2023年11月25日土曜日

池田勝正が敵前逃亡したとされる、永禄12年(1569)正月の京都六条本圀寺合戦の真実

ネットや歴史系の書籍を見ても未だに、永禄12年(1569)正月の京都本圀寺合戦時の池田勝正について、コピーペーストが後を絶えません。後世の伝記『荒木略記』や『中川氏御年譜撰集』などを元にした一次史料を元にしないものを参考にしているからです。

ネットでは、コピーペーストの量産で、いつまで経っても想像ですし、近年はそこから尾ヒレが付いて更にファンタジーです。それらの中にある池田勝正は、「合戦中に他の者を捨て置いて、自分だけが池田城に逃げ帰った。」というものです。

当然、これは、事実とは全く違います。

私が、池田勝正を知りたくなったのは、「こんなバカな人物が当主になれるのか?しかもその後も暫く当主の座にある。」という疑問が、今に至る研究の発端です。
 加えて、私は、池田勝正の信奉者ではありません。善人であって欲しいというファンではなく、事実がどうであったかという、その事だけを知りたくて探求しています。1998年頃からです。

さて、本圀寺合戦における池田勝正の行動をご紹介します。これが事実です。核心部分だけを記述します。

先ずは、『言継卿記』永禄12年条を見てみます。

(関連記述)---------------------
【1月6日条】
内侍所簀子にて遠見、南方所所々放火、人数4・500如意寺の嶽之越え、志賀少し放火云々。晩頭帰り了ぬ。南方の儀之聞き、方々敗北云々。内侍所於予、四辻宰相中将、白川侍従、薄等一戔之有り。双六之有り。三好日向守長逸以下悉く七条へ越し云々。西自り池田・伊丹衆、北奉公衆、南三好左京大夫義継取り懸け、左京兆之鑓入れ、三方従り切り掛かり、三人衆以下申刻(午後3時〜5時)敗軍、多分討死云々。黄昏れに及びの間を沙汰殊無く。
【1月7日条】
七条於(桂川自り東寺の西に至る)昨日討死の衆1,000余人云々。但し名字共慥かに知られず云々。石成北野の松梅院へ逃げ入り云々。各打ち入り破却云々。又落ち行き云々。但し三好左京大夫義継討死云々。久我入道愚庵、細川兵部大輔藤孝池田筑後守勝正見ずの由之有り。三好日向守入道以下各八幡へ落ち行き云々。
【1月8日条】
(前略)三好左京大夫義継細川兵部大輔藤孝池田筑後守勝正等西岡勝龍寺之城へ去る夜(7日)入りの由雑談了ぬ
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次に『多聞院日記』は奈良興福寺の一乗院坊官多聞院英俊の日記です。

(1月7日条)---------------------
(前略)一、昨日6日酉刻(午後5時〜7時)、京六条に上意御座へ三好三人衆打ち寄せ、散々打ち負け悉く果て了ぬと奈良多聞山へ注進と、実否は知らず。事の様は審らかならず也。但し如何。桂川にて一戦に及び、一番に池田衆打ち果て了ぬ処へ、三好左京大夫義継寄り合わせ、三人衆悉く打ち果たし、則ち敗軍了ぬ。(ウソ也。)石成討死、釣閑、笑岩は苦しからず歟。但し行方知れずと之沙汰。
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次は、『細川両家記』です。これは、軍記物といわれるものですが、近年は非常に史料的価値が高いと評価されています。

(永禄12年条)---------------------
(前略)然る間、明る7日に池田衆は池田城へ引き退かれの由候也。一、伊丹衆は阿波国衆と合戦して、上下80人計り討ち死するといえ共、勝軍して上鳥羽辺迄追討ち打ち帰り、勝竜寺の城へ入り陣取り也。伊丹衆勝利を得らるる由風聞也。阿波国衆は、陣床も不足して淀・八幡・伏見・木幡、散在して、負に成りよし候也。此の合戦双方800人死すと申し候。
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『信長公記』です。これも、軍記物といわれるものですが、近年は『細川両家記』同様に非常に史料的価値が高いと評価されています。

(御後巻信長、御入洛の事条)---------------------
(前略)3日路の所2日に京都へ、信長馬上10騎ならでは御伴無く、六条へ懸け入り給う。堅固の様子御覧じ、御満足斜ならず池田清貧斎正秀今度の手柄の様体聞こ召し及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり
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この『二條宴乗記』は奈良興福寺の大乗院坊官二條宴乗の日記です。

(1月12日条)---------------------
(前略)三好左京大夫義継討死の由申し候へ共、細川中務大輔輝経と(一緒に)池田へ御退き候て、是れも公方様へ礼に御参り由
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本圀寺合戦について、京都の公家山科言継(言継卿記)、奈良の古刹興福寺大乗院(二條宴乗記)、一乗院(多聞院日記)へ伝わっています。しかし、乱戦・混戦であったため、一次情報が混乱しています。三好義継が討死したとも伝わっています。死んでません。

これらの史料(資料)群の動きを池田勝正を中心にまとめてみます。摂津守護になったばかりの池田勝正は、将軍の危急とあっては、当然ながら駆け付けなければいけません。また、この当時は、摂津国内最大の勢力を誇っていましたので、伊丹氏よりも数倍の軍勢動員力を保持していました。

この物語を表面的に見てはいけません。京都に三好三人衆の軍勢が入ってから慌てて対抗措置を取ったのではありません。敵対勢力の動きは把握しており、その時点で準備をしています。
 とはいえ、新体制の中で高名を上げなければならない実情もあって、池田勝正が率いた一群が、伊丹よりも前に出て一番槍を努めます。これは戦後処理の中では池田家が不利な立場にもあったからですが、兎に角、動員力の上でも前衛を厚く、多勢に当たります。
 急遽ではありましたが、これは共同歩調を採っており、三方から敵の三好三人衆勢を攻めています。

しかし、敵である三好三人衆勢も手強い相手で、乱戦・混戦となったようです。この時は依然として三好三人衆方に味方する勢力が多かった。その為に、思い込み等で、当時の伝聞も混乱と錯綜をしていた事が伺えます。

さて、池田勝正が負けて、池田城へ逃げ帰ったという想像伝記が、なぜ起きたのかを考えてみます。
 この一節は、江戸時代に家名を継いで、幕藩体制の中で大名となった中川家と江戸時代にも家名の残った荒木村重系統の家系の思惑もあったと思います。
 そしてまた、当時の史料をたどる事情にもよって、部分的な情報から想像する贔屓で、答えを出してしまうという事もあったと思います。摂津池田家は滅亡していますから、それらの間違いを糺すキッカケもありません。
 冷静に考えて、現代社会を生きる私たちは、『多聞院日記』『二條宴乗記』『言継卿記』『信長公記』『細川両家記』を読みたいと思えば読めます。しかしその環境は、いつ調ったでしょうか。そんな中で編纂されています。

その上で、後世の私たちが先人の苦労を克服した状況にあって、様々な史料を読む事ができる訳です。池田勝正が永禄12年正月の本圀寺合戦で何をしていたかというと、

  • 池田勝正は逃げずに戦場で戦っていた。
  • 混戦・乱戦であり、確かに池田勝正や三好義継の消息が一時的に不明になっていた。
  • 三好三人衆勢に対する第2波攻撃である伊丹勢によって、敵を破った。
  • 一時的に消息の掴めなかった池田衆(逃げたと思われたのはこの部分)一団(別の?)は、幕府重要人物である細川中務大輔輝経を摂津池田城へ護衛付きで避難させていた。12日に京都へ戻って将軍義昭に無事であった事の面会をしている。
  • 本圀寺の戦いが収まった後(1/7夜)、池田勝正は将軍義昭側近細川藤孝と共に、勝龍寺城に入っていた。
  • 池田衆の活躍に、織田信長から手柄を特に賞されている。
  • 三好義継は戦死したと噂されていた。

といった要素が史料から上げられます。

これらの史料から判る事実として、池田勝正は本圀寺合戦の最前線に居て、指揮を執っていました。状況が落ち着いた時点で、拠点城の一つであった、勝龍寺城に池田勝正が入っています。
 この約2日後の10日、織田信長が急遽上洛し、この危急に対する処置として、池田衆の貢献を特に評しています。その時に讃された筆頭家老の池田清貪斎正秀の名が見えます。
 この事件で池田衆が大きな貢献を出来たのには、池田家は、元々京都に屋敷を持っており、その活動実績も長い事から、様々な人脈などによって策を立てる事ができたところにあったように思います。多分、池田正秀は、京都に居たと思われます。

池田勝正を惣領(当主)とする勢力が勝手な戦線離脱をしていたなら、このような記録は残る筈がありません。これが事実の全てです。

 【参考記事】
京都六条本圀寺跡を訪ねる

 

京都本圀寺寺地南側境にある碑


五条通を越えて北側にある本圀寺寺地境の碑


六條御境の石碑(聞法会館東側の六条通交点)


今は京都市伏見区にある日蓮宗 大光山 本圀寺


八条通りの様子

2023年11月21日火曜日

摂津国河辺郡にあった次屋城(現兵庫県尼崎市次屋)についての考察

偶然に通りかかって、それから気になって調べてみました。潮江などについては、池田勝正研究の関係で、時代的な流れだけは、ザッと知っていました。しかし、それ程の関心を持っていた訳ではありませんでした。通りかかった事で、急に思い出し、急に興味を持ちました。備忘録的にちょっと、次屋城の項目を作っておきたいと思います。引用です。
※兵庫県の地名1-P470(次屋村の項目)

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◎次屋村(尼崎市次屋1-4丁目・下坂部3丁目・浜3丁目・潮江2丁目・西川2丁目)
下坂部村の南東に位置する。天文5年(1536)3月26日、摂津中嶋(現大阪市淀川区)の一向一揆が尼崎方面の細川晴元方の軍勢を破り、「次屋の城」に籠城していた晴元方伊丹衆は、城を明け渡した(細川両家記)。慶長国絵図に村名がみえ高615石余。元和元年(1615)池田利重領、同3年尼崎藩領となる。寛永20年(1643)青山氏のとき分知により旗本青山幸通領となり明治に至る。陣屋が置かれた時期もある(尼崎市史)。元文3年(1738)代官安東茂右衞門の苛政に抗議して逃散、源十郎・佐兵衛ほか3人に過料銭100石につき10貫文が科せられた(尼崎市史・徳川禁令考)。用水は猪名川水系大井掛り(「水論裁許状」西沢家文書)。明治12年(1879)調の神社明細帳によれば次屋村・浜村立会陣屋所に伊弉諾神社がある。同15年の戸数78・人口334(県布達)。
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とあって、次屋村には、江戸時代に陣屋が置かれたこともあるらしいです。もしかして、城跡をこの時に再利用した可能性もあるでしょうね。
 そして、戦国時代の軍記物でありながら、最近は史料的価値が見直されつつある『細川両家記』を見てみます。
※群書類従第弐拾号(合戦部)『細川両家記』(天文5年の項目)

