2013年10月25日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)

高山右近の参加した白井河原合戦について、筆者記述の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦」その1〜3をまとめてみたいと思います。
 まとめ方をどうするか、悩んだのですが、少し趣向を凝らして、『スロイス日本史』を当時の事実に沿うように書き直してみたいと思います。
 原文は『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』の抜粋部分を使用します。


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(前略)
私(ルイス・フロイス)が、最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る邦暦7月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、高槻城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして和田殿にこう申させました。
(中略)
和田殿は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城などから届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
(中略)
此れ以前、和田殿は攻撃の足がかりとするために、多数の甚だ好戦的な家臣を有する池田殿の領地との境に近いところで、新たに2つの城を築いていました。池田殿はそれらの城が築かれた事にひどく激昂していました。和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、その機も利用して、決着をつけようと考えていました。
 和田殿はその後、都の公方様とも相談を重ね、池田殿を攻める体制を整え、細川殿や三淵殿の援助を得て、池田領へ攻め入りました。
 邦暦の6月10日、和田殿は池田方の吹田城を攻めて、これを落城させました。吹田は水陸の要衝で、ここを手に入れた和田殿は、その後の戦いを有利に導きました。それから更に和田殿は、細川・三淵殿の助けを借りて、池田領内深く進み、原田城をも手に入れました。そしてここに、今は幕府に身を寄せている、旧領主であった池田勝正殿が入城しました。彼は、池田の元の領主に戻るために、和田殿に力を貸していました。
 また、この辺り一帯は、敵である池田殿の主たる収入源でもある土地で、またそれは百年以上に渡り続けられていた、非常に重要な場所でした。これに対する池田殿は、この事態を大いに嘆き、これらを取り戻すため、和田殿に反撃する機会を窺い、準備を進めました。

しかし一方で和田殿は、五畿内での幕府方の不利を補うために東奔西走しなければなりませんでした。また、彼は京都の防衛も受け持ち、非常に苦しい状態が続いてもいました。
 そして7月には、山城国南部や大和国へも出陣し、筒井殿の支援も行いました。兵や物資の調達も困難を極めました。そのため和田殿は、姻戚関係でもある友軍の伊丹殿を頼み、池田殿を攻める事を計画し、準備を進めました。

一方の池田殿も、領内を和田殿など幕府方に激しく攻められながらも、反撃の体制を整えました。池田殿の友軍である三好三人衆や大坂本願寺の援護も受けつつ、邦暦8月には準備を整えたようです。
 邦暦8月18日、和田殿は伊丹殿と連合して、池田領を攻めましたが、池田殿の反撃激しく失敗し、200名もの戦死者を出して後退しました。池田殿は、和田殿への反撃を始めました。
 和田殿は、戦の経験も豊富であり、予め要所に家臣を置き、予期せぬ敵の動きを掴むために工夫をしていましたが、もしも池田殿が多数の兵で攻撃してくるような事になれば、それを防ぐのは難しい状態でした。

先の合戦で勝利していた池田方は、活気に満ちていました。邦暦8月21日、池田殿は全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、池田殿は和田殿との決戦のために、精選した兵士3,000を、3名の高位の武士が3隊に分ち、出陣しました。

高山ダリオ殿は、子息を戦死させた後、元に居た場所から移り、別の任務に就いていました。彼は、和田殿の築いた萱野の城に城主として入っており、彼の息子ジュスト右近殿と共に、幾ばくかの家臣と共に居ました。そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報しました。
 和田殿の懸念は現実となりました。和田殿は、池田殿との合戦に敗退し、次なる前進のために態勢を立て直す協議を行っていた時、高山ダリオからの通報が届きました。和田殿は急いで吹田を経て高槻城に戻り、敵の軍勢を防ぐ手楯を考えました。敵は西国街道といくつかの街道を使い、一計を案じて東進していました。

和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢な武将でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な士官級の戦士達でありました。
 しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に残しておいた控えや予備の兵卒700名あるかなしかを率いて、兎に角も出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たため、直ぐには兵を増やす事ができない状態でした。和田殿は、増援の通知をするため、遣いを急派させました。

幣久良山
高山ダリオ殿に通報を受けてから、刻々と入る戦況は、和田殿にとって、思わしくありませんでした。宿久・里など、いくつかの城は落ちたり、敵に包囲される等していました。敵の動きが思いの外早かったため、また、詳しくも判らず、和田殿はその対応に苦慮しました。
 和田殿は準備が整わない中でも、手持ちの兵数を以て領地を守るには、どの場所が適しているかを考えました。間もなく和田殿は、去る邦暦5月に落した安威城の近くにある幣久良山に陣を置き、ここで敵を防ぐ事に決しました。ここなら複数の川もあり、天然の要害性もあって、更に背後を憂える事も無く戦えると考えたからでした。
 和田殿は、城内の高位の貴人へ通達した後、先駆けとして手筈を整え、高槻城を出陣しました。
(中略)
幣久良山から南を望む
彼は先ず前記の200名の貴人だけを伴って幣久良山に入りました。他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続く手筈になっていました。
 和田殿は1,500名の兵を用意できる見通しを立てていましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。和田殿は、これまでの状況を見て、池田殿は多数の兵を用意する事はできないと考えていました。
 和田殿は池田殿との決戦を予定し、幣久良山の城で敵を迎え撃つ準備を整えました。また、夜襲に備えて兵卒に注意を促していましたが、何事もなく夜が明け始めました。
 しかし夜が明けると、その準備が整わない間に、その城から半里ばかりのところに敵勢を認めました。こちらへ対陣する敵方は、1,000名の兵の外は目視できなかった事から、和田殿は一計を案じ、間もなく息子と共にやって来る軍勢を待つ事なく、その敵に攻撃する事を決しました。和田殿は武術に長じた自分の家臣を大いに信用して、勇敢に戦おうとしました。
 そして出陣した和田殿は、前衛として先頭を騎行し、間もなく彼は一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
 しかし、彼らはある丘の麓で待ち伏せて、隠れていました更に2,000名もの敵兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた和田殿の軍勢に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(中略)

イメージ写真:鉄砲隊
しかし、和田殿と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、和田殿の予想に反して、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。また、敵は秘密裏に行動し、和田殿に悟られないようにも注意を払っていました。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、和田殿並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。また、幣久良山の城で決戦を迎えるために、各地からそこへ向かっていた和田殿の家臣達も同様に、それぞれの場所に戻ってしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。
 そしてその朝方、家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、和田殿から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、長い間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところが、午後に前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、和田殿が戦死し、彼と共に五畿内の彼の全く高貴な武士達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。

後になって判明した事ですが、この合戦にあたって、新城に籠っていた高山ダリオ殿とその息子ジュスト達は逃げ延び、共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。 
(後略)
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いかがでしょうか。こういった感じになろうかと思います。白井河原合戦についての実際の時間の区切り、要素の連続性と切れ目が判り易くなったのではないかと思います。






2013年10月24日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)

宣教師ルイス・フロイスの残した白井河原合戦についての記録を補足・補正し、その合戦とそれに至る状況を復元してみたいと思います。
 前回の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について」の記事を元に、以下説明していきたいと思います。マーキング及び下線部分を文章の前から順に説明したいと思います。なお、『耶蘇会士日本通信』は「日本通信」、『フロイス日本史』は、「日本史」と略し、以下に論を進めます。また、基本的には『日本通信』のフレーズに対比させて、双方の訳の違いを見たいと思います。

◎フロイスが最後に和田惟政に面会したのは去る8月
これは『日本通信』の解釈が正しいように思います。フロイスの表記は基本的に洋暦で、邦暦では7月の事としています。もしかすると邦暦の6月にかかる頃かもしれませんが、いずれにしても和田・池田方との交戦は始まっていました。この一連の交戦で、高山右近の兄弟が戦死しています。

◎総督は戦争の噂ありしを以て
『日本通信』では、「戦争の噂ありしを以て」とあり、『日本史』では、「戦の最中ではありましたが」とあります。この7月頃、既に惟政は、池田方と交戦及び南山城・大和国方面へも出陣するなどしており、正に「戦の最中」でしたので、『日本史』の訳が実情に合います。

◎池田の主将は大いに此の築城を憤り
この時、荒木村重は池田家中の全権を握る立場にはありませんでした。惣領の池田勝正を逐い、村重は官僚集団である池田四人衆を再編した、池田三人衆ともいえる家政機関の一人となっていました。
 白井河原合戦ではその3名が各々1,000名ずつを受け持っていましたので、『日本史』の訳にある「荒木」は、当時の実態に沿わず、『日本通信』の訳が正しいと言えます。
 それに関する参考史料をご紹介します。年記未詳11月8日付けで、池田勘右衛門尉正村などが、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てた禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

