平成26年(2014)の大河ドラマに黒田勘兵衛(孝高)が取り上げられる事になったようです。
最近の大河ドラマは低視聴率を続けていますが、戦国時代を取り上げる事で、業界期待通りの視聴率につながるかどうか、注目したいところですね。
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青山古戦場跡 |
さて、大河ドラマで播磨国方面が取り上げられるとあって、当方もその動きに追従したいと思います。
黒田勘兵衛の出自など詳しくは、ご存知の方も多いと思いますので割愛したいと思いますが、勘兵衛の名を一躍、世に知らしめたのが「播磨国青山の合戦」でした。
勘兵衛は10倍もの敵を正面に受け、見事に撃退し、思い通りにはさせませんでした。また、領地は敵に囲まれていて、ひとたび合戦に負けたり、降服したりすると、領地・領国を失う瀬戸際にありました。
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伝置塩城大手門(姫路城「との門」) |
そんな中で勘兵衛を世に知らしめた「青山の合戦」では、池田勝正が勘兵衛に敵する幕府方摂津衆として、一連の戦いに加わっています。
この頃、播磨国は守護家の赤松氏が2つに割れ、共に争っていました。播州平野を二分する山々(峰相山から南へ馬山・城山・壇特山・京見山などが連なる)に隔てられて、そこを境にして東西に領域を持ちました。
西には守護家から分かれた赤松政秀が、龍野城を中心として展開し、東には守護家筋の赤松義祐が置塩に居城します。
黒田勘兵衛は、守護家の赤松義祐に仕える小寺政職の重臣として姫路城に拠点を持ちました。今の国宝姫路城が建てられる前は、黒田勘兵衛の一族が住む城でした。
永禄12年夏、将軍義昭が20,000の軍勢を播磨国方面へ向けます。これには複合的な要素が重なっています。以下、箇条書に整理して示します。
<原因>
・毛利氏の浦上方牽制要請が幕府にあった
・毛利氏の尼子(山名)方牽制要請が幕府にあった
・但馬・因幡国守護の山名氏討伐を幕府として企図した
・龍野赤松氏の支援の必要があった
・播磨国の平定を幕府として企図した
・四国の三好三人衆を討つための布石をうつ目的があった
・瀬戸内海の制海権を幕府として得る必要があった
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大塩町の旧市街にある西光寺 |
幕府として、これらの要素を一気に解決するために、大軍を準備して差し向けました。この時に池田勝正は、相当数の兵を出したようです。
この動きを幕府勢の「但馬の山名攻め」と「播磨出兵」などと別々の捉え方をしているようなのですが、よく見てみると一連の行動である事がわかります。
この動きは、後の「越前朝倉攻め」の基本ともなる動きをしますが、双方で大軍を用意したのは、示威行動であると共に要所に兵を割くためでもあります。
幕府軍は、播磨国の増井・地蔵院・大塩・高砂・庄山の城を落します。このあたりは置塩赤松氏の領域です。姫路・御着の城をとり囲むように幕府方の足場を作ります。
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高砂市阿弥陀町の地蔵院 |
しかし、それ以上西へは進まず、市川沿いを北上して但馬国へ向かい、山名氏を降服させます。10日間で18もの城を落とし、山名氏の居城である此隅(こぬすみ)城を落とし、生野銀山も手に入れました。池田勝正もこの方面へ出陣していました。
しかし、無敵と思われた幕府方の行動を狂わせたのは、黒田勘兵衛の活躍でした。普通に考えれば圧倒的優位の龍野赤松勢が負けるはずはありません。勘兵衛は、青山の合戦で勝利し、幕府方赤松勢を撃退したのです。
幕府方は早期の後退を決め、一旦勝ち取った優位性を崩さないように政治的な方向性に持ち込んで、決着を図ろうともしたようです。
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庄山城遠景 |
播磨国内で、再び反幕府勢が盛り返すと、但馬へ入った軍勢の退路を断たれてしまうばかりか、山名氏の残党が再び勢いづきます。また、四国などからも三好三人衆の勢力が、反幕府方として播磨国へ来援してしまい、形成は一気に逆転してしまいます。
8月19日付けで、幕府方朝山日乗が、毛利元就に対して庄山城から状況を伝えています。幕府軍の優位を伝えているのですが、嘘も書いています。
そしてまた庄山城は多分、軍事行動の拠点とし、要地としていたのでしょう。この点について詳しくは今のところ解っていません。
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英賀城本丸跡 |
さて、10月になると、織田信長が、加古庄へ宛て禁制を下します。幕府方が播磨国で再度攻勢を強めます。しかしこれは、龍野赤松氏への援軍だったようで、池田衆はこれにも従軍しています。龍野赤松氏は随分と弱っていたようです。
この2回目の播磨国出兵は、完全に幕府方が播磨国内から兵を退かず、庄山城などの拠点に維持しつつ、時宜を待って再び攻勢に出たものかもしれません。毛利氏の協力もあったために、そういった機会に敵を制圧しようと考えた可能性はあると思います。