2024年10月30日水曜日

やはり、摂津池田家当主となった勝正は、先代の長正の嫡子(息子)ではなく、別の家系!

 いま連載中の「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」テーマに懸かる史料を調べ直しているのですが、その過程で発想があり、少し脱線です。
 これまでにも、何度かそれについてお伝えしていたのですが、確たる証拠がなく、また、池田勝正の先代の長正の資料が非常に少なかったこともあって、私の想像の域でした。

しかしながら、最近、長正の動きや家中での地位などが見えてきたこともあり、池田勝正との繫がりも、ある程度、具体的な推測が立てられるようになりました。
 やはり、私が直感的に感じていた通り、池田勝正は先々代の池田信正、続く長正とは別の家系から立てられた当主(惣領)の可能性が非常に高いと思われます。つまり、勝正は、長正の直接的な息子ではありません。

これについては、現在取り組んでいるテーマが終わりましたら、このテーマを詳しく記事にしたいと思います。

少々お待ち下さい。

 

 



2024年10月5日土曜日

細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。
 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落してしまいます。

その過程で、家名存続に腐心した三好三人衆(三好家家老格であり、家政中枢であった組織機構)と、伝統的権威であり室町幕府機構内の「管領」格であった細川六郎(家)について、考えてみたいと思います。

この管領(格を有する)細川家は、日本各地にあり、その細川家を担いで、地域権力とその統治機構があったようですが、今回の記事は、京都を中心とした(室町幕府直結の)細川管領家について、観察してみます。
 この京都に在所する足利将軍権威に含まれる管領職について、三好長慶を筆頭とする阿波三好家が深く関わり、支えていました。
 それらの実態については、複雑怪奇で、それらの説明は割愛します。ここでは特に、長慶の時代から元亀元年までの動きについて述べたいと思います。

例の如く、その流れについては、この記事の本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

状況からすると、阿波三好家からしても迷惑で、不可抗力的な悲劇なのですが、将軍家の同族争いと管領家の争いが連動して起こり、その権威構造の歯車が、その力で全て動いてしまうので、三好家としても引き込まれざるを得ない状況でした。それが長慶の代で概ね決着し、沈静化がある程度、進みました。

六郎(昭元)の父である管領細川晴元は、自らの失政で招いた混乱に抗いきれず、長慶という、かつての重臣に従わざるを得なくなります。

近江国(現滋賀県)朽木の将軍御所跡
天文20年(1551)12月、細川晴元方であり、近江国守護六角定頼・義賢父子と三好長慶が和睦する事となります。この時の条件について、管領晴元の嫡子である六郎を、現管領である細川氏綱の後、もしくは、然るべき時期に、晴元嫡子六郎を管領に就かせる条件で和睦を締結します。
 それにより、年が明けた天文21年1月に将軍義輝は、避難先の近江国朽木地域から京都へ戻ります。この折に、六郎も随伴していますが、その親である晴元は、剃髪して僧体(入道号永川)となり、出奔します。

この間暫く、駆け引き、争いがありますが、三好長慶が優位に状況を切り抜け、勢力を拡大していきます。
 弘治4年(1558)2月3日、細川六郎(この時、聡明丸)を摂津国芥川(山)城で、三好長慶は元服させます。この烏帽子親を晴元の敵対一族である現管領の細川氏綱が行いました。加えて、その月内に改元まで行い、元号を「永禄」として発布します。
 これは晴元の系譜を継がず、敵対する氏綱の系譜に組み込むという流れを作る事となり、この行為についての大きな反感を長慶は買いました。特に晴元擁護派の中心である、近江守護家六角氏(細川晴元の妻は六角定頼の娘で、両家は親類)が反発し、三好長慶に敵対する勢力を糾合して争う構えを見せます。

それに対抗して、三好長慶は管領の上位権力である将軍義輝に接近し、御相伴衆に取り立てられるように仕向けたりして、自らの地位を上昇させる策を講じます。また同時に、管領家も長慶の権力機構内に収めつつ、更にその上位権力との関係性を作り、自らの地位も上昇させる事で、敵の抵抗を政治戦略的に無力化する策に出ます。
 やはりこれは功を奏します。永禄2〜3年の河内南半国守護職畠山家の内紛鎮圧は、幕府の正規軍として三好長慶が行っています。しかし、それでも反抗は止まず、翌4年(1561)7月にも、長慶に対して包囲網を敷いて、近江六角承禎(義賢)が中心となって武力蜂起します。しかし、永禄7年7月、長慶はその鎮圧の半ばで死亡します。

少し時間を戻します。

京都吉田神社 
永禄6年(1563)という年は、京都周辺で疫病が発生していたとみられ、それを裏付ける史料があります。京都吉田神社の神主、兼右が、4月19日の事として記述しています。
※兼右卿記(上)P142

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上野民部大輔(信孝)、不例に就き、神道泰山府君祭事、上位(将軍)為、細川民部大輔(藤孝)以て仰せ出され了ぬ。既に急病也。諸道具5月3日中に調え難き旨申し入れ了ぬ。然者、(賀茂)在冨卿に仰せ出されるべく候云々。尤も然るべく候旨返答了ぬ。彼の病者十死一生也。若し平癒無き之時■天度く然るべく之間、此の分申し上げ了ぬ。
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この年に、細川晴元、同氏綱の両管領が死亡します。そして、長慶の跡取りであった三好義興も病没してしまい、親の長慶にとって、悲嘆に暮れる年となりました。この後、管領職は正式に承認された人物はなく、事実上「空位」となっていたと思われます。

さて、永禄7年(1564)、三好長慶亡き後、長慶実弟(十河一存)の養子先である十河家から養子を迎えて、家中政治の立て直しを図ります。
 三好家長慶跡目となった義継は、この時は(数えで15才)まだ若く、長慶を支えていた家老や重臣が同じくその新当主を支えました。しかし、司令塔であり、象徴であった当主長慶を不慮に失い、家臣団の意見が纏まらなくなります。
 永禄8年(1565)5月、三好勢は将軍義輝の暗殺を決行する暴挙に出、この年の内に三好三人衆という一族集団と新参であった松永久秀が対立し、内紛となります。もはや「天下取り」どころではなく、内紛の勝敗に明け暮れる事態に陥ります。
 このような事態は、三好家にとっては想定外であったでしょう。ですので、権力の整理や組織の象徴の奉戴など、次の段階の作業に着手する事ができず(構想はあったと思われる)に、内紛の処理に追われます。

足利義栄木像
将軍の殺害自体(主殺し)、当時でも非道な行為であり、これを実行するにあたっては、それに相当する(社会的な)行為の理由付けと準備が必要な筈です。これは思いつきではなく、構想があり、準備の上で行われたのだと思われます。また、『佐々木六角氏の系譜』では、この現役将軍の襲撃事件は近江守護六角氏家中で「(いわゆる)観音寺騒動」が起きたため、その間隙を衝いて実行されたと分析されており、やはり計画的である要素があったように思います。(阿波三好家による非道な暴挙は、これで二度目で、主君阿波国守護細川讃岐守氏之を三好長慶実弟の同名豊前守実休が天文22年(1553)6月に、殺害しています。)
 さて、この当時、将軍義輝を暗殺した直後、阿波足利家を将軍に立てるとの噂が広がっています。
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

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『言継卿記』5月19日条:
辰刻(午前7時〜9時)三好人数松永右衛門佐久通等、10,000計り以て俄に武家御所へ乱入之取り巻き、暫く戦い云々。奉公衆数多討死云々。(中略)阿州の武家御上洛有るべく故云々。(後略)
『フロイス日本史(中央公論社:普及版)』都において事態が進展した次第、および三好殿と奈良の(松永)霜台の息子が、公方様とその母堂、姉妹、ならびに奥方を殺害した次第条:
彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる(公方様)の近親者をその地位に就かせる事で相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名がともに天下を統治する(ことができると考えた)。
『足利季世記』光源院殿御最後之事条:
阿波御所様、三好三人衆、松永・篠原山城守を頼りに御頼みありて御上洛の御望みあり。先年より頻りに此の事ありけれども、長慶存生の中は、当公方様御馳走申して更に御請けなかりける、今長慶一期の後、子息幼稚なれば、一族衆を一偏に御頼みありければ、皆阿波御所え御一味申しけり。
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記述の、将軍義輝殺害後の三好家分裂は、約2年間に渡る抗争となりますが、これにより三好家の家運は傾きます。
 激しい内紛の中で、最終的には、三好三人衆方が競り勝って、阿波足利家の義栄(よしひで)を、正式な第14代室町将軍に就ける事に成功します。永禄11年2月8日の事です。
※言継卿記4-P211

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(前略)今夜将軍宣下、上卿出立要脚、伝奏於いて300疋之請け取り、澤路備前守入道之遣わす。同請け取り後日之遣わす。(中略)左馬頭源朝臣義栄宜しく征夷大将軍為し、兼ねて又聴着禁色すべく、予微頌、(後略)
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この争いの間、両者は公的・正当性の主張のシンボル(象徴)として、高位の人物を味方に付けようと腐心しています。
 松永久秀は、自身の行動の象徴として、三好家当主三好義継を奉戴していました。この関係は、両者が死亡するまで続く、堅いものでした。永禄10年2月に、三好家当主の義継は、松永久秀の元へ走ります。
※言継卿記4-P122、兼右卿記(下)P121、多聞院日記2(増補 続史料大成)P9など

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『兼右卿記(下)』2月16日条:
今夜亥刻(午後9〜11時)、三好左京大夫与松永弾正少弼一味せしめ云々。(後略)
『多聞院日記』2月18日条:
(前略)一、去る16日(2月16日)三好左京大夫堺にて宿所を替え了ぬ。松永弾正少弼と同心歟と河内国雑説之由也。いかが、大坂へ行き云々。
『言継卿記』2月17日条:
(前略)三好方池田内等昨日破れ云々。又大乱に及ぶべく、笑止之儀也。三好左京大夫(義継)、同山城守、安見等、摂津国遠里小野へ打ち出し云々。三好日向守、同下野守入道、石成主税助、和泉国境に之有り云々。松永弾正少弼(久秀)衆蜂起云々。池田之内75人引き破れ云々。(後略)
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対する三好三人衆は、将軍格を立てており、天下への戦略(号令)としては、義継を擁立するよりも戦略的には大きな意味があります。ですので、この奏功で、いずれ義継の事も解決できると考えていたのかもしれません。

漸くここから、細川六郎(後の昭元)の動きについて、触れていきたいと思います。歴代最長の前置きで、新記録達成です。すみません。 m(_ _)m

そんな状況でしたので、六郎は三好家中で保護されていたものの、弘治年間の元服以来、この動きの中で、史料としては表立って見られません。また、年齢も若く(三好義継とほぼ同年代)、政治的な動きもできなかったのかもしれません。永禄10年(1567)になり、ようやく六郎が史料上で確認できるようになります。
 本願寺宗法主(顕如)の光佐が、細川六郎に宛てて音信しています。具体的には不明ですが、何か重大事項を控えているような内容です。2月3日付の音信です。
※本願寺日記-下-P578

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肇年嘉祥、逐日尽際有るべからず。彌堅意任されるべく候。抑3種5荷進め入れ候。表祝儀計りに候。猶下間上野法橋申せしめるべく候。穴賢穴賢。
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更に、同年9月28日の事として、細川六郎が山城国大原口などの山科率分の今村氏受け持ち分を違乱している旨、公卿山科言継(ときつぐ)の日記に現れます。
※言継卿記4-P172

