2016年2月11日木曜日

1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

近頃の日本の株価平均の急速な下落とか、中国の経済状態やヨーロッパの事などの世界的な経済・金融の動きについて、討論番組を見ていてふと、気づいた事があります。

これまでにご紹介した「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)」にも自分が書いた事なのですが、将軍義昭政権の初期の段階で、織田信長は経済政策に失敗しています。
 日本の歴史としては、織田信長の執った政策は、日本の政治史発展に大きな貢献をした事は明かですが、しかし、当時を生きる人にとっては、大波乱の時代でもあった訳です。

写真1:池田市細川地域から出土した古銭
詳しくは、上記のページをご覧いただければと思いますが、言いたい事の核として部分的に取り上げると、「それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した。」と記述しているところがあります。
 池田家の内訌は、この翌年の6月ですから、加担する政権の経済的な失敗が見えてくる時期でもあったと思います。もちろん、池田家内訌の理由がこの一つの要素だけでは無く、他にも色々あるのですが、経済的な要因は、今も昔も変わらず、判断するための大きな要素になります。

こう言う背景要素もあって、先鋭的で、性急な判断に迫られるような事が起きた場合、議論は紛糾し、刃傷沙汰に至りやすくなるものと思われます。そういった中で、1570年(元亀元)6月の池田家内訌に至ったのでは無いかと、ふと、思いつきました。

写真2:出土した古銭の代表例
この、気づきというか、ヒントはまた広い視点持をちつつ、深く掘り下げてみたいと思います。

【写真1】昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に出土した古銭で、写真のような状態で発見された。古銭は、年号による種類では48種類、書体による選別では93種類で、分類不能なものは555枚。総合計18,317枚。発見された古銭の年代の開きは約800年。
※出典はグラフいけだNo.18 (1972年2月) より。
【写真2】開元通宝は、西暦621年に初鋳された唐銭で、この発見の中では最も古い。永楽通宝は、西暦1411年に鋳造され始めた明銭で、室町時代の日明貿易によって大量に入り始め、江戸時代初頭まで流通した。織田信長はこの永楽通宝を旗印にもしている。
※出典は同上。



2016年2月3日水曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(はじめに)

中世の摂津国大坂周辺は、江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、現在のような流路になるまでは少し風景は違っていました。当然、その付け替え以前は、交通を始め、様々な要素が、その後とは違います。摂津池田衆の家運が最盛期だった室町時代末期頃も、その事を踏まえて見ていく必要があります。
 この大和川付け替えについては、大東市立民俗資料館で判りやすく学ぶことができます。また、淀川の治水の歴史については、枚方市にある淀川資料館で詳しく見ることができます。現在の災害の無い、豊かな生活を送ることができるのは、壮絶とも言える先人の努力のおかげである事がよくわかります。
 淀川資料館では、近現代に功労のあった、外国人技師のエッセル、デ・レイケ、沖野忠雄技師、大橋房太郎大阪府議の志には、本当に感動します。特に大橋府議は、献身的な努力を生涯に渡り続けられ、水害で苦しむ人々を減らすべく、尽力されました。何しろ、私の生まれ育った「放出(はなてん)」出身の偉人です。出身が庄屋の身分であったにも関わらず、亡くなる時には借家住まいとなって、私財も全て注ぎ込んで、大阪府民のために働かれた方です。葬儀は府葬で、その見送りには多くの人が感謝を捧げたとの事です。
 感情移入してしまいました。淀川資料館も機会があれは、是非、見学してみて下さい。淀川は身近なのに、知らない事ばかりでした。学校で教える事も無いと思いますので、是非お子さんを連れて、見学をされて、淀川縁でお弁当でも食べて、のんびり楽しんでみてはいかがでしょうか。
 
以下の図は、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図です。


大和川付け替え前の川の流路

 
さて、以下に散文的に昔の大坂周辺の川や池についてのコラムを増やしていきたいと思います。どうぞお楽しみに。

東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡
戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)
・大東市に残る昔の川の跡



