2025年9月27日土曜日

摂津国東成(欠)郡左専道村(現大阪市城東区諏訪)にあった城らしき「古城」という小字(地名)

摂津国東成郡左専道村内「古城」推定地
元々は別の調べごとで、大阪府東成郡史を読んでいたのですが、そこに、筆者の生まれ育ちの地でもある旧左専堂村にも「城」らしきものがあった記述を見つけ、驚きました。これについて全く聞いたことがありませんでした。
 それを確認するために、文化財関連など心当たりの公的な関係部署には問い合わせてみたのですが、初耳とのことでした。ただ、古い地番に行き当たることができず、「法務局」での確認になりそうです。とりあえず、場所の特定について、そこまでは辿り着きました。
 また、旧左専道村に代々お住いの古老(1935年生まれ)にも同件を尋ねてみたのですが、「初耳だ」とのことで、場所の特定や様子には辿り着けませんでした。

この「古城」の小字については、非常に気になる要素ですので、調べを更に深めたいと思います。

◎城の存在を感じさせる小字「古城」の記述
さて、それについて先ず、現在手元にある資料を集めておきたいと思います。その出発点である『東成郡史』の記述該当部分からご紹介します。
※東成郡史(大正11年(1922)12月25日発行)P776

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東成郡城東村:
【地勢及び地味】
展開せる大阪平野の一部にして土地平坦なり。本村内を貫通する河川なし。但し池沼及び井路多し。地質は第四紀層に属する肥沃の土壌にして、殊に米・麦・菜種・野菜・大豆等の作物に適す。
【区割り】
本村は鴫野、左専道、永田、天王田の四大字より成る。鴫野は村の西部を占め、永田、左専道は東部に連なり、天王田は中部に位す。天王田は寛文7年、本庄村より分割して置く所なり。各大字に属する小字名及び番地は左の如し。

明暦元年(1655)大坂三郷町絵図
(大阪歴史博物館所蔵)
【大字左専道】
東島(地番略)、上島、中島、下島、古城(自140番至166番ノ2)、西溝、高野田(こおやでん)、中屋敷、西河原、橋本西側、苔木、南尼田、北尼田、切下、佃、宮前、里前、里中。
【水利(水系)運河】
大字鴫野に在り。摂津土地株式会社の経営にて開鑿したるなり。寝屋川朝日橋より西三十間の所に関門を設け、此処より南南東に向かいて進み、約150間(2.7キロ)にして東に折れ、又約100間(1.8キロ)にして南に折れ、経営地端に至る。総延長511間(9.2キロ)、幅8間(14メートル)、深さ干水時に於いて40石積みの運送船の通航を自由ならしむ。大正3年(1914)着手同年竣工す。幅7間(13メートル)の支線あり、その延長168間(3.1キロ)、大正8年(1919)9月竣工す。又城東土地株式会社にて、近く千間井路を開鑿して運河となす計画あり。
【池沼】
本村に池沼多し。大正7年(1918)度調査土地台帳によれば総数52、総面積2町3段1畝18歩にして、悉く民有なり。往時は池沼の数今日に比し尚多数なりしものの如く、明治9年(1876)の調査に拠れば周囲2町(約218メートル)以上のもの大字天王田に33、同永田に5、左専道に18、鴫野に41ありき。此等は水質薄濁、水藻魚亀を産し、池底の泥土は肥料に用う。大なる池沼は其の形大抵細長なり。
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旧字名の名残りの「左専道公園」
小字に「古城」とあり、その他にも「島」とつく小字が多くみられます。これについて同書「池沼」の項目で、「本村に池沼多し。(中略)周囲二町以上のもの(中略)大字左専道に18、(中略)大なる池沼は其の形大抵細長なり。」とあるように、湿地帯の自然環境でもあったことから、「島」と名の付く小字が多かったようです。

古城についての地番を辿れば、大まかには現永田1~3丁目のあたりのようです。明治18年(1885)の様子を記録した地図に、その範囲を示してみます。赤色で囲んであります。
 この時点で、既に開墾されており、「田」が一面に拡がっています。また、ご覧の通り、小字「城」の場所は、左専道村の中心部からは少し離れた場所です。

◎戦国時代当時の記録に現れる「左専道村」
さて、いわゆる戦国時代に見られる、左専道村についての当時の史料をご紹介します。天文3年(1534)10月13日の事として、大坂本願寺日記にみえます。
※石山本願寺日記(下)P232

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 上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
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左専道集落中心部の主要道
この記録では、「河内サセ堂」とあり、そこに陣を取ったとしています。同村は摂津・河内国境に位置する集落で、本来は摂津国欠郡に属します。これは記録者である本願寺関係者の誤記ですが、より興味深いのは左専道村に陣取りした事です。残念ながら、この記録は中断されており、その他の詳しいことは判りません。
 この記録が、左専道村に伝わる「古城」と関係があるのかどうか、今のところ不明ですが、同村が当時のそのような状況、地理にあったことは確かです。

他方、この辺りの当時の地形を広域に俯瞰すると、江戸時代中期の大和川開削前の状況ですので、今とは随分と自然環境が違います。生駒山の西麓にあった深野池から、その西側にあった新開池を経て大坂湾に注ぐという大河の流れがありました。左専道村と森河内村は、その経路にあたることから要地として重要視されていました。
 戦国時代当時、そのような状況にあり、左専道村は度々、戦の陣取りに使われていました。そのために、村人の避難場所や陣所として、村の主要部の他に施設が設けられていた可能性もあります。山のない平坦な地形で、それはどのように工夫されたのでしょうか。

◎左専道村の概要
左専道村について、いつもの大阪府の地名から、該当部分を以下に引用します。
※大阪府の地名1(平凡社)P630名

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左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目):
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
旧放出街道
 文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された。享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高調で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
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これまで、あまり意識していなかったのですが、『明暦元年大坂三郷町絵図』では、左専道村と森河内村の間に川が流れています。放出街道は、今も他の地面より少し高い位置にあります。明治18年の地図ではその街道の東側の脇に細長い川の跡のようなものが描かれています。これはその名残かもしれません。長瀬川と接続していたいと思われます。

◎摂津国欠郡新開庄の概要
それから、左専道村は摂津国新開庄の北端でもあったため、その庄園について、以下にご紹介しておきます。
※大阪府の地名(平凡社)P638

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摂津国新開庄の位置図
新開庄:

現在の東成区深江・今里の付近を中心としたとみられる四天王寺(現天王寺区)三昧院の庄園。興国元年(1340)7月28日、南朝の後村上天皇は四天王寺の28世執行泰順に綸旨を下し、父孝順の譲りに任せて新開庄の領主職を相伝知行するよう命じている(秋野房文書)、また正平6年(1351)2月28日、四天王寺検校忠雲が播磨上座なる者に与えた御教書(同文書)によれば、後村上天皇の興国年間の勅裁のとおり、性順の余流である播磨上座が通順とともに三昧院領新開庄の知行を認められている。当時、室町幕府内部では、足利尊氏・義詮父子と足利直義との間が分裂する危機にあり、南朝方との間に複雑な政治関係が展開されていた。そうした政治情勢のなかで、四天王寺が南朝の意向の下に当庄の知行を維持しようとしている点が注目される。しかしその後、「満済准后日記」の永享3年(1431)3月9日条によると、かねて摂津守護細川氏の使者が禁止していたにもかかわらず、去る6日に四天王寺の僧徒が新開庄に発向して現地の堂塔・在家一宇に放火し焼き尽くす事態がおこったので、守護方は面目を失したと伝えており、四天王寺の支配に対する庄民の抵抗が激化していったことをうかがわせる。
 新開庄の名は近世にも地域名称として残り、その範囲は宝暦3年(1753)摂州住吉東生西成三郡地図によれば「暗峠路ノ大街以北、大和古川以南、平野川以東十一村」であった。
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◎今後も「小字古城」について調べを続ける
このように左専道村は、古くからの歴史を持ちますが、全国屈指の政令指定都市である大阪市内に含まれるということもあり、急速に市街化が進み、今では旧態が判らなくなっています。
 しかしながら、先人が営々と地域を守り継いできた場所であり、それを知ることは、急速な市街化過程にある中にあるからこそ、再確認も必要であろうと感じます。
 戦国時代は、話し合いもありましたが、武力で解決することが不可避であった時代でもあり、村民と家を守るためにも大変な労力を要した時代です。そんな過酷な時代を生き抜き、今に地域を繋いだ人々の経過を知ることは、人道であり、科学であり、大きな資産でもあります。

左専道村にあった「古城」について、新たに判明したことがあれば、随時ご紹介していきたいと思います。

【参考記事】
明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について

 

明治18年の摂津・河内国境を中心とした周辺の様子(国境の放出街道が南北に通る)

 

2025年9月25日木曜日

摂津国欠郡中嶋にあった城について考える(大阪市淀川区編)

大正時代初期:伝法付近の大浦渡の様子
いわゆる戦国時代ころ、摂津国欠郡中嶋という所は京都を首都とした国家体制において、非常に重要な場所でした。
 現在は淀川区に東西淀川区で構成された一つの大きな島ですが、これは江戸時代からの営々と続けられた開拓の姿で、戦国時代には、大小の島が浮かぶ群島地域でした。また、大坂湾にも注ぐ、河口でもありました。同じような地形は、伊勢国長嶋にも見られますね。
 現代のように社会基盤整備は殆ど無く、自然任せですので、洪水も頻繁にあったようですが、そのお陰で土地は肥沃で、荘園も多数ありました。また、西国街道や能勢街道、横関街道、中島街道、亀山街道などの脇道も多数通す、陸上交通の視点でも重要な場所でした。街道は、ロータリー道路構造のように、これらの鳥からどちらの方向へも進めるようになっています。特に水路は、現在のように川が整備されていませんので、縦横に進むことができます。
 欠郡中嶋は、大まかには北に神崎川、南に中津川が流れて群島を形成しており、交通・経済・政治、あらゆる面で重要でした。

しかし、このような状況であるために、その地域を指す記述が曖昧で、そこに存在していたであろう城の位置も特定されないまま、心象で論が進んでいるように感じていました。
 織田信長が足利義昭を奉じて入京し、幕府を樹立した頃、「中嶋城」といえば「堀城跡」を指しているようではありますが、これがどのような実態にあったのか、実は特定されておらず、重要であるにも関わらず、研究も進んでいないように感じます。

そんな疑問を永年感じており、摂津池田家の動きを見る上でも重要であることから、自分なりにそのモヤモヤを解消しておきたく、特に城の視点から中嶋を観察してみたいと思います。

文化遺産オンライン:石山合戦配陣図(天正4年頃)
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/258702
株式会社Stroly:明暦元年大坂三郷町絵図 :(大阪歴史博物館所蔵)
 https://stroly.com/maps/_OP_OsakaEzu_3/
国立国会図書館デジタルコレクション:大阪町中並村々絵図(承応・寛文頃:1652-73)
 https://dl.ndl.go.jp/pid/1286224

先ずは、現大阪市淀川区地域から始めたいと思います。

◎中嶋城はどこか、との疑問の出発点
先ず、年月日共にハッキリしている当時の史料からご紹介して始めたいと思います。大坂本願寺宗の法主光教が、管領細川晴元一族(典厩)晴賢及び欠郡中嶋代官衆(松井(波多野)十兵衛尉・小河左橘兵衛尉(二郎三郎)・水尾源介・並河四郎左衛門尉:丹波国人?)へ宛てて音信します。天文16年10月1日付けです。
※石山本願寺日記(上)P558、日明勘合貿易史料P540

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『石山本願寺日記』10月1日条:
細川右馬頭晴賢・松井十兵衛尉・小河左橘兵衛・水尾源介・並河四郎左衛門等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船三種(献上品脱カ)五人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ。(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)
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◎城の関連資料群
上記は、対外貿易の事で問い合わせているものですが、この頃の中嶋は、細川晴賢の知行する所であったらしく、当然ながらそれは政庁としての中嶋城でもあったと思われるのですが、その場所が「堀城跡」なのかどうかが不明です。
 関係するいくつかの資料を見てみると、堀城は比較的新しい城のような記述が散見されます。その後に何度も改修的な普請を行っているところからしても、そのような状況にあったのでしょう。以下、中嶋にあった城についての資料から要素をあげてみます。
※日本城郭大系12(新人物往来社)P233

---(資料2)-------------------
堀城:
細川藤賢が永禄9年に築城。のち、元亀元年に織田信長が三好勢を攻めた時、将軍義昭を迎え入れ、義昭はそののち浦江城へ移ったという。堀之内の地名が伝わる。
三津屋城:
南北朝時代の城で、正平年間に楠木正成が築いた。天文年間に細川晴賢が居城したが、同18年に三好長慶に攻められ、その後長慶が在城した。元亀年間、織田信長に攻め落とされ、廃城となった。現在の光專寺が城跡と伝える。別称中嶋城
堀上環濠:
旧西成郡堀上村は環濠集落の一つであった。
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明治8年:掘村地籍図
それから、大阪市教育委員会による堀城伝承地(大阪市顕彰史跡198号)の掲示板によると、以下のようにあります。掲示板の場所は、武田薬品工業の工場南側にあります。
※大阪市教育委員会による堀城伝承地(大阪市顕彰史跡198号)掲示板より

