英俊は、永禄9年から同11年にかけて、三好三人衆と松永久秀が闘争を続けた際、奈良とその周辺に池田衆が度々出陣しており、摂津池田家については、その事を通して知るようになっていたようです。そのため、関心があったのか、日記にも池田家内訌についての情報を書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P194

-史料(2)---------------------------------------
6月22日条:
(前略)。去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
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更に『細川両家記』という、いわゆる軍記物にも、池田家内訌についての記述があります。ちなみに同書は、取扱いに注意を要する軍記物の中では、特別扱いされる資料で、内容が割と正確である事から一級資料と目されています。その資料の池田家内訌部分を見てみましょう。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-史料(3)---------------------------------------
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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最後に、伝承資料をご紹介します。『荒木略記』という系図中の代表的人物に説明を付けてある、家系図と伝記が一つになったような資料があります。その村重の項目には、元亀元年6月の池田家内訌の事が記述されています。ちなみに、村重以外にも色々と記述があるのですが、それらは誇張してある事に加えて、事実誤認が沢山あります。何百年も後になって書かれているものはこういった内容のものも多くあります。これは資料としては取扱いに注意が必要です。参考までにご紹介します。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P1

-史料(4)---------------------------------------
荒木村重条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させその子息直正と申し候を取り立て大将に仕るべくとて勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
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これらの資料を考え併せると、以下のような状況が浮かんできます。先ずは箇条書きで要素を抜き出してみます。

  • 池田家内訌は1日間では無く、18日から19日にかけて起きた。
  • いわゆる池田四人衆という、池田家政機関の重臣4名の内、当主勝正親派の池田豊後守(正泰)・同名周防守正詮が、三好三人衆方に同調した池田家中の人々によって殺害された。
  • 当主勝正は、19日に一旦京都へ入り、状況を説明した後で、京都を離れ、再び三好義継を伴って入京している。
  • 三好三人衆方の動きが内訌の理由として、同時に噂されている。
  • 将軍義昭は近江国へ出陣する予定だった。

次に、それらの要素を踏まえ、詳しく状況を分析してみたいと思います。

池田城跡公園の櫓風展望休憩舎
内訌は、18日〜19日にかけて家中で内訌が起き、19日、その過程で重臣2名が殺害され、当主池田勝正は池田城を出ます。勝正は、小姓2名、小者2名程、観世三郎元久を連れて、一旦刀根山へ落ち、その後大坂へ向かったようです。勝正はその足で京都へ向かい、将軍義昭と面会し、状況説明を行っているようです。
 勝正のこの時の足取りですが、文面通り受け取って、大坂に一旦入ったと考えるには少々矛盾が起きるように思えます。この頃、大坂の本願寺方は既に三好三人衆方でもありましたし、その城内には三好三人衆方であった公卿近衛前久が身を寄せていましたので、そんなところをウロウロしていては、直ぐに通報もされますし、物騒です。
 勝正は池田城を出て、直ぐに将軍義昭へその状況を伝えています。速やかに報告しようとするのは、当然の事です。
 ですので、勝正は大坂に入らず、能勢街道を使い、刀根山から小曽根方面などへ出、吹田を経由して京都へ向かったと考えられます。その間にある原田城に一旦寄ったかどうかは、今のところ判りませんが、大坂まで南下すると時間が余計にかかります。
 
それから、勝正本人が将軍へ報告を直接行ったかどうか、厳密に見ると『言継卿記』から読み取れないところもありますが、この前後の環境や一次情報を重視する当時の環境からして、将軍義昭の近江国(高島郡)への動座を控えた重要な時期でもあり、摂津守護職たる勝正がその報告を直接行う必要性があったと考えられます。文中の「御前」に出たのは、供の小姓や観世三郎ではなく、勝正自身を指すと思われます。
 報告を受けた将軍義昭は、その事態の深刻さから、すぐ様、近江国出陣の延期を関係者に通知しています。ちなみに、池田家の内訌が伝わった18日にも将軍義昭は近江国出陣の延期を関係者に通知しており、この出陣でも池田家は幕府方の中心的な役割を果たす重要な位置付けであった事が窺えます。
 
次回は、池田家内訌に至った原因を考えてみたいと思います。






2013年11月21日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(はじめに)

元亀元年(1570)6月、荒木村重も加わった池田家内訌は、突然起きたように見えますが、そこに至るまでには原因があります。その出来事の前後を見れば、それはよくわかります。どんな事もそうですよね。

個人的に池田家の内訌については、朝倉・浅井攻めの最中に起きており、将軍義昭・織田信長政権の最初の大きな躓きだった、いわば失策が招いた事件であったと考えています。
 言い方を換えれば、三好三人衆が調略を成功させる隙を作ってしまう程、織田信長は五畿内社会の様相を変えてしまったのでは無いかと思います。

元亀元年4月の越前朝倉氏討伐を第一次とするならば、浅井氏の態度を見た幕府軍が態勢を立て直し、再び攻めようとした姉川の合戦を代表する軍事行動は、第二次朝倉・浅井討伐と位置づけられると思います。
 
その説明を、以下の要素からそれぞれ進めていきたいと思います。お楽しみに。

(1)6月18日に起きた池田家内訌当日を分析する
(2)元亀元年の越前国朝倉氏攻めについて
(3)5月、幕府は、五畿内の主立った家に対して人質を出すよう命令した
   ※高島郡への動座
(4)三好三人衆勢力は、依然侮れない影響力があった
(5)反幕府勢を束ねる人物 ←只今執筆中
(6)荒木村重の池田家中での地位(家中権力の多極化) ←只今執筆中
(7)池田勝正追放後に別の当主を立てたか
(7.1)池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」
(8)三好為三政勝の動き ←只今執筆中
(9)その他の要素(元亀元年6月の池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか


2013年11月3日日曜日

2013年10月31日夜、静岡県三島市で神社が全焼

また静岡県の三島市の滝川神社が全焼です。この火事は、放火が疑われています。また、周辺では先月30日夜にも、現場から8キロほど離れた沼津市の咳気神社が全焼する火事が起きていていました。

神社仏閣が確実に狙われ、全国的な動きになっているように思います。行政は動きませんから、先ずは、地域がこの事象に関心を持たなければいけません。これから火事のおき易い、冬がやってきます。

みなさん、神社が放火されている事に関心を持っていください。

参考:読売テレビニュース
http://www.ytv.co.jp/press/mainnews/TI20124572.htm

2013年10月29日火曜日

実は多発する日本の神社仏閣の火災や毀損、盗難

最近、色々なところで話題になっていますが、日本の神社仏閣の火災がかなりあります。加えて、日本国内の文化財の盗難も続発しています。また、その価値を見つめる事も無く、古いからという感覚だけで、自ら破壊するものも相当数あります。

関係者・管理者の方は真剣に考えて下さい。私達はもの凄い勢いで、文化財を亡くしています。行政は、強く要望しない限り、基本的に何もしませんから。行政側もその価値については、自ら考える事無く、放置し、朽ちさせています。

個人的には、今後、文化財の喪失は更に加速すると考えています。

2005年以降の神社仏閣の火災をまとめたサイトがありますたので、転載します。

■焼失神社仏閣 まとめ (2005年以降)
05年05月05日 広島県宮島町 弥山頂上近くの大聖院霊火堂から出火、山林約200㎡焼ける
05年06月18日 京都市 仁和寺宿舎で2日連続ボヤ ぞうきん50枚焼ける

06年04月24日 秋田県横手市 秋葉山神社全焼 火災予防の神様
06年09月13日 東広島市 西宮神社の神殿全焼
06年09月29日 三重県津市 清光寺でボヤ
06年10月29日 静岡県富士市 立光寺の本堂・住居全焼
06年11月15日 静岡県袋井市 可睡斎 奥の院不動明王堂全焼
06年12月25日 東京都西浅草 寿仙院の住居2F部分焼失

