2024年7月26日金曜日

また一人、素晴らしい先生に出合いました。『世界史の中の戦国大名』を読んで

『世界史の中の戦国大名』との出合いは、ユーチューブチャンネルでみた、同書の書評からでした。

◎キリシタン大名の振る舞いから考える~「グローバル化」しても失ってはいけないものとは何か?|『世界史の中の戦国大名』鹿毛敏夫(講談社現代新書)|@kunojun|久野潤チャンネル


私は永年、この時代を研究していますので、興味が湧き、早速購入して読んでみました。しかし、読み終えると、この久野先生の言われるような鹿毛氏の極端な思想や読み違えではなく、その時代をしっかり研究していれば、割と自然な流れのように感じますし、私にとってはこの書評で言われるような受け取りはしませんでした。

それよりも寧ろ、鹿毛先生の述べられている視点が、私の研究に足りなかった事に大きなショックを受けた程です。私の取り組みの認識を改め、全体を見直さなければならないと強く感じた程、鹿毛先生の素晴らしいご研究です。
 勿論、鹿毛先生も、先人の研究成果の恩恵を受けつつ、また、他の研究の成果とも相まって、素晴らしいご成果となっているのですが、これは一方で、史料や研究が比較的豊富となった社会全体の成果でもあるように思います。

とは言え、鹿毛先生の独自視点と探究心が成せる素晴らしい成果だと思いますし、何よりも研究姿勢が大変ご立派で、私の手本としたい先生が、また一人増えたことに幸せを感じます。

私が感動した、その素晴らしい鹿毛先生の銘文の一部を以下に抜粋して、ご紹介したいと思います。
※世界史の中の戦国大名(講談社現代新書)P297

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エピローグ「世界史の中の戦国大名」の精神性より
「暴力」で語られてきた戦国時代史
そもそも、日本史で「史実」として語られているもののなかには、実は、その根拠が曖昧なものや偏向的な考察によるもの、あるいは一面的な歴史館に負うものなど、その見直しを求められるものが少なくない。本書で見てきた戦国時代史もその一つである。
 日本史における十五世紀後半から十六世紀は、「戦国」との名称の通り、確かに人間同士の戦いの多い時代だった。高校生たちが学ぶ教科書においても、この百六十年間ほどの歴史は、応仁の乱・桶狭間の戦い・長篠合戦・賤ヶ岳の戦い等の戦争や争乱を軸に時代の画期が示され、その内容も、争い・分裂・抗争・大勝・征討・征服・覇権、そして追放・屈服・滅亡等の暴力的な言語に象徴させて、その時代を語る構成になっている。その教科書に学ぶ子どもたちの頭のなかには、必然的に、武力的勝者へのあこがれや英雄視、そしてその軍事的勝者が形作った社会の正当化・正義化の意識が醸成されていく。さらに、後の近代国家の成立とそのテリトリーの存在を前提に、国家の歴史は分裂から統合へと向かうもので、その統合の妨げとなる「敵」を征討して滅ぼす(殺す)ことが歴史の必然的正義であったとの価値観のみが重層的に再生産されていくのである。
 百六十年間におよんだ戦国大名の群雄割拠状態を脱して、一元的な統一政権を樹立した、いわゆる「天下統一」の営みは、日本の政治史において、まぎれもなく重要な画期であり、その国家統合の取り組みが成されてこそ、後の近世・近代日本の発展が実現した事実は論を俟たない。しかし、その軍事的特徴の強い十六世紀という時期においても、列島各地に生きた天皇、諸大名から一般庶民までの日常が確かに存在した。
 現在の研究史の状況では難しいことではあるが、地域権力の闘争・合戦とその勝ち負け、そしてその勝者の軌跡ばかりにとらわれるのではなく、政治権力が分裂状態の列島各地において、おのおの大名が領域社会の為政者として、いかなる内政を行い、また、海外を含む支配領域外の政治権力とどのような外交関係を結んだかという、「地域国家」の為政者としての内政と外交のあり方を検討し、その特徴に応じた時間軸と空間軸を設定しながら、多様性にあふれた日本社会の内部構造を比較・相対化させて叙述する戦国時代史の姿を、いつかは見てみたいと思う。
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その通りだと思います。この思考法こそが、繙く、解き明かす事であり、それが本当の意味の研究だと思います。なぜその必要があったのか。なぜ、そうなったのかという視点に立たなければ、起きている事の意味が理解できません。
 鹿毛先生の言われるように、「暴力」だけを見て、全体を理解したかのように陥ってしまえば、研究とは言えませんし、理解したとは言えません。未来への知恵ともなり得ません。

是非、お手にとって『世界史の中の戦国大名』を読んでみて下さい。とっても面白いですよ!

2024年7月8日月曜日

摂津池田家中の対外血縁関係

気になっていたことを、備忘録として、また、自分の頭の中の整理として記事にしておきたいと思います。

どの氏族でもそうですが、一族内に様々な系譜を持ちます。長い歴史の中で主従関係も変わりますし、政治・経済・軍事など、様々な状況により、生き残りを計るための対外的な血縁関係を結ぶようになります。
 史料から過程を追う上で、こういった要素もある程度は把握しておく必要があろうかと思います。離合集散の理由として、これらの血縁関係は必ずどこかで作用しています。

摂津池田家の系図は、5種類程あり、そこに血縁の情報も書かれていますが、この一番大きなブランド要素としては、河内国の楠木正行(その遺児が教正)につながる一派が居り、その縁で「正」の通字を用いるようになった可能性があります。
 これについて、摂津国能勢庄の野間城主内藤満幸の娘と縁組みしており、池田氏が能勢郡木代・山田方面に史料があったり、余野の領主とも後に縁組みしたりして、能勢郡に非常に深く関わりをもつのは、能勢内藤氏との縁組みが関係しているのではないかとも思います。これについて、いくつかの系図の内、「池田氏系図」をご紹介しておきます。
 ただ、野間城は近隣と比べても規模が大きかった事は明らかですが、城主が内藤氏であった事は、他の資料類では確認できず、更なる裏付けが必要だと思われます。
※池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P131

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◎池田氏系図(続池田家履歴略記巻之四所収 題して美濃国三洞村医師野原良庵所蔵 池田御家系池田系譜とあり)
『教正』(池田十郎・兵庫頭)条:母摂州能勢庄住内藤右兵衛尉満幸女也。満幸仁勇之誉有るに依りて故判官の命に依りて満幸の娘楠帯刀左衛門正行に嫁す。正行戦死後楠左馬頭正儀、舎兄正行の室を父満幸の家に送る。故に池田教依に再嫁す。其の時教正の母(教依妻)摂州一萬貫を持参す。依って教依摂州伊丹に取出を(砦)を構う。其の後康安2年(1362)左馬頭正儀の勢と神崎之橋爪(?:場所不明)にて教正戦之武勇を顕す。永享元年(1429)10月18日卒。法号室光寺殿月厳宗照大居士。
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また、別の池田家の一派は、丹波波多野家とも関係しているようです。『細川両家記』にその事が、触れられています。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593

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大永6年(1526)条:(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、…。(後略)
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『細川両家記』では、波多野氏と池田氏が血縁である事から、当初は細川高国方として参戦していた摂津国人池田氏が、波多野氏に与す細川晴元方となった、としています。
 これについて、当時の史料により『細川両家記』の正確さが証明できます。高国奉行人の薬師寺国長が、摂津国勝尾寺年行事中へ宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編2)P334

