2025年10月21日火曜日

河内国の武将小寺美濃守高仲と飯島三郎右衛門と高井田村(現東大阪市)のこと

自分の中の記憶の点が結びついて、線から面になることが時々あります。地域の歴史案内板にある「由緒」が、その私の切れた思考と想定の線を繋いでくれます。
 河内国の戦国武将小寺美濃守高仲(現東大阪市布施付近)と同じく弓術の達人であった飯島三郎右衛門(現東大阪市岩田町)が、同国高井田を通じて、荒木村重との関係性にヒントを与えてくれました。

明治末期頃の地図
◎放出街道は摂津・河内の国境線
旧放出(はなてん)街道を南下していくと、旧深江村(現大阪市東成区深江南3丁目)あたりが、摂津と河内の国境に行き着きます。ここで奈良街道とも交差しており、この付近は重要な場所でした。それについて、東大阪市による説明板が立てられていますので、ご紹介します。

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河内国と摂津国境(令和5年3月:東大阪市):
この児童公園の場所は、明治5年(1872)に高井田本村の西端に鎮座する延喜式内社の鴨高田神社へ合祀されるまで、西高井田の村社として八幡神社(祭神は品陀別命 = 応神天皇)が祀られていた所です。この神社跡の西側、大阪市側の深江との間を南北に通る道を境にして、東大阪市と大阪市の市境が続いています。
 この市境は、古代より江戸時代まで引き継がれてきた河内国(若江郡、渋川郡)と摂津国(東成郡)の国境となってきた古道の一つです。この国境は、場所によっては、周辺より約1mも高くなった堤状の道で、北は森河内の方へのびていました。南の足代村以南はやや屈曲した国境となっていますが、この国境堤は、北は茨田郡から南は平野郷まで続き、剣畷と呼ばれた堤にあたっており、ここを通る道は剣街道(放出街道)と呼ばれていました。
 平安時代の記録に”大同元年(806)10月に河内国と摂津両国堤を定める『日本紀略』”とありますが、深江と西高井田との間の堤道は、この時に定められた国堤の名残と思われます。
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今もここは、大阪市と東大阪市の境になっています。

◎摂津守護荒木村重領の境目、摂津・河内国
戦国時代、荒木村重が織田信長政権下にあって摂津と河内北半国の守護を務めていた頃、摂津の国境として、このあたりも管理していた筈です。ただ、時の政治状況により、統治領域の事態は動くようで、村重が河内北半国(若江以北)も信長から任されていたと思われますので、軍事的な緊張度合は低かったのではないかと思われます。村重統治時代は、比較的穏やかな国境だったと思われます。

◎高井田村地で戦死した武将小寺高仲

さて、既にご紹介したように、ここを南北に通る放出街道は国境も兼ねており、深江村に西接して西高井田村があります。同村には、今も念唱寺(融通念仏宗)という寺があり、同寺に足代(村)の豪族小寺美濃守高仲の墓地と祠が建てられていたと伝わります。高仲は、織田信長と戦い、高井田地域で戦死(高井田の戦い)したようです。東大阪市による念唱寺についての案内板には、以下のようにあります。

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阿弥陀坐像は平安時代作
西高井田と念唱寺(平成5年1月:東大阪市):

念唱寺は融通念仏宗の寺院で、寺のある場所は、戦国の世、石山本願寺に味方して織田信長と高井田の戦いで討死にした、足代の豪族小寺美濃守高仲の墓地があり、祠が建てられて、毘沙門天がまつられていたといわれます。
 本山大念仏寺発行の「融通念仏宗年表」によると、寛文8年(1668)に、河州西高井田村毘沙門堂を寺院化して念昌寺としたことが記され、寺としての始まりを知ることができます。寺はその後衰退の時期もありましたが、寺の本尊の天蓋には、宝暦12年(1762)「施主 当寺中興浄恵大徳」また、瓔珞(ようらく)にも明和5年(1768)のこととして「再興浄恵法師」とあり、浄恵(安永9年没)という僧の時に、寺の再興が図られたことがわかります。
 本堂の奥中央に、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、阿弥陀座像は、腹前で定印を結ぶ像高75.7cmの一木造りで、全体に後世の彫り直しで、相当に改変されていますが、平安時代の仏像で、両脇侍像は江戸時代前期頃と推定されています。
 脇にある厨子内の毘沙門天立像も大きく改変された像で、像高67cm、寄木造、玉眼嵌入(ぎょくがんがんじょう)の室町時代頃と推定されています。
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それから、近隣にもう一つ寺があったらしく、しかしこちらは残念ながら、明治時代に廃寺となったようです。その興りなど、今のところ調べていませんが、法華宗の聖源寺という寺があり、その跡に石碑が今も立っています。「ぐるり関西」というウェブサイト(https://gururinkansai.com/nensyoji.html)から引用します。