07年01月23日 名古屋市 神明社 社殿半焼
07年02月25日 千葉県市川市 春日神社 賽銭ドロに失敗、転んでけが、腹いせに放火
07年05月05日 兵庫県神戸市 良勝禅寺全焼
07年05月19日 高知市御畳瀬 西法寺全焼
07年06月26日 神奈川県川崎市 琴平神社 本殿と拝殿全焼
07年08月19日 静岡市葵区 浅間神社一部焼失 88年93年にも同じ男が同じ神社に放火
07年09月02日 京都市船岡山公園 テントに不審火 建勲神社の隣
07年09月14日 京都市 建勲神社 境内にある義照稲荷神社の賽銭箱燃える
07年09月27日 広島市 被爆の“証人”、邇保姫神社全焼
07年10月16日 山梨県甲州市 清水寺本堂全焼
07年11月23日 富山市 光輪寺全焼

08年02月09日 埼玉県三郷市 香岩寺全焼 木造阿弥陀如来立像も焼失
08年03月16日 富山市 神明宮全焼
08年03月22日 山形県高畠町 金像寺全焼  
08年03月27日 埼玉県幸手市 八幡神社全焼 犯人逮捕
08年03月31日 石川県小松市 熊野神社全焼
08年03月31日 長崎県五島市 民家や大宝寺倉庫全半焼 古文書や掛け軸も
08年04月09日 滋賀県長浜市 日吉神社 本殿と拝殿全焼
08年04月22日 新潟県上越市 念妙寺が全焼 一人けが
08年05月03日 岡山県津山市 八出天満宮全焼、3キロ西の別の寺院でもボヤ
08年05月07日 京都市 長楽寺から出火 30分で消火、仏像等損傷無し
08年05月08日 栃木県鹿沼市 戦没者慰霊の招魂社本殿・天満宮全焼 山林200㎡も焼ける
        鹿沼市白山神社も全焼 (2006~7年には同市内の神社連続放火3件)
08年05月10日 福島県白河市 琴平神社 本殿拝殿全焼、周囲の杉の木も焦げる
        同市内の神社3件不審火あり
08年05月19日 大分県佐伯市 松崎神社全焼 他5件の放火容疑有り
08年05月23日 大阪府吹田市 国重文の吉志部神社本殿全焼  
08年07月15日 秋田県鹿角市 常照寺全焼、虚空蔵菩薩行方不明
08年08月02日 岩手奥州市 雲際寺の本堂・位牌堂・住宅全焼 義経を弔う寺
08年08月14日 秋田県男鹿市 嶺徳院本堂全焼
08年08月14日 京都市 醍醐寺西国三十三観音霊場第11番札所・准胝観音堂全焼
08年09月09日 福島県白河市 矢越神社本殿・拝殿全焼
08年10月17日 宮城県仙台市 寛行院大日如来堂と住職の住居全焼
08年10月29日  〃       〃    本殿・神楽殿・神饌所全焼
08年10月29日 福島県会津美里町 伊佐須美神社で火災 本殿など全焼
08年10月20日 岐阜県土岐市 久尻神社の弓道場「弦武館」から出火
08年12月07日 愛媛県宇和島市 龍光院本堂から出火 八割近く焼失

09年02月03日 神奈川県伊勢原市 高森神社 本殿・拝殿、八坂神社の本殿全焼
09年02月14日 岐阜県笠松町 無動寺の光得寺内の住職宅全焼、住職の義母死亡
09年02月18日 奈良市大和田町 白龍神社全焼
09年02月23日 兵庫県姫路市 光久寺重要有形文化財の本堂(護摩堂)全焼、住職夫妻火傷
09年02月26日 神奈川県相模原市 石楯尾神社の休憩所・車庫全焼
09年03月12日 奈良県天理市 出雲建雄神社拝殿の格子戸など7箇所焼損
09年03月26日 岐阜県大垣市 正林寺本堂・庫裏全焼 掛け軸、絹本着色十六善神図焼失
09年03月29日 神奈川県小田原市 赤沢観音堂全焼

10年04月23日 岐阜県揖斐川町 天聖大神社 神主の知人が放火、全焼
10年09月01日 福島県会津坂下町 諏訪神社 本殿・拝殿・参集殿など全焼
10年10月    埼玉県春日部市周辺で5箇所連続放火
      20日 越谷市稲荷神社全焼
      21日 春日部市谷原香取神社の本殿拝殿全焼
      25日 春日部市稲荷神社床焦げ
      25日 春日部市八坂神社本殿全焼
      25日 春日部市備後須賀稲荷神社、拝殿全焼
      
11年01月09日 神奈川県厚木市 浅間神社全焼 賽銭箱裏側から火
11年03月15日 岐阜県大垣市 白鬚神社全焼
11年08月06日 千葉県成田市 宝徳寺観音堂全焼
11年09月18日 京都市 三縁寺の本堂全焼
11年11月26日 静岡市 美濃輪稲荷神社全焼 清水次郎長ゆかりの神社
11年12月26日 東京都千代田区 靖国神社楼門の一部焼ける

12年01月28日 千葉県八街市 皇産霊神社 本殿全焼
12年01月28日 千葉県八街市 氷川神社 敷地内の公民館で出火
12年02月03日 兵庫県姫路市 広峯神社 重文指定の本殿屋根が焼ける 
12年05月07日 山形県山形市 柏倉八幡神社 本殿・拝殿全焼
12年12月09日 栃木県足利市 八雲神社、火災で本殿など全焼
12年12月17日 滋賀県米原市 一念寺本堂全焼
12年12月20日 和歌山市 満願寺本堂全焼
12年12月24日 岡山県 金山寺、国指定重要文化財の本堂全焼・木造阿弥陀如来坐像焼失

13年01月04日 京都市 愛染院敷地内住宅から出火、住職死亡
13年01月06日 福井県美浜町 西誓寺本堂全焼、仏像を抱きながら住職焼死
13年01月13日 富山県魚津市 火の宮神社の社殿全焼
13年01月23日 和歌山市 普門寺の本堂全焼
13年01月26日 福島県白川市 天神神社、本殿など全焼
13年02月11日 東京都八王子市 千代田稲荷大明神の拝殿全焼
13年03月07日 神奈川県座間市 栗原神社神楽殿・民家2棟全焼 米国籍15歳少年放火
13年04月01日 福島県飯舘村 山津見神社全焼、一人の遺体発見
13年04月10日 熊本県玉名郡 片峯菅原神社の本殿・物置全焼
13年04月10日 東京都高尾市 千代田稲荷大明神の拝殿全焼 賽銭箱が空で逆上し放火
13年05月01日 東京都三鷹市 井の頭公園内の親之井稲荷尊神社から出火 放火の疑い
13年05月15日 長野市 八幡神社 拝殿・神殿全焼
13年06月08日 新潟県魚沼市 四日町諏訪神社の本殿全焼 雷が原因か
13年06月08日 大阪府富田林市 正受寺と前住職の住宅全焼
13年07月07日 愛知県安城市 法蔵寺の一部が燃える
13年07月22日 岩手県盛岡市 瀧源寺本堂全焼、しだれカツラの葉が熱で変色
13年08月02日  〃      〃  2度目の出火
13年08月10日 愛媛県松山市 宝厳寺全焼、国指定重要文化財「木造一遍上人立像」不明
13年09月11日 茨城県ひたちなか市 湫尾神社の本殿拝殿全焼
13年09月14日 茨城県ひたちなか市 金砂神社の本殿拝殿全焼
13年09月22日 愛媛県松山市 厳嶋神社 拝殿・神輿全焼
13年09月22日 靖国神社 トルエン持参の韓国人男が放火目的で侵入 テロレベル
13年10月12日 神奈川県川崎市 「天照大神」本殿・神輿など全焼 例大祭の前日
13年10月16日 福島県南相馬市 光慶寺、本堂と事務所全焼 震災避難区域
13年10月26日 奈良県高取町 南法華寺(壺阪寺) 釈迦誕生仏 盗難
13年10月27日 福岡県添田町 上中元寺薬師堂 十二神将のうち3体 盗難
13年10月29日 福島県柳津町 150年の老舗菓子店 岩井屋 他4棟 全焼
13年10月30日 静岡県沼津市 咳気神社 全焼
13年10月31日 静岡県三島市 滝川神社 全焼
13年11月15日 大阪市中央区 大阪城 天守閣北側の石垣 幅4メートルの落書き
13年11月27日 奈良県斑鳩町 法隆寺(世界遺産)西院大垣(重文)修復困難な損傷
13年12月11日 伊豆の国市韮山 若宮八幡神社境内のほこらか 石像1体 盗難-逮捕
13年12月15日 京都市伏見区 伏見稲荷大社 北側参道付近の木 売店付近 ぼや