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10月2日条:
(前略)澤路隼人佑(言継被官)来たり。内蔵領率分東口之事、細川六郎(昭元)違乱云々。折紙持ち来たり。山城国大原口・粟田口山科率分今村(慶満)分事、上使差し越され上者、役銭等先々の如く彼の代沙汰致すべく由状件の如し。永禄10年9月28日 為房判(昭元奉行人飯尾) 諸役所中。承引能わず、上使追い返し云々。重ねて来たるべくの由申し云々。(後略)
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同年、本願寺の光佐が、念入りに年の暮れと新年の挨拶を細川六郎に送っています。この頃、六郎の年齢は数えで20才になっています。永禄10年暮れと明けた新年の音信です。
※本願寺日記-下-P581+583

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12月23日条:
歳暮嘉慶、尤も以て珍重候。仍て太刀一腰之推し進め候。猶下間上野法橋申すべく候。穴賢穴賢。
1月26日条:
春の吉兆、漸く事舊(旧)しと雖も候。尚以て休盡有るべからず、多幸多幸。仍て3種5荷之推し進め候。祝詞逐日重畳申し展べるべく候。穴賢穴賢。
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これは本願寺宗にとって、六郎が重要な人物であると認識していた証拠でもあると思われます。

芥川山城(撮影:2001年2月)
永禄11年(1568)には、三好三人衆が将軍義栄政権の体制整備を行っていたようで、管領(かんれい)格であった六郎もその政権内に据えて、安定の一要因にと考えていたのかもしれません。
 しかし、この年の秋、故将軍義輝実弟である足利義昭を奉戴した織田信長により、三好三人衆方に上洛戦を挑まれ、抗いきれずに将軍義栄政権は崩壊してしまいます。
 この時、細川六郎は摂津国芥川(山)城付近で、三好三人衆筆頭の三好長逸と共に迎え撃ちましたが、衆寡敵せずに敗走しています。
※言継卿記4-P273、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

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『言継卿記』9月29日条:
(前略)今日武家御所天神馬場迄御進発云々。先勢芥川之麓之焼き攻め云々。(後略)とある。
同月30日条:
(前略)今日、武家芥川へ御座移され云々。勝龍寺・芥川等之城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調べ之有り。池田へ取り懸け云々。(後略)
『足利季世記』新公方様御上洛之事条:
(前略)同9月28日、信長は京都東福寺に着陣して石成主税助が楯籠もりし山城国西岡の勝龍寺城を攻めらるる、柴田修理亮と石成主税助終日合戦し、石成打ち負け50余人打ち取られ、叶うまじとや思いけん降参を請いければ、上意得られ一命を助けて城を請け取り、石成おば信長の手に加えらる。公方様には越水城へ御動座ありけり伊丹大和守親興は、越前国へ御使者を奉り御味方に参り御教書給わり所領3000貫給わり、兵庫頭になりければ、公方様の御手合いとて馳せ向かい、9月29日摂津国武庫郡河辺郡両郡を放火す。是れを聞きて三好方の高屋の城も飯盛城も自落しければ、畠山高政は初めより一乗院様の味方なれば、本領なればとて高屋城に打ち入りけり。同日、新公方様南方の御敵退治の為に御出張(中略)尾州(尾張国)衆、高槻・茨木へ陣取る。芥川城へは、故細川晴元一男六郎とて三好日向守籠もりけるが是れも叶わず明け渡しける。(後略)
『改訂 信長公記』信長御入洛十日余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)29日、勝龍寺表へ御馬を寄せらる。寺戸寂照に御陣取。これに依って石成主税頭降参仕る。晦日、山崎御着陣。先陣は天神の馬場に陣取る。芥川に細川六郎殿、三好日向守楯籠もる。夜に入り退散。並びに篠原右京亮居城越水、滝山、是れ又退城。然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。(後略)
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細川六郎は、一旦、三好三人衆勢と共に阿波国方面へ待避していたようですが、体制を立て直し、再び上洛(京都奪還)を目指した戦いの準備を行っていました。
 ちなみに、この三好三人衆勢が京都から落ちる時、将軍義栄は、その途上で死亡します。これはあまり記録が無いのですが、それは、長慶の前例の如く、喪の秘匿によるものと思われます。

それ故に、「戦(いくさ)」をより有利に展開するためにも求心力のある人物をより多く味方に付ける事は、非常に重要な課題となります。
 三好三人衆方にとって、六郎の価値が急騰していました。そんな状況を示す史料があり、これは六郎が、丹波国人へ上洛戦のためと思われる音信を行っています。永禄12年と推定される3月20日付けで、細川六郎が、丹波国人荻野(赤井)悪右衛門尉直正へ宛てています。なお、署名は「元」の一文字のみです。また、『近世公家社会の研究』によるとこの音信は、六郎が阿波国から発したものと推定されています。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37など

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先度染筆様体申し越し候。参着候哉。然者、行事、相催し候条、此の刻、別して忠節為るべく候。恐々謹言。
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丹波八木城跡(撮影:2201年10月)
もう一通、細川六郎と連なる動きをしている丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井(荻野)悪右衛門尉直正宿所へ宛てて音信があります。これも同年と推定される3月23日付けの史料です。文中の「御屋形」とは、細川六郎を指していると考えられます。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に(赤井)時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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そして、永禄12年(1568)閏5月、三好三人衆勢は、実際に軍を動かして出陣しています。『多聞院日記』閏5月14日条に、その記述が現れます。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

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(前略)一、淡路(国)於いて喧𠵅有て、(三好)為三ノ矢野ノホウキ(伯耆守)以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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伝摂津中嶋城跡(撮影:2006年10月)
この後暫く、六郎に関する史料は見られなくなり、元亀元年(1570)の摂津国野田・福島合戦を迎えます。この年、六郎は満22才。
 その頃には、三好三人衆方も六郎の政治・軍事的価値を再認識しており、その動くところには、必ず「六郎」の記述が見られるようになります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

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元亀元年条:
(前略)旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ、摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭晴賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同備中守、同帯刀左衛門、同久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。(後略)
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この時は、細川晴元の一族同苗の典厩家(管領の分家で政賢流、右馬頭:摂津国中嶋城主)でもある晴賢の動向も記述されており、この頃の三好三人衆方はより強固に権威(権力)の利用とこだわりを見せています。この典厩家の晴賢は生没年が不詳ながら、六郎と比べると年齢がかなり上ですので、補佐的な実務への期待もあった可能性がありますね。もちろん、陣所が野田・福島ですので、中嶋はこの地域の中心地でもあります。それも意識していますね。
 また、六郎の存在を三好三人衆が活用しているのは、共闘するにあたり、近江国守護家の六角氏との関係を保つためでもあったと思われます。

このように、元亀元年頃には三好三人衆方にとって、管領格であった細川六郎は、組織の求心力を発揮し、団結の中心として、大きな役割を果たす人物となっていました。


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<天文20年から元亀元年8月の関連資料概要> =================
天文20年12月 -------------------
将軍義輝方六角義賢・定頼父子と細川氏綱方三好長慶の和睦会談が行われる
※戦国三好一族P139、三好長慶(人物叢書)P121、足利義昭(人物叢書)P87

天文21年 -------------------
 
1月28日 将軍義輝、入京
※言継卿記2-P443、群書類従20号(武家部:細川両家記)P612

弘治4年 -------------------
2月3日 細川晴元嫡子昭元、細川氏綱方三好長慶居城芥川山城にて元服
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P615、戦国期歴代細川氏の研究P-347など
 
永禄4年 -------------------
7月 細川晴元方反三好長慶勢、各地で挙兵
※高槻市史1-P714、和泉市史1-P356、中世後期畿内近国守護の研究P222
 
永禄6年 -------------------
2月 池田長正死去
※池田市史1-P658
 
3月1日  細川晴元病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622など
 
4月19 将軍側近上野信孝、急病につき京都吉田神社神主兼右へ音信
※兼右卿記(上)P142

8月25 幕府方三好長慶嫡子義興没
 ※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622

12月20 細川氏綱病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P623

永禄7年 -------------------
5月7日 幕府方三好長慶、弟の安宅摂津守冬康を殺害
※言継卿記3-P408

7月4日 幕府方三好長慶死亡
※細川両家記 (群書類従20:合戦部)P623
 
永禄8年 -------------------
5月19日 足利義栄上洛の噂が立つ
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

8月2日 幕府方三好義継衆松永長頼、丹波国で戦死
※多聞院日記1(増補 続史料大成)P422、言継卿記3-P521

永禄10年 -------------------
2月3日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P578

9月28日 公卿山科言継、細川昭元の押領について音信を受け取る
※言継卿記4-P172

12月23日 本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P581

永禄11年 -------------------
1月26日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P583

9/月29日 幕府方三好長逸勢、摂津国芥川山城などの拠点が落ちて敗走する
※言継卿記4-P273、足利季世紀(改定史籍集覧 第13冊)P246、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

永禄12年 -------------------
3月20日 三好三人衆方細川昭元、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37

3月23日 三好三人衆方丹波国人内藤貞虎、同国人赤井直正宿所へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

閏5月7日 三好三人衆方細川六郎(昭元)、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国期歴代細川氏の研究P127

閏5月14日 三好三人衆内で喧嘩が起きる
※ 多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

================= <年表おわり>


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2024年9月23日月曜日

併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。

これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の理解を深める事になればと思います。前項目の「元亀元年当時の戦況」と重なる部分もありますが、視点が違いますので、併せてご覧いただければと思います。

また、前項目と同じく、この記事の本文下に関連する出来事の一覧を掲示します。

結果から言うと、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の意図するところの調略が成功していますので、この史料はその「指示書」という、証拠になろうかと思います。

さて、今回見る関連史料群は、調略が行われた事の実態を示しているとも言える集合体であり、細川六郎を支える人々や体制(構造)などの変化を見ることが出来るように思います。
 元亀元年8月、反幕府・織田信長方の中枢勢力である三好三人衆勢は、京都奪還を目論見、決戦を挑みます。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸し、陣を展開します。
 しかし、両勢力が睨み合う最前線で、何と、中枢を担う人物が、幕府・織田信長方に投降します。

大坂石山本願寺推定地
8月28日、三好為三が投降し、その3日後の9月朔日、為三に近しい三木某なども投降しています。その翌日の2日には、三好三人衆方の陣中で喧嘩が起きています。

同月10日、幕府・織田勢は、三好三人衆勢に攻撃を開始し、次々と敵を圧倒していきますが、同12日、旗色を鮮明にした大坂本願寺勢が武力蜂起します。次いで、これに呼応した京都東側の同盟勢力(朝倉・浅井・六角氏)が、京都を目指して進みます。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P111

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志賀御陣の事条:
9月16日越前国の朝倉義景・浅井備前守長政、30,000計り近江国坂本口へ相働くなり。森三左衛門尉、同国宇佐山の坂を下々(おりくだり)懸け向かい、坂本の町はづれにて取り合い、纔千(わずか)の内にて足軽合戦に少々首を取り、勝利を得る。(後略)
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近江坂本城跡
同月16日、本願寺方は幕府方と停戦しますが、再び交戦が行われています。多分これは、この時に近畿地域に接近した台風によるものと思われます。台風が過ぎ去ると、再び戦闘は始まっています。その間、幕府・織田方は京都防衛を優先する策を打ち出し、野田・福島の戦線から後退して、その本陣としていた摂津中嶋城も放棄。京都に戻ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