---(資料3)----------------
かつてあった法華宗聖源寺のこと(ぐるりん関西):
ウェブサイト上の観光案内コンテンツ『ぐるりん関西』によると、念唱寺の前にある「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑は、聖源寺ゆかりの遺物で、側面に「東足代村、聖源寺享保12年(1722年)」とあります。聖源寺は明治時代に廃寺となったようです。
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この聖源寺は、東足代村に縁があるゆです。足代村といえば、先ほどの小寺高仲も足代出身の武将との事でしたので、この西高井田地域は、小寺(足代)氏の支配する所だったかもしれません。

撮影:2005年5月
◎河内国岩田村地で戦死した武将飯島三郎右衛門

それから、同じ東大阪市の旧岩田村にあたる場所に、弓術の達人であった戦国武将飯島三郎右衛門の墓があり、同氏も高井田村出身でした。その墓はその伝戦死地にあるようです。ここにも東大阪市と岩田町文化財保存会による案内板があり、以下のように紹介されています。

---(資料4)----------------
飯島三郎右衛門の墓(平成9年3月:東大阪市・岩田町文化財保存会):
飯島三郎右衛門は市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国の武将織田信長に仕えました。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は、その子秀頼に仕えました。元和元年(1615)5月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死しました。重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。三郎右衛門の長男三吉(さんきち)は殉死をとげ、妻及び母も自刃したが、乳母に助けられた次男が成人した後、この地と高井田に父の墳墓を建てたと伝えられています。
 また、三郎右衛門戦死のこの地は、沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんどひばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わること無く、楠根川にそそぐ水が流れています。
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◎河内国高井田村(現東大阪市)について
高井田村は、長瀬川曹沿いであり、奈良街道も通す要地でしたので、大きな村でした。高井田村の概要を以下に示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料5)----------------
高井田元町付近(撮影:2017年4月)
高井田村(東大阪市高井田、高井田(本通1-6丁目、西1-6丁目、東1-4丁目、中1-6丁目)、長栄寺1-2丁目):

森河内村の南にある。近世には若江郡に属したが、当地の鴨高田神社が渋川郡の同名式内社に比定されるので、古代には渋川郡であったかもしれない。東の村境を長瀬川が流れる。暗峠越奈良街道が東西に走る。正保郷帳の写しにみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳とともに高1711石余、幕府領。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では同高で、京都所司代戸田忠昌領。元文2年(1737)河内国高帳では1817石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)、幕末にも幕府領。文久元年(1861)の村方様子大概帳(塚本家文書)の署名者は庄屋4・年寄8で、4村か、本郷と3つの枝郷に分かれていたと考えられる。高持百姓は103軒。農間余業は白木綿織。大和川付替え以後用水が不足し、夏に10日も照り続けば干害となった。悪水は西方の平野川へ落ちているが、淀川の水位が高くなった時には逆流して田畑が冠水した。前掲大概帳によると、村の南東から南・西・北にかけて延長1650間の内除堤を自普請でつくっているが、淀川・大和川からの出水に備えたものであろう。長瀬川を航行する井路川剣先船を宝永2年(1705)に村民が6艘所有していたが、のちに2艘に減少した。天明3年(1783)から他の4ヵ村とともに松原宿の費用の46パーセントを負担した(布施市史)。産土神は鴨高田神社。真宗仏光寺派西運寺、新真言宗長栄寺、真宗大谷派楊山念正寺、真宗仏光寺派本光寺、融通念仏宗念唱寺がある。
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続いて、高井田村に関係の深い高井田庄についてです。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料6)----------------
高井田庄:
山城石清水八幡宮領の庄園。「吾妻鏡」元久元年(1204)8月21日条に「石清水八幡宮領河内国高井田」とみえ、将軍家の祈祷料所として地頭職をとどめ、八幡宮の沙汰とされている。のち永仁5年(1297)6月日付善法寺尚清処分帳(石清水文書)では、宮一若(入江通清)に譲られ、応長元年(1311)12月15日付善法寺尚清処分状写(同文書)によると、このとき検校職とともに権別当康清に譲られた。応永27年(1420)には当庄下司・公文・年預三職が石清水八幡宮寺雑掌に付され(同年8月28日「畠山満家尊行状」同文書)、長禄3年(1459)には高井田ほかが阿子々丸(善法寺享清)に付されている(同年12月30日「畠山義就尊行状」同文書)。所在地は従来大県(おおがた)郡高井田(現柏原市)一帯とされてきたが(荘園志料)、明確な根拠はなく、高井田庄に郡名を冠した史料もない。一方、当地若江郡高井田の鴨高田神社はもと八幡宮といい、かつて高井田の字西高井田に品陀別命社北の町にも八幡神社があった(大阪府全志)。また「河内志」の鴨高田神社の項によれば、当地一帯は石清水八幡宮と関係が深かったようである。断定はできないが、高井田庄は当地一帯と考えてよかろう。なお所在地不明の石清水八幡宮極楽寺領高井田小庄もある(保元3年12月3日「官宣旨」石清水文書)。これも大県郡高井田に比定する説があるが(大阪府史)、同地は大和川に面した平地のない場所なので、低湿ではあるが平地の広がる当地付近と考えられる。
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◎山城国石清水八幡宮領と鴨高田神社