--(参考史料)----------------------------
本文:摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍て件の如し。
署名部分:(池田勘右衛門尉)正村・(荒木信濃守)村重・(池田紀伊守清貧斎)正秀
※実際は諱のみが記されている。
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◎池田殿は9月7日
この池田殿が領内に通知を発した日付について、『日本通信』では、9月7日であり、『日本史』では9月10日となっています。もちろん表記は洋暦です。3日間の差がありますが、前者のこれを邦暦の8月18日とした場合には、池田衆が和田・伊丹勢に大規模な反撃を行い、和田・伊丹勢に200名もの戦死者を出させる会戦があったのですが、この日が18日です。
 ですので、18日に池田衆が領内に出陣の「触れ」を兼ねた通知を行うのは不可能と思われますので、『日本史』の解釈が実態に沿っていたと思われます。
 ただ、18日から28日までを一連の出来事とも考える事は不自然ではありませんが、今のところ、そう考える根拠がありませんので、フロイスの記述と18日の会戦は別のものと考えています。
 
◎領内の高貴なる大身一同に(中略)自署の書簡を送る
この要素の訳は『日本史』では、「自分(荒木)の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し」とあり、この訳し方が実態に合います。但し、その主体は「荒木」では無く、「池田の主将」です。主体の理解については『日本通信』の訳が正しいと言えます。このような状況ですので、原文に「荒木」とは無いのかもしれません。
 また、これに関する史料があります。年記未詳6月24日付けで池田衆が、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てた音信(『中之坊文書』)を見ると、池田家中は実際にそのような体制の時期があった事が判ります。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180

--(参考史料)----------------------------
本文:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名部分:小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、萱野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
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◎同所(ダリオが守りし城)より約3里の高槻に在りし和田に報告
この状況の理解は若干困難を来たしますが、高槻から3里の距離となれば、当然その西側で、萱野のあたりになろうかと思われます。上記署名中にも「萱野助大夫宗清」なる人物が確認でき、池田方であった事が判ります。
 和田の居た場所が高槻と言っているのは『日本通信』ですが、『日本史』では、高槻とは言っていません。原文を見る必要がありそうですが、具体的に地名を原文に書いているなら、このような訳の違いは出ない筈で、この部分は次の文脈を考えて、意訳されているように思えます。
 ですので個人的には、高山飛騨守ダリオ(右近の父)が、和田に通報した居場所は高槻では無く、別のところだった可能性を考えています。前述の合戦、和田・伊丹勢が200名もの戦死者を出す会戦をしている事から、惟政は猪名川の西側や吹田などのあたりで、態勢を立て直すための準備を行っていたのではないかと考えています。
 高山ダリオはその場所に居た惟政に、池田衆の動きを急報したと考えられます。高槻城には700程の僅かな控えの兵を残して惟政が出陣していたため、惟政は池田方のこの動きに至急の対応を迫られたのでしょう。惟政はギリギリの人数で、池田城攻略を行っていたと見られます。というのは、大和国方面の筒井順慶支援のために、細川藤孝など幕府勢は、そちらへの対応を行っていたからです。ですので、伊丹衆と連合で池田を攻めていたのです。
 池田衆が出陣したのは8月22日早朝で、白井河原合戦の同月28日までには実際のところ、6日間あったわけですから、惟政は急遽1,500程は掻き集める事ができると考え、手配を行っていたのでしょう。元数は700ですので、それに800の加勢です。
 その状況が『日本史』にある、「武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき」で、また、「なぜならば他の家臣はすべて、そこから、3〜5、乃至8里も遠く離れたところに居たからでした」との記述要素は、兵の招集に関する事を示すものだろうと思われます。

◎徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず
『日本史』では、「息子と共にやって来る後衛を待つ事無く」とのみあります。「徒歩」の言葉が元々あるのか、無いのかは今のところ不明ですが、意訳かもしれません。「徒歩」なのかどうかで、ちょっと状況が変わってしまいます。
 惟政の嫡子惟長は、歩兵を連れて来る予定だったのか、馬の数が不足していたのかもしれません。はたまた、惟政が考えあって馬を使い、先に出たのでしょうか。

◎1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く
『日本史』の訳し方が、ちょっと実感の涌かないものですが、『日本通信』では、「対陣しし敵1,000名の外認めざりしが」とあるので、こちらの方が自然な訳で、実態に合います。
 池田勢の荒木村重は、囮となって1,000名を露出させ、他の兵は伏せていたのですから、惟政が敵数の目算を誤った事を表現するには何ら矛盾はありません。伝聞記録ですが、この時の村重について、新参だったために囮役を買って出たとするものがあります。また、池田三人衆の一人である、池田紀伊守清貧斎正秀は、織田信長にも賞された老練な武将です。よく練られた作戦を白井河原合戦でも実行したのでしょう。
 この作戦で惟政は「大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士」を選抜して先駆けていた事もあって、池田勢の思惑通りに功を奏しました。それからまた、惟政が「大胆勇猛」だったとしても、敵情の確認とこの先の予定等を考えて、何らかの勝機を見出したと思われます。
 一方で、惟政程の武将が、自分の率いる兵の数を勘違いする事は絶対に無いと思います。そんな基本的な事も出来ない様では、戦になりません。

◎同朝(8月28日)住院の一僕を
『日本史』では、「そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして」とあるのですが、これも当時の状況として首を傾げます。フロイスは、堺から京都に向かうために、その途上の河内国讃良郡三箇の教会に居り、そこで白井河原合戦を目撃しています。
 一行の目的地は京都ではありましたが、都(京都)の家僕が既に三箇へ来ていたのか、はたまた、そうでは無くて、三箇から京都へ遣いをやり、そこから高槻に向かわせたのでしょうか。しかしそれでは、時間も手間もかかり過ぎます。残念ながら、そこまでの事は『日本史』の訳からは読み取る事ができません。
 それに対して『日本通信』では、「住院(三箇)の一僕をダリオ(高槻方面)に遣わし」とあり、これならば状況は理解できます。三箇から高槻方面は4里(16キロメートル)ですから、徒歩では1里に1時間として、4時間程で高槻へ到着できます。馬ならもっと早く着けるでしょう。朝早く三箇を出て、午後4時頃には高槻方面から戻って来れるでしょう。
参考:河内国讃良郡にあった三箇城
参考:旧三箇村歴史案内ツアー
 
◎12時間小銃の音を聞き
『日本史』では、「私たちはそこから銃声を聞き、1・2時間ほどの間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ました」としています。これは訳のニュアンスの違いでしょう。実際には1ヶ月以上、高槻周辺で交戦が行われていましたので、そんなに短時間で銃声は止まなかったでしょう。同書では、「2日2晩」に渡って高槻周辺が燃え上がるのを見たと、言っています。

◎都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる
『日本史』では、「五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事」とあります。京都には様々な人材が近隣諸国から集まりますので、そういった人々が惟政に登用されたりしていたのでしょう。勿論、その中には土豪や身分のある人物も多く居たと思われます。また、茨木や郡などの国人とも結びつきを深くしていたようです。







2013年10月23日水曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)

キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記述を読み解くにあたり、何からご紹介すればいいのか、要素があり過ぎて悩むところがありますが、先ずは、各々の資料を上げておきたいと思います。
 双方は、概ね同じ流れと内容ですが、少し違いがあります。ポルトガル語ですが、原文を見ないと何とも言えないところがありますが、訳に微妙な差があります。その部分を淡赤色(アンダーライン)でマーキングしておきますので、読み比べてみて下さい。
 今回は、フロイスの記事中の白井河原合戦の部分だけを抜き出してあります。全文をご覧になりたい方は、出典を辿り、図書館などでご覧下さい。


『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』----------------
※この訳本は、初版が昭和3年に発行されたもので、口調も古語調になっています。

(前略)
予が最後に面会したるは去る8月(註:元亀2年7月)、戦争に於て殺されたるダリヨ高山殿の一子埋葬の為、イルマン・ロレンソと共に当地より摂津国に赴きたる時にして、高槻の城より四分の一レグワの所に到りて、予はロレンソを総督(和田惟政)の許に遣わして、時既に遅く、当時此の道路に殺人及び掠奪多く行われ、我等は聖祭の器具を携帯せるを以て不幸に遭遇せんことを恐るるが故に、危険の場所を通過するまで兵士数人を我等と同行せしめん事を閣下(総督)に求むと云わしめたり。
 総督は戦争の噂ありしを以て、多数の武士と会議中にて非常に忙しく、書記2人は毎時間受領せし多数の書簡に対する返答を認めたるが、ロレンソの入るや、パードレは何処にあるやと尋ねたれば、
(中略)
総督は彼の敵にして、多数の甚だ戦を好める兵士を有する領主池田の領土に接して、今新たに2城を築造せり。池田の主将は大いに此の築城を憤り、之を囲みて陥落せしめ破壊せんと決心せり。
 而(しかり)して和田殿彼に対して直に出陣すべきを確信し、池田殿9月7日(註:元亀2年8月18日)領内の高貴なる大身一同に假令下賤なる者なりと雖も此の戦争に於いて和田殿の首を斬りたる者には1,500クルザードの収入を与うる事を約する自署の書簡を送りたり。
 翌日早朝此の敵は、3,000の兵士を3隊に分ち、新城のひとつを攻囲せん為出陣せり。該城はキリシタンなるダリオ其の一子及び少数の兵士と共に之を守りしが、敵の来るを聞き、急使を以て同所より約3レグワの高槻に在りし総督に報告せり。総督は大膽(胆)勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。総督は(中略)、先頭に立ち、前に述べたる200の武士之に随い、500人は少しく後方に約18歳なる総督の一子(註:太郎惟長)と共に進みたり。
 総督は計数を誤り、1,500の兵士共に城を出ずべしと思いたれば、敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワの所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる(徒歩にて戦う日本の習慣なるが故に)其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。彼は此の時対陣しし敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏したる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、(中略)。
 彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16歳の甥(註:茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。
 和田殿の子は高槻の城に引返せしが、総督死したるを聞き部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ少数なりき。

