2025年7月23日水曜日

和歌山県東牟婁郡串本町に複数見られる、巨大城郭群について

現和歌山県東牟婁郡古座川町高池地域の中西家に伝わる「池田八郎三郎勝政が荒木村重に押領され、その子吉兵衛勝恒が当村に逃れ居住」との伝承を追っていたところ、その周辺にある巨大な城郭群を多数発見し、驚きました。


【過去記事】
池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承
https://ike-katsu.blogspot.com/2022/06/blog-post.html

後々の備忘録的に、小さな記事を残しておこうと思います。

近年、赤色立体地図という日本人による発明の地形を読み取るための技術が開発され、この技術のおかけで、城郭研究などの分野でも次々と新たな城が発見されています。もちろん測量を初めとした他の分野でも、その恩恵は絶大です。

【赤色立体地図とは】
アジア航測株式会社が保有する特許技術
https://www.rrim.jp/

私はどちらかというと、これまでは、文献を中心に調べていたのですが、視野を広げる必要性を感じていた所に、「赤色立体地図」の存在を教えていただきました。この技術を用いて、池田城周辺の五月山を見た所、未認知の城郭跡を多数確認(実際に踏査もして確認済)し、物理的レベルでも文献と融合させることができると、新たな要素の追加を行っています。

さて、話しを本題に戻して、今回は、現和歌山県東牟婁郡串本町に見られる巨大城郭群のご紹介です。あまり、説明は必要が無いくらい、一目瞭然です。先ず、その地域の赤色立体地図を以下に示します。対象は赤色線囲み部分です。

◎串本町上野山周辺の巨大城郭郡

串本町上野山周辺の巨大城郭郡



◎串本町西向周辺の巨大城郭郡

串本町西向周辺の巨大城郭郡


◎グーグールマップの衛星写真モードで見る両城の位置関係

グーグールマップの衛星写真モードで見る両城の位置関係


両城は『日本城郭大系10:三重・奈良・和歌山』にも紹介されてはいますが、部分的な把握で、これ程の巨大城郭であることは認識されていません。
 虎城山城として串本町上野山に、小山城として串本町西向に存在した旨が紹介されています。小山城と呼ばれる側は、虎城山城よりも規模が大きいですね。後者は、破壊の可能性もありますが...。

しかし、これ程の規模の城郭は地方豪族の財力や権力では到底、開発も維持管理も不可能です。これらが実現出来る勢力と状況があった筈であることは確実ですが、今のところ、調査もされていないような感じです。

解題紀州小山家文書 - 久木小山家文書を中心に -(坂本 亮太氏著)より

この狭い地域に、古座川を挟んだ河口付近に、これ程巨大な城郭を構える、時の政権の必要性、情勢、経済性があったと考えるのが自然なことだと思います。日本史上でも大きな話題性を秘めていると思われますし、大幅に認識を改めざるを得ないような大発見が、そこに埋もれている可能性が大いにあります。以下、両城についての資料をご紹介しておきます。

◎虎城山城(東牟婁郡古座町(現串本町)古座)
※日本城郭大系10-P544(1980年8月発行)
---(資料1)-------------------------------

虎城山城縄張図(日本城郭大系10より)
日本城郭大系10
古座川河口の左岸、通称「上の山」が虎城山城後である。中腹に城主高川原摂津守貞盛の子家守が、慶長年間(1596-1615)に開基創立した青原寺がある。青原寺は高川原氏の菩提寺でもあった。よって山号を「城傷山」という。伝えによれば、この青原寺の庫裏に残る大黒柱は虎城山城の材を用いたものだといわれている。『南紀古士伝』(『紀伊名所図絵』)に「高川原氏は三位中将惟盛の遺孫にして代々塩崎庄に居住す。
伊勢国司と地侍概念図
(日本城郭大系10より)
 古高瓦摂津守伊勢国司北畠具教に仕ふ。奥熊野長島郷なる中之坊及び九鬼氏など国司の下知に従わず。摂津守屢々先駆の軍功あり。元亀年中堀内氏の将椎橋新左衛門は太田の荘佐目城を守り口郡を略す。摂津守此れを防ぐ、其の一族浅利利平なるもの新左衛門を殺して遂に其の城を奪ふ。これより太田荘下里以南を領す。其の後織田家の臣滝川伊代守に属し五畿内に住せしが、関ヶ原合戦の後浪人となる。嫡子小平太浅野幸長に遣へ、泉州樫の井の役に淡ノ輪六郎を討つ。後芸州にて千五百石を領す。嫡子源太夫は古座の城跡に居り。慶長5年地士に命ぜらる。其の子孫世々村内に住す」とある。
 城跡は、かなり広い台地で、東西60m × 南北80mの曲輪を中心に、北西側にわずかに高くなった曲輪がひとつ、また南側に小さな2段の曲輪がある。ここには、石垣の一部がみられるが、城との関係は明かではない。東側の「忠魂碑」の裏には堀切があって、尾根を遮断して虎城山を完全に孤立した山にしている。ここは「虎城山公園」と称されるとおり、眺めは見事で、古座町西向の鶴ヶ浜、その沖の九龍島、さらに串本の大島など、太平洋が眼下に広がっている。比較的小さな曲輪が、いくつも連なる形式をとっている城の多い県下ににあって、虎城山城の曲輪は、眼下に広がる太平洋とよく調和がとれている。
----------------------------------

◎小山城(東牟婁郡古座町(現串本町)西向)
※日本城郭大系10-P545(1980年8月発行)、日本城各全集9-P186(1967年8月発行)
---(資料2)-------------------------------
小山城遠景(日本城郭大系10より)
日本城郭大系10:
国鉄紀勢本線古座駅ホームの北寄り(和歌山方面)付近が、小山実隆の屋敷跡である。その詰めの城が、西向の通称「城山」と呼ばれている丘上に築かれていた。その「城山」も、今日では稲荷神社が建っていて、昔の曲輪は削られてしまい、その姿の正確さを欠いている。東西10m ×南北15mの平地があるだけであるが、ここからの眺望はすばらしい。
 屋敷跡は、当時の古井戸(小山屋敷井戸)が、町文化財指定を受けてかろうじて残っているだけである。
 当地に、城と屋敷を構えた小山実隆について、『東牟婁郡誌』は、次のように説明している。
 "藤原秀郷の末裔なり。秀郷6世の孫光実に小山、結城両家の祖也。其の子朝政源頼朝に仕えて功あり。下野守に任せらる。5世の孫高朝の長子秀朝小山判官と称す。元弘中新田義貞に属す。義貞鎌倉を攻むるに当たり、之に従ひ戦功あり。下野守となる。建武2年北条時行の軍を武蔵の府に拒き克たずして之に死す。次子経幸石見守と称す。三子三郎実隆花園天皇文保2年12月左衛門尉に任す。又新左衛門と称す。弘元元年鎌倉の命を奉じて兄経幸と共に一族13人従兵300余騎を率いて南方海辺を守護せんが為熊野に下り、経幸は富田郷に住し、実隆は西向村に住す。"
 かつてその姿をとどめた立派な屋敷の石垣も、現在では『和歌山県聖蹟』に収められた古写真でみることができるだけである。
日本城各全集9:
通称を城山といわれる丘陵上に、南北朝時代、古座地方の豪族小山氏居城である小山城があった。小山氏は鎌倉の執権高時の旗下で紀州、泉州、淡州、阿州の海賊を討伐するため、熊野へ進軍した。その時、その一族がこの地方に城を構え、栄えたのであって、これを紀州小山氏の祖としている。西牟婁郡の久木城主小山左衛門家長もこの小山一族で、ここに支城を築いて、中紀にも勢力を伸ばそうとしたのであろう。
----------------------------------

以下、城に関連する要素を参考資料としてご紹介しておきます。

◎青原寺(古座川町古座)
※和歌山県の地名(日本歴史地名大系31)P672
---(資料3)-------------------------------
古座浦の背面、通称上の山の山腹にある。城陽山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。「続風土記」に「此寺地は高河原摂津守の城跡なり、故に山号を城塲(ママ)山とよへり」とあり、高川原貞盛の城砦の跡に建てられた。天正年間(1573-92)僧伊天の開基というが(寺院明細帳)、明確でない。境内には本堂・庫裏・鐘堂・観音堂・愛宕堂などがあり、うち庫裏の中心をなす大柱2本は城砦に用いられていた古材という。そのほか貞盛(一説に嫡子家盛)の墓と伝える五輪塔、高川原氏末裔の石碑数基がある。当寺は虎城山(古城山)の晩鐘とともに古来古座八景の一つで(熊野巡覧記)、城砦跡の山頂の平地(古城山公園)は眺望がよい。
----------------------------------

◎古座川
※和歌山県の地名(日本歴史地名大系31)P675
---(資料4)-------------------------------
東西の両牟婁郡の郡境にある大塔山(1122メートル)に発し古座川町・古座町を貫流する。西川・下露を経て佐田の古座川ダム(七川ダム)に入り、さらに南流して三尾(みと)川を合流する付近から東に流れ、月野瀬・高池から古座町古座・西向の間を貫流して熊野灘に注ぐ。全長約40キロ。「続風土記」は「海口に至るまで曲折多けれとも、総てこれをいへは乾より巽に流るるを一川の大形とす」と記す。おもな支流には上流から崩(くえ)ノ川・平井川・添野川・佐本川・久留美川・三尾川・立合川・鶴川・小川・池野山川などがある。
 七川ダム辺りから深い渓谷をつくり、その下流約15キロが景勝古座峡となり、一枚岩・虫喰岩(国指定天然記念物)、牡丹岩・飯盛岩・天柱岩などの奇景を形成。斉藤拙堂は「南遊志」のなかで清暑島・少女峰・明月岩・巨人岩・髑髏岩・玉筍峰・斎雲岩(一枚岩)・滴翠峰を「古座川ノ八勝」としている。このほか古座峡で遊んだ矢土錦山もその景趣を愛して詩を残している。
 古座川の通船がいつ頃始まったかは不明であるが、近世後期には河口の古座浦(現古座町を経て串本町)から真砂まで川船が往来し、上流の七川(しつかわ)谷の諸村は材木類を真砂から船または筏で古座浦へ運んだ(熊野巡覧記、続風土記)。この舟運・筏流しは近代まであったが、昭和31年(1956)古座川ダムの完成で漸次衰退していった。また、近世中期頃に下流の高池字元池・清水の二ヶ所に渡船があり、享保8年(1723)の渡船碑には施主「池口村中西勝応(池田勝正子孫)」の名が刻まれる。
----------------------------------

特に中世時代には、古座川を挟んで、東西に熊野武士との対立関係が永く続いていたのかもしれません。それにしては、旧自治体編成では、古座川両岸が古座町だったりします。泰平の世になり、経済的な繫がりが強くなったのかもしれません。

さて、これらの城は、池田勝正の縁故地近くでもあり、機会を作って、私も実際に見に訪れたいと思います。何と、この近くに親しい知人も居住しています。これは単なる偶然か!?