この高井田庄は、山城国石清水八幡宮領でした。西高井田村にも八幡社がかつてはあり、明治時代に鴨高田神社に合祀されています。西高井田村の旧神社地は、今は小さな公園になっており、北隣りに念唱寺があります。
 このことから、西高井田村までが高井田庄域であったことが判ります。その鴨高田神社について、概要を示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P982

---(資料7)----------------
鴨高田神社(撮影:2017年4月)
鴨高田神社(現東大阪市高井田):

「延喜式」神名帳に載る渋川郡の小社「鴨高田神社」に比定される。現在の祭神は須佐之男命、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。旧郷社。「続日本後紀」承和3年(836)5月19日条に「河内国人散位鴨部船主、武散位同姓氏成等賜姓賀茂朝臣、速須佐之雄命之苗裔也」とあり、河内国と鴨氏との関係が知られるところから、当地に鴨氏がおり、同氏が奉祭した社とも考えられる。中世の状況は不明だが、「河内志」には「中古以此地、供山州八幡神祭料因称八幡宮」とある。当地一帯に山城石清水八幡宮領高井田庄があったと考えられ、当社も同八幡宮と関係が深かったと思われる。慶長20年(1615)大坂夏の陣で兵火に遭い、数年後再建されたという(大阪府全志)。「河内名所図会」によると、北隣の長栄寺の鎮守で八幡宮と称し、高井田村の産土神。例祭は9月15日。境内地に水神の小祠があるが、旱魃になると長栄寺住職が参って祈祷をし、その後村人とともに辻々の地蔵を巡拝して雨乞いをしたという(布施市史)。安永年間(1772-81)悪疫が流行した折、神職久左衛門が1月9日から10日断食祈祷して全村厄を免れた。これにちなみ毎年1月9日大弓による悪魔降伏の式を行ってきたが(大阪府史蹟名勝天然記念物)、昭和10年(1935)頃絶えたらしい。拝殿前の狛犬の台座銘によると、寛政(1789-1801)頃宮座の存したことも知られる。明治5年(1872)村内西高井田の品陀別命社、同40年同じく北の町の八幡社を合祀し、品陀別命(応神天皇)が祭神に加わった
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石清水八幡宮 東谷橘本坊跡
◎戦国武将荒木村重と山城国石清水八幡宮

既述の守護格戦国武将荒木村重は、この石清水八幡宮とも親しげに音信を交わしており、村重の領内にあった八幡宮領をより良く保つため、互いの友好を深めたのでしょう。
 村重が、石清水八幡宮内橘本坊に宛てた音信があります。2月28日付、天正3年と推定されるものです。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P18

---(資料8)----------------
此の表出陣に就き、両所御香水頂戴せしめ候。殊更に味(物事の意味やおもしろみ・おもむき)茶菓子贈り給わり、御懇ろ之至りに候。開陣之刻、申し述べるべく候。恐々謹言。
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大坂本願寺跡地(撮影:2014年1月)

大坂本願寺を孤立・封鎖のため、天正2年(1574)から翌年夏にかけて、摂津・河内国内の本願寺方とそれに味方する三好三人衆方などの勢力を一気に制圧する作戦を織田信長が命じています。
 資料(8)は、この動きの中で、石清水八幡宮が、国単位の地域統治者であった荒木村重に誼を通じたものと思われます。

◎戦国武将小寺高仲の戦死時期
話しを元に戻し、やっとテーマの核心です。河内の戦国武将小寺高仲が、信長勢との戦いで戦死したとの伝承は、いつのことなのか考えてみます。
 信長が足利義昭を奉じて入京するのは永禄11年(1568)秋です。そして、近畿を概ね平定、特に河内地域においては、天正3年夏頃です。その間にいくつかの地域毎の小競り合いはありますが、特に激しい闘争は、天正2年夏頃から翌年夏頃にかけてです。
 以下、ざっとその間の流れと出来事を書き出してみます。