此の不幸なる戦争の当日、予は同所より4レグワの河内国讃良郡三箇の会堂に在りしが、同朝住院の一僕をダリオの許に遣わし、途中危険なるが故に、我等の為に総督より護衛兵を請い受けん事を依頼せり。聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。僕は午後に至り、此の不幸の報せをもたらして帰り、我等に総督及び都の高貴なる武士悉く彼と共に死したる事、並びに高槻の城に着きし時、其の子敗戦して退き来たりしを見たる事を告げたり。ダリオ高山殿及び其の子が、新城に籠り居て此の戦争に死せざりしは我等の主を称賛すべき事なり。
(後略)
---- (耶蘇会士日本通信 部分抜粋 終わり)----------------------


『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』----------------
(前略)
私が最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る8月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして奉行(和田殿)にこう申させました。
(中略)
奉行は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城から届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
 ロレンソが入って来ますと奉行は、伴天連はどこにおられるか、と彼に訊ねました。
(中略)
奉行は新たに、池田領との境に近いところに2つの城を築きました。同領は、和田殿の敵であり、多数の甚だ好戦的な家臣を有する荒木と称する殿に属していました荒木はそれらの城が築かれた事にひどく激昂し、和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、それらを包囲接収し、且つ、破壊しようと決心しました。
 当9月10日(邦暦8月21日)、荒木は自分の全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、荒木は上記の城の一つを包囲するために、精選した自分の兵士3,000を3隊に分ち、これを率いて出陣しました。その一城には、城主として高山ダリオ殿と息子のジュスト右近殿が幾ばくかの家臣と共に居ましたが、そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報致しました。
 和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な戦士達でありました。しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に居ました700名あるかなしかの兵卒を率いて、直ちに出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たからでした
 奉行は、(中略)。前衛の先頭を騎行しました。(中略)。彼は前記の200名の貴人だけしか伴っておらず、他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続きました。
 和田殿は計数を誤り、自分達は、城から1,500名の兵を率いて出陣したものと思い込んでいましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。それ故彼は敵勢を、城から半里ばかりのところで認めますと、息子と共にやって来る後衛を待つ事なく、一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、そして敵方から自分の方へ1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。そして彼らは見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた相手方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。(中略)。
 奉行と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。そして朝方、都の家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、奉行から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、1・2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。ところが、やっと午後になって前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、奉行が戦死し、彼と共に、五畿内の彼の全く高貴な貴族達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
 この合戦にあたって、新城に居た高山ダリオ殿とその息子ジュストが共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。
(後略)
---- (フロイス日本史 部分抜粋 終わり)----------------------


次回は、上記の資料を元に、訳の違いを含め、更に日本側の資料を併せ見て、当時の状況を復元してみたいと思います。






2013年10月17日木曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)

摂津国豊能郡高山村出身とされる高山右近は、非常に有名でありながら、謎の多い武将でもあります。
 荒木村重の家臣となり、有力な武将となる以前については、詳しく判っていません。そんな高山右近が、元亀2年8月28日に行われた白井河原合戦とそこに至る活動に関わっている事が、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した報告書と、彼が後に編纂した『フロイス日本史』の中に記述されています。
 ただ、フロイスは外国人であるために、起きた出来事をその意味を含めて正確に把握しているとも言えず、また、敵味方の主観的な見方も極端なところがあって、この記述のみで全てを言い表しているとはいえないのも事実です。他の記録類も同様に、「真実とは何か」という、そもそもの価値をどう定義するかにもよるのですが、やはりそれは対象についての記録を全て見比べる事でのみ真実の描写が可能であり、本来、記録とは、自分(記録者)の目線以上でも、以下でも無いのです。
 特に合戦という出来事については、残った記録と地形・気象、それらを取り巻く背景(政治・経済・権力など)を総合的に見る事で、「その時」が見えて来るのだろうと思います。真実とは、それでなければ見えないものと感じます。調査不足、それから自分の対象への偏見、無学のある内は、いくらそれについて語ろうとも矛盾が多く、決して真実に至る事ができません。
 これは他のどんな分野でも同じ事が言えると思います。その探求が、いわゆる「科学」であり、歴史の分野は、その元は科学であって、私個人的には「歴史科学」と捉えています。

前置きが長くなりました。高山右近と白井河原合戦についての本題に移ります。

『フロイス日本史』などによると、高山右近には男子の兄弟があったようで、その一人が元亀2年(1571)7月頃に戦死しているようです。
 これについて『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』や『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』には、詳しく記述されています。
 先にも触れたように、フロイスは外国人であるために、民俗性や五畿内特有の習慣等を踏まえていない場合や記憶違いなども記述に多々見られます。ですので、他の日本側の史料(資料)と照らし合わせる事で、その間違いを補正する事ができます。
 それから更に、フロイスの元の記述は外国語です。それを訳してもらったものを私達は資料として読んでいるのですが、その訳の感覚も時代や担当者などの人によっての違いがあります。それらの要素も補正する必要があります。

先ず、日本側の当時の資料群を見、その時に何があったのか、フロイスの記述の空白と間違いを補う元にしたいと思います。それに並行し、『フロイス日本史』などにある関連部分を、それぞれ抜き出してみます。同じ部分を『耶蘇会士日本通信』から抜き出して比較してみたいと思います。
 
このテーマも結構長くなりそうなので、いくつかに分けて述べてみたいと思います。
 論点の主要素となる、ルイス・フロイスの記述の分析の前に、日本側の各資料から白井河原合戦に至る背景を見てみたいと思います。
 
日本側に残る資料では、元亀2年中の和田惟政・池田衆・高槻方面、その関連について時間経過を追ってみたいと思います。

--(元亀2年中の時間経過)---------------------------------

2/5   三好三人衆方本願寺光佐、和田惟政との誼について返信せず
2/5   三好三人衆方荒木村重など池田衆、堺商人の茶席へ出座
3/5   三好三人衆被官木村宗治、松永久秀などを訪ねる
3/19  三好三人衆方池田正秀など池田衆、堺商人天王寺屋の茶席へ出座
3/22  三好三人衆など、河内国若江城の松永久通を訪ねる
5     和田惟政、三好三人衆方安威城を落す
6/2   三好三人衆方細川晴元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
6/6   三好三人衆方松永久秀、「渡出」などへ音信
6/10  和田惟政、吹田城を落とす
6/中旬  和田惟政など、原田城を落とす
6/23  和田惟政、牛頭天王(現原田神社)へ禁制を下す
6/24  三好三人衆方池田衆、湯山年寄中へ宛てて音信
7/8   和田惟政、三淵藤英などとともに山城国木津へ出陣
7/11  和田惟政、大和国へ入る
7/12  和田惟政、奈良周辺で交戦
7/15  三好三人衆方松永久秀、高槻方面へ出陣
7/20  和田惟政、高槻城へ戻る?
7/21  和田惟政、京都へ入る
7/22  和田惟政、高槻城へ戻る
7/22  三好三人衆方松永久秀、高槻方面から撤退
7/23  三淵藤英・細川藤孝、高槻方面へ出陣
7/26  三淵藤英、南郷春日社に宛てて禁制を下す
7/26  三淵藤英、南郷春日社目代へ音信
7/下旬  細川藤孝・池田勝正など、池田城を攻める
8/1   三淵藤英、牛頭天王へ禁制を下す
8/2   池田勝正、原田城へ入る
8/3   三好三人衆方松永久秀、大和国辰市で大敗
8/7   細川藤孝など、筒井順慶の援軍として奈良へ出陣
8/18  和田・伊丹勢、池田周辺で交戦
8/21  三好三人衆方池田衆、出陣の触れを出す
8/22  三好三人衆方池田衆、東へ向けて出陣
8/27  和田惟政、幣久良山に陣を取る
8/28  白井河原合戦
8/28  三淵藤英、高槻城へ入る
8/29  三好三人衆方池田勢、白井河原周辺諸城を攻撃
9      総持寺が焼ける
9/4   三好三人衆方淡路衆、大坂周辺などへ上陸
9/6   三好三人衆方池田勢、幕府勢に局地的に敗北
9/9   交渉が成立し、池田・幕府勢と停戦となる
9/13  織田信長、京都へ入る
9/中旬  吹田城、三好三人衆方池田方に復帰か
9/18  織田方島田秀満勢、摂津国へ出陣
9/24  明智光秀、摂津国へ出陣
9/25  一色藤長など、摂津国へ出陣
9/30  三淵藤英、奈良へ出陣
10    三好三人衆方中川清秀、新庄城へ入る?
10/14 織田信長、細川藤孝へ勝竜寺城の普請について指示
11/1  織田信長、高槻城へ替番の兵を入れる事について指示
11/8  三好三人衆方池田三人衆、摂津国豊嶋郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
11/14 織田信長、伊丹忠親へ通路の封鎖を命じる
11/14 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
11/14 三好三人衆方松永久秀、河内国佐太・金田の陣にて公卿近衛前久をもてなす
11/24 三好三人衆方池田衆の池田正秀所有の茶器、堺商人の茶席で披露される
12/6  三好三人衆方松永久秀、河内国十七カ所内波志者に在陣
12/13 三好三人衆方池田正行、今西橘五郎へ音信
12/20 和田惟長、摂津国神峯山寺寺家中へ宛てて音信
12/20 和田惟長一族同名惟増、摂津国神峯山寺同宿中へ宛てて音信