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池田従り相懸け兵粮云々。若し其の沙汰有る於者、一段曲事為るべく旨、御下知の旨に任せ、堅く申し付けられるべく候也。仍って状件の如し。
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高野山真言宗 頂應山 勝尾寺の山門
摂津池田家から兵糧等が懸けられること(この時すでに兵糧の賦課があったらしい)は、今後は一切無効である旨、高国方から勝尾寺へ命じられています。敵となった池田衆が、それまでの習慣通りに行動することを阻止しています。

それからまた、丹波国の波多野氏と摂津国の池田氏が血縁である事については、後に池田家中から頭角を顕す荒木氏との縁とも繋がっていると考えられます。
 そもそも丹波国人と思われる、この荒木氏は当初、酒造関連で摂津池田郷へ縁があったとも伝わっており、池田郷での最大の酒造家であった万願寺屋は、そのような成り立ちであったようです。万願寺屋は「荒城氏」であり、その墓群が大鹿妙宣寺(現伊丹市)にあります。
大鹿妙宣寺の万願寺屋墓
 池田家当主勝正の代に、重臣として活動していた荒木村重は、後に織田信長から摂津及び河内国北半を任される大名となりますが、村重は「日枝神」を信仰していたようで、その事からも丹波と酒造の関係を持つことは、明らかなように思われます。

血縁というのは、前近代社会の中では、生きる中心とも言える必須要素であり、やはりこの点も、研究を続ける上では、常に意識しておかなければいけない事と思います。

追伸:因みに、最終的に畿内をほぼ手中に収める阿波の戦国大名三好長慶も当初は丹波波多野氏から嫁取りをしており、その後に離縁し、河内国守護代格の遊佐氏から嫁を取っています。そのせいか、波多野氏は離縁以降、長慶に一貫して頑強に抵抗しています。

2024年6月29日土曜日

松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して

令和6年(2024)6月15日から、高槻しろあと歴史館にて、最近発見された松永久秀書状の展示が行われましたので、見てきました。

その書状は欠年史料でしたが、同館により、天文22年(1553)のものと比定されており、私も内容からして間違いの無い見立てだと思います。
 年記以下は、7月30日付のものですが、内容としては、その近辺の出来事を語った、いわゆる軍記物『細川両家記』『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』、また『言継卿記』の記述に加えて、その正確さを証明するかのように、新出史料は、それらの流れと一致する当時の情報交換が行われています。加えて、既出史料にはない出来事もあり、前述の軍記物などを補足するかのような興味深い要素も見られます。

一方で、同館を訪ねたついでに、何か目新しい資料はないかと物色していると、『しろあとだより:24号(令和4年(2022)3月発行)』があり、それもネット内でダウンロードして、記事を読みました。
 そこには、特に今回の展示を意識したはずは無いと思いますが、天文22年の芥川城落城時の「帯仕山」についての考察記事が載せられていました。
 今回もまた、奇縁がそこに...。私自身も、池田長正の動向を追う中で、天文22年という年が気になっていました。その年は、その前後で、断片的な長正及び池田衆の史料が見られるのですが、関連性を帯びておらず、その記述の意味を判断できずにいました。
 それからまた、この年は、京都の中央政権でも画期を呈した動きがあり、それまでの流れが変わる、要注意の年でもあります。

今回もまた奇縁のおかげで、保留状態にあったところを、前に進める動機を作ってもらいました。
 以下、天文22年の池田長正及び池田衆の動向の思索として、キーワードを挙げておきたいと思います。その前提として、馬部隆弘先生による天文22年頃の京都中央政権についてのご見解を紹介しておきたいと思います。
※戦国期細川権力の研究P705

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天文19年から22年までの間に、三好長慶方が臨時公事の賦課に積極的に関与し始めるのは、管領細川氏綱と長慶の主従関係が崩れ、特に天文21年2月に、長慶が御供衆に加えられて幕臣となった事が大きな理由である。ただし、天文22年前半まで、氏綱方と長慶方は、あくまでも別個に文書を発給していて、上下関係は歴然と残っていた。ところが、天文22年後半になると、氏綱内衆と長慶内衆の家格差は大幅に縮まり、両者の連署状が成立する。
 このように、公事と書札礼の両面を踏まえると、氏綱と長慶の関係性は、天文21年と翌22年の二度の転機を経て変化したと指摘し得る。
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これは非常に重要なご指摘で、この事で、これまでの欠年史料の特定が進み、非常に複雑な人物関係が繙かれるに至りました。
 それ故に、私の研究範囲である摂津池田氏の行動についても、ある程度の推測が立つようになりました。大きな前進です。
 この年も、正統な池田家惣領を主張する池田長正と、近世でいうところの家老的組織である池田四人衆の人々は、その主張を認めず、分裂していた可能性が高いように思われます。

例えば、欠年史料で、12月15日付けの池田四人衆が、当郡中所々散在へ宛てて下した禁制的法度は、後の考証(若しくは備忘録的メモ書きかもしれません)で「天文22年」としてありますが、実はこの考証は、馬部先生の研究成果による恩恵で、正確である可能性が増した訳です。池田四人衆の池田勘右衛門正村・池田十郎次郎正朝・池田山城守基好・池田紀伊守正秀が、当郡中(摂津国豊嶋郡)所々散在へ宛てて音信(折紙:直状形式)。
※箕面市史(資料編2)P411

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箕面寺山林所々散在従り盗み剪り者、言語道断の曲事候。宗田(池田信正)御時之筋目以て彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在る於者、則ち成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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箕面寺中枢機関であった岩本坊

この文書内容についてですが、実は天文20年5月付けで、同じ内容のものが、池田長正により作成されています。その後に、同内容で上記の触れを池田四人衆が出すというのは、その前例の打ち消しであり、その時点での権力の表明でもあります。
 これは、天文22年8月18日、細川晴元方の多田・塩川勢力が、「池田表」にて蜂起するのですが、失敗します。この事で芥川城は利を失い、この翌日に芥川城の芥川孫十郎(右近大夫)は、降伏を申し入れます。
 よって、この「池田表へ蜂起」に、池田長正が晴元方として加わっていたのではないかと、推測できるようになります。

池田長正は、先代惣領の筑後守信正の子でありましたが、その妻の舅である三好政長(宗三)が、その立場を悪用して、長正を介し、池田家そのものを乗っ取ろうとしていました。それがために、池田家中からは猛反発を受けていました。その中心を担ったのが、池田四人衆であった訳です。
 故に長正は自らの身分と権力の裏付けを、外来権力に頼らざるを得ず、三好政長を側近として重用した管領細川晴元の権力に依存した権力体となっていました。よって長正の行動も活動拠点も、常に晴元権力の所在地にあったと考えられます。
 逆説的にみれば、長正は池田城内には起居する事ができなかったとも考えられます。少なくとも天文22年当時は、城内に居住する条件になかったと思われます。
※細川両家記(武家部:群書類従20号)P613、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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『細川両家記』天文22年条:
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして則ち明くる日帰る也。
『足利季世記』天文22年・芥川落城之事条:
8月18日、晴元方の牢人摂津国多田の塩川伯耆守に一味して、池田表へ蜂起し、芥川の後巻きをせんと企みけれども叶わず散々に成り行けば。
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軍記物とはいえ、今よりもこの当時は、言葉選びには慎重だったと思います。「蜂起」という言葉をどうして選んだのでしょうか?「責め」ではなく。池田家内部からの動きも感じさせるのですが、ちょっと気になります...。
 そして、上記の軍記物の正確さを裏付ける、当時の史料が存在します。前管領細川晴元方塩川国満が、天文22年8月22日付で、池田表を攻めたことについて、平尾孫太郎某へ感状を下しています。
※池田郷土研究8-P39