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3月26日に摂津国中嶋の一揆衆(残存抗戦派本願寺勢)富田中務 一味して、摂津国河辺郡西難波に三好伊賀守連盛・同苗久助長逸両人の人数楯籠もるを責め落とす也。長屋岸本(意味は不明。次屋?)腹切りぬ。40計り討ち死にす。然らば伊丹衆楯籠り次屋の城もあくる也。同椋橋城(現大阪府豊中市椋橋)三好伊賀守も明くる也。然らば木澤左京亮長政をたのみ大和国信貴城へ越されける也。
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この時は、管領細川晴元方の有力勢力として、池田衆も伊丹衆と共に積極的に活動していましたので、この一連の動きは、池田衆も関与していたと考えられます。
 また、この文中に出てくる「長屋岸本」とは、もしかして「次屋」ではないでしょうか?この人物が討ち死にしたために、その本拠の次屋城も落ちた可能性もあります。地元の人間が、案内役として出向いた先で戦死する事は、事例として多々見られます。
 参考までに、もう少し前の時代の事例ですが、永正年間(1504〜21)の細川澄元と細川高国の管領争いの折にも、この辺りで交戦が盛んにありました。『細川両家記』では、両軍ともに「潮江」に陣を度々取っています。潮江の集落は、次屋の西隣ですので、この頃は潮江が主たる立地だったのでしょう。ひとまとめに「潮江」としている場合もあります。
 そして、その次屋城の跡地と推定されているのが、現在は「城の後公園」となっているところです。これについて、『日本城郭大系』には短く記述があります。
※日本城郭大系12-P556

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『細川両家記』などに、その名がみられる。字「土井ノ内」の北隣が「城後」。
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さて、明治時代初期の地図(陸軍参謀本部:陸地測量部仮製図)が、精密地図としては一番古く、その後、三点測量による地図が明治時代後期にできあがります。その地図を見ると、何となく城の輪郭が見えるように思います。高低差があります。今の「城の後公園(字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園))」は、ほんの一部だけが残っていますが、現在も公園内は周辺道路よりも1メートル程高い位置にあります。多分、宅地造成の時に整地などで削ったりしたいと思いますが、その前の時代は田んぼで、その時に随分改変されたのだと思います。空襲の被害もあったかもしれませんが、復興期を経て1960年代には、宅地化されているようでう。

次屋の西側(1キロメートル程)には、神崎村があり、ここは川港で、関所も置かれていました。猪名川と神崎川の合流点で、有馬街道や大坂道とも交差していました。加えて、西国街道とは別に、中国街道も通していました。陸から川から海から人と荷物が行き交う要衝でした。
 次屋は、尼崎と塚口の中間点にあり、塚口の更に北には、大都市の伊丹・池田郷がありました。平野部から沿岸部への入口として、独特の地位を保っていたのでしょう。

 

仮製図に記された次屋村の様子(赤枠が城跡推定地)


1909年(明治42)測量時の次屋村(赤色枠内黒色長方形は公園の位置)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


2023年10月26日木曜日

摂津国河辺郡荒牧村周辺の酒造りを見る

荒牧村の周辺でも酒造りをしている地域があるので、その資料をあげてみます。有馬街道も含め、同じ郡内で平野部の場所を偏見で選びました。兵庫県の地名からです。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)

---(資料10)----------------------------------------------
〇鴻池村(伊丹市鴻池など)
武庫川支流の天神川と天王寺川に挟まれた村で、新田中野村の北に位置する。文禄3年(1594)9月荻野村・荒牧村と一括で宮木藤左衛門尉の検地を受けた(延享4年「荻野村書上帳」荻野部落有文書ほか)。慶長国絵図、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では鳴池村とあるが誤写か。この段階では村切されておらず、石高は荒牧を本郷とし荻野と三ヵ村合わせて1782石余。(中略)鴻池家初代の新右衛門幸元は清酒製造に成功し、慶長4年初めて酒を馬の背に乗せて江戸に送ったという(寛政6年「新右衛門返答書」灘酒沿革史、鴻池稲荷祠碑では翌年)。幸元は大坂久宝寺(現大阪市中央区)に店を構え、寛永16年八男善右衛門正成が今橋(同中央区)の鴻池本家の祖となった。幸元は当地の邸に稲荷社を勧請、宝暦13年(1763)の台風で祠が倒れたため、天明4年(1748)中井履軒の撰で鴻池稲荷祠碑を建立した。当村の清右衛門は古来800石の酒株をもっていたが400石まで減石し、正徳4年(1714)すべて伊丹郷町米屋町六郎左衛門に譲った(「酒株譲証文」岡田家文書)。享和3年(1803)酒造家2軒、株高2770石(「酒造株石高控」四井家文書)。(後略)

〇山田村(伊丹市山田1 - 6丁目など)

寺本村の南に位置し、北西端を山陽道がかすめる。宝徳4年(1452)2月19日の与一大夫等下地預け状(稲垣文書)によると、「山田せう下村衛門三郎下地」2反は地下(村)のものとなっていたが、この時に宮内大夫に預けられた。署名している与一大夫と斎阿弥は山田庄の村落の代表者と考えられる。(中略)近世初頭から酒造業が展開、慶長後期には白井栄正の子市右衞門正次が湯山(現神戸市北区)・篠山・摂津大坂へ酒を売りに行き、万治2年(1659)・同4年には蔵が建てられたという(「白井市右衞門一代之覚」白井家文書)。明暦2年(1656)には7人の酒造家がおり、翌3年の市右衞門の酒造米高は1800石、他の3人も1000石を超え当村の酒造米高は6950石(「明暦万治酒造米高覚」岡本家文書)。しかし相次ぐ減醸令によって延宝8年(1680)には346石にまで激減、この頃から尼崎や兵庫津に株の売却が相次いだ(「村中酒作高之覚」山田部落有文書)。しかし元禄10年(1697)には新城屋五郎右衞門が江戸に酒問屋の出店を出し、正徳3年(1713)頃弟同権右衞門とともに新城屋新田(現尼崎市)の開発を始め、享保元年(1716)に146石余の検地を受けた(尼崎志)。(後略)

〇寺本村(伊丹市寺本1 - 6丁目など)
山陽道に面し、昆陽村の西に位置する。地名は昆陽寺が所在するすることによる。慶長国絵図は昆陽寺を行基堂とし村名も行基堂村だが、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では寺本村とみえ、高438石余。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)には街道の東から東寺本村・中寺本村(大分県竹田市立図書館蔵正保国絵図では中寺村)・西寺本村とあり、正保郷帳によるとそれぞれ高179石余・高98石余・高160石余。(中略)酒造家は東寺本に2軒・酒造株高105石(昆陽組邑鑑)。(後略)

〇昆陽村(伊丹市昆陽1 - 8丁目など)

千僧村の西に位置する。山陽道が東西に通り、有馬(現神戸市北区)への道が交差する宿場町として発展した。小屋村(慶長国絵図)・崑陽宿村(正保郷帳)とも。「和名抄」所載の武庫郡児屋郷、古代中世の昆陽・崑陽野の遺称地で、小屋庄が成立した。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われた(「法厳寺口上」法厳寺文書)。(中略)酒造業も行われ、正徳6年(1716)には江戸積み酒造家がおり(「江戸積荷樽覚」岩田家文書)、宝暦6年頃は4人で酒造株580石(昆陽組邑鑑)。酒造家や米屋を相手にする有力な米仲買商人が成長し、天保7年(1836)には賀茂屋平兵衛・石橋屋吉右衞門が川辺郡惣代として摂津七郡で在郷米穀仲買商人仲間を結成する動きも出た。(後略)

〇千僧村(伊丹市千僧1 - 6丁目など)
大鹿村の西にあり、村の東縁は同村の田畑と入り組んでいた(「千僧村絵図」大鹿土地改良区蔵)。山陽道が東西に通る。先祖村とも(中国行程記)。地名は49院造営の願が成就した行基が千僧供養をしたことにちなむという(摂陽群談)。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われた(「諸色付込帳」千僧土地改良区文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高247石余、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では高237石余、正保郷帳によると高256石余、延宝5年(1677)検地を受け(「千僧村検地帳」千僧土地改良区文書)、享保20年(1735)の摂河泉石高調は高307石余。(中略)酒造株4人で445石(諸色付込帳)。(後略)

〇大鹿村(伊丹市大鹿1 - 7丁目など)
大志賀村とも(天正10年正月日「法華経巻釈」妙宣寺文書、慶長国絵図)。地元では「おじか」とよぶ。北村の西に位置し、山陽道が東西に通り、村の中ほどに一里塚がある。同街道に交差して伊丹郷町から中山寺(現宝塚市)、有馬(現神戸市北区)への中山道(有馬道・大坂道)が通る。村は東方と西方に分かれていた(「増補御領地雑事記」森本家文書)。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われ(「奥谷池論記録」坂戸家文書)、慶長国絵図では高386石。享保20年(1735)の摂河泉石高調は高438石余と新開2石余。天保郷帳は高450石余。慶応元年(1865)の池尻村記録帳(池尻区有文書)では高503石。初め豊臣領で慶長(1596 - 1615)後期から片桐貞隆(大和小泉藩)が預かり、豊臣家滅亡後幕府領となったが、貞隆の預かりはしばらく続いた。(中略)寛文年間(1661 - 1673)頃から酒造が始まったとされ、元禄10年(1697)の株改では12人の酒造家がおり造高4010石(「酒造請高調」武田家文書)。寛延3年(1750)には「剣菱」の銘柄で知られる津国屋勘三郎が確認され、同4年の江戸積出11958樽、宝暦10年(1760)は16396樽(「酒掛之目録」伊丹酒造組合文書)。「摂陽群談」にも「甚香味なり」と紹介されている。(後略)

〇小浜町(宝塚市小浜1 - 5丁目など)
武庫川左岸に突き出して、大堀川に囲まれた台地上に位置する。川辺郡に属し、東は安倉村、北は米谷村、西は武庫川川面村、南は武庫川を挟んで同郡伊孑志村。京・山城伏見から有馬・丹波方面への有馬街道に沿った宿場町。大坂道から分岐する。(中略)江戸前期には江戸積酒造産地で小浜流という醸法が知られていた(童蒙酒造記)。井原西鶴の「日本永代蔵」は諸白の産地とする。享和3年(1803)には酒家2軒・800石、領主貸付株酒家1軒・150石があった(「摂津国酒造株石高寄帳」国立公文書館蔵)。文政10年頃には1軒・600石に減少(前掲様子大概書)、明治に至る(明治3年「酒造米高書上帳」小西家文書など)。慶長11年(1606)東は郡山(大阪府茨木市)、西は生瀬(兵庫県西宮市)の間で駄賃稼・荷物付をするよう定められた(「摂州内駄賃馬荷附所覚」大阪府全志)。(後略)

〇米谷村(宝塚市米谷1 - 2丁目など)
川辺郡に所属。有馬街道に沿って小浜町の北に位置し、西は荒神川を挟んで武庫川川面村。中世米谷庄の遺称地で、別に米谷村の村名もみられる。慶長国絵図に村名がみえ高624石余。慶長19年(1614)高423石余が大和小泉藩領となり(「片桐貞隆宛知行目録」杉原家文書)、元和3年(1617)の摂津一国御改帳によると残る高200石は幕府領(代官建部与十郎預地)。寛文2年(1662)には200石分が上総飯野藩領になり(「免状」和田家文書)、幕末に至る(宝塚市史)。(中略)元禄 - 正徳期(1688 - 1716)に8軒の酒造家がいた(正徳5年「米谷村酒造米高覚」御影町文書)。小浜が寺内町として開発される前は米谷が宿場の機能を果たしていた。本願寺蓮如の摂州有馬湯治記(広島大谷派本願寺別院文書)の文明15年(1483)9月17日条に「舞谷」を通過したことが記される。(後略)