今後の調査に期待いたします。

2025年7月10日木曜日

細川京兆家(昭元)と典厩(藤賢)について(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

地域権力としての摂津国豊嶋郡を支配する池田氏は、その性質上、上位権力と切り離して存在し得ず、どうしても連動してしまうのが本質でした。
 池田氏も、それについて無意識であった訳ではなく、その不安定要因のを分散、体制構築を試みた一つは、様々な権威に繋がる事でした。直接的には、将軍や管領、典厩家、寺社勢力などに接近して、可能な限りの誼を通じました。

例えば、将軍と直接的に交わり、御家人として関係を結びます。天文8年閏6月13日付、将軍義晴が、池田筑後守信正などの有力国人に、私的な音信(内書)を送っています。
※大館常興日記1(増補 続史料大成15)P92

---資料(1)---------------------
閏6月14日条:
(前略)一、未明に荒礼部(不明な人物)より書状之在り。池田筑後守・伊丹次郎・三宅出羽守・芥河豊後守、此の人数へも成され、御内書、別して三好孫次郎に対し意見加えるべく之由、之仰せ下され、何れも副状調進致すべく候由之仰せ出され也。仍って則ち之相整え、幕府奉公衆荒川治部少輔氏隆へ之上せ進めるべく也云々。
------------------------

その後間もなく、同年9月26日、池田信正は、毛氈鞍覆・白傘袋着用の許しを幕府に請うています。これは、将軍の御家人である印の物品です。

大西山 弘誓寺(2000年撮影)
また、摂津池田城下の大西垣内には、池田一族から本願寺実如光兼の真弟となり一寺を建立して開基となった、浄土真宗本願寺派大西山弘誓寺があります。大西隼人宜正の嫡子源五郎正是が、「道空」との法号で僧侶となり、一向宗との接点を構築したようです。開基は永正6年(1509)2月28日と伝わります。(池田町便覧)
 この前年の5月、池田城は現職管領の細川高国方の軍勢に攻め落とされて落城し、池田城主であった貞正が切腹しています。城内から離叛者(池田遠江守など)を出し、池田家中は新たな体制で政治が進められた頃でもありました。
 このような状況でしたので、筑後守・遠江守どちらにも組みせず、出家して連枝の家を守る方策だったのかもしれません。同寺は、元禄3年(1690)に、第七世恵空によって再建され、今も同地に存在しています。

さて、そんな数々の試練を潜り抜け、戦国時代には摂津国内随一の国人に成長した池田氏と特に繫がりの深かった「管領」と「典厩」について、以下、見ていきたいと思います。

◎管領とは
室町幕府の統治体制における、管領という役務について、非常に解りやすく説明されている一説がありますので、それを部分引用させていただきます。
※室町幕府 全将軍・管領列伝P10

---資料(2)----------------------
(前略)将軍の意思伝達や裁決実施命令を基本的職掌とする執事(高師直など)の立場は、守護を直接掌握しようとする将軍の立場と矛盾するものであった。この矛盾は、細川頼之が幼将軍義満の親裁権行使の代理者として、義詮の親裁権を全面的に継承して執事に就任したことによって解消へと向かった。頼之は、将軍義満の成人とともに、将軍の親裁権と、将軍を補佐して幕政を運営する執事の権限と再分割した。義満の元服を契機として、頼之は管領と呼称される。
 主として所領・諸職の補任・寄進・安堵など権益の付与・認定およびそれに関する相論の裁決を将軍の親裁とした。そして、評定における管領の発言力を増大させ、引付方の機能を形骸化して所領・年貢に関する裁判を管領が総括した。さらに、諸国・使節等に対する執行命令を管領の権限とした。
 それまでの命令系統は、将軍─守護、将軍─執事─守護、将軍─引付頭人─守護、将軍侍所頭人─守護というように、多様であった。それが、この管領の地位成立とともに、将軍─管領─守護という系統にほぼ統一された。この命令系統の統一が、管領制度成立の指標とされている。
 将軍・管領の権限分掌や、管領を軸とする命令系統は、この後も継承されていく。室町幕府は、管領制を基本とする幕府機構を通じて発揮される権力であった。(後略)
-------------------------

また、その「管領」について、経年変化の後半の実態について、同じ書籍から引用します。
※室町幕府 全将軍・管領列伝P480

---資料(3)----------------------
慈雲山 普門寺 晴元隠居所
「管領」細川晴元のすがた:

天文3年9月3日、足利義晴は近江国坂本から六角定頼の息子義賢を伴い、京都へと戻った。その頃、晴元は一向一揆終息のために摂津・和泉を転戦しており、ようやく落ち着いて京都に戻ってきたのは天文5年9月のことである。では、晴元は上洛後、義晴をどのようにして支えたのであろうか。
 天文期に入ると、同じく義晴を支える立場として、近江の六角定頼の姿がみえる。定頼は常に在京することはなかったが、義晴は彼を重用し、難儀な裁許決定をする場合は彼の「意見」を欲した。それに対し、幕府は晴元に対して「意見」を諮ることはなかった。むしろ、晴元が幕府や政所に対し、京兆家の方で持ち込まれた問題を諮ることがしばしばみられる。例えば、天文7年11月、住吉浄土寺と桑原道隆なる人物の相論が細川京兆家にもたらされた。幕府政所の執事代を勤めている蜷川親俊の記録には、この相論について次のように記録している。
 "住吉浄土寺と桑原道隆入道の相論について、晴元殿のところで諮ったにもかかわらず、晴元殿はこちらへ幕府の「御法」を尋ねてきた。本日、晴元殿の奉行人でもある飯尾元運、同為清、茨木長隆が政所にやってきて、親俊が応対した。"
 晴元方の3名(飯尾元運・同為清・茨木長隆)は、晴元の下で政務処理をする役割を持つ人々である。つまり、政務処理をする立場である彼らは、幕府の「御法」を詳しく知らないため、政所へ尋ねにきているのである。後日、この案件は政所預かりとなり、晴元率いる京兆家だけでは自力での解決ができなかったことが読み取れる。このように、晴元は政務面において幕府を頼るといった傾向がみられ、幕府を補佐する立場というよりも、補佐を被る立場であった。それは、晴元の近くに、可竹軒周聡など政務処理ノウハウを熟知して人材がいなくなってしまったことが原因として考えられるであろう。(後略)
-------------------------

◎典厩とは
現在の淀川の様子
「右京大夫(京兆家)」の官途を受ける細川家の分家の一つで、初期には京兆家において内衆を束ねる役割を果たしていたようです。
 典厩とは「右馬頭・右馬助」の官途の唐名で、そう呼ばれていました。この典厩家も経年変化があります。これについては、ウィキペディアから部分引用し、ざっとその全体像を掴んでみます。
※ウィキペディア:細川氏項目内「典厩家」

---資料(4)----------------------
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の三男持賢を祖とする。当主が官途とした右馬頭・右馬助の唐名にちなんで典厩家と呼ばれる。基本的に守護として分国を有することはなく、初期には京兆家において内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようだが、後に摂津国西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。(中略)
 京兆家当主の座を奪った晴元に対し、細川氏綱(尹賢の子)は高国の後継者として天文7年(1538年)以降抗争を続けていたが、三好長慶が氏綱を擁立して晴元から離反し打倒した。(中略)三好政権に対して一定の立場・発言力を保持しており、単なる傀儡でもなく同盟者に近かったと指摘されている。(後略)
-------------------------

上記の解説では触れられていないのですが、管領家が2つに分裂して争った事から、典厩家も2つになります。
 その発端であった細川晴元の側につく、細川一族の中から「晴賢」という人物が典厩家で、その一党が摂津国中嶋を拠点として支配していました。この頃には分郡守護的な立場となり、地域権力にも変化していました。
※石山本願寺日記(上)P558

---資料(5)----------------------
10月1日条:
細川右馬頭晴賢・松井(波多野)十兵衛尉・小河左橘兵衛(二郎三郎)・水尾源介・並河四郎左衛門(丹波国人?)等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船3種(献上品脱カ)5人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)。
-------------------------

大阪城内にある本願寺跡地の碑
上記史料にもあるように、中嶋は京都への水運の要でもあり、非常に重要な場所でしたので、当時、本願寺宗を含めて様々な組織(戦国大名も含め)が海外貿易を活発に行う中にあっては、欠く事のできない場所でした。
 中世は世界的に宗教の時代とも言われ、そういう方向性での繁栄に加えて、本願寺宗は貿易を行う事でも、富を手にしていました。それについて、当時の日本国を記録に残した外国人の一人、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記述を見てみます。
※フロイス日本史3(中央公論社)P217

---資料(6)----------------------
第17章(第1部56章)彼ら(フロイス師とアルメイダ修道士)が豊後から堺へ、さらに同地から都へ旅行した次第:
(前略)堺の数人のキリシタンは、その習慣に従って先行し、(堺の)市街から半里離れたところにあって、多数の神の社がある住吉というところで、司祭とその同行者を待ち受けた。彼らはそこで、(司祭)のために、はなはだ清潔で綺麗に調理した飲食物を用意していた。彼は彼らと別れた後、堺から3里距たった大坂への道をたどった。そこには一向宗の上長で、全日本でもっとも富裕、有力、不遜な仏僧の都市であった。この(僧侶)は、阿弥陀同様に有難がられ、阿弥陀に対してと同じように畏敬されている。なぜならその信徒たちは、(阿弥陀)が、彼ならびにその後継者たちに化身すると信じているからである。(後略)
-------------------------

