2019年6月18日火曜日

中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について

年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。

そんな中、意図せず、ツイッターでRTされた記事からたどり、そのブログを眺めていますと、中之文書中の署名者の手がかりと思しき記事があり、同文書の時期や状況からして、その手がかりから得た要素を非常に有力視しています。ここで一旦、中之坊文書を以下にあげます。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180など

--(史料)-----------------------------------------------------------
湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守■清(誤読:卜清)、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正次(誤読:正行)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参
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さて、この文書の残存課題は以下です。

(1)年記がわからない
(2)人物の出自がわからない
(3)本文が短く、文書の意図がわからない
(4)池田衆(連署者)と宛所の関係がわからない

これらの内の(1)については、本ブログでも推定理由を述べて、元亀2年(1571)と、今のところ考えています。また、その時期の特定と同時に(3)+(4)も必然性の推定が出来、交通の要衝で、要地であった有馬の湯山年寄中からの協力同意に、池田衆が返報したものと考えています。
 この時期、三好三人衆勢力が再び五畿内地域で勢力を強め、将軍義昭・織田信長の幕府方本拠である、京都を圧迫する程になっていました。
 また、有馬郡に西接する播磨国(美嚢郡)三木城でも交戦があり、池田から西側の動きに確実な信頼を築いて、池田勢が敵に包囲された局面を打開するための反転攻勢を成功させようとしていた時期の音信と考えています。つまり、元亀2年の白井河原合戦直前の文書です。

◎参考:白井河原合戦についての研究 

『中之坊文書』は、私の研究にとって、そういう重要な文書なのですが、署名している20名の人物の出自が、全て把握できていないという、大変なジレンマがありました。これらの人物が判明すれば、その時の政治・軍事情勢解明の手がかりにもなるはずです。

今回、なんとなく出自の推定が立ったのは、藤田橘介重綱という人物です。志末与志さんのブログ『志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 - 松山重治―境界の調停と軍事 -
という記事からで、それを読んでいて、「松山重治に従った勇士たち - 藤田忠正 -」の項目が非常に参考になりました。
 それによると、藤田氏は、播磨国美嚢郡の国人で、吉川荘に起源を持つ人物で、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であったそうです。また、三好家中の松山重治被官であったようです。
 そういえば、私の研究ノートでの『播磨清水寺文書』では、藤田氏の名が度々見られ、このあたりに縁の国人であることは認知していたはずですが、気付いていませんでした。志末与志さんのおかげで、私の永年の疑問が晴れ、その日から少し、なんだか毎日嬉しいです。

さて、元亀2年という時期に藤田氏が、池田衆と共に名を連ねる理由ですが、池田と湯山とは有馬街道で繋がっており、政治・経済・軍事ともに非常に密接です。有馬道とは、京都 - 池田 - 湯山や、大坂 - 池田 - 湯山という流れがあり、当時の多くの人々が利用する主要道の一つで、往来も盛んでした。
 ちなみに藤田氏の家紋は、その名の通り「下がり藤」です。摂津池田氏と同じ本姓は、藤原氏で同族です。
 そしてまた、必要に迫られ、湯山と池田衆の双方にとって、何らかの約束をする時、地縁者や関係の深い既知の人物がそこに居れば、なお安心します。約束を違う確率が低くなり、実現が固くなるからです。

署名の中で、私の把握している人物を上げてみます。

【池田家臣】
池田清貧、池田(荒木)村重、池田正良、荒木卜清、神田景次、池田正慶、高野一盛(多分家臣)、池田正遠、池田正敦、藤井敦秀、瓦林加介、池田正行、宇保兼家
【不明な人物】
小河家綱、安井正房、行田賢忠、藤田重綱
【その他】 ※家臣では無いが、出自が推定できる人物。
萱野宗清(現箕面市萱野の住人)