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去る18日(8月18日)池田表に於いて太郎右衛門尉討死、比類無き忠節候。なお委細新九郎申すべく候。恐々謹言。
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芥川城からの遠望(撮影:2001年2月)
それからまた、芥川城に籠もっていた芥川孫十郎も、細川晴元権力に依存する人物で、その家中において池田長正と同様の構図・立場にありました。孫十郎は、三好氏一族に迎えられていましたが、叛服常無く、いわゆる「問題児」でした。
 そのような境遇から、この芥川孫十郎と池田長正は、しばしば行動を共にし、共通の目標に向かう動きもしていました。その状況を知る一端として、天文21年6月4日付けで、松永久秀が京都大徳寺塔頭大仙院侍衣禅師へ宛てた音信に、池田長正と芥川孫十郎についての記述がみられます。
※戦国遺文1-P121など

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尊書拝受致し候。仍って今度丹波国の儀、不慮の次第候。悪逆人の儀、退治の行候処、摂津国人池田兵衛尉(長正)・小河式部退城仕り候。則ち池田の城存分に申し付け候。芥河孫十郎事も造意の段白状候て、種々懇望半ば候。何れの道にも手間入るべからず候間、御心安く思し召されるべく候。此等の趣き、宜しくご披露預け候。恐々謹言。
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また更に、この史料について、軍記物の記述があります。天文21年5月23日、三好長慶が丹波国八上城を攻めていたところを、形勢不利となって陣を解き、撤退します。それについての記事です。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P612、長享年後畿内兵乱記(続群書類従第20号上:合戦部)P318

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『細川両家記』天文21年条:
(前略)5月23日の夜半に三好筑前守長慶勢、摂津国衆諸陣悉く有馬郡へ引き退かれ候なり。(後略)
『長享年後畿内兵乱記』天文21年条:
(前略)5月23日夜、丹波国多紀郡高城と雖も三好筑前守長慶取巻く。芥河・池田・小河反逆に依り取退雑節。(後略)
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池田長正と芥川孫十郎は、常に呼応した動きをする事が多く見られます。これは、共通の利益や状況を持つ、仲間的な行動だと、資料上から読み取れます。また、このことから軍記物の大筋の正確さは、信用に足りる(100パーセントとは言えなくても)ものであることも判ります。

八上城遠景(撮影:2006年10月)
天文22年の夏、三好長慶が、その一族でありながら芥川孫十郎を芥川城に攻めたのは、丹波国方面から近江国西部にかけて、細川晴元方勢力の拠点があり、これと孫十郎が結び付いていた事からの処置でした。
 また、この年、将軍義輝も細川晴元を擁護する動きを見せ、行動を共にしていました。加えて、晴元には、摂津国の塩川・多田氏や能勢方面でも加担する勢力がありましたので、池田長正も丹波・摂津国境のあたりに居て、行動の機を謀っていたものと思われます。
 そんな中、芥川城を占領した三好長慶は、直ちに晴元勢を追って、丹波国に攻め入ります。この時、池田衆も従軍していますが、これは池田長正ではなく、池田四人衆方の勢力であったと考えられます。
 しかしながら、長慶方の軍事行動は、この時はうまく行かず、撤退。池田衆にも何らかの損害が出ていたようです。
※言継卿記3-P72、群書類従20号(武家部:細川両家記)P614、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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八木城からの遠望(撮影:2001年10月)

『言継卿記』9月19日条:
癸亥、天晴、天専終、戌刻自り雨降り。(中略)昨日(18日)丹波国へ立ちたる三好人数敗軍云々。内藤備前守・池田・堀内・同紀伊守・松山・石成等討死云々。但し松永弾正忠(久秀)殊無き事云々。
『細川両家記』天文22年9月3日条:
(前略)同18日に後巻して此の衆打ち勝ち、内藤肥前守(備前守)国貞・永貞父子と池田、堀内を打ち取り。此の外数多討ち死也。然れ共松永兄弟は難なく打ち帰られ候也。此の時内藤方の城丹波国八木難儀候所、松永甚長頼は内藤備前守聟也ければ、此の八木城へ懸け入り、堅固なる働きとも見事なるかなと申し候也。
『足利季世記』天文22年(芥川落城之事)条:
(前略)同18日、城よりも突きて出て、相戦う半ばに晴元より香西越後守元成・三好右衞門大夫政勝(宗三子息)大将にて後巻きあり。松永が後陣に控えたる内藤備前守・池田・堀内等を打ち取りければ悉く敗北して、寄手散々に落ち行ける。大将(別働隊)討たれければ、内藤が居城八木の城明けるに、松永甚介此の城に入りて敗軍を集め、城を持ち固めける。松永は内藤備前守が聟なれば、城中にも一入頼もしく思いける落ち武者かく計らいける事、武功第一也と沙汰しける。
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天文22年付けの諸史料にみられる、摂津池田についての記述は、やはり、このように池田長正と池田四人衆が、晴元・細川氏綱(管領現職)両派に分かれて行動しています。その視点で見れば、既知(既出)の資料群は、矛盾の無い記述内容です。

そしてこの年の暮、既述の12月15日付(史料2)で、池田四人衆が当郡中所々散在に宛てて下した法度は、池田衆にとっての縁故寺院であり、且つ、摂津・丹波国境に近い場所で、氏綱方の池田四人衆が勢力を得て、先に下した池田長正権力の効果を削ぐ意味を示したものであろうと考えられる訳です。池田四人衆の権力が優位に立ち、その時局を進めたようです。
 これ以降、池田長正は史料・軍記物でも見られなくなり、代わって池田四人衆関連の史料が頻出するようになります。

そういう意味で、今回の高槻しろあと歴史館にて行われた、松永久秀の新出書状展示は、この重要な、天文22年の京都中央政治構造の解明に寄与する発見だったと思います。

追伸:
この激動の年、更にこのような大事件もありました。6月9日、阿波守護であった細川讃岐守持隆(氏之?)を三好豊前守(長慶実弟)が殺害。持隆は細川晴元と兄弟であり、政治・軍事上の何らかの障害になっていると考えたのでしょう。しかし、これは「主殺し」であり、当時の倫理観に照らしても、国内外に動揺が走ったと思われます。
 8月13日、将軍義輝が都落ちし、その勢いに陰りがみられたこともあり、幕府奉行衆が大量に離反して、京都に戻ります。三好長慶は、地域統治に於いて、それらの協力も得られることとなりました。
 そして、これらの動きを見ていた、阿波足利家が、京都の中央政権復帰を望み、上洛の構えを見せます。大坂本願寺などへ関係各所へ音信を行っていました。

これらの要素を個々にみれば、新聞記事を見るのと同じですが、やはりこれらの動きは関連性があって、欲求や何らかの高まりの中で、連鎖して起きています。この頃には実力者に成長していた三好長慶は、解決すべき要素に優先度をつけて、各々解決を計ったために、この後、大きく飛躍していきます。


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2024年6月7日金曜日

摂津池田家惣領池田筑後守長正についてのまとめページ

池田長正という武将は、摂津国人で池田家の惣領となった人物ですが、時の資料(史料)が少なく、あっても断片的で、不明な点が多くあります。
 しかし、その長正の代で、後に池田家中から頭角を現す武将荒木村重の歴史的背景も明確にできる示唆があり、また、畿内地域でも有数の精力であった池田家政の実態が明らかになることで、中央政治の一部が明確にできるようになります。
 そして何より、直接的に、池田勝正が惣領となる経緯、その支援権力機構(体)である「四人衆」の実態が明らかになります。

池田長正の活動実態を明らかにする事は、多難ではありますが、取り組む意義が非常に大きいと考えています。

摂津国人池田筑後守長正について考える
摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性
摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!
摂津国人池田長正は、最終的に「筑後守」を名乗って惣領となっている証拠史料
松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して
丹波八上城に存在する「芥丸」(伝芥川某の持場)という気になる曲輪について ← NEW

【参考ページ】
摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て
摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察




2024年6月6日木曜日

摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!