それから、戦国大名の海外貿易の実態について、周防国を中心とした戦国大名の大内氏の例を見てみましょう。部分引用します。
※世界史の中の戦国大名P35

---資料(7)----------------------
大内義隆没後も続く遣明船:
その後、日本国内では、大永6(1526)年に細川高国対抗する細川晴元・三好元長らが阿波で挙兵し、翌年京都に侵攻したことで、高国は近江に逃れ、政治的求心力を失った。これによって、以後の遣明船経営権は大内氏が集約することになり、その後の天文8(1539)年度と同16(1547)年度の遣明船は、享禄元(1528)年に没した大内義興の跡を継いだ大内義隆による独占派遣となった
 周防の大内氏は、この31代当主義隆の時期に全盛を迎え、山口に本拠を置いて周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の七ヶ国守護職を兼任する日本最大の大名に成長した。そうした時期に独占的に経営・派遣されたのが、天文年間の2度の遣明船であった。天文10(1541)年と同19(1550)年にそれぞれ帰朝した船が大内氏の大名財政にもたらした利益は計り知れず、また、その本拠の山口は文化的にも爛熟した。
 しかし、天文20(1551)年9月、その絶頂にあった義隆が、不満を抱いていた家臣の陶隆房に謀反を起こされて自害した。この騒動以降、日本から明に渡って皇帝への進貢を遂げた遣明使節の記録は途絶えた。この事実をもって、一般的な日本史の辞典や教科書では、日明間の勘合貿易は断絶した。
 だが、その通説にそぐわない、いくつもの事例を紹介しよう。
 貿易の実験を握った大内義隆が、陶隆房によって自刃に追い込まれたのは天文20年9月1日のことである。しかしながら、例えば、その2年半後の天文23(1554)年3月に肥後の戦国大名相良晴広が「大名船」を明に派遣している。また、弘治年間(1555-58)には、倭寇禁圧を要求するために来日した鄭舜功の帰国に随行して、豊後の戦国大名大友氏が使僧を派遣して明に入貢している。さらに、同じ使命を帯びて来日した蒋洲に帰国に際しては、義隆没後に大友家からの養子として大内家を継いだ大内義長とその兄の大友義鎮が、連合遣明船を派遣している。中国側の史料によると、この時、大内義長は倭寇被慮の中国人の送還を名分として明へ入貢している。その際、大友義鎮の遣明船は明側から「巨舟」と称された。(後略)
-------------------------

上記の『世界史の中の戦国大名』でも触れられているように、管領もその職権を使い、海外貿易を行っていました。
 海外貿易については、その当初「日本国王」として将軍家の特権(義満が再開)でしたが、室町幕府が安定しない事からその権利が切り売りされるなどし、海外貿易窓口が乱立してしまう事となりました。
 いわゆる応仁・文明の乱以後、京都の中央政府は乱れに乱れ、織田信長が登場する頃にはその極致であったとも感じます。将軍を補佐して政治を行うべき役務者である管領までもが独自に対外貿易を行い、政治体制は麻痺状態でした。

織田信長は、それらの政治の不安定要素の整理も行ったと私は感じています。

最後の管領となった細川昭元の最晩年について、詳しく研究された論文がありますので、それも見てみます。
 先ず、天正2年(1574)と思われる、閏11月9日付け細川信良(昭元)が、香川中務大輔信景(讃岐国人)へ音信している史料の紹介です。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P211

---資料(8)----------------------
小早川左衛門佐隆景従り返札相届き祝着候。仍って其の表異儀無き由候。此の方事も別無く候。春者当方へ道行すべく候。猶波々伯部伯耆守広政(信良重臣)申すべく候。恐々謹言。
-------------------------

復元された安宅船
天正2年という年は、将軍義昭と織田信長の対決の余震が続いており、斑な支配域を面に変えていく対応の最中でした。
 この頃は、信長と毛利家の関係も、それ程悪化しておらず、むしろ、東方の甲斐武田氏に備えるため、西側の大名とは友好関係にありました。
 織田方は、制海権も意識して、阿波・讃岐国に勢力を保っていた三好氏に対する策を講じていました。これは、毛利・織田氏双方に利益があり、同地域に影響力のある管領格細川昭元(この時信良)は、かつての讃岐守護でもあったため、讃岐の有力国人香川氏と接していました。香川氏は、織田・毛利方の支援を受けて三好氏と戦い、讃岐国西部(天霧城主)の支配を固めています。

昭元は、天正元年(元亀4)7月の槙島城合戦で、将軍義昭が織田信長に降伏すると、信長の命により同城に入りました。
 その7ヶ月後、天正2年2月に昭元は、信長から偏諱を受けて「信元」と名乗ります。そこからまた10ヶ月程が経ったところで再び昭元は「信良」と名乗りを変え、管領家(格)として代々の通字である「元」も名乗らなくなっています。
 『瀬戸内海地域社会と織田権力』では、ここに事実上の「管領」の終焉となり、信長の支配下に完全に掌握されたと考えられています。

戦国の世の極致でもあった、元亀・天正年間、織田信長の「天下布武」による国内統一戦において、細川昭元は、非常に重要な人物でした。
 室町幕府が機能を停止した元亀4年いっぱいまでは、典厩の城であった中嶋に昭元を入れて、地域勢力の根拠地で、管領・典厩の両権力の下、ある程度は機能していたようです。
 その過程で、摂津池田氏も中嶋城の普請などに動員されており、管領・典厩権力に沿って、国人衆としての池田氏も労務を果たしています。

いくつか、資料を上げます。

元亀元年と思われる6月9日付、細川右馬頭(典厩)藤賢が、某(幕府関係者)へ音信しています。
※新修 茨木市史(通史2)P28

---資料(9)----------------------
今度近江国於いて大利を得られ、六角承禎父子近江国伊賀に至り退かれ候由、慥かに承り珍重候。尤も罷り上りと雖も申し上げるべく候。普請毎日申し付け候間、取り乱し自由に非ず候。形の如く(慣例に従って)申し付け候者罷り上り、毎事上意得るべく候。先日申す如く伊丹兵庫頭忠親は摂津国東成郡榎並へ人夫3日申し付け、普請合力池田筑後守勝正は、一昨日1日摂津国欠郡へ人夫2〜300人合力為馳走仕り候並びに上意堅く仰せ出され候故と忝く存じ候。然るべく様御取り成し頼み入り候。近日者、牢人雑談相静め申し候。此の分に候者、都鄙大慶せしめと存じ候。近江国へは、織田信長定めて罷り出られるべく候。然ら者御動座為るべく候哉、承り度く存じ候。猶々伊丹・池田へは、私城(中嶋城)の普請合力仕り候由神妙に思召され候由、仰せ出され様に御取り成し頼み入り存じ候。旁様体承り度く候間、先ず以て飛脚申し候。何れも図らず罷り上り申すべく候。かしく。
-------------------------

摂津池田衆は、中嶋城の普請助勢の命令があり、それに従事している様子が読み取れます。
 また、欠年の6月2日付、昭元が、香西玄蕃頭へ音信した史料があります。年代特定は難しいところですが、今のところ元亀3年のものと考えています。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

---資料(10)----------------------
昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
-------------------------

中島総社
この音信の宛先である香西玄蕃頭は、三好為三と共に活動していた人物と思われます。であれば、昭元の重臣です。香西玄蕃頭は、元亀元年8月下旬に、三好方から寝返って幕府・織田方に迎えられています。
 その後まもなく、三好方から離れた細川昭元の配下に入って活動していましたが、元亀3年8月下旬に再び為三と香西玄蕃頭は、幕府方を離れて三好方に寝返っています。
 この6月2日付の史料は、そのような状況で発行された元亀3年のものではないかと思われます。音信中「池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。」とあって、これは、摂津中嶋城への加勢の動きを伝えているものと思われます。管領権威に池田衆が従うという、本来の政治体制に復す行動を取っています。
 三好三人衆勢に寄った行動を取っていた池田衆ですが、この頃に池田衆は池田方から離れたようです。

時代は降って、天正2年7月20日、織田信長配下となっていた荒木信濃守村重が、中嶋方面で優勢であった本願寺勢を制圧するため、大合戦を行います。
※織田信長文書の研究(上)P765

---資料(11)----------------------
前置き:
尚々其の表之事、毎事油断有るべからず候。
本文:
折紙披閲候。去る20日(7月20日)摂津国欠郡中嶋相働き、即ち一戦に及び切り崩し、数多之討ち取り、残党河へ追い込み、悉く放火之由、手強に申し付けられ故、武勇之子細候。味方中少々討死申し、是又苦しからず候。古今の習いに有り候。次に此の表之儀、先書に具に塙(原田)九郎左衛門尉直政申し達すべく候。伊勢国長嶋之事、猶以て詰陣申し付け候間、落居程有るべからず候。開陣候者、則ち上洛為るべくの条、面談を期し候。謹言。
-------------------------

これは上述のように、中嶋は、京都に繋がる水運の要所であり、未だ軍事的に不安定であったこの時期の情勢において、経済封鎖か流通確保かを争う重要な用件でした。
 また、この時期、瀬戸内海は織田方が把握(制海権)できておらず、天正4年7月の海戦で毛利方に大敗を喫しています。それを挽回するには、天正6年冬を待たねばなりませんでした。

そういう状況下での天正2年夏の摂津国中嶋大合戦でした。村重勢は、これに打ち勝ち、戦略的には織田方に、一旦は有利となりました。
 また、視点を広域にすると、この頃の織田勢は、京都周辺の四方八方は敵で、五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉)にも、敵対勢力が多く存在した状態でした。
 朝廷のある京都は、堅持すべき場所として荒木村重を主として周辺対応に当たらせ、信長は、その外側の地域の敵に対処をしていた時期でした。村重は、そういう状況をよく理解し、戦術・戦略的にも的確に成果を上げて、実行支配地を拡げました。

地域権力は、その地と社会的地位が密接であり、故に時代の変化に影響を受け易いとも言えます。管領及び典厩が、政治権力と経済性のバランスを欠き始め、土着性を帯び始めた時から、戦国大名や国人と同質化し、一過性の安定欲求が、本来の社会的な役割を曇らせる事になったのでしょう。
 管領という中央政治の要職にありながら、その職責が、時代や要望に押し潰されて、新たな社会形成の枠組みに沿わなくなり、再編されてしまったのが、管領家と典厩家だったようにも感じます。