14年01月13日 香川県高松市 法然寺境内 二尊堂 全焼
14年04月01日 佐賀県鳥栖市 浄土真宗本願寺派正行寺 本堂含む約500平方メートル 全焼
14年04月20日 厚木市厚木町 厚木神社 神楽殿 全焼 1月にも拝殿の鈴が焦げる被害
14年05月01日 滋賀県甲良町 西明寺 油性スタンプによる汚損 天台宗寺院、金剛輪寺、百済寺でも 被害
14年05月02日 広島県福山市 大観寺 本堂と倉庫他400平方メートル 全焼
14年05月04日 京都市西京区 法輪寺 収蔵庫の鉄製扉や外壁、石像など12カ所にスプレーによる汚損
14年05月31日 滋賀県米原市 善楽寺 本堂、書院、庫裏 全焼
14年06月01日 さいたま市桜区 氷川神社 社務所 全焼
14年06月06日 佐賀県鳥栖市 姫古曽神社 拝殿・神殿 全焼
14年06月11日 東京都台東区 浅草寺 境内の地蔵菩薩像(子育て地蔵)3体破壊 サウジアラビア籍 モハマド・アブドゥラ・サード 逮捕 余罪有
14年07月15日 福岡県糸島市 志登神社 本殿、拝殿 全焼
14年07月28日 東京千代田区 神田明神 「不適切な絵馬は撤去」の表示
14年08月07日 愛媛県松山市 飯岡神社 本殿のしめ縄 不審火-消火
14年10月01日 北海道釧路市 市営墓地 29体の地蔵のうち8体 損壊
14年11月25日 長崎県対馬市 梅林寺 有形文化財「誕生仏」盗難 金相鎬など韓国人4人逮捕
14年11月27日 長崎県対馬市 博物館で仏像を一括管理検討
14年12月03日 栃木県栃木市 神倉神社 全焼
14年12月04日 栃木県栃木市 根渡神社 全焼
14年12月30日 群馬県高山神社 全焼
14年12月31日 東京都千代田区 靖国神社 一部

15年01月07日 富山県富山市 八幡社 全焼
15年01月10日 千葉県香取市 境宮神社 拝殿と本殿 全焼
15年01月11日 千葉県香取市 境宮神社 全焼 
15年01月11日 岐阜県瑞穂市只越 神社名不明 火災
15年01月31日 高知県高知市 山内神社 社務所が半焼
15年02月04日 佐賀県佐賀市 無量寺 お堂に韓国国旗が掲げられる
15年02月06日 京都府向日市 向日神社 拝殿に「火事になれ」と落書き
15年02月11日 静岡県静岡市 山王寺 全焼
15年02月13日 大阪府出雲井町 枚岡神社の裏山 宗教法人徳成寺 ”地図にない廃神社”バラックに韓国人 不法占拠か?
15年02月17日 京都市東山区 高台寺 倉庫全焼
15年03月15日 滋賀県東近江市 安楽寺 本堂内の厨子の一部延焼
15年03月27日 千葉県市原市 玉前神社 全焼
15年03月31日 千葉県千葉市 圓福寺 本堂と木造の住居部 全焼
15年04月04日 京都市西京区 西芳寺(世界遺産) 阿弥陀如来像 盗難
15年04月05日 奈良県桜井市 長谷寺 木造十一面観音立像 液体の跡
15年04月07日 奈良県明日香村 二条城 国宝・二の丸御殿内で油の跡を20カ所発見
15年04月07日 奈良県明日香村 岡寺 仁王門(重文)本堂など7つの建物で油のような液体
15年04月07日 奈良県明日香村 橘寺 油のような液体
15年04月07日 奈良県明日香村 飛鳥寺 計4カ寺の重要文化財などで被害が相次ぐ
15年04月07日 奈良県明日香村 飛鳥坐神社 賽銭箱などの4カ所に油のような痕跡
15年04月08日 京都市西京区 西芳寺(世界文化遺産)茶室から阿弥陀如来坐像1体 盗難
15年04月08日 奈良県吉野町 金峯山寺(世界遺産)本堂外側の柱 木造蔵王権現立像(重文)など4カ所
15年04月08日 奈良県吉野町 東南院 油の被害
15年04月08日 奈良県橿原市 久米寺 本堂 金剛力士像 計10カ所に痕跡
15年04月09日 奈良県橿原市 橿原神宮(祭神 神武天皇)外拝殿の外壁など計7カ所 油の痕跡
15年04月09日 京都市南区 東寺(世界遺産)御影堂(国宝)灌頂院東門(重文)も同様の被害
15年04月09日 香川県琴平町 金刀比羅宮 旭社(重文) 油のような液体
15年04月09日 茨城県鹿嶋市 鹿島神宮 拝殿や奥宮(重文)10カ所に液体跡
15年04月09日 千葉県香取市 香取神宮 境内の重要文化財「楼門」の柱など十数か所に油のような液体しみ
15年04月10日 千葉県成田市 成田山新勝寺 三重塔など4つの重要文化財を含む12の建造物で液体がかけられる
15年04月10日 京都市左京区 狸谷山不動院 油のような液体
15年04月10日 静岡県三島市 三嶋大社 拝殿(重文)の柱に油のような液体
15年04月11日 奈良県奈良市 春日大社(世界遺産)南門(重文)の扉や柱に油のような液体 
15年04月11日 奈良県桜井市 普門院 不動堂の賽銭箱や畳などで被害
15年04月11日 奈良県櫻井市 唐招提寺 油のあと
15年04月13日 兵庫県姫路市 天台宗書写山円教寺 仁王門 柵の隙間に接着剤
15年04月15日 新潟県弥彦村 弥彦神社 拝殿など7カ所に油
15年04月23日 愛知県岩倉市 稲荷社 拝殿祠 全焼
15年04月25日 福岡市中央区 警固神社 今益稲荷神社キツネの石像4体すべてが破壊
15年04月25日 東京杉並区 白山神社 社の一部が焼ける
15年04月26日 大分県宇佐市 宇佐神宮(国宝)亀山神社のさい銭箱や木製扉、柱など約20カ所に 油のような液体 
15年04月27日 栃木県日光市 日光東照宮 奥宮拝殿 参道の階段 陽明門(国宝)の壁画 約20カ所に白い粉
15年04月27日 京都市東山区 清水寺(世界遺産)本堂(国宝)内西側の廊下に油のような液体
15年04月28日 山形県鶴岡市 善寳寺 油のような液体
15年04月29日 山形県鶴岡市 出羽三山神社 国宝羽黒山五重塔 羽黒山東照社 液体がまかれる
15年04月30日 京都市伏見区 伏見稲荷大社 稲荷山で火災
15年04月30日 茨城県ひたちなか市 勝倉神社 拝殿や外塀の屋根の銅板約240キロ 盗難 同様の被害 11件
15年05月01日 茨城県水戸市 春日香取神社 屋根の銅版65枚 盗難
15年05月01日 山形県寒河江市 慈恩寺 本堂(重文) 油のような液体
15年05月01日 山形県鶴岡市 出羽三山神社 羽黒山五重塔(国宝)油のような液体
15年05月01日 山形県山形市の立石寺 油のような液体
15年05月07日 千葉県鋸南町 鋸山にある日本寺 参道脇の聖徳太子の石像 破壊
15年05月08日 東京都港区 心光院 表門の柱と扉部分に油がかけられる 米国在住の帰化韓国人に逮捕状
15年05月12日 東京都新橋 烏森神社 火災
15年05月18日 東京港区 光明寺 納骨堂の床 油のような液体
15年06月03日  倉敷市下庄 宝福寺 車庫 全焼
15年07月26日 千葉市中央区 西千葉稲荷大明神 のぼりが焼かれる
15年07月22日 神戸市須磨区 那須神社 付近で火災
15年08月10日 香川県三木町 八坂神社 火災
15年09月05日 静岡県伊豆の国市 韮山反射炉(世界遺産)壁に複数落書きにハングル文字
15年10月10日 青森県上北郡 沼端稲荷神社 全焼
15年10月12日 千葉県松戸市 王子神社 本殿 全焼
15年10月25日 愛知県蒲郡市清田町 安楽寺(徳川家ゆかりの寺)本堂全焼
15年11月05日 青森県八戸市鮫町 蕪嶋神社 全焼
15年11月23日 東京都千代田区 靖国神社 敷地内の公衆トイレ 時限爆弾による爆破 一部焼損
15年10月12日 千葉県松戸市 王子神社 本殿 全焼
15年12月10日 福岡市中央区 金刀比羅神社 倉庫 一部焼損
15年12月17日 福岡市西区 白山神社 近くの森で火災
15年12月30日 三重県津市 八乳合神社 社務所、拝殿 全焼
15年12月31日 東京都東村山市 八坂神社 裏の民家 火災
15年12月31日 群馬県藤岡市藤岡 諏訪神社 近くで火災

