2012年1月5日木曜日

宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城


河内国飯盛山城に三好長慶が拠点を置いた頃、同国讃良郡内に三箇城が重要な役割を持って存在していました。

三箇城は深野池の中にある島にありました。島は主要な3つをもって名付けられ、三箇とよばれるようになったともされています。
 この付近の荘園の関係もあって、それらは九個荘や大箇、十七ヶ所などとついた地名が多くあり、どことなく異国的なネーミングのように思える三箇もそういった流れの地名のようです。

また、この三箇には、三箇伯耆守頼照(サンチョ)という有力武将が居り、活躍しています。頼照はキリシタンで、サンチョという洗礼名を持ち、この方面でも中心的役割を果たしたようです。宣教師ルイス・フロイスの記述にも頻出しています。
 ちなみに元亀2年8月28日の白井河原合戦の折、ルイス・フロイスは飯盛山城に居り、そこから高槻方面で多数の銃声音を聞き、火災を見たと書き残しています。

さて、三箇の城跡なのですが、この場所が今も特定できていません。深野池は江戸時代の大和川付け替えによって、環境が大きく変わってしまい、どこからどこまでが島だったのか。また、その島のどこに城があったのかなど、不明なところが多くあります。

ただ、江戸時代の領地境界を記した地図では、「三箇村地」として あるところを見ると、干拓が行なわれた後も所有権は三箇村民のものとして存在していた事がわかります。
 やはりその場所は3カ所あり、一番大きな三箇村地が今のJR住道駅周辺となっており、この辺りに城があった可能性もあります。

深野池は交通・漁労・水源など、重要な場所であり、もちろん、拠点飯盛山城の防衛システムを構成する要所でもあって、これが特定できれば、地域史にとって大きな前進となることでしょう。

大きな事は、今ここで直ぐに実現はできませんが、そういった事も願いつつ三箇城についてまた調べていきたいと最近気になっています。




2011年11月15日火曜日

白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

結果を構成する要素というか、出来事の背景を見る事は、非常に重要だと思いますし、それがいわゆる「歴史科学」だと思います。
 本来、「武力」と「政治」は共に存在し、どちらが上とか下とか、先とか後ではなく、それらに宿る権力は表裏一体であり、あたりまえの構成要素です。
 太平洋戦争後に敗戦国となった日本は、元来の自主権を喪失し、厳しい監視下に置かれる事で「武力」を手放す事となり、今ではその概念が政治の中で極小化してしまった、特異な政治環境となっています。ですので、現代から一般的概念として軍事と政治が一体だった時代を見る時、そのあたりの事情もしっかりと意識する必要があります。

しかし、地球上の大多数の国々は、武力が政治の一部であり続けています。それがために、戦国時代に日本人が経験した苦しみを、平成の世となった今でも堪え続けている国が多くあります。一方で、日本はある意味、別の苦しみの途中なのかもしれません。

永禄11年10月の将軍義昭政権樹立以降、義昭は将軍として誰もが認める存在であったかのように理解(解釈)される向きもありますが、実際に、当時の社会的認識は非常に不安定な状況であった事が解ります。
 義昭が将軍となる直前は、三好三人衆が推す阿波国内にあった足利家(阿波公方家)の義栄が、正式な将軍でした。しかし、その政権も半年程で、義昭を奉じる織田信長に遂われてしまい、その座を明け渡します。
 この両勢力は、そのまま朝廷内にも相似構図を作りだし、当時の中央政権に対する立場や利益をそのまま反映していました。
 政権中枢に就く側も遂われる側も、共に余念無く派閥形成に励み、権力を奪い合います。そして両勢力は利益を糾合できるような社会的身分の高い、名の通りの良い人物を味方に付けようとします。それは、永年熾烈な争いを続けた相手であっても、一時的であれ一致できる利益が目前に見えた時には、妥協もできる程でした。

永禄11年秋以降、中央政権から遂われた三好三人衆は、再度京都への返り咲きを目指して環境作りを進めていました。その事は、軍事的優位に立つ事も重要な要素です。なぜなら、話し合いでは折り合いがつかないからです。権力の発動も絶対的でない場合もあります。

さて、中央政権与党であった将軍義昭と織田信長の視点からは、様々な書物で記されている通り、皆さんのよく知っている歴史となっていますが、中央政権復帰を目指す三好三人衆と関係権力はどんな動きをしていたのかという点では、あまり知られていないように思いますので、そちら側からの視点で、動きを捉えてみたいと思います。また、京都を中心とする五畿内地域の有力勢力や伝統的権威は、どのように中央権力闘争を見ていたのかを考察してみたいと思います。