しかし、この管領は、唐名で「黄門」であり、それは江戸時代にも引き継がれています。あのテレビ時代劇「水戸黄門」は、管領の事で、徳川将軍を補佐する役務(副将軍)でした。
 平和な時代の管領であった水戸光圀は、数多くの史書を編纂しており、現代への日本文化継承に多大な貢献を果たした人物の一人でした。

 

織田信長朱印状文書(細川昭元宛)についてトップへ戻る>  

2025年6月25日水曜日

新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、摂津池田家と細川六郎と三好為三の動き

永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。
 当初は、そこに松永久秀も加わっていましたが、思いの違いから、三好一族衆と久秀の外様衆の闘争に発展します。
 外敵に備えるどころか、内部抗争に陥ってしまい、敵の付け入る隙を与えてしまいます。時が経ち、その抗争で劣勢に立たされた久秀勢は、外部勢力と手を組むようになります。これまでの敵であった勢力とも交わるようになり、争いはドロ沼化してしまいます。

さて、そんな「三好三人衆」と言われる一団にも変遷があり、当初は、三好長逸、石成友通、三好下野守であったのが、永禄12年5月に、下野守が死亡したことにより、その弟である為三が補充される事となったようです。
 しかし、その頃には三好家そのものも衰退の徴候が現れ、且つ、織田信長が戴く将軍義昭の京都中央政権が勢いを増していた時期でした。
 もはや三好家は団結の中心ではなく、集団の一翼的な立場になってしまいました。ブランド力を維持しているだけの集団です。そんな後期三好三人衆とも呼ぶべくその中に、三好為三は兄の後継者として、名を連ねていたようです。
 それ知る史料として、元亀元年8月2日のものと思われる、三好三人衆方三好日向守入道宗功(長逸)石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てた音信があります。
※島本町史(史料編)P435

---史料(1)------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
---------------------------

大山崎の摂津・山城国境(2014年撮影)
しかし、そこに署名している人々は、3名以上で、名のある人物も見られますが、「三人衆」の枠内ではあるものの、集団に象徴的、また、強権保持者はいなくなりつつあったのかもしれません。三好方の当主は、あくまで河内半国守護に任ぜられた三好義継で、義継は幕府方の立場でした。
 一方で「三好三人衆」という集団は、比較的長期の活動実績もある事から広域に認知されてもおり、この集団の知名度を利用していた事も、この時期に認められるように思います。連名に見られる、奈良氏は奉行人のような立場の人物で、過去の文書履歴を管理して、新たな体制内で間違いの無い判断ができるように、重要な相手にはアピールの意味もあって、このような構成になっているのかもしれません。
 その他、後期三好三人衆によると思われる史料がありますので、ご紹介しておきます。今のところ、元亀元年4月22日の史料と推定され、石成友通と三好為三が、大和西大寺の関係者へ宛てて音信した史料です。大和国はこの時に敵対していた松永久秀の根拠地でもあります。
※戦国遺文(三好氏編2)P259

---史料(2)------------------------
◎石成主税助友通が、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返報)
此の表在陣之儀に就き、御音信為御折紙殊に御巻数並びに鳥目弐拾疋語御意懸けられ候。御懇ろ儀畏み入り候。将亦其の表手遣い之刻、御寺中並びに在所之儀、疎略存ずべからず。恐々謹言。
◎三好一任斎為三が、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
御音信為巻数並びに鳥目20疋御意懸けられ候。御懇之至り畏み入り候。積もり参らせ御札申し入れるべく候。猶御使者へ申し候。恐々謹言。
---------------------------

摂津国野田城跡(2013年撮影)
三好為三は既述の通り、三好下野守の跡を継ぐべく補充されたと考えられます。兄の下野守と管領格の細川六郎(昭元)とは直結した最側近の関係性でした。加えて、「三好三人衆」という三好家の政治中枢でもありました。

三好三人衆という組織の代替わりは、その主体を見失っていたと、その歴史から知ることができます。家を支える視点から離れ、個々人の利益のための「三好三人衆」ブランドの利用に陥ります。
 元々、この三好為三という人物は、その父である三好越前守政長(宗三)の遺志を継ぎ、「摂津池田家の財産は自分のものだ。」との主張を生涯に渡って続けています。
 この三好為三については、このブログで過去記事がありますので、そちらをご覧下さい。

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)
https://ike-katsu.blogspot.com/2013/08/4.html

さて、そんな三好三人衆方の状況を知ってか、知らずか、織田信長はそ中の立場ある人物に調略を仕掛けます。それが、元亀元年8月付、織田信長による細川六郎宛の朱印状でした。
※泰厳歴史美術館蔵 元亀元年8月付、細川六郎宛の織田信長朱印状

---史料(3)------------------------
条目
一、池田当知行分并前々与力申談候
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者可被加御異見之事
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
---------------------------

この時、準備が調わなかったのか、状況許さず、六郎は直ぐに動きませんでしたが、しかし、その配下の中心的人物である、三好為三が香西佳清などを伴って、将軍義昭・織田信長方に投降します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

---史料(4)------------------------
『細川両家記』元亀元年条:
(前略)一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『信長公記』野田福島御陣の事条:
(前略)8月28日夜に、三好為三香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
『言継卿記』8月29日条:明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)三好為三香西以下帰参云々。実否如何。
---------------------------

続いて、三好為三の重臣(馬廻り?)と思われる三木某などが、幕府方に投降します。
※言継卿記4-P442

---史料(5)------------------------
敵方自り三木■■■、麦井勘衛門両人、一昨日(9月1日)松永山城守久秀手へ出云々。
---------------------------

これは、史料(3)にある「池田当知行分、并せて前々与力申し談じ候。」に相当する動きであろうと考えられます。六郎の一団の関係者へ包括的に恩賞を用意し(唆す)、調略を実行していたのでしょう。故に、先に六郎の取り巻きから続々と投降したと考えられます。
 この深刻な事態を受け、三好三人衆の筆頭構成員である三好長逸が、池田城から野田・福島方面へ入ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

---史料(6)------------------------
元亀元年条:
一、同9月3日に三好日向守長逸、同息兵庫介も摂津国池田より出、同国福嶋へ入城由候也。
---------------------------

この重要情報を得たのか、幕府方和田惟政は、池田領内の市場を打ち廻るなどして、攻撃をしています。連絡線を絶つ目的があったのでしょう。
※言継卿記4-P443

---史料(7)------------------------
9月9日条:
池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。
---------------------------

三好為三など、敵勢力(組織)中枢の人物が投降した事により、その内部情報が、幕府・織田信長方に漏れてしまいました。そのためと思われますが、その約2週間後、幕府・織田勢は、野田・福島城の三好勢に対して総攻撃を行いました。
 しかし、それを機に、大坂本願寺が三好方として大挙加勢し、攻守の形勢が逆転してしまいます。幕府・織田勢は、京都を守備するために退却を余儀無くされました。

これは、広域に見ると、反幕府・織田勢力が、京都周辺で一斉に反撃を始め、京都を占領すべく動き始めた狼煙でもありました。

三好為三などは早速、軍事動員され、比叡山へも参陣しています。しかし、状況不利となり、信長は戦略的手段を用いて朝廷を動かし、朝倉・浅井・本願寺・三好など諸勢と和睦を結びます。元亀元年も暮れる、12月の事です。

この和睦が成立した事で、本願寺門主光佐は、細川六郎へ年末年始の音信を行っています。池田郷土史学会会員の荒木幹雄氏によると、両者は姻戚関係(義理の兄弟)であったようです。
 さて、細川六郎(後に右京大夫昭元)について、宣教師ルイス・フロイスは次のように記しています。
※耶蘇会日本通信(下)P232

---史料(8)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
(前略)細川殿(昭元)御屋形は公方様に次いで日本の重立ちたる領主なるが、攻囲の中に6ヶ月間中島の城に在り、之を囲めるは三人衆、霜台三好殿及び大坂の坊主並びに多勢の兵にして、城内には御屋形の家中重立ちたる武士のキリシタン2人在りき。城は決して武力を以て陥すこと能わず、屢(次)戦争あり双方共に常に士卒を亡いたり。終いに悉く通路を断ち飢餓に依りて之を陥落せしめたるが、細川殿は信長遠方に居り之を救うこと能わざりしが故に士卒と共に堺に赴きたり。
---------------------------

とあります。フロイスは、キリスト教の布教にあたり、権力構造やそれに関わる人物について、分析を行っており、それらの立場ある人物を教化する事で、更に情報も入手するという構図を作り上げていました。
 ですので、フロイスのこの記述も、概ね当時の認識を忠実に記していると考えられます。本願寺光佐と昭元は、義理の兄弟ではありますが、このように「攻守」全く逆の立場に身を置く事もありました。

元亀2年頃から幕府・織田勢と三好・本願寺など反幕府勢は再び交戦を始めます。この6月頃から幕府勢は、三好方であった池田衆を積極的に攻めたため、三好三人衆方であった池田衆は劣勢に立たされます。
 しかし、池田衆は起死回生の決戦を宿河原(白井河原)に挑み、見事に大勝利を得、敵大将の和田惟政とその重臣を多数を討ち捕るという、壊滅的な損害を与えます。惟政は、幕府の中枢を担う人物でもあり、その勢力を失う事で再び京都陥落の危険性が高まりました。この大合戦は、8月28日に行われ、その余波たる小競り合いは、同年11月頃まで続いています。

再び三好方が京都周辺で勢いを増した事から朝倉・浅井勢は、六角勢も加わって、比叡山方面まで迫ります。信長は、この窮地に朝倉・浅井を匿う比叡山を焼き討つという強行手段を取ります。この前年の同じ時期にも同様の行動があり、三度同じ事を繰り返さないという措置でもありました。門跡といえども、朝廷の意向にに随わない者は、武力行使を厭わない姿勢を内外に示しました。
 この間、白井河原合戦に勝利した池田衆は、支配領域を拡げ、歴代最大の版図を得るに至り、政治主導者の交替時の習わしである「摂津国豊嶋郡所々散在」へ宛てた禁制を下します。
摂津国箕面寺岩本坊(2022年撮影)
 三好三人衆方摂津国池田三人衆と見られる池田十郎次郎正朝・荒木信濃守村重・池田紀伊守正秀が、摂津国豊嶋郡中所々散在に宛てて禁制を下しています。
※箕面市史(資料編2)P411