---(資料3)-------------------
西国街道にあたる十三渡北岸の要地にあった城で、「西成郡史」(1915年刊)では永禄9年(1566)に細川藤賢が築城したとされる。しかし、一説に既に存在していた堀城にあてる見解もある。
 江口の戦い(天文18年(1549))の時には細川晴賢が居城とし、その後、勝者の三好長慶の直轄下に置かれた。長慶の没後には、細川藤賢が在城したが、永禄9年に三好三人衆によって無血開城させられた。元亀元年(1570)の織田信長による野田・福島攻めに際しては、将軍義昭が入城したという。廃城後も周辺の樹木は残り「堀の森」と呼ばれた。現在地南西方向にある十三公園の巨木はその名残と伝えられている。
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掲示板:淀川区十三本町2丁目
この場所については、若干の違和感があるのですが、ここが城の一部であったとしても、そこから十三公園まではかなりの距離がありますし、この場所については、若干の違和感があるのですが、ここが城の一部であったとしても、そこから十三公園まではかなりの距離がありますし、両者の間に川があった事を描く江戸時代の明暦元年(1655)作成の絵図があります。戦国時代に、それがあったのか無かったのか...。ちなみにその川の北端に堀上村があります。
 現十三公園の巨木が堀城の名残りというのは、更なる調べが必要です。私が思うのは、看板のある場所から、もっと南の位置ではないでしょうか?しかし、この場所にも何らかの要害を築き、城砦を維持していたのかもしれません。

◎現淀川区にあった集落の城跡伝承
以下は、『大阪府の地名』から、淀川区域の城跡伝承のある集落をあげてみます。先ず堀城跡の堀村からです。
※大阪府の地名1(平凡社)P589

---(資料4)-------------------
堀村(淀川区十三本町1-3丁目、十三東1丁目、十三元今里3丁目、新北野1丁目):
西流する中津川の右岸にあたる、東は小島村。北の野中村・堀上村境を西流してきた中島大水道は当村北西端で流路を南に変え、南東部で再び西流し今里村に流入。「細川両家記」に「御一家の典厩(藤賢)。中島の堀と云う処に御在城候。(中略)永禄9年8月14日に退城也」とみ、当地の城に三好三人衆に抗した細川藤賢が立籠もった、陥落し開城したことが知られる。「堀」はこの城濠に由来すると考えられる。「信長公記」には元亀元年(1570)9月3日「摂津国中島、細川典厩城迄公方様御同座」とあり、織田信長が三好勢を後略した時、将軍足利義昭をこの堀城に迎えたことがわかる(「細川両家記では9月4日晩とする」)当村南部に字名「堀之内」が残る。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、続いて幕府領、宝暦12年(1762)下総国古河藩土井利里領となり幕末に至る。村高は元和初年の摂津一国高御改帳に134石余とあり、以後大幅な変化はない。中島大水道のうち小島村竹橋より当村犬ヶ辻を経て今里村に至る長さ693間の部分は水道之古書写帳(大阪市立博物館)によれば悪水排除の古水道を拡張整備したもので、その古水道の一部は旧堀城の濠を利用していたと考えられる。字村前に稲荷神社があったが明治42年(1909)神津神社に合祀された。
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赤色枠円は城跡
他にもあります。堀村からは北東方面で、中嶋という群島の、東西のちょうど中程にある西村(北方村)は、能勢街道と島内の主要街道に挟まれた場所に立地します。
※大阪府の地名1(平凡社)P590

---(資料5)-------------------
西村(淀川区木川東3-4丁目、木川西3-4丁目、西中島4-7丁目、三国本町1丁目、西宮原1丁目):
木寺村の北にある。集落は村域北東部に集中。中島大水道江ノ尻十六番杭より分岐した用水路が当村中央部を西に通り、竹橋三十三番杭で再び大水道に合流する。もとは北方村と称し山口村(現東淀川区)と一村であった。北方の名は寛正2年(1461)12月26日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の「中島所々年貢茶目録」に「柴島北方」とみえ、半斤の年貢茶を納めている。当村が北方村から分村した時期は明らかではないが、慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では和泉国岸和田藩小出吉英領。その後、叔父の同国陶器藩小出三尹に分知され、同藩領として元禄9年(1696)の同家断絶まで続く。のち幕府領として幕末に至る。村高は慶長10年の摂津国絵図では「惣禅寺・北方村・西村」として962石余、享保20年(1735)摂河泉石高調には当村を単独で記載し518石余、以後変化はない。村内の小字に城・城面・城東・城ノ越・中縄手などがあり、かつてこの地に城郭があったことをうかがわせる。また村内に皇大神社と西宮稲荷神社と西宮稲荷神社があったが、前者は明治41年(1908)中島惣社(現東淀川区)に、後者は翌42年神津神社に合祀された。真宗仏光寺派護国山光用寺がある。
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◎三津屋村の城は「中嶋城」と呼ばれていた
古地図内の赤色丸点●は掲示板の位置

そして私の一番気になる城が、三津屋村にあった三津屋城で、この別称が「中嶋城」です。村の規模も大きく、西国街道上にあり、島の北側の神崎川と南側の中津川の中間地点にあたります。また、三好長慶との関係性の強い寺社もこの付近に点在します。
※大阪府の地名1(平凡社)P587

---(資料6)-------------------
三津屋村(淀川区三津屋(北1-3丁目、中1-3丁目、南1-3丁目)・田川2-3丁目、多川北1-3丁目、十三元今里3丁目、新高6丁目など):
加島村の東にある。北は神崎川を隔てて豊島郡洲到止村(現豊中市)。南部村界付近に住吉社(現住吉区)の社家田川権太夫が開発したと伝える。田川集落がある。三屋(元和初年の摂津一国高御改帳など)とも書かれたが、古くは「三社」であったらしく「摂陽群談」は「此所は始に三社と書り、当郷三社の氏神あるに因れり」と記す。一説には当地開発者が三社浅右衞門なる人物であったからという(西成郡史)。属村一ヵ所があったが、「太中村」(慶長10年摂津国絵図)、「田井中村」(摂陽群談など)とみえ一定しないが前出田川のことか。南北朝時代から戦国時代にかけて当地には三津屋城があった。現在の光專寺の地がその跡地という。三津屋は楠木正行が築城し、天文年間(1532-55)には細川晴賢が居城したが、同18年三好長慶が攻め取った。同年、長慶は同城を拠点として江口城(現東淀川区)の三好宗三を攻撃したという。かつて跡地付近には城の前・馬洗の地名があった
 元和元年(1615)から大坂藩松平忠明領、同5年から幕府領、万事3年(1660)から大坂定番板倉重矩領、延宝元年(1673)板倉重種が後を継いだが、天和元年(1681)から再び幕府領となった。宝永6年(1709)側用人間部詮房領となった。享保2年(1717)幕府領となり幕末に至る(西成郡史)。村高は慶長10年(1605)の摂津国絵図では太中村と合わせ1376石余、享保20年の摂河泉石高調では1496石余。江戸中期には、当村北部から洲到止村に渡す神崎川の渡しがあり、河虎渡とよばれた。「摂陽群談」によればこの渡し名は昔この水底に河虎(河童)が住んで幼児を引き込んだので捕らえて殺し、のち川岸に河虎宮という小祠を営んだことにちなむという。当地には、浄土真宗本願寺派の光專寺・大恩寺・寿光寺・蓮正寺、真言宗系の長楽寺がある。なお、村名のもととなった三社はいずれも三好氏が武運長久を祈って創建したという八幡社であったが、現在香具波志神社に合祀されたり廃社となって存在しない
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続いて、三津屋村の東隣にある堀上村は、環濠集落で、これも三津屋城と何らかの関連性があると思われます。承応・寛文頃(1652-73)の古地図「大阪町中並村々絵図」では、中津川沿いに村が描かれています。
※大阪府の地名1(平凡社)P587

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堀上村(淀川区三津屋(南1丁目・中1丁目・北1丁目)・新高2丁目、野中北2丁目、野中南2丁目):
西成郡下中島の一村で、新在家村の南西にある。集落は村の南部にある。村名は、集落をつくるにあたり、四方に溝を掘り、その土を盛り上げて宅地を造成したことにちなむと伝え、当村がもと環濠集落であったことがうかがわれる。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領(うち3年まで一部池田重利領)、その後享保2年(1717)までは三津屋村と同じ。一村別旧領主並びに石高では閑院宮家領。村高は慶長10年(1605)摂津国絵図では新在家村・東野中村・西野中村と合わせ865石余、元和初年の摂津一国高御改帳では「堺(堀)ノ上・新在家」として同高(野中村を含むか)。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には堀上村単独で256石余。以後大幅な変化はない。天明元年(1781)12月、三次右衞門焼とよばれる大火があり、このとき一村ことごとく焼土と化したという。
 明和5年(1768)の堀上村・廿三ヶ村出入裁許書写(大阪市立博物館蔵「水道之古書写帳」所収)によれば、明和3年4月、中島大水道の開削に関係した北中島23ヵ村は、利権のない当村が勝手に中島大水道の堤を修復したとして大坂町奉行所に訴訟を起こした。当村は、中島大水道のうち竹橋(野中村・西村・川口新家村・小島村の境界付近)から犬ヶ辻(堀村北部)を経て今里村に至る部分は旧水道を利用したものであり、犬ヶ辻付近は当村の土地で、昔から悪水排除の樋を入れているゆえ当村で修復したまでであると主張。これに対し23ヵ村側は、旧水道ならびにその堤防は完成した年も領有村もわからぬ空地同前の地で、新水道は小島村・堀村の田地を潰して旧水路を拡大し、その費用を23ヶ村で負担したものであり、延宝7年前田安芸守より拝領の絵図にも「水道願村々」に対し「右絵図面之間尺を以已来可致堀浚修復者也」とあると主張した。明和5年12月に出された判決は、絵図には「堤」の記載がないので当村の既得権を尊重して、以後樋のある部分の堤防修復権を認めたが、修復は23ヶ村の同意を得るべきこと、当村の中島大水道への新規の樋伏を禁止するというものであった。
 村内に稲荷神社があったが、明治43年(1910)神津神社に合祀された。真宗仏光寺派西光寺は天文元年(1532)の創建という。
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灰色帯は現在の淀川流域
◎中津川の南側にもあった城群
以下は、補足情報ですが、中嶋から中津川を渡った所の集落にも城があったとの伝承があり、各村には「渡し」がありましたので、中嶋とも深い繫がりがありました。軍事的には「橋頭堡」としての概念であったのかもしれません。
※大阪府の地名1(平凡社)P575

---(資料8)-------------------
光立寺村(大淀区中津1-7丁目、大淀北1丁目など):
本庄村の西、中津川南岸にある。村域東部を能勢街道(池田道)が南北に通り、中央を大坂より十三渡に至る西国街道に通じる道がある。能勢街道沿いの村域南東部に光立寺、同じく中津川南岸に城、十三への道沿いに新家の各集落があり、寛文9年(1669)の古地図では中津川沿いのの西方に外島がみえる。城には三好党の光立寺城があったと伝え、摂津国各村草高帳に「慶長19年まで小城あり」と記す(中津町市)。慶長10年(1605)摂津国絵図では「光竜寺・城村」とみえ高493石余。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では509石余。延宝5年(1677)検地では高703石余・反別58町5反余、うち田方は628石余・51町余と多く、それも上々田・上田が半分弱を占める水田の村である(中津町史)。延享4年(1747)・宝暦8年(1758)・明和元年(1764)・弘化4年(1847)と数度の新田検地で、幕末には712石余(同書)。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調では高703石余のほかに牛頭天王除地4石余がある。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、以降幕府領(同書)。天明年間(1781-89)の村明細帳によれば、田方の50パーセント弱には稲作・麦作とともに綿作少々を行ってる。畑は80パーセントほどは夏に藍作など雑多な作物を植え麦作を行った。年貢は中期には定免となっていたが、文政10年(1827)には田方6割2分5厘9毛余となっている(中津町史)。当村は中津川南岸にあったから近世から明治にかけて度々洪水に見舞われ、とくに宝暦6年9月、村内字島ノ宮・城で中津川の堤防が決壊した時は惨事であった。これを城切れとよんでいるが、村内耕地の約19町が淵成・砂入となって再開発されている。天明8年家数109・人数551、安政5年(1858)164戸・783名、明治9年(1876)231戸・1028人と大阪の北郊として急速な人口増を示している。同29年から始まった淀川改修工事は当地に大きな影響を与え、永年の洪水禍は少なくなるが、52町3反余が買収され、222戸が移転するという変化を生じた(同書)。
 富島神社は近世牛頭天王社(祇園社)と称し、文禄3年(1594)の検地で社地を除地にされている。明治2年利島神社と改め、同43年島ノ宮の恵比須社を境内に遷し、同42年文禄検地段階から存在した新家の天満宮、成小路の鷺島神社(現淀川区)、塚本の八坂神社(現同上)を合祀し、同43年富島神社と改称、南浜の春日神社を境内に遷座した(中津町史)。寺院では浄土真宗本願寺派光徳寺がある。天正8年(1580)佐伯源助が草創、始め光立寺のち光徳寺に改めたという。画家佐伯祐三はこの寺に生まれた
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次は、本庄村についてです。ここは付近の有力村でした。埴輪も出土する程、古くからの集落ですから、もしかして、中嶋内にある「新庄」とは、この本庄に対する名付け概念だっったのかもしれないと、個人的には感じています。知らんけど。
※大阪府の地名1(平凡社)P574