今のところ不確定要素があるので、断言はできないのですが、可能性としては大いにある史料を見つけました。

私に、何かとご教示下さる「利右衞門」さんからのご連絡で、これまで見えなかった池田家の足跡の一部が見えました。これには不思議な事が起きて、一気に進みました。
 私もこれは読まなければいけないと、リストアップしていた『北野社家日記』『北野神社文書』ですが、1年程、グズグズした保留状態でした。そんなある日、ここに摂津池田氏の記述がありますよ、と、利右衞門さんから報せていただいたのです。これは「はよ、読め!」と天の声のように感じ、急いで史料を購入して読みました。
 いっぱい、ありました。鼻血が出そうでした。京都の北野社家と摂津池田家の四人衆筆頭池田紀伊守正秀は、非常に深く交わっていました。
 しかも、比較的史料の少なかった弘治2〜3年にかけての出来事・足取りが、濃密に記録されています。驚きました。

調べ事をしていると、本当に説明のつかない不思議なご縁とか、出来事があります。本当に導かれているような、不思議な事があります。それも、一度や二度ではありません。このような、機会に出くわす度に、私がやらねばならぬ、と励みにもなります。

さて、本題です。今回は、池田勝正の先代、長正について、重要な史料に出合いました。今のところ不確定要素があるものの、非常に想定の確定度合の高い史料であろうと、感じています。この史料背景と状況がある程度特定できれば、近畿地域の地域権力の変遷が部分証明できるようにも思え、気になっている間にできるだけ考えを深めておこうとしております。

その史料なのですが、以下に示します。禁制です。永禄4年7月24日付けで、右近大夫・右兵衛尉が連署し、北野境内へ宛てた禁制です。
※北野神社文書(史料纂集 古文書編)P104(史料番号:161号)

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一、軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、放火並びに竹木伐採事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩に於いて者、厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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私の見立てでは、この「右兵衛尉」とは、池田長正です。長正は後に、摂津池田家の惣領を示す「筑後守」を名乗っており、最終的に摂津池田家の代表となっている事は、史料上からも顕かです。
 一方の「右近大夫」とは、芥川で、それまで「孫十郎」を名乗っていた人物とみています。この人物は、三好長慶の一族に列しながら、背反常無く、どうも家中の立ち位置が安定せず、外来の権力に頼らざるを得ない内情であったと思われます。これは、馬部氏の研究を参考にしていますが、私の研究ノートでも、そのような動きは見られ、今のところ納得して、馬部説を個人的には支持しています。

元に戻って、池田長正も芥川孫十郎と同じ境遇であり、『細川両家記』などの軍記物や他の史料でもこの両名は、並んで名前がよく出てきます。家中での権力を得るため、外来の権力を後ろ盾にしており、どうも細川晴元の権力を充てにしていたようです。

そういった中で発行された、「北野神社文書の161号文書」だと想定しています。

しかし、現段階で人物特定するには不確定要素もあります。この文書は、控え文書で、本文のみで、署名した花押が省略されています。そのため、私の想定している人物ではなく、別人の可能性もあります。

今のところ、上記禁制の補完史料としては、堺妙国寺日珖の日記『已行記』に芥河氏の存在確認ができる記述があります。
※已行記(堺市博物館報 第26号)P62-5

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永禄4年条、(前略)同9日(12月)、有馬中務某、芥河兄弟、河南兄弟、豊嶋父子、堀江猪介、鏡新尉受法、。
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堺にて三好豊前守入道実休が、堺妙国寺日珖に帰依したことから、これに続いてその組内衆が集団で帰依しているようで、その記録の中に「芥河兄弟」がみえます。この時点で、堺に居たことは確実で、また、顔ぶれからすると、所属としては三好実休の影響下での行動だったと思われます。これは、摂津国にルーツを持ちながらも、阿波国での基盤が成り立ちの柱であったことをうかがわせます。
 基本的に、三好方の行動は、組内の行動だったようですが、状況に応じて応援などに派遣されていたようです。『細川両家記』の記述などでは、和泉・河内国方面の担当であった、三好実休の組に三好下野守政生もみられるなどありますので、そのあたりのところは流動的な状況もあったと考えられます。

一方で永禄4年の動きを見ていますと、この年は新たな動乱の始まりでもあり、京都市中に多数の禁制が立ち、各組織とのやり取りも盛んに行われているようです。

その中で、上記禁制を掲げた2日後の26日付け、細川右京大夫入道(永川)晴元養護派近江守護六角衆左近大夫(隠岐賢広)右兵衛尉(平井定武)が連署で、京都清水寺に宛てて禁制を下しています。
※清水寺史3(史料篇)P124

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一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、寺内放火・竹木伐り採り事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩速やかに厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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この隠岐氏と平井氏については、『清水寺史』による注記です。

続いて、同年8月16日付け、山城国大山崎に宛てた禁制で、同じく六角方の宮木賢祐・蒲生定秀が連署して禁制を下しています。この内、宮木氏は「右近大夫」を名乗っています。
※島本町史(史料編)P433、蒲生氏郷(戦国を駆け抜けた武将)P81

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一、軍勢甲乙人濫妨狼藉、一、山林竹木伐り採り付、放火事、一、非分の矢銭・兵糧米相懸け事、一、国質・所質付沙汰の事、一、荏胡麻油商売他職之事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違乱の輩厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
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このように同じ時系列で、同様の官途を名乗った人物は確かに存在しており、『北野神社文書(史料纂集 古文書編)』の104ページ(史料番号:161号)で官途を名乗った人物は、六角方の人物である可能性もあります。例えば、宮木右近大夫賢祐平井右兵衛尉定武が連署で、北野境内へ宛てた禁制を発行した可能性もあります

ちなみに、先にご紹介した「利右衞門」さんのご教示によると、幕府関係者としての「永禄六年諸役人附」には、「右近大夫」「右兵衞尉」は見当たらないとのこと。

署名が特定できれば一番良いのですが、肝心の161号文書にそれは無く、特定の手がかりに少々悩んでいる途上です。

少し視点を変えてみます。永禄4年という年は、京都中央政治の画期であり、三好長慶が将軍義輝から桐紋使用を許されて御相伴衆となって、幕府の代理的な行動も出来る環境ともなっています。
 更に、永年の抗争に終止符が打たれ、細川晴元は摂津富田の普門寺へ入って、長慶の軍門に降り、晴元の旧臣も吸収されるカタチとなっていたようです。長慶は、統治領も拡がっていたことから、人材が必要となって、多少の問題児も吸収して活用していたように考えています。

そういった状況での出来事であり、可能性としては十分にあり得る状況だと考えています。もしこれが事実と判明すれば、長正の事も私にとっては、大きな史実としての証拠ですが、芥川右近大夫は、永禄4年に中央政権に関わる活動をして、京都の中央政治に復帰していたことになります。

池田長正の足跡がハッキリすれば、丹波荒木氏が池田家に関わるタイミングも明確になります。よって、荒木村重のルーツも明確化されますので、この長正の足取りを掴むことは、大きな意義があることです。
 

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摂津国人池田家惣領池田長正花押

 

2024年5月18日土曜日

豊後竹田の中川家の家老となった、摂津武士の戸伏氏について

ちょっと気になっているのですが、あまり深く調べる事も無く、時間が過ぎてしまいました。最近また気になり、備忘録として記事にしておきます。

現在は静かな町外れの住宅地ともなっている、大阪府茨木市戸伏町の集落ですが、戦国時代、この村出身の武士がいたようです。

元々は、永禄9年に、池田勝正がこのあたりで合戦をしたという伝承記録があり、それが気になったのがキッカケで戸伏村を知りました。その関連資料を以下にご紹介します。
※よみがえる茨木城(茨木町故事雑記)P163