---史料(9)------------------------
摂津国箕面寺山林自り所々散在盗み取り由候。言語道断曲事候。宗田(故池田筑後守信正)御時筋目以って彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在り於者、則ち成敗加えられるべく由候也。仍件の如し。
---------------------------

このように、幕府・織田勢が窮地に立つ中、細川六郎は、三好方から離れて投降します。続いて、三好三人衆の中心人物である石成友通も投降します。それは元亀3年1月のことでした。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

---史料(10)------------------------
17日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)三宅香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
---------------------------

細川六郎が投降すると、直ぐ「右京大夫」を叙任し、正式な管領の地位に就きます。また、将軍義昭から偏諱を受けて「昭元」と名乗ります。

元亀3年3月24日、細川昭元は、石成友通を伴い、京都二条妙覚寺の織田信長に参候します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

---史料(11)------------------------
むしゃの小路御普請の事条:
3月24日、(中略)細川六郎殿石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
---------------------------

同じ頃、甲斐守護武田信玄の周旋により、織田信長と本願寺との和睦もなされています。史料(11)にある、「今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。」とは、こういった本願寺方との和睦が成った事と、昭元が光佐と義理の兄弟であったという関係もあったためでしょう。

その後、今度は将軍義昭と織田信長の不和が深刻化してしまいます。(元亀3年)5月13日付、将軍義昭の武田信玄への内書を経て、信玄が反織田信長方松永久秀側近岡国高へ音信した内容から、将軍は信長の打倒を決意していたものとみられます。
 当時の通信事情から考えて、リアルタイムの意思疎通は不可能ですが、合意形成は既に整っていたと考えられます。
※戦国遺文(三好氏編3)P42

---史料(12)------------------------
珍札披見快然候。如来の意、今度遠江国・三河国へ発向、過半本意に属し候。御心安かるべく候。抑て公方様(将軍義昭)織田信長に対され御遺恨重畳故、御追伐為、御色立てられ之由候条、此の時無二の忠功励まれるべく事肝要候。公儀御威光以て武田信玄も上洛せしめ者、異于に他申し談ずべく候。仍て寒野川弓(十三張)到来、珍重候。委曲附しと彼の口上候之間、具さに能わず候。恐々謹言。
---------------------------

この頃になると、三好三人衆は、本国阿波・讃岐・淡路国方面の外へ出る程の余裕がなくなり、内部抗争などを伴って、弱体化していきます。
 そのため、将軍が反信長勢を糾合し始めると、そちらへ靡く勢力が現れ、求心力は将軍義昭方向へ向かい始めます。
 将軍と織田信長は、互いに反目しながら、名だたる人物の取り合いになっていました。その過程で、摂津池田衆もその影響を受けて、どちら側に加担するのかで内部で争い始めます。他の国人、例えば塩川氏などでも同じ状況でした。
 そして、管領昭元も両陣営から誘いを受けていました。この流れで、将軍側近であった明智光秀や細川藤孝なども信長の傘下に入ったりしています。
摂津国中嶋城跡(2006年撮影)
 昭元は、どうも信長についたようで、記述の史料(8)にあるように、非常に苦しい場面でも、持ち場を守り抜く姿勢を示しています。昭元は、若年であった事や時代性もあって、その伝統的権威に陰りもみられ、経済基盤も弱かった事もそこに至る一因でした。そのため、先ずはその足がかりとなる中嶋(城)の持ち場を守る事に注力したのかもしれません。
 この余談を許さない状況の中で、政治・経済の中心となる中央政権(将軍義昭・織田信長)が分裂したために、細川昭元傘下として寝返った三好為三にとっても、判断の難しい局面に陥りました。
 元々、将軍義昭政権下で交渉はしていたものの、為三の要求が非現実的で莫大であったため、折り合いがつかずに、交渉が纏まらなかったようです。

年が明けた元亀4年、早々から将軍義昭と織田信長は、もはや武力衝突不可避となり、両陣営は、その準備を急ぎました。
 この流れで、摂津池田家中も分裂となり、池田一族衆は幕府方へ、荒木村重一党は織田方へ加担する事となって、袂を分かちます。
 2月になると。両陣営は動きを活発化させ、将軍義昭の拠点である京都二条城へ続々と友軍が集結し、幕府方池田衆も2000騎を率いて入城しました。
※耶蘇会士日本通信(下)P248

---史料(13)------------------------
1573年4月20日(元亀4年3月19日)付、都発、パードレ・ルイス・フロイスよりパードレ・フランシスコ・カブラルに贈りし書簡:
ジョアン(内藤如安)の都に着きたる日、池田殿兵士2000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の到着に依り都は少しく鎮静せり。
---------------------------

同月26日、摂津国中嶋城が落ち、ここを守っていた細川昭元と典厩家(管領家の分家)の細川藤賢は、堺に逃れました。
※織田信長文書の研究(上)P611

---史料(14)------------------------
猶以て朱印遣わし候はんかた候者、承るべく候。只今丹波国人内藤方への折紙之遣わし候。さてもさても此の如く体たらく不慮の次第に候。今般聞こ召し直され候へば、天下再興候歟。毎事御油断有るべからず候。替わる趣きも候者、追々承るべく候。京都の模様其の外具さに承り候。満足せしめ候。今度松井友閑・嶋田秀満を以て御理り申し半ばに候。之依り条々仰せ下さりに付きて、何れも御請け申し候。然ら者奉公衆の内聞き分けざる仁体、質物之事下され候様にと申し候。此の内に其方之名をも書き付け候。其の意を得られるべく候。此の一儀相済まず候者、其の上意に随うべく、何れも以て背き難く候間、領掌仕り候。此の上者信長不届きにて、之有るべからず候。此方隙き開き候間、不図(ふと)上洛を遂げ、存分に属すべく候。其の方無二之御覚悟、連々等閑無く入魂せしめ処、相見え候。荒木(信濃守)村重池田其の外何れも此の方に対して疎略無く、一味の衆へ才覚肝要に候。恐々謹言。
---------------------------

しかし、この中嶋城は、信長方により、直ぐに取り戻されたようです。ここは水運の要であり、非常に重要な場所でもありました。非常に長い音信なので、細川昭元(中嶋城)関連を抜粋します。
※織田信長文書の研究(上)P614

---史料(15)------------------------
五畿内・同京都之体、一々行き届け候。度々御精に入れられ候段、寔に以て満足せしめ候。(中略)一、中嶋之儀、去る27日(2/27)に退城之由、さてもさても惜しき事に候。公方所為(せい)故に候。右京兆(細川昭元)御心中察しせしめ候。質物(人質)出しに付きては進上候て尤も候。(中略)一、中嶋之事、執々(とりどり)承りに及び候処、堅固之由尤も候。則ち書状以て申し候間、御届け専用に候。然ら者、鉄砲玉薬・兵糧以下之儀者、金子百枚・二百枚程の事余に安き事に候。上洛之刻、猶以て其の擬(検討をつける)仕るべく候。弥々荒木(信濃守)村重と相談有り、御馳走専一候。(後略)
---------------------------

4月、遂に両者は衝突し、信長勢は洛中・洛外を大規模に放火します。これに将軍義昭方はなす術もなく、同月7日に和睦が成立します。そして、京都へ入る予定であった武田信玄が、同12日、進軍途中で死亡してしまいます。
 この事は、当時の通信事情から、また、京都周辺を封鎖している事もあり、信玄の死亡は、直ぐに将軍の元には届かず、将軍に加担する勢力との協働を計るべく、二条城防備を更に強化するなどしています。

山城国槙島城跡(2009年撮影)
7月5日、二条城を側近の三淵藤英に守らせ、将軍自らは山城国宇治郡槙島城に入って、再度の挙兵を行います。しかしながら、長くは続かず、同月18日、将軍が信長に降伏し、京都から追放となります。信長は間髪入れず、槙島城に細川昭元を入れ、周辺の残党を一掃するべく、拠点とします。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142

---史料(16)------------------------
真木島にて御降参、公方様御牢人の事条:
7月18日巳の刻、両口一度に、其の手其の手を争い、中島へ西へ向かって噇っと打ち渡され候。(中略)真木島には信長より細川六郎(右京大夫昭元)を入れ置き申され、諸勢南方表打ち出し、在々所々焼き払う。
---------------------------

この掃討作戦で、将軍義昭方となって戦っていた、元三好三人衆の一人、石成友通は、山城国の淀城にて戦いましたが戦死しています。7月27から29日頃の事とされています。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143

---史料(17)------------------------
岩成討ち果たされ候事条:
去る程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭・番頭大炊頭・諏訪飛騨守両3人楯籠り候。羽柴筑前守秀吉、調略を以て、番頭大炊・諏訪飛騨守両人を引き付け、御忠節仕るべき旨、御請け申す。然る間、長岡兵部大輔藤孝に仰せ付けられ、淀へ手遣い候ところ、岩成主税頭、城中を懸け出で候。則ち、両人として、たて出だし候。切って廻り候を、長岡兵部大輔臣下、下津権内と申す者、組討ちに頸を取り近江国高嶋へ持参候て、頸を御目に懸け、高名比類無きの旨、御感じなされ、忝くも、召されたる御道服を下され、面目の至り、冥加の次第也。何方も御存分に属せらる。
---------------------------

7月28日、元号が「天正」と改まり、ひとつの時代は終わり、新たな時代の幕開けを迎えました。

 

織田信長朱印状文書(細川昭元宛)についてトップへ戻る


<元亀元年から元亀4年までの動き> =================

◎元亀元年 --------------------
4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派石成友通、大和国西大寺綱維房へ宛てて音信(返信)
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派三好為三、大和国西大寺同宿中へ宛てて音信
※戦国遺文(三好氏編2)P259

4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
※改訂 信長公記(新人物往来社)P103

5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P102

6/9 将軍義昭一族同苗藤賢、某(幕府関係者)へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P28、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P153 

6/18 幕府衆細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
※大日本史料10-4-P525(武徳編年集成)、朝倉義景のすべてP66

6/18 摂津池田城内で内訌が起こる
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/19 反幕府・織田信長方摂津池田衆、三好三人衆方へ使者を派遣
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

6/26 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
※言継卿記4-P425

6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
※言継卿記4-P425

6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
※言継卿記4-P425

6/28 摂津守護和田惟政、小曽根春日社に宛てて禁制を下す(直状形式)
※豊中市史(史料編1)P121

7 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、山城国大山崎惣中へ禁制を下す(直状形式)
※島本町史(史料編)P443

