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| 摂津名所図会に紹介されている大広寺 |
長い歴史を持ち、今に至っても地域への影響力を大きく持った大広寺について、様々なところに記述がありますが、寛政8年(1796)-寛政10年(1798)に刊行された、摂津国の名所を絵画と文章で紹介した地誌、「摂津名所図会」にある、大広寺の項をご紹介しておきます。
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【塩増山大広禅寺】
五月山の半腹にあり。禅宗曹洞。釈迦仏、客殿に安ず。脇士文殊・普賢。開基天厳(てんがん)禅師。本願は応永年中池田筑後守藤原光正の草創なり。此の人の法号を大広寺玉堂金公禅定門という。文明14年(1482)10月24日卒す。墓碑あり。其の文に曰く、
「清暁朝天眩色微なり。新雲先動哀龍衣。千官拝舞金鑾(鈴:らん)殿。携得香烟(煙:けぶり)袖帰。」
むかし此の山中に池あり。潮の満干ありて海水の如し。当寺を創建の時池を埋み、其の旧蹟を遺して山号を塩増山という。
【牡丹花旧蹟】
五月山大広寺の境内にあり。又寺に肖柏の画影和歌あり。(呉織里に隠れ居て名を無庵という。)
<家集>
「篠の葉の音も便りの霜夜かな 肖柏」
牡丹花肖柏の祖先は具平親王なり、生涯螢利を厭い、呉織里に幽棲して、亭を無庵と号け、和歌を詠じ詩を作り、琴を弾じ、又花香酒をもって娯み、三愛記を賦し、ある時牡丹の句に、
「春さかぬ花やこころのふかみ草」
という句を吟じて牡丹花と号す。身には野服葛巾を着し、黄牛に騎って徉徜(ようしょう)す。其の両角に金箔を押す。世人賞して大隠とす。和歌は亜相実隆卿に学び、宗祇を友とす。永正年中天皇其の清操を聞き給いて、便殿に徴見し、竟(つい)に相唱和し給う。帝御感の後、辞して里に帰り、嘗て摂の乱を避けて泉州堺津及び和州平城に遊ぶ。門子各業を継ぐもの多し。今にこれを奈良伝・沙界伝という。大永7年4月8日卒す。年85。友人僧古渓其の伝を書す。「扶桑隠逸伝」と号す。
<家集>
永正7年(1510)の秋。帝牡丹花を夢見給う。藤原実隆卿勅使として宮中に召す。其の時禁裏御夢想の事ありて、宮中の御会に参り侍る。勅(みことのり)によりつかうまつる。9月13日にて、
「空にをきて見んよや幾世秋の月 肖柏」
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以下、大広寺についての調査記事をご紹介します。
◎摂津国豊嶋郡大広寺(大阪府池田市綾羽2丁目)の変遷を見ると画期は三度ある ←NEW
◎摂津国豊嶋郡古江村(現大阪府池田市古江町)にあった古代寺院の(伝)等覚寺を探る
◎戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社
◎摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)