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永禄9年(1566)10月20日、池田筑後守勝正茨木城に発向し、芥川城主中村新兵衛高次に与して長田河原に陣し、高槻之城主入江左近将監等と相戦う。入江は富田之間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。入江・中村等敗北し、勝正は茨木城に帰陣す。
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上記に出てくる人物名は、実在しますし、この頃、ちょうど勝正は「筑後守」を名乗りはじめた時期でもあります。この時、合戦の行われた「長田河原」とは、茨木市大住町付近のようで、この場所は戸伏村(郷)の範囲内です。戸伏村について、いつもの大阪府の地名を以下に抜粋して、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P188

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戸伏村(茨木市戸伏町、大住町、末広町)

赤色四角囲みの村が戸伏村を構成する集落(村)
茨木村の東、安威川右岸に位置。鎌倉時代初期頃は公家久我家の所領で、年月日未詳の久我家領目録(久我家文書)に摂津国「戸伏領」がみえる。文和元年(1352)2月18日の総持寺領散在田畠目録写(常称寺文書)によると、戸伏村字丸坪・字門田に総持寺の寺領があり、総持寺散在所領取帳写(同文書)の文安2年(1445)正月17日請取分にも戸伏のうちにあったとみられる総持寺領が記される。室町時代には相国寺(現京都市上京区)領戸伏庄があり、「鹿苑日録」長享元年(1487)8月12日条に「当寺領摂州戸伏上下村」に対し守護段銭免除の折紙が室町幕府より出された記事がみえる。また同書延徳元年(1489)正月11日条に、戸伏庄先庄主大蔵寺栄監寺が再任をもとめてきたので、任料100疋で補任状を発給している。なお応仁・文明の乱後のものとみられる摂津国寺社本所領並奉公方知行等目録(蜷川家文書)には三条侍従中納言家(三条西実隆か)領として「院御庄内(溝杭・茨木・鮎河・戸伏)」がみえ、当時は不知行となっていた。
 慶長10年(1605)摂津国絵図には「戸臥村」とあり高63石余。元和初年の摂津一国高御改帳によると高槻藩内藤信正領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には「戸伏村(庄村・中村・橋内村・牟礼村)」として1071石余が記され、京都所司代板倉重宗領。以後重宗の子重郷・重形と引き継がれ、天和元年(1681)重形の領地替で幕府領となった。享保19年(1734)以降の領主の変遷は中ノ城村に同じ。なお前記摂津国高帳にみえる庄村以下4村は戸伏村の枝郷で(元禄郷帳・天保郷帳)、戸伏村と郷的に結び付いていた。享保20年の摂河泉石高帳によると戸伏村本村のみの村高141石余。寺院には浄土真宗本願寺派戸伏山光照寺がある。明治16年(1883)庄村・中村・橋之内村・牟礼村が合併して戸伏村となる。
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明治時代後期の戸伏村の様子
『茨木町故事雑記』の伝承が、割と当時の状況を反映していると思われる要素として、永禄9年の政治状況は、将軍義輝殺害後に、中央政治が混乱し、次期将軍を巡って激しい争いが起きていました。三好三人衆と松永久秀が不和となり分裂、三好三人衆方が、阿波公方を擁立して、足利義栄を立てて京都へ攻め上ろうとしており、池田勝正は義栄擁立派として、積極的に行動していました。
 9月23日、義栄は摂津国武庫郡の越水城に入って、上洛の駒を一つずつ進めていました。12月5日、義栄は総持寺へ入り、その2日後、富田の普門寺へ入っています。同月28日、朝廷から従五位下左馬頭を叙任され、将軍職就任へ向けて、手続きも着々と進めます。

池田勝正の茨木方面の合戦(長田河原)は、そんな動きの中で行われたようで、『茨木町故事雑記』という伝承記録ではありますが、概ねの人物名、時代の流れに沿った時期は順当です。また、それを補完するかのような当時の史料もあります。
 年記未詳で、10月18日付け、三好三人衆方足利義栄擁立派と思われる松山彦十郎が、播磨国人別所大蔵少輔安治へ音信(返信)しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P231

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御状拝見せしめ候。仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。其れに就き(摂津国豊嶋郡)池田表之儀も万(よろず)伊丹(忠親)申し度くとて色を相立て之由候。然者此の者之儀申し談じ、越ち度無き之様及び断ずべく候条、手前に於いて御気遣い有るべからず候。次に其の表之儀に候はば、西表御在陣之由候。御辛労是非に及ばず、置塩与御方御召し之儀も相調え候由、別使へも御報せ申せしめ候。猶追って申し述べるべく候条せしめ。恐々謹言。
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文中の「仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。」とは、寝返りがあった事を伝えているように思われます。『茨木町故事雑記』にある、戸伏郷内の長田河原合戦は、その2日後の事です。

寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によれば、戸伏村は、庄村・中村・橋内村・牟礼村(この4村は戸伏村の枝郷)を含め、1071石余の生産高があり、小さくない規模です。

その戸伏村には、やはり武士がおり、摂津池田家中から頭角を顕した、中川瀬兵衛尉清秀の家老格に登った人物がいました。
※中川家文書(神戸大学文学部 日本史研究室)P4

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知行配分目録
壱万八千五百石      中川石千代(秀成)
弐千石「四千石(異筆)」 中川平右衞門尉
千五百石         熊野田千介
七百石          寺井弥次右衞門尉
八百石          戸伏助進
 以上弐万参千五百石
 (包紙)「秀吉様与之御配分付」(朱書)「四十一」」
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また、元亀2年(1571)8月28日早朝、摂津国島下郡宿久河原にて、いわゆる白井河原の大合戦が行われますが、この時、戸伏氏一党は、荒木信濃守村重・中川清秀勢に居て、手柄を立てたようです。
※中川史料集:太祖 清秀公条P22

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一、(9月)欠日 戸伏宗慶兄弟五人並びに、嫡子助之進白井河原合戦以来、御幕下に属し忠戦を励み、茨木御入城の節は近隣を唱呼して、御味方に属け島下郡も悉く、御幕下に属せしむ。その功に依って御人数御預け老職仰せ付けられる。
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この後に、荒木村重や中川清秀が、茨木城に移り、周辺を統治して勢力を拡大させます。茨木城の至近にある戸伏村は、茨木城からすると鬼門でもあり、安威川手前の要衝。また、高槻街道と総持寺を繋ぐ重要な街道も通しています。重要拠点の一つとして、支城的な役割りも持っていた場所だったと考えられます。

戸伏姓を持つ武士が実在した証拠として、当時の史料を上げておきます。『親俊日記』の天文8年(1539)12月28日条、幕府政所代蜷川親俊が、幕府奉行人松田丹後守晴秀などへ音信した中に、戸伏掃部助の名が出てきます。
※親俊日記1(増補 史料大成)P334、大阪府の地名1(平凡社)P154

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また詳しいことが判れば、情報を追加したいと思います。以下、現在の戸伏集落の写真を載せておきます。

【追伸】
戸伏村に含まれる、安威川を渡った先の庄村に長塩家(旧寺田氏)の墓があります。長塩氏といえば、三好長慶や細川管領家に見られる高位の人物です。墓石の形式からしても、五連投ですし、非常に古いので、もしかして、そのあたりに繋がる家が庄村に根付いているのでしょうか。これもとっても気になります。

旧寺田氏 長塩家の墓地として、ポツンと一家だけあります

様式が無茶苦茶ですが、五輪塔の残欠を重ねてあります

以下、戸伏村(集落)の様子です。

集落の中心部の町並み

素戔嗚尊神社(戸伏第2児童公園)