永禄11年9月、足利義昭を奉じて京都を軍事制圧しようとする織田信長勢に、身の危険を感じた三好三人衆方公卿や幕府要人は京都を離れます。間もなく将軍義昭政権へ帰参した人物もありましたが、そうでない人物は各地に潜伏して、反幕府方としての行動を続けます。遂われた側は、それが奪われた知行の回復など、利益に直結してもいたからです。
 それらの人々は反幕府としての勢力となり、その力を京都へ向けるように策を巡らせていました。阿波国足利家、管領継承者細川六郎(昭元)、公卿近衛前久、同烏丸光康、同高倉永相父子、同水無瀬親氏、また、本願寺宗当主の光佐、比叡山・石清水神宮寺など伝統的な宗門、堺・尼崎などの重要港湾の商工町衆などが、反幕府的行動を取っています。

斎藤夏来氏による、興味深い研究『織豊期の公帖発給権 -五山法度第四条の背景と機能-』があります。
 永禄11年6月と元亀元年7月の2度にわたり、京都相国寺住持に補任されている江春瑞超は、その時点で開封披露する入寺式を行わず、元亀2年になって相国寺に入って、公帖を開封披露しているようです。

これは非常に興味深い事です。

公帖とは台帖・公文などとも呼ばれるもので、これは室町幕府足利将軍から与えられる文書です。これによって、禅宗官寺の住持に補任されて出世する叢林長老は、諸山・十刹・五山の住持を歴任し、最終的には南禅寺住持に補任されて、紫衣着用を許される存在だったようです。
 ただし、室町中期以降は、各地の諸山・十刹寺院は多くが廃壊し、名目的補任がなされる場合もあったようですが、南禅寺住持を頂点とする権威は機能していたようで、これが将軍からの公認を受ける事と与える事の格式をも維持させていたようです。
 そういう意味のある公帖を、江春瑞超なる人物は、第14代将軍義栄から永禄11年7月に受けていますが、その開封披露をすぐに行わず、その実力を見極める態度を取っています。興味深いのは、義昭は永禄11年10月に正式な将軍となっているにも関わらず、義昭が公帖を発行したのは元亀元年7月です。そして、江春瑞超はその時点でも将軍の実力を見極めるかのように、公帖の開封披露を見送っています。

そしてまた、雲岫永俊なる人物は、将軍義栄(この時は実際には将軍ではないが、将軍と目される状態ではあった)時代の永禄10年10月付けで、景徳寺・真如寺住持となっています。そして、後の将軍義昭時代の元亀3年11月付けで、再度両寺の住持となっていますが、その折、義昭は永禄10年10月付けで義栄が発行した文書(御判)を破棄して、その立場を誇示しており、ある意味これはその時の政治的なターニングポイントである事を表しているといえます。

それからもう一つ、将軍義昭の信用度の社会的認識を示す要素を考えてみます。

足利義昭が奈良を脱出し、近江国から若狭国を経て越前国朝倉領内に入り、遂に一乗谷へ至った頃の事です。
 義昭は決して優遇されたわけではありません。越前国の玄関口敦賀郡で長期に渡って足止めされ、やっと一乗谷へ迎えられるかと思えば、その外側にある寺地に起居させられ、朝倉家のために一働きさせられています。義昭もこの事で、朝倉氏の憂いを断ち、上洛へ向けた環境作りになると考えていたのでしょう。
 そしてそれは、義昭が永年僧侶であったため、朝倉氏にとって有益かどうか吟味されたのでしょう。天正元年11月以降の毛利氏との状況と全く同じです。
義昭は、朝倉氏と敵対していた加賀国の一向衆との和睦調停を見事に実現し、それが認められて、やっと朝倉氏の本拠である一乗谷朝倉邸への「御成り」となります。
 しかし、その後も朝倉氏は、義昭の望みに積極的に応じようとはせず、間もなく義昭とは物別れとなります。個人的にはこの事が、義昭の朝倉氏に対する遺恨となったのだろうと考えています。朝倉氏は、自分の都合だけを義昭に要求し、義昭の願いは全く聞かなかったからです。
 一方の朝倉氏の当主義景は、将軍義輝の不慮の死に、はじめは同情的なところがあったものの、ただ前将軍と血のつながりがあるだけの僧侶に、どれ程の実力があるのか、疑問視していたのでしょう。何の肩書きも、実績もない義昭に。また、武士としての教育も受けておらず、帝王学も身につけていません。