2016年1月25日月曜日

ミニシンポジウム「天下人三好長慶と飯盛城」を聴講して、城について考えた事

去る平成28年1月24日、大東市で「天下人三好長慶と飯盛城」についてのミニシンポジウムがあり、学術的な見地から、以下の項目でお話しがありました。

◎天下人三好長慶と飯盛城 (天野 忠幸氏)
◎飯盛城跡を国史跡に (中西 裕樹氏)

飯盛山山頂から南西方面を望む
今回は私にとって特に中西氏のお話しに興味を持ちました。中西氏は、プレゼンテーションソフトのパワーポイントを使って、ビジュアル的に説明され、一般市民向けに理解しやすいように工夫されていました。
 内容は、飯盛城を中心として、それに関する近隣の城などの比較を含めて、特徴を説明し、その存在意義を説明されていました。また、レジュメには、三好長慶の永禄4年頃の支配領域図と共に、その域内にある城と、その外周にある重要な城が載せられていて、その図を元に城の説明が進んでいきました。

個人的には、こういった城の配置や大きさについて、それぞれ単体で存立しているものでは無く、連携機能を元に考えられたものだろうと感じています。また、誰(地域)と敵対するかによって、組み合わせが変わっていくものとも思います。
野崎観音寺(城跡)から北西を望む
いわゆる、本支城関係がこれにあたり、敵の居る方向によって城の配置と、本城を置く場所も変わり、それに相対して支城の連携も変わると思います。

例えば、永禄4年頃には、南河内の畠山氏勢力が、三好長慶に敵対していましたので、それに向かうための人員配置と城の置き方となります。加えて、畠山氏に連動勢力が、紀伊・大和・近江国などにあり、その後背勢力にも対応するために飯盛城・信貴山城(高安城・二上山城・立野城含む)・多聞城・鹿背山城が拠点となり、その周囲の支城と連携した地域防衛(攻撃も)体制を構築するといった感じではないかと感じています。
 他方、拠点には重要(政権中枢)人物が入っていますので、それぞれが連絡・連携できる状態で、相互補完もできるようになっていたのだろうと思います。「面」で防御するイメージというと判りやすいでしょうか。
北条集落から飯盛城跡を望む
飛行機の無い時代の戦争は、「後詰め」が非常に大きな役割を果たします。これは、「将棋」のやり方をイメージをすると判りやすいと思いますが、駒1つだけを意識しても、攻めも守りもできません。駒同士が、如何に連携しているかが駒を動かす理由になります。何重にも関連した手を打てば、相手は崩しようがありません。

私は城の配置や機能(役割分担)も、基本的にはそのように考えられていると思います。ですので、連絡を取り合うための施設が必ず城内や隣接して存在しと考えています。例えば、狼煙や鉦、鏡の光を使う、旗などを使った方法で周辺の城と連絡を取るような施設があったと思います。ですので、そういった城から視界が利く方向は、連絡を取る必要があった城と、敵を見張る事ができる方角(仮想敵の方向へ開けている)だったと思います。

それから街道は、敵の流れを止めつつ、物や人の移動など、自軍に都合良く使うために工夫をしておかないといけません。そういった事も考慮された本支城の構築だったろうし、軍勢が集まる拠点としても、本城というのは、重要であったのではないでしょうか。
個人的に考える本支城の関係と広域地域ネットワーク
戦国時代も後期になると、人の数、物資の量も飛躍的に多くなりますし、それに加えて迅速に移動させる必要が出てきます。

ですので、私の考える城の配置は、政権中枢の人物が、地域支配を行う本城を持ち、地域支配のためのグループ化が行われた人物がそれぞれの支城を持つ。そしてそれらのグループ同士が、互いに連携して、広域のネットワークを持ちながら、より広い面の軍事支援補完を行うというカタチになっていると思います。
 ですので、人の立場と役割が、そのまま城の機能と大きさになっていくのだろうと考えています。まあ、ある意味、それが自然な成り行きだとも思います。重要なところに重要人物が居て、その城も大きいというのは...。

この頃の城については、そのように考えたりしているのですが、シンポジウムの質問の時間には、それについて訊いてみなかったのですが、またいつか、専門家でもある中西氏などに訊いてみようと思います。



2016年1月24日日曜日

池田四人衆の事について(はじめに)

摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較にならない程の差になったと考えられます。

池田四人衆とは、守護職家でいえば、守護代のような、近世大名の組織体制でいうところの家老のような、当主と同等の権力を持つ執政機構といえるのだろうと思います。
 四人衆は、勝正が当主の時代から見ると先々代の信正の代に創設されたと考えられます。これは信正が、管領である細川晴元の重臣で、その側に仕えるために京都の屋敷に居住していた事から、本拠である池田城に当主の分身を置くために考え出された体制のようです。
 四人衆はその名の通り4名で構成され、個人的には、その内の2名は京都で当主の補佐を行い、一方の2名は池田に居て、本拠地の管理を行ったものと考えています。

その後、池田家が大きな勢力に成長して行く過程で、離合集散を引き起こしながら、管領機構である四人衆自体が当主と対立する程の「権力体」になってしまいます。皮肉な事に、池田家を成長させた官僚機構が、滅亡の原因となってしまったとも言えます。

以下、池田四人衆について書いた項目をまとめてみました。また、少しずつ記事を増やしていきたいと思います。論文的に、体系的な書き方もできていけたらと考えています。



2016年1月23日土曜日

1570年(元亀元)の幕府による阿波三好氏討伐計画(はじめに)

元亀元年(1570)の幕府による越前守護朝倉義景攻めは有名ですが、実は阿波国三好氏攻めをも計画しており、検討の結果、朝倉攻めになった事は、あまり知られていないような気がします。

永禄12年(1569)時点で幕府は、阿波か越前のどちらを攻めるか、決めかねていたようです。しかし、結果的に越前朝倉討伐となりましたが、これは、この年に織田信長との同盟勢力であった近江国人浅井氏が、「離反する」との噂が出た事。加えて、永禄11年8月に朝倉氏が、隣国の若狭守護家の武田家内紛に介入して、若狭への影響力を強めいていた事もあって、後者に決まったようです。
 当時の政治的・軍事的深刻度合いから、越前攻めを優先させたようで、阿波攻めも同時並行で準備はされていました。

その幕府方の動きについて、関連する要素をご紹介していきたいと思います。

(1)将軍義昭政権始動時の幕府の状況
(2)幕府が当面行うべき事
(3)当初から阿波か越前を討伐する計画があった
(4)越前朝倉氏攻めに決まった理由
(5)西国の情報を集めていた堺商人今井宗久
(6)阿波国攻めの準備の状況
(7)永禄12年(1569)の播磨国攻めは、阿波国攻めの準備



2016年1月18日月曜日

乱世を駆け抜けた城「若江城を探る」シンポジウムを聴講して

去る1月16日、先週の土曜日なのですが、東大阪市立男女共同参画センター・イコーラムホールで開催(主催:近畿大学 文芸学部文化・歴史学科)されたシンポジウムに参加してきました。当日は盛況で、立ち見も出る程でした。プログラムは、
  • 問題提起-歴史的拠点としての若江 網 伸也氏(近畿大学文芸学部)
  • 落葉 若江城と三好氏 -調査結果から- 菅原 章太氏(東大阪市教育委員会)
  • 城郭史から見た若江城の再評価 -戦国から織田への転換点- 中西 裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
  • 若江城はどのようにイメージされてきたか 小谷 利明氏(八尾市立歴史民俗資料館)
  • シンポジウム:網、菅原、中西、小谷各氏
の内容で行われましたが、私はちょっと先約があって、シンポジウムは聴くことができず、講演会のみの参加だったのですが、内容は大変興味深かいものがありました。

個人的には、会場の参加者の様子を見ると、専門的に研究している風でも無く、興味レベルの市民が参加していたようでしたので、もう少し判りやすい比較やビジュアルを多用して説明した方が良かったのではないかと思いました。つまり、説明が詳し過ぎたように感じました。
 私自身は面白かったのですが、内容が結構アカデミックで、学術レベルが高すぎた感はあったかもしれません。難しいところですね。

さて、その中で興味があったのは、以下の要素です。
  • 重要な地域(若江地域について)は、時代が変わっても同じ。
  • 若江城の成立環境後期は、守護方としての動きの可能性がある事。
  • 三好義継は始め、河内守護職として飯盛山城に入り、永禄13年始め頃には若江城に移ったとの考えを再認識した。
これらの要素は、私の関心分野にも大きな影響があり、もう一度考え直さないといけない所も出てきました。