〇川面村(宝塚市川面1 - 6丁目など)
有馬街道沿いに川辺郡米谷村の西にあり、南東は武庫郡見佐村、西は有馬郡生瀬村(現兵庫県西宮市)。古代河面牧、中世河面庄の遺称地。集落は上川面・下川面に分かれ、上川面の集落は安場村と人家・田畑とも入り組み、時代によって武庫郡と川辺郡との間で所属が変化したとみられるが、下川面は武庫郡に属して本郷とよばれていた(「川面村郡別高付分限」中野家文書)。(中略)正徳3年(1713)の酒屋六兵衛の減石届によると、六兵衛は米谷村で酒屋奉公の後に酒造高5石余で独立した。江戸廻船には積下さないとしており地売酒屋だったと思われるが、寛政9年(1797)には麹屋市左衛門が北在組酒造家24人の惣代となって、往古より西宮へ津出ししていると主張している(「北在酒造荷物口線口上」若林家文書)。明治18年(1885)安場村を合併。(後略)

〇安場村(宝塚市川面1 - 6丁目)
東は荒神川を境に武庫郡川面村下川面。同村の上川面と集落・耕地が入り組む。有馬街道に沿う。天正13年(1585)9月10日の羽柴秀吉領知判物(妙光寺文書)に「摂津河辺郡(中略)やすば村」とみえ、当村の20石などが妙光寺(現大阪市中央区)に宛がわれている。慶長国絵図では武庫郡に村名がみえるが以後は川辺郡に属する。文禄3年(1594)浅野弾正忠が検地を行い、高26石余。(中略)酒造業が行われ享和2年(1802)には1軒・300石だったが、文政期(1818 - 30)には2株・1360石となり(「一橋領村々様子大概書」一橋徳川家文書)、明治3年(1870)には2軒・4株・1446石余になった(「酒造米高書上帳」小西家文書)。(後略)

〇中筋村(宝塚市中筋1 - 9丁目など)
川辺郡に属し、米谷村の東に位置する。文禄3年(1594)浅野長吉の検地で高617石余、田方31町2反余・畠屋敷方22町4反余(同年9月日「中村御検地帳」小池家文書)。集落は南北に分かれ、慶長国絵図では北に小池村、南に中筋村の2集落が描かれる。元禄郷帳では中筋上村とみえ「古は中筋」と注記。元禄国絵図(内閣文庫蔵)では中筋下村を「中筋上村之内」とする。(中略)小池家は近世前記の酒造家で酒造米高は万治元年(1658)は2800石。その後減醸令によって規模はいったん縮小するが、元禄10年(1697)の株改では2980石、翌11年には2000石を申告、豊嶋郡尊鉢村(現大阪府池田市)に出店もあった(「酒造米減少之次第」小池家文書)。灘酒の江戸積みが行われるようになると北在郷の仲間も西宮まで運び津出しした。寛政9年に西宮駅が口銭をかけようとしたが、北在組酒造家24人惣代大行司小池治右衞門らの働きかけで認められなかった(「口上書」若林家文書)。享和3年には酒造家2軒・870石余(「摂津国酒造株石高寄帳」国立公文書館蔵)。同時期と推定される「摂州酒樽薦銘鑑」に当村三木屋彦兵衛の名がみえる。宝暦3年(1753)には小池家が銀主になって尼崎銀札(現存)が発行された。(後略)

〇加茂村(川西市加茂1 - 6丁目など)
栄根村の南、最明寺川下流域の台地上に古くから開けた上加茂と、東部の猪名川沿い平野部の下加茂からなる。式内社鴨神社が台地上に鎮座、同社を中心に弥生時代の加茂遺跡がある。当地から東は瀬川・半町(現大阪府箕面市)に通じ、西は小浜(現宝塚市)・生瀬(現西宮市)の宿駅に通じる古くからの要路(有馬街道)がある。地内に市ノ坪の地名がある。中世の加茂村・加茂庄の遺称地。正安2年(1300)7月10日の代官の代官光末寄進状(多田神社文書)に当地の「阿弥寺」がみえ、湯屋谷東谷の田地が経田として寄進されている。(中略)酒造株は持高2450石の岩田五郎左衛門など4人で造高5158石。(中略)なお享和3年(1803)当村の1株高900石の酒造家は摂津北在組(16ヵ村)に属していた(「酒造株石高数之控」四井家文書)。(後略)

〇栄根村(川西市栄根1 - 2丁目など)
小花村の南西、最明寺川下流域の左岸に位置する。壱之坪の地名がある。「住吉大社神代記」に「河辺郡猪名山」は「坂根山」とも号すると記され、東は猪名川と公田、南は公田、西は御子代国の境の山、北は公田と羽束国の境を限るという範囲であるが、河辺・豊島両郡の山をすべて為名山と称するともいう。(中略)なお天文 - 弘治年間(1532 - 58)頃に丹波八上(現丹波篠山市)の波多野一族の荒木氏が小戸庄栄根に移り、のち池田勝正に仕えるようになったという(「荒木略記」内閣文庫蔵)。(中略)小戸庄七ヵ村は初め高一所として扱われていたが、寛永3年(1626)に村切りが行われた(「寺畑村免状」尾林家文書)。宝暦6年(1756)の栄根村付込帳(栄根部落有文書)によれば、元文元年(1736)新開田畑2町2反余が本高に加えられ、百姓本人37・抱本人18・医師1、牛15、酒株100石、鉄砲3。(後略)

〇小戸村(川西市小戸1 - 3丁目など)
現川西市域の南部、池田村五月山の西方、猪名川右岸に位置する。地内に壱之坪の地名がある。中世は小戸庄に含まれた。慶長国絵図に「ヲウヘ村」とみえ、高1691石余とあるが、滝山村・出在家・萩原村・「ヲハナ村」などを含むものと考えられる。元和3年(1617)の摂津一国御改帳では「北戸庄村」と記される。寛永元年(1624)に「小戸庄」として年貢1221石余のうち168石余は大豆納とされ、庄屋・百姓中に免状が下付されているが(小戸村文書)、同3年頃には村切りが行われたらしい。正保郷帳では小戸村といて高533石余。(中略)正徳5年(1715)「小戸村」の八右衞門は高20石の酒株を今津(現西宮市)の三右衛門に譲っている(同6年「今津酒造米高書上」鷲尾家文書)。(中略)百姓本人45・地借本人2・水呑本人7、酒株高670石(猪三右衛門持)、牛14、鉄砲2。(後略)

〇出在家村(川西市出在家町など)
火打村の北東、猪名川の右岸に位置する。文禄3年(1594)10月の川辺郡小戸庄出在家村検地帳(滝井家文書)によれば田5町9反余・畠屋敷5町1反余で、分米137石余のうち荒16石余。名請人は持高30石余の北右衞門ら22人、屋敷地を登録する者8人、庵1ヵ所。慶長国絵図では「出在家」と記すが、七ヵ村一括で村高は不明。正保郷帳には「新在家村」とあり、高137石余。正保郷帳では出在家村とみえ、高142石余。領主の変遷は文禄4年片桐且元領となり、元和元年(1615)から幕府領、それ以降は小戸村と同様。(中略)宝暦5年(1755)の村明細帳(滝井家文書)によれば百姓本人19、牛7で、蔵一ヵ所、キリシタン札・火付札、威鉄砲1、酒株350石(当時は休株)。(後略)
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荒牧村の周辺では酒造を行う村もあり、以上にあげた村で行われていました。特に、山田村(明暦3年:1800石)、大鹿村(最盛期4010石)、中筋村(元禄期2980石)、加茂村(最盛期5158石)の諸村は製造量が多く、特に大鹿村は江戸積(宝暦10年16396樽)が行われていました。他に、小規模ながらも昆陽村(580石)や小浜町(950石)などもありました。
 江戸時代になると、当時は、勝手に営業もできず届出と認可が必要でしたので、製造上の技術要素だけではなく、酒造業の様々な問題も経て成せる商売でした。また、上記の資料では、時代を考え合わせたものではなく、歴史的な流れだけを繋いだものですので、「荒牧屋」の動きを中心に見た場合には、それらの条件も一致させる必要があります。

『兵庫県の地名』荒牧村条には、酒造についての記述がなく、不詳ですが、近隣にこれだけの醸造地があり、一大消費地の大坂や衛星都市の伊丹・池田(大規模生産地でもある)、城下町尼崎など大きな都市があります。
 櫻正宗の前身「荒牧屋」の当主山邑氏は、賢実に商売を拡大し、初代山邑太左衛門を名乗り、酒造家として、1717年(享保2)に創業します。その後も様々な関係性を繋いで歴史を紡いだものと想像します。

 

江戸時代後期を再現した摂津国川辺郡小浜宿(模型) ※全家屋が瓦屋根
 

 

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2023年9月14日木曜日

馬は、軍隊にとって極めて重要な時代が、つい最近まであった事

 今ちょっと、本を読んでいます。過去にも、馬についての記事を書いたことがありますが、最近またちょっと気になって本を読んでいます。
 『軍馬の戦争』戦場を駆けた日本軍馬と兵士の物語 / 土井全二郎著(光人社刊) というものです。
 その著作の前書きに、「その昔、「兵馬の権」という言葉があった。「兵馬」は、この場合、兵隊と軍馬、すなわち「軍隊」「軍事」を意味した。かつての軍隊が兵隊と軍馬で成り立っていたことが分かる。馬は軍隊にとって極めて重要な存在だったのである。騎馬(騎兵)、輓馬(ばんば)、駄馬(だば)と、その用途は多岐にわたった。(後略)とあり、非常に印象的です。私にとって、開いた最初に、答えをもらったような一文がそこにありました。

また、私の若い頃には、戦地から帰った元軍人が沢山おられて、色々な話しを聞くことができました。その中に、騎兵所属だった方がおられて、馬の事もお聞きしていました。

まだ、読み始めたばかりですので、気付いた事はこの記事に加えて、内容更新したいと思います。当然ながら、中世の戦国時代にも通じる事が多くあると思います。もの言わぬ、動物たちの戦いも、知りたいと思います。

追伸:基本的に私は動物が好きで、特に手頃な犬が大好きです。戌年生まれなのもあるのかもしれません。そんな環境で、この本を読み始め、軍馬の戦場での出産エピソードから始まり、戦闘中に負傷して母子ともに生き別れたのですが、運良くまた再開するという実話が載せられていました。読み始めて10ページ程で泣きながら読むという状況に、この先、読了できるのかという、不安もあります。

 

現在の一般的な馬よりも小さく、ロバのような大きさの在来種の馬




2023年9月5日火曜日

「忍者を追う歴史学」と題して、磯田道史教授による最新の成果が発表されました。やはり摂津池田にもその名残があり、愛宕火(がんがら火祭)は接点がある可能性。

忍者の研究は非常に困難を究め、その特性からして、資料が出ません。ですから研究が進まず、想像の世界も多くあり、関心の高い分野でありながら学術研究の進まない、謎の領域でした。
 ところが、近年、忍者に関する史料が発掘(発見)され、この事で、一気に知見(調査)が前に進みました。多くの手がかりがあり、今後も関連した研究が続々と出されるでしょう。