もう一人、公卿の近衛前久の動きも見ておきましょう。

橋本政宣氏の研究によると、公家衆の代表的存在である五摂家の筆頭近衛家当主前久(さきひさ)は、永禄11年から天正3年まで、7年間の京都出奔の際には、反幕府(反将軍義昭)戦線の一環として三好三人衆・大坂本願寺・越前国朝倉義景・近江国六角承禎・浅井長政・若狭国武田氏と交渉を持って、活動しました。
 前久は始め、大坂の本願寺に、次に丹波国赤井氏に寄寓していたようです。中でも元亀2年までの近衛前久の動きを見てみると、興味深いです。
永禄11年11月頃、前久は大坂本願寺に入り、保護を受けています。前久は早速、反幕府方として動いていたようです。当然、本願寺方との連絡や意志疎通もあった事と思います。
 翌年1月11日条の『二條宴乗記』に、前久の事が記されています。三好三人衆方の京都本圀寺襲撃事件に、石清水八幡宮寺が加担していた事について、前久も関係していた事が記されています。
 同年2〜3月にかけて、幕府方織田信長は、三好三人衆方に加担した堺・尼崎・兵庫の環瀬戸内海の都市(京都との関連都市)へ武力行使を行い、屈服(完全ではないが)させます。
 また、同年4月には、織田信長の命令で、山城国普賢寺衆の今中・上松・大西・田辺などが誅殺されています。この地域は、近衛家領でもあった事から三好三人衆方に加担する動きがあったらしく、信長はそれを制したようです。
 それからしばらく、今のところの私の知る限りでは前久の活動が史料に見られないのですが、元亀元年8月になって前久が、薩摩国の島津貴久へ音信しています。その中で、近江国南北(六角承禎・浅井長政)・越前国朝倉氏・四国衆(三好三人衆)が一味せしめ、近日自分も出張すると、伝えています。
 薩摩国内に近衛家の所領があったり、薩摩隼人ゆかりの山城国綴喜郡田辺と近衛氏が古くから関係があるなどで、両家は懇意にしていたようです。また、この頃に島津氏が所用で上洛する予定などがあって、両者は頻繁に連絡を取り合っていました。
 その中の近況として、京都周辺の情勢も記されています。それらの音信からは、近衛前久が反幕府勢力を束ねる「要」的な動きをしている事もわかります。

更にもう一人。

管領細川晴元の嫡子で正統な継承者である六郎昭元の動きも最後に見ておきたいと思います。正確にはこの時点で昭元ではありませんが、便宜上、昭元で統一的に記します。
 管領は中央政権の中枢を担う要職ですが、この昭元は、三好三人衆権力の中でも重要な位置づけでした。三好三人衆は、永禄11年秋に京都を落ちる時にも昭元をしっかりと保護し、手放しませんでした。昭元も初期段階ではその持てる権威で、三好三人衆の京都復帰を応援し、支えていました。
 永禄12年3月20日(年記は個人推定)、昭元は早速、丹波国人赤井直正に音信しています。その数日後の23日付けで、同じく直正に宛てて丹波国人らしき内藤貞虎が音信し、三好三人衆などの動きを伝え、今後の予定も伝えています。
 更に同年閏5月7日(年記は個人推定)、再び昭元が直正に音信し、出陣について手はずを整えて、油断の無いように、などと伝えています。
 この頃三好三人衆勢は、淡路国にあって五畿内方面を窺っていたようです。また、和泉国方面でもその一団が活動し、幕府方は気を緩める事ができない状態でした。
 こういった要素を細かく見ると大変な文字数になってしまいますので割愛しますが、三好三人衆勢は元亀3年の夏頃までは、五畿内地域での求心力を保ち得て、幕府方に対し、優位に立つ場面が何度もありましたが、結局求心力の中心軸がずれてしまい、局地勢力となってしまいました。
 元亀元年4月の越前国朝倉氏攻めと、いわゆる姉川の合戦においては幕府方が勝利したものの、同年9月の大坂本願寺の幕府(政権)離脱で、幕府方は一気に軍事的形勢は不利となります。
その流れに乗ろうと、三好三人衆は昭元を始め、阿波守護家筋の細川讃岐守真之や三好宗家の筋目に最も近い人物で、阿波国の実質的な統治者である三好長治も出陣させ、五畿内地域へ政治的な権力誇示を行います。
 私戦では無く、より広い人々のための利益、すなわち広義の意味合いを行動に帯びさせるためには、それを集約・象徴できる人物が必要となります。
 三好三人衆方にとってその一人が昭元であったわけです。また、元亀2年の初冬、より広域の勢力を糾合するため、また、束ねるためにも、旧誼でもあった反幕府的志向性の強い近衛前久とのつながりを、改めて強くする事を企図して、三好三人衆方は3,000石の知行も直接的に献じます。
 前久は大坂本願寺に起居し、三好宗家の嫡流筋は本国阿波を固め、昭元は多地域(管領家は代々丹波国に縁故地を持っていましたので、拠点は丹波だったのかもしれません)に広く対応し、更に、三好宗家の跡継ぎが元亀2年3月頃から三好三人衆方に復帰後、河内国北・中部を固め、これと共に松永久秀・久通父子も大和国北・中部に権力を保ちました。