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元亀元年条:
(前略)一、同16・17日(9月)に鉄砲止められ候て和睦の噯い候へ共、相調わず由申し候。
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そんな最中の9月20日、寝返ってきた三好三人衆勢の中心人物である三好為三の知行地の暫定方針を信長は伝えています。一方でまた、これは細川六郎へ信長より提示された「池田領内二万石」の概念に含まれる要素だったのかもしれません
※池田市史(史料編1)P28

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摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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実際、将軍義昭政権は、知行地の配分どころでは無く、政権崩壊に繫がりかねない軍事的危機にあり、その対応に追われます。それは軍事面だけでは無く、徳政令(経済政策)や朝廷を動かした和睦対応などで、この年の暮れには、一時的な全面停戦を実現して、窮地を脱します。
 その頃の12月25日及び27日、三好三人衆方の同盟勢力である本願寺光佐が、それらの求心的人物である細川六郎に、歳末の挨拶を行っています。
※本願寺日記-下-P596

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27日付音信:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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年が明けた元亀2年、その春から両陣の動きがあり、夏頃にはまた、双方で大規模な交戦が始まります。
 5月6日、幕府方に身を置いていた松永久秀が、旧誼の三好三人衆方へ寝返り、同時に三好義継も三好方へ復帰します。これは、三人衆方にとっては、同族分裂の終息を遂げた事となり、新たな求心力を得たカタチになります。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記(ビブリア54号)P33

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『多聞院日記』5月6日条:
(前略)一、奈良多聞山従り陣立て之在り。松永山城守久秀嫡子同苗金吾(久通)・竹内下総守秀勝立ち了ぬ。
『二條宴乗記』5月6日条:
天晴。陣立て、松永久通・竹内秀勝計り也。知れず者也。
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一方、幕府・織田方は、重要地域である摂津中嶋城を治めていた伝統的権威であった細川典厩家、藤賢の処遇について検討しています。6月4日、信長はその事を音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P458

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細川右馬頭藤賢身上の儀に付き、御内書の旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長於も等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無きの様に上意加えられるべくの事、肝要存じ候。此れ等の趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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また、同月16日、三好為三の処遇についても検討を行っており、これについて暫定的な方針として、7月31日付けで、将軍義昭が内書を下して、為三の希望する所領について認めています。しかし、最初の要求よりは規模を小さくして、より具体的な内容になっています。
※織田信長文書の研究-上-P392、大日本史料10-6-P685

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6月16日付:
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者(摂津守護)伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
7月31日付:
舎兄三好下野守跡職並びに分に自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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摂津白井河原古戦場跡

8月28日、摂津国島下郡宿河原付近で大合戦(いわゆる白井河原合戦)があり、これに三好三人衆方池田勢が勝利しました。幕府方中心人物の一人であった和田惟政を始め、主要人物は戦死。茨木城など付近一帯は悉く池田勢が落として勢力下に収めました。これにより、山城国勝龍寺城付近が最前線となる状況にまで、幕府方は軍事的緊張を強いられます。
※言継卿記4-P523など

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『言継卿記』8月28日条:
戌午、天晴、時正、(前略)摂津国■郡山於軍之有り。和田伊賀守惟政討死云々。武家辺以ての外騒動云々。茨木兄弟以下300人討ち死に。池田衆数多打ち死に云々。三淵大和守藤英夜半■■城入り云々。
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摂津池田勢は、この合戦により、歴代の最大版図を得、同時に、三好三人衆方は池田勢の奮戦で、京都奪還が現実味を帯びる状況に好転します。

しかし、そんな中で、その年も暮れかかる12月17日、細川六郎(昭元)は配下を伴って、幕府・織田方に投降します。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

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十七日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)・三宅・香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
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元亀3年が明けて、三好三人衆の中心人物である石成友通も幕府・織田方に投降してきます。細川昭元(六郎)が投降したことで、その周辺の人物が次々と連なって、付いてきました。織田信長が、石成主税助友通へ音信(朱印状)しています。
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127

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領中方目録:
一、山城国の内普賢寺・皆一職、一、同山田郷(現京都府相楽郡精華町内)皆一職、一、同上々野(現東寺領荘園のひとつ)三分の一、一、同富野郷御料所方・小笠原分除き之、一、同内野代官職、一、同壬生縄内、一、山城郡司、以上、右御下知の旨に任せ、領知全う相違有るべからずの状、件の如し。
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軍事的には、三好三人衆方が有利な状況でしたが、昭元を始めとする、この不調和は政治的な内部事情があっての事と考えられます。後の項目で、これについて示しますが、三好三人衆方は、いくつかの求心的要素(人物)をかかえており、その時々で、その重要度に偏りを見せたために、その扱いへの不満が表出したのではないかと思われます。

さて、幕府・織田方に迎えられた管領格の細川昭元(六郎:この時は右京大夫)は、3月24日に配下を引き連れて、信長に参候して挨拶を行います。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

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むしゃの小路御普請の事条:
(前略)3月24日、(中略)細川六郎(昭元)殿・石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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この後、幕府方として、軍事的には不安定ではあったものの、伝統的な細川典厩家の城である中嶋城に、元の城主であった藤賢に加えて細川昭元も入れ、守らせたようです。
 しかし、三好三人衆方は、ここを再び攻撃します。中嶋城の細川藤賢・昭元は持ちこたえられずに和睦します。これについて、いくつかの記述や解説では、昭元が再び三好方になったとしているのですが、その後も、昭元と藤賢は、明らかに幕府方の立場です。

そんな中、この5月頃には、将軍義昭と織田信長の不和が表面化、両派が分かれ始めます。しかし、完全には乖離しておらず、付かず離れずの行動から心理的には葛藤があったと思われますが、それらは史料上から読み取るには複雑です。
 史料があっても、その人物の立場が把握できなければ、書いてある意味が全て実態の真逆の意味になりますので、人物の所属把握は非常に重要です。難しいのですが、行動の結果からすれば、それらの誤差は読み取る事ができるかもしれません。

6月2日付けの史料は、欠年ではあるものの元亀3年の状況を示していると考えられ、同じく欠年6月12日付の荒木村重の音信は、関連性があるものと考えられます。以下は、6月2日付け、幕府方細川昭元が、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信したもの。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

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昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋(中嶋?豊嶋?)に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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これらの史料から窺える状況からすると、摂津池田衆も三好三人衆方から少し距離を置き始めていたようです。昭元や石成友通が三好三人衆方から離れた事で、微妙な求心力の衰えが影響を及ぼしていたのかもしれません。

つい先日、令和6年9月6日に報道されました、熊本大学(永青文庫)による、織田信長から細川藤孝への書簡(元亀3年8月15日と推定)では、山城・摂津・河内国方面の有力国人を味方に引き入れるよう信長が依頼しています。
 この時点では決定的に将軍義昭と織田信長は決別しているようで、両者は、体制固めに動いています。
※熊本大学・永青文庫記者発表資料など
https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2024-file-1/release240906.pdf

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八朔之祝儀為、(猶具一ト二ニ申し渉り候)委細承り候。殊に帷子ニ送り給わり候。懇切祝着之至り候。当年京衆何れも無音之処、初春も太刀・馬之給わり候間、例年表され之条、大慶候。仍って鹿毛之馬之進め候。乗心形の如く候歟。方々御辛労之由、併せて此の節候。南方辺之衆誰々寄らず、忠節抽んずべくに付きては、召し出され然るべく候。馳走簡要候。恐々謹言。
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この流れで、8月28日の事とする中嶋城をめぐる合戦(中川史料集:内容からしてこれは元亀3年の誤りであること確実)では、摂津池田勢が中嶋城の支援を行っていたらしい様子が浮かんできます。
※中川史料集P14

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太祖清秀公の条の元亀3年条:
8月28日夜、摂津国中嶋細川右馬頭藤賢が城中に出火あり。城の内外大いに騒動しければ、石山本願寺の砦より人数出して、中嶋の城を攻める。藤賢兼ねて将軍に昵近して、御所に相詰めける故、城中無勢にして、防戦に術を失い、城兵四方に散乱す。太祖(中川清秀)その頃、新庄に御在城故、早速御出馬ありしに、藤賢勢いは落ち散りて、本願寺の兵、早や城中に入れ替わりたるを、御手勢を以て即時に城を取り返さる。此の時石火矢を打ちけるに筒損じ中川淵兵衛重正(重継の子)面を焼きて、その痛み甚だしく程なく死す。太祖も側らにおはせしが御顔を損ぜらる。荒木村重も乗り付け御武勇を感じ、中嶋の城を預け参らせ、直ちに御入城有って藤賢が一跡御知行となる。
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そして、これを裏付ける様な、元亀3年9月2日付、本願寺光佐による細川昭元への音信内容は、実際に争うような事があり、何らかの交渉の実態を示していると考えられます。
※本願寺日記-下-P602

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芳墨披覧遂げ候。今度御城中於て不慮之次第、旨趣き具さに承り候。其れに就き軈て誓詞以て預け示し候。相応之儀如在有るべからず候。猶坊官下間頼廉申し入れるべく候。
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一方この頃、背反常無い三好為三は、将軍義昭派三好三人衆方に復帰したらしく、欠年10月13日付けで、聞咲なる人物に音信し、三人衆方の動向を伝える連絡を取っています。また為三は、同月7日付けで、将軍義昭からの内書を根拠にしたと思われる領知を獲得していたらしく、「代官之事」として、刀根分・茨木分を書き出しています。三好為三が、上御宿所(意味は不明)に宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編6)P438

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代官之事:
一、刀根分、一、茨木分、以上。
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復元された安宅船
欠年11月13日付けの信長による将軍義昭側近曽我助乗への音信で、これも三好三人衆勢力の中心人物である安宅信康の扱いを検討しています。幕府・織田方へ投降する動きがあったようです。
※織田信長文書の研究-上-P584

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淡路国人安宅神太郎(信康)事仰せ聞かせられ候。尤も以て然るべく存じ候。去春以来之儀、其の聞こえ無く存ずる之由、一旦者余儀無く候。但し彼の雑掌共申し候趣き、一向難題之模様候し、其の分に至りては、果たして入眼不実に存じ候ける、万端を抛ち、此の節忠節抽んずべく之由、寔に神妙之至りに候。然る間領知方の儀、彼の方申し様聞き召し合わされ仰せ付けられるべく候。信長に於いては疎略存ずべからず候。此れ等之旨御披露有るべく候。恐々謹言。
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安宅氏は、淡路国の有力者を束ね、海上輸送も担う勢力であって、この離反は、三好方の衰退の大きな要因になったと考えられます。

12月頃、そんな中での摂津国中嶋城の奪還闘争は、将軍義昭方三好義継などが中心となって攻撃をしています。これは時期的には、甲斐守護武田信玄の京都を目指した西進が始まっており、将軍義昭がこれに呼応するための連絡路確保を行ったためと思われます。
 細川昭元は、三好義継と人質の交換を行い、誓詞も交わしていましたが、その和も破れて、再び交戦となっていました。