16年01月07日 宮城県東松島市 新山神社 どんと祭の前日 本殿 全焼
16年03月05日 愛知県東浦町緒川 乾坤院 本堂など全焼

2013年10月25日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)

高山右近の参加した白井河原合戦について、筆者記述の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦」その1〜3をまとめてみたいと思います。
 まとめ方をどうするか、悩んだのですが、少し趣向を凝らして、『スロイス日本史』を当時の事実に沿うように書き直してみたいと思います。
 原文は『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』の抜粋部分を使用します。


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(前略)
私(ルイス・フロイス)が、最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る邦暦7月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、高槻城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして和田殿にこう申させました。
(中略)
和田殿は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城などから届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
(中略)
此れ以前、和田殿は攻撃の足がかりとするために、多数の甚だ好戦的な家臣を有する池田殿の領地との境に近いところで、新たに2つの城を築いていました。池田殿はそれらの城が築かれた事にひどく激昂していました。和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、その機も利用して、決着をつけようと考えていました。
 和田殿はその後、都の公方様とも相談を重ね、池田殿を攻める体制を整え、細川殿や三淵殿の援助を得て、池田領へ攻め入りました。
 邦暦の6月10日、和田殿は池田方の吹田城を攻めて、これを落城させました。吹田は水陸の要衝で、ここを手に入れた和田殿は、その後の戦いを有利に導きました。それから更に和田殿は、細川・三淵殿の助けを借りて、池田領内深く進み、原田城をも手に入れました。そしてここに、今は幕府に身を寄せている、旧領主であった池田勝正殿が入城しました。彼は、池田の元の領主に戻るために、和田殿に力を貸していました。
 また、この辺り一帯は、敵である池田殿の主たる収入源でもある土地で、またそれは百年以上に渡り続けられていた、非常に重要な場所でした。これに対する池田殿は、この事態を大いに嘆き、これらを取り戻すため、和田殿に反撃する機会を窺い、準備を進めました。

しかし一方で和田殿は、五畿内での幕府方の不利を補うために東奔西走しなければなりませんでした。また、彼は京都の防衛も受け持ち、非常に苦しい状態が続いてもいました。
 そして7月には、山城国南部や大和国へも出陣し、筒井殿の支援も行いました。兵や物資の調達も困難を極めました。そのため和田殿は、姻戚関係でもある友軍の伊丹殿を頼み、池田殿を攻める事を計画し、準備を進めました。

一方の池田殿も、領内を和田殿など幕府方に激しく攻められながらも、反撃の体制を整えました。池田殿の友軍である三好三人衆や大坂本願寺の援護も受けつつ、邦暦8月には準備を整えたようです。
 邦暦8月18日、和田殿は伊丹殿と連合して、池田領を攻めましたが、池田殿の反撃激しく失敗し、200名もの戦死者を出して後退しました。池田殿は、和田殿への反撃を始めました。
 和田殿は、戦の経験も豊富であり、予め要所に家臣を置き、予期せぬ敵の動きを掴むために工夫をしていましたが、もしも池田殿が多数の兵で攻撃してくるような事になれば、それを防ぐのは難しい状態でした。

先の合戦で勝利していた池田方は、活気に満ちていました。邦暦8月21日、池田殿は全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、池田殿は和田殿との決戦のために、精選した兵士3,000を、3名の高位の武士が3隊に分ち、出陣しました。

高山ダリオ殿は、子息を戦死させた後、元に居た場所から移り、別の任務に就いていました。彼は、和田殿の築いた萱野の城に城主として入っており、彼の息子ジュスト右近殿と共に、幾ばくかの家臣と共に居ました。そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報しました。
 和田殿の懸念は現実となりました。和田殿は、池田殿との合戦に敗退し、次なる前進のために態勢を立て直す協議を行っていた時、高山ダリオからの通報が届きました。和田殿は急いで吹田を経て高槻城に戻り、敵の軍勢を防ぐ手楯を考えました。敵は西国街道といくつかの街道を使い、一計を案じて東進していました。

和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢な武将でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な士官級の戦士達でありました。
 しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に残しておいた控えや予備の兵卒700名あるかなしかを率いて、兎に角も出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たため、直ぐには兵を増やす事ができない状態でした。和田殿は、増援の通知をするため、遣いを急派させました。

幣久良山
高山ダリオ殿に通報を受けてから、刻々と入る戦況は、和田殿にとって、思わしくありませんでした。宿久・里など、いくつかの城は落ちたり、敵に包囲される等していました。敵の動きが思いの外早かったため、また、詳しくも判らず、和田殿はその対応に苦慮しました。
 和田殿は準備が整わない中でも、手持ちの兵数を以て領地を守るには、どの場所が適しているかを考えました。間もなく和田殿は、去る邦暦5月に落した安威城の近くにある幣久良山に陣を置き、ここで敵を防ぐ事に決しました。ここなら複数の川もあり、天然の要害性もあって、更に背後を憂える事も無く戦えると考えたからでした。
 和田殿は、城内の高位の貴人へ通達した後、先駆けとして手筈を整え、高槻城を出陣しました。
(中略)
幣久良山から南を望む
彼は先ず前記の200名の貴人だけを伴って幣久良山に入りました。他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続く手筈になっていました。
 和田殿は1,500名の兵を用意できる見通しを立てていましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。和田殿は、これまでの状況を見て、池田殿は多数の兵を用意する事はできないと考えていました。
 和田殿は池田殿との決戦を予定し、幣久良山の城で敵を迎え撃つ準備を整えました。また、夜襲に備えて兵卒に注意を促していましたが、何事もなく夜が明け始めました。
 しかし夜が明けると、その準備が整わない間に、その城から半里ばかりのところに敵勢を認めました。こちらへ対陣する敵方は、1,000名の兵の外は目視できなかった事から、和田殿は一計を案じ、間もなく息子と共にやって来る軍勢を待つ事なく、その敵に攻撃する事を決しました。和田殿は武術に長じた自分の家臣を大いに信用して、勇敢に戦おうとしました。
 そして出陣した和田殿は、前衛として先頭を騎行し、間もなく彼は一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
 しかし、彼らはある丘の麓で待ち伏せて、隠れていました更に2,000名もの敵兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた和田殿の軍勢に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(中略)

イメージ写真:鉄砲隊
しかし、和田殿と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、和田殿の予想に反して、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。また、敵は秘密裏に行動し、和田殿に悟られないようにも注意を払っていました。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、和田殿並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。また、幣久良山の城で決戦を迎えるために、各地からそこへ向かっていた和田殿の家臣達も同様に、それぞれの場所に戻ってしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。
 そしてその朝方、家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、和田殿から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、長い間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところが、午後に前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、和田殿が戦死し、彼と共に五畿内の彼の全く高貴な武士達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。