7/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田某、池田家の家督を相続?
※大日本史料10-4-P522(荒木略記)、池田町史P137

7/21 反幕府・織田信長方三好三人衆勢、摂津国中嶋へ上陸
※足利義昭(人物叢書)P168、言継卿記4-P432、近世公家社会の研究P23

7/27 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸、摂津国欠郡天満森方面へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/2 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、禁制発給について山城国大山崎惣中へ宛てて音信
※島本町史(史料編)P435、戦国遺文(三好氏編2)P261

8/3 幕府衆細川藤賢(典厩)、摂津国人野部(辺)弥次郎へ音信
※新修 茨木市史(通史2)P29

8/13 摂津守護伊丹忠親、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634、陰徳太平記4(東洋書院)P54

8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
※言継卿記4-P440

8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
※ビブリア53号P155(二條宴乗記)、言継卿記4-P440、陰徳太平記4-P54

8/28 反幕府・織田信長方三好三人衆三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441

9 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国多田院に禁制を下す (直状形式)
※川西市史(資料編1)P456

9/1 阿波足利家擁立派三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/3 将軍義昭、摂津国欠郡中嶋へ着陣
※ビブリア52号P157+62号P66(二條宴乗記)、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、改訂 信長公記(新人物往来社)P109、言継卿記4-P442

9/3 反幕府・織田信長方三好三人衆三好長逸など、摂津池田城を出て摂津野田・福島城へ入る
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、戦国歴代細川氏の研究P383

9/8 摂津守護伊丹忠親・和田惟政勢、反幕府・織田信長方三好三人衆派池田領内の市場などを打ち廻る
※言継卿記4-P443、高槻市史1-P738

9/12 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城の総攻撃を行う
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P637、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417、戦国遺文(三好氏編2)P267

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

9/25 幕府・織田信長(為三含む)勢、比叡山の麓へ陣を取る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P113

11 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津池田知正衆中川清秀、池田周辺諸城を攻める?
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P92

11/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田民部丞、摂津国箕面寺に禁制を下す(直状形式)
※箕面市史(資料編2)P414

12/8 幕府・織田信長、三好三人衆方の和睦を成立させる
※ビブリア53号P164(二條宴乗記)、戦国期歴代細川氏の研究P128

12/25 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P595

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


◎元亀2年 --------------------
1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

1/16 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀荒木弥介石成友通、堺商人天王寺屋宗及の茶席に出席
※茶道古典全集8-P160

3/19 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正秀、堺商人天王寺屋宗及の茶席に招かれる
※茶道古典全集8-P160

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/中 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡原田城を落とす
※言継卿記4-P502、豊中市史(史料編1)P121

6/10 摂津守護和田惟政、摂津国吹田城を落とす
※言継卿記4-P502、高山右近(人物叢書)P29

6/12 織田信長、将軍義昭側近細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P459

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、改訂 信長公記(新人物往来社)P109

6/23 摂津守護和田惟政、摂津国豊嶋郡牛頭天王へ宛てて禁制を下す
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史1-P739+3(史料編1)P432

6/24 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、池田市史1-P662

7/2 反幕府・織田信長方本願寺光佐、同細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P598

7/下 摂津守護池田勝正・幕府衆細川藤孝勢、摂津国池田城を攻める
※池田市史1-P668、吹田市史2-P10

7/26 幕府衆三淵藤英、摂津国豊島郡春日社目代に宛てて音信
※豊中市史(史料編1)P123

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685、明智光秀(人物叢書)P61

8/2 摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
※池田市史1(史料編1)P82、大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)、戦国期歴代細川氏の研究P223

8/18 摂津守護和田惟政・同伊丹忠親勢、反幕府・織田信長方三好三人衆勢と摂津国内で交戦
※高槻市史3(史料編1)P433、陰徳太平記3-P268

8/22 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、兵を率いて出陣
※耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268

8/28 摂津国白井河原合戦
※高槻市史3(史料編1)P433+438、多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137、フロイス日本史4(中央公論社:普及版)P268、陰徳太平記3-P268、ビブリア54号-P39(二條宴乗記)、大日本史料10-6(尋憲記)、中川史料集P15

9/1 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P144、陰徳太平記3-P270、中川史料集P21

9/5 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田勢、摂津国高槻城を攻める
※中川史料集P22

9/6 反幕府・織田信長方三好三人衆派池田勢、戦闘に敗北
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P257

9/9 摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
※大日本史料10-6(尋憲記)、高槻市史3(史料編1)P439

10 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田家内の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
※よみがえる茨木城P17+67+130

10/21 織田信長、三好一任斎為三へ音信
※泰厳歴史美術館所蔵資料 2025年4月12日報道の新出史料

11/8 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
※箕面市史(資料編2)P411、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P17

12/13 反幕府・織田信長方三好三人衆派摂津国人池田正行、奈良春日大社南郷目代今西橘五郎へ音信
※春日大社南郷目代今西家文書P456、豊中市史(史料編1)P128

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


◎元亀3年 --------------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3 織田信長、幕府方甲斐守護武田信玄の仲介により本願寺と和睦
※御坊市史1(通史編)P478、本願寺(井上鋭夫)P222

3/14 反織田信長方三好三人衆派摂津池田三人衆荒木村重、京都吉田神社神官吉田兼見からの音信を受ける
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P37、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P41

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/13 幕府方摂津国中嶋城細川昭元、反幕府・織田信長方三好義継と和睦
※明智光秀(人物叢書)P92

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247

4/16 摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P38、改訂 信長公記(新人物往来社)P124

4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

5/10 反織田信長方将軍義昭派本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90

6/2 幕府方将軍義昭派細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反織田信長方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/25 幕府方細川昭元、美濃国常在寺へ音信
※岐阜県史(史料編:古代・中世編1)P60

8/28 反織田信長方将軍義昭派本願寺勢、幕府方織田信長派摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14、戦国期歴代細川氏の研究P128、元亀信長戦記P53

9/2 反織田信長方将軍義昭派本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 反織田信長方将軍義昭派三好三人衆方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/6 将軍義昭、同側近上野秀政へ池田民部丞召しだしについて内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P652

11/13 織田信長、細川昭元衆薬師寺弥太郎へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究-上-P585

11/19 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P432、豊臣秀吉文書1-P16、細川家文書(中世編)P151

12/10 将軍義昭、側近一色藤長へ細川典厩藤賢について内書を下す
※福井県史(資料編2)P686

12/20 反織田信長方三好三人衆・三好義継・松永久秀・本願寺勢など、摂津国中嶋城を攻撃
※大阪編年史1-P492


◎元亀4年 --------------------
2 織田信長方摂津国人荒木村重、佐久間信盛などへ使者を遣わす
※陰徳太平記4(東洋書院)P134

2/15 摂津池田衆など将軍義昭勢、京都二条城へ集結
※亀岡市史(資料編1) P1168、耶蘇会士日本通信-下-P248、永禄以来年代記(続群書類従29-下)P268

2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P23

2/26 織田信長、摂津池田衆荒木村重の扱いについて細川藤孝に音信
※織田信長文書の研究-上-P611、綿考輯録1-P65

2/27 摂津国中島城が落ち、細川昭元が堺へ逃れる
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P639、耶蘇会士日本通信-下-P232、織田信長文書の研究-上-P614

3/7 織田信長、摂津国中嶋城について細川藤孝に音信
※亀岡市史(資料編2)P1168、織田信長文書の研究-上-P614、兵庫県史(史料編・中世9)P434、伊丹史料叢書4(荒木村重史料)P24

3/11 足利義昭方池田衆、京都八条へ陣を取る
※戦国期室町幕府と在地領主P298、大日本史料10-14(東寺執行日記)P246

3/12 将軍義昭方池田衆及び内藤如安忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参侯
亀岡市史(資料編1)P1171、耶蘇会士日本通信-下-P248、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P198、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P290

3/13 足利義昭方池田衆、京都八条方面で東寺衆と陣取りを巡って喧嘩
※東寺執行日記3(思文閣出版)P173、耶蘇会士日本通信-下-P249「註」、フロイス日本史(中央公論社刊)4-P292

3/14 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
※高知県史(古代中世史料)P651

3/27 織田信長派荒木村重・細川藤孝、近江国逢阪で織田信長を迎える
※フロイス日本史(中央公論社刊初版)4-P299、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206、陰徳太平記4-P134

3/27 将軍義昭、兵を城に入れて防備を固める
耶蘇会士日本通信-下-P259(異年年代記抄節)、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P205

3/29 織田信長派荒木村重、細川藤孝と共に織田信長と知恩院で会見
※改訂 信長公記(新人物往来社)P 137、耶蘇会士日本通信-下-P262、イエズス会日本報告集(第3期第4巻)P206

4/4 将軍義昭方本願寺光佐から越前守護朝倉義景への音信に池田遠江守が登場
※本願寺日記-下-P611

4/7 将軍義昭・織田信長の和睦が成立する
※大日本史料10-15-P81、福井県史(資料編2)P726、図説丹波八木の歴史2(古代・中世編)P169

4/27 織田信長衆林秀貞など、将軍義昭方奉行人池田清貪斎正秀などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P629、足利義昭(人物叢書)P207

4/28 将軍義昭方池田清貪斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政などへ起請文を提出
※織田信長文書の研究-上-P630、足利義昭(人物叢書)P207

7/5 将軍義昭、織田信長に対して再度挙兵
※改訂 信長公記(新人物往来社)P139、長岡京市史(資料編2)P650

7/18 将軍義昭、織田信長に降伏
※ビブリア54号(二條宴乗記)P59、改訂 信長公記(新人物往来社)P141、信長記-上(現代思潮新社)P172

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る
※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/20 織田信長方細川昭元、山城国槙島城へ入る

※改訂 信長公記(新人物往来社)P142、信長記-上(現代思潮新社)P174

7/27 足利義昭方石成友通、戦死
※改訂 信長公記(新人物往来社)P143、足利義昭(人物叢書)P219

8 荒木村重、摂津国一職を約される?
※織田政権の基礎構造(織豊政権の分析1)P109、陰徳太平記4(東洋書院)P135

8/4 足利義昭方池田某自刃?
※池田市史(資料編1)P82、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134、陰徳太平記4(東洋書院)P135

 ================= <年表おわり>

 