---(資料9)-------------------
本庄村(大淀区本庄東1-3丁目、本庄西1-3丁目、豊崎4-7丁目、国分寺2丁目、北区天神橋6丁目、浮田1-2丁目、中崎1-3丁目、中崎西1-4丁目、黒崎町、万歳町、鶴野町、山崎町):
北長柄村・南長柄村の西にある。東部を横関街道が南北に通り、横関渡で中津川を渡って北岸の浜村(現東淀川区)へ、横関街道から北西に分岐した道が本庄(川口)渡で同川を渡って川口村(現淀川区)に至る。家形埴輪出土した長吉古墳があった「陰徳太平記」に元亀元年(1570)9月14日のこととして、「本庄の向かいなる河口の付城へ引取給う」「楼の岸・本庄へも人数をかさみ、手堅く持ち堅めたり」などとみえる。慶長10年(1605)摂津国絵図には「東本庄・本庄」とみえ高865石余。元和初年の摂津一国高御改帳では794石余、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では829石余。元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領。摂津国高帳で幕府領。「寛文朱印留」では大坂定番板倉重矩領で、元禄郷帳では幕府領幕末には三卿の一家田安領。天明2年(1782)当村の本庄市太輔が中島諸村の地藍一手引請を出願、藍作も行われた(大阪市史)。当村には本庄渡があるなど、付近の有力村であった。南中島18ヵ村組合に属し(西成郡史)、安永6年(1777)大坂三郷の深江屋庄兵衛に許された煮売株30株通用の村に入っている(大阪市史)。村内の葭原墓所は大坂七墓の一つで、元和元年中大坂藩主松平忠明が天満(現北区)の墓地をまとめたものという。
 豊崎神社があり、孝徳天皇を祀る。紅葉の名所として知られたという(浪花の梅)。本庄の村明細帳には慶安4年(1651)鹿島神社を創建したと記すが(西成郡史)、「摂津名所図会」は同社を当地の産土神とし、寛永の初め疫病流行の際常陸の鹿島神を勧請したとする。これは豊崎神社内にあり、このとき村内で鹿島踊を行った。明治41年(1908)豊崎神社は南長柄の八幡大神宮を合祀し、境内に東照宮を遷し、厳島神社をこれに合祀した。東照宮は徳川家康が大坂冬の陣に当地足立市兵衛方で休息したことにちなむといい、安永5年の勧請。寺院では浄土真宗本願寺派教恩寺があり、カキツバタの花が知られた(西成郡史)。
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◎中嶋内の有力な村落について
城とは直接的に関係はしていませんが、中嶋内の有力村をもう一つご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P584

---(資料10)-------------------
西国街道を通す加島村の様子
加島村(淀川区加島1-4丁目、西淀川区竹島1-5丁目、御幣島5-6丁目など):

神崎川と猪名川の合流点南岸の湾曲部に位置し、西成郡北中島では大村に属する。集落は村の中央部大島街道沿いに散在し、北西には川辺郡神崎村(現兵庫県尼崎市)への神崎渡がある。種々の俗称があり、鍛冶師の多く住した地であったことから鍛冶ヶ島、香具波志神社の鎮座するところから神島、また同社の連歌殿で盛んに連歌が行われたことから歌島ともよばれた。加島はこれらの換用と考えられるが、「続日本紀」延暦4年(785)1月14日条に「遣使堀摂津国神下・梓江・鯵生野通于三国川」とある「神下」が変化したとの説もある(「加島神社伝記」香具波志神社蔵)。
 加島は、古代はいわゆる難波八十島の一つで住吉社(現住吉区)領であったと伝え、「住吉松葉大記」は「仮島」の字をあてる。前出延暦4年の記事は、淀川と三国川(神崎川)を結ぶ水路の開削とされるが、これによって、三国川は都と西国を結ぶ交通路となり、河口に近い加島は神崎や江口(現東淀川区)などとともに港津集落として発達した。「遊女記」には「蟹島」とみて、その殷賑のさまを「到摂津国、有神崎蟹島等地、比門連戸、人家無絶、倡女成群、棹扁舟着旅履舶、以薦枕席、声遏渓雲、韻飄水風、経廻之人、莫不忘家、洲蘆浪花、釣翁商客、舳艫相連殆如無水、盖天下第一之楽地也」と記す。また源俊頼は「かしまへは遊びしにやと着きつらん戯れにても思いかけぬを」の歌を、当地の遊女の様子を記す詞書とともに「散木奇歌集」に収めている。「台記」久安4年(1148)3月10日条には「於西海乗舟入自一洲遊女群来宿賀島辺」とみえ、藤原道長が高野山参詣の帰途、当地に宿泊したことを記す。貞応2年(1223)3月日付蔵人所牒案(東洋文庫蔵弁官補任裏文書)に「賀島■(庄)内美六市」とあり、当地辺りで市立てが行われていたことが知られる。
 元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、翌6年から大坂御船手小浜光隆領(一部幕府領)となり、その後寛文10年(1670)まで同家領。以後幕府領となり幕末に至ったと推定される。村高は慶長10年(1605)摂津国絵図では竹島村と合わせて1187石余、元和元年の摂津一国高御改帳では加島村888石余・同出作分(竹嶋村か)398石余で1287石余、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では941石余(うち小浜光隆領928石余・幕府領13石余)、享保20年(1735)摂河泉石高調では1203石余(除地1石余)。当地は古くから鍛冶師が多く住んだ地で「摂津名所図会」に「むかし加島鍛冶千軒とて、加島一村ことごとく鍛冶戸なり、今僅一両軒のみあり」とある。その隆盛は「曲江随筆」所収の元弘3年(1333)1月7日付大塔宮令旨の宛名に「加島鍛冶衆」とあることにうかがわれるが、さらに古くは「延喜式」(木工寮)にみえる「摂津国五十八烟」の鍛冶戸に加島の鍛冶も含まれていたと推定されている。江戸時代後期には前述のごとく衰退しているが、この加島鍛冶の伝統は元文3年(1738)当地に置かれた銭座に受け継がれた。名産として犂(すき)と莚(むしろ)があったが、「摂陽群談」は犂についてかつての加島鍛冶の伝統を記し、筵については「毎年臘月の式に用て餅莚とす。藁の穂先を打違て中に織るを以て中継莚とも云えり」と記す。
 神崎川は古来しばしば洪水を起こした。加島村堤防は寛政元年(1789)・享和元年(1801)・明治元年(1868)に決壊、近村に大きな被害を与えた。江口村の享和元年御触書之写(田中家文書)によれば大坂町奉行所は北中島の各村に対し加島村堰堤の修復ため高100石につき一人の割で3日間の人夫を出すように命じている。当地には産土神の香具波志神社、高野山真言宗の富光寺、浄土真宗本願寺派の正恩寺・定秀寺がある。
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そして、その村内にあった富光寺です。この寺は「長慶山」と号し、三好長慶との深い繫がりを持っています。
※大阪府の地名1(平凡社)P586

---(資料11)-------------------
富光寺(淀川区加島4丁目):
高野山真言宗。長慶山と号し、本尊は阿弥陀如来(藤原期作)。摂州八十八ヶ所第三十九番札所。天正19年(1591)の奥書をもつ寺蔵の富光寺縁起によると、文化年間(645-650)天竺より飛来した法道仙人が、当地の人々の懇請によって阿弥陀如来を刻み、一宇を建立したのにはじまると伝え、また法道の開創を聞いた孝徳天皇が寺領と勅願を当寺に下賜したという。法道仙人は飛来後播磨法華山(現兵庫県加西市)を中心に修行した僧で、宝鉢を持って諸国を巡歴、各地に寺院を建立したと伝える(元享釈書)が、当時当地は沼沢地と考えられることから、寺院建立をこの時に求めるのには疑問が残る。寺名について前出縁起は、四天王寺(現天王寺区)参詣途中のある比丘尼が、放光の仏舎利を発見、夢告によって当寺へ奉納したことにちなむとする。また建永2年(1207)法然が土佐に配流される途中、当寺に一泊、その夜神崎(現兵庫県尼崎市)の遊女に念仏の法話を聞かせたと伝える。天文10年(1541)頃より三好長慶が三津屋城を拠点とし、当寺をも支配したことから現山号を名乗ることになったといい、豊臣秀吉の頃には朱印地一町八反歩を有したという。慶長年間(1596-1615)実印の中興(大阪府全志)。
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◎川に囲まれた土地には多数の渡(橋)があった
更に以下、この周辺の代表的な「渡し」と「橋」を参考までに、まとめてご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P585+590

---(資料12)-------------------
十三渡し:
大正時代初期:十三大橋の様子
大坂から神崎(現兵庫県尼崎市)を経て西国街道に至る道の中津川の渡し。近世の成小路村の字十三と対岸堀村とを結んだ。「太平記」巻36(秀詮兄弟討死事)に康安元年(1361)9月、渡辺橋(淀川の橋、現天満橋付近)から南下した佐々木秀詮の北朝軍が西成郡中島で合戦、佐々木方の白江源次六騎が「中津川ノ橋爪」で討死したとみえるが、その地は当地付近とされ、当時ここに橋がかかっていたことが知られる。しかし、中世末には橋はなかったようで、「信長公記」によれば元亀元年(1570)9月23日、織田信長がこの日、野田・福島(現福島区)の砦を引払い「中島より江口通御越」とあるが、この時の様子を「細川両家記」は「中津川船橋は四国衆より夜中に切流れたり。然ば船橋渡らんもなし。昔からの橋も無し。皆々かち渡にし給ふ也」と記す。慶長10年(1605)摂津国絵図でも中津川の渡しは長柄(現大淀区)、十三、野里(現西淀川区)の3ヶ所しかなく、信長軍が「かち渡」ったのは十三渡であったと考えられる。近世、当渡の南岸にあたる小島古堤新田村には脇本陣や旅籠があり、小宿場町を形成していた。また十三には焼餅屋が多かったようで、「摂津名所図会大成」は「往還の旅人間断無し、名物として焼餅を売る家多し」と記す。ちなみに十三の焼餅は享保15年(1730)十三渡北詰で今里村(現東成区)の住人久兵衛が始めて評判をとり名物となったと伝える。明治11年(1878)成小路-堀村間の中津川に幅二間・長さ八十五間の木造有料橋が架けられたが、明治42年淀川改修により十三大橋となった。
神崎橋:
加島と神崎川対岸神崎(現兵庫県尼崎市)の間に架けられた橋。「太平記」巻36(秀詮兄弟討死事)には康安元年(1361)9月佐々木秀詮が「神崎ノ橋」を渡って和田・楠木軍と戦って敗れたことがみえ、同書巻38(和田楠与箕浦次郎左衛門軍事)には翌2年7月、この辺りの合戦で神崎橋の橋桁が焼落ちたことがみえる。この橋がいつごろ架けられたか詳らかでないが、天正19年の奥書をもつ富光寺縁起(富光寺蔵)に、建永2年(1207)春、讃岐へ配流される法然が同寺に宿泊し、訪ねて来た神崎の遊女に浄土念仏による来世救済を説いたところ、遊女は罪業を懺悔し、神崎川の橋上から入水、ところが不思議なことにその屍が水上に浮かんで逆流したので以後この橋を揺上橋と号したとの伝説を記す。この揺上橋が神崎橋と考えられている。康安2年以降神崎橋が再建されたかは不明であるが、江戸時代には大坂から神崎を経て西国街道に至る道の渡しがあり昼夜行人が絶えなかったという。「摂津名所図会大成」に「神崎橋古蹟」として「近来此川すじより橋杭を掘出せり是其古蹟なり」とある。香具波志神社にはこの橋杭の朽木で作った硯台があり、寛政9年(1797)上田秋成の歌賛を刻する。この地には大正13年(1924)新たに神崎橋が架橋された。しかし昭和25年(1950)のジェーン台風で流出、同28年再建された。昭和53年、長さ320メートル・幅10メートルの現橋に改架。
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◎中嶋の中心としての「中嶋城」とはどこか
十三公園の国道176号線東側の旧掘村
これらの資料から、中嶋群島における重要(主要)な城というのは、西国街道を擁する三津屋城ではないかと考えられます。場所としても南北両川、西国街道の押さえであり、物資輸送には欠かせない場所です。何しろ、別称が中嶋城です。
 ここに人が集まったため、環濠集落である、堀上村ができたのかもしれません。また加島村など、この周辺に三好長慶との関係が深い古蹟が多数存在しています。
 長慶は、武庫郡の越水城に拠点を構えていたことからも河辺郡の要港である尼崎にも街道を通す三津屋村に城を持つことは重要な意味を持ったと考えられます。概ね伝承通りに、天文18年の管領細川晴元失脚以降、長慶はここも重要視していたのではないかと思われます。

それで、冒頭にご紹介した、史料(1)の天文16年頃、典厩の城としての中嶋城は、伝承通りに、三津屋村にあった城を指し、細川晴賢はここで、本願寺光教の音信を受け取ったのではないでしょうか。

一方の堀村の堀城(跡)とは、時代の要請があって、構想の主軸がこちらに移って、この場所にも支城のようなものを造成したかもしれません。
 現に、天正4年と推定される、足利義昭方大坂本願寺坊官下間頼廉から紀伊国雑賀一揆方へ宛てて音信された内容には、中嶋堀城が記述されています。
※岐阜県史(史料編:古代・中世1)P1093、新修 泉佐野市史4(史料編:古代・中世1)P720