-----------------------------------

上記の出来事の意味を簡単にお伝えしておきたいと思います。

池田城を推定復元した模型
この年の初頭、三好三人衆が幕府・織田信長方に反撃するために調略を行っており、それが成功します。2/5と3/19の茶会、3/5と3/22の三好三人衆と同被官木村宗治の行動は、それによるものです。また、茶会も三好三人衆方と池田衆を更に深く結びつけるための会席です。この時、荒木村重が池田家政の中心に就いた事を三好三人衆へ紹介したものと思われます。いわば、出世の足がかりとなった会合でした。様々な打ち合わせも行われた事でしょう。
 その後、5月頃から目立った行動が起き始め、軍事衝突が再び起こります。特に6月からは和田惟政が積極的に三好三人衆方の池田衆を攻めます。これは京都とその西側地域、またそれに続く海への連絡路を塞ぐカタチとなっている池田を制圧する必要があっため、幕府・織田方の当面の集中攻撃対象になっていたものと思われます。
 一方、元亀2年は、近江国方面で、幕府・織田方は大規模な戦略行動(戦争)があって、京都周辺へ兵を割く余裕が無かったために、和田は伊丹衆と共に東奔西走します。
 池田衆を攻めつつも、奈良方面へも出陣し、松永久秀などの三好三人衆方勢力にも対応しなければなりませんでした。それが、7/8・7/11・7/12の行動です。

原田神社
さて、白井河原合戦に至る環境を見てみます。
 6月10日頃、和田は吹田城を落しているようで、千里丘陵の南側から西へ進み始めます。同月23日、和田は、牛頭天王社へ禁制を下します。これは三好三人衆方の池田衆にとって、非常に深刻な出来事で、池田氏と繋がりの深い(被官化していたいと考えられる)原田氏の拠点、原田村の祭神が牛頭天王です。ここに幕府方の禁制が下されたという事は、池田氏の主要支配地域が和田方に移った事を示します。

その後、史料は暫く途切れますが、7月23日にまた、現れ始めます。
 その前日、和田が京都から高槻城に戻ると、幕府は三淵大和守藤英・細川兵部大輔藤孝を出陣させて、増援を行います。この時に池田勝正もこれに従軍しています。幕府方は池田城を攻めるための決定がなされ、そういった作戦が立てられていてものと思われます。
春日社の南郷目代今西家屋敷
同月26日、三淵は南郷春日社に宛てて禁制を下し、今西家にも音信しています。この事もまた、池田城に居る池田衆にとっては深刻な出来事です。池田氏はこの今西家の代官請けを代々続けており、主要な収入源の一つです。この関係が絶たれたのですから、一大事です。
 また、池田家当主の復帰を目指す池田勝正にとっても、勝正の名で禁制を下す事ができず、一旦は幕府に接収されるカタチになっている事から、勝正もこの状況に将来を憂慮した事でしょう。
 同時にこの頃、池田城は攻撃されていた事と思われます。禁制が下されているという事は、その付近で戦闘等が行われるなどして、無政府状態になっていたりしたのでしょう。

翌月1日、更に三淵により、牛頭天王社に再度の禁制が下されています。
 7月下旬から8月上旬にかけて、池田領内に幕府勢力が大規模に入り、交戦が行われていたようです。結局のところ、池田城が落ちなかったため、幕府方の池田勝正は池田城の監視のために、付け城的役割を帯びた原田城へ入ります。
 他方、池田城の池田衆は激しく抵抗したものと思われます。内部の事と地形をよく知る池田勝正を付けて大規模に攻めても落ちなかったのですから、そのような状況が想像できます。
 
この一連の交戦の中で、高山右近の兄弟(高山飛騨守の子)が戦死したのではないかと思われます。
 池田衆は、6月から7月の時点では、東へ大規模に進む余裕は無かったと思われますので、高山右近の兄弟は、原田から吹田のあたりで戦死したものと思われます。

摂津原田城跡
8月2日、池田勝正が原田城に入ってからは、大きな戦闘行動は無かったようです。1週間から10日程でしょうか。また、三淵と細川は京都等へ戻ったようです。また、現在の太陽暦では、9月6日頃で、そろそろ収穫の頃です。
 それからまた和田は、伊丹衆とも連携を考え、作戦の練り直しを行っていたようです。どのような規模か、また攻め方などは詳しく判りませんが、和田は池田城を続けて攻めようとしていた事が判ります。
 これに対し、池田衆も反撃の準備を進めていたようです。同月18日、和田・伊丹勢は200名もの戦死者を出す損害を受けています。池田衆は、この時点で反撃の体制が整っていたようです。
 
今西屋敷付近の田んぼ
白井河原合戦は、この流れの中で起きたもので、より長い期間を通じてこの合戦を見れば、一連の闘争の「決戦」だったと、捉える事ができると思います。
 フロイスの記述にある和田は、優位性を急激に崩された後の立て直しに窮した姿だったのだろうと思います。個人的には、そのように分析しています。また、その記述は文字としては繋がっていますが、そこにある要素は、必ずしも連続した出来事ではありません。断片的なものが一つになっています。

それからまた、この時の当主は高山飛騨守ですが、高山父子はこの戦いの中で、「新たに築造した城に籠って生き延びた」とある事から、その頃から城造りの才能に長けた一面があり、それが幸運にも命を守ったのかもしれません。はたまた、この時の事も含め、後に城造りに関して世に名を知られるようになるための、才能を開花させるキッカケになった出来事だったのかもしれません。
 
次は、フロイスの記述をその視点で確認してみたいと思います。






2013年9月22日日曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その7:三好下野守と為三が同一人物と考えられている史料群)

このブログ上でこれまでは、史料上において、三好下野守と右衛門大夫政勝(為三)が別人であるとの論拠を示しました。しかしながら、両者が同一人物である可能性を示す要素が無くなった訳ではありません。
 それについて京都大徳寺内の『大仙院文書』に収録されている両者の花押を見ると、ほぼ同じなのです。これは一体、何を意味するのでしょうか?

これは重要な事実です。

しかしまた、それが史料上の動きとは一致しない事も事実ですので、この相互の矛盾について、考える必要があります。
 この問題については、全ての史料とその花押を検証する必要性があるのだろうと思います。為三の自署史料も多くはありませんが、存在します。また幸い、下野守については多くの自署史料が残っていますので、それらを全て点検する事は、手間を惜しまなければ不可能ではありません。

その点検は追々進めるとして、先ず『大仙院文書』を見てみたいと思います。欠年7月17日付けで、三好右衛門大輔政生が、大仙院御所回鱗へ宛てた書状(折紙)です。
※大仙院文書P19(史料番号28) 花押番号:30番

-史料(1)------------------------------
御音信為、御樽代20疋送り給い候。毎度御懇ろの儀、謝し申し難く候、御次ぎ和尚様へ御意得候て御取り成し所仰せ候。相応の儀承り、馳走致すべく候。恐々謹言。
-------------------------------
※後の考証記述:コノ文書、現状ハ切紙タリト雖モ、料紙ノ下部二横ノ折筋アリ。蓋シモト折紙ナルベシ。

続いて、欠年7月9日付けで、三好右衛門大輔政生が、大仙院内如意庵(御返報)へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P20(史料番号30) 花押番号:32番

-史料(2)------------------------------
出張の儀に就き、御懇ろの御状祝着の至り候。仍て御樽代為鵝目30疋送り給い候。本望候。必ず面拝以て御懇ろ御礼申し入れるべく候。恐々謹言。
-------------------------------
※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好右衛門大輔政生 如意庵 御返報」

更に、欠年8月24日付け、三好下野守政生が、大仙院侍者中へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P19(史料番号29) 花押番号:31番

-史料(3)------------------------------
御音信為、鳥目20疋贈り下され候。過分忝く存じ候。爰元へ罷り越し候条、即ち愚札以て申し上げる処成れ共、憚り多くに就き音無きに至り存じ候。心底於慮外非ず候。此れ等の趣、然るべく様御披露憑み奉り候。恐々謹言。
-------------------------------
※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好下野守政生 大仙院侍者御中」

そして、三好政勝(為三)に関する史料もあります。欠年4月3日付け、三好右衛門大夫政勝が、大仙院関係の金首座へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P65(史料番号89) 花押番号:86番

