2013年8月28日水曜日

荒木村重と池田城

荒木村重が摂津国伊丹城を落し、同城を有岡城と改名して拠点とするまでは、池田城を根城に活動していました。
 天正2年11月15日、村重は伊丹城を攻め落とします。そして、その後直ぐに村重は、拠点機能を伊丹へ移します。その頃、池田城は無傷であったため、この資材を伊丹へ移動して、改修を行ったようです。
 
脇田修氏の研究等によると、事実上摂津国守護職としての立場にあった村重ですので、この伊丹(有岡)城は、その国の中心であり、政庁でもあった訳です。

さて、城を解体して資材を移設した後の池田城はどうなったかというと、私は、支配領域が広がったための再編の必要性があり、役割分担が変わったカタチで存続したと考えています。多数の街道を束ねる池田は依然として重要です。
 実際、荒木村重を攻める織田信長は、池田をいち早く落し、丹波方面との連絡と補給を断つ事を最優先に軍事行動を行っていました。
 攻められる村重の側もこの時に激しく抵抗し、この時の事であろう伝承が神社仏閣などに多く残っています。『中川氏御年譜』には、「池田ハ伊丹同然ノ根城ナレバ...」とあり、村重の嫡子新五郎を池田に入れて備えていたとも記述されている程です。しかし、残念ながら池田市内とその周辺の神社仏閣の多くが消失しています。
 
そんな池田城は、伊丹に居城を移す頃、荒木村重によって色々な改修が行われた事を窺わせる記述があります。伊居太神社の宮司が記した日記『穴織宮拾要記 末』に、池田城についての興味深い伝承記録があります。
 
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一、杉か谷川ハ池田ニ城有時ハ甲賀谷ノ方へ流れ本丁大坂ノ下ヘ行、田端町ヘ出宇保村西ヘリヘ流神田宮ノ森ノ所ヘ流大川ヘ流ル、荒木摂津守池田城たたみ伊丹へ引候後下ニ田ヲ可拵時今ノことく川付かヘ候。それ迄ハ小坂前橋ノ坂なし、吟上山ノ小みぞ斗也。十右衛門やしき・喜兵衛やしき其後築上ル也、むかし(天正乱より先ハ)宮の地也。
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五月山公園入口付近の様子
今も池田城跡公園の北側に杉ヶ谷川があり、それが猪名川へ向かって西進しています。しかし、これは村重が付け替えたものとの伝承があります。田を作る目的だったようですが、城と町を守る北側の堀のような役割を果たすようにも考えた改修だったのでしょう。
 付け替え前は、池田本町の大坂の下を通って、田端町へ出て、更に南の宇保村の西縁へ流れ、神田の森から猪名川へ注いでいたようです。
 文中の本町の大阪とは、今の栄本町から建石町の阪を指しています。田端町は、戦前の荒木町を経て今の大和町です。

城の西側から杉ヶ谷川を見る
この川の跡が、小蟹川として伝わっており、今もその跡があります。確かに伝承で書かれている通りに川筋が残っています。
 今では暗渠となっていますが、今も水路として使われています。池田城のある段丘の地形に沿うように、自然と南へ向かう川が出来ていたのでしょう。




<参考写真>
(1)小蟹川跡(白い帯状の所が暗渠)
(2)旧小坂前町
(3)建石町との堺にある阪

<写真の補足説明>
写真(1):黒色のお宅は満願寺屋の酒造家跡。その東側に近接して川が流れていた。
写真(2):伊居太神社前にできた町。道の奥は阪になっている。
写真(3):かつて、栄本町と建石町の堺は急阪で階段があった。大正時代に削平。


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