---(史料13)-------------------
態と申し下し候。仍て紀伊国に調略人之在り、密々を以って織田信長を相調え、半国引き破り、信長之人数和泉国佐野まで引き請け、紀伊国雑賀を切り取るべく由、訴訟に付き而、信長同心され、近日計らずも人数相働くべく由候。高野(山紀伊国金剛峯寺:高野山)も一味由候。右之趣き、確かに敵之内輪より申し来り候。一大事之儀候間、油断無く其の心掛け有るべく事専用候。若し其の方に於いて存知合わせられ様体も之在ら者、言上有るべく候。将又一昨日(19日)夜、中嶋堀城を忍し取り候処、中川瀬兵衛尉清秀無念かり、昨日(20日)早旦より及び晩まで、種々行に及びと雖も候。此の方人数入れ置き、一段堅固に候。又去る夜瀬兵衛尉(清秀)詰められ、一戦に及び、是れ又此の方大利を得候。心安かるべく候。堀城無類之取出(砦)に候条、味方中之大慶此の事候。次に先度仰せ出され候鉄砲300丁事、安芸国衆(毛利方)へ堅く御請け乞いなされ候間、26・27日之間に、必ず必ず上ぜ候へば待ち入り候。此れ等之旨仰せ出され候。仍て 御印拝され候。謹言。
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そんな中で、大阪市教育委員会の検証している堀城跡の位置関係は、古地図内の赤色丸点の位置です。確かに重要性としては、西国街道と能勢街道との中間地点にはあるものの、堀村や現十三公園内の巨木の名残との関係性を結びつけるには、どのようにすればいいのか解らない程の距離と地形のヒントもありません。看板のある場所よりも南側ではないでしょうか?
明暦元年大坂三郷町絵図部分
 (大阪歴史博物館所蔵)
 堀村は西国街道を通し、中津川沿いに東へも繋がっていて、途中に十三渡も抱える事から要地ではあります。城館があっても不自然ではありません。ここならば、国道176号線(一部は旧西国街道筋を踏襲)を挟んだ現十三公園は隣接しています。

摂津国欠郡にあった中嶋城とは、その名を冠するに相応しい規模と位置関係であった「三津屋城」の事で、堀村には支城としての「堀城」を、後に新設したか再利用するなどしたのではないかと、私なりに考えています。三津屋村での城の伝承では南北朝時代に遡るようです。地形上、いくつかを組み合わせて、相互に機能させなければ、島の中の城は守れないと思います。
 堀城のその活用時期は、今のところ公的な想定通り、永禄9年頃から重要度合が高まり、追々機能拡張や規模が拡大した可能性を考えています。

【補足】
このブログ記事を書いた後に気付いたのですが、大阪市立博物館から『共同研究成果報告書17 (2025)- 大阪市の中世城館 -』が刊行されており、その中でも、堀城の位置想定がなされています。それを読んできても、これまでの論から大きく進展した内容でもなく、若干補足されたような現状です。やはり、発掘調査と両輪でなければ、文書上からの特定は難しいのが実際です。
「共同研究成果報告書17 (2025)- 大阪市の中世城館 -」のダウンロードページ
 https://www.osakamushis.jp/education/publication/kyodokenkyu/kyodo-17.html

【参考記事】
淀川区の中心地である十三本町付近(十三駅周辺)は、太平洋戦争での空襲を受け、広範囲に焼失しています。ターミナル駅であることから、輸送の麻痺を企図したようです。三津屋村方面も同様に大きな被害を受けたようです。

★参考リンク
十三のいま昔を歩こう:大阪大空襲 十三が焼けた日

明治18年頃の西成郡中嶋の様子(グレー色の帯は現在の淀川)


承応・寛文頃(1652-73)大阪町中並村々絵図部分
国立国会図書館蔵


 

2025年9月19日金曜日

摂津国欠(西成)郡中嶋にあった城について

「中嶋」という地域は、その名の通りの「島」ですが、これが江戸時代の開拓を経て、今は非常に大きな面積の島になっています。戦国時代には、大小いくつもの島が浮かぶ群島地域で、地形が随分と違います。同じような自然環境は、伊勢国長島や尾張国の河口にもあります。
 しかしながら、この地域は水陸交通の要衝であり、大きくは南に中津川・北に神崎川などの水利と肥沃な土地に恵まれた所で、野里・賀島・宮原(及び南北)・柴島といった荘園もありました。この他、味原に牧場(後に荘園)もありました。

また、この中嶋は長禄4年(1460)には、欠郡(かけのこおり、けつぐん)との記録が当時の史料に見られるようで、戦国時代には神崎川以南の3郡を「欠郡」と呼んでいたようです。だいたい現在の大阪市域がそれにあたります。
 「欠郡」の呼称の語源は、1383年(永徳3)摂津守護に復帰した細川頼元がこの3郡を分郡として畠山氏ら隣国守護に奪われた(欠郡)ためというのが有力説のようです。
 その中心であった一時代は、現在の東淀川区東中島に創設した「崇禅寺」だったのでしょうか。嘉吉の乱(1441年)を機に、播磨守護赤松満祐が、将軍義教の菩提を弔うために「崇禅寺」を建立しています。

この「中嶋」の中心がどこか。そこにあった、その中心たる「中嶋城・堀城」は、どこにあり、どのような経緯を辿ったか。それは欠郡北部で、現在の大阪市西淀川区・淀川区・東淀川区です。これは大正時代後半から昭和前半にかけて変遷を伴いながら、現在に至ります。中央部の淀川区が最も新しいようで、当初は東西2つの区分けでした。
 大正14年に大阪市の第2次市域拡張で、大阪市に中嶋地域が編入されるまでは、島一帯は西成郡でした。
 それから、戦国時代は、その地域を形成する群島の主要な幾つかの島を指して「中嶋」としていたようで、それは大川以北の北区(旧大淀区含む)も入るようです。

この中嶋地域は、摂津池田家や荒木村重・中川清秀などとも深い関係のある場所であり、日本史上も重要な場所ですので、理解を深めておきたいと思います。
 崇禅寺(現東淀川区東中島5丁目)には、明治2年に摂津県が設置される程ですので、地政学的にも、それに見合う場所であった事が判ります。

以下、場所が広いので、それぞれの区(関係する区も含む)毎に分けて、ご紹介します。

  • 西淀川区編
  • 淀川区編 ←NEW
  • 東淀川区編
  • 此花区編
  • 荒木村重の崇禅寺合戦について 
  • 中嶋の城、特に「中嶋城」と「堀城」について 
  • まとめ 

【関連記事】

【参考】

明治18年頃の西成郡中嶋の様子(グレー色の帯は現在の淀川)

 
承応・寛文頃(1652-73)大阪町中並村々絵図部分
国立国会図書館蔵

2025年9月18日木曜日

元亀2年に細川(典厩)藤賢が、摂津国島下郡の戦国武将野辺(部)弥次郎へ下した感状について

摂津堀城跡伝承地
摂津国欠郡に存在したと考えられる中嶋城について調べる内に、気になる史料もありますので、取り上げたいと思います。
 先ず郡名なのですが、ここは元々西成郡でしたが、戦国時代には欠郡(かけのこおり、けつぐん)と呼ばれていました。江戸時代になると、神崎川以南のこの地域は元の名称に戻ります。ここでは統一的に欠郡とします。

この中嶋城は、欠郡中嶋という「島」の内にあった事から「そこにある主要な城」という曖昧な記述がされている事も多く、場所の特定もできていないようです。時代により、必要性に応じて、また要所に軍事施設としての城が造られて、機能していたようです。
 中嶋城と呼ばれたのは、三津屋村にあったとされる「三津屋城」で、別称が中嶋城だったようです。こちらは三好長慶に縁のある城で、その後は、織田信長に攻め落とされ、廃城になったと伝わります。

中でも「堀城」は、水陸交通の要所でもあり、ここに拠点としての城を構えていたのが、細川典厩家でした。この典厩家も例外なく分裂し、時代によってその主体的人物が入れ替わりますので、見極めが難しい所です。

◎新修 茨木市史第2巻(通史2)の気になる史料
さて、気になっていた史料が「堀城」を調べる内に、その輪郭(特に年代比定について)が見えましたので、ご紹介したいと思います。
 新修 茨木市史第2巻(通史2)に取り上げられている、摂津国島下郡味舌上村を名字の地とする野辺弥次郎が、細川右馬頭藤賢から下された感状についてです。
 これは豊後中川家中の「諸系譜14巻」にあるものとの事で、その家の経緯をまとめた家臣の履歴集です。以下、野辺(野部)家に伝わる2通の中世文書をあげてみます。(元亀2年)6月3日付、右馬頭藤賢が、野部(辺)弥次郎へ下した感状です。
※新修 茨木市史第2巻(通史2)P27

---(史料1)-------------------
去る朔日(6月1日)摂津国西成郡長堂口(成小路村付近)に於いて、一戦に及び、粉骨抽ぜられ、比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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更に他の一通。(元亀2年)8月3日付、右馬頭藤賢が、野部(辺)弥次郎へ下した感状です。
※新修 茨木市史第2巻(通史2)P29

---(史料2)-------------------
去る朔日(8月1日)大仁(現大阪市北区大淀付近)堤に於いて、多勢に無勢を以て一戦に及び、前代未聞比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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これら2通には「元亀2年」との記入があるのですが、これは後年に書き入れられたものと(市史筆者により)推定され、史料(1)を永禄9年史料(2)を元亀元年のものであろうとしています。

◎「長堂」は堀城跡近くにもある
明暦元年大坂三郷町絵図部分
 (大阪歴史博物館所蔵)
この筆者である馬部先生のお見立てでも、確かに両通はその年代比定でも可能性はあると思われますが、私が調べている内に見つけたのは、摂津国西成郡成小路村内(付近)にも「長堂」という場所があり、史料(1)の文中にある「長堂口」とは、河内国では無い可能性が高いと考えられます。
※西成郡史(大阪府西成郡役所)P289

---(史料3)-------------------
大字成小路の条
大字光立寺・小島古堤の西に続きて中津川に沿へり。もと鷺島荘(其の名遣りて此の村の産土神を指し鷺島神社と呼びき)の地なりしが、後数箇村に分かれしものの一村即是れ也(摂津志は成小路・塚本・海老江(属邑一)・浦江・大仁(塚本以下鷺島荘)として本村を鷺島の地となさす)。而して本村の一部なる畑四町貳反壹畝壱四歩は、中津川の北岸に河流を隔てて存し、即木寺村(此の村後川口新家と合わせし、木川と云う)・堀村の堤外地となりたりき。(中略)又村内字地に長堂(ちょうどう:東西参町・南北壹町、元鷺島神社の東西に沿うてあり)・田堂(でんどう:東西貳町・南北参拾間、本村元八幡神社東方にあり)と云うあり。而して其の神社地辺にあると其の名称とに由て考うるに、古へ天台宗或いは真言宗の古刹ありし地なるべきか。(後略)
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【参考リンク】
国立国会図書館デジタルコレクション(石山古城図:天正4年頃) 

◎元亀2年の史料であるかを更に考える
その可能性を更に具体化するために、他の史料も見てみます。元亀2年6月4日付、織田信長が、将軍義昭側近の細川藤孝へ音信しています。
※信長文書の研究(上)P458

---(史料4)-------------------
細川右馬頭藤賢身上之儀に付き、御内書之旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長に於いても等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無き之様に上意加えられるべく之事、肝要存じ候。此れ等之趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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摂津堀城跡伝承地の掲示板 
細川(典厩)藤賢の知行や扱いについて音信しています。これは(典厩)藤賢の働きに対して目に見える保証を用意して、味方として繋ぎとめる事の考えであるように思われ、(典厩)藤賢の弥次郎への感状と関連するものと考えられます。
 元亀2年のこの時期、6月は幕府方が再び勢いをつけ、摂津守護和田惟政・同守護伊丹忠親が、敵対する三好三人衆方となった池田氏を攻めています。和田勢は高槻から吹田を経て西進。伊丹勢は東進して、東西から池田城方面を攻めて挟撃体制にありました。和田勢は6月中頃に摂津国豊嶋郡の池田方の城である原田城を落としています。

このように堀城(中嶋)の北部で激しい交戦がありました。中嶋の北を流れる神崎川で池田領の豊嶋郡と境を接しています。(典厩)藤賢は、その南側を守備する事になっていたのでしょう。

摂津池田城跡公園
7月になると、三好三人衆方の松永久秀勢が、高槻方面へも出陣してきます。和田惟政を牽制するためと思われます。また、同じく三好方であった本願寺宗は、中嶋一帯に配下の寺衆を各地に維持し、その影響力の強い地域でした。「堀城」のあたりは、水陸の要地でもあり、争奪戦が繰り広げられていたようです。
 8月になる頃、その動きは敵味方共に活発化し、幕府衆三淵藤英は、7月26日付で南郷春日社(豊嶋郡)に宛てて禁制を下します。
※豊中市史(史料編1)P122

---(史料5)-------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事。一、竹木剪り採り之事、付きたり立毛(農作物)苅り取り事。一、非分課役相懸け事、付きたり寄宿免除の事、放火事。右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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原田神社(現豊中市)
続いて、三淵は、更に禁制を発行します。8月1日付で、同郡桜塚善光寺内牛頭天王に宛てられています。ちなみに、この禁制は同年6月23日付で和田惟政が、同所へ宛てて下した禁制と関連します。
※豊中市史(史料編1)P122

---(史料6)-------------------
一、軍勢甲乙人乱入。一、狼藉之事。一、竹木剪り採り之事。一、陣取り付きたり殺生之事。一、矢銭・兵粮米以下非分課役相懸け事。一、国質・所質請け取り沙汰事。一、敵味方撰らずべからず事。右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍而件の如し。
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8月2日、亡命中の池田家惣領池田筑後守勝正は、幕府方として同郡原田城へ入り、付城として池田城の動向を監視します。
※大日本史料第十編之六P701(元亀2年記)

---(史料7)-------------------
『元亀2年記』8月2日条
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
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このような周辺状況の中で、細川(典厩)藤賢は要所の堀城を堅持し、作戦遂行を支えたのが史料(1)と(2)の状況だったのだろうと思われます。それに対して(典厩)藤賢への恩賞を用意する動きが史料(4)だった。