元亀2年12月の昭元の幕府・織田方への投降以来、その後も一族の苦境や上位権力である幕府の権力分裂などが起きて、多難ではありましたが、昭元は、その時の必要な事を実行し、分限を守って淡々と行動しているように見えます。
 この行動が、信長に信用され、信長の娘を娶り、加えて偏諱も得て、一族扱いを受けるまでになります。
 また、元亀3年3月以降、同族の典厩家である藤賢とも行動を共に(主に中嶋城の守備)させられますが、この藤賢は、永年に渡る管領争いを続けてきた宿敵でもある細川氏綱の家系であり、その人物とも違うこと無く折り合いをつけていた事は、この時代の非常に希な事であったかもしれません。勿論、一方の細川藤賢も、昭元をよく助け、行動したことも史料から伺えます。

しかし、そんな藤賢にも、将軍義昭から誘いがあったようです。甲斐武田の上洛に備えて、体制を強固にすべく、伝統的な幕府関係者を自らの味方になってもらうように、様々な手を講じていた事が判ります。12月10日付けで、将軍義昭が、側近の一色藤長へ内書を下しています。状況的に、この時の藤賢は昭元と行動している筈ですので、この調略は当然ながら昭元の耳にも入るでしょう。求心力を発揮する権威は、争うにあたっては必須条件です。
※福井県史(資料編2)P686

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前置き:
なおなお来春は朝倉義景礼に来るべく之由申し候。其れ以前に養生すべく用立てる事肝要候。将又来春右馬頭(細川藤賢)も相越し候やうに大坂(本願寺)へ申し調えるべく候。猶延広(不明な人物)申すべく候也。
本文:
諸労未だ験を得ず候由、一入心元無く候。急度養生加え、然るべく候。此の間之様、一向に油断候。分別せしむべく事肝要候。
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<元亀元年8月から元亀3年暮の京都周辺の戦況> =================
8/28 三好三人衆方三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

9/1 三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 三好三人衆方の摂津国野田・福嶋陣所などで内紛発生
※言継卿記4-P442

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/16 幕府・織田信長方、大坂本願寺と停戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417など

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


【元亀2年】----------------
1/16 三好三人衆方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/17 某永雄(所属不明)、近江国永源郷宿中へ宛てた音信で摂津の情勢を伝える
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P318

5/6 松永久秀衆同名金吾・竹内秀勝勢、三好三人衆方として大和国多聞山城を出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記 (ビブリア54号) P33

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、織田政権の基礎構造(織豊政権分析1)P63

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685 ←狩野文書

8/28 摂津国白井河原合戦
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137など

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


【元亀3年】----------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯

※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247


4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

6/2 幕府方細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反幕府方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/28 将軍義昭方本願寺勢、幕府方摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14


9/2 将軍義昭方本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 将軍義昭方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 将軍義昭方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/2 織田信長衆木下秀吉など、京都大徳寺各中に宛てて石成友通について音信(折紙)
※大徳寺文書1(大日本古文書:家わけ17)P54、豊臣秀吉文書集1-P19

11/13 織田信長、将軍義昭側近曽我助乗へ安宅信康について音信
※織田信長文書の研究-上-P584

================= <年表おわり>


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2024年9月14日土曜日

新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、元亀元年当時の戦況

元亀元年8月付で発行された、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料が、どんな状況で作成されたのかを見てみます。元亀元年は、西暦にすると1570年ですが、同年4月23日に改元があり、「元亀」と改まりました。
 また、この改元は、有名な越前朝倉・近江浅井氏攻めの最中に行われ、また計らずも元亀年間は激しい近畿地域争乱の幕開けとなりました。

この記事(項目)では、その年の6月以降から歳末にかけ、順に追ってみます。この本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

越前国一乗谷朝倉氏遺跡
幕府・織田信長方は、四国の三好氏本拠を攻める計画が当初にありましたが、急遽、越前朝倉氏を攻める事となりました。

若干、この理由を考えてみますと、この前年、永禄12年に但馬・因幡国の山名祐豊を幕府方が攻め、生野銀山を手に入れようとしましたが、この達成が難航していました。朝倉氏の発祥は但馬国にあるため、日本海側の勢力が連携していたものと思われます。織田信長は、この連携を断ち切るために朝倉攻めを先に実行した可能性があります。
 この準備として、永禄12年に連歌師里村紹巴を丹後国に入れて、内情偵察を行っています。7月4日に紹巴は、同国天橋立を訪ねています。紹巴は堺商人とも親密な関係にあり、これは、単なる文化活動ではないと考えられます。

話しを元に戻します。

御存知の通り、越前朝倉氏攻めの過程で織田信長の縁戚であった近江国人浅井氏の離反が確定した事から、これへの根本対応を行う事となりました。
 私はそれが、いわゆる「姉川合戦」だと考えています。その6月以降からの京都とその周辺地域を中心に戦況を見たいと思います。

既述のように、元々幕府・織田方は、四国阿波の三好氏本拠を攻める計画でしたので、堺商人などを通じて、状況把握や監視を行っていました。この音信は、その一例です。
 堺商人今井(納屋)宗久が、将軍義昭側近上野中務大輔秀政・同一色式部少輔藤長・玄浄院・金山駿河守信貞(三好義継重臣)・河内国高屋・和田伊賀守惟政・朝山日乗上人・明智十兵衛尉光秀・野村越中守・御局様・木下藤吉郎秀吉・森三郎左衛門尉可成・松永山城守久秀・畠山尾張守高政・佐久間右得門尉信盛・柴田修理亮勝家・中川八郎右衛門尉重政・蜂屋兵庫頭頼隆・丹羽五郎左衛門尉長秀・金森長近・河尻与兵衛尉秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞某へ各々へ宛てたものです。
※堺市史5(続編)P927

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急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
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近江国姉川古戦場
繰り返しになりますが、その上で、越前朝倉氏攻めに変更し、苦境に陥るのですが、しかし同時に、この事で潜んでいた将軍義昭政権にとっての悪材料が一気に露顕(永禄13年正月に諸大名へ幕府から発した触状を元にした敵味方の確認)します。戦略に長けた織田信長は、事前にこの連合包囲を察知していたようです。
 そのため、京都の西側から三好三人衆勢が、朝倉・浅井勢と呼応した動きをすると、信長は考えていたようです。その対策として、拠点整備を行っています。6月9日付けで、幕府方細川右馬頭(典厩)藤賢が、某(幕府関係者)へ音信しています。
※新修 茨木市史(通史2)P28:狩野文書

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今度近江国於いて大利を得られ、六角承禎父子近江国伊賀に至り退かれ候由、慥かに承り珍重候。尤も罷り上りと雖も申し上げるべく候。普請毎日申し付け候間、取り乱し自由に非ず候。形の如く(慣例に従って)申し付け候者罷り上り、毎事上意得るべく候。先日申す如く伊丹兵庫頭忠親は摂津国東成郡榎並へ人夫3日申し付け、普請合力池田筑後守(勝正は、一昨日1日摂津国欠郡へ人夫2〜300人合力為馳走仕り候。並びに上意堅く仰せ出され候故と忝く存じ候。然るべく様御取り成し頼み入り候。近日者、牢人雑談相静め申し候。此の分に候者、都鄙大慶せしめと存じ候。近江国へは、織田信長定めて罷り出られるべく候。然ら者御動座為るべく候哉、承り度く存じ候。猶々伊丹・池田へは、私城(中嶋城)の普請合力仕り候由神妙に思召され候由、仰せ出され様に御取り成し頼み入り存じ候。旁様体承り度く候間、先ず以て飛脚申し候。何れも図らず罷り上り申すべく候。かしく。
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一方この時、堺に牢人が集まり、不穏な動きが始まっていました。これは随時に、信長にも情報が入っていたと思われます。
 しかしながら、細川藤賢の音信中にもあるように、朝倉氏、特に浅井氏に決戦を挑むべく準備(姉川合戦)を進めており、これについて、計画では将軍義昭勢の後詰めを繰り出す予定でした。その中心勢力が、摂津守護池田勝正でした。
 ところが、幕府・織田方にとって深刻な想定外だったのは、この摂津池田家中で内紛が起きて、敵の三好三人衆方になってしまった事でした。
 姉川合戦で幕府・織田方が苦戦したのは、将軍義昭が自ら出陣(移座)し、後詰めに出る事ができなかったのが原因です。加えて、摂津国内最大の勢力であり、守護職であった当主池田勝正とその家が分裂し、その主勢力が三好三人衆方になった事で、京都を西側から脅かす緊張感が高まりました。

摂津池田城跡公園
6月18日に池田城内で内紛が起き、当主池田勝正は池田城を出ます。その後、諸方の情報収集を行って、同月26日、河内国守護三好義継を伴って将軍義昭に状況報告を行います。
 これを受けて幕府は、翌27日、近江国出陣を断念し、各所に通達を出します。そして翌28日の姉川合戦を迎えています。
 将軍義昭は、ギリギリまで希望を繋いでいたようですが、無理強いはせずに中止し、他へ資力を振り分ける判断になったようです。

この状況で、姉川合戦に負ければ、将軍義昭政権は総崩れとなります。だから、必ず勝たなければならなかったし、結果として勝ちました。辛勝でしたが、敵を怯ませる事には成功した訳です。
 この合戦後、直ぐに付(相)城を構築して、朝倉・浅井方の動きを封じ、今度は軍勢を西に向け集中させます。
 7月4日、信長は入京。東西主戦場の真中に居て、双方の動きに目を配ります。信長は、必要な所に次々と移動していたようで、翌月23日に再び京都へ入っています。

摂津国野田城跡推定地
この頃、京都西側の三好勢に対する目途が立ったようで、8月25日に信長は摂津国へ向けて、京都を出ています。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸していた三好三人衆勢に対するためです。
 この時も将軍義昭の出陣を計画し、幕府の公的な戦いである事を誇示しました。その効果もあってか、この征討は有利に、比較的順調に進んでいました。

この時の幕府・織田勢の本拠は、摂津国欠郡中嶋で、そこには中嶋城がありました。ここは伝統的に細川典厩家の城で、この時には細川右馬頭藤賢が守っていました。8月1日には合戦があり、藤賢は摂津国人野辺弥次郎なる人物へ感状を下しています。
※新修 茨木市史(通史2)P29

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去る朔日(8月1日)大仁(現大阪市北区大淀付近)堤に於いて、多勢に無勢を以て一戦に及び、前代未聞比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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将軍義昭の出陣により、この中嶋城が本陣となって、その他の勢力は天満森などに陣を構えて三好三人衆方に対します。信長は当初、天王寺の陣へ入っています。
 三好三人衆勢は、その西側の野田・福島方面へ陣を取っていました。8,000程の軍勢だったようです。
 8月には、その周辺、尼崎や原田、河内国内で交戦が行われており、18日には本願寺勢も中嶋城周辺を焼き討つなどしていました。

摂津国中嶋(堀)城跡
9月3日、将軍義昭は中嶋城に入り、幕府・織田方が三好三人衆方へ総攻撃を開始し、同月10日には、三好三人衆方の本陣である野田・福島城へ攻撃を始めています。
 そして12日、同城へ総攻撃を始めたところで、その横(南側から)を衝くように本願寺宗が幕府・織田方に対して武力蜂起を行い、戦況は逆転してしまいます。
 そして、これに呼応して、近江国方面の朝倉・浅井勢も京都へ迫る動きをしています。この事態を収拾するため、幕府・織田勢は野田・福島城の攻撃を中止して、京都防衛のために撤退します。各勢力も本拠地に戻って、防御態勢を取り、同時に次の手のための再編成を行いました。
 信長は、この窮地を挽回するために、軍事力だけでなく、様々な手を講じて、時間を稼ぐための休戦に持ち込もうと動きます。京都やその周辺で徳政令を発布、朝廷を動かして停戦を図ります。
 三好三人衆など、反幕府・織田勢力は、圧倒的な武力を持ちながら、驚くことに、次々とこの和睦に応じて、この年の暮れには全面的な休戦を実現しています。

