2015年2月27日金曜日

永禄12年の但馬山名氏攻めと播磨国攻め従軍(はじめに)

永禄11年秋、足利義昭の要請に応じた織田信長を伴って入京し、第十五代室町将軍に任ぜられると、翌年から早速、政権の基盤作りを精力的に行います。
 摂津国内最有力の勢力であった池田衆は、京畿政治の中でも中心的役割を担うに足る実力を持ち、幕府からも頼りにされていました。
 正式に義昭政権が発足すると、様々な依頼も幕府に寄せられるようになり、幕府自体は決して安定しているとは言えない中でも、政権支持勢力をできるだけ取り込む、繋ぎ止めるためにもそれらに応える必要がありました。とりわけ、西国方面は常に乱れ、安定しませんでした。
 これに対応するために、街道でつながり、播磨方面とも決して浅くない関係を持つ池田家をその任に就かせたようです。池田家は守護家ですので、幕府の播磨への窓口ともいえるかもしれません。
 それらについて、以下の項目を上げ、考えてみたいと思います。
 

(1)池田勝正の播磨国担当
(2)但馬国山名氏攻めへの池田衆従軍
(3)幕府方と毛利氏との協力関係
(4)龍野赤松氏救援作戦従軍
(5)瀬戸内海北岸の三好三人衆勢力の掃討
(6)幕府による第一・第二次播磨国侵攻作戦について




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