こういった人々が、一団を形成していくのですが、それはその地域への保証の維持でもあり、同時に保護や利益確保の名目で武力を行使する理由ともなりました。そういった利益の確定が、軍事力をともなって地域社会の成立構図を再編していくのですが、それが三好三人衆方に有利に働いていたのは、元亀2年9月の比叡山焼き討ち頃までで、それ以降は、徐々に中心線というか、中央政権の争奪における権力の対する焦点が変わっていきます。
 また、軍事的には幕府・織田信長方に対して三好三人衆方優位でしたが、三好三人衆方の勢力に綻びが見られるようになり、三好三人衆に最も近い一族からも脱落者を出すようにもなります。反幕府方の「核」でもある三好三人衆の体制が崩壊する事態に陥りました。更に、連合諸勢力の協調が崩れてしまいます。

しかし、この権威保持の志向性は、対する幕府方とて同じで、政権を安定させるには必須条件でした。

さて、こういう要素を見ると、京都やその周辺では、元亀2年頃まで、将軍義昭が正式な幕府としての中心的地位にはあるけれども、各界の重要人物にはその永続性について、非常に不安視されていた事もわかります。






2011年10月8日土曜日

白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方である摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。
 この戦いに至るには、その前段階があります。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこに至るまでの環境を確認したいと思います。

白井河原合戦をとり囲む、その外側の環境も俯瞰しておきましょう。

元亀元年(1570)12月も暮れ近くになって、幕府方であり官軍の総大将でもある織田信長が軍事的劣勢となり、三好三人衆を始め、越前国守護朝倉氏・京極氏被官浅井氏・六角氏・本願寺宗と一旦和睦を結びます。
 しかし、正月を過ぎると、すぐに信長は戦端を開きます。近江国の中東部、東海道の通路を開くため、早速、信長は動きます。浅井氏被官の磯野貞昌を味方に引き入れるなどします。
 1月28日、三好三人衆方の本願寺光佐は、これらの不穏な動きに早速反応し、諸門徒に檄文を発して、信長に対するよう要請します。そしてこの頃にはもう既に三好三人衆が、五畿内で行動を起こしていました。
 3月5日、三好山城守康長被官木村宗治が、松永久秀を訪ねて、三好方に復帰するよう促しているようです。続いて同月22日、河内国若江城に居た松永久秀・三好義継を同じく木村宗治が訪ねています。これは調略です。
 5月になる頃には三好三人衆方が攻勢を強めて、再び各地で火の手が上がり始めます。
 そして、それに更なる拍車をかけたのは、中国地方の巨頭毛利元就の死去です。これを知った近隣の諸大名は、協同して毛利領内へ攻め入ります。三好三人衆・浦上宗景・尼子・大友などが毛利領境を積極的に侵すようになります。この頃、毛利氏は幕府に積極的に加担する大きな勢力でもあり、決して余裕があるわけではない幕府でしたが、共存のためにも毛利家を援助しなければならなくなりました。
 状況を俯瞰すると、この環境でより京都に近く、中央政治における為政者としての実績を持っていたのは三好三人衆で、京都奪還を目指したその行動は、反幕府(将軍義昭)諸勢力への求心性も発揮していました。三好三人衆は京都の周縁部、近江・丹波・若狭・越前諸国勢力と直接的に連携できる関係にもありました。そしてこれに本願寺宗という宗教的つながりも持ち合わせています。

 五畿内の中の摂津地域という部分で見た場合には、多少劣勢にも見えますが、このように三好三人衆方に復帰した摂津国池田家を取り巻く環境は、大局的には決して悲観する状況ではありませんでした。
 一方、本願寺光佐の嫡子と朝倉義景の娘との婚姻の話しが進められ、同盟勢力同士の結びつきを強める動きや、7月に近江国守護の六角承禎が近江国内で挙兵して、浅井氏と連携した動きを強めます。更に、備前国の大名浦上氏は、播磨国へも兵を進め、自らの境界を拡大しようとするかたわら、幕府方勢力の牽制も行いました。
 これがために幕府方摂津守護の伊丹氏は、本拠地の伊丹から思う通りに動く事ができなくなったようです。また、伊丹氏は本拠の南、尼崎方面へも三好三人衆方淡路衆や本願寺方勢力のために、警戒せざるを得なくなります。
 それから三好三人衆は、権力の取り込みも積極的に行っています。将軍義昭と敵対関係にあった公卿近衛前久に接近し、また、前久自身も利害関係の一致から、積極的に三好三人衆方の政治的な動きを支えていました。更に三好三人衆は、正式な管領継承権を持つ細川昭元をも抱え、昭元自身も積極的に三好三人衆の政治的動きを支えていました。