-史料(4)------------------------------
尊書拝見仕り候。仍て是れ従り早々申し上げるべくの処、御上洛存ぜず候て音無く迷惑せしめ候。将又御音信為鳥目50疋拝領、過分の至り候。近日爰元取出すべくの条、相応の儀仰せ蒙り、馳走致すべく候。聊かも疎意有るべからずを以ち候。此れ等の趣、御披露宜しく預かり候。恐々謹言。
-------------------------------
※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好右衛門大夫政勝 金首座」

そしてこの『大仙院文書』(株式会社続群書類従完成会刊)は、ありがたい事に、全ての史料の花押を収録してくれいています。是非、図書館などで該当史料をご覧下さい。
 史料の番号、28〜30番は「右衛門大輔(たいふ)」を、89番は「右衛門大夫(だいぶ)」を、29番は「下野守」を名乗っているようです。また、諱は、89番の「政勝」以外は、全て「政生」です。

ちなみに、正式な官位での(右)衛門府には、「大夫」や「大輔」は無い筈なのですが、室町時代後期にはそういった名乗りをよく見かけます。例えば、高山右近大夫や右近允などもそうです。
 また、こういった官位を与える側も、この時代は乱世でもあって、そういった折衷案的なものも認められる風潮にあったのかもしれません。各位の定員的なものも曖昧になりながらも、権威を保たなければならない事情もあったのだろうと思われます。
 
さて、花押からその人物の社会的な変化を見ると、政生は「右衛門大輔」から「下野守」へ名乗りを変化させているようです。

そして文頭でも述べましたように、その政生は、右衛門大夫政勝と花押が一致するのです。
 この点が、三好右衛門大夫政勝と同苗下野守が同一人物であると考えられる要素です。花押が一致するのですから、そう判断されても無理はありません。

ただ、既述の「三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素)」のように、史料上ではやはり、別人である可能性が高いように思います。
 また、『大仙院文書』などの史料を読み比べても、何か両者の性格の違いが現れているようにも見えます。「下野守」を名乗る政生の文書内容は、相手に対して言葉が丁寧で、且つ、態度も献身的な印象を受けます。

それから、この両者の花押が一致する事については、もう少し長い活動期間の中で比較する必要があろうかと思われます。永禄3年頃まで、両者は細川晴元と将軍義輝(義晴)方に属し、互いに結びつきの強い集団で活動していましたので、社会的な地位や活動内容など、兄弟という事も有って両者の親密性があります。
 花押を見比べるなら、政勝が「一任斎」や「為三」を名乗る頃のものと、三好下野守が署名する史料とも比較する必要があるでしょう。
 三好下野守は、遊び心も花押に加えるような人物であり、花押そのものも何度か変えています。そのあたりの事情も考えた方がいいのかもしれません。

私としては、この三好下野守と右衛門大夫政勝の花押が一致する事については、史料上での食い違いが認められる事から、両者が同一人物とするには、納得のいかないところがあります。
 故に、両者の自署する史料の花押を、活動年代全期間に渡って確認しなければ、花押がなぜ一致するかという、その理由の方向すら決まりません。

今後は先ず、その作業を進め、また、ご報告したいと思います。



 
 

2013年9月2日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素)

三好下野守と同苗為三が別人だという事は、史料上では明らかです。その一方で、同一人物であるとの要素(説)も検証しつつ、別人であるとの考えの精度を、更に高める必要もあろうかと思います。
 また、くどい様ですが、両者の前提は、下野守は政勝の兄で、政勝は入道して為三と名乗ったと考えています。

さて、三好下野守と同苗為三について、既述の記事から抜き出して、両者が別人であると考えさせる中心部分の史料を元に、考えをまとめてみたいと思います。両者の活動の経緯については、それぞれの記事をご覧下さい。
 両者が別人と私が考える決定的要素は、永禄12年5月頃、三好下野守が死亡した後にも、三好為三の活動が史料上で見られる事です。しかも、下野守と入れ替わるように、それまで殆ど見られなかった、為三の自署史料も現れます。
 先ずは、下野守が死亡したと伝える史料から見てみましょう。永禄12年5月26日条にある『二條宴乗記』の記述です。
※ビブリア52号P78・62号(補遺)P64(二條宴乗記)

-史料(1)-------------------------------
52号:
三好下野(守)入道釣閑斎、当月三日に遠行由。あわ(阿波)於、言語道断之事也。
64号:
三好下野(守)入道釣閑斎、当月三日に遠行由。
--------------------------------

 三好下野守は、阿波国で死亡したらしいと、入って来た情報を短く書き留めています。これについて、二條宴乗記は「言語道断」と自分の感想を書き残していますが、言葉に言い表せないと、しています。
 これは、その人格や個人的な事にも寄るとは思いますが、一乗院が色々と下野守を通じて様々な便宜(興福寺の権利獲得などの政治的な折衝窓口として)を得ていた事から、その死亡によって、何か大きなものを無くしたような気持ちになっていたのかもしれません。下野守は、様々な団体の訴えを聞き、対応していました。

また、キリスト教の宣教師ルイス・フロイスの編纂した『日本史』第29章(第1部77章)-司祭を(都へ)連れ戻す事に関して翌1568年に更に生じた事-条には、三好下野守の死について記述があります。
※日本史4-五畿内篇2(中央公論社刊(普及版))P70

-史料(1-a)-------------------------------
けれども1年と経たぬ内に、この下野殿は奇禍に遭い、哀れな死を遂げたし、(後略)。
--------------------------------

下野守は死亡したとの記述がここでも確認できます。この史料は、その出来事から「1年も経たない内に」という期間まで考証を加えてくれています。また、フロイスは当然、二條宴乗の記した日記を見る事はできません。下野守が死亡したと、フロイス自身も記録にとどめ、把握していた訳です。
 やはり、下野守の永禄12年頃の死亡は、事実と考えられます。また、「奇禍に遭い」とは、何かの謀略による死を示唆しているのでしょうか?何れにしても、その最期については、詳しく判りません。

ちなみに二條宴乗とは、奈良興福寺一乗院の坊官で、本願寺宗でいうところの下間氏のような役割を果たす、家政機関の中心人物です。また、奈良興福寺の一院である、多聞院の英俊が残した『多聞院日記』という文書もありますが、こちらも宴乗と同じような立場で残した日記です。
 こういった家政機関は、独自に色々と情報を収集し、備忘録として日記に残していたのです。奈良はこの当時、大都市でしたので、多くの商人や重要人物が出入りし、情報をもたらしました。
 それらの日記を読むと、特に二條宴乗は、堺の動きも熱心に収集していたようです。商人や使者などから、色々と話しを聞いている様子も日記から判ります。三好下野守が死亡したとの情報は、堺方面から、もたらされたのかもしれません。

そして、下野守が死亡したと奈良興福寺一乗院に伝わった翌月の閏5月、三好為三が関わる、三好三人衆家中での死亡者も出る程の喧嘩について、同じ奈良の多聞院に伝わっています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

-史料(2)-------------------------------
淡路国於喧嘩有て、三好為三被官矢野伯耆守以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
--------------------------------

この記述は奈良興福寺における、三好三人衆についての関心の高さを窺わせます。永禄10年から翌年にかけて、三好三人衆と松永久秀の抗争があり、これが奈良を舞台に行われた事から、興福寺は三好三人衆についてよく知っています。また、様々な土地や権利の安堵も受けていたりしますので、実益も受けていました。
 同12年から元亀元年頃まで、将軍義昭政権の永続性を不安視し、三好三人衆が返り咲く可能性を、多くの宗教勢力を始め、その他大小の権威が想定していた事もあって、興福寺もそれに漏れない考えを持っていた事を窺わせる動きです。

上記2つの史料からは、下野守が死亡した後にも為三は生きていたという事が判ります。更に、元亀元年9月1日条の『多聞院日記』には、三好為三の動きが記述されています。これに関連して、『言継卿記』8月29日条にも、為三についての記述が見られます。
※言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206など

-史料(3)-------------------------------
『多聞院日記』9月1日条、(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
--------------------------------

多聞院英俊は、三好為三の動きに関心を持ち続けています。多分、英俊は、為三についてどこに所属する、どんな人物で、どんな経歴を持つのかを、ある程度は知っていたのだろうと思います。
 英俊は為三について自身の日記中に、人物録のように詳しくは書き残してはいませんが、その動向に関心を持ち続けているという事は、そこに何らかの重要性を感じているからに違いありません。
 ちなみに、三好下野守は、数千の軍勢を常に動かす程の人物でしたので、「300計り」とは規模が小さ過ぎます。また、下野守は三好三人衆の中枢であり、そんなに簡単に寝返るとは考えられません。

さて、元亀元年9月、為三の幕府・織田信長方への投降時、為三は幕府方に寝返りの条件を要求しています。同年9月20日付けで、信長が為三へ宛てた音信があります。
※織田信長文書の研究-上-P392

-史料(4)-------------------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
--------------------------------

これについて、信長と幕府は、1年近く経ってから解答をしています。随分と結論に至るまでに苦慮していたようです。しかし、この頃幕府・信長方が、京都周辺において軍事的な空白地域を作り出していたため、それへの対応として、こういった措置が取られたようです。