今回、新たに発見された、8月付の信長による管領格の細川六郎(昭元)へ宛てた朱印状ですが、そのような戦況の中で企図された六郎の調略です。
 戦況だけを見ていると、反幕府・織田方の勢力が非常に巨大に感じますが、この流れの中に「不安の種」も見受けられます。
 三好三人衆方の中心人物である三好為三などが、幕府方に投降します。これから両軍がぶつかろうとする直前です。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

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『信長公記』野田福島御陣の事条
(前略)8月28日夜に、三好為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『言継卿記』8月29日条
明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条
(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。(後略)
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続いて、月が変わった朔日、これも三好三人衆家中の歴々衆である三木某などが、幕府方の松永久秀に投降します。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月3日条
(前略)敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
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更に、同月3日、将軍義昭が中嶋城に入った前の日、野田・福島陣所などで大きな喧嘩が発生しています。
※言継卿記4-P442

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『言継卿記』9月2日条
武家明日中嶋の細川右馬頭城へ移座され云々。敵方香西、三宅雑談故、各為生害せしめ云々。(後略)
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この事態収拾を図る目的なのか、もう一人の三好三人衆家中の中心人物である三好長逸が、摂津国池田城から、野田・福島城へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

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『細川両家記』元亀元年条
(前略)一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
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信長は、このような敵の内情を知っており、結束が固くない事の情報を得ていたのだろうと思われます。

この時から遡る事21年前。この中嶋城のすぐ東にある江口での大合戦(天文17年の江口合戦)も、敵方の陣中で喧嘩が始まった乱れを衝いて攻め込み、三好長慶が勝利を得た事と、状況の共通性があります。
 人間の結束の乱れを戦時・平時を問わず、冷静に見るという、別次元の格の違いが、そもそも存在していたのかもしれません。実際に、時系列で戦況を見ても、敵方の喧嘩の情報を知ったのか、そのあたりで幕府・織田勢が攻撃を始めていると見えなくもありません。

一方で、別の見方をすれば、全てが計画されていた訳ではないと思いますが、もしかすると、信長はこの窮地を逆手にとって、三好三人衆勢を本拠地から誘い出して、それを叩くという事も考えたかもしれません。攻め込むよりも、負のリスクを軽減でき、既知の地の利を活かした戦術を駆使できます。

元亀元年の夏以降、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料は、このような戦況で発行されました。


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<元亀元年6月以降の京都周辺の戦況> =================

6/1 池田勝正、守護役として摂津国中嶋城の普請を行う
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 ※狩野文書

6/2 反幕府方三好三人衆加担の牢人衆、堺へ集まる
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P189

6/17 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
※大日本史料10-4-P526、近江国古文書志1(東浅井郡誌編)P524

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/19 摂津国池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、戦国期三好政権の研究P263、大日本史料10-4-P522

6/19 将軍義昭、摂津国池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
※言継卿記4-P424、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)

6/20 幕府・織田信長勢、京都から摂津国山崎方面などへ出陣
※言継卿記4-P424

6/26 反幕府方三好三人衆内三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425、戦国期歴代細川氏の研究P219

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 近江国姉川合戦

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す (直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121、大日本史料10-4-P554

6/28 反幕府方三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
※言継卿記4-P426

6/29 幕府奉行衆勢、摂津国に出陣
※言継卿記4-P426

7 反幕府方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7 幕府方摂津守護格池田勝正派摂津国河辺郡荒蒔城主上月範政、三好三人衆方池田衆・荒木村重などに攻められる
※池田町史P135

7/4 信長入京
※足利義昭(人物叢書)P167、言継卿記4-P427

7/6 幕府・織田信長勢、摂津国吹田で交戦
※言継卿記4-P428

7/12 摂津守護伊丹忠親、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
※伊丹資料叢書2(伊丹中世史料)P115

7/21 反幕府方三好三人衆勢、摂津国野田・福島方面へ上陸
※言継卿記4-P432、足利義昭(人物叢書)P168

7/26 幕府方松永久秀、河内国へ出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P200

7/27 反幕府方三好三人衆内三好長逸、摂津国野田・福島方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

7/29 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、後巻きとして摂津国兵庫に上陸
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/2 反幕府方三好三人衆内三好為三など、禁制発給につき山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/2 将軍義昭、河内南半国守護畠山昭高に摂津国内等の守備を命ずる
※泉大津市史2(史料編1)P435

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/5 反幕府方三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ築城
※ビブリア52号P154(二條宴乗記)

8/9 反幕府方三好三人衆内安宅信康勢、摂津国尼崎に移陣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

8/17 反幕府方三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
※言継卿記4-P439、多聞院日記2(増補 続史料大成)P204

8/23 織田信長、入京
※言継卿記4-P440、ビブリア53号P155(二條宴乗記)

8/23 幕府・織田信長勢、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 織田信長、摂津国へ出陣
※言継卿記4-P440

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440、宝塚市史2-P191、三田市史-下-P241

8/26 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を包囲
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P635、多聞院日記2(増補 続史料大成)P205、言継卿記4-P440

8/18 反幕府方本願寺勢、摂津国中嶋城周辺を打ち廻る
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P519、(新)大阪市史5(史料編)P178

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440

8/28 反幕府方三好三人衆内三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

8/30 将軍義昭、2,000余の軍勢で摂津国へ出陣
※言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206

9 反幕府方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 反幕府方三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 反幕府方三好三人衆勢の摂津国野田・福嶋陣所で内紛発生
※言継卿記4-P442

9/2 将軍義昭、山城国西岡の勝龍寺城を出る
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府方三好三人衆内三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/4 幕府・織田信長方紀伊国根来寺衆・播磨国人別所右得門尉など、摂津国天王寺方面に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/8 幕府・織田信長勢、摂津国楼の岸・川口砦へ新手を配置
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/8 河内北半国守護三好義継・松永久秀、摂津国海老江砦を落とす
※言継卿記4-P443

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443

9/9 織田信長、摂津国天満森に陣を進める
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、言継卿記4-P443

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/11 幕府・織田信長勢、摂津国中嶋の内にある畠中城を落とす
※言継卿記4-P445

9/12 将軍義昭、摂津国中嶋の内の浦江に入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/13 反幕府方本願寺勢、幕府・織田信長方に対して蜂起する
※言継卿記4-P445、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/14 反幕府方本願寺勢、摂津国天満森で交戦
※改訂 信長公記(新人物往来社)P110

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/22 将軍義昭、摂津国中嶋の陣から天満森へ後退する
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、群書類従20(合戦部:細川両家記)P638

9/23 河内南半国守護畠山昭高勢など、河内国内を打ち廻る
※言継卿記4-P448

9/24 河内北半国守護三好義継など、河内国若江城へ帰城
※言継卿記4-P449

9/25 幕府・織田信長勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

9/27 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国兵庫に上陸
※尼崎市史2-P5、細川両家記(群書類従20:合戦部)P639

9/28 反幕府方三好三人衆内篠原長房勢、摂津国越水城を落として尼崎へ移陣
※尼崎市史2-P5、群書類従20(合戦部:細川両家記)P639

11/5 反幕府方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

11/12 播磨国人赤松政秀死亡
※姫路市史8(史料編:古代・中世1)P592

12 幕府、徳政令を発布
※高槻市史1-P739、島本町史(史料編)P445

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)

12/13 幕府・織田信長、近江国人浅井長政・越前守護朝倉義景などとの和睦を成立させる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P116

12/24 幕府・織田信長、三好三人衆方大坂本願寺の和睦を成立させる
※足利義昭(人物叢書)P177

12/25 反幕府方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

================= <年表おわり>


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2024年9月11日水曜日

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」について

 はじめに

令和6年(2024)8月14日頃に報道されました、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状について、そこに摂津池田家の事も記述がありました。
 この史料の意味やこの時の状況について検討してみたいと思います。以下の翻刻から、いくつかの要素ごとに説明をしたいと思います。

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条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
 元亀元       弾正忠
   八月 日       信長 (朱印 天下布武)

細川六郎殿

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なお、翻刻については、山梨県在住のAさんや兵庫県在住のNさんに助けていただきました。大変ありがたく、感謝致します。私は崩し字が未だ、ほぼ読めないため、無理をお願いしました。Aさん、Nさん、ありがとうございました。

上記の史料について、以下の要素から、その意図や意義について、考えてみたいと思います。

  1. 元亀元年当時の戦況
  2. 併せて見るべき関連性の高い史料
  3. 細川六郎と三好三人衆 ← NEW(2024.10.5)
  4. 摂津池田家の動き
  5. 元亀元年頃の播磨国方面の事
  6. 敵方(組織)の求心力を削ぐ目的があった
    ※三好方の世代交代期だった
    ※四国攻めの準備もしていた経緯から内情は概ね把握していた
  7. 結果的に目標が達成されて、細川六郎が降る

 

天下布武の印章(出典:wikipedia

2024年8月14日水曜日

丹波八上城に存在する「芥丸」(伝芥川某の持場)という気になる曲輪について

摂津池田家を見る上で、やはり、丹波国の雄「波多野氏」の観察は欠かせません。
 摂津池田郷は、多くの街道(西国街道・能勢街道・余野街道・中山道・高山道・高山道・有馬道・尼崎伊丹道・篠山街道)を通し、篠山方面を始め、複数本の主要街道が池田から北方向へ繋がっています。故に池田郷は丹波国方面とも関係が深く、「ヒト・モノ・コト」の歴史を重ねています。
 例えば、戦国時代にあっては、池田弾正忠(筑後守信正)と波多野秀忠は、血縁関係があったようです。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593

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『細川両家記』大永6年条:
(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、(後略)
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とあります。しかし、『細川両家記』とは、いわゆる軍記物であり、記述の信頼性に欠くという側面があるのですが、その他の一次史料を併せ読みますと、この当時の両家(両当主)は、行動を共にする事が多い上に、危険を侵してまでも相互扶助行動が見られます。
 例えば、近年、年代比定が行われた、細川晴元方山城(西岡)国人衆が着陣を報告した中に、波多野秀忠と池田筑後守が行動を共にしている史料があります。
 細川六郎晴元方山城国人高橋与次郎頼俊・神足(代)治家・竹田左京進仲広・能勢孫太郎頼親・石原惣左衛門尉綱貞・八田勘解由左衛門尉俊兼・竹田弥七郎仲次・志水蔵人助吉種・竹田藤五郎感仲・能勢次郎兵衛尉頼次・石原孫五郎延助・小野彦二郎家盛・竹田肥後守長泰・野田(代)秀成が、同晴元方三好筑前守元長陣所に宛てて音信しています。
※長岡京市史(資料編2)P219など