後になって判明した事ですが、この合戦にあたって、新城に籠っていた高山ダリオ殿とその息子ジュスト達は逃げ延び、共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。 
(後略)
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いかがでしょうか。こういった感じになろうかと思います。白井河原合戦についての実際の時間の区切り、要素の連続性と切れ目が判り易くなったのではないかと思います。






2013年10月24日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)

宣教師ルイス・フロイスの残した白井河原合戦についての記録を補足・補正し、その合戦とそれに至る状況を復元してみたいと思います。
 前回の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について」の記事を元に、以下説明していきたいと思います。マーキング及び下線部分を文章の前から順に説明したいと思います。なお、『耶蘇会士日本通信』は「日本通信」、『フロイス日本史』は、「日本史」と略し、以下に論を進めます。また、基本的には『日本通信』のフレーズに対比させて、双方の訳の違いを見たいと思います。

◎フロイスが最後に和田惟政に面会したのは去る8月
これは『日本通信』の解釈が正しいように思います。フロイスの表記は基本的に洋暦で、邦暦では7月の事としています。もしかすると邦暦の6月にかかる頃かもしれませんが、いずれにしても和田・池田方との交戦は始まっていました。この一連の交戦で、高山右近の兄弟が戦死しています。

◎総督は戦争の噂ありしを以て
『日本通信』では、「戦争の噂ありしを以て」とあり、『日本史』では、「戦の最中ではありましたが」とあります。この7月頃、既に惟政は、池田方と交戦及び南山城・大和国方面へも出陣するなどしており、正に「戦の最中」でしたので、『日本史』の訳が実情に合います。

◎池田の主将は大いに此の築城を憤り
この時、荒木村重は池田家中の全権を握る立場にはありませんでした。惣領の池田勝正を逐い、村重は官僚集団である池田四人衆を再編した、池田三人衆ともいえる家政機関の一人となっていました。
 白井河原合戦ではその3名が各々1,000名ずつを受け持っていましたので、『日本史』の訳にある「荒木」は、当時の実態に沿わず、『日本通信』の訳が正しいと言えます。
 それに関する参考史料をご紹介します。年記未詳11月8日付けで、池田勘右衛門尉正村などが、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てた禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

--(参考史料)----------------------------
本文:摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍て件の如し。
署名部分:(池田勘右衛門尉)正村・(荒木信濃守)村重・(池田紀伊守清貧斎)正秀
※実際は諱のみが記されている。
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◎池田殿は9月7日
この池田殿が領内に通知を発した日付について、『日本通信』では、9月7日であり、『日本史』では9月10日となっています。もちろん表記は洋暦です。3日間の差がありますが、前者のこれを邦暦の8月18日とした場合には、池田衆が和田・伊丹勢に大規模な反撃を行い、和田・伊丹勢に200名もの戦死者を出させる会戦があったのですが、この日が18日です。
 ですので、18日に池田衆が領内に出陣の「触れ」を兼ねた通知を行うのは不可能と思われますので、『日本史』の解釈が実態に沿っていたと思われます。
 ただ、18日から28日までを一連の出来事とも考える事は不自然ではありませんが、今のところ、そう考える根拠がありませんので、フロイスの記述と18日の会戦は別のものと考えています。
 
◎領内の高貴なる大身一同に(中略)自署の書簡を送る
この要素の訳は『日本史』では、「自分(荒木)の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し」とあり、この訳し方が実態に合います。但し、その主体は「荒木」では無く、「池田の主将」です。主体の理解については『日本通信』の訳が正しいと言えます。このような状況ですので、原文に「荒木」とは無いのかもしれません。
 また、これに関する史料があります。年記未詳6月24日付けで池田衆が、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てた音信(『中之坊文書』)を見ると、池田家中は実際にそのような体制の時期があった事が判ります。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180

--(参考史料)----------------------------
本文:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名部分:小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、萱野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
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◎同所(ダリオが守りし城)より約3里の高槻に在りし和田に報告
この状況の理解は若干困難を来たしますが、高槻から3里の距離となれば、当然その西側で、萱野のあたりになろうかと思われます。上記署名中にも「萱野助大夫宗清」なる人物が確認でき、池田方であった事が判ります。
 和田の居た場所が高槻と言っているのは『日本通信』ですが、『日本史』では、高槻とは言っていません。原文を見る必要がありそうですが、具体的に地名を原文に書いているなら、このような訳の違いは出ない筈で、この部分は次の文脈を考えて、意訳されているように思えます。
 ですので個人的には、高山飛騨守ダリオ(右近の父)が、和田に通報した居場所は高槻では無く、別のところだった可能性を考えています。前述の合戦、和田・伊丹勢が200名もの戦死者を出す会戦をしている事から、惟政は猪名川の西側や吹田などのあたりで、態勢を立て直すための準備を行っていたのではないかと考えています。
 高山ダリオはその場所に居た惟政に、池田衆の動きを急報したと考えられます。高槻城には700程の僅かな控えの兵を残して惟政が出陣していたため、惟政は池田方のこの動きに至急の対応を迫られたのでしょう。惟政はギリギリの人数で、池田城攻略を行っていたと見られます。というのは、大和国方面の筒井順慶支援のために、細川藤孝など幕府勢は、そちらへの対応を行っていたからです。ですので、伊丹衆と連合で池田を攻めていたのです。
 池田衆が出陣したのは8月22日早朝で、白井河原合戦の同月28日までには実際のところ、6日間あったわけですから、惟政は急遽1,500程は掻き集める事ができると考え、手配を行っていたのでしょう。元数は700ですので、それに800の加勢です。
 その状況が『日本史』にある、「武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき」で、また、「なぜならば他の家臣はすべて、そこから、3〜5、乃至8里も遠く離れたところに居たからでした」との記述要素は、兵の招集に関する事を示すものだろうと思われます。

◎徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず
『日本史』では、「息子と共にやって来る後衛を待つ事無く」とのみあります。「徒歩」の言葉が元々あるのか、無いのかは今のところ不明ですが、意訳かもしれません。「徒歩」なのかどうかで、ちょっと状況が変わってしまいます。
 惟政の嫡子惟長は、歩兵を連れて来る予定だったのか、馬の数が不足していたのかもしれません。はたまた、惟政が考えあって馬を使い、先に出たのでしょうか。

◎1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く
『日本史』の訳し方が、ちょっと実感の涌かないものですが、『日本通信』では、「対陣しし敵1,000名の外認めざりしが」とあるので、こちらの方が自然な訳で、実態に合います。
 池田勢の荒木村重は、囮となって1,000名を露出させ、他の兵は伏せていたのですから、惟政が敵数の目算を誤った事を表現するには何ら矛盾はありません。伝聞記録ですが、この時の村重について、新参だったために囮役を買って出たとするものがあります。また、池田三人衆の一人である、池田紀伊守清貧斎正秀は、織田信長にも賞された老練な武将です。よく練られた作戦を白井河原合戦でも実行したのでしょう。
 この作戦で惟政は「大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士」を選抜して先駆けていた事もあって、池田勢の思惑通りに功を奏しました。それからまた、惟政が「大胆勇猛」だったとしても、敵情の確認とこの先の予定等を考えて、何らかの勝機を見出したと思われます。
 一方で、惟政程の武将が、自分の率いる兵の数を勘違いする事は絶対に無いと思います。そんな基本的な事も出来ない様では、戦になりません。

◎同朝(8月28日)住院の一僕を
『日本史』では、「そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして」とあるのですが、これも当時の状況として首を傾げます。フロイスは、堺から京都に向かうために、その途上の河内国讃良郡三箇の教会に居り、そこで白井河原合戦を目撃しています。
 一行の目的地は京都ではありましたが、都(京都)の家僕が既に三箇へ来ていたのか、はたまた、そうでは無くて、三箇から京都へ遣いをやり、そこから高槻に向かわせたのでしょうか。しかしそれでは、時間も手間もかかり過ぎます。残念ながら、そこまでの事は『日本史』の訳からは読み取る事ができません。
 それに対して『日本通信』では、「住院(三箇)の一僕をダリオ(高槻方面)に遣わし」とあり、これならば状況は理解できます。三箇から高槻方面は4里(16キロメートル)ですから、徒歩では1里に1時間として、4時間程で高槻へ到着できます。馬ならもっと早く着けるでしょう。朝早く三箇を出て、午後4時頃には高槻方面から戻って来れるでしょう。
参考:河内国讃良郡にあった三箇城
参考:旧三箇村歴史案内ツアー
 