近畿からは遠い大友・尼子・河野氏などの動きについては、まだ私の調べが及ばず、不明な事が多いので記しませんが、三好三人衆の影響力の強い、特に近畿に影響のあった大名を見てみます。

備前・美作国などを勢力圏としていた大名浦上宗景は、元々播磨国守護家の守護代的立場で(時代により離れたりすり寄ったりですが)、その縁でこの時は、置塩城の守護家筋の赤松氏についていました。
 そしてその間に挟まれた龍野の赤松氏は、それと敵対し、幕府方についていました。
 浦上氏は三好三人衆方と同盟し、毛利方に対する備えと東への攻勢に、自ら持てる資力を注ぎました。浦上氏は龍野の赤松氏を圧迫し、その領域を自らのものにすべく企みながら、行動します。これは、播磨国東端の別所氏にとっても脅威となります。
 そしてその別所氏は、龍野赤松氏・毛利氏と同盟し、自領の西側を牽制しようとし、そして更に幕府と結んでいました。ちなみに別所氏は、この数年前には三好三人衆方の有力勢力でした。
 これに対し、三好三人衆方は瀬戸内海東側の制海権を優位に保ち、更に本願寺とも連合して、幕府方勢力を圧迫します。特に三好三人衆勢は、海を渡って自在に背後へ廻り込んだり、同盟勢力に加勢を行えます。
 どちらかというと、この方面では、やはり幕府方が不利、幕府方勢力は、積極的には動けない状況であったようです。瀬戸内海も多くの海域で三好三人衆方勢力が有利だったと考えられます。
 幕府方の播磨国東部の勢力が、東へ動けない状況の中、三好三人衆方池田家は、京都を目指して動く事が可能となっていたのです。三好三人衆勢力全体から「駒」的要素を見ると、「本能寺の変」の明智光秀のように、京都を目指す事が可能な自由な「駒」と、それが可能な周辺環境が出来上がっていました。もしかすると三好三人衆勢力は、総合的な計画を立て、役割分担していた可能性もあります。
 池田衆は、その任を勤めるべく役割りを任され、また、それに足る実力を持っていたように思えます。

さて、五畿内に近寄りつつ、更に周辺状況を見れば、丹波国内も幕府方と三好三人衆方とに入り乱れた膠着状態で、波多野・赤井に、松永久秀の血族である内藤氏などがありました。幕府方に近い丹後国守護の一色氏は、三好三人衆方の朝倉氏に加担する武田氏と対峙し、更には地理上、近江国からも侵入を受けた場合の用意も必要でした。
 そして、その近江国北西部は三好三人衆方朝倉・浅井氏が優勢で、東南部も旧守護勢力である三好方六角氏が挙兵して、あなどれない数を有していました。
 将軍が在京してはいても、このように、それを取り巻く状況は、非常に不安定なものでした。更に、三好三人衆方に加担する、公卿近衛前久や五山といわれる伝統的権威を持つ宗教や時宗勢力にも幕府を信用しない勢力(傾向)がありました。

この状況に対し、織田信長は武力と共に政治・外交にも力を入れていました。
 三好三人衆方に協力し、一時は将軍義昭方から迫害されていた公卿烏丸光康に、知行を与える(回復)などして扶持をつけると共に、その領地を京都周縁部に設け、守りの布石の要素とします。その他、幕府内の要人などへの対応も次々と行い、人の楯を作って京都を守ろうとします。

織田信長は同時に武力も強行し、心理的な圧力・喧伝の策ともし、政権の意思力を内外に誇示します。有名な「比叡山焼き討ち」です。比叡山は当時、京都鎮護の重要な場所とそれを司る宗教組織でしたが、信長はこれに武力行使を行います。
 これ以前の永禄12年春、同じく南の京都鎮護として崇められる石清水八幡に対して信長は、三好三人衆を匿ったとして、武力行使を行っています。その他、尼崎などでも大きな宗教組織や町衆組織も同じく、交渉が決裂すると、ためらわず武力行使を敢行しています。ですので、「タブー」に手をつける信長のイメージは比叡山のみではありません。
 また信長は、決して準備の整わない行動はせず、越前朝倉征伐の折、正式に朝廷から許しを得た「官軍」の社会的大儀を維持し、更に同年暮の和睦も、朝廷との関係を保ちながら行うという、政治的後ろ盾も保持していたからこそ可能だった「比叡山焼き討ち」だったのです。
 「比叡山といえども官軍(朝廷)に弓を引く者は、信長が代って成敗する」という状況だったのでしょう。戦の勝ち負けは、今も昔も変わらず、公的意味合いが大きい程、有利といえます。更に、その公的意味合いを継続させる努力も重要です。組織的にも、その外側の社会にも。