2025年6月14日土曜日

山の尾根を割り、防御施設にしているかもしれない痕跡

赤色立体地図を見ていると、尾根の形状で気になる所が多々あります。尾根を割って歩きづらくしているような形状があります。地質がそのようになっていて、風雨で自然に崩れたのかとも考えたのですが、それだと周辺でも起こる筈ですが、特にそれに似たような状況も見当たらない。
 一方で、後世に人為的に治水や地山の為にこのような改変を行ったかとも考えたのですが、それにしては不自然な形状が多い。水の流れに逆らうような作りも多く見られます。

 

五月山南側にある痕跡(大阪府池田市畑)

五月山南側にある痕跡(大阪府池田市五月丘)

五月山北側にある痕跡(大阪府池田市木部町)


  • この尾根を割ったような形状は、守備要点付近でみられる。
  • 普請が複数で、巨大である。(もしかして、信長が池田を本陣とした時のものあるか。)
  • 自然的に崩れる場合は、もう少し階調的になるのではないか。


色々見る内に、これらも人為的に作られたもので、障害物として機能させる目的があったと考えて、守備普請の一部とみています。目的は、

  • 数本ある進行ルートの一つを潰す。
  • 一番広い尾根を割る。
  • 比較的勾配が緩く、人が多数で通過できそうなところを潰す。
  • 堀底道のようにして守る。


といった事を思いつきます。

一方で、自然地形としてあり得る場合もあります。また、何らかの目的を持って、人工的に普請した可能性もあります。
 これらの要素が見分けられないところがあって、何か思いつく事がありましたら、ご存知の方にご教示いただければと思います。以下、疑問に思う点をまとめます。

  1. 他で、このような例はご存知ですか?(生駒山でもありますが少ない。)
  2. 添付のファイルにあるような地形は、自然的に起こり得るか。
  3. 地山や治水などの目的で後世に人工的に作られた可能性はあるか。(だとすれば、形状がイビツ)
    ※人工的に作られたものが、経年変化でそうなったかも知れないが...。
  4. つづら折れの道が、経年変化で崩れた。


もし、これらが城の防御機能としての可能性があるのなら、これもまた、城郭分野では新たな視点になり得るように思います。どうぞ宜しくお願い致します。

【追伸】
「備陽史探訪の会」 田口会長様に上記の件質問しました所、「佐和山城と、一乗谷で見たことがあります。」とご教示いただき、やはり、人工的に造作されたものであることが、ハッキリしました。ありがとうございました。

 

 

摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページへ戻る> 

2025年6月7日土曜日

摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページ

赤色立体地図が映し出す五月山

近年、2002年にアジア航測の千葉達朗氏により考案された、赤色立体地図のおかげで、城郭研究の分野は、飛躍的に研究が進展しています。
 この技術が、奈良文化財研究所のWEBサイトで一般利用が可能となった事で、いつでも、誰でも、山地の地形の可視化技術利用が可能になりました。
 これにより、これまで未認知(または伝承のみで不明)であった城・砦跡が次々と発見されており、私の守備範囲である摂津池田城周辺についても、多大なる恩恵を受けているところです。

一方で、近年は開発スピードが早く、それらも鑑みて、できるだけ早めにその痕跡を確認し、概念化をしておかなければならない状況でもあると考えています。
 逆に、文献の分野は、年々史料の翻刻などが進み、また、新出史料などが公表されるなどして、拡がりと深まりを見せる中で、物理的な城郭発掘分野は、法的・経済的な制約も相まって、破壊が進んでいるのが現状です。

摂津池田城に関する、物理的な城郭発掘分野も、そういった意味では、優先順位を上げて活動しなければならないように考えています。こちらでは摂津池田城とその関連の記事を集めて、ご紹介していきたいと思います。


摂津池田城の縄張り概念は、五月山山上にまで及んでいた!?
摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い
現存する摂津国豊嶋郡伏尾村(大阪府池田市伏尾町)に残る砦跡(仮称:伏尾イゴキ砦)
摂津池田の五月山(大阪府池田市)に見られる特徴的な防御施設らしき普請跡。トーチカの原始的なカタチか!?
摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!? 
明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える
荒木村重の重臣であった瓦林越後守は、池田育ち(生まれ)か!?
戦国時代に池田市木部町にあった木部砦(城)跡 
山の尾根を割り、防御施設にしているかもしれない痕跡 ← NEW!

 

現存する摂津国豊嶋郡伏尾村(大阪府池田市伏尾町)に残る砦跡(仮称:伏尾イゴキ砦)

摂津国豊嶋郡伏尾村は、細河郷内にあり、平野部と山地の結節点にもあたります。いわば「出入口」で、非常に重要な立地です。また、ここは郡の境目(河辺・豊島郡)でもあり、その境目に沿って「妙見街道」が通るという、交通の要衝でもありあました。
 ここより北側の、丹波国や摂津国能勢郡といった地域に通じており、太古から交易が行われ、産出する鉱物や山の富を輸送する重要な、通路でもありました。
 視点を変えますと、室町時代末期に地域政権が成長する頃には、豊嶋郡を中心とした池田氏が勃興し、五月山の南側(大阪府池田市綾羽2)に城を構えて本拠とします。
 細河郷は、池田城の裏庭であり、五月山の北側にあたる事から、勢力を増大した池田氏は、同地域にも積極的に関与するようになり、管理下に置いたとみられます。
 その細河郷を構成する六ヵ村の一つである伏尾村には、久安寺という近衛天皇との繫がりを持つ真言宗系の大寺院があります。伏尾村は、久安寺との結びつきが強く、地域政権でもあった池田氏は、同寺とも共存・共栄関係を志向していたようです。

時は「戦国」、久安寺という宗教組織(今とは社会的立場が違う)も、武家である池田氏との関係性を保ち、戦乱を避ける工夫をしていたと考えられます。そのような視点で見れば、久安寺・伏尾村と周辺にも自衛のための城や砦跡が見られます。

その例の一つをご紹介します。

旧細河郷内を赤色立体地図で見ていると、気になる地形があり、更によく見ると、その形状も非常に気になります。
 立地的にも眼下に余野街道(摂丹街道)、その背後にも同じく余野街道と五月山へ上がる道に接続する通路があります。
 そして更にここは「イゴキ」との字で呼ばれ、久安寺に深く関係する場所で、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院などがあったと伝わっています。
 そのような経緯もあり、ここは久安寺の一部でもあった場所ですので、戦国時代には伏尾村の南の入口としての概念があったのではないかと思われます。

 

大阪府池田市伏尾町にある砦跡と思われる場所

以下の赤色立体地図では、2ヶ所の赤色丸印をつけてありますが、本来はどちらも何らかの人工的な普請がされていたと思われます。しかし、今はこの地図の東(右)側部分は、レジャー施設として開発されており、痕跡は残っていませんでした。
 一方、西(左)側部分の小さな舌状丘陵には、土塁と曲輪、堀跡が残っており、ここは砦(城)として使われていた事が判明しました。
 地形としては、西側の余野街道側は絶壁で、天然の要害性を持ち、北と南側は谷です。東端に、今は集落が建っていますが、ここを画して、丘陵を一つの縄張りにしたようです。

赤色立体地図に映し出される砦と思われる地形(大阪府池田市伏尾町)

ちょっと詳しく見てみましょう。
 

仮称:伏尾イゴキ砦の縄張り拡大

この「仮称:伏尾イゴキ砦」と目される、一体的な地形を更に分割しています。北側の端に人工的な普請跡(曲輪)があり、東端の集落と繋がっています。逆側の南辺は崖で、こちら側のその先は緩やかな谷となるため、そこにも備えがされていたのではないかと思われます。
 再訪し、よく見る必要がありますが、地形的には南側にも曲輪のようなカタチが複数箇所みられます。
 西側は、急峻な崖のため、ここから攻める事は不可能ですが、そこに土塁を設けています。現在は、ゴミの投棄・放置場になっているのですが、今も戦国時代の痕跡をハッキリと残しています。

仮称:伏尾イゴキ砦の土塁の現状

仮称:伏尾イゴキ砦の東側の区切り

仮称:伏尾イゴキ砦の北側にある曲輪の様子

仮称:伏尾イゴキ砦の南側の曲輪

縄張りの東端集落の南側の様子で、手前の畑と家の間に谷がある

最後に、この場所との関係性を見るために、広域に赤色立体地図を見ておきたいと思います。地図中の赤色丸印は、人工的な普請を確認した所で、黄色丸印は、未踏査の場所ですが、施設など何らかの痕跡がありそうな立地です。

仮称:伏尾イゴキ砦北方の城・砦の配置想定


今は「伏尾台」として開発されてしまいましたが、この山の随所に砦・監視・避難所が設けられていたと考えられます。それは、久安寺の自衛体制でもあり、関所も設けて管理を兼ねて、経済活動(有料道路にして、道の管理も)の拠点になっていたのかもしれません。

さて、既述の「寺尾千軒や流行病患者のための病院」が、この「イゴキ」と呼ばれた場所にあったとされ、この削平地は久安寺の栄えていた頃に拓かれた跡ではないかと思われます。
 「仮称:伏尾イゴキ砦」は、それらを戦国時代に再利用されたものと思われます。室町末期の動乱期には、寺も自衛の必要があったため、要所には軍事的な施設と体制を取っていたと考えられます。
 それらは連絡の目的もありますので、要所から要所は直線的に結ばれて、監視のための眺望も確保された所に施設があるように思います。道を監視し、連絡と連携体制を基本的に考えて、施設を置いたと考えられるため、砦は、対岸の吉田村と久安寺につながる線を保っていたのではないかと思われます。


摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページへ戻る

 

2025年6月3日火曜日

摂津池田の五月山(大阪府池田市)に見られる特徴的な防御施設らしき普請跡。トーチカの原始的なカタチか!?