---(資料9)----------------
【天正2年】
7/31   織田信長方細川藤孝勢、河内国三箇城(現大東市)を攻める
9/18   織田信長方細川藤孝勢、河内国堀溝(現寝屋川市)など飯盛山城下で交戦
9/21   本願寺坊官下間頼廉など、河内国人宇治彦右衛門尉跡目(現門真市)へ感状を下す
9/24   織田信長、河内国萱振(現八尾市)での功名に対して細川藤孝へ感状下す
9/29   織田信長方細川藤孝、某へ河内国飯盛城下(現四條畷市)の交戦などについて音信
10/20 織田信長衆明智光秀など、紀伊国根来寺在陣衆中へ河内国南部での戦況を音信
11/16 織田信長勢開陣する
【天正3年】
2/28   織田信長方荒木村重、八幡山(山城国男山の異称)橘本坊へ音信(返信)
3    織田信長、摂津国平野庄へ禁制を下す(朱印状)
3/15  足利義昭衆大和孝宗、甲斐守護武田勝頼一族穴山信君宿所へ河内国の戦況を音信
3/22  織田信長、細川藤孝へ本願寺攻めの兵動員について音信
4/1  織田信長、河内国内などに徳政令を出す
4/6  織田信長、京都から河内国へ向けて出陣して八幡へ陣を取る
4/7  織田信長、河内国若江城に入る
4/13  織田信長、摂津国天王寺へ移陣
4/14  織田信長勢、摂津国大坂本願寺周辺へ押し寄せて苅田などを行う
4/19  織田信長勢、摂津国新堀城・河内国高屋城を落とす
4/21  足利義昭方本願寺門徒衆の河内国萱振勢、織田信長へ人質を出す
4/21  織田信長、京都へ戻る
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大阪町中並村々絵図
(承応・寛文頃:1652-73)
◎小寺氏と飯島氏は河内国に生まれ、河内国で戦死
河内国の平定戦の中で、高井田に近い地域での戦いは、天正2年の秋です。小寺高仲は、この時の高井田の戦いで戦死した可能性があります。
 もちろん他の年月の可能性はありますが、概ねの確率の高さを示しておき、後年の研究の深まりに期待したいと思います。

それから、弓術の達人であった飯島三郎右衞門は、信長方として転戦したと伝わっているようですので、もし三郎右衞門が、この頃の戦いに参加しているなら両者は、敵味方の関係でもあった筈です。三郎右衞門は信長方で、攻める側です。三郎右衞門の戦死時期からすると、両者の世代に少し開きがあるかもしれません。

高井田庄は、永年に渡り石清水八幡宮領で、村もそこに属していましたから、その時期には信長など、時の統治者と友好を保って、領地経営の安定化を図ろうとしていたと思われます。資料(8)の村重とのやり取りは、そんな状況が想定できます。

戦国武将である小寺氏も飯島氏も河内国に生まれて、同国内で戦死しています。どのような想いで戦っていたのでしょうか。

 

【参考動画】
◎120m先のマトをも射抜く!!実戦技術を求める弓術家の業【安藤光太郎】 


 

2025年10月19日日曜日

元亀元年(1570)、摂津国大坂本願寺一揆の理由

元亀元年、三好三人衆が京都の奪還を目指して、大挙軍勢を摂津国中嶋内の野田・福島へ進めたが、幕府・織田信長勢に圧されて軍事的に劣勢となっていた。
 しかし、9月12日夜、大坂本願寺が教団をあげて一斉蜂起し、結果的には、その窮地を救うと共に旧中央政権である三好三人衆方の復権に加担するなった。

この大坂本願寺宗の武力蜂起に至る理由は、複合的であろうと思われるが、筆者は「教団の自衛」が第一義であり、その達成のために味方としての姻戚関係や縁故をたぐり寄せた結果であったのが、実際であるようにみえる。多面的な要因があると思われる。以下、それに関する動きについて、史料をあげつつ考えてみたい。

この頃の本願寺宗(法主は光佐)は、三好三人衆方との交流を持っていないと思われる。少なくとも「顕如上人文案」集には見あたらない。

第十四代室町将軍義栄
永禄11年(1568)秋、足利義昭を奉じた織田信長が、京都へ大挙攻め上り、その時の中央政権であった三好三人衆の奉じる将軍義栄を駆逐してしまった。
 その後、危なげながらも信長の推す将軍義昭政権が幕府の体を保ち続けて、京都での政権を維持していた。これが元亀年間の激しい争いを経て、幕府の内紛を治めた信長が、「天正」と改元して、永年の闘争を終わらせた。