京都を囲む軍事情勢は、元亀2年の冬頃まで幕府方が劣勢でしたが、9月のこの「比叡山焼き討ち」を境に同方面では、三好三人衆方との形勢が徐々に逆転し始めます。

しかし、白井河原合戦の行われた頃は、幕府方が劣勢の中で人員をやり繰りする厳しい状況で、京都を維持すべく苦闘していました。和田惟政はそんな中で、池田衆と決戦に挑まなければならなかったのです。






2011年9月10日土曜日

白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。


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2011年9月7日水曜日

白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。






2011年9月3日土曜日

郷土史を勉強して見えてきた現代の日本

郷土史という人間の歴史を勉強して、見えてきた今の日本社会があるのですが、皆さんが思うように、やっぱり私も将来が不安です。
 私が勉強している摂津池田家も地域権力として滅んだ一族ですが、権力の統合過程で、同じように滅んでしまった家も無数にあります。最近は織田信長とか豊臣・徳川などの権力構造研究が学会でも盛んに行われるようになって、少しずつ解き明かされつつあり興味深く読んでいます。
 しかし、権力になじめず、不合理に滅びた勢力もあるのかも知れませんが、その多くは滅びる理由がありました。池田家もそうです。

 私は、今も昔も変わらない、不変の真理があるように思います。それは、権利とお金の問題を調節できなくなった政治主体は斃れ、滅びるという事です。それが家であれ、何であれ、その集団は内紛や戦争という感情に頼る手段に訴えるしかなくなり、最後には尽きてしまいます。

「追跡!AtoZ 動画 「過熱する日本人技術者争奪戦」」←もし宜しければ、このワードを検索して、動画をご覧下さい。表示されたページの中ほどに動画が表示されています。何度も繰り返す大企業の主導者たちの体たらくに、怒りを覚える一つの事実です。
※現在は平成23年9月3日です。あまり時間が経つとリンクが切れるかもしれません。お早めに。

2011年8月28日日曜日

元亀2年の白井河原合戦について


今から440年前、元亀2年(1571)8月28日、白井河原にて三好三人衆方に加担する池田衆と幕府方摂津守護職であった和田伊賀守惟政勢とで、大きな合戦がありました。場所は現在の茨木市中河原町一帯で、茨木川と勝尾寺川の合流するあたりだったと伝わります。また、当時のこの戦争の呼び名は「白井河原合戦」というものではなかったようで、後世に書かれた家伝『陰徳太平記』などの記述によって定着したようです。その当時の史料には「郡山」などとかろうじて記される程度です。宣教師ルイスフロイスの耶蘇会への報告書や後の編書『日本史』にも「白井河原」という記述は登場しません。
とはいえ、現在では「白井河原合戦」とした方が通りがいいので、便宜上、それで統一します。
それから、この当時の年月基準は、陰暦ですので、今とは少し季節が違います。毎年、2月上旬頃に旧正月がありますが、そのくらい時期がずれています。ですので、和暦の8月28日といっても、現在の太陽暦に相対させると10月上旬頃になるでしょうか。もう秋で、収穫の時期です。

この白井河原合戦は、この決戦時期も重要です。米の収穫時期に、境界争いを起こしているわけですから、米の収奪も視野に入れた領土拡張です。当時、米はそのまま社会的価値を持っており、銭と同じように扱われていました。
詳しくはまた、取り上げてみたいと思いますが、とりあえず、追々とこのブログでご紹介して行きたいと思います。

この合戦に至る迄に、池田方と和田方に闘争が繰り返されていました。池田家は、幕府の要として摂津守護を任されていましたが、この前年6月、家中の内訌により、家政の方針が転換されて、元の主筋である阿波・讃岐・淡路を束ねる三好三人衆方に加担する勢力となっていました。
 対して、和田惟政は将軍義昭の側近であり、また、摂津守護職を任される幕府の重要人物で、京都に近い摂津国嶋上郡を任される勢力でした。
この当時、摂津国内には守護が3人居り、曖昧な境界の中で、それぞれが分割統治する状況にありました。ですので、争いの火種は元々あったとも言えるのかもしれません。


白井河原合戦当日の8月28日に至るまでに、池田領との境近くに、2つの城を築いた事から、一気に決戦の機運が先鋭化されたようです。
高山右近の父飛騨守などは、父子共にその前線に入って守備していたようです。
 また、『日本史』の記述にあるその砦の場所ですが、その一つは萱野(現箕面市萱野)かもしれません。三好三人衆方の池田家に与する土豪で、萱野長門守某などの名が見られ、他にもその附近の地名を持つ粟生や安威などの名も見られます。こういった土豪が、自分達の権利を守るためもあり、池田家へ与力して和田方に対抗していたのでしょう。