◎12時間小銃の音を聞き
『日本史』では、「私たちはそこから銃声を聞き、1・2時間ほどの間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ました」としています。これは訳のニュアンスの違いでしょう。実際には1ヶ月以上、高槻周辺で交戦が行われていましたので、そんなに短時間で銃声は止まなかったでしょう。同書では、「2日2晩」に渡って高槻周辺が燃え上がるのを見たと、言っています。

◎都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる
『日本史』では、「五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事」とあります。京都には様々な人材が近隣諸国から集まりますので、そういった人々が惟政に登用されたりしていたのでしょう。勿論、その中には土豪や身分のある人物も多く居たと思われます。また、茨木や郡などの国人とも結びつきを深くしていたようです。







2013年10月23日水曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)

キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記述を読み解くにあたり、何からご紹介すればいいのか、要素があり過ぎて悩むところがありますが、先ずは、各々の資料を上げておきたいと思います。
 双方は、概ね同じ流れと内容ですが、少し違いがあります。ポルトガル語ですが、原文を見ないと何とも言えないところがありますが、訳に微妙な差があります。その部分を淡赤色(アンダーライン)でマーキングしておきますので、読み比べてみて下さい。
 今回は、フロイスの記事中の白井河原合戦の部分だけを抜き出してあります。全文をご覧になりたい方は、出典を辿り、図書館などでご覧下さい。


『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』----------------
※この訳本は、初版が昭和3年に発行されたもので、口調も古語調になっています。

(前略)
予が最後に面会したるは去る8月(註:元亀2年7月)、戦争に於て殺されたるダリヨ高山殿の一子埋葬の為、イルマン・ロレンソと共に当地より摂津国に赴きたる時にして、高槻の城より四分の一レグワの所に到りて、予はロレンソを総督(和田惟政)の許に遣わして、時既に遅く、当時此の道路に殺人及び掠奪多く行われ、我等は聖祭の器具を携帯せるを以て不幸に遭遇せんことを恐るるが故に、危険の場所を通過するまで兵士数人を我等と同行せしめん事を閣下(総督)に求むと云わしめたり。
 総督は戦争の噂ありしを以て、多数の武士と会議中にて非常に忙しく、書記2人は毎時間受領せし多数の書簡に対する返答を認めたるが、ロレンソの入るや、パードレは何処にあるやと尋ねたれば、
(中略)
総督は彼の敵にして、多数の甚だ戦を好める兵士を有する領主池田の領土に接して、今新たに2城を築造せり。池田の主将は大いに此の築城を憤り、之を囲みて陥落せしめ破壊せんと決心せり。
 而(しかり)して和田殿彼に対して直に出陣すべきを確信し、池田殿9月7日(註:元亀2年8月18日)領内の高貴なる大身一同に假令下賤なる者なりと雖も此の戦争に於いて和田殿の首を斬りたる者には1,500クルザードの収入を与うる事を約する自署の書簡を送りたり。
 翌日早朝此の敵は、3,000の兵士を3隊に分ち、新城のひとつを攻囲せん為出陣せり。該城はキリシタンなるダリオ其の一子及び少数の兵士と共に之を守りしが、敵の来るを聞き、急使を以て同所より約3レグワの高槻に在りし総督に報告せり。総督は大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。総督は(中略)、先頭に立ち、前に述べたる200の武士之に随い、500人は少しく後方に約18歳なる総督の一子(註:太郎惟長)と共に進みたり。
 総督は計数を誤り、1,500の兵士共に城を出ずべしと思いたれば、敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワの所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる(徒歩にて戦う日本の習慣なるが故に)其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。彼は此の時対陣しし敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏したる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、(中略)。
 彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
 和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。

此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。ダリオ高山殿及び其の子が、新城に籠り居て此の戦争に死せざりしは我等の主を称賛すべき事なり。
(後略)
---- (耶蘇会士日本通信 部分抜粋 終わり)----------------------


『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』----------------
(前略)
私が最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る8月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして奉行(和田殿)にこう申させました。
(中略)
奉行は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城から届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
 ロレンソが入って来ますと奉行は、伴天連はどこにおられるか、と彼に訊ねました。
(中略)
奉行は新たに、池田領との境に近いところに2つの城を築きました。同領は、和田殿の敵であり、多数の甚だ好戦的な家臣を有する荒木と称する殿に属していました荒木はそれらの城が築かれた事にひどく激昂し、和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、それらを包囲接収し、且つ、破壊しようと決心しました。
 当9月10日(邦暦8月21日)、荒木は自分の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、荒木は上記の城の一つを包囲するために、精選した自分の兵士3,000を3隊に分ち、これを率いて出陣しました。その一城には、城主として高山ダリオ殿と息子のジュスト右近殿が幾ばくかの家臣と共に居ましたが、そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報致しました。
 和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした
 奉行は、(中略)。前衛の先頭を騎行しました。(中略)。彼は前記の200名の貴人だけしか伴っておらず、他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続きました。
 和田殿は計数を誤り、自分達は、城から1,500名の兵を率いて出陣したものと思い込んでいましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。それ故彼は敵勢を、城から半里ばかりのところで認めますと、息子と共にやって来る後衛を待つ事なく、一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、そして敵方から自分の方へ1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。そして彼らは見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた相手方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。(中略)。
 奉行と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、奉行から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、1・2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。ところが、やっと午後になって前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、奉行が戦死し、彼と共に、五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
 この合戦にあたって、新城に居た高山ダリオ殿とその息子ジュストが共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。
(後略)
---- (フロイス日本史 部分抜粋 終わり)----------------------


次回は、上記の資料を元に、訳の違いを含め、更に日本側の資料を併せ見て、当時の状況を復元してみたいと思います。






2013年10月17日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)

摂津国豊能郡高山村出身とされる高山右近は、非常に有名でありながら、謎の多い武将でもあります。
 荒木村重の家臣となり、有力な武将となる以前については、詳しく判っていません。そんな高山右近が、元亀2年8月28日に行われた白井河原合戦とそこに至る活動に関わっている事が、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した報告書と、彼が後に編纂した『フロイス日本史』の中に記述されています。
 ただ、フロイスは外国人であるために、起きた出来事をその意味を含めて正確に把握しているとも言えず、また、敵味方の主観的な見方も極端なところがあって、この記述のみで全てを言い表しているとはいえないのも事実です。他の記録類も同様に、「真実とは何か」という、そもそもの価値をどう定義するかにもよるのですが、やはりそれは対象についての記録を全て見比べる事でのみ真実の描写が可能であり、本来、記録とは、自分(記録者)の目線以上でも、以下でも無いのです。
 特に合戦という出来事については、残った記録と地形・気象、それらを取り巻く背景(政治・経済・権力など)を総合的に見る事で、「その時」が見えて来るのだろうと思います。真実とは、それでなければ見えないものと感じます。調査不足、それから自分の対象への偏見、無学のある内は、いくらそれについて語ろうとも矛盾が多く、決して真実に至る事ができません。
 これは他のどんな分野でも同じ事が言えると思います。その探求が、いわゆる「科学」であり、歴史の分野は、その元は科学であって、私個人的には「歴史科学」と捉えています。

前置きが長くなりました。高山右近と白井河原合戦についての本題に移ります。

『フロイス日本史』などによると、高山右近には男子の兄弟があったようで、その一人が元亀2年(1571)7月頃に戦死しているようです。
 これについて『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』や『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』には、詳しく記述されています。
 先にも触れたように、フロイスは外国人であるために、民俗性や五畿内特有の習慣等を踏まえていない場合や記憶違いなども記述に多々見られます。ですので、他の日本側の史料(資料)と照らし合わせる事で、その間違いを補正する事ができます。
 それから更に、フロイスの元の記述は外国語です。それを訳してもらったものを私達は資料として読んでいるのですが、その訳の感覚も時代や担当者などの人によっての違いがあります。それらの要素も補正する必要があります。