以下の発表動画をご覧下さい。お馴染み、磯田先生による講演ですが、いつものように大変楽しく、しかし、しっかりと要点を押さえ、非常に興味深い内容です。

シリーズ「日本研究のトビラをひらく」:
【前編】「忍者を追う歴史学」磯田道史教授


シリーズ「日本研究のトビラをひらく」:

【後編】「忍者を追う歴史学」磯田道史教授

 

この研究成果を聞いていると、やはり摂津池田でも「忍者」の存在を感じざるを得ず、形跡もあるように思います。それは何かというと、この番組から感じるキーワードを先ず、上げてみたいと思います。

・甲賀、紀伊国雑賀、山伏、薬(そら耳)、鉄砲、城、木村姓などです。

以下、それぞれ、注記します。

【甲賀】
池田城下に「甲賀谷」という集落があり、過去に古老に聞いたところでは、近江甲賀から移って来た人々が住んだ地域であると、代々伝わっているとの事でした。また、この集落には、戦国時代に「甲賀伊賀守」という家老が、屋敷を構えており、この系譜の家が江戸時代には、酒造とその流通に関わっている事が判っています。

【紀伊国雑賀】
荒木村重は、織田信長政権から離叛した時、大坂本願寺と共に、雑賀地域の人々と、頻繁に連絡を行い、協働もしていた事が史料から判ります。また、池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承があり、これも雑賀との関係が深くあります。

【山伏】
摂津地域北部の山地には、霊山として多くの修行場があります。そのため、真言宗などの寺院も多く、山歩きをして心身を鍛えるギョウを行う僧も多く居りました。戦国時代の池田氏は、摂津国豊嶋郡を中心に治めましたが、その中心的な役割を果たしたのが箕面寺という寺でした。山伏姿で、護摩を焚いて祈祷をするギョウも日常的に行われていました。
 1644年(正保元年)に興ったと伝わる伝統祭事である愛宕火(がんがら火祭)は、特に城山町(現池田市)の催行する同祭事は、この名残を持つものかもしれません。

【薬】
実際には、番組中にこのワードは出ていませんが、聞こえたような気がします...。(^_^;) 忍者と言えば「薬」みたいなイメージもあります。
 近江国甲賀地域の縁なのか、池田の地味、多数の寺院、多くの街道を交え、都市として発達(市場機能)したからなのか、城塞都市、武士の集住地域など様々な要因で池田と薬との関係があったようにチラホラ、見聞きしています。
 平安時代、現池田市住吉辺りに薬草園があって、当時の中納言菅原峰嗣は、天皇の待医や薬草頭などをつとめた人で、時々いそこにも見廻りに来ていたようでした。また、太平洋戦争前の事、古老の話によると、五月山山麓に薬草園(シオノギ製薬)があったとのことです。今は、全く面影はありません。
 それから、近からず、遠からず気になるのは、伊丹製薬株式会社という会社が、大正2年に     初代伊丹太蔵氏が大阪市浪速区で薬店開設したのに始まり、現在に至っています。地理的には、無縁という感じもないのですが、池田と「薬」については今後も調べを進めます。やはり、薬と忍者というのも、非常に関係の深い繫がりです。

【鉄砲】
元亀2年(1571)の秋に勃発した、いわゆる白井河原合戦で、池田勢は300丁の鉄砲を多用し、和田惟政勢を壊滅させました。永禄10年(1567)の冬、奈良東大寺合戦時も池田勢は、その主力的一団として活動し、対する松永久秀勢と激戦を繰り広げていました。この時は、銃撃戦が主体で、池田勢は相当数の鉄砲を使用していたようです。池田衆は、鉄砲を運用し、多用する体制と技術を持っていたとみられます。

【城】
摂津国池田には、同国内の最大級の城がありました。戦国時代には池田氏が豊嶋郡を中心とした支配を行い、池田家当主は、惣領と称されていました。宣教師ルイス・フロイスの当時の報告書にも池田氏が紹介され、「富裕な家」であったと認識されており、兵の装備は行き届き、必要があれば何時でも一万の兵を采配できるともあり、戦国大名とも言って過言では無い勢力に成長していました。
 そんな池田氏は、それなりの規模の城を持ち、最終的には同国守護に任じられるために、幕府の政務所となるべく規模と郭式が調えられたと考えられます。
 城下には、甲賀谷と言われる集落もあり、拡大する都市を構成する様々な技能や役割りを持った人々が住みました。建設や土木といった技術系の人々も当然ながら、池田氏との関係を持っていたと考えられます。

【木村姓】
摂津国の一職大名となった荒木村重でしたが、当然ながら多くの家臣と被官を抱えていました。その中に木村弥一右衞門という人物が確認できます。池田氏時代にも多くの家臣と被官が居りましたが、木村姓は見られず、また、木村弥一右衞門についても、この一通にのみ登場する人物で、不詳です。
 時期的に、織田信長政権は、京都の外側地域の対応に腐心しており、京都周辺は、荒木村重に任せる政策が採られていました。その為、荒木村重の地域政権も急拡大しており、必要な人事は積極的に採用していたと考えられます。そのような事情の中で、木村弥一右衞門も荒木村重に抱えられたのでしょう。
 天正2年と推定されている4月3日付けの音信で、荒木村重から摂津国尼崎惣中へ宛てられています。内容は、新たに建設される町割りなどについての指示で、木村弥一右衞門は使者として、尼崎に赴いているようです。「長遠寺(じょうおんじ)普請之儀油断無く其の沙汰せしむべく候。」としています。
 やはり、甲賀衆は忍者としてももちろん、こういった普請や造作、土木についても長けた技術を持っていたようですから、この史料もそういった事と、もしかすると関係していたのかもしれません。
 この村重の治世の頃、または、それよりも少し後くらいの頃、甲賀伊賀守なる人物が、池田郷の地域政治に高位の人物として記録に表れます。この人物は、当時の史料にも見られる事から確かに実在しています。その名からして、甲賀地域に縁を持つ人物ではないかと思われます。

<<関連記事>>
灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)


ガリレオ Ch ガリレオ X 第194回:
【忍者とは何者か?】忍者の実像 最新研究が解き明かす真の姿


この番組では、「音もなく、嗅もなく、智名もなく、勇名もなし。その功、天地造化の如し。」と「忍び」の極意を伝えて締めくくってあります。本当に凄いことです。ひとつの修業であり、悟りを求める旅のようです。何やら教えを請う、永遠の宗教のようにも感じます。元来、武士もそのような精神があったようです。

【参考】
忍者の先進的な当時の最新科学力を現代科学で検証している興味深いコンテンツです。薬の調合や運用方法についても触れられています。

2023年8月8日火曜日

スーパーダイエーの取り壊しにより、瓢箪山稲荷神社至近の東高野街道沿いの古い水路が現れました。

瓢箪山稲荷は、創建は天正11年(1583)で、羽柴秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされています。
 同社の西に、東高野街道が南北に通っており、その道に沿いに大鳥居が立てられています。ウィキペディアを引用させていただいて、ザッと概念をご覧いただくと、

”いつ頃に形成されたかは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言われている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされる。

その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。 ”
とあり、この賑わいが現在も引き継がれて、瓢箪山稲荷周辺は、商店街となっています。近鉄電車の「瓢箪山駅」もあって、東大阪の商都の一つでもあります。
 戦国時代には、盛んに戦国武将の往来もあったでしょう。南北にほぼ一直線であり、東に聳える生駒山への山道がこの道と何本も交わります。交通の要衝です。

この瓢箪山稲荷神社の大鳥居近く、東高野街道沿いにスーパーダイエーがあったのですが、これが最近取り壊されたことで、かつての水路が現れました。石の積み方からして新しいモノではありません。

何かご存知の情報がありましたら、ご教示いただければと思います。以下、令和5年(2023)8月7日時点の様子です。


石垣の様子
 

一部は崩されている

水路が二本ある

北に向かって今も流れる水路

旧ダイエー跡地(見えている山は生駒山:東を望む)

東高野街道の様子(商店街:ジンジャモール瓢箪山)

東高野街道沿いの瓢箪山稲荷神社大鳥居

2023年7月4日火曜日

摂津国人池田筑後守長正について考える

池田筑後守長正という人物は、私の研究している池田筑後守勝正の先代で、一世代前にあたります。この長正という人物については、不明な点が多く、史料もそれ程多くないため、その全容把握に難儀しています。強い思い込みで見ていると、行動の表裏反目が多く、残されている史料では、その意味をどのように理解すべきか非常に悩むことがありました。
 しかし、この長正という人物の行動を解明する事は、摂津池田氏の京都中央政権に対する家中の流れを把握することができ、その事が摂津の政治事情解明の一端にもなると思われます。
 これについては、馬部 隆弘氏先生の『戦国細川権力の研究』により、近年急速にその解明が進んでいます。その波に乗り、摂津池田家から見た細川権力との関係性を解く事につながればとも考えています。
 実際、同書のおかげで、これまで永年、意味の解らなかった長正関連文書の意味が解け、私の研究も大きく進みました。暗闇に光が差し込むように、池田長正の行動が少し判りました。これによって、池田信正から長正を経て、勝正に至る連続性の隙間が埋まりました。
 完全に解くには、もう少し課題もありますが、池田長正の池田家中での立ち位置や最終的には惣領となるのですが、その経緯も、概ね推定できるようになりました。
 細かなところは、要素毎に分けてご紹介しようと考えていますが、今回は大きな流れ(概要)だけ、お伝えしておこうと思います。今後は、以下のような項目で、それぞれの記事をご紹介できたらと思います。

  • 長正は当初、池田家中での惣領候補とはされなかった
  • 長正の母は、三好政長(宗三)の娘
  • 長正は、池田城に起居しなかった
  • 池田四人衆の権力化に対抗した長正
  • 長正の家中での地位は、管領細川晴元に依存
  • 長正は荒木氏などを登用し、独自の組織運営体制を構築
  • 惣領継承者を主張する長正が権益を独自に拡大し、人材登用も行う
  • 長正は、池田四人衆と和解し、摂津池田家惣領となった
  • 永禄6年2月、池田長正死亡


さて、それに沿って簡単にご紹介します。

◎長正は当初、池田家中での惣領候補とはされなかった
池田信正が、細川晴元により不慮に切腹させられると、それが突然の事でもあり、家中は大混乱となりました。次の(独自)後継者も決められていなかったからです。
 それに加えて、舅である事を理由に、三好政長は勝手に後継者を指名して、上位権力(管領細川晴元)に認めさせ、池田家の財産を掠め取ろうとしていました。そもそも、信正の舅であるにも関わらず、細川晴元の重臣でありながら、取り計らいもせず、池田信正を切腹に追いやった事は、当時の慣習を大きく逸脱し、摂津国内外の国人衆の動揺と波紋を呼び起こしました。
 池田家中は、三好政長の暴挙・介入に猛反発し、別の独自惣領候補を立てた上で、家中の三好政長派を追放します。内訌が起きました。


◎長正の母は、三好政長(宗三)の娘
惣領池田信正の死後、軍記物ですが『細川両家記』天文17年条によると、(前略)跡職(池田筑後守の)には三好越前守入道宗三(政長)の孫にて候間、宗三申し請けられる別儀無き者也。、とあります。また同じく軍記物の『続応仁後記巻5』摂州舎利寺軍事付細川畠山両家和睦事条には、(前略)然れ共、其の子(池田筑後守の子)は正しく三好新五郎入道宗三の孫なる故に遺跡相違無く立て置きて、其の子を宗三に預け置かれけり。、としています。
 自分の血筋を元に池田家惣領とさせ、あからさまに池田家の乗っ取りを謀っていました。この軍記物に現れる三好政長の孫とは、「太松丸」で、信正の死の直後に催された将軍義晴の管領細川晴元邸御成りに、「裏門役:池田太松丸」の名が見られる事から、この太松丸が、三好政長(宗三)の孫とされる人物と考えられます。