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態と注進せしめ候。仍て去る5月芥川中務丞・入江藤四郎摂津国へ至り入国に付きて、山城国西岡於手合い候べく由申し越され候。殊に細川晴元方近江守護六角定頼勢京都白川へ着陣候の間、将軍義輝以下の御敵旁山城国西岡へ以って要用の由候の間、則ち罷り越し候。その以後各参陣致すべくの処、波多野孫四郎(秀忠)池田筑後守、山城国山崎口打ち明け候者、摂津国上郡之陣取り雑踏すべくの旨、申し越されに付きて今于に摂津国大沢於在陣仕り候。この旨従い両人も御意を得られの由候間、先ず延べ引き申し候。然る間京都・摂津国の御敵通路堅固に差し塞ぎ候。これ等の趣き、然るべく様御取り合い所仰せ候、恐惶謹言。
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それからまた、大永・享禄・天文年間などで摂津国内の有力勢力として行動を共にする事が多かった池田・芥川氏も、天文後半から永禄年間にあってもその傾向が続いています。
 因みに、この時は、家中一体の体制ではなく、分裂状態にある中での、権力補完関係の行動でした。史料は、将軍義晴が、細川六郎(晴元)被官寺町三郎左衛門入道・摂津国人伊丹左近将監・同池田筑後守(信正)同芥川中務丞へ宛てて感状を下しています。
※兵庫県史(資料編・中世9)P469、戦国期細川権力の研究P251など

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堺津合戦之後、尚相踏み以て、向後軍忠せしむべく旨、聞こ食しかれ了ぬ。言上之趣き、尤も比類無く、次に細川六郎出張時節、聊かも油断有るべからず、其れに就き、弥粉骨抽ず者、神妙たるべく、猶大館常興申すべく也。
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また、別の史料もご紹介します。天文8年、河内国十七箇所の代官職の要求が幕府に認められながら、細川右京大夫晴元・三好政長らの画策で不当に退けられた事に三好孫次郎(範長:長慶)が武力蜂起した時の様子です。
※摂津市史(史料編1)P379、(新)茨木市史4(史料編:古代中世)P421

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『大館常興日記』閏6月14日条:
一、未明に荒礼部(不明な人物)より書状之在り。池田筑後守・伊丹次郎・三宅出羽守・芥河豊後守、此の人数へも成され、御内書、別して三好孫次郎に対し意見加えるべく之由、之仰せ下され、何れも副状調進致すべく候由之仰せ出され也。仍って則ち之相整え、荒治(不明な人物)へ之上せ進めるべく也。
『親俊日記』閏6月13日条:
三好同名扱い破れ、既に京中騒動に付きて、三好孫次郎方へ御内書成られ、摂津国同意の輩、伊丹次郎、池田筑後守、柳本孫七郎、三宅出羽守、芥川豊後守、木沢左京亮方へ意見加えるべく之由、何れへも之下し成され了ぬ。御内書河村有林之調え進める。
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赤色三角印のあたりが「芥丸」砦跡
そのような関係性がある中で、波多野氏の居城である丹波国八上城には「芥丸」なる曲輪があり、これが芥川某の受け持ちであったと伝わる施設があります。これは非常に気になります。
 永い間の様々な関わりの中で、支配の境を接する者同士が、関係性を深める状況は当然ながら、あったと思います。しかしながら、この芥丸については、伝承での「芥川某の曲輪」とのみの情報です。それ以上の情報は、今のところありません。

今のところ筆者の直感的な要素も多く、繙くための思索でしかありませんが、「芥丸」について、全く自由な発想で、情報を集約しておきたいと思います。先ずは、『城郭大系』から「八上城」についての必要部分を抜粋してみます。
※日本城郭大系12(新人物往来社)P328

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八上城の条
(前略)さらに頂上の帯郭から東へおよそ30m下がると、周囲に古い形式の土塁で囲った東西約20m、南北7mほどの灌木の茂った郭に出る。「蔵屋敷」という一郭である。そして尾根伝いに左手に向かうと、「茶屋ノ壇」から出郭である「芥丸」「西蔵丸」に至る。また右手に下ると「上ノ番所」「下ノ番所」という郭跡に達し、野々垣口に通じており、この「下ノ番所」の一隅に内側を石積みにした直径約3mの井戸がある。「淺路池」と呼ばれているが、この一帯が井戸郭であろう。また「西蔵丸」という広さ20m × 10mほどの一郭があり、頂上の本城部分を中心にした鶴翼形に広がった郭群の東方最先端にある砦跡で、背後の「芥丸」砦と共に野々垣口・西庄口・藤ノ木口を扼(やく)する重要拠点であったものと推定できる。(後略)
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とあります。城下の街道との関係や地形から、徐々に構えが拡がったと『城郭大系』では推察しています。
 一方で、『城郭大系』での分析から約20年を経た『戦国・織豊期城郭論』では、同城の構成を以下のように分析しています。該当部分を抜粋してみます。
※戦国・織豊期城郭論(丹波国八上城遺構に関する総合研究)P35

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図5:戦国・織豊期城郭論より
2.曲輪群の構成
本節では、波多野氏段階の八上城の縄張について考察したい。城域は、基本的に1地区(八上城の中心的曲輪群)・2地区(北東尾根筋の曲輪群)・3地区(蕪丸周辺の曲輪群)という膨大な曲輪群から構成されている。(中略)
 波多野氏が戦国大名化する過程で、1地区が整備され、さらには三好長慶や織田信長との戦争によって、城域が攻撃面に当たる2地区へと拡大したと推測されるのである。
 ここでは、遺構調査に基づき、最大規模に発展した波多野氏段階の八上城の復元を試みたい。まずは、前述した3地区を除く各地区別の主要曲輪に関する調査結果を記す。なお〔 〕の中の数字は図5の曲輪番号である。(中略)
 さらに進むと、この地区最大の曲輪〔19〕がある。ここから東北の尾根上に、全長220メートル、幅9メートルで馬駆場〔20〕とよばれる細長い平坦かつ直線的な遺構が存在する。おそらく城域の東端に位置する伝芥丸や伝西蔵丸からの情報を、伝本丸へと伝えるための通路として機能していたのであろう。
 その先には、伝芥丸〔21〕がある。東西9メートル・南北11メートルの小規模な曲輪であるが、礎石が残存している。ここを北に下り、堀切を渡って鶴ヶ峰を登った地点に伝西蔵丸〔22〕とよばれる曲輪がみられる。東西12メートル・南北14メートルの規模であるが、一段下に帯曲輪があり、尾根の先にも竪堀があることから、この曲輪の自立性がうかがわれる。(中略)
 2地区は、藤木坂筋や野々垣筋といった八上城の背後を固める曲輪群であり、尾根筋に連なって築かれた小規模曲輪群に、竪堀を有機的に配して防備機能を高めている。しかしこれらは、いずれも自然地形に小規模な普請を加えたにすぎないことから、基本的に波多野氏段階の遺構と考えてよいと思われる。織豊大名在城期には、主郭にあたる1地区が改修されたのであり、2・3地区に対しては石垣を使用したり虎口を改変していないことからも、補助的な曲輪群として、ほとんど手が加えられなかったのであろう。
 以上から戦国末期の八上城は、東西800メートル・南北700メートル以上の規模を持つようになっており、他の戦国大名の城郭と同様に、縄張が肥大化・拡散化する傾向にあったことが判明する。
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八上城案内パンフレットより(部分)
『戦国・織豊期城郭論』では、『城郭大系』の説を踏襲的に詳しく分析しながらも、慎重な判断になっているように感じられます。

いずれにしても「芥丸」を含む郭群は、波多野氏段階での事と考えて間違い無く、個人的には、その可能性へ更に筆者の思いを踏み込みたいと思います。

前述の、波多野氏・池田氏・芥川氏の関係性により、この「芥丸」については、阿波・摂津国に縁の芥川氏との関連を想定できるのではないかと思います。
 摂津国方面の芥川氏拠点と八上城方面(波多野氏勢力圏)とは街道を複数通していますので、行き来が可能です。また、政治・軍事などの繫がりの中では、連動も容易です。
 特に天文年間後半の天文17年夏以降からは、摂津国池田家中の分裂で、権力が不安定となった主格の池田長正と、同様に三好長慶と一族でありながら立場の安定しなかった芥川孫十郎の政治的不安定さを外部権力(勢力)に補完を求める行動から、両者は丹波・摂津国境付近への定着が想定されます。

芥川孫十郎は、三好長慶の権力下にありながら背反常無く、権力基盤が弱いために非常に不安定な立場にありました。
 天文22年8月、長慶に対し、またも謀反を起こしましたが、この時ばかりは許されませんでした。孫十郎の居城であった芥川山城は陥落します。そして、孫十郎方の人質は皆、殺されています。この時の様子をご紹介します。

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『足利季世記』芥川落城之事条:
同19日、芥川孫十郎兵糧に詰まり色々三好方へ和睦の儀詫言有り。城を明け渡しける長慶衆同日打ち入り、芥川一味の人質を皆誅されける芥川は三好豊前守が姉聟なれば、其の好(よし)みを頼み、阿波国へ下りける。(中略)三好長慶も則ち同25日、芥川城に移り給えば、...(後略) 
『細川両家記』天文22年条:
(前略)8月22日に芥川孫十郎方兵糧之無くして噯いに成りて退城也。則ち城を長慶へ受け取られ候也。此の時の人質衆を誅され候也。(中略)8月25日に長慶入城候也。芥川孫十郎方の無念推量申し候。阿波国へ下られ候て三好豊前守方頼み、堪忍の由に候也芥川孫十郎は三好豊前守の妹聟也
『言継卿記』8月22日条:
丙申、天晴、天一天上。(中略)今日午時(午前11時〜午後1時)摂津国芥川城之渡し云々。安見美作守宗房之請け取り云々。(中略)来る25日三好筑前守長慶移るべくの由風聞。いよいよ細川右京大夫入道晴元出張される様体難しく也。(後略)
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その後、芥川孫十郎は、義理の父である三好豊前守を頼って阿波国へ下ったとありますが、その後は史料上にも見られなくなり(永禄4年末に再登場)ます。一時的に浪人した可能性もあると思います。
 この行動特性、当時の政治状況分析については、「摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て」をご覧下さい。

図録 越前朝倉氏一乗谷より

波多野氏にとっても、組織の維持・発展の様々な材料として、人材(能力)、上位権力との関係、交通や経済的要素、情報の入手経路などの観点でも、名のある人物を抱える事を積極的に行っていたと考えられます。また、波多野秀忠の娘を三好長慶に嫁がせていたものの、離縁された心情的な不穏さも何らかの作用を及ぼしていたかもしれません。
 それらの要素の中で、波多野氏と芥川氏が協調・信頼関係を結んでいた痕跡として「芥丸」が存在したとしても、決して不自然ではありません。波多野氏は、それ程の求心力を持つ勢力であった事も疑い有りません。もちろん、幕府や管領の知行地が丹波国内に多くあったという一面もあるでしょう。
 同様の例として、越前朝倉氏の城下に、近江国人浅井氏が屋敷を構えていた事とも、遠からず共通性があるように思われます。

この「芥丸」の築造年代については、不明ですがそこに存在する理由としては、前述のように阿波・摂津国の芥川氏との関係が、蓋然性高く想定できるのではないかと思われます。

それから、もうひとつ気になるのは、波多野氏の本拠である八上城とその周辺は、春日神社が多いですね。本姓が藤原である池田氏との親和性もこの点にもあるのかもしれません。

丹波八上城に関する今後の研究に期待して、新たな関連史料などの発掘を待ちたいと思います。

 