先ず、日本側の当時の資料群を見、その時に何があったのか、フロイスの記述の空白と間違いを補う元にしたいと思います。それに並行し、『フロイス日本史』などにある関連部分を、それぞれ抜き出してみます。同じ部分を『耶蘇会士日本通信』から抜き出して比較してみたいと思います。
 
このテーマも結構長くなりそうなので、いくつかに分けて述べてみたいと思います。
 論点の主要素となる、ルイス・フロイスの記述の分析の前に、日本側の各資料から白井河原合戦に至る背景を見てみたいと思います。
 
日本側に残る資料では、元亀2年中の和田惟政・池田衆・高槻方面、その関連について時間経過を追ってみたいと思います。

--(元亀2年中の時間経過)---------------------------------

2/5   三好三人衆方本願寺光佐、和田惟政との誼について返信せず
2/5   三好三人衆方荒木村重など池田衆、堺商人の茶席へ出座
3/5   三好三人衆被官木村宗治、松永久秀などを訪ねる
3/19  三好三人衆方池田正秀など池田衆、堺商人天王寺屋の茶席へ出座
3/22  三好三人衆など、河内国若江城の松永久通を訪ねる
5     和田惟政、三好三人衆方安威城を落す
6/2   三好三人衆方細川晴元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
6/6   三好三人衆方松永久秀、「渡出」などへ音信
6/10  和田惟政、吹田城を落とす
6/中旬  和田惟政など、原田城を落とす
6/23  和田惟政、牛頭天王(現原田神社)へ禁制を下す
6/24  三好三人衆方池田衆、湯山年寄中へ宛てて音信
7/8   和田惟政、三淵藤英などとともに山城国木津へ出陣
7/11  和田惟政、大和国へ入る
7/12  和田惟政、奈良周辺で交戦
7/15  三好三人衆方松永久秀、高槻方面へ出陣
7/20  和田惟政、高槻城へ戻る?
7/21  和田惟政、京都へ入る
7/22  和田惟政、高槻城へ戻る
7/22  三好三人衆方松永久秀、高槻方面から撤退
7/23  三淵藤英・細川藤孝、高槻方面へ出陣
7/26  三淵藤英、南郷春日社に宛てて禁制を下す
7/26  三淵藤英、南郷春日社目代へ音信
7/下旬  細川藤孝・池田勝正など、池田城を攻める
8/1   三淵藤英、牛頭天王へ禁制を下す
8/2   池田勝正、原田城へ入る
8/3   三好三人衆方松永久秀、大和国辰市で大敗
8/7   細川藤孝など、筒井順慶の援軍として奈良へ出陣
8/18  和田・伊丹勢、池田周辺で交戦
8/21  三好三人衆方池田衆、出陣の触れを出す
8/22  三好三人衆方池田衆、東へ向けて出陣
8/27  和田惟政、幣久良山に陣を取る
8/28  白井河原合戦
8/28  三淵藤英、高槻城へ入る
8/29  三好三人衆方池田勢、白井河原周辺諸城を攻撃
9      総持寺が焼ける
9/4   三好三人衆方淡路衆、大坂周辺などへ上陸
9/6   三好三人衆方池田勢、幕府勢に局地的に敗北
9/9   交渉が成立し、池田・幕府勢と停戦となる
9/13  織田信長、京都へ入る
9/中旬  吹田城、三好三人衆方池田方に復帰か
9/18  織田方島田秀満勢、摂津国へ出陣
9/24  明智光秀、摂津国へ出陣
9/25  一色藤長など、摂津国へ出陣
9/30  三淵藤英、奈良へ出陣
10    三好三人衆方中川清秀、新庄城へ入る?
10/14 織田信長、細川藤孝へ勝竜寺城の普請について指示
11/1  織田信長、高槻城へ替番の兵を入れる事について指示
11/8  三好三人衆方池田三人衆、摂津国豊嶋郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
11/14 織田信長、伊丹忠親へ通路の封鎖を命じる
11/14 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
11/14 三好三人衆方松永久秀、河内国佐太・金田の陣にて公卿近衛前久をもてなす
11/24 三好三人衆方池田衆の池田正秀所有の茶器、堺商人の茶席で披露される
12/6  三好三人衆方松永久秀、河内国十七カ所内波志者に在陣
12/13 三好三人衆方池田正行、今西橘五郎へ音信
12/20 和田惟長、摂津国神峯山寺寺家中へ宛てて音信
12/20 和田惟長一族同名惟増、摂津国神峯山寺同宿中へ宛てて音信

-----------------------------------

上記の出来事の意味を簡単にお伝えしておきたいと思います。

池田城を推定復元した模型
この年の初頭、三好三人衆が幕府・織田信長方に反撃するために調略を行っており、それが成功します。2/5と3/19の茶会、3/5と3/22の三好三人衆と同被官木村宗治の行動は、それによるものです。また、茶会も三好三人衆方と池田衆を更に深く結びつけるための会席です。この時、荒木村重が池田家政の中心に就いた事を三好三人衆へ紹介したものと思われます。いわば、出世の足がかりとなった会合でした。様々な打ち合わせも行われた事でしょう。
 その後、5月頃から目立った行動が起き始め、軍事衝突が再び起こります。特に6月からは和田惟政が積極的に三好三人衆方の池田衆を攻めます。これは京都とその西側地域、またそれに続く海への連絡路を塞ぐカタチとなっている池田を制圧する必要があっため、幕府・織田方の当面の集中攻撃対象になっていたものと思われます。
 一方、元亀2年は、近江国方面で、幕府・織田方は大規模な戦略行動(戦争)があって、京都周辺へ兵を割く余裕が無かったために、和田は伊丹衆と共に東奔西走します。
 池田衆を攻めつつも、奈良方面へも出陣し、松永久秀などの三好三人衆方勢力にも対応しなければなりませんでした。それが、7/8・7/11・7/12の行動です。

原田神社
さて、白井河原合戦に至る環境を見てみます。
 6月10日頃、和田は吹田城を落しているようで、千里丘陵の南側から西へ進み始めます。同月23日、和田は、牛頭天王社へ禁制を下します。これは三好三人衆方の池田衆にとって、非常に深刻な出来事で、池田氏と繋がりの深い(被官化していたいと考えられる)原田氏の拠点、原田村の祭神が牛頭天王です。ここに幕府方の禁制が下されたという事は、池田氏の主要支配地域が和田方に移った事を示します。

その後、史料は暫く途切れますが、7月23日にまた、現れ始めます。
 その前日、和田が京都から高槻城に戻ると、幕府は三淵大和守藤英・細川兵部大輔藤孝を出陣させて、増援を行います。この時に池田勝正もこれに従軍しています。幕府方は池田城を攻めるための決定がなされ、そういった作戦が立てられていてものと思われます。
春日社の南郷目代今西家屋敷
同月26日、三淵は南郷春日社に宛てて禁制を下し、今西家にも音信しています。この事もまた、池田城に居る池田衆にとっては深刻な出来事です。池田氏はこの今西家の代官請けを代々続けており、主要な収入源の一つです。この関係が絶たれたのですから、一大事です。
 また、池田家当主の復帰を目指す池田勝正にとっても、勝正の名で禁制を下す事ができず、一旦は幕府に接収されるカタチになっている事から、勝正もこの状況に将来を憂慮した事でしょう。
 同時にこの頃、池田城は攻撃されていた事と思われます。禁制が下されているという事は、その付近で戦闘等が行われるなどして、無政府状態になっていたりしたのでしょう。