元亀元年(1570)9月12日夜、大坂の本願寺宗は、それまでの中央政権との融和方針を覆し、一斉武装蜂起に踏み切る。

時を少し遡る。

◎将軍義昭政権樹立当初の本願寺宗は、融和的な方針だった
永禄12年(1569)11月20日、本願寺光佐が、幕府奉行人明智光秀へ音信している。これは阿波国の本願寺宗門徒が、三好三人衆方に加担しない旨、その方針を伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(1)----------------
【本文】
御内書之趣き拝見致し候。仍て阿波国表之儀、門下之族此之方依り申し付け為、馳走致す之由、曾(すなわ)ち分別以て能わず候。惣別此の如く之段、双方合力助言之儀、一切之無き事候。此れ等之旨然るべく様申し入れせしむべく給い候。恐々謹言。
【注釈】
此の時之御使梅咲軒也。表書彼の御使よりこのみによって此の如く沙汰外…。
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また、同年12月28日付けの光佐の音信は、正親町三条公兄へ宛てられており、幕府からの命令による加賀国軽海郷(現石川県小松市軽海町)の領知(返還?)について伝えている。
※本願寺日記(下)P588

---史料(2)----------------
(鳥)寔に未だ申し通さず処、御札本懐之至り候。抑も御家領加賀国軽海郷事、 綸旨並びに武家御下知之旨蒙り仰せ候。此の方に於いて更に疎略無く候間、御心安かるべく候。随而三種三荷送り給わり候。恐悦之至りに候。是れ従り又三色三荷推し之進め候。猶下間丹後法印申し入れるべく候。恐々謹言。
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史料の(1)と(2)は、時の本願寺法主が、阿波国三好家の奉じる管領細川家と公卿三条家(転法輪流)との血縁があることを既知で、それに幕府が対策を行っていると思われる。
 それ故に、本願寺光佐の書札集には、管領格細川六郎への音信が、一揆直後の暮れ(元亀元年)の挨拶まで確認できない。
 一方、元亀元年(永禄13)1月内までは、織田信長や幕府要人に新年の挨拶を行い、友好の絆の維持に気を配っている。
※本願寺日記(下)P590

---史料(3)----------------
1月7日付:(織田信長宛て)
新春之嘉祥、更に休尽有るべからず候。仍って太刀一腰(金)馬一疋之推し進め候。表祝儀計りに候。猶下間丹後法印申せしむべく候也。穴賢。
1月16日付:(三淵伊賀守入道宛て)
(鳥)新暦之祝儀為、御太刀一腰(金)並びに御折十合、柳十荷之献じ候。宜しく洩れ申し入れせしめ給わり候。恐々。
【注釈】三淵へ樽代百疋。飯尾大和守、諏訪信濃守二人へ百疋づつ。伊勢守へ一腰、以上例年之儀也。下間丹後法印書状之遣わす。
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現大阪城内にある本願寺跡顕彰碑
◎織田信長が、本願寺宗へ大坂本拠からの退居を要求した

しかし、この頃、信長が本願寺宗に対して、大坂からの退居を要請したという。この史料の現存は確認できないものの、それを裏付ける複数の一次史料が複数現存しているため、退居要請は事実であろうと考えられている。これに関する史料をいくつかあげてみる。元亀元年8月22日付、光佐が紀伊国坊主衆中・門徒中へ宛てた音信みてみる。
※本願寺日記(下)P623

---史料(4)----------------
今般、越前国へ敵乱入之由候。此の上者、当寺之一大事籠城きはまり(究まり)無く候。然れば、何方(いずかた)もたのむべき様体無きにつきて、此の度懇志を励み、一途に籠城候べき心懸け之衆申し合わせ参上候はば、誠に以て有難く。弥々たのもしき次第為るべく候。就中珍からず候へ共、法儀の談合候て、安心決定の上には、弥々油断無く嗜み候べく候。不信の面々は、片時も急い而信をとられ候はば、有り難かるべく候。猶端坊(不明な人物)申し伝えるべく候。穴賢。穴賢。
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◎本願寺宗、一斉武力蜂起の準備行動
本願寺宗の武力蜂起は、9月12日とされる。それよりも1ヶ月前に、準備のためもあり、紀伊国方面の有力者へ決意表明をしている。
 続けて、本願寺宗の越中国瑞泉寺顕秀が、坪坂伯耆守入道(越前朝倉氏被官か)へ摂津国方面の様子を伝えている。
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519