集落の中心部にある浄土真宗本願寺派 戸伏山 光照寺

集落の中心地にある城のような旧家1

集落の中心地にある城のような旧家2

集落の中心部分(左は素戔嗚尊神社:戸伏第2児童公園)

村の南出入口にあたるところで道は旧高槻街道

2024年5月17日金曜日

摂津国人池田長正は、最終的に「筑後守」を名乗って惣領となっている証拠史料

史料が少いのですが、池田家政の画期の一つ、また、荒木村重の出自の一部が明確になる人物としても、池田長正の事跡を追うことは非常に重要です。

この長正という人物は、池田勝正の先代であり、池田家の波瀾万丈の悲劇の中心人物であった当主池田信正の次の代にあたります。
 この信正の死後、池田家中は分裂し、信正の創設した「四人衆」なる、いわば官僚(家老)と、跡目を自称する当主長正(本人)とが対立し、それぞれに惣領を立てて、並行します。
 これには、非常に複雑な経緯があり、ここでは一旦割愛して、後日に詳しくご紹介します。
 この争いが、非常に激しく行われ、池田長正は池田城には、起居できなくなり、一旦外に出ていたと思われます。また、自己の権力を形成する基盤も無くなって、細川晴元権力、いわば外来権力の後ろ盾を必要とする時期が一定期間あったはずです。若年であった事も大きな理由です。

しかし、その池田長正が、池田四人衆との争いに競り勝ち、最終的に惣領の名乗りである「筑後守」を音信に署名しています。これは、勝手にやっている事では無いと思われます。四人衆との和解を経て、惣領を自他共に認められている証拠だと考えられます。

その史料と言うのは、今のところ一点のみです。欠年11月25日付、山田彦太夫に宛てた音信です。これは、能勢のM氏所蔵文書です。
※戦国の動乱と池田氏(池田市制施行50周年記念)P17

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先年以来相詰め届け之儀、祝着候。罷り出でられ候共、人数等割り入れるべく、必ず越されるべく候。然るに於いては忠節之筋目相違有るべからず候。恐々謹言。
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恐々謹言の書留ですが、目下に軍事動員をかけているような内容です。これは、余程の関係性があっての事だと思います。

これまでは、宛先の山田彦太夫が、どこの「山田」なのかわからなかったのですが、近年の私の要素の蓄積により、能勢のM氏が所蔵している理由は、彦太夫が能勢の住人である可能性が高いと考えるようになりました。これは、確定度合いが高いと考えておりますし、それを証明するための他の史料も探しながら、後日にそれらを明らかにしたいと思います。能勢方面には、山田という集落がありますし、そこには比較的規模の大きな「山田城」もありました。もしかすると、余野との関係性も長正の代で醸成されている可能性も高いです。

上記の史料は、欠年で、今のところ永禄4年(1561)と考えてはいますが、もう少し前の可能性もあります。
 内容的に、軍事動員ですが、能勢周辺の至近とは限らず、長正が軍事動員を割と大規模にしなければいけなかった時期。または、能勢周辺でそのような必要性があった時期。長正が、ある程度、権力を帯びていた時期。などなど。
 因みに、池田長正は、永禄6年(1563)2月に死亡しています。この年は、時代の変わり目のような年廻りで、3月に、前右京大夫(管領)細川晴元が死亡、8月に三好長慶の一人息子義興、12月に右京大夫(現職)が死亡しています。あまりにも重要要素が重なり過ぎており、疫病の蔓延があったのではないかと考えられます。

この池田長正の死後、速やかに惣領の継承が行われ、池田勝正が惣領となります。しかし、勝正も直ぐには「筑後守」を名乗らず、試用期間があった可能性もあります。と言うのも、勝正の惣領就任は、池田四人衆の承認の下で行われ、その権力下にあった可能性もあります。

 


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2024年5月15日水曜日

摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て

摂津池田家を見る上で、池田長正という人物は非常に重要な人物です。この長正の代で、池田家の発展の伸び代が芽生え、また反面、同族争いもしています。それから、この長正の代で、荒木村重につながる丹波出身の荒木氏が重く取り立てられます。

池田長正は、残された史料が断片的で、知りたい所の肝心な部分が今のところ見当たらず、それについては、周辺史料から推し量るしかありません。しかし、史料が無い訳ではありませんから、泣き言を言わずに証拠を紡ぐしかありません。
 その要素の一つで、同じような行動をする人物として、芥川孫十郎が居ます。しかし、この芥川姓はいくつか見られ、一つの筋としてみてしまうと、矛盾する動きをしており、混乱してしまいます。少なくとも私はそうでした。

この矛盾は、整理しておかねばならないと思っていたところ、私の尊敬する馬部先生のお見立てが、非常に参考になりました。またまた、備忘録的に、私の頭の中の整理としても、ちょっとブログに記事を投稿しておきます。

『戦国期細川権力の研究』からご紹介します。
※第二部 澄元・晴元派の興隆 第一章 細川澄元陣営の再編と上洛戦 3上洛戦の展開と軍事編成の変化「註:79」P250より

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この芥川氏の後継者について、天野忠幸氏は『二水記』永正17年5月10日条や『元長卿記』同日条の既述をもとに、三好之長の子である芥川次郎長則が養子に入ったと指摘している。しかし、芥川家に複数の系統があることに注意が必要である。
 長則の後継者は天文18年頃まで芥川孫十郎を名乗っているが、天文21年までに芥川右近大夫と改めている。(「親俊日記」天文11年6月13日条。成就院文書 <『戦三』240>。離宮八幡宮文書266号 <『戦三』340>。)それとは別に、天文18年11月に細川氏綱の命に従って、西岡にて段米の徴収にあたっている芥川美作守清正がいる(東寺百合文書い函121号 <『戦三』724>・『鹿王院文書』593号 <『戦三』266>)。彼は、直前の同年10月までは四郎右衞門尉を名乗っているので、孫十郎とは明らかに別人である。(広隆寺文書 <『戦三』255>・東寺百合文書ソ函245号)。
 応仁の乱の頃、阿波には勝浦荘の藏年貢を押領する芥川次郎がいるので(『西山地蔵院文書』4-18(2)号)、長則はこの家を継いだとみるほうがよいかと思われる。「故城記」(『阿波国微古雑抄』224頁)では、勝浦荘に近い那東郡び芥川氏を確認できる。
 最終的に清正へと受け継がれる豊後守の系統は、四国で畿内復帰の機会を窺っていたと思われる。「細川両家記」享禄4年閏5月13日条に「阿波衆堺より出張也、典厩・香川中務丞、築嶋に陣取給ふ」とみえる「香川中務丞」は、同じ一件を指して「去5日芥河中務丞・入江彦四郎至摂州入国」(増野春氏所蔵文書 <『戦三』73>。東京大学史料編纂所影写本で一部修正)とあることから芥川中務丞の誤りである。ここでの芥川氏は、三好元長らと行動をともにして摂津への上陸を果たしている。摂津への復帰は、天文2年3月11日付けの将軍義晴の御内書で、伊丹氏や池田氏などの有力摂津国人に並んで、芥川中務丞が宛所となっていることからも窺える。(「御内書引付」<『続群書類従』第23号下>)。のちに晴元方に芥川豊後守がいることから、中務丞は歴代当主に倣い、豊後守に改称したものと思われる。(「親俊日記」天正8年閏6月13日条・『大館常興日記』同月13日条・15日条)。
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どこの家もですが、やはり、いくつかの系統があります。人物記などには、芥川孫十郎がよく出てきますので、耳馴染みがあり、地域史を知っている者からすれば、直ぐに摂津芥川氏と結びつけてしまいます。しかし、それをしてしまうと、混乱します。