白井河原での合戦に至ったのは、池田方が和田方と決戦を行い、境界争いなどを含めて雌雄を一気に解決する一方で、三好三人衆方の京都入りを視野に入れた東進も意図していたのではないかと思われます。

池田衆は3,000の兵を出陣させ、それらを3つに分けて行動させており、白井河原の決戦では計策を実行します。和田惟政は和田方領内に向けた池田勢の動きを知り、惟政は急遽200程の手勢を率いて高槻城を出陣。間もなく、息子の惟長が後詰めのため500程の兵を用意して出陣しました。和田方は砦の勢力等を入れて1,000程。しかし、和田惟政率いる正面は200程であったようです。本来はもっと多くの軍事動員が可能でしたが、とりあえず用意できる数としては、これだけだったのでしょう。それ程、急な事だったようです。
詳しくはわかりませんが、惟政には何か考えがあってか、また、機転を利かせて無理を承知で戦闘を始めたようです。フロイスの記述では、惟政の勘違いのような事が述べられていますが、老練な社会的身分の高い武将ですし、武力が仕事の当時の武士にあって、勘違いはあまり無い様に思います。多分、何か考えがあっての行動だったと思います。

結局、この戦いで、大将である和田惟政が戦死し、主立ったその被官も多くが死に、和田家の組織維持が出来なくなる程、大敗を喫します。対する池田衆の側にも少なからず死傷者が出ていたらしい記述もありますので、相当な和田方の反撃があった事が想像できます。
 池田衆はこの決戦に勝ち、和田方の居城高槻を取り囲み、近隣の茨木城・宿久城・里城までも落としたようです。その後数ヶ月余りに渡って、高槻城の攻防が続いたようですが、幕府との和睦がまとまり、何とか本拠である高槻城の落城は免れたようです。
この白井河原合戦の勝利により、池田衆は千里丘陵を越えて嶋上郡へも領地を拡大させ、権益が大きく拡がりました。また、この合戦で、中川瀬兵衛尉清秀池田(荒木)信濃守村重が活躍し、名を世に知らしめるきっかけともなりました。

ちなみに、後世の出版物などに登場する池田勝正の跡を継いだ知正が、この池田衆を率いる総大将だったとする通説がありますが、今のところ、それを実証する当時の史料は見当たらず、池田紀伊守入道清貧斎正秀・池田勘右得門尉正村・池田(荒木)信濃守村重が、池田家中政治の実質的な主導者だったと考えられます。これらは当時の史料に見られます。


<写真(上から)>
写真1:郡山の山の城から、西国街道方面を望む
写真2:高槻カトリック教会内にある高山右近像
写真3:箕面市萱野に残る旧道
写真4:池田方の陣跡とされる、茨木市に残る馬塚(同市郡山下井町にも馬塚跡あり)
写真5:高槻市伊勢寺にある和田惟政供養塔





2011年8月10日水曜日

東大寺大仏殿の戦いに登場するマメ山とはどこ?

「東大寺大仏殿の戦い」などと呼称される永禄10年10月10日に至る、一連の奈良市街の戦いについてですが、これに池田勝正も参戦していました。この流れの中で気になるのが「マメ山」です。
Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を多聞山城の北800メートル程のところとしているのが通説になっているようです。確かにここには今も奈良豆比古神社があり、その関係でマメ山と呼ばれていたのかもしれません。
※「戦国合戦大事典」は間違いが多く、個人的にはあまり参考にしていません。

また、近鉄奈良駅のすぐ北側に奈良女子大学があって、駅からその大学までの間に大豆山町があります。どちらに池田勝正は居たのでしょうか?


近日にまた、詳しく調べたいと思いますが、私は今のところ、池田勝正が多聞山城の北側800メートルの「マメ山」なる場所に永禄10年5月時点で陣を取る事は不可能だったのではないかと考えています。その頃の状況を見ると、佐保川をはさんで一進一退で、三好三人衆方が圧倒的優位で多聞山城を囲んでいたわけではありません。
また、奈良統治の拠点で、巨額をつぎ込んで築いた松永久秀自慢の堅城であった多聞山城から僅か800メートル(8町弱)の位置に、三好三人衆方がこの時点でやすやすと進めるとは考えられません。

この一連の動きについて記録が詳しい『多聞院日記』を見ると、5月28日になって筒井順慶方の大和国民秋山衆が多聞山城へ前進を強行し、24〜25間(約45メートル)に迫ったようでした。しかし、これは佐保川をはさんでの事と思われ、距離は近いですが要害性を決定的に砕いたものではありませんでした。
 一方、勝正も多聞山城を守る天然の要害である佐保川を越える事の重要性を理解しており、5月18日に松永方の宿院城に夜襲を敢行しますが、失敗。100名程の足軽を束ねる大将の下村重介を戦死させてしまいます。宿院城は佐保川を渡らせないために強力な守りの橋頭堡でした。城は現在の奈良女子大の場所にありました。
更に、雲井坂(柚留木町付近)にも城があり、街道から多聞山城へ進む事を阻んでいました。この城から、宿院城までは北西へ600〜700メートルの距離で、地形的にもマメ山の丘陵の南東縁です。