---史料(5)----------------
前置き:
猶々京都へ御着き、慥かに示し下し候。有り難く存じ奉り候。将亦新五郎殿(不明な人物)御所労ハ、御本復の儀候哉。御心之無く存じ候。尤も書状以て申し上げるべく候共、此の由伝達頼み入り候。態と示し預け候。本望候。
本文:
態と本望示し預かり候。一、大様(意味は不明)19日之立ち、御着き御無事。殊更御門跡様御健気御座候儀、有り難く存じ候。一、去る18日(8月18日)上野法橋父子・刑法・筑法・按法、摂津国中嶋迄三好供候て御出馬、所々放火候て、納馬の儀、いよいよ御張りの段、珍重候。一、京表の儀、上意御用心の由、併せて当方いよいよ堅固之故候哉。重而之御一着候。示し給うべく候。一、此の口の儀、先ず以て異儀無く候。昨日者敵相働き、今夜者頻りに鉄砲戦に及びの事候き。相替り事候ハバ、申されるべく候。一、近江国北部の儀、如何聞き得申し候哉。越前朝倉(左衛門督)義景一段手強きの由申し候間、然るべく候。一着候者、後使承るべく候。楮以て追而申し述べるべく候。恐々謹言。
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この音信によると、8月18日には本願寺勢が、摂津国中嶋で三好三人衆勢と共に放火などの武力行使を既に行っている。

◎法主光佐が武力蜂起を決意した事について、関係者への表明
そして、9月2日付、光佐が美濃国郡上惣門徒中へ宛てて音信し、織田信長に対して武力抵抗を行う旨を伝えている。
※岐阜県史(史料編:古代・中世1)P898

---史料(6)----------------
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難渋懸け申し付けて、随分扱い成りと雖も彼の方へ応じ候。其の詮無く破却すべく由慥かに告げ来たり候。此の上は力及ばず候。然ら者、開山之一流、此の時退転無き様、各不顧身命(不惜身命)、忠節抽んずべく事有り難く候。若し沙汰無き輩者、長に門徒為るべからず候。併せて馳走頼み入り候。穴賢。
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◎武力蜂起実行の檄文を各地へ発送
同月6日付、光佐は近江国中郡門徒中へ宛てて武力蜂起の檄文を送る。当時の一次史料『尋憲記』でもそれは触れられている。
※本願寺教団史料(京都・滋賀編)P13、八尾市史(史料編)P181

---史料(7)----------------
『本願寺教団史料』:
織田信長上洛に就き、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題懸け申し付けて、随分扱い成り。彼方(向こう・あちら)応じと雖も候。其の專(何よりも大切なこと)無く、破却すべく由、慥かに告げ来たり候。此の上、力及ばず。然れば、此の時開山之一流退転無き様、各身命を顧みず、忠節抽んぜられるべき事、有り難く候。併せて馳走頼み入り候。若し無沙汰輩者、長に門徒為るべからず候也。穴賢。穴賢。
『尋憲記』9月6日条:
一、世上之説大坂より諸国へ悉く一揆起り候へと申し触れ候由沙汰候。
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この音信では、開戦の理由を具体的に述べられており、信長が大坂本願寺の居所退居を迫った事実を伺わせるのである。

宣教師筆とされる信長像
◎織田信長の軍事的攻撃目標は、三好三人衆ではなく本願寺だった

一方、軍記物ではあるが、『陰徳太平記』に興味深い記述がある。
※陰徳太平記(東洋書院)P54

---史料(8)----------------
信長大坂出張並びに所々合戦条:
(前略)9月4日、播磨国三木の別所孫右衛門尉、百五十騎、紀伊国畠山方玉置、湯河よりも軍兵一千余騎信長へ加勢す、同日の晩(くれ)に至りて公方義昭卿御下向有りて、欠郡中嶋の内、堀と云う所、細川右馬頭藤賢の城へ入り御有りて、旗本二千計りにて御座す。かかれは都合寄せ手の勢六万余騎に成りけり。抑(そもそも)今度信長大坂出張り指し当たる所は、三好退治たりと雖も、実は石山本願寺を攻められるべく謀計とぞ聞こえける
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織田信長は、三好三人衆を主たる敵とはしておらず、実は大坂本願寺を討つ目的があったというのである。これは、越前朝倉氏攻めでも同じ手を使っており、表向きは若狭国の「武藤氏討伐」を謳っていた。

◎大坂本願寺城下に近衛前久が身を寄せる
一方この頃、大坂本願寺内に公卿の関白近衛前久が身を寄せており、前久は将軍義栄政権樹立に貢献していた。この為に処刑される事を恐れ、丹波国黒井城を経て、本願寺方に逃げ込んでいた。9月10日、二條宴乗が、大坂にて前久に面会している。
※ビブリア53号P157(二條宴乗記)