◎元亀2年の細川(典厩)藤賢の立場
この(典厩)藤賢は、前管領であった細川右京大夫氏綱を支える典厩としての立場でしたが、その後の三好家分裂の中で、松永久秀について行動したようです。
 その流れで、将軍義昭政権樹立に加わっていたのですが、元亀2年春頃から松永久秀は、三好三人衆方に復帰して、幕府と敵対する行動を取っていました。
 (典厩)藤賢にとっては、拠り所的な人物を失い、不安定な立場に置かれ、また、所領や知行も拠る所が元々少ない状況にありました。

元亀2年は、幕府にとって非常に苦しい年で、そのような中でも(典厩)藤賢は、忠義を見せ、苦しい中でも役務を懸命に果たそうとしていました。既述のように、中嶋内は本願寺の影響地で、周囲は敵だらけでした。

◎幕府が繋ぎとめたい求心力のある人々の例
幕府が立場ある人物や求心力のある人物を繋ぎとめようとしている動きが他にもあります。
 前年晩夏に三好三人衆方から幕府方に投降してきた有力武将三好為三へ所領安堵の御内書を、元亀2年7月31日付で下しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P16

---(史料8)-------------------
舎兄三好下野守(三好)跡職並びに分け自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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これは、同年(推定)6月16日付の信長から幕府衆明智光秀に音信された動きに関連しています。
※信長文書の研究(上)P392

---(史料9)-------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知之旨に任せ、榎並之事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭忠親近所に、為三へ遣し候領知在り之条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なき之様に、伊丹へ了簡されるべく事肝要候。恐々謹言。
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三好為三にもめぼしい所領・知行はなく、幕府方として関係を繋ぎとめるべく、対策を進めていた事が判ります。
 為三は、三好三人衆方に擁された管領格の細川六郎(後の昭元)の重臣でした。これについては、近年発掘された新出史料と関係しているようです。元亀元年8月付の、信長による細川六郎への翻意を促す音信による動きであると考えられます。
※泰厳歴史美術館所蔵史料(令和6年8月14日頃報道)

---(史料10)-------------------
条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
 元亀元       弾正忠
   八月 日       信長 (朱印 天下布武)
細川六郎殿
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◎私の考える気になる史料の年代比定
史料(1)と(2)の年記について、この史料内容と関連すると考えられる一次史料が多くあります。そこにある「元亀2年」の記入は後証であったとしても、それは当時の事情を知っており、正確に伝えた可能性が高いと思われます。幕府方が池田城を攻めるにあたり、その一端を(典厩)藤賢が支えていた状況を示す史料ではないかと思われます。

この2通の史料は、元亀2年の史料として間違い無いように思います。 

【補足】
天正4年頃の「石山古城図」では、この頃の群島の様子がわかります。随分、大まかに描いてありますので、細かく見るとその違いに途惑う程ですが、この絵図から元亀2年の典厩藤賢(野辺(部)氏)の行動を辿ってみます。「御幣島」とあるのは、堀城であろうと思います。文字を書き込むために川幅を大きくしてあるのでしょう。実際の川幅はもっと狭いはずです。
 この地形環境の中、当時、橋が架かっていなかった中津川を渡り、対岸の島に上陸(成小路か)。この辺りにあった長堂口で、敵を攻撃。多分、先手を打ったのでしょう。感状では、それを6月1日としています。
 その2ヶ月後、8月1日、同じく中津川を渡って、浦江村至近の「大仁」で合戦しています。これも何かの予防措置かもしれません。堀城側に寄せ付けない行動だったと思います。島は取られると、取り返すにはそれ以上に労力がかかり、サッカーの先手得点のような感覚があると思います。優位に戻すには、2点取る必要がありますから。

 

明治17・18年頃の様子


石山合戦配陣図部分(天正4年頃)
(文化遺産オンラインより)


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2025年8月27日水曜日

永禄12年頃の播磨国方面の事(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

元亀元年(1570)8月付で、織田信長から管領格(家)である細川六郎に送られたであろう朱印状、第二番目の条項、

一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、其躰之儀、申談事。
とは、播磨国がどのような状況であったか。それについて、摂津池田家を通した目線でご紹介したいと思います。この朱印状が発行されるに至る、その前年を中心に見ていきます。

刀田山 鶴林寺(撮影2004年12月)
永禄12年正月付で、池田勝正は、播磨国鶴林寺並びに境内へ宛てて禁制を下します。幕府(将軍義昭政権)として播磨国へ勢力が及ぶ最初が、この池田勝正による禁制です。
※兵庫県史(史料編・中世2)P432

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一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取之事付きたり放火之事、一、竹木剪り採り之事。右条々堅く堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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しかし、この矢先、前年秋に都落ちをした前中央政権(将軍義栄)中枢である、阿波・讃岐国を拠点とする三好三人衆勢が、大挙京都に攻め上ります。
 これは既に前年暮れから再攻勢の体制を整えた三好三人衆方が、和泉国を中心に上陸し、各地で合戦に至るなどしていました。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P105

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永禄12年1月5日条:
(前略)一、去る二十八日歟。和泉国家原の城松永より池田丹後守・寺町以下百余入れ置き処、三人衆より攻め、八十日余討死落居了ぬ。則ち池田丹後守・寺町玄蕃討死了ぬと云々。実否知らず。近日牢人衆打ち出しの旨とりとり之沙汰。松永弾正少弼留守故歟。帰城あらば申す事止むべく哉。(後略)
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したがって、永禄12年早々の池田勝正の播磨国出兵は不可能となり、京都の将軍居所(六条本圀寺)急襲の救援に全力をあげる事となります。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P92など

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京都六条本圀寺跡(撮影2014年8月)
『信長公記』六条合戦の事条:

正月四日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛大輔龍興・長井隼人等、南方の諸牢人を相催し、先懸けの大将、薬師寺九郎右得門尉、公方様六条に御座候を取り詰め、門前を焼き払い、既に寺中へ乗り入るべきの行なり。爾(しかり)処、六条に楯籠る御人数、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中守・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智十兵衛尉・森弥五八・内藤備中守・山県源内・宇野弥七。若狭衆、山県源内・宇野弥七両人は隠れなき勇士なり。御敵薬師寺九郎左衛門尉、旗本へ切ってかかり、切り崩し、散々に相戦い、数多に手を負わせ、鑓下にて両人討死候なり。襲い懸かれば追い立て、火花をちらし相戦い、矢庭に三十騎計り射倒す。手負・死人算を乱すに異ならず。乗り入れるべき事、思い懸けも寄らざるところに、三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正各々後巻きにこれあるの由、承る。薬師寺九郎左衛門尉小口(虎口)を甘(くつろ)げ候。是れは後巻き桂川表の事、細川兵部大輔藤孝・三好左京大夫義継・池田筑後守勝正同清貪斎正秀・伊丹・荒木、茨木へ懸け向かい、桂川辺にて御敵に取合い、則ち一戦に及び、推しつおされつ、黒煙を立てて相戦い、鑓下にて討取る首の注文、高安権頭・吉成勘介・同弟石成弥介・林源太郎・市田鹿目介・是れ等を始めとして、歴々の討ち捕り、右の趣き、信長へ御注進。
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この時の交戦は、三好三人衆方にも勢いがあり、乱戦となります。池田勝正や細川藤孝は行方不明、幕府方河内若江城主三好義継は戦死という第一報が駆け巡ります。
※言継卿記4(国書刊行会)P300

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『言継卿記』1月7日条:
七条於昨日討死之衆(桂川自り東寺之西に至る)千余人云々。但し名字共其れ慥かに知られず云々。石成北野之松梅院へ逃入り云々。各打ち入り破却云々。又落ち行き云々。但し三好左京大夫義継討死云々。久我入道愚庵、細川兵部大輔藤孝、池田筑後守勝正之見ず由之有り。三好日向守入道以下各八幡へ落ち行き云々。(後略)
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結果的にこれらの情報は誤報で、幕府方が将軍義昭を守り抜き、新生幕府は存続となりました。この事態を受けて、急遽根本対応を行い、再発防止策を講じます。

  • 将軍居城の建設
  • 三好三人衆方に加担する勢力の討伐
  • 将軍など中央組織の行動規範策定
  • 首都経済の把握(堺の接収、徴税の取り決め、ニセ銭の選別、徳政の執行)
  • 京都を中心とした社寺の把握
  • 公家領知の調査

旧二条城石垣跡(撮影2014年8月)
これらの重要要素を固め、最低限の中央政権機能を維持と発展ができる状況を作り、改めて軍事・経済共に攻勢を図ります。
 3日付で織田信長は、再度播磨国方面に目を向け、池田勝正が下した内容と全く同じ禁制を鶴林寺(現加古川市)へ下します。
※織田信長文書の研究(上)P267

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一、軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取り放火事、一、山林竹木伐り採り之事。右条々違背之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍って執達件の如し。
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信長は、担当の勝正を交替させたのかというと、そうでは無く、播磨国への街道を複数持ち、同国に対応するための拠点(守護所)を固めさせる事を優先させていたようで、信長は、その補完を行ったようです。京都の将軍居城と同じく、池田城も防御力を高めるなどの普請も行ったと考えられます。信長は、先遣隊(斥候としての)を送るなどしたのかもしれません。

永禄12年当時、播磨国やその周辺の情勢は、複雑を極め、止むことの無い闘争が繰り広げられていました。以下のような要素があります。

  1. 播磨守護家赤松氏の分裂・弱体化
  2. 備前国守護代浦上氏の分裂
  3. 因幡・但馬国守護山名氏の分裂・弱体化
  4. 阿波・讃岐国攻め計画
  5. 毛利氏の戦略手詰まり(大友氏対策に苦戦)
  6. 出雲国など尼子氏の最挙兵
  7. 伊勢国への侵攻

これらの中で、(1)と(3)の状況から、生野銀山を手に入れるため、山名氏の弱体化に付けいり、8月と10月に幕府勢は、先ず播磨国へ侵攻します。龍野城の赤松下野守政秀は、幕府勢の後巻き且つ、自らの優位性確保の攻勢に出ました。池田家もこれに幕府勢として動員されて、多数の兵を出します。幕府・織田信長方僧侶朝山日乗が、8月19日付で毛利元就などに状況を報告しています。
※益田家文書1(大日本古文書:家わけ第22)P259、細川両家記(群書類従20号:武家部)P633

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益田家文書:(前置き)
猶々趣き於者、弥々切々申し入れるべく候。又御内用濃々と仰せ蒙るべく候。御存分如く之調え之儀行等、上意を経て、(織田)信長へも御取り分申し候て、御たのみ如く調法致すべく候。信長事、如何様とも申し談ずべく之由申され候。何とぞ御縁辺申し談じ度く之由候。御分別候て仰せ越され候。急度申し入れ候。
本文:
一、白紙九郎左(不明な人物)仰せ上げられ候信長への御返事、則ち京着候。一々申し渡し、其の心得られ、御合力申され候。「両口行之事」として、一、雲(出雲)伯(伯耆)因(因幡)三ヶ国合力、則ち木下秀吉・坂井右近(政尚)両人に五畿内衆二万計り相副えられ、日乗検史為罷り出、但馬国於銀山始め為、子盗(此隅山城)、垣屋城、十日之内十八落居候。一合戦にて此の如く候。山下迄も罷り下らず、近日一途(意味=決着)為たるべく候。御心安かるべく候。一、備前美作両国御合力為、木下助右衞門尉・同助左衛門尉定利・福島両三人、池田勝正相副えられ、別所長治仰せ出され、是れも日乗検史為罷り出、二万計りにて罷り出て合戦に及び、増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ヶ所落居候。置塩・御着・曽禰懇望半ば候。急度一途為るべく間、御心安かるべく候。今于に小寺政職相拘り候条、重ね而柴田勝家・織田掃部助・中川重政・丹羽五郎左衛門尉長秀四頭、申し付けられ候。一万五千之有るべく候。近日着陣為るべく候間、即時に播磨国人小寺・同宇野申し付け、野州(赤松下野守政秀)一統候て、備前国三ツ石に在陣仕り、宇喜多直家・備中国人三村と申し談じ、天神山根切り仰せ付けられるべく候。只今者、播磨国庄山に陣取り候。一、信長者、三河・遠江・尾張・美濃・江州・北伊勢之衆十万計りにて、国司(北畠具教)へ取り懸けられ候。十日之内に一国平均たる由候間、直ぐに伊賀・大和に打ち通し、九月十日頃、直ぐに在京為べく候。左候而、五畿内・紀州・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右十二ヶ国一統に相〆め、阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧有るべくも存ぜず候。一、豊(豊前)芸(安芸)事和睦有り、信長弥々深重仰せ談ぜられ、阿讃根切り頼み思し召されと候て、京都相国寺之光琳院・東福寺之見西堂上使に仰せ出され候。信長取り持ちにて候。我等御使い申し上げ候。猶追々申し上げるべく候。又切々御用仰せ上げられるべく候。馳走御心に任せ候。恐惶謹言。
『細川両家記』永禄12年条:
(前略)一、同十月二十六日伊丹衆・池田衆・和田衆を御所様より赤松下野守へ御合力か為、播磨国へ加勢仰せ出され候て、陣立てにて浦上内蔵介城を攻め落とし、則ち皆々打ち帰られ候也。城主討死也。(後略)
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播磨庄山城跡(撮影2001年10月)
内容にやや誇張がありますが、池田衆は但馬国の山名攻めの支援もあり、「備前・美作両国御合力為、木下助右衞門尉・同助左衛門尉定利・福島両三人」に池田勝正と別所長治が加えられて、従軍していたようです。その数、20,000の兵とされています。「増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ヶ所落居候」と伝えており、この辺りを主に攻撃対象にしていたようです。龍野赤松氏の後巻きを兼ね、通路を確保する行動だったと思われます。
 一方、幕府方の龍野赤松氏は、3,000の兵で三好三人衆方守護赤松氏配下小寺(黒田)氏などを攻めるため東進します。姫路の小寺(黒田)官兵衛尉孝高が、これに300程の兵で応じ、撃退します。青山合戦として、官兵衛孝高の名を知らしめた戦いでした。