馬部先生のお見立てでは、その芥川孫十郎は阿波国人であって、摂津との結びつきは希薄です。ただ、一方の摂津国人系で、阿波に一時的に身を寄せていた「四郎右衞門尉 - 豊後守」の系統のそもそもは、どちらも同族なのでしょう。

それで、この芥川孫十郎という人物が、池田長正と行動を共にしている事が多く、史料に散見されます。
 孫十郎は禁制の類いが多く出されていますが、それに対して摂津に強い結びつきを持つ豊後守系では、寺社などとのやり取りをしている自署文書が見られます。

今は、ザッと感覚的にご紹介しておきますが、芥川孫十郎は、確かに三好長慶系統の血族なのだとは思いますが、地盤が摂津に無いため、自らの権力基盤がありません。多分、収入というのも地場から得られるものはあまりなかったのでしょう。
 そうすると、三好長慶の近習的立場や様々な管理や取次などで、長慶の行動を支えたのかもしれません。孫十郎の活動拠点はよくわかりません。もちろん、本国の阿波からの身入りや立脚点はあったのでしょうけど...。
 それ故に、近畿地域での自らの権力の後ろ盾となる要素、人物、機会を求めて、表裏激しく行動しています。結局は立場を失って、阿波国に却ってしまいます。どうも、細川晴元の誘いを受けて、何度か乗っては失敗しているように見えます。

一方、池田長正を見てみます。この人物も、池田信正亡き後、権力基盤を失って、細川晴元の権力を後ろ盾に行動していた時期があり、芥川孫十郎と同じく、同じ時期に、付いたり離れたりしており、同じ境遇からか、両者は名を連ねることが少なからずありました。

馬部先生のお見立ては、私の迷いに光を当てていただいたように思えました。細川晴元権力の実態と経過を分析することは、非常に有意義だと思います。私の観察している摂津池田家は、その権力実態の証拠としても非常に興味深い歴史になることでしょう。

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主郭部分 2001年2月撮影

登城口から芥川山城を望む 2001年2月撮影

当時の石垣 2001年2月撮影

井戸跡 2001年2月撮影

当時の石垣その2 2001年2月撮影

主郭あたりからの眺望 2001年2月撮影

2024年5月10日金曜日

天正年間初期に、荒木村重が勧請した摂津古曽部日吉神社(大阪府高槻市)について

荒木村重についての発見やそれに関連する池田長正につながる大きな発見があったので、備忘録的に、記事にしておきたいと思います。後日、しっかり検証して、レポートとして書き直します。

この5月の連休に、ちょっとブラブラしようと思い、永年気になっていた高槻市の上宮天満宮周辺を見て回ろうと計画を立てました。
 このあたりには、和田惟政供養塔のある伊勢寺、三好義興の墓と伝わる霊松寺、西国街道上の要衝である上宮天満宮があります。ネット上でその周辺地図を見ていた所、古曽部に日吉神社がある事に気付きます。

古曽部は、古曽部焼という磁器生産地としては知っていたのですが、ここに日吉神社があって、その創建が荒木村重であったというのは、知りませんでした。5月3日。早速、心弾ませて訪ねてみました。

古曽部日吉神社の由緒を以下にご紹介しておきます。

(古曽部日吉神社パンフレットより)----------------------
古曽部の高台に鎮座します日吉神社は、戦国時代に武将・荒木村重によって創建されて以来、長らく古曽部の地主神として祀られて参りました。境内からの素晴らしい見晴らしはまさに圧巻です。古曽部は古くは「社戸」「許曽部」などとも表記され、「神社に関わる者」を意味する姓のひとつであったと伝えられています。
 天正元年(1573)7月、荒木村重が織田信長に謁した際、芥川城を落とした武功を賞されて、摂津守に任じられました。その折に、荒木村重は古曽部の地に正倉を創立して、近江国日吉神社から分霊を勧請し、祭典を執り行いました。
古くは祭典の折に、歴代城主が乗馬を献上するのが永年の恒例となっておりました。これが、日吉大神社の起源でございます。
社殿は、慶長十九年(1614)1月11日に再建されたもので、境内は385坪を有し、本殿は神明造・檜皮葺きに彩色を施されています。
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【参考】
古曽部日吉神社公式HP
 
とのことです。非常に興味のある地域の歴史です。確かに史実の流れもそのようになっており、荒木村重が、将軍義昭との抗争の中で、織田信長に加担したことの功績は非常に大きく、信長から称賛を得たのも事実です。参考までに天正元年のめぼしい動きを上げておきます。

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2/15 将軍義昭方池田衆、将軍警固として京都二条城に入る
2/17 二条城の防備強化普請を行う
2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
2/26 織田信長、荒木村重と摂津衆の扱いについて細川藤孝へ音信
3/5   高槻城内で高山友照と和田惟長が争い、惟長が城を出る
3/7   将軍義昭、織田信長からの和睦案を拒絶
3/12 丹波守護代格内藤忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参候
3/13 将軍義昭方池田衆、京都八条方面で陣取りを巡って東寺衆と喧嘩
3/14 将軍義昭、味方についた摂津池田遠江守へ内書を下す
3/27 将軍義昭、二条城の防御態勢を整える
3/29 荒木村重、細川藤孝と共に京都知恩院にて織田信長と会見
3/30 荒木村重、京都九条方面を打ち廻る
4/2   織田信長勢、洛外を放火
4/5   将軍義昭と織田信長の和睦会談が行われる
4/6   荒木村重、織田信長方の和睦交渉団に名を連ねる
4/7   将軍義昭と織田信長の和睦が成立
4/27 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団から起請文を受け取る
4/28 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団へ起請文を提出
7   荒木村重、芥川山城を攻める? ←出典確認中(三田市史に『野史』とある)
7/5   将軍義昭、眞木嶋城にて再度挙兵
7/18 将軍義昭降伏
7/28 「天正」に改元
8   荒木村重、織田信長より摂津一職を任される?
9/10 高山友照、摂津国本山寺知行安堵の旨を伝える
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色々思いついたのですが、今はキーワードだけ上げておきます。

  • 荒木村重は、天正5年9月に有岡城へも山王(日吉)神社を勧請している
  • 山王神は、古代氏族の秦氏が崇拝していた
  • 山王神は、開発、農業、治山、治水、開拓、酒造などに霊験灼かであること
  • 荒木村重は、丹波国に起源を持つ事を意識していた可能性
  • 荒木村重は、藤原系譜ではない
  • 古曽部郷の重要性(伊勢寺、霊松寺、上宮天満宮は全てその内にある)
  • 伊勢寺は、伊勢貞国(室町幕府政所執事)屋敷地を伊勢一党の菩提を弔うため寺地として寄進したと伝わる
  • 古曽部日吉神社地の要害性の利用(軍事戦術上の布石)
  • 芥川山と高槻城の間の要地
  • 西国街道の監視(南側は縄手で湿地であり、西国街道の監視には最適)
  • 楊谷寺 (柳谷観音)を経た西岡地域(長岡京方面)への直轄街道の確保
  • 高山右近に対する目付け的な行動及び補完関係


以下、資料的に写真も載せておきます。

 

古曽部日吉神社本殿

日吉神社境内地から南側を望む

古曽部日吉神社本殿への階段

古曽部日吉神社参道

古曽部村中心地の町並み

2024年4月11日木曜日

『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

昭和から平成に元号が変わり、世も変わろうとする頃、それまでの地域の軌跡を記録しておこうとする動きも、各地でみらます。その取組は、今となっては大変貴重な取組でした。
 『荒牧郷土史』は、非常に念入りな構成で、市史や県史と同様の知見をまとめた非常に価値の高い内容となっています。中でも特に、この項目では「酒造業」の既述をみたいと思う。先ずは、内容をそのまま引用させていただきます。