◎長正は、池田城に起居しなかった
天文17年(1548)夏頃、三好政長(宗三)派の池田家中一党は、追放されてしまいます。『戦国遺文:三好氏篇(三好長慶の、細川晴元側近垪和道祐・平井丹後守直信への音信)』には、(前略)皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く、仰せ付けられ太松、条々跡目之儀、安堵せしめ候き、然る所彼の■体者渡し置かず、三好宗三相抱え、今度種々儀を以て、城中へ執り入り、同名親類に対し、一言之■に及ばず、諸蔵之家財贓物相注ぎ以て、早知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、宗三申し掠め上儀、池田筑後守生涯せしめ段、現形之儀候。難き申すべく覚悟以て、宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固之旨申す事、将亦宗三父子に対し候て、子細無く共親にて候上、相■彼是申し尽し難くを以て候。(後略)とあります。
 この時、池田家中は「孫八郎」という別の惣領を立てていますので、池田の三好政長派一党は、太松丸を頼って、京都に身を寄せていたのかもしれません。
 具体的な場所は不明ですが、史料も暫く見えなくなり、次に見られるようになるのは、3年後の天文20年5月です。「池田(右)兵衞尉長正」として、摂津国豊嶋郡箕面寺に禁制を下しています。
 この池田兵衞尉長正という人物が「太松丸」と同一人物かどうか、また、親子関係なのか等は、今のところ不明ですが、その行動からすると、同一人物ではないかと思われます。父である池田信正の死が突然であり、混乱期の中で元服した(させた)とも考えられます。
 ちなみに、天文18年6月、池田家にとっては、その不幸の元凶とも言える三好政長が戦死します。惣領池田筑後守信正の切腹から大体一年後です。この事で、細川晴元政権も瓦解し、一行は京都を落ち延びて丹波・近江国方面へ身を寄せます。
 天文20年5月に長正は、箕面寺に禁制を下していますので、このあたりの地域に居たのでしょうか。丹波・摂津国境や芥河氏・塩川氏、波多野氏などの細川晴元方の人物に身を寄せていたとも考えられます。今のところ、その活動場所については想像の域内です。

◎池田四人衆の権力化に対抗した長正
摂津池田家の当主代行的臨時家政機関となっていた「池田四人衆」ですが、その四人組は、独立的な池田家存続を志向して、外部勢力の影響を受けない方策を施行していました。ですからそれは、「権力化」といっても、「家」の存続についての自衛措置であり、正統な理由であって、自然な欲求でした。
 しかし、これに対して、池田長正は惣領後継者の立場を崩さず行動していたことが伺えます。長正が摂津国豊嶋郡箕面寺に禁制を下しているところや奈良春日社領垂水西牧南郷を管理する今西家(現大阪府豊中市)に対して神供米切出しを行っている事からみても、その意図が推察できます。特に今西家への「神供米切出」は、先代信正の契約継承です。(但し、規模は150石分の内38石分で、影響の及ぶ範囲に収まっていて、全体の4分の1程)

◎長正の家中での地位は、管領細川晴元に依存
馬部先生の論文『江口合戦への道程』瓦林春信の立場の項目に、興味深い見解ありますので、抜粋させていただきます。
 「瓦林春信が晴元方にいたのは天文五年から一〇年までのわずかな期間で、それ以外は一貫して敵対していたことになる。しかも、一度は投降を許したものの、わずかな期間で晴元のもとを離れたのである。そのような人物の帰参を認めてまでして三好政長を支援したことに、長慶は怒りを覚えたのであろう。(中略)
 その状況下での瓦林春信の宥免は、たとえどのような前歴があろうとも政長に味方する摂津国人は晴元方の摂津国人と見做され、所領が安堵されることを意味する。その分、誰かが所領を失うわけである。つまり、政長に敵対すると晴元の敵と見做され、所領安堵がなされない可能性を示唆したことになる。いわば、春信の宥免は摂津国人衆の危機感を煽って、その結束の切り崩しを図る行為でもあった。
 実際、晴元方の切り崩しはある程度奏功しており、先述の芥川孫十郎と池田長正は江口合戦後に晴元のもとに帰参している。また、長らく晴国や氏綱のもとで活動していた摂津国人の能勢国頼も、晴元方の摂津国人である塩川国満を介して晴元のもとに参じている。(中略)
 三好長慶がそれに対抗するには、晴元とは別の所領安堵をする主体を用意するしかない。そのため、氏綱を擁立したといえよう。
 ところが、江口合戦で政長を討った後も、「就三好右衛門大夫(政勝)事、三筑(三好長慶)条々申事」とみえるように、長慶は政勝の弾劾を続けている。つまり、政勝さえ排除すれば、晴元を改めて推戴する余地をまだ残しているのである。このように、長慶の目指すところはあくまでも政長・政勝父子の排除であり、天文一七年末に方針を変えたのちも晴元の排除を主たる目的に据えたわけではなかった。」との見解が示されています。
 この研究結果により、私の読んでいた池田長正に関する行動の不可解な史料群について、その意味が判るようになりました。池田家中の総意としての惣領を「孫八郎」として立てている池田四人衆に対する抵抗として、池田長正は、細川晴元の権威に初期の頃は特に依存し、自らの立場を顕示し、高めようとしていた行動が、史料に顕れているものと思われます。池田家中の争いは、管領争いと鏡のように連動していたと言えます。
 と同時に、長正は箕面寺への禁制発行や大坂石山本願寺への接近、先代信正の契約の継承(今西家への神供米切出し継続(約束の履行))なども独自で行い、地域関係も繋ぎとめたり、新たな関係構築も行っていました。これは、晴元権力を後ろ盾とする、具体的な積極行動とも考えられます。


◎荒木氏などを登用し、長正は独自の組織運営体制を構築
亡命中の長正の、人的・地域的に影響力が及ぼせる範囲が断片的であったため、これまでの池田家が採っていたように、物理的な不備を埋める方策としても、分業体制を採用したと考えられます。池田長正は「池田四人衆」にあたる役職として、荒木氏を登用しています。これが後に、荒木村重につながって行くのですが、その出発点は、この池田家分裂時にあります。長正の行動を詳しく見ると、新たに始められた行動が多々あり、これはこれで、注目要素です。池田家の伝統権力として定着します。

◎惣領継承者を主張する長正が権益を独自に拡大し、人材登用も行う池田長正と池田四人衆の対立していた時期は、管領職同士の対立時代でもありました。また同時に、その間に頭角を現した三好長慶の勢力が拡大していた時代です。権限や権益も比例して大きくなっており、その活動を追えば、池田家が三好一族的噯いを受けているところをみると、長正の血縁が元になっている手は明白です。
 「長正は当初、池田家中での惣領候補とはされなかった」の項目で述べたように、一時的に「池田四人衆」が、家政の中枢を担い、三好政長一党を家政から遠ざける方針を貫いていました。
 しかし、三好政長の系譜を持ち、また、先代惣領池田信正の嫡子であった長正は「惣領」継承者を主張し、池田四人衆が独自に立てた惣領候補者と争います。
 この状況で負けじと長正は、独自の行動を取り、自らの権益を拡大したり、人材の登用を行っています。
 京都の中央政権の流れが変わる中で、その下位である地域権力はどうしても、その影響を受けることとなります。
 時が経つ中で、長正自身が築いた権益やヒト・モノ・コトの関係性も、四人衆にとっては否定できなくなり、話し合いにより融合すべき要素に成長していた事態になっていたと思われます。
 何れにしても、大きくみれば、成長する三好長慶政権の中で、池田家もそれを共有し、活用しながら拡大した事は確かです。
 一方で、その上位権力であった、三好長慶の方針転換もあったのかもしれません。天文17年頃の長慶による、同族の政長(宗三)・政勝父子の排斥運動を何らかの理由で問題視しなくなったか、方針転換(改めた)があって、それが、池田家の家政方針に影響を与えたということが、可能性としてはあるかもしれません。
 最終的に長正は、内外に向けた惣領の証しである「筑後守」を名乗っていますので、四人衆も長正を摂津池田家の正統な惣領として認めていました。
 しかしそれは、不幸にも短期間に終わったようです。「筑後守」を名乗っていたのは、永禄4年秋頃以降で、長正が死亡するのは、永禄6年2月頃です。
 この事からすると、永禄4年夏頃までは、「筑後守」の名乗りを池田家中から認められていなかったとも考えられ、想像を逞しくすると、長正の池田家中での立場は、あまり良くなかったのかもしれません。
 

◎長正は、池田四人衆と和解し、摂津池田家惣領となった
池田長正は、池田家惣領の名乗りである「筑後守」を署名している史料があることから、正式な惣領として、家中から承認を得ていたことは間違いありません。
 しかし、それがいつ、どのように成されたのかは、不明な要素も多くあります。しかしながら、その転機としての大きな要素は、池田四人衆が推す信正後継者であった「池田孫八郎」が、何らかの理由で死亡した事にあるようです。これは、病気の可能性が高いと思われます。
 これが、最終的に長正と四人衆の和解に至った一つのキッカケであった事は確かだと思います。
 しかし、史料上には「孫八郎」が死亡したと思われる弘治3年(1557)以降も、少なくとも数年間、史料上では長正と四人衆との反目があったようです。長正が「筑後守」を名乗るという、本質的な和解に至るまでには、他にもいくつもの解決すべき要素があったと考えられます。


◎永禄6年2月、池田長正死亡

この年、池田長正の他に、細川晴元・細川氏綱が死亡しています。室町幕府の要職である「管領」の両巨頭が同じ年に死亡しています。また、この年の8月、三好長慶の一人息子も病気で死亡しており、五畿内地域に伝染病の蔓延があった可能性があります。
 その頃の長慶は、代替わりを終えていた直後でもあり、跡継ぎの死亡は大きな落胆だったらしく、自身も翌年の7月に死亡します。その死の直前、自らの四人兄弟の一人である、安宅冬康とも相反し、殺害に至っており、精神的にも落ち込みが激しかったことを物語っています。
 さて、そんな激動の周辺環境の中、池田家中の代替わりは、前代に苦しんだ経験を乗り越えて、長正の後継継承は非常に速やかに行われました。
 長正が永禄6年2月に死亡し、その翌月には、池田勝正の惣領就任を告げる音信を関係者に送っています。
 この流れを考えると、長正と勝正は血のつながりが有り、三好家との関係性を重視しようとしていた筈です。永禄6年の時点では、三好長慶は存命で、後継者も健在であった事から、池田家中は、それまでとこれからの関係維持を図るために、順当な後継者選定をおこなった筈です。
 しかし、池田長正と勝正は、親子というには、活動期間が近いようにも思われ、長正が病死(突然的)の可能性もある事から、両者は兄弟であった可能性もあるかもしれません。この点は、今も私の課題であり、よく解らないところです。

池田長正花押 ※(右)兵衛尉の頃

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2023年5月31日水曜日

ブログ「戦国大名荒木村重研究所」を開設しました!