萱野氏は、摂津守護であった高槻を本拠とした和田惟政の西進に圧迫され、自らの領知を保持するために、池田氏を頼った勢力であると思われます。
 これに同じような関係で、播磨国に出自を持つ藤田氏も行動していたのかもしれない、と思いつきました。加えて「小河」氏も不明だったのですが、読みは「おうご」で、そうすると播磨国人の「淡河」といった系譜が思い浮かびます。ただ、摂津国守護家一族の伊丹氏の縁者で「小河(おがわ)」という人物も見られますので、そこは何とも言えないところです。
 それにしても先にあげた「小河」氏は、中之坊文書では、一番初めに署名をしていますし、順番はあまり関係が無いとも言われるものの、一番初めや上位であることはやはり、何の意味も無いということは、考えられないのではないかと思います。小河出羽守家綱は、藤田重綱と同じ「綱」の字も持ちます。それも何か気になります。しかし、小河氏は池田家臣でもなく、この人物いについては、中之坊文書でのみ登場して、他では見られません。
 中之坊文書に見える人々は、播磨・有馬郡あたりの人物と池田衆が連絡を取り合い、互いの利益補助のために一時的に結束した足跡ではないかとも考えていますが、今のところは、確実な証拠はありません。

しかし、今回の藤田重綱の出自推定が立ったことで、そういった動きの可能性があったことも、推定ができるようになったかもしれません。続けてまた、調べていきたいと思います。


2019年6月5日水曜日

天正6年(1578)秋、摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと

明治期の地図(+-+-+線が県境であり旧国境)
1576年(天正4)初頭、丹波国内の最大勢力であった波多野秀治の、織田信長政権離叛により明智光秀は、丹波国平定を目前にして、敗走します。この時、光秀は、現兵庫県三田(さんだ)市を通り、池田を経て、京都へ戻ったようです。
 この当時、摂津国内をほぼ掌握して、大名(守護)となっていたのは、荒木村重で、村重は、光秀の丹波平定戦を支援する役割りも担っていました。現在の三田市は当時、摂津国に属していましたが、播磨・丹波とも国境を接しており、要衝でした。多数の重要な街道を通し、いわば「ロータリー」のようになっていて、三田からはどこへでも進むことができました。
 江戸時代には、そういう立地から物資の集散地となり、特に米については、三田での値が、摂津国内の米価を決めたともいわれます。

さて、戦国時代、天正頃の三田へ話しを戻します。天正4年の光秀の、丹波国撤退から、その後は再入国の機会無く、時を待つことになりましたが、再びその機運が高まったのは、荒木村重が織田政権を離叛した1578年(天正6)でした。
 天正4年初頭以降、摂津国を領していた村重が、一族であった荒木重堅を三田へ入れ、領国統治を進めており、着実な成果を上げていました。光秀が丹波から撤退した同年2月、村重は、丹波・摂津の国境の村、「母子(もし)」に禁制を下し、素早く国境対応を行ったりしています。ここは、波多野氏の居城「八上」の後背地にあたり、通路でもある重要なところです。
 国境というのは、時の勢力により、実効支配が出たり、引っ込んだりしますので、境目自体は変わりませんが、実質的な状況変化があります。また、八上城の防衛を考えるなら「後背地」は確保しておかねば城が孤立し、脅かされ、物資補給もできません。

戦国時代、現在の三田市北部地域は、そういった重要な地域でした。

1578年(天正6)秋。荒木村重は、織田政権から離叛します。これは信長にとって、非常に深刻な事態となり、状況を悪化させないために、信長自らが出陣して、「初動全力」で鎮静にあたります。結果は歴史が示す通りですが、この頃の三田市北部の様子を少し詳しくご紹介します。

村重の離叛で、波多野氏勢力とは一体化します。この時両者(先に波多野氏は毛利方に)は、織田政権と敵対していた毛利輝元方となります。元々摂津の荒木氏は、丹波国が起源とみられますので、そういう接点も何らかの働きがあったかもしれません。
 さて、毛利方からすると、村重が味方に加わったことで、軍事的には一気に京都間際まで、友軍勢力が拡がり、将軍義昭再入洛が現実味を帯びるようになります。また、織田方へ頑強に抵抗していた、本願寺宗とも地続きの協力関係となります。
 一方の織田方にとっては、天下を平定するための終盤の安定感さえも出始めていた頃ですから、村重の政権離叛は、大きな危機を迎えたわけです。
 信長は、丹波国内とその周辺の事情をよく知る光秀を、再び同方面へ入れ、優先して敵勢力の分断を行いました。今度は光秀がそれらを首尾良く進め、村重勢力の弱体化に貢献します。村重方は、三田、花隈、有岡、尼崎などに追い籠められて、点の勢力維持となってしまいます。