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2024年7月26日金曜日

また一人、素晴らしい先生に出合いました。『世界史の中の戦国大名』を読んで

『世界史の中の戦国大名』との出合いは、ユーチューブチャンネルでみた、同書の書評からでした。

◎キリシタン大名の振る舞いから考える~「グローバル化」しても失ってはいけないものとは何か?|『世界史の中の戦国大名』鹿毛敏夫(講談社現代新書)|@kunojun|久野潤チャンネル


私は永年、この時代を研究していますので、興味が湧き、早速購入して読んでみました。しかし、読み終えると、この久野先生の言われるような鹿毛氏の極端な思想や読み違えではなく、その時代をしっかり研究していれば、割と自然な流れのように感じますし、私にとってはこの書評で言われるような受け取りはしませんでした。

それよりも寧ろ、鹿毛先生の述べられている視点が、私の研究に足りなかった事に大きなショックを受けた程です。私の取り組みの認識を改め、全体を見直さなければならないと強く感じた程、鹿毛先生の素晴らしいご研究です。
 勿論、鹿毛先生も、先人の研究成果の恩恵を受けつつ、また、他の研究の成果とも相まって、素晴らしいご成果となっているのですが、これは一方で、史料や研究が比較的豊富となった社会全体の成果でもあるように思います。

とは言え、鹿毛先生の独自視点と探究心が成せる素晴らしい成果だと思いますし、何よりも研究姿勢が大変ご立派で、私の手本としたい先生が、また一人増えたことに幸せを感じます。

私が感動した、その素晴らしい鹿毛先生の銘文の一部を以下に抜粋して、ご紹介したいと思います。
※世界史の中の戦国大名(講談社現代新書)P297

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エピローグ「世界史の中の戦国大名」の精神性より
「暴力」で語られてきた戦国時代史
そもそも、日本史で「史実」として語られているもののなかには、実は、その根拠が曖昧なものや偏向的な考察によるもの、あるいは一面的な歴史館に負うものなど、その見直しを求められるものが少なくない。本書で見てきた戦国時代史もその一つである。
 日本史における十五世紀後半から十六世紀は、「戦国」との名称の通り、確かに人間同士の戦いの多い時代だった。高校生たちが学ぶ教科書においても、この百六十年間ほどの歴史は、応仁の乱・桶狭間の戦い・長篠合戦・賤ヶ岳の戦い等の戦争や争乱を軸に時代の画期が示され、その内容も、争い・分裂・抗争・大勝・征討・征服・覇権、そして追放・屈服・滅亡等の暴力的な言語に象徴させて、その時代を語る構成になっている。その教科書に学ぶ子どもたちの頭のなかには、必然的に、武力的勝者へのあこがれや英雄視、そしてその軍事的勝者が形作った社会の正当化・正義化の意識が醸成されていく。さらに、後の近代国家の成立とそのテリトリーの存在を前提に、国家の歴史は分裂から統合へと向かうもので、その統合の妨げとなる「敵」を征討して滅ぼす(殺す)ことが歴史の必然的正義であったとの価値観のみが重層的に再生産されていくのである。
 百六十年間におよんだ戦国大名の群雄割拠状態を脱して、一元的な統一政権を樹立した、いわゆる「天下統一」の営みは、日本の政治史において、まぎれもなく重要な画期であり、その国家統合の取り組みが成されてこそ、後の近世・近代日本の発展が実現した事実は論を俟たない。しかし、その軍事的特徴の強い十六世紀という時期においても、列島各地に生きた天皇、諸大名から一般庶民までの日常が確かに存在した。
 現在の研究史の状況では難しいことではあるが、地域権力の闘争・合戦とその勝ち負け、そしてその勝者の軌跡ばかりにとらわれるのではなく、政治権力が分裂状態の列島各地において、おのおの大名が領域社会の為政者として、いかなる内政を行い、また、海外を含む支配領域外の政治権力とどのような外交関係を結んだかという、「地域国家」の為政者としての内政と外交のあり方を検討し、その特徴に応じた時間軸と空間軸を設定しながら、多様性にあふれた日本社会の内部構造を比較・相対化させて叙述する戦国時代史の姿を、いつかは見てみたいと思う。
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その通りだと思います。この思考法こそが、繙く、解き明かす事であり、それが本当の意味の研究だと思います。なぜその必要があったのか。なぜ、そうなったのかという視点に立たなければ、起きている事の意味が理解できません。
 鹿毛先生の言われるように、「暴力」だけを見て、全体を理解したかのように陥ってしまえば、研究とは言えませんし、理解したとは言えません。未来への知恵ともなり得ません。

是非、お手にとって『世界史の中の戦国大名』を読んでみて下さい。とっても面白いですよ!

2024年7月8日月曜日

摂津池田家中の対外血縁関係

気になっていたことを、備忘録として、また、自分の頭の中の整理として記事にしておきたいと思います。

どの氏族でもそうですが、一族内に様々な系譜を持ちます。長い歴史の中で主従関係も変わりますし、政治・経済・軍事など、様々な状況により、生き残りを計るための対外的な血縁関係を結ぶようになります。
 史料から過程を追う上で、こういった要素もある程度は把握しておく必要があろうかと思います。離合集散の理由として、これらの血縁関係は必ずどこかで作用しています。

摂津池田家の系図は、5種類程あり、そこに血縁の情報も書かれていますが、この一番大きなブランド要素としては、河内国の楠木正行(その遺児が教正)につながる一派が居り、その縁で「正」の通字を用いるようになった可能性があります。
 これについて、摂津国能勢庄の野間城主内藤満幸の娘と縁組みしており、池田氏が能勢郡木代・山田方面に史料があったり、余野の領主とも後に縁組みしたりして、能勢郡に非常に深く関わりをもつのは、能勢内藤氏との縁組みが関係しているのではないかとも思います。これについて、いくつかの系図の内、「池田氏系図」をご紹介しておきます。
 ただ、野間城は近隣と比べても規模が大きかった事は明らかですが、城主が内藤氏であった事は、他の資料類では確認できず、更なる裏付けが必要だと思われます。
※池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P131

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◎池田氏系図(続池田家履歴略記巻之四所収 題して美濃国三洞村医師野原良庵所蔵 池田御家系池田系譜とあり)
『教正』(池田十郎・兵庫頭)条:母摂州能勢庄住内藤右兵衛尉満幸女也。満幸仁勇之誉有るに依りて故判官の命に依りて満幸の娘楠帯刀左衛門正行に嫁す。正行戦死後楠左馬頭正儀、舎兄正行の室を父満幸の家に送る。故に池田教依に再嫁す。其の時教正の母(教依妻)摂州一萬貫を持参す。依って教依摂州伊丹に取出を(砦)を構う。其の後康安2年(1362)左馬頭正儀の勢と神崎之橋爪(?:場所不明)にて教正戦之武勇を顕す。永享元年(1429)10月18日卒。法号室光寺殿月厳宗照大居士。
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また、別の池田家の一派は、丹波波多野家とも関係しているようです。『細川両家記』にその事が、触れられています。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593

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大永6年(1526)条:(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、…。(後略)
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『細川両家記』では、波多野氏と池田氏が血縁である事から、当初は細川高国方として参戦していた摂津国人池田氏が、波多野氏に与す細川晴元方となった、としています。
 これについて、当時の史料により『細川両家記』の正確さが証明できます。高国奉行人の薬師寺国長が、摂津国勝尾寺年行事中へ宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編2)P334

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池田従り相懸け兵粮云々。若し其の沙汰有る於者、一段曲事為るべく旨、御下知の旨に任せ、堅く申し付けられるべく候也。仍って状件の如し。
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高野山真言宗 頂應山 勝尾寺の山門
摂津池田家から兵糧等が懸けられること(この時すでに兵糧の賦課があったらしい)は、今後は一切無効である旨、高国方から勝尾寺へ命じられています。敵となった池田衆が、それまでの習慣通りに行動することを阻止しています。

それからまた、丹波国の波多野氏と摂津国の池田氏が血縁である事については、後に池田家中から頭角を顕す荒木氏との縁とも繋がっていると考えられます。
 そもそも丹波国人と思われる、この荒木氏は当初、酒造関連で摂津池田郷へ縁があったとも伝わっており、池田郷での最大の酒造家であった万願寺屋は、そのような成り立ちであったようです。万願寺屋は「荒城氏」であり、その墓群が大鹿妙宣寺(現伊丹市)にあります。
大鹿妙宣寺の万願寺屋墓
 池田家当主勝正の代に、重臣として活動していた荒木村重は、後に織田信長から摂津及び河内国北半を任される大名となりますが、村重は「日枝神」を信仰していたようで、その事からも丹波と酒造の関係を持つことは、明らかなように思われます。

血縁というのは、前近代社会の中では、生きる中心とも言える必須要素であり、やはりこの点も、研究を続ける上では、常に意識しておかなければいけない事と思います。

追伸:因みに、最終的に畿内をほぼ手中に収める阿波の戦国大名三好長慶も当初は丹波波多野氏から嫁取りをしており、その後に離縁し、河内国守護代格の遊佐氏から嫁を取っています。そのせいか、波多野氏は離縁以降、長慶に一貫して頑強に抵抗しています。

2024年6月29日土曜日

松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して

令和6年(2024)6月15日から、高槻しろあと歴史館にて、最近発見された松永久秀書状の展示が行われましたので、見てきました。

その書状は欠年史料でしたが、同館により、天文22年(1553)のものと比定されており、私も内容からして間違いの無い見立てだと思います。
 年記以下は、7月30日付のものですが、内容としては、その近辺の出来事を語った、いわゆる軍記物『細川両家記』『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』、また『言継卿記』の記述に加えて、その正確さを証明するかのように、新出史料は、それらの流れと一致する当時の情報交換が行われています。加えて、既出史料にはない出来事もあり、前述の軍記物などを補足するかのような興味深い要素も見られます。

一方で、同館を訪ねたついでに、何か目新しい資料はないかと物色していると、『しろあとだより:24号(令和4年(2022)3月発行)』があり、それもネット内でダウンロードして、記事を読みました。
 そこには、特に今回の展示を意識したはずは無いと思いますが、天文22年の芥川城落城時の「帯仕山」についての考察記事が載せられていました。
 今回もまた、奇縁がそこに...。私自身も、池田長正の動向を追う中で、天文22年という年が気になっていました。その年は、その前後で、断片的な長正及び池田衆の史料が見られるのですが、関連性を帯びておらず、その記述の意味を判断できずにいました。
 それからまた、この年は、京都の中央政権でも画期を呈した動きがあり、それまでの流れが変わる、要注意の年でもあります。

今回もまた奇縁のおかげで、保留状態にあったところを、前に進める動機を作ってもらいました。
 以下、天文22年の池田長正及び池田衆の動向の思索として、キーワードを挙げておきたいと思います。その前提として、馬部隆弘先生による天文22年頃の京都中央政権についてのご見解を紹介しておきたいと思います。
※戦国期細川権力の研究P705

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天文19年から22年までの間に、三好長慶方が臨時公事の賦課に積極的に関与し始めるのは、管領細川氏綱と長慶の主従関係が崩れ、特に天文21年2月に、長慶が御供衆に加えられて幕臣となった事が大きな理由である。ただし、天文22年前半まで、氏綱方と長慶方は、あくまでも別個に文書を発給していて、上下関係は歴然と残っていた。ところが、天文22年後半になると、氏綱内衆と長慶内衆の家格差は大幅に縮まり、両者の連署状が成立する。
 このように、公事と書札礼の両面を踏まえると、氏綱と長慶の関係性は、天文21年と翌22年の二度の転機を経て変化したと指摘し得る。
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これは非常に重要なご指摘で、この事で、これまでの欠年史料の特定が進み、非常に複雑な人物関係が繙かれるに至りました。
 それ故に、私の研究範囲である摂津池田氏の行動についても、ある程度の推測が立つようになりました。大きな前進です。
 この年も、正統な池田家惣領を主張する池田長正と、近世でいうところの家老的組織である池田四人衆の人々は、その主張を認めず、分裂していた可能性が高いように思われます。