ブログ「戦国大名荒木村重研究所」を開設しました。「戦国大名池田勝正研究所」ブログは、記事が多くなり、荒木村重の知名度も近年高まっていることから、記事を分けて解りやすくしていきたいと思います。

未だに謎の武将とされている荒木村重について、社会的認知のお役に立てたらと思います。派手な事はできませんが、一次史料に基づき、淡々と人物像をご紹介いたします。

荒木村重は、決して特別な人間ではなく、私達現代人と同じく、ごく普通の人間であり、迷いや喜び、能力や出来事、その時代の社会、習慣などの中で精一杯生きた人間です。
 違うのは、ただひとつ、想定外に破滅的な最期を迎えてしまった事です。これは、荒木村重一人の生みだした事ではありません。複合的な理由があっての事です。

私は別に、荒木村重が英雄であって欲しいと思い込み、時の史料の内容の解釈を偏らせようとも思いません。主要研究テーマである池田勝正に於いても同じくです。ただ、淡々と、何があったのか、その事実が知りたいだけで調べています。

特別なものは何も無いと思います。同じ人間が為すこと。成功も失敗も、その過程(歴史)から学び、現代の私達の教訓とさせてもらえたら、彼らの供養となるように思います。

そんな事を考えつつ、「戦国大名荒木村重研究所」に書き綴りますので、どうぞご愛顧下さいませ。


ブログ「戦国大名荒木村重研究所」https://murashige1571.blogspot.com/



2023年5月21日日曜日

摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察

偶然の出会いであった、大坂本願寺五十一支城の一つとされている伝葱生(なぎう)城を調べる内に、その付近にあった赤川寺と摂津池田家との関わりが浮かび上がり、これまた電撃的な、嬉しい出会いとなった事、非常に驚いています。
 赤川寺にしても葱生城にしても、両要素は摂津国榎並庄にあります。ここにある榎並城は、三好政長が居城しており、この人物は池田信正の義理の父親にあたります。要するに妻の父親、信正の舅です。ですので、榎並庄は、摂津池田家にとっても非常に関係の深い場所でもあります。
 この際、詳しく見て、これまでに知り得た要素の整理と再検討、また、今後の備えにもしておきたいと思います。先ずは、もう一度、赤川寺(大金剛院)と般若寺について見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1-P610(赤川廃寺跡)

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◎赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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この「大般若経」の奥書によると、寛喜2年(1230)に完成した経典600巻をその300年余り後の天文16年(1547)に池田信正が、摂津国豊嶋郡の久安寺(現池田市)へ寄進しています。この久安寺は、信正の居城池田城からも至近にある大寺院です。
 信正が西成郡(東成郡とも)の大金剛院(赤川寺)にあった大般若経を知り、久安寺に寄進するという経緯はどのような理由によるものだったのでしょうか。豊嶋郡の久安寺について、一旦、以下に示しておきます。
※大阪府の地名1-P319

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久安寺楼門
高野山真言宗。大澤山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書く(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。(中略)。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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久安寺は真言宗。大金剛院(赤川寺)は、天台宗です。その当時は、宗派が違ったかもしれませんが、両寺とも興りは古く、また、「般若経典」は、どちらの宗派も共通して尊ばれています。
 一方、この時代には、摂津池田家の菩提寺は塩増山大広寺としていたようですので、池田領内にあった久安寺などの大寺院とも、付き合いや親交があったのでしょう。

続いて、榎並庄について見てみましょう。ここは摂津池田家とも非常に関係の深い場所でもあり、長文になりますが、榎並庄部分を全文引用しておきます。
※大阪府の地名1-P625(城東区)

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現城東区野江・関目付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低地帯に存在した大規模な庄園。もと東成郡に属するが正確な庄域は定めがたい。近世には淀川南東、鯰江川以北の摂州25村を榎並庄と称しており(摂津志・享保八年摂州榎並河州八箇両荘之地図)、現旭区・都島区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたる。野江村の水神社付近には中世榎並城があったといわれ、馬場村(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目される。

〔摂関家領〕
「法隆寺別当次第」に長元8年(1035)から長暦3年(1039)まで法隆寺別当をつとめた久円が、その任中に西大門を造立するため「榎並荘一所」を売却したとみえる。しかし榎並庄には法隆寺だけではなく多くの領主の所領が錯綜していたらしい。承暦4年(1080)に当庄をめぐって内大臣藤原信長と信濃守藤原敦憲との間に争論が起こった際、榎並庄の四至内に所領をもつ者に公験を提出させたところ、藤原信長・藤原敦憲・故藤原憲房後家・皇太后藤原歓子・右中弁藤原通俊や四天王寺(現天王寺区)・善源寺(跡地は現都島区)らの多数が応じている(「水左記」承暦4年6月25日・同29日条)。この相論で藤原敦憲は父憲房が故関白家(頼通)から領掌を認められたときの政所下文を提出して対抗しているが(同書同年閏8月8日条)、結局、信長の圧迫を逃れるため関白藤原師実にその所領を寄進したようで、その頃から摂関家の榎並庄支配が急速に進展し、摂関家領となっている。建長5年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)の榎並に「京極殿領内」と注記があるのは、当庄が師実(京極殿)の時代に摂関家領として確立したことを示している。摂関家では前遠江守藤原基俊を預所に補任して支配させた。ところが基俊が預所職を子孫に伝える際、摂関家は榎並庄を上庄・下庄に分割、基俊の嫡女(冷泉宰相室)を下庄の、次女(清章室)を上庄の預所に任じた(「榎並庄相承次第」勧修寺家本永昌記裏文書)。このうち上庄の預所職は次女の夫清章に伝えられたが、保元2年(1157)4月、関白藤原忠通は榎並上庄を東方と西方に分け、清章の譲状に任せて、その着女を東方の預所に補任し庄務執行を命じた(「関白家政所下文案」・「榎並庄相承次第」同文書)。
 前掲近衛家所領目録によると、榎並庄を伝領した近衛基通は、鎌倉初期に上庄西方を近衛道経の妻武蔵に分与したが、上庄東方と下庄は本所の直轄とし、政所の年預を給主として支配させた。榎並上庄西方は「庄務無本所進退所々」に、榎並庄東方・同下庄は「庄務本所進退所々」に書上げられており、当時の東方給主は行有法師、下庄の給主は資平・行経であった。この上庄と下庄の位置を明確に示す史料はないが、延徳元年(1489)12月30日の室町幕府奉行人連署奉書案(「北野社家日記」延徳2年3月4日条所収)には「榎並下庄東方号今養寺、同上庄四分一号高瀬」とみえ、上庄の庄域が高瀬(現守口市)に及んでいる点から、上庄北部、下庄は南部に位置したものと考えられる。しかし平安末期から鎌倉中期にかけての摂関家に対する当庄の負担・奉仕については、わずかに関白忠実の春日詣の前駈るへの負担(「永昌記」嘉承元年12月17日条)、摂関家の元日の供御座の進納や吉田祭の費用の勤仕(執政所抄)、春日祭の舞人・陪従への負担(「猪隅関白記」正治2年正月10日条)などが知られる程度で詳細は不明。建長5年3月成立の高山寺縁起(高山寺蔵)には、中納言藤原盛兼が長日勤行の仏聖灯油ならびに人供料として当庄の私得分の田畑の一部を高山寺(現京都市右京区)に施入し、後日、関白近衛家実の計らいでその坪付を寄進した旨が記され、田畑の一部は高山寺の所領となっている。
「荘園物語」挿絵より:豊中市教
 鎌倉中期以降、当庄に対する武士の侵略が次第に激しくなり、建長2年2月6日、北条時頼は御教書(海蔵院文書)を出し、河内守護三浦泰村が榎並下庄を自分の所領と称して侵害するのを禁じ、代々摂関家領である旨を伝えている。しかし、その後も武士の侵略はやまず、暦応2年(1339)9月、足利尊氏が播磨国平野庄の替りとして榎並下庄東方や楠葉河北牧(現枚方市)年預名などを洞院家に付与した際、榎並下庄東方は「城三郎跡」と注されており(河東文書)、すでに鎌倉末期には下庄東方に幕府方の武士の某城三郎の所領が形成されていたことがわかる。これらの侵略は単に武力によって行われたのではなく、承久の乱以降、この地に地頭が設置され、秦村や城三郎が補任され、地頭職の支配を通じて所領を形成したのではないかと推定される。下庄がいつ東方と西方に分かれたかつまびらかでないが、少なくとも城三郎のときには東方がその所領となっており、東方と西方の分割は、庄園領主である摂関家と地頭との下地中分による支配の分割によって生じたものと考えられる。その城三郎の東方が足利尊氏に没収され洞院家領となったのであるが、永徳2年(1382)10月16日には山名氏清が榎並上庄東方の年貢のうち30石を山城石清水八幡宮に寄進しており(石清水文書)、争乱の展開の中で武士の侵略・押領が激化していった。
明治41年の榎並庄の状況
 こうした情勢のなかで、近衛家の支配は衰退を余儀なくされた。近衛家は榎並下庄の庄園領主権を京都北野天満宮の別当職を兼務する曼殊院門跡に寄進したものとみえ、正安3年(1301)7月29日付の伏見上皇院宣案(曼殊院文書)によって、門跡が相伝の理にまかせて下庄を領掌することが認められている。これが当庄と北野天満宮の関係を示す早い史料であるが、康永2年(1343)6月には、光厳上皇も榎並下庄東方を北野神社の別当大僧都に安堵する院宣(曼殊院文書)を出している。貞和4年(1348)4月には参議藤原実豊が亡息の菩提所領として榎並下庄西方の田地七町五反を長福寺(現京都市右京区)に寄進(長福寺文書)、さらに観応元年(1350)8月には興福寺が春日社領榎並庄など三庄の返付を北朝に訴えている。「御挙状等執筆引付」に、この三庄は永仁年間(1293 - 99)に春日社へ寄進され柛供を備進してきたが、まもなく顛倒されたとあるので、鎌倉末期から南北朝初期にかけて榎並庄が奈良春日社領となっていた時期もあり、当庄をめぐる庄園領主権がきわめて錯綜した様相を呈していたことがわかる。こうしうて近衛家の支配は消滅し、室町時代になると他の庄園領主に関する史料もみえなくなり、もっぱら北野天満宮領としてあらわれてくる。
〔北野天満宮領〕
北野天満宮は光厳上皇の院宣で榎並下庄東方を安堵されたあと、応永23年(1416)11月10日付の法印禅順譲状写(北野神社文書)に「榎並上庄 公方御寄進内 半分並下庄東方同下司公文職同田畠」とあるように、将軍足利義持の寄進もあって、15世紀中葉頃には榎並上庄半分と同下庄東西両方が北野天満宮領となっている(同文書)。「北野社家日記」などによると、初め榎並庄の管理支配に当たったのは、祠官家の一つ松梅院であった。しかし社家内部で競合対立があり、将軍足利義教のとき松梅院禅能が勘気を受け、かわって宝成院が奉行したのを契機に、15世紀後半を通じて榎並庄の管理支配権をめぐる両者の対立が断続的に繰り返された。とくに長享2年(1488)から延徳3年にかけて松梅院・宝成院双方がそれぞれ幕府首脳に働きかけて、当庄の管理支配権を激しく争った。「北野社家日記」延徳2年3月4日条によると幕府側でも困惑したとみえ、「榎並庄上東西半分、下庄東西一円」を松梅院禅予に、榎並下庄東方地頭職と同上庄四分一地頭職を宝成院明順に領知させるというきわめて曖昧な裁定を下している。両者が争っていたとき、現地では武士の侵略や庄民の抵抗がますます激しくなっていた。当時の「北野社家日記」には「榎並庄不知行」により神事が退転したという記事が頻出し、北野天満宮の庄園支配が崩壊の危機に直面していたことを物語る。天文10年(1541)12月15日付の後奈良天皇女房奉書(北野神社文書)も榎並庄について「ちかきころその沙汰いたし候ハぬゆえ」神事が退転していると記す。
榎並座発祥の地石碑
〔猿楽榎並座〕