先ず、元亀2年6月16日、信長が為三の要求について、結論を出します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-史料(5)-------------------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭(忠親)へ了簡される事肝要候。
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この史料で注目したいのは、「史料(4)」の要求に対して信長は、為三の本知は東成郡榎並庄だから、そこを先ずは回復するようにとの、解答をしています。豊嶋郡領有の要求の代替案を出して対応しています。これは幕府方として身を寄せていた、池田勝正に対応する配慮と考えられます。
 そして「史料(5)」に続いて、将軍義昭が、為三の要求に解答を出します。同年7月31日付けで、為三に宛てて御内書を下しています。
※大日本史料10-6P685

-史料(6)-------------------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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直上の2つの史料を見ると、信長は厳しい条件を為三に告げていますが、将軍義昭はその厳しさを緩和し、希望が持てるような内容を加えて伝えています。

一方で、将軍義昭の御内書に見える「舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事」とは、下野守存命中にはあり得ない概念が記されています。
 三好三人衆の一人であった下野守が、既に死亡している旨を、将軍義昭・信長方に寝返る際に、為三は告げていたのでしょう。
 何れにしても永禄12年5月以降、三好下野守に関する資料は見られなくなり、直接的史料も見当たりません。しかしながら、それと入れ替わるように為三の資料は現れるようになります。
 
「史料(6)」に代表されるその関連の動きを見ても、三好下野守と為三は、確かに兄弟であろうと考えられます。
 それからまた、既出の「史料(4)」に関連する興味深い史料があります。天文17年8月12日付けで、三好長慶が、管領細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ訴えた史料です。
※大阪編年史1-P459

-史料(7)-------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所、彼の様体者、三好宗三相拘え渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。
※■=欠字部分。
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この頃は三好宗三が嫡子の同苗右衛門大夫政勝に家督を譲り、家の後見人として活動していた時期です。
 史料の下線部分、宗三・政勝父子の行動に注目して下さい。天文17年の時点で、血縁を持つ裕福な池田家の乗っ取りを、宗三・政勝父子は企んでいました。これは実態からすると、婚姻による、同化政策ともいえます。

天文17年から22年後の元亀元年、三好政勝はこの時に、これまで果たし得なかった野望を固有の権利として、将軍義昭・織田信長へ要求したのが「史料(4)」の背景と考えられます。
 そしてその回答として信長は「史料(5)」で、為三の本知は摂津国東成郡榎並庄である事から、そこを先ず回復するようにと、伝えています。その理由は、宗三・政勝父子がかつて、榎並城主だったからです。

そして更に、三好三人衆のひとり、有能であった兄の下野守の後継として、阿波三好家に復帰し、その跡職を継ごうとします。それに関すると思われる史料があります。
 欠年8月2日付け、三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※ 島本町史(史料編) P435

-史料(8)-------------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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しかし、為三は一族との折り合いをつけられなかったようです。それから間もなく、為三は離反する事となりました。
 その離反が、元亀元年9月、摂津国野田・福島の陣から将軍義昭・信長方に投降した「史料(3)」の行動理由だったと考えられます。
 ちなみに、真偽の程は難しい判断を要しますが、摂津池田家と関わりの深い、個人宅に伝わる興味深い史料があります。欠年10月7日付けで、三好為三が上御宿所へ宛てて音信しているものです。
※箕面市史(史料編6)P438

-史料(9)-------------------------------
代官之事 一、刀根分、一、茨木分、以上。
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元亀3年4月頃、三好為三は、将軍義昭・信長方から再び離反し、三好三人衆方に復帰したようです。これは年記を欠く史料ですが、内容を見ると、元亀3年に該当するものかもしれません。元亀元年との推定もありますが、文中に登場する松永久秀・篠原長房・織田信長の関係性が、判明している10月13日段階では、元亀元年と想定すると各々の場所との整合性が取れません。
 欠年10月13日付けで、為三が、聞咲(所属不明)という人物に音信した史料です。
※戦国遺文(三好氏編2)P272、大阪編年史1-P459

-史料(10)-------------------------------
前置き:尚々細々書状を以って申し入れるべく候ところに音無く、中々是非に及ばず候。そもしの事に有るべからず■■■候。尚追々申し承るべく候、以上。
本文:御状委細拝見せしめ候。その後切々申し承るべく候に、遠路候へば、とかく音無く本意に背き存じ候。一、摂津国大坂の事、京都へ相済まさず候。この一儀種々才覚申し儀候。この間日々天満宮まで罷り出、大坂へ参会申し候。御屋形様へ重々懇ろ候の事、一、篠原長房・安宅神太郎渡海候。奈良右(不明な人物)河内国若江に寄せられ候。安宅神太郎摂津国東成郡榎並に在陣候。昨日(10月12日)松永山城守久秀・十河・松山重治等と牧・交野辺罷り立ち候。少々川を越し、摂津国高槻へ上がり候由候。同国茨木表相働き、同国池田へ打ち越し相働くべく候旨候。一、その表の事、「むさと」之在り由候。推量申し候。扨々(さてさて)笑止に候。細々仰せられ候、随分御才覚この時候。一、織田信長火急に上洛すべく候由候。左様候はば、何方も相済ませるべく候。御屋形様へは池田跡替え地為、河内半国・堂嶋・堺南北・丹波国一跡前へ遣わし候。■斎の事、今少し見合わせ申し候者、相済ませるべく候。堂嶋にて御存知の如く摂り、一円之無き事候間、御馳走申さず無念候。其の為然るべく使いに相調うべく候。一、摂州(意味は不明)尚承られるべく候。いささか等閑無く候。何れも追々申し談ずべく候。此の外急ぎ候間、申し候旨申し候。恐々謹言。
※■=欠字(判読不明も含む)部分。
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この史料も下線部分に注目して下さい。この段階でも為三はまだ、摂津国豊嶋郡と思しき池田領の領有に拘っており、しかも、その領域が膨大に拡がっています。この根拠はやはり、天文17年の事件以来の「史料(7)」によるものと思われます。

為三も微妙な権力の中心線のズレを捉えつつ、そこに自分の要求を挟むという、何とも絶妙な動きをしているのには、感心させられます。
 元亀3年10月頃は、将軍義昭と信長が決定的な不和となり、幕府内部が分裂状態に陥っていましたので、為三のこういった要求は受け入れられる可能性も、無かった訳ではありません。また、文中に「御屋形様」とあるのは、三好義継を指すものと思われ、「河内半国」の領有要求も同国南側を想定しているのかもしれません。

兎に角、為三の要求は一貫しており、これを相手に求めるからには、当然ながらその要求の根拠となるものが必要条件となります。
 その必要条件とは真実の「核」であって、それが三好政勝を経て入道し、為三となった人物*であり、それらは同一人物と考えてもいいように思います。
※実際、諱の「政勝」は一生涯持ち続けますが、表にはなかなか出て来なくなります。

そしてまた、下野守と為三が兄弟であった事も間違いが無いと思います。先ずは、明確な史料がある事でそれが判ります。「史料(6)」です。更に、それを裏付けるのは「史料(8)」であると考えられます。
 「史料(8)」に署名している三好日向守、石成主税助は、三好三人衆と呼ばれるメンバーで、家政機関の最高位に就いている人物です。公文書を発行する場合、これに三好下野守は漏れなく署名しますが、この史料の場合には、下野守に代わって、為三が登場しています。下野守の弟である事から、その跡を継いだものと思われます。
 この事が為三の兄下野守の跡職を認めさせるよう主張する元になっていると思われます。政治は、前例主義ですから、その事実があればそれをしっかりと正当化してもらえる勢力に加担するべく、為三は考えていたのだろうと思います。

従って、下野守と為三は兄弟である事は、事実であると考えられます。これにより、下野守と為三の父も三好宗三であろうと、必然的に定義ができるものと考えられます。



2013年8月29日木曜日

1571年(元亀2)8月29日の白井河原合戦

前日の28日、白井河原での合戦で、大将の和田伊賀守惟政が戦死し、勝敗が決まりました。その様子をルイス・フロイスの『日本史』-和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について-から抜粋してみましょう。要素を箇条書きにしてみます。

  • 和田殿の息子(惟長)は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びにもっとも身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
  • (フロイスが遣わした都からの家僕が)、高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
  • ミサが終わった時、私達はそこから(河内国讃良郡三箇)銃声を聞き、1〜2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達はそれが何であるかは知る由もありませんでした。
  • 奉行(惟政)の首級は、すべての他の殿達の首級と共に、直ちに彼の高槻城下にもたらされました。そしてそこへは各地から和田殿の敵達が挙って駆けつけ、大きな歓声を上げて、この度の(私達にとっての)不幸な出来事を祝いました。2日2晩に渡って、彼らは和田殿領内の、ほとんどすべての町村を焼却・破壊し、そして高槻城を包囲し始めました。

高槻城跡公園
これらの記述を見ると、合戦は28日午後には大方の勝敗がつき、和田惟政の息子惟長は高槻城に戻っていたようです。
 勝ちに乗じた池田勢は、そのまま東進をはじめ、周辺の和田方の城や集落を攻め始めたようです。白井河原のあたりには、福井・安威・太田・茨木などの城が半里(2キロメートル)程の距離にあります。広い範囲で戦が行われていましたので、記録では、西河原合戦とか、郡山合戦などと記されたものを見かけます。伝承記録は特に、バラツキがあります。

