河内街道について、ちょっとコラムを作ってみましたので、ご覧下さい。
この河内街道は、今の日常生活でも利用しているのですが、歴史的な道です。1704年に大和川の付け替えが行われるまでは、河内平野を東西に横切る新開池があって、これを渡って枚方から、八尾までをつなぐ主要な道でした。河内街道は、茨田郡・若江郡の南北の主要道だったようです。
なお、江戸時代の古図には、河内街道との呼称は見当たらないようで、明治時代以降に河内街道と呼ばれるようになったようです。
永禄年間初頭に河内国守護畠山氏が三好長慶によって追われると、三好方の池田勝正はその影響で、河内国へも軍事活動範囲を拡げていきます。
また、大阪平野の中央部にもあたる若江郡は、川に囲まれた島のようになっていて、天然の要害といってもよく、ここには若江城がありました。その若江城に阿波国三好家の宗家でもある義継が入っていた事から、池田勝正も何度か訪れているようです。
元亀元年6月、摂津池田家中で内訌が起り、勝正は家を出ます。勝正は一旦、大坂方面へ南下しつつ京都へ入り、将軍義昭に状況報告を行います。6月20日の事です。
その6日後、勝正は再び河内国若江の三好義継と共に京都の将軍義昭へ状況報告に向かいます。
その頃、勝正は若江城を経て京都を訪ねたかどうかは不明ですが、もし若江城に勝正が入っていたとすれば、この河内街道も使っていたのかもしれません。前述のように、河内街道は茨田・若江郡の主要街道だった訳ですから。
東大阪市加納の旧市街 |
なお、江戸時代の古図には、河内街道との呼称は見当たらないようで、明治時代以降に河内街道と呼ばれるようになったようです。
永禄年間初頭に河内国守護畠山氏が三好長慶によって追われると、三好方の池田勝正はその影響で、河内国へも軍事活動範囲を拡げていきます。
また、大阪平野の中央部にもあたる若江郡は、川に囲まれた島のようになっていて、天然の要害といってもよく、ここには若江城がありました。その若江城に阿波国三好家の宗家でもある義継が入っていた事から、池田勝正も何度か訪れているようです。
宇波神社に街道が突き当たる |
その6日後、勝正は再び河内国若江の三好義継と共に京都の将軍義昭へ状況報告に向かいます。
その頃、勝正は若江城を経て京都を訪ねたかどうかは不明ですが、もし若江城に勝正が入っていたとすれば、この河内街道も使っていたのかもしれません。前述のように、河内街道は茨田・若江郡の主要街道だった訳ですから。
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