中世の榎並庄の歴史において特筆されるのは、丹波猿楽の一座といわれる榎並座がここを根拠として台頭し活動したことである。榎並庄の猿楽は、初め近くの住吉社(現住吉区)への奉仕を通じて発達してきたが、鎌倉末期には、丹波猿楽の矢田(現京都府亀岡市)の本座、宿久庄(現茨木市)の法成寺座と並んで「新座」として京都へも進出するようになった。文永7年(1270)6月の京都賀茂社の御手代の祭礼に、本座・新座・法成寺座の三座猿楽が勤仕したとあるのが早く(賀茂社司古記)、南北朝期には名称も新座に代わって榎並座とよばれるようになり、「妙法院法印定憲記」康永3年4月19日条によると榎並座は醍醐寺清瀧宮祭礼の猿楽楽頭職を獲得している。足利将軍の保護を受け、世阿弥が伝える義満の前での榎並・観世立会能のエピソードも生みだされ(申楽談儀)、応永年間になると、矢田本座から伏見(現京都市伏見区)の御香宮・法安寺の楽頭職を買得するなど目覚ましい活躍を示す(「看聞御記」応永27年3月9日条など)。役者としては馬の四郎・左衛門五郎らが有名で、後者は能「鵜飼」「柏崎」の作者といわれる(申楽談儀)。しかし榎並座では応永30年に楽頭が譴責を受けて死に、後を継いだ弟も死去するという事件が起き、清瀧宮楽頭職が観世座に奪われるに至った(「満済准后日記」応永31年4月17日条)。これを契機に急速に衰え始め、わずかに「エナミ大夫生熊」(「満済准后日記」応永33年4月21日条)、「春童」(看聞御記」永享10年3月12日条)の存在が知られるだけで、以後榎並座の活動は中央の記録から姿を消す。
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榎並庄は低湿地で、洪水が起きやすいという難所ではありましたが、化学肥料も無い当時、洪水は肥沃な大地に変えてくれるという利点もありました。それ故に、敢えて、低湿地を選んで集落を形成するというところもあります。「輪中」はその典型です。

さて次に、その榎並庄にあって、その中心ともいえる榎並城について見てみます。
※大阪府の地名1-P627

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榎並城(城東区野江4丁目)
水神社
中世榎並庄に築かれた城で、野江水神社(野江神社)付近にあったとみられるが遺構は確認できない。「花営三代記」応安2年(1369)3月23日条に楠木正儀が天王寺から退却して榎並に陣したとみえ、古くから軍陣を布くのに適した場所だったようである。十七箇所城とも称したといわれ、同書同年4月22日条に正儀が「河内十七箇所」に退いたとみえ、明応2年(1493)の河内御陣図(福智院家文書)に森口(現守口市)南方、八箇所(現門真市など)西方に「十七箇所」と書き込まれているのは当然のこととする説もある。榎並城については「細川両家記」の天文17年(1548)10月28日条にみえるのが早く、三好政長・政勝父子と長慶の抗争は、その後ますます熾烈になり、翌年6月17日政長は榎並城を政勝に任せ、兵三千騎を率いて淀川北岸の江口(現東淀川区)に渡り城郭を構えて迎撃態勢をとった。しかし6月24日長慶軍は江口城を総攻撃し、政長を討死させた(細川両家記)。一説に政長は榎並城へ逃れようとして水死したともいわれる(暦仁以来年代記)。政長敗死の報を受けた政勝は、城を捨てて瓦林城(現兵庫県西宮市)へ退却した。「万松院殿穴太記」は榎並城について、もともと三好政長の居城で屈強の要害を構えていたと記しているので、おそらく天文年間に政長が築城したものとみてよいであろう。政長・政勝の後、当城がどうなったかつまびらかでないが、この地には石山本願寺合戦のときにも本願寺(跡地は現中央区)側の端城(陰徳太平記)が置かれたとみられる。
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この榎並城の城主であった三好政長は、既述の通り、自分の娘を池田家に嫁がせて、姻戚関係となっていましたが、それがいつの事だったのかは、今のところ不明です。戦国の乱世でも、婚姻は非常に重要な契約でしたので、道義的な習わしは守られ、血筋も大切に守られていました。

ところで、天文16年という年は、池田家にとっても京都の中央政権にとっても、激動の年廻りでした。
 少し遡って、天文12年(1543)7月、管領細川高国の跡目を称して、和泉国に於いて細川氏綱が挙兵します。様々な事情で次第に社会的な支持を受けるようになっていきます。
 摂津池田家は、当主(惣領)信正の舅とはいえ、その立場を利用して、池田家の権益を押領(横領)するような事もしていた三好政長に対して、池田家中が不満を持っていた時期でもありましたが、幼小の頃から永年に渡り支えてきた管領系譜の細川晴元は、重臣であり同郷でもあった政長の行動を諫める事もなく、処置もせず放置したようでした。この態度に対して、池田信正は自衛的な対抗措置として、当時、勢いを増していた細川氏綱方に加担する事を決め、細川晴元政権からの離叛を決行します。天文15年(1546)9月でした。

摂津池田城の推定復元模型
晴元は、直ちに摂津国方面の討伐を行い、池田・原田城などを激しく攻め、旧誼も顧みず、執拗に、大規模に攻撃を行いました。結果、氏綱方の支援もありましたが、抗いきれずに池田信正は、晴元方に降伏します。
 天文16年(1547)6月25日、同じ氏綱方にあった中心人物薬師寺与一元房が、芥川山城(現高槻市)で降伏したため、池田信正も晴元方に降伏し、摂津国方面は、一旦平定されました。しかし、河内・和泉国、山城国北部方面では、闘争が続いていました。
 更に、この機に乗じて、阿波国に退居していた将軍候補の家系でもあった足利義維が、京都への返り咲きを目指して、堺へ上陸してきます。これは、この年に将軍義晴と細川晴元との確執が表面化していた事の隙を見ての動きでもあります。

一方の池田信正は、出家し、僧体となって、作法通りの詫びを入れて、細川晴元の指示に従っていたようです。晴元方から離叛して、武力抵抗をしたとはいえ、晴元政権での功労者(しかも二代に渡る)でもあった事から、どのような処分にするのか、決めかねていたようです。

今西家屋敷
天文16年とは、そのような年であり、思惑の錯綜する時期でもありました。このような時代の中、境遇の中で、池田信正は「大般若経典六百巻(大般若波羅蜜多経)」を久安寺に寄進しています。
 この時点で、僧覚賢により最初に書写されて(寛喜2年:1230)から300年余り経ている事から、補修などを施して寄進したのでしょう。廃れかけていたものを、復興したようなカタチだったのかもしれません。「大般若経典」は、大乗仏教の原点とも言える大切な経典ですので、そういった考えや願いを込めての行動だったと思われます。
 少し気になる要素があります。天文15年(1546)頃に割と大規模に洪水や日照りがあったようです。
※豊中市史(史料編2)P526(今西家文書)

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三石五斗(将監殿・大垣内殿:相合わせ)、三石者(八木小五郎方・高野源二郎方)、五斗(中村源五方)、七斗(垂水上方)、弐斗(玉林分)、弐斗(片山分)、参斗(安井出雲守方)、七石者(八木七郎兵衞方)、四石者(渡辺源兵衛方)、四斗(田木五兵衛方)、六斗(古田彦左衛門方)、四石者(新三郎殿)、一石五斗(樋口太郎左衛門方)、八石三斗五升八合(田井源介殿抱え分・香西分)、三石者(厚東二介方)、五石者(小曾禰勘兵衛方)、拾四石者(下村方両人)、三石者(大林與三次郎方)、三石者(牧野宗兵衛方)、一石五斗(栗原方)、一石者(金前坊)、一石者(御中間新左衛門)、弐石五斗(中殿)、弐石五斗(塩山十郎左衛門方)、五石者(寺江與兵衛方)、五石者((河?)端彌次郎方)、八斗(古田三郎太郎方)、四石者(宇保平三郎方)、一石五斗(幡本十郎三郎方)、一石五斗(同名善十郎方)、弐石二斗三升弐合(御局様抱え分湯浅分)、一石者(河端甚三郎方)、一石者(福井勘兵衛方)、三石者(茨木伊賀守長隆殿)、一石者(吹田殿)、拾八石者(與四郎殿)、五斗(穂積源介方)、一石四斗(宇保與市方)、弐石者(景寿院分)、弐拾石者(榎坂殿)、五斗(寺野修理方)、四斗(津田彌六方)、四斗一升(伊丹大上分)、九石者(安倍備中守方)

以上百五十石分。

右、春日社為御神供米百五十石之分、知せず于水損、諸給人為、前以って書き立て抽んず留木修理進並びに目代今西橘五郎彼の両人へ百五十石分切出上え者、別儀無く孰(いず)れ別儀無き者也。若し此の旨背き、難渋輩於者、此の方堅く成敗加え為るべく候。仍て後日為、目代に対し、染筆処、件の如し。
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今西屋敷付近の田んぼ
池田信正が、「南郷御供米切出注文」として、摂津国豊嶋郡の今西家へ神供米の切出注文発行していますが、この文中に「不知于水損、為諸給人前以書立(後略)」とあって、神供米収穫時期前に、事前に言葉を添えています。ちなみに、人物名の太字は、池田氏と関連すると考えられる人物です。

実は、天文13年(1544)7月8日から翌日にかけて、近畿・東海地域にかかて防風水害が発生していました。京都醍醐寺の僧、理性院厳助の記録『厳助大僧正記』には、四条・五条の橋、祇園大鳥居が流出するなど、京都で大きな被害が出ていたことが記述されています。
 ちなみに天文9年(1540)5月には、干損、間もなく一転して大洪水、同年秋には、イナゴの大発生による農作物の被害に見舞われるという、悲惨な状況でした。
 池田信正は、このような状況を鑑みて、契約の文面「南郷御供米切出注文」にその旨を入れ、やむを得ない時の布石を打っていたのだと思います。

大洪水で付近に流れ着いた地蔵尊

一方で、榎並庄に目を向けます。もし洪水があったとすれば、低湿地であった榎並にも被害が出ていた可能性は多分にあり、赤川寺も被害を受けていたのでしょう。
 このような状況から、池田信正と大金剛院(赤川寺)の接点ですが、今のところは直接的な資料に出会っていませんが、やはり、信正の舅であった三好政長の接点によるところではないかと思われます。また、大金剛院に「大般若経典」がある事は、当時から著名だったのではないでしょうか。