そう言われてみると、もう一度、自分の研究ノートを見直した時、同じ要素を載せてはあるのですが、その意味や可能性を考えずに通り過ぎて、通年や一般論を思い込んでいる所があるのです。そういった事が一カ所でもあると、それに関連する場所や出来事もつながって理解します。
 「思い込み」は禁物ですね。怖いですね。全ての前提が摂理(真実)とは全く違う方向に進んでしまいます。
 
シンポジウムに参加して良かったです。これを機に、私の研究も、該当部分を見直していきたいと思います。全体の研究も、より摂理に近付けるようになっていけばと思います。



2016年1月9日土曜日

摂津池田家の支配体制(はじめに)

応仁・文明の乱以降、京都中央政治の混乱もあり、日本全国の地方都市は独自に権力を形成するようになったとも言えます。
 それは、更なる混乱を招き、戦国時代とも言われる、動乱の時代になりました。そんな環境の中で、首都京都に近い摂津国の有力武士であった池田家も成長していきます。将軍義栄・義昭の時代には、同国内でも数郡を支配下に持つ最有力の勢力に成長し、池田家が戦国領主の概念を超える程の規模となっています。
 実質上の池田家最後の領主であった勝正の時代を目安に、池田家周辺の支配体制を考察してみたいと思います。
 
(1)摂津国川辺郡久代村の支配
(2)同国原田郷との関係
(3)摂津国垂水西牧南郷目代今西家との関係
(4)池田一族の代官請け
(5)池田家被官について
(6)池田周辺の政所
(7)摂津国豊嶋郡箕面寺
(8)池田氏が下した禁制及び定め

2016年1月7日木曜日

永禄年間末期の三好義継の居城は、河内国の飯盛山城か!?


飯盛山城跡から京都方面を望む
近年、河内国飯盛山城を国指定の史跡にしようと、大東市や四條畷市で盛り上がっているようで、学術的な再検証も行われているようです。
 それにともなって、様々な出版物も出ていて、その理由について書かれています。三好義継は、池田勝正とも深く関係していますので、大変興味深く見ているのですが、自分でも思い込みがあったので、それを補正しようと、自分でまとめている資料を見直しています。
 最近の飯盛山城の捉え方にによると、足利義昭が第15代室町将軍に就いた永禄11年秋には、三好義継は飯盛山城を本拠にしており、若江城に移ったのは翌々年の同13年頃との推定がされています。
 本城と支城の関係や人物についてなど、こまごまとした要素を詳しく検討した論文のようなものも追々出てくると思いますが、今のところ、この新たな見解に納得のいく所も多くあり、受け入れています。
 ただ、永禄12年正月に、三好三人衆方の軍勢が将軍義昭の居所となっていた京都六条本圀寺を襲った時、その行軍行程は河内国の淀川東岸及び東高野街道を進んだと思われますので、これと飯盛山城との関係について興味を持っているところです。
石垣の様子
三好三人衆の軍勢が、飯盛山城下を通過をしたのであれば、敵方である飯盛山城に、どのような対処をしたのでしょうか。何もせず北上すれば、背後から襲われます。やはり、ここに軍勢を割くなどして、後衛としなければいけないはずです。
※歴史資料では、この時の三好三人衆方の軍勢は、義継方の村などの拠点を放火するなど打ち廻りつつ進んだようです。
 そうすると、三好義継は塞がれた道を使えませんので、田原方面から交野などを経由するか、奈良多聞山城の松永久秀と合流し、南山城方面を北上するなどして京都に入ったか、ちょっと再考の余地が出てきます。
 義継が一番敵に近かった割には、京都に入るのが遅いようにも思いますので、敵方勢力に阻まれたり、迂回の必要があったりして、時間がかかったのかもしれません。飯盛山城からの普通の行軍であれば、半日から1日もあれば、十分に京都に入れるはずです。
 義継の河内(北)半国守護としての最初の居城が、若江城では無く、飯盛山城であったとすれば、そういったところの出来事との整合性も補正する必要があり、これに関係する勝正との動きも修正の必要がありそうです。