例えば、欠年史料で、12月15日付けの池田四人衆が、当郡中所々散在へ宛てて下した禁制的法度は、後の考証(若しくは備忘録的メモ書きかもしれません)で「天文22年」としてありますが、実はこの考証は、馬部先生の研究成果による恩恵で、正確である可能性が増した訳です。池田四人衆の池田勘右衛門正村・池田十郎次郎正朝・池田山城守基好・池田紀伊守正秀が、当郡中(摂津国豊嶋郡)所々散在へ宛てて音信(折紙:直状形式)。
※箕面市史(資料編2)P411

---(2)---------------------
箕面寺山林所々散在従り盗み剪り者、言語道断の曲事候。宗田(池田信正)御時之筋目以て彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在る於者、則ち成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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箕面寺中枢機関であった岩本坊

この文書内容についてですが、実は天文20年5月付けで、同じ内容のものが、池田長正により作成されています。その後に、同内容で上記の触れを池田四人衆が出すというのは、その前例の打ち消しであり、その時点での権力の表明でもあります。
 これは、天文22年8月18日、細川晴元方の多田・塩川勢力が、「池田表」にて蜂起するのですが、失敗します。この事で芥川城は利を失い、この翌日に芥川城の芥川孫十郎(右近大夫)は、降伏を申し入れます。
 よって、この「池田表へ蜂起」に、池田長正が晴元方として加わっていたのではないかと、推測できるようになります。

池田長正は、先代惣領の筑後守信正の子でありましたが、その妻の舅である三好政長(宗三)が、その立場を悪用して、長正を介し、池田家そのものを乗っ取ろうとしていました。それがために、池田家中からは猛反発を受けていました。その中心を担ったのが、池田四人衆であった訳です。
 故に長正は自らの身分と権力の裏付けを、外来権力に頼らざるを得ず、三好政長を側近として重用した管領細川晴元の権力に依存した権力体となっていました。よって長正の行動も活動拠点も、常に晴元権力の所在地にあったと考えられます。
 逆説的にみれば、長正は池田城内には起居する事ができなかったとも考えられます。少なくとも天文22年当時は、城内に居住する条件になかったと思われます。
※細川両家記(武家部:群書類従20号)P613、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

---(3)---------------------
『細川両家記』天文22年条:
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして則ち明くる日帰る也。
『足利季世記』天文22年・芥川落城之事条:
8月18日、晴元方の牢人摂津国多田の塩川伯耆守に一味して、池田表へ蜂起し、芥川の後巻きをせんと企みけれども叶わず散々に成り行けば。
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軍記物とはいえ、今よりもこの当時は、言葉選びには慎重だったと思います。「蜂起」という言葉をどうして選んだのでしょうか?「責め」ではなく。池田家内部からの動きも感じさせるのですが、ちょっと気になります...。
 そして、上記の軍記物の正確さを裏付ける、当時の史料が存在します。前管領細川晴元方塩川国満が、天文22年8月22日付で、池田表を攻めたことについて、平尾孫太郎某へ感状を下しています。
※池田郷土研究8-P39

---(4)---------------------
去る18日(8月18日)池田表に於いて太郎右衛門尉討死、比類無き忠節候。なお委細新九郎申すべく候。恐々謹言。
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芥川城からの遠望(撮影:2001年2月)
それからまた、芥川城に籠もっていた芥川孫十郎も、細川晴元権力に依存する人物で、その家中において池田長正と同様の構図・立場にありました。孫十郎は、三好氏一族に迎えられていましたが、叛服常無く、いわゆる「問題児」でした。
 そのような境遇から、この芥川孫十郎と池田長正は、しばしば行動を共にし、共通の目標に向かう動きもしていました。その状況を知る一端として、天文21年6月4日付けで、松永久秀が京都大徳寺塔頭大仙院侍衣禅師へ宛てた音信に、池田長正と芥川孫十郎についての記述がみられます。
※戦国遺文1-P121など

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尊書拝受致し候。仍って今度丹波国の儀、不慮の次第候。悪逆人の儀、退治の行候処、摂津国人池田兵衛尉(長正)・小河式部退城仕り候。則ち池田の城存分に申し付け候。芥河孫十郎事も造意の段白状候て、種々懇望半ば候。何れの道にも手間入るべからず候間、御心安く思し召されるべく候。此等の趣き、宜しくご披露預け候。恐々謹言。
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また更に、この史料について、軍記物の記述があります。天文21年5月23日、三好長慶が丹波国八上城を攻めていたところを、形勢不利となって陣を解き、撤退します。それについての記事です。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P612、長享年後畿内兵乱記(続群書類従第20号上:合戦部)P318

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『細川両家記』天文21年条:
(前略)5月23日の夜半に三好筑前守長慶勢、摂津国衆諸陣悉く有馬郡へ引き退かれ候なり。(後略)
『長享年後畿内兵乱記』天文21年条:
(前略)5月23日夜、丹波国多紀郡高城と雖も三好筑前守長慶取巻く。芥河・池田・小河反逆に依り取退雑節。(後略)
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池田長正と芥川孫十郎は、常に呼応した動きをする事が多く見られます。これは、共通の利益や状況を持つ、仲間的な行動だと、資料上から読み取れます。また、このことから軍記物の大筋の正確さは、信用に足りる(100パーセントとは言えなくても)ものであることも判ります。

八上城遠景(撮影:2006年10月)
天文22年の夏、三好長慶が、その一族でありながら芥川孫十郎を芥川城に攻めたのは、丹波国方面から近江国西部にかけて、細川晴元方勢力の拠点があり、これと孫十郎が結び付いていた事からの処置でした。
 また、この年、将軍義輝も細川晴元を擁護する動きを見せ、行動を共にしていました。加えて、晴元には、摂津国の塩川・多田氏や能勢方面でも加担する勢力がありましたので、池田長正も丹波・摂津国境のあたりに居て、行動の機を謀っていたものと思われます。
 そんな中、芥川城を占領した三好長慶は、直ちに晴元勢を追って、丹波国に攻め入ります。この時、池田衆も従軍していますが、これは池田長正ではなく、池田四人衆方の勢力であったと考えられます。
 しかしながら、長慶方の軍事行動は、この時はうまく行かず、撤退。池田衆にも何らかの損害が出ていたようです。
※言継卿記3-P72、群書類従20号(武家部:細川両家記)P614、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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八木城からの遠望(撮影:2001年10月)

『言継卿記』9月19日条:
癸亥、天晴、天専終、戌刻自り雨降り。(中略)昨日(18日)丹波国へ立ちたる三好人数敗軍云々。内藤備前守・池田・堀内・同紀伊守・松山・石成等討死云々。但し松永弾正忠(久秀)殊無き事云々。
『細川両家記』天文22年9月3日条:
(前略)同18日に後巻して此の衆打ち勝ち、内藤肥前守(備前守)国貞・永貞父子と池田、堀内を打ち取り。此の外数多討ち死也。然れ共松永兄弟は難なく打ち帰られ候也。此の時内藤方の城丹波国八木難儀候所、松永甚長頼は内藤備前守聟也ければ、此の八木城へ懸け入り、堅固なる働きとも見事なるかなと申し候也。
『足利季世記』天文22年(芥川落城之事)条:
(前略)同18日、城よりも突きて出て、相戦う半ばに晴元より香西越後守元成・三好右衞門大夫政勝(宗三子息)大将にて後巻きあり。松永が後陣に控えたる内藤備前守・池田・堀内等を打ち取りければ悉く敗北して、寄手散々に落ち行ける。大将(別働隊)討たれければ、内藤が居城八木の城明けるに、松永甚介此の城に入りて敗軍を集め、城を持ち固めける。松永は内藤備前守が聟なれば、城中にも一入頼もしく思いける落ち武者かく計らいける事、武功第一也と沙汰しける。
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天文22年付けの諸史料にみられる、摂津池田についての記述は、やはり、このように池田長正と池田四人衆が、晴元・細川氏綱(管領現職)両派に分かれて行動しています。その視点で見れば、既知(既出)の資料群は、矛盾の無い記述内容です。

そしてこの年の暮、既述の12月15日付(史料2)で、池田四人衆が当郡中所々散在に宛てて下した法度は、池田衆にとっての縁故寺院であり、且つ、摂津・丹波国境に近い場所で、氏綱方の池田四人衆が勢力を得て、先に下した池田長正権力の効果を削ぐ意味を示したものであろうと考えられる訳です。池田四人衆の権力が優位に立ち、その時局を進めたようです。
 これ以降、池田長正は史料・軍記物でも見られなくなり、代わって池田四人衆関連の史料が頻出するようになります。

そういう意味で、今回の高槻しろあと歴史館にて行われた、松永久秀の新出書状展示は、この重要な、天文22年の京都中央政治構造の解明に寄与する発見だったと思います。

追伸:
この激動の年、更にこのような大事件もありました。6月9日、阿波守護であった細川讃岐守持隆(氏之?)を三好豊前守(長慶実弟)が殺害。持隆は細川晴元と兄弟であり、政治・軍事上の何らかの障害になっていると考えたのでしょう。しかし、これは「主殺し」であり、当時の倫理観に照らしても、国内外に動揺が走ったと思われます。
 8月13日、将軍義輝が都落ちし、その勢いに陰りがみられたこともあり、幕府奉行衆が大量に離反して、京都に戻ります。三好長慶は、地域統治に於いて、それらの協力も得られることとなりました。
 そして、これらの動きを見ていた、阿波足利家が、京都の中央政権復帰を望み、上洛の構えを見せます。大坂本願寺などへ関係各所へ音信を行っていました。

これらの要素を個々にみれば、新聞記事を見るのと同じですが、やはりこれらの動きは関連性があって、欲求や何らかの高まりの中で、連鎖して起きています。この頃には実力者に成長していた三好長慶は、解決すべき要素に優先度をつけて、各々解決を計ったために、この後、大きく飛躍していきます。


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2024年6月7日金曜日

摂津池田家惣領池田筑後守長正についてのまとめページ

池田長正という武将は、摂津国人で池田家の惣領となった人物ですが、時の資料(史料)が少なく、あっても断片的で、不明な点が多くあります。
 しかし、その長正の代で、後に池田家中から頭角を現す武将荒木村重の歴史的背景も明確にできる示唆があり、また、畿内地域でも有数の勢力であった池田家中の政治実態が明らかになることで、中央政治の一部が明確にできるようになります。
 そして何より、直接的に、池田勝正が惣領となる経緯、その支援権力機構(体)である「四人衆」の実態が明らかになります。

池田長正の活動実態を明らかにする事は、多難ではありますが、取り組む意義が非常に大きいと考えています。

摂津国人池田筑後守長正について考える
摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性
摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!
摂津国人池田長正は、最終的に「筑後守」を名乗って惣領となっている証拠史料
松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して
丹波八上城に存在する「芥丸」(伝芥川某の持場)という気になる曲輪について ← NEW

【参考ページ】
摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て
摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察