これにより、退路を断たれる恐れがあった但馬国攻めの一隊は、播磨国へ急遽撤退したようで、庄山城を橋頭堡ついて維持し、毛利氏への対外的な面目を保ちました。
 播磨国内では一定の軍事的な優勢を保ちましたが、思惑は外れて、幕府の目的は達成されたとは言い難い結果となりました。幕府は、これらの取りまとめと調整に堺商人の今井宗久を起用しています。

この時、播磨国内はどのようになっていたのかというと、守護家の赤松氏は、国内の東西に分居し、西側(現たつの市周辺)には赤松下野守政秀が勢力を保ちました。幕府は、この内部闘争にも介入し、赤松政秀側に加担します。
 更にまた、(5)の状況により、毛利氏支配域の東側を(幕府方から)牽制してほしいとの要請もあり、これに応じるための播磨国対策(攻め)でもありました。
 地域情勢は非常に複雑ですので、大まかに地域大名を以下の地図に示します。

在地大名概念図


また、同国内の比較的大きな勢力として、三木の別所氏があります。同氏は三好三人衆方でしたが、新政権誕生と共に幕府方に加わりました。
 播磨国は非常に豊かな地であり、「大国」でしたので、各地に地域勢力が割拠し、それぞれの思惑で動いていました。永禄12年当時は、前中央政権の崩壊と共に、同国内は更に複雑な動きを見せていました。

一方の幕府方も正攻法ばかりでは無く、裏でも動いており、影で敵方牽制を行っていました。

播磨三木城跡(撮影2021年10月)
備前国の守護代浦上遠江守宗景の配下であった宇喜多河内守直家が、堺商人今井宗久を通じて、幕府に誼を通じてきた事から、浦上氏は背後を脅かされて、行動ができなくなります。この頃、浦上氏は瀬戸内海の南岸の三好三人衆方と連携していました。宗景は、同年11月には、軍事行動を一旦諦め、今井氏を通じて、幕府に連絡をしてきます。
 またこの時の宇喜多氏は、備中国人三村氏や毛利氏に滅ぼされた尼子氏の残党と各地で連携し、浦上氏を圧迫する構えを見せていました。

元亀元年8月付けで、細川六郎への調略を行った時の、信長による知行宛て行いの条件は、この時の状況に沿うものだったと思われます。ハッキリとした味方である、赤松政秀と別所長治の所領、また保護対象の社寺、幕府関係者の領知を除いて知行するとは、そういう意味です。

永禄12年の、二度の播磨国討伐で、一応の沈静化に成功したとみて、次なる目標に意識が向かいます。三好三人衆勢の本拠地を攻めるべく、情報収集を行っていたようです。
 永禄13年2月19日付、堺商人今井宗久が、将軍義昭側近上野中務大輔秀政・和田伊賀守惟政・木下藤吉郎秀吉・松永山城守久秀などへ音信しています。
※堺市史5(続編)P927

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急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人二百計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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これは、永禄12年8月付で幕府方朝山日乗が、毛利方に伝えた連絡の中にある要素を具現化したもので、時期は遅れたものの実際に、情報収集を行って準備を進めていました。
※益田家文書1(大日本古文書:家わけ第22)P259

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(前略)九月十日頃、直ぐに在京為べく候。左候而、五畿内・紀州・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右十二ヶ国一統に相〆め、阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧有るべくも存ぜず候。(後略)
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翌永禄13年(4月23日に「元亀」に改元)、朝倉・浅井氏討伐の最中に、幕府方の軍事的な中核でもあった摂津池田家の内紛が起こり、三好三人衆方に復帰してしまいます。これが号砲となり、五畿内を中心に広範囲に反幕府・織田信長の勢力が勢いを増します。
 幕府・織田方は、一旦、持ち直したものの、9月に入ると、これまで中立的であった本願寺宗までもが反幕府・織田方として武力蜂起に至り、京都の維持も困難になる程、窮地となります。一難去って、また一難。
 橋本政宣氏によると、この反織田戦線の取りまとめは、近衛前久であったとしています。史料は、元亀元年8月10日付、関白近衛前久が、薩摩国守護島津陸奥守入道貴久へ音信したものです。
※島津家文書2(大日本古文書:家わけ第16)P24、近世公家社会の研究P22+73

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旧大坂本願寺跡地(現大阪城内)
遥かに久しく申し通さず疎遠の処、芳札殊に唐鐘(金)・台(銀)、上せられ候。懇志の至り、尤も喜悦秘蔵候。別して御疎意無き由、本望此の事候。誠に思いも寄らず倭人の所行依り、京都退座せしめ、無念の至りに候。然れ共、織田信長分別せしめ、将軍義昭御存分謂われず、是非無く候。早々帰洛せしむべくの由、再三申し越しと雖も候。一旦面目失い候間、今于に至者、覚悟及ばず由申し放ち候。然者、近江国南北・越前国・四国衆(三好三人衆)悉く一味せしめ候て、近日拙者も出張せしめ候。則ち本意遂げるべく候。御心安かるべく候。猶進藤左衛門大夫長治(諸大夫)申し下すべく候也。状件の如し。
【近世公家社会の研究の解説】
第一部 第一章 二 出奔中の動向(反信長戦線と前久):
島津氏はもと薩摩島津庄が近衛家領であった由縁もあり、とくに前久の曾祖父尚通の頃から交誼を深くしていたが、この文書も貴久から久方ぶりに音信があり物を贈られたことに答謝し、近況を述べたものである。(中略)ここで注目すべきは、前久が六角、浅井、朝倉、三好三人衆と「一味」し、近日は「出張」し、本意を遂げるはずであるから安心してほしい、と述べていることである。本意を遂げる云々というのは、いわば常套語で確信性はともかくとして、「一味」「出張」云々と見え、前久が反信長戦線の一環として軍事行動をとっていたことが知られるのである。
第三章 近衛前久の薩摩下向(はじめに):
永禄11年(1568)、織田信長に擁され上洛した足利義昭と隙を生じ、京都を出奔した関白近衛前久は、7年間にわたり在国し、天正3年(1575)6月末に帰洛した。その間、摂津大坂、ついで丹波に移り、六角、浅井、朝倉、三好三人衆等と「一味」し、また本願寺と結び、反信長戦線の一環として行動した。丹波では、黒井城に拠り信長に怨敵の色を顕わしていた赤井直正の許に寄寓していたが、天正3年6月、信長の命を受けた明智光秀により丹波の経略が着手されるに及び、たぶん信長から働きかけがなされたのであろう、前久は丹波より帰洛するのである。長く在国していて朝廷への勤仕を怠っていた前久の前譴を免じられるよう執奏したのも、信長であった。(後略)
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引用が長くなりました。

結果を知る、現代の私達からすれば、後付けの考えに陥りがちですが、信長から細川六郎への朱印状は、政治・軍事的に求心力を持つ、管領格の六郎の離反を画策して、一気に三好三人衆勢力の殲滅を考えたのではないかと思われます。こちらから海を渡る手間が省けた訳ですから、野田・福島で総攻撃を行って討つ方が労力はかかりません。

丹波八木城跡(撮影2001年10月)
そして、三好三人衆方の内外へ向けた軍の中心(核)である六郎は「御屋形様」と呼ばれており、いち勢力の大将としての認識があった事が判ります。
 丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井直正宿所へ宛てた音信(永禄12年(推定)3月23日付)にその記述が現れます。
※兵庫県史(史料編:中世・古代補遺9)P6

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に赤井時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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この音信内容に少し触れると、永禄11年秋に将軍義栄が都落ちの折、細川六郎は播磨国を通って、本拠地讃岐・阿波国へ戻った事が判ります。この事から六郎は、芥川山城に居たようですので、丹波・播磨国経由で本国、阿波に戻ったと思われます。

摂津野田城跡(撮影2013年4月)
また、この信長からの朱印状は、実際に六郎へ届けられたと考えられ、元亀元年8月の摂津国野田・福島城へ陣を取った六郎の重臣は、先行して次々と幕府方へ投降します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記(国書刊行会)P442

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『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)二十六日、御敵楯籠もる野田・福島へ成らる。(中略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、粗々申し合わせられ候と雖も、近陣に用心きびしく、なりがたく存知す。(中略)八月二十八日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。『言継卿記』9月3日条:
(前略)敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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摂津池田家の寝返りを受けて、一旦は崩れかけたものの立て直し、この時点まで、信長の思惑通りに進んでいました。三好三人衆勢を圧倒して、壊滅を目前にしながら、本願寺宗が武力蜂起を行い、これを合図に京都周辺で一斉蜂起が起きます。間一髪、三好三人衆方は窮地を脱して、反転攻勢に構え直します。それもあってか、細川六郎の幕府方への投降は実現せず、翌元亀2年暮れを待つ事になります。
 それからまた、幕府方赤松政秀(播磨国龍野)は、この年11月に毒殺されてしまい、地域の均衡が崩れます。敵対する浦上氏が播磨国内へ侵攻する事となりました。

六郎に示した調略条件が、数ヶ月後に状況が変わるというめまぐるしさです。この時点では、三好三人衆方は再び勢いを得て、六郎も態度を決めかねていたのかもしれません。調略条件としての条文にある播磨国内は、このような状況にありました。

 

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2025年7月23日水曜日

和歌山県東牟婁郡串本町に複数見られる、巨大城郭群らしきものについて

現和歌山県東牟婁郡古座川町高池地域の中西家に伝わる「池田八郎三郎勝政が荒木村重に押領され、その子吉兵衛勝恒が当村に逃れ居住」との伝承を追っていたところ、その周辺にある巨大な城郭群らしきものを多数発見し、驚きました。


【過去記事】
池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承
https://ike-katsu.blogspot.com/2022/06/blog-post.html

後々の備忘録的に、小さな記事を残しておこうと思います。

近年、赤色立体地図という日本人による発明の地形を読み取るための技術が開発され、この技術のおかけで、城郭研究などの分野でも次々と新たな城が発見されています。もちろん測量を初めとした他の分野でも、その恩恵は絶大です。

【赤色立体地図とは】
アジア航測株式会社が保有する特許技術
https://www.rrim.jp/

私はどちらかというと、これまでは、文献を中心に調べていたのですが、視野を広げる必要性を感じていた所に、「赤色立体地図」の存在を教えていただきました。この技術を用いて、池田城周辺の五月山を見た所、未認知の城郭跡を多数確認(実際に踏査もして確認済)し、物理的レベルでも文献と融合させることができると、新たな要素の追加を行っています。

さて、話しを本題に戻して、今回は、現和歌山県東牟婁郡串本町に見られる巨大城郭群らしきもののご紹介です。あまり、説明は必要が無いくらい、一目瞭然的です。先ず、その地域の赤色立体地図を以下に示します。対象は赤色線囲み部分です。ただ、今のところ、現地調査はできておらず、遠からず実際に見たいと思います。

◎串本町上野山周辺の巨大城郭郡

串本町上野山周辺の巨大城郭郡



◎串本町西向周辺の巨大城郭郡

串本町西向周辺の巨大城郭郡


◎グーグールマップの衛星写真モードで見る両城の位置関係

グーグールマップの衛星写真モードで見る両城の位置関係


両城は『日本城郭大系10:三重・奈良・和歌山』にも紹介されてはいますが、部分的な把握で、これ程の巨大城郭であることは認識されていません。
 虎城山城として串本町上野山に、小山城として串本町西向に存在した旨が紹介されています。小山城と呼ばれる側は、虎城山城よりも規模が大きいですね。後者は、破壊の可能性もありますが...。

しかし、これ程の規模の城郭は地方豪族の財力や権力では到底、開発も維持管理も不可能です。これらが実現出来る勢力と状況があった筈であることは確実ですが、今のところ、調査もされていないような感じです。

解題紀州小山家文書 - 久木小山家文書を中心に -(坂本 亮太氏著)より

この狭い地域に、古座川を挟んだ河口付近に、これ程巨大な城郭を構える、時の政権の必要性、情勢、経済性があったと考えるのが自然なことだと思います。日本史上でも大きな話題性を秘めていると思われますし、大幅に認識を改めざるを得ないような大発見が、そこに埋もれている可能性が大いにあります。以下、両城についての資料をご紹介しておきます。

◎虎城山城(東牟婁郡古座町(現串本町)古座)
※日本城郭大系10-P544(1980年8月発行)
---(資料1)-------------------------------
日本城郭大系10:

