2016年1月7日木曜日

永禄年間末期の三好義継の居城は、河内国の飯盛山城か!?


飯盛山城跡から京都方面を望む
近年、河内国飯盛山城を国指定の史跡にしようと、大東市や四條畷市で盛り上がっているようで、学術的な再検証も行われているようです。
 それにともなって、様々な出版物も出ていて、その理由について書かれています。三好義継は、池田勝正とも深く関係していますので、大変興味深く見ているのですが、自分でも思い込みがあったので、それを補正しようと、自分でまとめている資料を見直しています。
 最近の飯盛山城の捉え方にによると、足利義昭が第15代室町将軍に就いた永禄11年秋には、三好義継は飯盛山城を本拠にしており、若江城に移ったのは翌々年の同13年頃との推定がされています。
 本城と支城の関係や人物についてなど、こまごまとした要素を詳しく検討した論文のようなものも追々出てくると思いますが、今のところ、この新たな見解に納得のいく所も多くあり、受け入れています。
 ただ、永禄12年正月に、三好三人衆方の軍勢が将軍義昭の居所となっていた京都六条本圀寺を襲った時、その行軍行程は河内国の淀川東岸及び東高野街道を進んだと思われますので、これと飯盛山城との関係について興味を持っているところです。
石垣の様子
三好三人衆の軍勢が、飯盛山城下を通過をしたのであれば、敵方である飯盛山城に、どのような対処をしたのでしょうか。何もせず北上すれば、背後から襲われます。やはり、ここに軍勢を割くなどして、後衛としなければいけないはずです。
※歴史資料では、この時の三好三人衆方の軍勢は、義継方の村などの拠点を放火するなど打ち廻りつつ進んだようです。
 そうすると、三好義継は塞がれた道を使えませんので、田原方面から交野などを経由するか、奈良多聞山城の松永久秀と合流し、南山城方面を北上するなどして京都に入ったか、ちょっと再考の余地が出てきます。
 義継が一番敵に近かった割には、京都に入るのが遅いようにも思いますので、敵方勢力に阻まれたり、迂回の必要があったりして、時間がかかったのかもしれません。飯盛山城からの普通の行軍であれば、半日から1日もあれば、十分に京都に入れるはずです。
 義継の河内(北)半国守護としての最初の居城が、若江城では無く、飯盛山城であったとすれば、そういったところの出来事との整合性も補正する必要があり、これに関係する勝正との動きも修正の必要がありそうです。

また、今後の詳しい調査に期待しています。



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