小柿周辺の城館配置(三田市史より)
さて、この頃、村重のかつての主君であった池田勝正も三田市北部に入って活動していたようです。時期としては天正6年(天正5年も余地はある)に入ってからかもしれません。勝正は、1570年(元亀元)6月の家中内訌以来、将軍義昭方として行動していたようです。中央政権の権力が複雑に作用して、勢力が離合集散していましたので、勝正の行動の詳しくはまた後日としますが、備後国鞆に居所を構え、鞆幕府ともいわれる権力体を保持しており、それに従って勝正は、行動していたようです。鞆に近い場所に居た可能性もあり、言い伝えや遺物があります。
 摂津池田家に関する系図に、勝正は「天正6年歿」とあります。また、その他いくつかの史料や遺物があります。そして、勝正の墓と伝わる五輪塔が、三田市北部の小柿という地域にあります。
先に説明したように、この地域は、戦国時代当時は非常に重要な地域です。ここに勝正が入っていたならば、しかも墓があるなら、「戦死」ではないでしょうか。勝正の行動は、一貫性が見られるため、多分、将軍義昭方勢力として、この小柿地域に入り、同じ友軍勢力であった波多野氏と呼応して行動していたのではないかと思います。

伝館跡の石垣(2001年頃撮影)
地元の方に話しを聞いたことがあります。それによると、勝正の縁故地は、この地域に2箇所あり、(1)は、墓のあるところ。ここは、道の分岐を押さえるような立地です。かつて、墓のあるところの直ぐ上に寺があったとのこと。墓はその寺にあったが、廃寺となったために、現在地に移したとのこと。
 (2)は、(1)からすると、対角線上の北東側、小柿三舟会館のある方面にも勝正の墓(三右衛門墓とも)伝わる五輪塔があり、この周辺に勝正に従って移ってきた武士の方々が定着したとのことです。(2)の場所には、その館跡と言われる石垣も残っています。その侍(伝勝正らしき)が没してからは、同地に慈徳寺が建てられ、更に後、山王神社となり、1910年、同村内の天満神社と合祀するため移転しました。山王神社は勝正公が崇拝していたとも伝わっています。
 ちなみに、館跡があったとされる場所は、後背は山ですし、通路もあり出入りは可能です。また川も流れ出ていて水の心配もありません。館を構えるには適した地形です。
侍が没してから山王神社となった経緯はどんな感じなんでしょうね。気になります。また、この慈徳寺というのは、勝正の墓と関係するのでしょうかね
摂津池田氏の菩提寺である大広寺には、勝正が死亡したことは把握されていたようです。法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か。詳しくは、以下の参考ページをご覧下さい

(1)の伝池田勝正墓方面を望む(右の山裾あたり)
これら2箇所の縁故地は、互いに見通しが利き、重要な通路上にあります。そしてまた、それらの真ん中に、高平田中城館(城館配置図中の(11))という推定地もあって、この三点で、通路は完全に管理できる相関にあります。小柿のこの地域からは、丹波(篠山・亀岡)方面と摂津能勢方面へ繋がる道があり、非常に重要な地でした。
他方、1578年(天正6)では、特にこの地域は最前線であり、非常に緊迫した状態の地域でした。そういう地域で、明智光秀、池田勝正、荒木村重(重堅)は、再び接点を持ち、刃を交えたのです。彼らは、かつて、非常に関係の深い仲であったにも関わらず...。
※村重は、天正6年秋には動けずに、三田方面へは入れなかったかもしれませんが、何らかの情報を得ていたに留まるかもしれません。

◎参考:池田氏関係の図録「伝池田勝正墓塔」 (私の過去の記事より)
◎参考:池田筑後守勝正の法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か 

【ごあんない】
兵庫県三田市の状況をまとめた「荒木村重と摂津国有馬郡三田について」という研究発表のレジュメや荒木村重の領国支配についての論文(会報への原稿)「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」がありますので、ご希望される方には、実費にてお分けします。このブログの右帯下部にある「連絡フォーム」からお問い合わせ下さい。


※以下の360°写真は、伝池田勝正墓の今の様子(2019年撮影)です。