虎城山城縄張図(日本城郭大系10より)
古座川河口の左岸、通称「上の山」が虎城山城後である。中腹に城主高川原摂津守貞盛の子家守が、慶長年間(1596-1615)に開基創立した青原寺がある。青原寺は高川原氏の菩提寺でもあった。よって山号を「城傷山」という。伝えによれば、この青原寺の庫裏に残る大黒柱は虎城山城の材を用いたものだといわれている。『南紀古士伝』(『紀伊名所図絵』)に「高川原氏は三位中将惟盛の遺孫にして代々塩崎庄に居住す。
 古高瓦摂津守伊勢国司北畠具教に仕ふ。奥熊野長島郷なる中之坊及び九鬼氏など国司の下知に従わず。摂津守屢々先駆の軍功あり。元亀年中堀内氏の将椎橋新左衛門は太田の荘佐目城を守り口郡を略す。摂津守此れを防ぐ、其の一族浅利利平なるもの新左衛門を殺して遂に其の城を奪ふ。これより太田荘下里以南を領す。其の後織田家の臣滝川伊代守に属し五畿内に住せしが、関ヶ原合戦の後浪人となる。嫡子小平太浅野幸長に遣へ、泉州樫の井の役に淡ノ輪六郎を討つ。後芸州にて千五百石を領す。嫡子源太夫は古座の城跡に居り。慶長5年地士に命ぜらる。其の子孫世々村内に住す」とある。
 城跡は、かなり広い台地で、東西60m × 南北80mの曲輪を中心に、北西側にわずかに高くなった曲輪がひとつ、また南側に小さな2段の曲輪がある。ここには、石垣の一部がみられるが、城との関係は明かではない。東側の「忠魂碑」の裏には堀切があって、尾根を遮断して虎城山を完全に孤立した山にしている。ここは「虎城山公園」と称されるとおり、眺めは見事で、古座町西向の鶴ヶ浜、その沖の九龍島、さらに串本の大島など、太平洋が眼下に広がっている。比較的小さな曲輪が、いくつも連なる形式をとっている城の多い県下ににあって、虎城山城の曲輪は、眼下に広がる太平洋とよく調和がとれている。

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◎小山城(東牟婁郡古座町(現串本町)西向)
※日本城郭大系10-P545(1980年8月発行)、日本城各全集9-P186(1967年8月発行)
---(資料2)-------------------------------
日本城郭大系10:
国鉄紀勢本線古座駅ホームの北寄り(和歌山方面)付近が、小山実隆の屋敷跡である。その詰めの城が、西向の通称「城山」と呼ばれている丘上に築かれていた。その「城山」も、今日では稲荷神社が建っていて、昔の曲輪は削られてしまい、その姿の正確さを欠いている。東西10m ×南北15mの平地があるだけであるが、ここからの眺望はすばらしい。
 屋敷跡は、当時の古井戸(小山屋敷井戸)が、町文化財指定を受けてかろうじて残っているだけである。
 当地に、城と屋敷を構えた小山実隆について、『東牟婁郡誌』は、次のように説明している。
小山城遠景(日本城郭大系10より)
 "藤原秀郷の末裔なり。秀郷6世の孫光実に小山、結城両家の祖也。其の子朝政源頼朝に仕えて功あり。下野守に任せらる。5世の孫高朝の長子秀朝小山判官と称す。元弘中新田義貞に属す。義貞鎌倉を攻むるに当たり、之に従ひ戦功あり。下野守となる。建武2年北条時行の軍を武蔵の府に拒き克たずして之に死す。次子経幸石見守と称す。三子三郎実隆花園天皇文保2年12月左衛門尉に任す。又新左衛門と称す。弘元元年鎌倉の命を奉じて兄経幸と共に一族13人従兵300余騎を率いて南方海辺を守護せんが為熊野に下り、経幸は富田郷に住し、実隆は西向村に住す。"
 かつてその姿をとどめた立派な屋敷の石垣も、現在では『和歌山県聖蹟』に収められた古写真でみることができるだけである。
日本城各全集9:
通称を城山といわれる丘陵上に、南北朝時代、古座地方の豪族小山氏居城である小山城があった。小山氏は鎌倉の執権高時の旗下で紀州、泉州、淡州、阿州の海賊を討伐するため、熊野へ進軍した。その時、その一族がこの地方に城を構え、栄えたのであって、これを紀州小山氏の祖としている。西牟婁郡の久木城主小山左衛門家長もこの小山一族で、ここに支城を築いて、中紀にも勢力を伸ばそうとしたのであろう。
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以下、城に関連する要素を参考資料としてご紹介しておきます。

◎青原寺(古座川町古座)
※和歌山県の地名(日本歴史地名大系31)P672
---(資料3)-------------------------------
古座浦の背面、通称上の山の山腹にある。城陽山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。「続風土記」に「此寺地は高河原摂津守の城跡なり、故に山号を城塲(ママ)山とよへり」とあり、高川原貞盛の城砦の跡に建てられた。天正年間(1573-92)僧伊天の開基というが(寺院明細帳)、明確でない。境内には本堂・庫裏・鐘堂・観音堂・愛宕堂などがあり、うち庫裏の中心をなす大柱2本は城砦に用いられていた古材という。そのほか貞盛(一説に嫡子家盛)の墓と伝える五輪塔、高川原氏末裔の石碑数基がある。当寺は虎城山(古城山)の晩鐘とともに古来古座八景の一つで(熊野巡覧記)、城砦跡の山頂の平地(古城山公園)は眺望がよい。
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◎古座川
※和歌山県の地名(日本歴史地名大系31)P675
---(資料4)-------------------------------
東西の両牟婁郡の郡境にある大塔山(1122メートル)に発し古座川町・古座町を貫流する。西川・下露を経て佐田の古座川ダム(七川ダム)に入り、さらに南流して三尾(みと)川を合流する付近から東に流れ、月野瀬・高池から古座町古座・西向の間を貫流して熊野灘に注ぐ。全長約40キロ。「続風土記」は「海口に至るまで曲折多けれとも、総てこれをいへは乾より巽に流るるを一川の大形とす」と記す。おもな支流には上流から崩(くえ)ノ川・平井川・添野川・佐本川・久留美川・三尾川・立合川・鶴川・小川・池野山川などがある。
 七川ダム辺りから深い渓谷をつくり、その下流約15キロが景勝古座峡となり、一枚岩・虫喰岩(国指定天然記念物)、牡丹岩・飯盛岩・天柱岩などの奇景を形成。斉藤拙堂は「南遊志」のなかで清暑島・少女峰・明月岩・巨人岩・髑髏岩・玉筍峰・斎雲岩(一枚岩)・滴翠峰を「古座川ノ八勝」としている。このほか古座峡で遊んだ矢土錦山もその景趣を愛して詩を残している。
 古座川の通船がいつ頃始まったかは不明であるが、近世後期には河口の古座浦(現古座町を経て串本町)から真砂まで川船が往来し、上流の七川(しつかわ)谷の諸村は材木類を真砂から船または筏で古座浦へ運んだ(熊野巡覧記、続風土記)。この舟運・筏流しは近代まであったが、昭和31年(1956)古座川ダムの完成で漸次衰退していった。また、近世中期頃に下流の高池字元池・清水の二ヶ所に渡船があり、享保8年(1723)の渡船碑には施主「池口村中西勝応(池田勝正子孫)」の名が刻まれる。
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伊勢国司と地侍概念図
(日本城郭大系10より)
特に中世時代には、古座川を挟んで、東西に熊野武士との対立関係が永く続いていたのかもしれません。それにしては、旧自治体編成では、古座川両岸が古座町だったりします。泰平の世になり、経済的な繫がりが強くなったのかもしれません。

さて、これらの城は、池田勝正の縁故地近くでもあり、機会を作って、私も実際に見に訪れたいと思います。何と、この近くに親しい知人も居住しています。これは単なる偶然か!?

今後の調査に期待いたします。

2025年7月10日木曜日

細川京兆家(昭元)と典厩(藤賢)について(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

地域権力としての摂津国豊嶋郡を支配する池田氏は、その性質上、上位権力と切り離して存在し得ず、どうしても連動してしまうのが本質でした。
 池田氏も、それについて無意識であった訳ではなく、その不安定要因のを分散、体制構築を試みた一つは、様々な権威に繋がる事でした。直接的には、将軍や管領、典厩家、寺社勢力などに接近して、可能な限りの誼を通じました。

例えば、将軍と直接的に交わり、御家人として関係を結びます。天文8年閏6月13日付、将軍義晴が、池田筑後守信正などの有力国人に、私的な音信(内書)を送っています。
※大館常興日記1(増補 続史料大成15)P92

---資料(1)---------------------
閏6月14日条:
(前略)一、未明に荒礼部(不明な人物)より書状之在り。池田筑後守・伊丹次郎・三宅出羽守・芥河豊後守、此の人数へも成され、御内書、別して三好孫次郎に対し意見加えるべく之由、之仰せ下され、何れも副状調進致すべく候由之仰せ出され也。仍って則ち之相整え、幕府奉公衆荒川治部少輔氏隆へ之上せ進めるべく也云々。
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その後間もなく、同年9月26日、池田信正は、毛氈鞍覆・白傘袋着用の許しを幕府に請うています。これは、将軍の御家人である印の物品です。

大西山 弘誓寺(2000年撮影)
また、摂津池田城下の大西垣内には、池田一族から本願寺実如光兼の真弟となり一寺を建立して開基となった、浄土真宗本願寺派大西山弘誓寺があります。大西隼人宜正の嫡子源五郎正是が、「道空」との法号で僧侶となり、一向宗との接点を構築したようです。開基は永正6年(1509)2月28日と伝わります。(池田町便覧)
 この前年の5月、池田城は現職管領の細川高国方の軍勢に攻め落とされて落城し、池田城主であった貞正が切腹しています。城内から離叛者(池田遠江守など)を出し、池田家中は新たな体制で政治が進められた頃でもありました。
 このような状況でしたので、筑後守・遠江守どちらにも組みせず、出家して連枝の家を守る方策だったのかもしれません。同寺は、元禄3年(1690)に、第七世恵空によって再建され、今も同地に存在しています。

さて、そんな数々の試練を潜り抜け、戦国時代には摂津国内随一の国人に成長した池田氏と特に繫がりの深かった「管領」と「典厩」について、以下、見ていきたいと思います。

◎管領とは
室町幕府の統治体制における、管領という役務について、非常に解りやすく説明されている一説がありますので、それを部分引用させていただきます。
※室町幕府 全将軍・管領列伝P10

---資料(2)----------------------
(前略)将軍の意思伝達や裁決実施命令を基本的職掌とする執事(高師直など)の立場は、守護を直接掌握しようとする将軍の立場と矛盾するものであった。この矛盾は、細川頼之が幼将軍義満の親裁権行使の代理者として、義詮の親裁権を全面的に継承して執事に就任したことによって解消へと向かった。頼之は、将軍義満の成人とともに、将軍の親裁権と、将軍を補佐して幕政を運営する執事の権限と再分割した。義満の元服を契機として、頼之は管領と呼称される。
 主として所領・諸職の補任・寄進・安堵など権益の付与・認定およびそれに関する相論の裁決を将軍の親裁とした。そして、評定における管領の発言力を増大させ、引付方の機能を形骸化して所領・年貢に関する裁判を管領が総括した。さらに、諸国・使節等に対する執行命令を管領の権限とした。
 それまでの命令系統は、将軍─守護、将軍─執事─守護、将軍─引付頭人─守護、将軍侍所頭人─守護というように、多様であった。それが、この管領の地位成立とともに、将軍─管領─守護という系統にほぼ統一された。この命令系統の統一が、管領制度成立の指標とされている。
 将軍・管領の権限分掌や、管領を軸とする命令系統は、この後も継承されていく。室町幕府は、管領制を基本とする幕府機構を通じて発揮される権力であった。(後略)
-------------------------

また、その「管領」について、経年変化の後半の実態について、同じ書籍から引用します。
※室町幕府 全将軍・管領列伝P480

---資料(3)----------------------
慈雲山 普門寺 晴元隠居所
「管領」細川晴元のすがた:

天文3年9月3日、足利義晴は近江国坂本から六角定頼の息子義賢を伴い、京都へと戻った。その頃、晴元は一向一揆終息のために摂津・和泉を転戦しており、ようやく落ち着いて京都に戻ってきたのは天文5年9月のことである。では、晴元は上洛後、義晴をどのようにして支えたのであろうか。
 天文期に入ると、同じく義晴を支える立場として、近江の六角定頼の姿がみえる。定頼は常に在京することはなかったが、義晴は彼を重用し、難儀な裁許決定をする場合は彼の「意見」を欲した。それに対し、幕府は晴元に対して「意見」を諮ることはなかった。むしろ、晴元が幕府や政所に対し、京兆家の方で持ち込まれた問題を諮ることがしばしばみられる。例えば、天文7年11月、住吉浄土寺と桑原道隆なる人物の相論が細川京兆家にもたらされた。幕府政所の執事代を勤めている蜷川親俊の記録には、この相論について次のように記録している。
 "住吉浄土寺と桑原道隆入道の相論について、晴元殿のところで諮ったにもかかわらず、晴元殿はこちらへ幕府の「御法」を尋ねてきた。本日、晴元殿の奉行人でもある飯尾元運、同為清、茨木長隆が政所にやってきて、親俊が応対した。"
 晴元方の3名(飯尾元運・同為清・茨木長隆)は、晴元の下で政務処理をする役割を持つ人々である。つまり、政務処理をする立場である彼らは、幕府の「御法」を詳しく知らないため、政所へ尋ねにきているのである。後日、この案件は政所預かりとなり、晴元率いる京兆家だけでは自力での解決ができなかったことが読み取れる。このように、晴元は政務面において幕府を頼るといった傾向がみられ、幕府を補佐する立場というよりも、補佐を被る立場であった。それは、晴元の近くに、可竹軒周聡など政務処理ノウハウを熟知して人材がいなくなってしまったことが原因として考えられるであろう。(後略)
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◎典厩とは
現在の淀川の様子
「右京大夫(京兆家)」の官途を受ける細川家の分家の一つで、初期には京兆家において内衆を束ねる役割を果たしていたようです。
 典厩とは「右馬頭・右馬助」の官途の唐名で、そう呼ばれていました。この典厩家も経年変化があります。これについては、ウィキペディアから部分引用し、ざっとその全体像を掴んでみます。
※ウィキペディア:細川氏項目内「典厩家」