翌月1日、更に三淵により、牛頭天王社に再度の禁制が下されています。
 7月下旬から8月上旬にかけて、池田領内に幕府勢力が大規模に入り、交戦が行われていたようです。結局のところ、池田城が落ちなかったため、幕府方の池田勝正は池田城の監視のために、付け城的役割を帯びた原田城へ入ります。
 他方、池田城の池田衆は激しく抵抗したものと思われます。内部の事と地形をよく知る池田勝正を付けて大規模に攻めても落ちなかったのですから、そのような状況が想像できます。
 
この一連の交戦の中で、高山右近の兄弟(高山飛騨守の子)が戦死したのではないかと思われます。
 池田衆は、6月から7月の時点では、東へ大規模に進む余裕は無かったと思われますので、高山右近の兄弟は、原田から吹田のあたりで戦死したものと思われます。

摂津原田城跡
8月2日、池田勝正が原田城に入ってからは、大きな戦闘行動は無かったようです。1週間から10日程でしょうか。また、三淵と細川は京都等へ戻ったようです。また、現在の太陽暦では、9月6日頃で、そろそろ収穫の頃です。
 それからまた和田は、伊丹衆とも連携を考え、作戦の練り直しを行っていたようです。どのような規模か、また攻め方などは詳しく判りませんが、和田は池田城を続けて攻めようとしていた事が判ります。
 これに対し、池田衆も反撃の準備を進めていたようです。同月18日、和田・伊丹勢は200名もの戦死者を出す損害を受けています。池田衆は、この時点で反撃の体制が整っていたようです。
 
今西屋敷付近の田んぼ
白井河原合戦は、この流れの中で起きたもので、より長い期間を通じてこの合戦を見れば、一連の闘争の「決戦」だったと、捉える事ができると思います。
 フロイスの記述にある和田は、優位性を急激に崩された後の立て直しに窮した姿だったのだろうと思います。個人的には、そのように分析しています。また、その記述は文字としては繋がっていますが、そこにある要素は、必ずしも連続した出来事ではありません。断片的なものが一つになっています。

それからまた、この時の当主は高山飛騨守ですが、高山父子はこの戦いの中で、「新たに築造した城に籠って生き延びた」とある事から、その頃から城造りの才能に長けた一面があり、それが幸運にも命を守ったのかもしれません。はたまた、この時の事も含め、後に城造りに関して世に名を知られるようになるための、才能を開花させるキッカケになった出来事だったのかもしれません。
 
次は、フロイスの記述をその視点で確認してみたいと思います。






2013年9月22日日曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その7:三好下野守と為三が同一人物と考えられている史料群)

このブログ上でこれまでは、史料上において、三好下野守と右衛門大夫政勝(為三)が別人であるとの論拠を示しました。しかしながら、両者が同一人物である可能性を示す要素が無くなった訳ではありません。
 それについて京都大徳寺内の『大仙院文書』に収録されている両者の花押を見ると、ほぼ同じなのです。これは一体、何を意味するのでしょうか?

これは重要な事実です。

しかしまた、それが史料上の動きとは一致しない事も事実ですので、この相互の矛盾について、考える必要があります。
 この問題については、全ての史料とその花押を検証する必要性があるのだろうと思います。為三の自署史料も多くはありませんが、存在します。また幸い、下野守については多くの自署史料が残っていますので、それらを全て点検する事は、手間を惜しまなければ不可能ではありません。

その点検は追々進めるとして、先ず『大仙院文書』を見てみたいと思います。欠年7月17日付けで、三好右衛門大輔政生が、大仙院御所回鱗へ宛てた書状(折紙)です。
※大仙院文書P19(史料番号28) 花押番号:30番

-史料(1)------------------------------
御音信為、御樽代20疋送り給い候。毎度御懇ろの儀、謝し申し難く候、御次ぎ和尚様へ御意得候て御取り成し所仰せ候。相応の儀承り、馳走致すべく候。恐々謹言。
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※後の考証記述:コノ文書、現状ハ切紙タリト雖モ、料紙ノ下部二横ノ折筋アリ。蓋シモト折紙ナルベシ。

続いて、欠年7月9日付けで、三好右衛門大輔政生が、大仙院内如意庵(御返報)へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P20(史料番号30) 花押番号:32番

-史料(2)------------------------------
出張の儀に就き、御懇ろの御状祝着の至り候。仍て御樽代為鵝目30疋送り給い候。本望候。必ず面拝以て御懇ろ御礼申し入れるべく候。恐々謹言。
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※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好右衛門大輔政生 如意庵 御返報」

更に、欠年8月24日付け、三好下野守政生が、大仙院侍者中へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P19(史料番号29) 花押番号:31番

-史料(3)------------------------------
御音信為、鳥目20疋贈り下され候。過分忝く存じ候。爰元へ罷り越し候条、即ち愚札以て申し上げる処成れ共、憚り多くに就き音無きに至り存じ候。心底於慮外非ず候。此れ等の趣、然るべく様御披露憑み奉り候。恐々謹言。
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※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好下野守政生 大仙院侍者御中」

そして、三好政勝(為三)に関する史料もあります。欠年4月3日付け、三好右衛門大夫政勝が、大仙院関係の金首座へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P65(史料番号89) 花押番号:86番

-史料(4)------------------------------
尊書拝見仕り候。仍て是れ従り早々申し上げるべくの処、御上洛存ぜず候て音無く迷惑せしめ候。将又御音信為鳥目50疋拝領、過分の至り候。近日爰元取出すべくの条、相応の儀仰せ蒙り、馳走致すべく候。聊かも疎意有るべからずを以ち候。此れ等の趣、御披露宜しく預かり候。恐々謹言。
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※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好右衛門大夫政勝 金首座」

そしてこの『大仙院文書』(株式会社続群書類従完成会刊)は、ありがたい事に、全ての史料の花押を収録してくれいています。是非、図書館などで該当史料をご覧下さい。
 史料の番号、28〜30番は「右衛門大輔(たいふ)」を、89番は「右衛門大夫(だいぶ)」を、29番は「下野守」を名乗っているようです。また、諱は、89番の「政勝」以外は、全て「政生」です。

ちなみに、正式な官位での(右)衛門府には、「大夫」や「大輔」は無い筈なのですが、室町時代後期にはそういった名乗りをよく見かけます。例えば、高山右近大夫や右近允などもそうです。
 また、こういった官位を与える側も、この時代は乱世でもあって、そういった折衷案的なものも認められる風潮にあったのかもしれません。各位の定員的なものも曖昧になりながらも、権威を保たなければならない事情もあったのだろうと思われます。
 
さて、花押からその人物の社会的な変化を見ると、政生は「右衛門大輔」から「下野守」へ名乗りを変化させているようです。

そして文頭でも述べましたように、その政生は、右衛門大夫政勝と花押が一致するのです。
 この点が、三好右衛門大夫政勝と同苗下野守が同一人物であると考えられる要素です。花押が一致するのですから、そう判断されても無理はありません。

ただ、既述の「三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素)」のように、史料上ではやはり、別人である可能性が高いように思います。
 また、『大仙院文書』などの史料を読み比べても、何か両者の性格の違いが現れているようにも見えます。「下野守」を名乗る政生の文書内容は、相手に対して言葉が丁寧で、且つ、態度も献身的な印象を受けます。

それから、この両者の花押が一致する事については、もう少し長い活動期間の中で比較する必要があろうかと思われます。永禄3年頃まで、両者は細川晴元と将軍義輝(義晴)方に属し、互いに結びつきの強い集団で活動していましたので、社会的な地位や活動内容など、兄弟という事も有って両者の親密性があります。
 花押を見比べるなら、政勝が「一任斎」や「為三」を名乗る頃のものと、三好下野守が署名する史料とも比較する必要があるでしょう。
 三好下野守は、遊び心も花押に加えるような人物であり、花押そのものも何度か変えています。そのあたりの事情も考えた方がいいのかもしれません。

私としては、この三好下野守と右衛門大夫政勝の花押が一致する事については、史料上での食い違いが認められる事から、両者が同一人物とするには、納得のいかないところがあります。
 故に、両者の自署する史料の花押を、活動年代全期間に渡って確認しなければ、花押がなぜ一致するかという、その理由の方向すら決まりません。

今後は先ず、その作業を進め、また、ご報告したいと思います。