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◎酒造業
酒造業については、次の文書からこの村でも酒造業が行われていたことがわかります。

寛成(政)四年極月五日(1792年12月5日)
一、右極月五日大坂東御番所より北在組酒家酒造御改二付、与力・同心大勢にて加茂両家、小池・中山・荒牧・川面・大鹿・昆陽・古江凡拾六七軒斗御改被成諸帳面不残御持帰り被成、同六日御番所へ御召にて段々御吟味被遊候所、川面其外無株之分五人有之入牢被為仰付(「天明・寛政期酒造一件諸控」、四井幸吉文書『西宮市史』第五巻)

大坂東御番所から与力・同心が酒造改めのため北在組十七軒ほどの酒家に出向いて帳簿を残さず持ち帰り、あくる日順番に取り調べて酒造株を持たずに営業している五人を入牢させています。この文書によって荒牧でも酒造業が行われていたことがわかります。
 近代になってからは、岸添家が明治三年(1870)大坂出身の酒造家鹿嶋屋清太郎から貸株を受け、伊丹中之島町で酒造業を行っています。

現在の宮水湧水地の様子
 これとは別に江戸時代の終わりまで「荒牧屋」と称していた酒造家があります。現在も「櫻正宗」の銘柄で知られている神戸市魚崎にある山邑酒造株式会社です。この会社は享保二年(1717)の創業で、天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに西宮にも出作りし、とくに西宮藏の酒質が優れていることを知り、その原因を追及するうちに宮水の発見となりました。天保十一年(1840)のことです。
 現在の当主(山邑美保子氏)に伺いましたところ、残念ながら山邑家の過去帳は天保時代台風で水に浸かり判読できず、それ以前のことはわからないということです。
 ところで、江戸時代の商人の屋号を調べると、米屋・油屋など商品を付したもの、河内屋・播磨屋・大坂屋など国名や大都市の名を付したもの、山田屋・荒牧屋など農村名を付したもの、松本屋・大塚屋など人名を付したものに大別されます。その中で農村名を付した屋号は、その農村が出身地か、商業上の取引があったものと思われます。
 「荒牧屋」と荒牧村との関係を示す具体例として、天保12年西教寺に鯛島万兵衛とともに荒牧屋重次良が釣り燈籠を寄進しています。
 また、天保4年、荒牧屋もよという女の人が寡婦となって、一家そろって荒牧村の源左衛門に引き取られています。このような例から見ると、山邑家の先祖も荒牧村出身で、荒牧屋を称したものと思われます。
 ところで、「文政五年(1822)酒造米引手」では米の品種を大極から下々まで8種に分けて選定していますが、荒牧産米は大極から数えて5番目の「上」になっています。また『伊丹市史』第二巻によれば、米問屋鹿島屋利兵衛購入の荒牧産米は、主として掛米(もろみの仕込みに用いる米)に使われています。
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この中で、特に気になる既述の要素として、

天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は、大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに、西宮にも出作りし、...。

明治末から大正時代頃の伝法

という口伝です。2点気になる所があります。
 1つ目は、歴史的な一応の流れは、西宮から灘へ拡がったようですが、口伝ではその逆になっているようです。
 2つ目は、荒牧屋当主(六代目)が、大坂伝法町に住んでいたと伝わっている事です。1717年(享保2)に、荒牧屋にとって事業拡大や新体制となった画期で、「荒牧屋初代」と位置付けているようです。概ね一代の活動期間は20〜25年で計算すると、120〜150年後という事になります。ここを基点にすると、六代目の活動期は、1837年(天保8)から67年(明治元年)頃となります。
 一方で、荒牧屋は1625年(寛永2)創醸という事ですので、ここを基点にすると、六代目の活動期は、延享2年(1745)から安永4年(1775)という事になります。
 もしかすると、六代目の時代関係をどこに基準を当てるかによって、宮水の源泉発見も、もう少し前の時代になるのかもしれません。これは今のところ、勝手な想像ですが...。

現在の伝法の河港の様子
別の視点から見てみます。西宮市の公式見解としては、宮水の発見は1837年(天保8)ないし、1840年(同11)としており、また、その発見者を櫻正宗六代目山邑太左衛門としています。
 この事と荒牧屋の初代からの代重ねの道筋と概ね一致します。櫻正宗の公式見解として、「宮水の発見」との関連性から考えて、創業初代を享保2年(1717)としているようです。

それから、西宮や灘地域への拡大経緯ですが、これらを私なりに少々想像してみます。櫻正宗の公式見解と『荒牧郷土史』では、享保二年(1717)を初代と定義しています。創業から数えて六代目当主(天保年間:1831〜45)は、伝法町に住み、事業を拡大しつつあった中で、享保二年に新体制となったのでしょう。しかしこれは、それ以前から伝法町に住んでいたものと思われます。
 また、生産地も西宮から新興の灘地域へ進出して事業を拡大したのかもしれません。社会情勢や業界の成熟期など様々な要因で、更なる品質向上を求めていたところ、主要的生産地であった西宮で「宮水」の源泉に辿り着いたのではないでしょうか。
 もちろん、それまでにも銘水での酒造は行われていたとは思いますが、源泉からの安定供給により、更なる品質向上と生産量の増大によって、地域ブランド力の強化や差別化を図る意図もあったように思われます。時代を経て、酒造メーカーも増えて、競争の激化もあった事と想像します。
 今のところの「宮水発見」の公式見解は、1837〜40年で、これはほとんど、江戸時代末、いわゆる幕末にあたります。

「荒牧屋」が関連する地域の位置関係
一旦、既説をリセット(ご破算)しまして、以下、荒牧屋六代目が大坂の伝法に住んでいたという口伝について考えてみます。
 櫻正宗の公式見解によると、天保年間(1831〜45)に当主は大坂伝法町に住んでいたという事です。天保時代というと、江戸時代も末期で、幕府が倒れるまでに20年程です。その時代であっても、当主が伝法町に住まいを置いていたと言う事は、江戸時代を通じて、今で言う本社を伝法町に置いていたとも考えられます。
 同じく櫻正宗の公式見解では、1625年を創醸の年としており、この年が同地にある正蓮寺の創建(開山:日泉上人・開基:甲賀谷又左衛門尉正長)です。荒牧屋は、この創建時に大量の酒を提供しています。
池田から江戸までの輸送経路と運賃
 甲賀谷正長とは、摂津池田の高位の武士です。甲賀谷氏は、他にも尼崎の長遠寺(じょうおんじ)の大壇越であり、同寺では特別に顕彰されている人物です。ちなみに、両寺は共に日蓮宗です。また、甲賀谷氏の拠点である池田にも同宗の本養寺(京都本圀寺の第五世日伝の嫡弟玉洞院日秀の創建(応永年間1394-1428)と伝わる)があります。この日蓮(法華)宗は、近衛家とも繫がり深く、また全国に組織的ネットワークを持ちます。
 そういった状況もあって、伝法町の正蓮寺を基点にした関係性は維持していたとみられます。外形的には大消費地であると同時に、相場・物流拠点としての大坂・尼崎に近く、時局の把握と生産地への連絡を重視していた事が想像できます。ネットワークの中間地点に住んでいたというのは、無意味では無いのでしょう。
 その詳細は今後の課題にしたいと思いますが、荒牧の山邑氏、上月氏、甲賀谷氏の縁故がこれ程永く保たれていた事は、非常に興味深い事です。この事が、酒造・輸送(物流)・地域経済など、様々な謎を解くきっかけになれば良いと思います。

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