---資料(4)----------------------
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の三男持賢を祖とする。当主が官途とした右馬頭・右馬助の唐名にちなんで典厩家と呼ばれる。基本的に守護として分国を有することはなく、初期には京兆家において内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようだが、後に摂津国西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。(中略)
 京兆家当主の座を奪った晴元に対し、細川氏綱(尹賢の子)は高国の後継者として天文7年(1538年)以降抗争を続けていたが、三好長慶が氏綱を擁立して晴元から離反し打倒した。(中略)三好政権に対して一定の立場・発言力を保持しており、単なる傀儡でもなく同盟者に近かったと指摘されている。(後略)
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上記の解説では触れられていないのですが、管領家が2つに分裂して争った事から、典厩家も2つになります。
 その発端であった細川晴元の側につく、細川一族の中から「晴賢」という人物が典厩家で、その一党が摂津国中嶋を拠点として支配していました。この頃には分郡守護的な立場となり、地域権力にも変化していました。
※石山本願寺日記(上)P558

---資料(5)----------------------
10月1日条:
細川右馬頭晴賢・松井(波多野)十兵衛尉・小河左橘兵衛(二郎三郎)・水尾源介・並河四郎左衛門(丹波国人?)等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船3種(献上品脱カ)5人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)。
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大阪城内にある本願寺跡地の碑
上記史料にもあるように、中嶋は京都への水運の要でもあり、非常に重要な場所でしたので、当時、本願寺宗を含めて様々な組織(戦国大名も含め)が海外貿易を活発に行う中にあっては、欠く事のできない場所でした。
 中世は世界的に宗教の時代とも言われ、そういう方向性での繁栄に加えて、本願寺宗は貿易を行う事でも、富を手にしていました。それについて、当時の日本国を記録に残した外国人の一人、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記述を見てみます。
※フロイス日本史3(中央公論社)P217

---資料(6)----------------------
第17章(第1部56章)彼ら(フロイス師とアルメイダ修道士)が豊後から堺へ、さらに同地から都へ旅行した次第:
(前略)堺の数人のキリシタンは、その習慣に従って先行し、(堺の)市街から半里離れたところにあって、多数の神の社がある住吉というところで、司祭とその同行者を待ち受けた。彼らはそこで、(司祭)のために、はなはだ清潔で綺麗に調理した飲食物を用意していた。彼は彼らと別れた後、堺から3里距たった大坂への道をたどった。そこには一向宗の上長で、全日本でもっとも富裕、有力、不遜な仏僧の都市であった。この(僧侶)は、阿弥陀同様に有難がられ、阿弥陀に対してと同じように畏敬されている。なぜならその信徒たちは、(阿弥陀)が、彼ならびにその後継者たちに化身すると信じているからである。(後略)
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それから、戦国大名の海外貿易の実態について、周防国を中心とした戦国大名の大内氏の例を見てみましょう。部分引用します。
※世界史の中の戦国大名P35

---資料(7)----------------------
大内義隆没後も続く遣明船:
その後、日本国内では、大永6(1526)年に細川高国対抗する細川晴元・三好元長らが阿波で挙兵し、翌年京都に侵攻したことで、高国は近江に逃れ、政治的求心力を失った。これによって、以後の遣明船経営権は大内氏が集約することになり、その後の天文8(1539)年度と同16(1547)年度の遣明船は、享禄元(1528)年に没した大内義興の跡を継いだ大内義隆による独占派遣となった
 周防の大内氏は、この31代当主義隆の時期に全盛を迎え、山口に本拠を置いて周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の七ヶ国守護職を兼任する日本最大の大名に成長した。そうした時期に独占的に経営・派遣されたのが、天文年間の2度の遣明船であった。天文10(1541)年と同19(1550)年にそれぞれ帰朝した船が大内氏の大名財政にもたらした利益は計り知れず、また、その本拠の山口は文化的にも爛熟した。
 しかし、天文20(1551)年9月、その絶頂にあった義隆が、不満を抱いていた家臣の陶隆房に謀反を起こされて自害した。この騒動以降、日本から明に渡って皇帝への進貢を遂げた遣明使節の記録は途絶えた。この事実をもって、一般的な日本史の辞典や教科書では、日明間の勘合貿易は断絶した。
 だが、その通説にそぐわない、いくつもの事例を紹介しよう。
 貿易の実験を握った大内義隆が、陶隆房によって自刃に追い込まれたのは天文20年9月1日のことである。しかしながら、例えば、その2年半後の天文23(1554)年3月に肥後の戦国大名相良晴広が「大名船」を明に派遣している。また、弘治年間(1555-58)には、倭寇禁圧を要求するために来日した鄭舜功の帰国に随行して、豊後の戦国大名大友氏が使僧を派遣して明に入貢している。さらに、同じ使命を帯びて来日した蒋洲に帰国に際しては、義隆没後に大友家からの養子として大内家を継いだ大内義長とその兄の大友義鎮が、連合遣明船を派遣している。中国側の史料によると、この時、大内義長は倭寇被慮の中国人の送還を名分として明へ入貢している。その際、大友義鎮の遣明船は明側から「巨舟」と称された。(後略)
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上記の『世界史の中の戦国大名』でも触れられているように、管領もその職権を使い、海外貿易を行っていました。
 海外貿易については、その当初「日本国王」として将軍家の特権(義満が再開)でしたが、室町幕府が安定しない事からその権利が切り売りされるなどし、海外貿易窓口が乱立してしまう事となりました。
 いわゆる応仁・文明の乱以後、京都の中央政府は乱れに乱れ、織田信長が登場する頃にはその極致であったとも感じます。将軍を補佐して政治を行うべき役務者である管領までもが独自に対外貿易を行い、政治体制は麻痺状態でした。

織田信長は、それらの政治の不安定要素の整理も行ったと私は感じています。

最後の管領となった細川昭元の最晩年について、詳しく研究された論文がありますので、それも見てみます。
 先ず、天正2年(1574)と思われる、閏11月9日付け細川信良(昭元)が、香川中務大輔信景(讃岐国人)へ音信している史料の紹介です。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P211

---資料(8)----------------------
小早川左衛門佐隆景従り返札相届き祝着候。仍って其の表異儀無き由候。此の方事も別無く候。春者当方へ道行すべく候。猶波々伯部伯耆守広政(信良重臣)申すべく候。恐々謹言。
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復元された安宅船
天正2年という年は、将軍義昭と織田信長の対決の余震が続いており、斑な支配域を面に変えていく対応の最中でした。
 この頃は、信長と毛利家の関係も、それ程悪化しておらず、むしろ、東方の甲斐武田氏に備えるため、西側の大名とは友好関係にありました。
 織田方は、制海権も意識して、阿波・讃岐国に勢力を保っていた三好氏に対する策を講じていました。これは、毛利・織田氏双方に利益があり、同地域に影響力のある管領格細川昭元(この時信良)は、かつての讃岐守護でもあったため、讃岐の有力国人香川氏と接していました。香川氏は、織田・毛利方の支援を受けて三好氏と戦い、讃岐国西部(天霧城主)の支配を固めています。

昭元は、天正元年(元亀4)7月の槙島城合戦で、将軍義昭が織田信長に降伏すると、信長の命により同城に入りました。
 その7ヶ月後、天正2年2月に昭元は、信長から偏諱を受けて「信元」と名乗ります。そこからまた10ヶ月程が経ったところで再び昭元は「信良」と名乗りを変え、管領家(格)として代々の通字である「元」も名乗らなくなっています。
 『瀬戸内海地域社会と織田権力』では、ここに事実上の「管領」の終焉となり、信長の支配下に完全に掌握されたと考えられています。

戦国の世の極致でもあった、元亀・天正年間、織田信長の「天下布武」による国内統一戦において、細川昭元は、非常に重要な人物でした。
 室町幕府が機能を停止した元亀4年いっぱいまでは、典厩の城であった中嶋に昭元を入れて、地域勢力の根拠地で、管領・典厩の両権力の下、ある程度は機能していたようです。
 その過程で、摂津池田氏も中嶋城の普請などに動員されており、管領・典厩権力に沿って、国人衆としての池田氏も労務を果たしています。

いくつか、資料を上げます。

元亀元年と思われる6月9日付、細川右馬頭(典厩)藤賢が、某(幕府関係者)へ音信しています。
※新修 茨木市史(通史2)P28

---資料(9)----------------------
今度近江国於いて大利を得られ、六角承禎父子近江国伊賀に至り退かれ候由、慥かに承り珍重候。尤も罷り上りと雖も申し上げるべく候。普請毎日申し付け候間、取り乱し自由に非ず候。形の如く(慣例に従って)申し付け候者罷り上り、毎事上意得るべく候。先日申す如く伊丹兵庫頭忠親は摂津国東成郡榎並へ人夫3日申し付け、普請合力池田筑後守勝正は、一昨日1日摂津国欠郡へ人夫2〜300人合力為馳走仕り候並びに上意堅く仰せ出され候故と忝く存じ候。然るべく様御取り成し頼み入り候。近日者、牢人雑談相静め申し候。此の分に候者、都鄙大慶せしめと存じ候。近江国へは、織田信長定めて罷り出られるべく候。然ら者御動座為るべく候哉、承り度く存じ候。猶々伊丹・池田へは、私城(中嶋城)の普請合力仕り候由神妙に思召され候由、仰せ出され様に御取り成し頼み入り存じ候。旁様体承り度く候間、先ず以て飛脚申し候。何れも図らず罷り上り申すべく候。かしく。
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摂津池田衆は、中嶋城の普請助勢の命令があり、それに従事している様子が読み取れます。
 また、欠年の6月2日付、昭元が、香西玄蕃頭へ音信した史料があります。年代特定は難しいところですが、今のところ元亀3年のものと考えています。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

---資料(10)----------------------
昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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中島総社
この音信の宛先である香西玄蕃頭は、三好為三と共に活動していた人物と思われます。であれば、昭元の重臣です。香西玄蕃頭は、元亀元年8月下旬に、三好方から寝返って幕府・織田方に迎えられています。
 その後まもなく、三好方から離れた細川昭元の配下に入って活動していましたが、元亀3年8月下旬に再び為三と香西玄蕃頭は、幕府方を離れて三好方に寝返っています。
 この6月2日付の史料は、そのような状況で発行された元亀3年のものではないかと思われます。音信中「池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。」とあって、これは、摂津中嶋城への加勢の動きを伝えているものと思われます。管領権威に池田衆が従うという、本来の政治体制に復す行動を取っています。
 三好三人衆勢に寄った行動を取っていた池田衆ですが、この頃に池田衆は池田方から離れたようです。

時代は降って、天正2年7月20日、織田信長配下となっていた荒木信濃守村重が、中嶋方面で優勢であった本願寺勢を制圧するため、大合戦を行います。
※織田信長文書の研究(上)P765

---資料(11)----------------------
前置き:
尚々其の表之事、毎事油断有るべからず候。
本文:
折紙披閲候。去る20日(7月20日)摂津国欠郡中嶋相働き、即ち一戦に及び切り崩し、数多之討ち取り、残党河へ追い込み、悉く放火之由、手強に申し付けられ故、武勇之子細候。味方中少々討死申し、是又苦しからず候。古今の習いに有り候。次に此の表之儀、先書に具に塙(原田)九郎左衛門尉直政申し達すべく候。伊勢国長嶋之事、猶以て詰陣申し付け候間、落居程有るべからず候。開陣候者、則ち上洛為るべくの条、面談を期し候。謹言。
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これは上述のように、中嶋は、京都に繋がる水運の要所であり、未だ軍事的に不安定であったこの時期の情勢において、経済封鎖か流通確保かを争う重要な用件でした。
 また、この時期、瀬戸内海は織田方が把握(制海権)できておらず、天正4年7月の海戦で毛利方に大敗を喫しています。それを挽回するには、天正6年冬を待たねばなりませんでした。

そういう状況下での天正2年夏の摂津国中嶋大合戦でした。村重勢は、これに打ち勝ち、戦略的には織田方に、一旦は有利となりました。
 また、視点を広域にすると、この頃の織田勢は、京都周辺の四方八方は敵で、五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉)にも、敵対勢力が多く存在した状態でした。
 朝廷のある京都は、堅持すべき場所として荒木村重を主として周辺対応に当たらせ、信長は、その外側の地域の敵に対処をしていた時期でした。村重は、そういう状況をよく理解し、戦術・戦略的にも的確に成果を上げて、実行支配地を拡げました。

地域権力は、その地と社会的地位が密接であり、故に時代の変化に影響を受け易いとも言えます。管領及び典厩が、政治権力と経済性のバランスを欠き始め、土着性を帯び始めた時から、戦国大名や国人と同質化し、一過性の安定欲求が、本来の社会的な役割を曇らせる事になったのでしょう。
 管領という中央政治の要職にありながら、その職責が、時代や要望に押し潰されて、新たな社会形成の枠組みに沿わなくなり、再編されてしまったのが、管領家と典厩家だったようにも感じます。

しかし、この管領は、唐名で「黄門」であり、それは江戸時代にも引き継がれています。あのテレビ時代劇「水戸黄門」は、管領の事で、徳川将軍を補佐する役務(副将軍)でした。
 平和な時代の管領であった水戸光圀は、数多くの史書を編纂しており、現代への日本文化継承に多大な貢献を果たした人物の一人でした。

 

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