ですので、三好三人衆勢は、この時点で佐保川を渡る事ができていない筈です。当時の佐保川は現在よりも水量が多く、「堀」としての役割を十分に持っていたようです。ですので当然、本城である多聞山城にも接近する事はできませんし、その背後に回り込む事など不可能です。
更に、松永は守りをそんなに簡単に考えていません。多聞山城から北へ1里半程の間に木津城や鹿背山城などをつくり、木津川を防衛ラインとして一体化させた防衛概念を作り上げていたようです。近年の鹿背山城の発掘調査では、非常に堅固で大型の城である事がわかっており、松永久秀の手によるものであろうと考えられています。また更に多聞山城の西側の超昇寺城や信貴山城なども相互に防衛線を構築していました。連絡と連携のための様々な工夫も施されていたと考えられます。

状況的に、三好勢は木津川を超えて北から多聞山城に近づく事はこの時点では不可能であったと考えられます。それが、可能になったのは永禄11年も夏以降になってからで、永禄10年時点では、多聞山城に近づく事は無理で、堅牢さもまだまだ十分にあった筈です。当然、勝正も多聞山城の北800メートルの位置に陣を進める事もできなかったと思われます。
ということで、永禄10年5月23日に池田勝正が陣を取ったマメ山は、宿院城の押さえとしての策だったと考えられます。そして勝正の宿所は場所的に近い西方寺だったのでしょう。それは丘陵の西端です。ここからは飯盛山城方面も目視でき、狼煙などの連絡が可能です。
そして今も「大豆山町」との地名を残す場所もありますが、当時のその状況については不明です。

写真(1):佐保川の様子
写真(2):油留木町にある「雲井阪」の碑
写真(3):木津川市の鹿背山城跡登城口にある西念寺
写真(4):崇徳寺のある大豆山町の通り

2011年6月26日日曜日

池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)

元亀元年に幕府が行った、越前朝倉討伐には、幕府勢の主力勢力ともいえる3,000の軍勢を率いて池田勝正は出陣しています。
 この時の軍勢の中には、飛鳥井・日野氏など公家もおり、禁裏公認の幕府軍として行動しています。ですので、この軍勢に対する敵対行為は、禁裏に弓を引く事と同じで、いわゆる「朝敵」となってしまいます。
 織田信長は用意周到に準備し、決して浅井長政の離反に慌てふためいていた訳でもありません。歴史の事実としては、それすらも信長は考えていて、朝倉攻めは、その確認としての行動だったと言えます。間もなく起きる「姉川の合戦」が本来想定された状況であって、朝倉攻めと一体化した行動です。
 
この越前朝倉攻めからは、様々な思惑が見えて、大変興味深い歴史です。織田信長の考え尽くされた思考は、やはり凄いです。以下、それぞれ随筆的にご紹介します。

<研究思索>
元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて
池田勝正も従軍した、元亀元年の「金ヶ崎の退き口」について考える
元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか
元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?
元亀元年の浅井氏謀叛は、織田信長に「突然」の認識があったのか
元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて
元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程
元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路
1570年(元亀元)の「金ケ崎の退き口」の池田勝正の退路

<発表テーマ:浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた->
はじめに
池田衆の実力
諸役負担、軍事負担、一部の権利返上
軍事行動の目的と池田家の役割
金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
内訌の様子とその後の勝正の動き
三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き

2011年6月15日水曜日

元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。

元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。
 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。

現在伝わっている通説である、織田信長の綱渡り的な行動としての朝倉攻めについては、やはり違和感があります。

浅井氏のどんな行動で、敵対が確定したのか...。「手紙」という方法も可能だとは思いますが、地理的に小谷城から越前国敦賀郡までは、延々と浅井領です。当然、浅井方によって、厳重に警戒されているでしょう。こういう使者が行き来する事は簡単ではないと思います。
 もし、お市が信長など本家から気持ちが離れていないのなら、その後の長政との関係と行動に矛盾があるように思います。そしてまた、内通者としての何らかのペナルティも無いようなので、そのあたりが、一貫性が認められないように思えます。

はたまた、この朝倉攻めでは浅井氏は「動かない」という条件提示を破った、というような事があったのかもしれません。引壇城には、浅井氏の手勢が入っていたとも後年の軍記もので伝わります。

何れにしても、明確な敵対行為が認められたため、浅井方の旗色が判明したという事だと思います。それが、何によるものだったのか、また近日にまとめてみたいと思います。