そして間もなく池田勢は、安威川・女瀬川・芥川を越えて進み、高槻城まで攻めるようになります。実際のところ、高槻城に至るまでには、「2日2晩」など数日かかったようです。
 池田勢は、高槻の城下で、討ち捕った和田惟政や主立った人物の首を掲げます。確かに死んだという事実を相手に見せた訳です。

さて、白井河原合戦に関する別の記録を見てみると、興味深い記述があります。この内『言継卿記』8月28日条を見てみましょう。

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戌午、天晴、時正、(前略)。摂津国於郡山於(衍?)軍之有り。和田伊賀守討死云々。武家辺り以て外の騒動云々。茨木兄弟以下300人討死。池田衆数多討死云々。三淵大和守藤英夜半に入り■■城云々。(後略)。
※■=欠字
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高槻城石碑
公卿山科言継の日記には、京都の様子も記録されています。また、天気も書かれていて、京都の天気と高槻辺りは大体同じと思われるので、参考になります。27日〜29日まで、「天晴」とあり、高槻方面も晴れていたと思われます。
 それから記述中の武家辺りとは、将軍義昭と幕府・織田信長や武士を指すのですが、和田惟政戦死の報が伝わり相当に動揺していた事が判ります。幕府は、三淵藤英を出す事を決め、藤英は28日の夜半に高槻城へ入っています。

池田勢は月末頃に高槻城下に達していたようですので、城から惟長と三淵は、惟政やその重臣達の、討ち取られた首を見た事でしょう。また、戦況に応じて、次々と勝ち側に寝返りますので、日に日に池田方の人数は増え、和田方は減って行きます。

441年前の8月29日は、そんな日でした。和田惟政やそれに関係する人々の墓と供養塔が白井河原周辺に沢山あります。近くを通る時、また、見学の時は手を合わせてあげて下さい。想う事、知る事が、一番の供養だと思います。





2013年8月28日水曜日

荒木村重と池田城

荒木村重が摂津国伊丹城を落し、同城を有岡城と改名して拠点とするまでは、池田城を根城に活動していました。
 天正2年11月15日、村重は伊丹城を攻め落とします。そして、その後直ぐに村重は、拠点機能を伊丹へ移します。その頃、池田城は無傷であったため、この資材を伊丹へ移動して、改修を行ったようです。
 
脇田修氏の研究等によると、事実上摂津国守護職としての立場にあった村重ですので、この伊丹(有岡)城は、その国の中心であり、政庁でもあった訳です。

さて、城を解体して資材を移設した後の池田城はどうなったかというと、私は、支配領域が広がったための再編の必要性があり、役割分担が変わったカタチで存続したと考えています。多数の街道を束ねる池田は依然として重要です。
 実際、荒木村重を攻める織田信長は、池田をいち早く落し、丹波方面との連絡と補給を断つ事を最優先に軍事行動を行っていました。
 攻められる村重の側もこの時に激しく抵抗し、この時の事であろう伝承が神社仏閣などに多く残っています。『中川氏御年譜』には、「池田ハ伊丹同然ノ根城ナレバ...」とあり、村重の嫡子新五郎を池田に入れて備えていたとも記述されている程です。しかし、残念ながら池田市内とその周辺の神社仏閣の多くが消失しています。
 
そんな池田城は、伊丹に居城を移す頃、荒木村重によって色々な改修が行われた事を窺わせる記述があります。伊居太神社の宮司が記した日記『穴織宮拾要記 末』に、池田城についての興味深い伝承記録があります。
 
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一、杉か谷川ハ池田ニ城有時ハ甲賀谷ノ方へ流れ本丁大坂ノ下ヘ行、田端町ヘ出宇保村西ヘリヘ流神田宮ノ森ノ所ヘ流大川ヘ流ル、荒木摂津守池田城たたみ伊丹へ引候後下ニ田ヲ可拵時今ノことく川付かヘ候。それ迄ハ小坂前橋ノ坂なし、吟上山ノ小みぞ斗也。十右衛門やしき・喜兵衛やしき其後築上ル也、むかし(天正乱より先ハ)宮の地也。
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五月山公園入口付近の様子
今も池田城跡公園の北側に杉ヶ谷川があり、それが猪名川へ向かって西進しています。しかし、これは村重が付け替えたものとの伝承があります。田を作る目的だったようですが、城と町を守る北側の堀のような役割を果たすようにも考えた改修だったのでしょう。
 付け替え前は、池田本町の大坂の下を通って、田端町へ出て、更に南の宇保村の西縁へ流れ、神田の森から猪名川へ注いでいたようです。
 文中の本町の大阪とは、今の栄本町から建石町の阪を指しています。田端町は、戦前の荒木町を経て今の大和町です。

城の西側から杉ヶ谷川を見る
この川の跡が、小蟹川として伝わっており、今もその跡があります。確かに伝承で書かれている通りに川筋が残っています。
 今では暗渠となっていますが、今も水路として使われています。池田城のある段丘の地形に沿うように、自然と南へ向かう川が出来ていたのでしょう。




<参考写真>
(1)小蟹川跡(白い帯状の所が暗渠)
(2)旧小坂前町
(3)建石町との堺にある阪

<写真の補足説明>
写真(1):黒色のお宅は満願寺屋の酒造家跡。その東側に近接して川が流れていた。
写真(2):伊居太神社前にできた町。道の奥は阪になっている。
写真(3):かつて、栄本町と建石町の堺は急阪で階段があった。大正時代に削平。


2013年8月27日火曜日

1571年(元亀2)の白井河原合戦前夜

今から442年前、1571年(元亀2)の8月28日、摂津国嶋上郡の郡村付近で三好三人衆方の摂津池田勢と幕府方の和田伊賀守惟政勢が、大合戦を行いました。池田方は3,000の兵、和田方は1,000余りの兵で合戦となり、池田方が勝利しました。

ちなみに、この日付は太陰暦ですので、今でいうと10月10日頃です。

この合戦の前日の27日、双方は決戦のために陣取りを行いました。準備の整わないまま決戦を迎えようとしていた和田方に対して、池田方は万全の体制で臨みます。
 池田方は3,000の兵の内、1,000名を露出させ、敵を油断させる策を講じます。残り2,000名を伏兵として、山裾などに隠し、その内300名程が鉄砲を備えていました。当然ながら、弓も備えていたでしょうから、多数の飛び道具を使用条件の良い所に配していた訳です。
 ちなみに。露出させた1,000名の兵は、いわゆる囮としての役割で、これを荒木村重が率いていたようです。 これらは池田三人衆(旧四人衆)が1,000名ずつ率いており、中でも村重は新参でしたから、囮役を申し出たようです。

池田方はそれらを、夜の内に行ったと思われます。

それから、池田から郡村まで、どうやって3,000もの軍勢を進めたか、ですが、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した『日本史』などを見ると、3,000の兵を3隊に分けて進んだようですので、各々が別々の役割を担って進んだのかもしれません。また、軍勢を必要に応じて集中できるように、工夫して進んだのでしょう。道中、特に西国街道付近などに、和田方の拠点があります。
 池田方は最終的に、大軍を展開できる平野部で決戦を行う作戦だったと思われます。和田方にしてみれば、ここが一番良い防衛線したので、池田方は当然それを推定する訳です。それにここから先は、和田領でもあり、地形的にも兵を隠す所がありません。
 それから、池田から東へ向かうには西国街道が主要道になり、もちろんそのルートも侵攻に使われたようですが、もう一本北側に山裾を通る道があります。これは今の箕面・池田線(府道?9号線)がほぼその跡を踏襲しています。
 この道を使えば、今の茨木市宿久庄あたりまで池田家中の藤井氏などの領知ですので、隠密行動も可能だったと思われます。
 ですので、和田方は敵方の兵や行動が掴めないまま、決戦を迎える事となったわけです。
 
1年前にも白井河原合戦の事が気になって、このブログで詳しく取り上げたのですが、もう一度読み返してみて、言い忘れがありましたので、補足してみました。





2013年8月15日木曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方であった摂津池田家と幕府方であった和田伊賀守惟政との決戦が摂津国嶋上郡の「郡(こおり)村」一帯で行われました。これが白井河原合戦と呼ばれています。
 この合戦についての詳しくは、白井河原合戦の項目をご覧いただく事として、今回は、同合戦に関する別の要素を見たいと思います。
 
それは白井河原合戦に至るまでの三好為三を巡る動きです。

初めに概況からです。元亀元年4月以降、近江国大名の浅井氏が幕府・織田信長方(以下、幕府方で統一)から離反したのを初めとして、敵対する連合勢力が一斉に京都を目指して進んだ事から窮地に陥ります。これにより幕府方は、一旦反発勢力と和睦を結ばざるを得なくなります。幕府方は天皇の権威を頼み、軍事的失策を挽回しようと画策していました。
 幕府方は辛うじて京都を保持しつつも、四方八方から敵に囲まれ、軍事的には非常に苦しい状況にありました。そしてそれが、翌2年には更に深刻となり、余談を許さない状況に陥り、幕府方にとっては、どん底の状態が続きます。
 当然、幕府方は、軍事的優位に立とうとあれこれと手を尽くしました。どんな要素からも、挽回の糸口を掴もうと調略や奇襲など、色々と積極的に行っていました。