---史料(9)----------------
9月10日条:
天晴。下■へ朝飯に参られるべく由伝え之有り。河伊同道候て参る。其の前に中路へ参る。朝飯色々罷り帰る。河伊にて又酒有り。其れより摂津国大坂へ参る。関白(近衛前久)殿様へ油煙三丁。一、上臈へ一丁。進左へ一丁。明日、河内国枚方へ参るべく由仰せ出され、御請け申す。
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前久は、将軍義昭や信長に対して敵愾心を抱いており、大坂から日本全国各地の有力者に工作を行っていた。
 そんな中、光佐は、前久と関係の深い公卿西洞院殿へも9月29日付で音信している。しかしこの頃、西洞院家は、永禄9年に無嗣による中断中であったらしいが、家人は活動していたらしい。
※本願寺日記(下)P591

---史料(10)----------------
【本文】
(引)尊書拝見せしめ候。抑当山御滞留之段、御忍びに依り只今承り様候。驚き存じせしめ候。仍て仰せ蒙り如く都鄙錯乱旧ハ事と雖も候。当寺へ織田信長恣に之所行且つ堪え難き次第候。随而条々御意之通り過当(当たり前では無い事)之至りに候。向後に於いて相応之儀疎意に存ずべからず候。就中御太刀一腰、御馬一疋拝領尤も珍重に存じ候。弥御本意之上重畳貴意を得るべく候。比れ等之旨宜しく洩れ(発し)せしむ宜(べ)く申し入れ給い候。恐惶謹言。
【注釈】
近衛殿へ御返礼 、御牢人にて当所に御逗留。
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内裏の正殿建築「紫宸殿
◎幕府方と一時的な停戦の動き

それからまた、光佐は、京都青蓮院関係者に10月付で音信している。これは9月20日頃、朝廷で正親町天皇の勅書を本願寺方へ下す用意をし、停戦の動きがあった事と関係するらしい。
※朝倉氏と織田信長(第8回企画展)P42

---史料(11)----------------
初めて染筆候。仍って南北総劇、今于に休まず候。其の和談之儀に就き、門跡為相調えられ候様入魂候者、一天大慶為るべく候。前々申し通し候条、内々細川兵部大輔藤孝自り試し由申すべく候。巨細庁務(鳥居小路経存)へ申し含め候間、詳らかに能わず候。
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青蓮院は門跡寺院であり、本願寺宗中興とされる蓮如は、ここで得度を受けた。その頃の本願寺宗は、この青蓮院の末寺であったという繫がりの深い関係ではあるが、元亀元年頃には、疎遠になっていたらしい。11月13日付で、光佐は、再び京都青蓮院垂髪中へ宛てて音信している。
※本願寺日記(下)P592

---史料(12)----------------
【本文】
(引)尊翰始め而拝披、尤も恐悦至極候。仍って今般不慮総劇是非無き次第に候。爰許之儀先ず以て異儀無く候。就中五明一本、杉原十帖拝受、路次等不輙之処、芳信謝し申し難く存ず計りに候。是れ従り綿三把、十帖之献上候。猶庁務申し入れられるべく之趣き宜しく申し入れ給わるべく候。誠恐。
【注釈】
「これは青門(青蓮院宮)へ御返札也。あなたよりの御礼節閣筆候。恐々謹言。本願寺殿、尊朝、此の時の御使は鳥居少路、于時庁務大蔵卿経存と云う歟。」
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ここへの音信も「始めて」と記している。杉原(紙)10帖が贈られており、今後は頻繁にやり取りする合意が図られている。

後年に描かれた光佐像(部分)
(石川県立歴史博物館所蔵)
◎本願寺光佐が三好三人衆方へ連絡する

大坂本願寺宗は、前久という人物を手の内に保持していた事も、武力抵抗に自信を持たせた一つかもしれない。
 上述の9月12日夜の本願寺宗一斉蜂起後、各有力者や組織と急速に結び付くようになる。9月19日付、光佐は、三好三人衆方の有力者である篠原長房へ音信し始める。
※本願寺日記(下)P591

---史料(13)----------------
態と一翰染め候。仍て今度渡海事早速同心有り、既に淡路国に至り着岸之由、欣悦之過ぐべからず候。弥以て相急がれ此の表着陣之儀、希(こいねが)う所に候。猶下間丹後法印頼総申し越すべく候条、詳らかに及ばず候也。
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10月1日付、光佐は再度、篠原長房へ音信する。この使いに立っている摂津国富田の教行寺は、長房の妻の実家。