これらの要素を整理すると、信正の天文16年当時の状況、その領内にあった久安寺という大寺院、信正と三好政長の関係とその居住地であった、天文13年の大規模な洪水などという接点が、全て作用して、実現した出来事だったと、今は大まかな流れのみを推測するに留まります。
 天文13年の洪水で被災した赤川寺にあった「大般若経典」を、信正が、大切な経典でもあるために、救済的な目的で避難させ、久安寺に寄進したという想定もできるのかもしれません

今後の何かの手がかりになればと期待して、この記事を終えたいと思います。


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2023年5月6日土曜日

大坂本願寺五十一支城の一つ、伝葱生(なぎ)城について

全く偶然の出会いでした。大阪市旭区にある、城北公園は、市バスの行き先として名前を聞いたのですが、一度も訪ねたことが無かったので、今回初めて訪ねました。初めは、千林の商店街をウロウロし、その内に、京街道を辿って淀川へ。淀川の堤防道をのんびり歩いて、城北公園へ向かいました。その帰り道、お寺がありましたので、ちょっと寄ってみました。

指月山常宣寺です。付近に一石五輪塔があり、古い寺だと思いました。そうすると、案内板があり、この付近は葱生(なぎ)城があったと伝わる場所との事。元亀天正の乱で、織田信長方に対抗した大坂本願寺五十一支城の一つとされてます。五十一支城の事は知っていましたが、あまり熱心に関心を持たなかったので、この付近にもあった城のことは知りませんでした。驚きました。

その出会いがあり、これを機に、葱生城の事を少し調べて、資料を提示しておきたいと思います。いつもの手法で進めたいと思います。先ずは、日本城郭大系です。
※日本城郭大系12-P188

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◎葱生城(大阪市旭区大宮)
葱生は荒生とも書く。『東成郡誌』に「大字荒生の東方に古城址ありありと伝ふ」とあるが、築城者・築城年・正確な位置などいずれも不明である。石山合戦における本願寺の支城五十一の一つであろうか。『日本城各全集』では、大字「荒生」の東に続く大字「中」のもう一つ東隣の大字「江野」に含まれていた字「殿屋敷」を葱生城跡に比定しているが、確定はむずかしい。
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続いて、日本城各全集です。
※日本城各全集9-P130

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◎葱生城(大阪市旭区大宮)
荒生城とも書く。砦のあったと思われる場所は、明治42年頃までは、淀川左岸の堤下に沿った所にあった。明治18年、上流の枚方では堤防が決壊して、大阪市内をはじめ河内、摂津に大きな被害をもたらしたので、淀川の改修工事が行われるようになった。その際に川床が北に付け替えられて、現在の流れになったのである。だから付近一帯は、昔の面影が全然認められないのである。
 『東成郡誌』『旭区史』によると「葱生の東方に古城址あり」というのみで、築城者・築城年代については何らの記載もなく、不明であった。最近になり、旧家所蔵の古地図の発見により、砦のあったと思われる場所を確認するに至ったのである。
 その昔、葱生は、榎並庄に属し、庄内には灌漑用に淀川から引き入れた洫川(いじかわ)が縦横につけられていた。この淀川と洫川とに囲まれた一角に、殿屋敷という字名のある土地が砦跡である。その西方には、北城道東、北城道西という字名の地も隣接している。また、この殿屋敷の東方は、河内国に近い関係上、河内とは深いつながりがあったことと思われる。
 殿屋敷の地は北を淀川に接し、西方と南方を洫川に囲まれた東西約200メートル、南北の最長で70メートルぐらいの面積があるので、周囲の水路を利用して、要害としたであろうと思われる。
 しかし、いつの頃より砦として利用されたかについては、現在のところ資料による究明は不可能である。ただ、想像の域でしかないが、正平24年(1369)、楠木正儀が榎並に陣した年代を上限とし、石山合戦の天正4年(1576)を下限とする期間に、砦があったことは間違い無いと思う。
 このうちいちばん可能性のあるのは、石山合戦のおりに本願寺軍が、森口、毛馬、野江などに五十一支城を築いて信長方に備えた時、この葱生の東方にも砦が設けられたのではないかという仮説である。
 この殿屋敷の地は、森口と毛馬のほぼ中間に位置し、淀川を隔ててて、江口城址、茨木城址が望見せされ、南方は野江城(榎並城址)を経て、石山本願寺が約4キロメートルの彼方にある地点である。
 このように、本願寺を守備するための前進拠点には、格好の土地であるということが第一の理由である。また、付近の農民には一向衆徒が多く、合戦の折に稲田を刈って兵糧とし、本願寺に供している。その後、毎年、本願寺よりこぶし大の餅600個を、末寺を通じて信徒に交付している事実より推して、近在の農民信徒も、葱生城に楯籠もったのではないかと思われるのが第二の理由である。
 以上の他に、歴史に名の残る武将が築城したり、入城しておれば、当然なんらかの史料が残るものであるという理由からでもある。
 現在、淀川は殿屋敷のはるか北を流れ、周囲の洫川も全部埋められている。古地図に見られた数条のの道路だけが断片的に痕跡をとどめ、わずかに砦跡を確認する生きた資料となっている。殿屋敷の現状は住宅が密集しており、その付近の住民は数百年前の歴史が、地下で無言の内に見守っているとは知らずに、平和な生活を送っている。
 砦跡のあった殿屋敷の地は、大宮幼稚園の南側の一画であることを付記しておく。
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『日本城各全集』によると、城と関係の深いとされる殿屋敷の地は、葱生城のあったとされる「常宣寺」からは、東南方向へ800メートル程離れています。
 そして、大阪府の地名です。
※大阪府の地名1-P610

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庄園分布図(吉川弘文館)
◎荒生村(なぎう):旭区生江1-3丁目、鷹殿1-2丁目、都島区御幸町1-2丁目、高倉町1-2丁目
平安時代以降榎並庄を形成した村で、西は赤川村、北は淀川に臨む。淀川対岸の西成郡三番村(現淀川区)へ荒生渡がある。集落は村域北部に集中するが、慶長10年(1605)の摂津国絵図は淀川沿いに「ナキフの内」と記す小集落を載せ、「摂津志」にも属邑一とある。これは字池川(いけがわ)のことであろう(大阪府全志)。村名は本来、葱生(宝暦3年摂州住吉東生西成三郡地図)または、■生(寛永-正保期摂津国高帳)と表記するのが正しいが、「葱」の俗字である「■」を「荒」に誤記、定着して一般的な表記となったと考えられる。「摂陽群談」には「薙生(なぎう)」とみえる。また元禄郷帳なども荒生を「なぎう」と読ませているが、のちに「なぎ」と略称されるようになった(「地名索引」内務省地理局編)。いずれにせよ当地が古くから葱の産地であった(摂津志・古今要覧稿)ことによる名であろう。
 元和初年の摂津一国高御改帳に「なきう村」とみえ、大坂藩松平忠明領で高488石余。同藩領であったのは元和元年(1615)から5年まで、その後幕府領となり、幕末には大坂城代領(役知)。享保20年(1735)摂河泉石高帳は2石余の流作を記すが、江戸時代を通じて村高の大きな変化はない。名産には葱の他に越瓜(あさうり)があった(享保8年摂州榎並河内八個両莊之地図)。出潮引汐奸賊聞集記(大阪市立博物館蔵)によると、天保8年(1837)の大塩の乱の時、大塩平八郎から施行を受け、天満(現北区)に火災があれば駆けつける約束をした当村の住人忠七ら8名は、天満への途中で変を知り遁走している。村の東方には城跡があったと伝え、石山合戦における本願寺(跡地は現東区)の端城五一ヵ所の一つとも考えられるが城名を含め詳細は不詳。字小反田の糸桜山蓮生寺は浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来像に「摂津国欠郡榎並莊葱生」の墨書銘がある。字池川の指月山常宣も寺同派。
※■ = 草冠に忩
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摂津国榎並庄について、見てみます。中世時代の項目を抜粋します。
※大阪府の地名1-P609(旭区)

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【中世】
榎並庄は鎌倉時代末頃には近衛家の支配が衰退して奈良春日領となり、十五世紀後半には上庄の半分と下庄東方・同西方が京都北野社領となった。鎌倉時代から南北朝時代頃、当区には赤川村に赤川(せきせん)寺(大金剛院)、般若寺村に般若寺という大寺院があったが、いずれも洪水や戦乱によって消滅したと伝える。第二次世界大戦後、新淀川の河床から鎌倉時代の遺物が出土、大金剛院のものと推定されるが、現在は赤川廃寺跡として市の埋蔵文化財包蔵地に指定されている。現兵庫県川西市の満願寺には、赤川村大金剛院の住持覚賢が元仁2年(1225)から6年間かかって書写した大般若経六〇〇巻が残る。同教の寛喜2年(1230)の奥書には、赤川村は西成郡とされており、一説に当区西部はもと西成郡北中島に属したが、淀川の水脈変化により東成郡となったともいわれる。しかし淀川の流路については不明な点が多く、また東成郡・西成郡の混用例も少なくないので、赤川付近が西成であったと断定できる証拠はまだない。文明年間(1469-87)蓮如の教化により当地方にも真宗が浸透したと考えられ、元亀-天正年間(1570-92)織田信長と石山本願寺(跡地は現中央区)の合戦では荒生(なぎう)村・江野村に本願寺の端城の一つが置かれたと伝える。

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この地域にあった大寺院が気になります。赤川村の伝大金剛院についてです。
※大阪府の地名1-P610

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◎赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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これらの要素は、全て摂津国榎並庄内にあります。榎並庄は、現大阪市城東区野江・関目付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低湿地に存在した大規模な庄園でした。近世には淀川南東、鯰江川以北の摂州25村を榎並庄と称していて、現旭区・都島区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたり、野江村の水神社付近には、中世榎並城がありました。馬場村(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目されています。
 この榎並庄は、摂津池田家と姻戚関係にある三好政長(入道宗三)の支配領域でしたので、非常に関係の深い所で、重要な場所です。榎並庄と榎並城については、また別の記事に詳しく取り上げたいと思います。それからまた、この地域は、摂津・河内の国境でもあり、非常に敏感な場所でもあります。

三好政長は、池田家惣領信正の義理の父にあたりますが、この政長という人物は非常に欲深く、この縁をたどって、富裕であった摂津池田家の財産を我が物にしようと画策し、この個人の欲望が中央政権をも揺るがす程に影響を与えます。
 この不正が元で、政長は失脚し、また、管領細川晴元政権が転覆するほどの信用問題となりますが、そんな事には構わず、政長の跡継ぎである政勝もその方針を引き継ぎ、とことん池田家の財産にコダワリ続けます。

結局それは、実力を伴わず、願望の範囲に収束していき、時代は流れて、摂津池田家から頭角を顕した荒木村重が、事実上の摂津国一職を担うようになり、無効化していきます。

しかし、その三好政長一党の凄まじい執念を見るにつけ、人間の性(さが)の一端を見たように思います。その視点からの歴史も、現代を生きる私達の教訓たり得る事実として、非常に興味深い所があります。

その後、この三好一任斎為三の一党は、関ヶ原合戦を経て江戸幕府の旗本ととして、家を繋ぎます。三好家は、讃良郡南野、河内郡横小路(現東大阪市)、錦部郡小山田、高田(現富田林市)の四か村など、二千二十石余りの禄を得ていました。三好家は江戸在府のため、代官を派遣して領知を支配しました。その代官所跡の一つが、雁屋(現四條畷市)の公民館南側の民有地でした。何らかの由緒を提示して得られた領知なのかもしれません。