また、今後の詳しい調査に期待しています。



2015年10月8日木曜日

永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(その1:なぜこの上洛戦が永禄11年秋だったのか)

織田信長が、足利義昭の上洛要請に応じて京都を制した事は、多くの方々がご存知の事と思います。
 尾張国内の統一、また、美濃・伊勢・近江国内の要所の制圧、若しくは影響下に置き、その上で京都侵攻への具体的な絞り込みを行いました。同時に、京都周辺での協力勢力の連絡と取り込みも行い、信長は念入りに計画を進めています。

しかし、個人的に今もあまりピンと来ていないのですが、織田信長の「天下構想」というか、それへの意欲というのは、どんなものだったのでしょうか。最近の研究では、有名な「天下布武」というフレーズを使い始めたのは永禄10年(1567)頃からとされています。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏のように、自分の手で日本全国を束ねるような意欲というか、欲望のようなものが、信長の中にどれほどあったのでしょうか?
 信長と前者の違いは、信長自らが武士の棟梁としてそれを推し進めたのでは無く、足利義昭越しに天下を見ていた事でしょうか。また、「天下布武」を使い始めた時期は、足利義昭の動きと関係するのかもしれません。
 
まあ、その事は脇に置き、美濃国岐阜から京都へ至る道程では、それに敵対する意志を見せていた六角氏と京都を手中に収めていた三好三人衆の勢力がありました。
 永禄11年(1568)秋の時点では、当面の敵はこれらの勢力への対応に絞り込む事ができます。ですので、信長は足利義昭の権威も利用しながら、各方面への対応を行います。
 京都周辺で、三好三人衆方に対抗する勢力を利用しつつ、その三好三人衆の本拠地でもある阿波・讃岐国方面への圧力を加えるために信長は、毛利元就と連携します。
 同時に、龍野赤松氏や播磨国東部の別所氏とも通じ、三好三人衆に圧されて劣勢となった松永久秀、河内南半国守護を追われた畠山氏とも連絡を取ります。
 足利義昭を奉じた信長の進軍と、時を同じくして動くように手はずを整えていたのです。「信長方の軍勢五万」というのは、大ざっぱにこのあたりの事も入れた感覚だろうと思います。大軍であった事は間違い無いことですが、池田城攻めだけに「五万」を付けたという訳では無く、その周辺も含めての事(実際、池田氏の支配領域だけでも豊嶋郡とその周辺にも及ぶ。)だと思います。占領地域にも軍勢を割かないといけないので、全部を前線に集中させるわけにいきません。

信長は京都を囲み、その進軍エネルギーの導火線のように、大軍を用意して、京都を目指したというわけです。
 信長は更に万全を期します。近江守護六角氏の内情を調べ、六角氏の有力被官を離反させています。また、三好三人衆も長期間に渡り、松永久秀などと内ゲバ中でした。信長が軍勢を動かす前には殆ど、勝つための準備が出来ていたのです。相手の状況を探り、自軍が有利になる時期も見計らっていたのです。
 一方、大軍を迅速に動かす事で、相手に抵抗準備をさせず、心理的にも大きな圧力を与えられます。そしてその範囲も、京都占領後にその維持が必要な地域を対象としていたようです。実際にはそれが不十分ではあったようですが、山城・摂津・河内・大和(近江も)に及び、これはそれまでの上洛戦とは少し目の付けどころが違うように思います。

それから、この上洛戦がなぜ「秋」なのかというと、収穫の時期だからです。勝てば、それらを手に入れる事ができます。それを手中に収めるのと、手放すのとでは、意味が全く違ってきます。一度の行動で、大勢(たいせい)を手に入れる事ができます。
 ですので、負けられない一戦をこのタイミングに込めており、攻め方も考え抜かれた方法でした。また、一度手中に収めた資源(財力)を手放さない覚悟と方策も念入りに、「不退」を守り抜いて維持しようとしました。
 政治に必要な要素というものを、その核を理解し、行動の中心(求心力)としていたようです。平たく言うと、永禄11年秋の上洛戦は、京都中央政権の経済を手中に入れ、他者に取られないようにする事。それを室町将軍に就く正統な人物が、武士の棟梁として禁裏と京都を守るという事。それらの要素保持を死守し、中央政権としての信用を得る事を目標にしていたと考えられます。

