2022年6月2日木曜日

池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承

調べ事をしていて見つけました。池田筑後守勝正の子が、和歌山県の東牟婁郡まで逃れて居住したとの伝承があるようです。まだ、掘り下げて調べていないのですが、摂津国からはもの凄い距離があるところです。ここまでは流石に敵も追ってこないでしょう。

『紀伊続風土紀:紀伊国旧家地士中西孫左衛門』に以下のような記述があるようです。

◎旧家 地士 中西孫左衛門禅
天正年間に摂州池田ノ城主池田筑後守正久の子、八郎三郎勝政が荒木村重に押領され、その子吉兵衛勝恒が当村に逃れ居住。慶長年間に海部郡小雑賀村の中西氏を養子として改姓。その子孫4代、大庄屋を勤める。代々地士である。

ちなみに、昭和42年(1967)発行の池田市史の史料編には、池田氏に関する系図が載せられています。7種類くらいあるのですが、その中の大廣寺文書(所在不明)には、唯一、勝正の子とする系譜があり、長男:直正(所在未詳)、次男:為正(父退城の時僅かに5歳、能勢山中に隠れ住す)となっています。
 摂津国の池田一族が用いるのは「正」であり、「恒」や「勝」は使いませんが、家臣に偏諱(名を与える)を行う時には「勝」と与えた形跡があります。しかしながら、この場合は、勝正の実子の用ですので、それには当たりません。

また、「恒」の字は、美濃国の池田氏が用いていたことが多いようですので、そのあたりと混同しているか、曲折の中での混乱で、誤って伝わっているのかもしれません。
※続池田家履歴略記巻之四所収 美濃国山洞村医師野原良庵所蔵「池田御家系池田系譜」

今のところ、速報的な情報です。また、後日に調べ、追ってレポートしたいと思います。

 

【追加情報】 記:2025.07
赤色立体地図で、古座川町の中心部である「高池」地域を見ますと、役場からは北西、集落からは、後背にあたる山に、城跡らしき人工的な普請跡が複数箇所みられます。愛宕神社から嶺伝いに登ったピークには、城跡(仮称:古座川城)があり、その一段下がったあたりに広い削平地があります。大きさは、今の古座川町体育館くらいの大きさがありますので、有事の際の村人の避難所になっていたと思われます。その場所が主たる防御施設で、それに付随する防御施設が周辺に設けられており、この主郭を守るように考えられていたように思われます。
 また、村の平地を流れる「池野山川」は、かつては蛇行していたと思われ、古座川城の堀代わりになっていたと考えられます。池野山川は、現在よりも古座川城の山側に寄って流れていたと思われ、天然の堀を役割を果たしていたのでしょう。

そういった状況から考えますと、戦国時代には、古座川集落の中心は、城下町のようになっており、その中心は、古座川町体育館のある場所から隣接した一つ北側、町営住宅のように見える集合住宅のある地域を中心に、城下町が作られていたのかもしれません。
 防御施設の配置は、その谷間の平地を囲むようにコの字形に配置されています。ピークにある古座川城は、この村の要であると同時に、古座川やその対岸、北隣の谷側の集落の監視のために作られていたと考えられる配置がみられます。

解題 紀州小山家文書
-久木小山家文書を中心に-(坂本氏著)
更に広域に見ますと、古座川の下流には、巨大な山岳寺院跡のような場所がいくつもあります。河口と海の結節点には、「古(虎)城山」とされて認識されていますが、その峰伝いのピークには、巨大な城跡と思しき場所が見られます。ここは公的に未だ認知されていないようです。奇跡的に宅地開発(上野山)か逸れています。

これらの事から、古座川の水運と海路の重要地点であり、こういった場所を納める勢力が存在していたいと考えられます。紀伊国の守護家は、畠山氏ですので、そういった守護権力との結びつきも考えられます。古座周辺の熊野武士は、小山氏、高川原氏、塩崎氏、秦地氏などがいたようです。また、このあたりで全国的に有名な豪族は、古座よりも少し北側ですが、堀内氏ですね。
※出典:解題紀州小山家文書 - 久木小山家文書を中心に -(坂本 亮太氏著)より
 そのような場所に、池田勝正の子とされる「勝恒」が逃れてきたとの伝承は、あり得なくは無いでしょう。
 

東牟婁郡古座川町高池にある城跡(赤色丸印が人工的普請跡?)


東牟婁郡串本町古座にある大城郭群(赤色丸囲み部分が人工普請跡)


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