特に元亀元年6月から、幕府方がなぜこれ程までに苦戦したかというと、反勢力側に本願寺宗が加わった事も、その大きな要因です。宗教勢力が加わった事により、各地の反幕府勢力を繋ぐ役目を果たし、また、社会に深く入り込んだ信者が、地域社会に動揺をもたらすようになったからでもあります。
 それが何らかの、区別し易い単位になれば、それなりの対策を講じる事ができますが、人の心までは、見た目で区別する事はできません。心の拠り所が自分なのか、他者(敵)なのか、それが判り易く政権の利益を侵す因子となれば、排除する方向へ動きますが、点在しつつ、その区別がつかない以上、成す術がありません。
 つまり、幕府方領内の住人にも敵を抱える事となり、税の徴収、軍事動員、情報管理などに困難を来すようになります。
 
さて、元亀元年春頃から翌年秋にかけて、そんな状況の中で、幕府方は白井河原合戦を迎える事となります。
 そして三好為三は、元亀元年8月から三好三人衆方を離れ、同3年4月頃まで幕府方として活動していました。その間の為三に関する動きを見ていくと、興味深い背景が浮かび上がってきます。

以下、経年でそれらの資料をご紹介しようと思います。

元亀元年6月、幕府方摂津池田家の内訌を合図に、反幕府勢の三好三人衆方が、京都奪還を目指して軍勢を五畿内地域で大挙蜂起させます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-(史料1)-----------------------
『言継卿記』6月19日条:摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
------------------------
※但し、『細川両家記』に三好三人衆方として登場する細川典厩は、この頃幕府方として行動しており、事実と異なる。また、死亡している三好下野守も含まれています。

続いて、翌月27日、摂津国中嶋へ入った三好為三などの軍勢が軍容を整えて幕府方を待ち構えます。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634、信長公記P108

-(史料2)-----------------------
『細川両家記』:
一、7月27日、右(『同記』8月18日条)人数摂津国欠郡中嶋の内天満森へ陣取り也。阿波国にて相定まり如く、同郡野田・福嶋に猶以て堀を掘り、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱株・逆茂木引き、此の両所へ楯て籠られ也。東国勢相待たれ候由候也。然るに此の処は昔387年以前に源判官平家御退治の時、御陣取りの処也。是れより御船に召され候て、四国西国まで御理運に成り由候也。
『信長公記』:
野田福島御陣の事条、(前略)。御敵、南方諸牢人大将分の事。細川六郎殿(昭元)、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、石成、松山、香西、三好為三、斉藤龍興、永井隼人、此の如き衆8,000ばかり野田・福島に楯籠りこれある由に候。
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この時、本願寺宗の幕府方からの離反は顕在化しており、三好三人衆勢は、摂津国野田・福島などの本願寺宗の影響力の強い地域で陣を取ったり、城を構築するなどしていました。

そんな状況下では、各地で三好三人衆方に連絡を取り始める勢力が増えていきます。また、本願寺宗の中興の祖である親鸞は、公卿日野家に縁を持つ人物でもあり、その日野家と近衛家の近しい関係から、将軍義昭から追われた近衛前久が大坂本願寺に身を寄せていました。この前久も反幕府方勢力の糾合に加担しており、本願寺宗のネットワークを使って、活発な活動を行っていました。それからまた前久は、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄を共に養護していた事から、両者は反幕府勢力として共闘していました。

さて、史料です。三好三人衆方の三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、欠年8月2日付けで、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料3)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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これは、顔ぶれ、史料の内容、その対象地域からして、個人的に元亀元年の史料ではないかと考えています。
 三好為三は、それまでの経緯から阿波系三好氏と折り合いが悪かったのか、三好三人衆方から離反します。準備を整え、これからという矢先に三好三人衆方から中核的な人物が、幕府方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、信長公記P109

-(史料4)-----------------------
『細川両家記』:一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『信長公記』野田福島御陣の事条、(前略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、申し合わせられ候と雖も、近陣に用心厳しく、なり難く存知す。8月28日夜中に、為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
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この時点では、為三が幕府方へ寝返ったとの事は、未確認情報の噂の範囲でしたが、それは事実でした。三好三人衆の中枢に居て、重要な情報を持っていると思われる為三が寝返ったのですから、幕府方は非常に期待し、破格の条件も呑む事を為三に伝えていたのでしょう。
 それについての史料があります。元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ摂津国豊嶋郡の知行希望について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P417

-(史料5)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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この時、豊嶋郡を根拠地として大きな勢力を誇った池田家の当主池田勝正が、三好三人衆方の調略から家中の内訌に発展させた事で城を出、幕府方へ身を寄せていました。なお、勝正は幕府から公式に摂津守護を任されていた人物でもありました。
 この頃、勝正は、摂津池田家の内訌を治めて、復帰を果たすために活動している最中でしたので、この為三の要求について、幕府は頭を悩ませたようです。しかし、幕府方への多方面からの一斉蜂起もあって、僅かな失策が内部崩壊にもなりかねない、幕府にとって非常に苦しい時期でもありました。
 
翌2年も、その緊張は解ける事がありませんでした。再び五畿内地域とその周辺地域から、幕府方を攻めようとする勢力が京都を目指して動きを活発にさせます。

そんな中、京都に一番近い三好三人衆方の勢力であった池田家は、京都の防衛上、当面の制圧目標となり、和田惟政が中心となってこれに当たりました。同時に惟政は、大和国の松永久秀などへの対応も行っており、苦しいやり繰りを迫られていました。

しかし、惟政は、三好三人衆方池田衆に対して、優位に戦闘を展開し、順調に勢力図を塗り替えていました。池田衆は収入基盤の一つである、西牧南郷地域までも失い、池田城近くにまで攻め入られます。
 個人的には、今の箕面川辺りまで惟政の率いる幕府勢が進んでいたと想像しています。ですので、西国街道も幕府方が支配していただろうと考えています。
 
しかしながら、惟政にとっては苦しい戦いが続いています。奈良方面へも出陣しながらの対応ですので、兵も物資も余裕は無かったでしょう。京都の防衛も、イザという時のために戦力と物資を保持しておく必要があります。
 そんな環境の中、地域支配の手隙を埋めるために、めぼしい武将の活用を考え始めるのは自然な事です。幕府は、池田方の領地を一旦欠所にして、再編する事も可能になった事から、三好為三の要求を聞き入れる事が可能となりました。
 そういう状況下で発行されたと思われる史料があります。欠年6月16日付けで、織田信長が、為三の領知について将軍義昭側近の明智十兵衛尉光秀へ音信します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料6)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭へ了簡される事肝要候。
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その信長の決定について、京都の中央政権トップである将軍義昭も、元亀2年7月31日付けで、正式に為三へ通知を行います。
 この頃には、和田勢が更に池田領の中核部分まで進んで優位となり、池田勝正も和田方として、細川藤孝と共に池田城を攻めていました。
※大日本史料10-6-P685

-(史料7)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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お気づきとは思いますが、為三へのこの幕府の正式通知には、信長に要求した、為三の要望は盛り込まれておらず、その対案としてなのか、為三の兄である下野守の知行について、それを認めると伝えています。
 これに加えて、信長から先に提示のあった、為三の本来の所領である摂津国東成郡榎並庄領有は、手柄を立て次第に認める旨、幕府としても相違無いと伝えています。

上記の一連の史料は、幕府の池田勝正への配慮が窺われます。為三の要求に対して、幕府と信長は、明らかに勝正の立場とのバランスを考慮した結果を導いています。
※一方で、幕府としての領地接収の伏線もあったと思われます。

しかし、元亀2年の7月から8月にかけて、池田勝正も加えて和田惟政は、伊丹忠親と共同で三好三人衆方の池田城を攻めていましたが、8月18日、和田・伊丹連合軍は敗走し、この地域での軍事バランスが予想外に大きく崩れました。
 池田衆は200余名を討ち取って勝利したのですが、これは和田・伊丹方にとって大きな損害だったらしく、直ぐに体制を立て直す事が出来ない程だったようです。池田衆はこの隙を見逃す事無く、和田領内へ攻め入るべく大挙東進を始めます。同月22日頃、3,000という大軍を出陣させます。
 和田惟政はこれに対応する事ができず、慌てて本拠の高槻城に戻り、策を講じますが間に合わず、結果は「白井河原合戦」の歴史が示す通りとなりました。

その一連の流れとしての決戦となった白井河原合戦は、いわば象徴的な結果としての歴史的要素ですが、この大合戦に至る要因が必然的に醸成されていた事が判ります。

元亀元年8月、幕府方に寝返ってから、その要求が実現するまでに1年程かかって、やっとその兆しが見え始めたのですが、残念ながら為三は、願望を遂げられませんでした。
 しかし、連続した出来事で見ると、この白井河原合戦に至る過程で、為三にとって大きな転機があった事は、これら一連の史料から窺い知る事ができるように思います。