そんな状況で迎えた三好三人衆方の池田勢でした。三好三人衆方は、信長の目論見通り、総崩れとなり、西へ後退していきます。池田城には、そういった人々も一時的に収容しつつ、抗戦の準備も行います。間もなくこれは、この上洛戦で最も激しい攻防戦となりました。

詳しくは 「その6:池田城攻めの様子と詳報」でお伝えしたいと思います。どうぞご期待下さい。





2015年9月2日水曜日

素人が歴史を学ぶ(見る)上で心がけたい事

近年、自国の歴史や他国と関わる歴史、特に明治時代以降の近代史について、関心が高まっているように思います。
 確かに、私自身の過去を振り返って、学校ではどのように教えられていたかというと、近代史に入る頃には年末年始頃の3学期で、学ぶ方も教える方も、非常に怠惰だったと思います。ですので、歴史に興味を持つ者は、耳学問で、自分の見聞きする範囲、また、実際にその時代を生きた人の経験談か、伝聞で主に知る事になっていたと感じます。

ですので、非常に主観的、且つ、憶測や不正確な環境の中で、近代史を「学んでいたつもり」になっていたと思います。
 これは私だけの経験では無く、割と多くの人がそういった環境だったのではないかと思います。それに加えて、メディアに関わる人々もそのような状況の中で番組を作り、それを見てまた、私たちが学ぶというサイクルになっていたように思います。
 一概にそうもいえない立派なコンテンツ(番組や映画、出版物)もあり、よく調べ、真実を伝えようとする視点もありますが、マスメディアとは少し性質が違うようにも思います。

しかし、歴史とは、個人の経験が全てでもなければ、組織の理由が全てでもない事もあります。また、その最中には見えず、後になって気付く事もあります。それから、立場によっても、性別、年齢によっても当然違ってきます。
 感情や感覚だけでは説明できない事が、特に近代史の難しいところだと思います。組織の単位、利益の単位、スピードなどが、近世以前とは比べものにならない規模になっているからです。
 同時にその環境の中で個人は豊かになり、自由が拡大した事も視点の中心に置かないといけないと思います。国民が同意していた要素も見なければいけません。それは、中央集権が成された近代という時代の中心であった「国家」の産物です。全ての国民は、その中に居たのです。
 よく決まり文句のように言われる、情報統制されていたとか、教育でそう思い込まされていた、だけでは説明の出来ない状況があります。これは思考と責任の放棄以外の何者でもありません。社会と人間は、民族自決の上で国家を立てるためには、共有しなければいけないものがあります。また、自国と国際社会の関係も視野に入れて考える必要がります。

さて、私は全くの素人から中世時代の摂津国豊嶋郡池田の、特にその城主であった池田勝正という人物について調べていますが、その中で学んだ事があります。歴史を調べる時には、

◎現代の感覚で過去を見ない。
◎織田信長のような史上の人物を特別視しない。
◎「if」を考えない。(結果が歴史であり、絶対にその他はあり得ない事だから。)
◎当時の感覚に近づくよう心がける。(環境を理解する。)
◎対象を、できるだけ多くの情報を元に見る。
◎自分の先入観を無くす。
◎見解は言葉を慎重に選び、客観性を心がける。
◎証拠(史料)が無ければ、結論は出さない。
◎推定をする時も、その根拠をできるだけ多く用意する。
◎反論は、史料を以て行う。
◎機会を見つけて、なるべく自分の考えを他に問うこと。
◎議論で喧嘩をしないこと。喧嘩になる相手は、相手にしないこと。

そういった心がけ(条件)が必要だと思っています。これは日常の生活でも、完璧では無くても、そういう心がけは要りますよね。
 私も最初は、主観的な思い込みが強く、あるべき事実が見えていなかったように思います。今も学びの途上で、いつ終わるのかわかりませんが、兎に角ひたすら、情報に接する、史料を読む事だけは心がけています。
 できるだけ、客観的な判断をするためにそれが必要で、その結果として、真実が見えるようになるのだと思います。見えないのは、自分自身でそれが出来ていないのだろうとも感じています。