---史料(14)----------------
【本文】
(鳥)渡海之儀■■■■■■ 随而誓詞到来、■■■■■■ 是れ従り下間頼総法印誓詞之申し付け候。本願寺光佐同前之事候。猶教行寺(摂津国富田)演説有るべく候也。、としている。同日付で、同じ宛先の音信もある。(鳥)一、今度渡海之儀尤も珍重■■■■■■。仍て太刀一腰、小袖五、馬一疋■■■■■■。猶下間丹後法印頼総申すべく候也。
【注釈】
大かた文章同前に、篠原孫四郎一腰、一疋、小袖三、篠原弾正忠一腰、一疋、小袖三、細川讃岐守真之殿太刀一腰、馬一疋、三好彦二郎長治殿太刀一腰、馬一疋、此の両所へは初め而御書遣わされ之間、祝儀迄也。
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◎本願寺光佐、管領格細川六郎へ音信を再開する
そして、この年も暮れる12月25日・27日付で、光佐が三好三人衆方の大将と目される管領格細川六郎に音信している。これは、永禄11年1月26日以来、約3年ぶりの事である。
※本願寺日記(下)P595

---史料(15)----------------
25日条:
暦軸の嘉佳、珍重候。仍て太刀一腰之進め入れ候。猶明春(不明な人物)早々申し展べるべく候。委細下間丹後法印頼総申し入れるべく候。穴賢。
27日条:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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 天正4年頃の石山合戦配陣図(部分)
◎本願寺宗の経済基盤を守る行動でもあった

こういった動き、また、時間の流れから、やはり本願寺宗の元亀元年の一揆は、織田信長が大坂から本願寺宗本拠を立ち退かせようとした事と、その勢力を武力で削ごうとした事により、本願寺宗は「教団自衛」のために武力蜂起したと考えられる。ちなみに、永禄11年秋の将軍義昭政権樹立後に、本願寺方へ5000貫の差出を課してもいる。
 また一方で、本願寺宗は独自に対外貿易も行っており、以下のような動きが、史料から判明する。天文16年10月1日付けの音信。
※石山本願寺日記(上)P558

---史料(16)----------------
細川右馬頭晴賢・松井十兵衛尉・小河左橘兵衛・水尾源介・並河四郎左衛門等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船三種(献上品脱カ)五人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ。(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)
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唐船の寺内乗り入れを幕府方へ申請している。
 海と川を直接的に支配できる立地から経済的な利便性、軍事面ともに非常に重要な地であった。それは本願寺宗が武力蜂起してから10年も戦い抜いた事が証明にもなるであろう。

◎本願寺宗の門跡寺院に列しているプライド
加えて本願寺宗は、永禄2年(1559)に朝廷の許可によって門跡寺院に列し、同4年に光佐は、僧正に任じられている。光佐の時代、同宗は畿内地域を中心に寺院を配し、大名に比する権力に成長して、最盛期となっていた。その自負心も、信長の態度への反発となっていたのかもしれない。

◎本願寺宗の武装蜂起は、「教団の自衛」が第一義の目的
血縁を頼るようになったのは、蜂起後の事であり、三好三人衆勢が摂津国中嶋内で窮地に追い込まれた状況を救う為とは、行動の附属のように思われるのである。組織内部向けのためもあるだろう、蜂起の理由の一部であったように思われる。
 しかしながら、血族結合も当時の社会には根強い欲求があり、近衛前久が、同族である日野家出身の藤原氏系譜である出自を持つ、大坂本願寺を頼ったのは、他宗にはない血縁組織であった面もあったのかもしれない。要不要やその時の欲求の濃淡は、当然ながら存在する。
 管領格細川六郎と本願寺光佐の音信が、重要な期間中に見られないのは、大坂本願寺の元亀元年の武装蜂起は、姻戚の管領格細川六郎の窮地を救う目的が第一義ではなく、三好三人衆勢力が崩れると、次は自分の身に降りかかるとの懸念もあっての行動であったと思われる。
 一方で、もしも、三好三人衆方が戦況を有利に進めた場合にも、何らかの加担を行い、支援などした可能性はある。
 その場合は、できるだけ矢面に立たず、後方支援などを行う方針だったかもしれない。本願寺教団は、織田信長を仮想敵としていたことは、史料からも読み取れる。
 本願寺教団は、反信長連合の一員となって、目標の共有はある程度は行っていたと考えられるが、何をどの程度合意形成し、その中心はどこなのかを判断するには、もう少し検討が必要かと思われる。越前朝倉氏や近江国の配下の寺衆などとは盛んにやり取りを行っていることから、この方面の状況は掴んで、関心を持っていたと考えられる。