摂津池田城は、その背後が山で、この山を取られると、城内を俯瞰されることとなってしまい、城の「弱点」との通説が、特に検証される事なく、永年に渡り順送りとなっていました。しかしながら、この要素は、軍事面の知識では素人の私でさえも、戦いのプロフェッショナルであった武士集団の本拠が、何の策も講じない筈が無いと考えていました。
 この度、ご縁があって、その永年の疑問が解ける機会に巡り会い、やはり池田城を俯瞰される弱点の対策を施していた事が判りました。至る所に砦や監視所のような普請を行っていた跡を発見しました。それらは非常に広範囲で、多数存在しますので、近日にそれらをまとめて、記事にしていきたいと思います。
 また、村(集落)との連携もされていたと考えられ、共存関係で防御体制を構築していたとも思われ、この視点についても記事で触れていきたいと思います。

私が「池田城の本拠を守るために、五月山や細河地域などにも何らかの策を講じていた筈」と考えていたのは、北摂山塊に、池田城と同じような環境の要所はいくつかあり、他の場所では、その奥地(丹波・能勢方面など)から軍勢が下りて、平地へ出るような動きが度々見られるのですが、奥地からの街道を幾本も通す池田で、それがあまり見られず、池田城が攻められる頻度も他地域のそれと比べると非常に少ない事に注目していました。それは偶然ではなく、必然であり、防御体制を敷いていた為だと考えていました。

最近、城郭に詳しい方の案内で、五月山周辺、特に細河地域(大阪府池田市)を見て歩きましたが、やはり、その見立ては間違いではなかったと感じ、それらの痕跡を多数発見しました。
 今後、更に詳しく見、本当にそうなのかどうかの精査をも必要ですが、もしそれらが見立て通りなら、池田城の城としての概念そのものを大きく見直す必要があると思われます。
 その「大仕事」の前に、池田城の守備体制の一例として、特徴的な人工普請跡をご紹介しておきたいと思います。
 山の尾根の要所(ピークや分岐)に砦・監視所を作り、堀切や堀を設けている所が多数あります。物理(軍事)的に障害物を設けて、尾根沿いの上り下りをさせないようにしているようです。
 例えば、摂津池田氏の菩提寺である大広寺(大阪府池田市綾羽2)の西側、ここに娯三堂古墳があります。これを利用したと思われるトーチカ風の人工普請跡があります。一方を開け、三方を土塁で囲むような地形を作っています。これは、鉄砲や弓といった飛び道具の武器を使うには、身を隠して対応できるのではないかと考えられます。

大広寺から東側に尾根道下を通る山の道もあった

 
現地を見ると、トーチカの原始的なカタチのようにも思えますし、このような防御拠点があれば、その先に進むことが難しくなりますので、特に守備には有効ではないかと思われます。
 また、この場所は地形的に、一旦下って谷になり、再び地面が隆起して枝豆のようなカタチの尾根が南西方向に伸びる、独特な地形です。これが高低差を持ちつつ屏風のように連なっていますので、防御地形としてうまく活用されていたと考えられます。ちなみに、この尾根上に、巨大な茶臼山古墳があります。


左側は明治42年測図、右側は現代

 

娯三堂古墳砦は、その尾根の上部に位置し、その間を通る山道をも警戒する役割もあったと思われます。
 現在では池田市の上水道貯水タンクなどがあって、開発されてしまいましたが、この辺りは、そういった役割を帯びた施設があったと考えられます。

さて、池田城の守備施設らしき場所をもう一つ、ご紹介します。五月山の北側、細河地域にも、砦・城跡が多数見られます。集落は深い谷を境として形成されており、天然の要害を持ちつつ、豊かな水の供給源でもあります。五月山から、至る所で川に水が流れ、水には苦労が無いであろう事は、歩いていて実感します。
 中河原町・東山町の境目から、東山町側に入った場所に、ここにも三方を囲んだカタチの人工普請跡があります。ここは太平洋戦争時に、魚雷などを格納する地下壕があった場所ですので、それらの関連施設の可能性もあるのか、確認が必要ではあります。
 しかし、ここにも娯三堂古墳砦のような志向の形状で、痕跡があります。そのの場合は、尾根筋では無いのですが、五月山側に、山の中を等高線に沿った山道が数本あるため、東山村の南端を守る役割があったのかもしれません。

 

池田市東山町の集落はずれにある防御施設と思われる普請跡

 

五月山周辺には、このような片仮名の「コ」の字形(若しくは円形とも)の普請跡が複数あり、あまり他では見ることがありません。
 これはもしかすると、摂津池田氏の独自の発想で、守備体制を組んでいた事によるものかもしれませんが、他の地域でもあり、私が知らないのかもしれません。
 しかし、この構造は特に鉄砲を使って守備する場合、非常に都合が良いですし、屋根を設置すれば、雨風も凌げる長時間の駐屯場所としても使えるように思います。
 色々と不明な点も多いのですが、何れも自然にできた地形とは思えませんし、この地域でよく見かける「炭窯」というのも構造が違うように思います。


池田市中河原町に残る炭焼窯跡

五月山周辺で見られる片仮名の「コ」の字形の普請跡や尾根上のピークや分岐の要所には、多数の普請跡が見られ、やはり、池田城の背後を取られない防御体制が取られていたと考えられます。
 このために、摂津池田城は「難攻不落」を誇ったようですが、これを破ったのは、1568年(永禄11)秋の織田信長による足利義昭上洛戦の時だったと思われます。
 織田勢は50,000騎ともいわれる大軍で摂津池田城を急襲し、「陣山(横岡公園)」(明治42年の地図を参照)に本陣を置きます。しかし、この先には進めなかったとみられ、ここから西側は急に落ち込む細い谷道で、進めば谷の両側から攻められてしまいます。その位置に、娯三堂古墳砦がありました。近世城郭で見られる「桝形」のような構造だったのかもしれません。
 『信長公記』によると、10月2日に総攻撃を開始し、外構えに取りついて、一進一退の攻防となったようです。信長の馬廻り?水野金吾忠分?配下の梶川平左衛門高秀が戦死。同じく馬廻り魚住隼人・山田半兵衛が負傷して後退。
 この時は、攻め手の軍勢主力を池田城の南側から攻めさせたようですが、城方の抵抗が激しく、攻め手に欠いた織田勢は、町場に火をかけ始めたことから、和睦となったようです。双方に死傷者を出して、信長勢は重臣を失います。その時の合戦を舞台に描いた版画があります。

『真像太閤記画譜』に描かれた池田勝正と織田方武将梶川高秀
(東京大学大学院教育学研究科・教育学部図書館室所蔵資料)
 

また『同記』では、この城攻めの時、信長が「北の山」に陣を置いたとしている事から、これを今の感覚の「五月山」と解して、現在の通説になっています。

 しかし、実際には、今でいう五月山に上る事は、当時の状況では到底できず、「陣山」に進出して停止するのが限界だったと考えられます。この陣山も単独で守るには不十分な環境であり、そのために、短期決戦を計って、いわゆる武士らしからぬ「汚い手(放火)」を使ってでも、和睦に持ち込む方針であったと考えられます。かといって、安全圏で指揮を採ることは出来ず、大将は危険を顧みず前に出て、諸将を鼓舞しなければ、烏合の大軍が瓦解してしまいます。
 その当時の五月山は、山林が今よりも南側に拡がっており、丘陵地帯も山林であったため、その間を山道が縦横に走っています。今とは五月山の様相が全く違います。

昭和30年代の開発前の横岡公園付近(個人蔵)


また、この時、管領細川晴元の息六郎(後の昭元)や三好長逸など三人衆方の武将や将軍義栄方の要人なども池田へ避難していたようで、それ程に堅固な城と考えられていたエピソードの一つだと思います。

 

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)へ戻る

摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページへ戻る> 

 

2025年5月31日土曜日

摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い

細川六郎(昭元)と摂津池田氏についての関係性「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」をまとめていた途中で、脱線してしまい、池田の城郭の分野へ入り込んでしまいました。
 言い訳をさせていただきますと、山の中の城跡は、冬期のみの限定された調査になってしまう事から、そちらへ注力してしまいました。細川六郎と摂津池田氏の関係性について楽しみにされていた方には、大変申し訳けなく思います。必ず、事態(私の頭の中)の収拾をつけてまとめますので、少々お待ち下さい。

さて、今回の記事は、その摂津池田城についてです。五月山(大阪府池田市)北側を特に見たのですが、詳しい方に案内をしていただきますと、やはり、公的にもこれまで未知であった砦や城と思われる痕跡が無数にある事が判りました。今回知り得たそれらは、精査も必要ですが、村(集落)との関係や街道監視(管理)と密接に関係していると思われ、特に摂津池田城の背後にある五月山の裏庭(北側)には豊嶋郡・河辺郡の境目があり、その河辺郡の有力者である塩川氏と池田氏は戦国時代末期には、長期間に渡って敵対関係にありました。

そういった状況にもあり、五月山北側の細河庄(郷)は、摂津池田氏にとって、管理下に収める必要が是非ともあったと考えています。
 そのような想定で、2025年1月から赤色立体地図を元に、頻繁にそれと思しき場所を確認に訪れました。その想定としては、(1)豊嶋・河辺郡境、(2)街道の要所、(3)集落の近く、などには、必ず何らかの施設があるのではないかと考えました。

結果としては、想定通りにそれらしき痕跡がありました。自然に形成されたのではない人工普請跡が見られました。以下、簡単に上述の要素を(1)〜(3)の例にまとめてご紹介します。

(1)豊嶋・河辺郡境
郡境の豊嶋郡側に「陽松庵」があり、その北側の独立した山の頂きに城跡が確認できました。城跡から西側には妙見街道が走り、その城跡は、これを監視するために機能していたものと思われます。
 その直下に陽松庵がありますが、同庵の創建は1351年(観応2)京都天龍寺(臨済宗)を開いた夢窓疎石によると伝わり、その後の経過は不明ながら、1713年(正徳3)に天佳禅師を迎えて再興されています。
 今のところ、それらの伝承を補う資料は無いのですが、戦国時代の視点で見ると、その立地的には非常に重要でしたので、吉田村に関連する何らかの施設があったと考えられます。この東側には谷を挟んで突出した山が、かつては存在(開発により掃滅)し、そこが「オダノカイチ」と呼ばれる城跡とも伝わっています。吉田村自体が、小規模な拠点城であった可能性があると伝承や遺物、立地から考えられます。

陽松庵から続く山の頂上に城跡を確認

陽松庵の山の上にある城跡の位置関係

陽松庵上の山にある城跡から西側の妙見道を望む

(2)街道の要所
想定を戦国時代末期の池田氏支配下に当てています。その頃、摂津国豊嶋郡にあった久安寺は、大寺院に成長していたようで、その威光も相当な影響力であった事が想像されます。
 その久安寺には、内院として49院と堂塔があり、外院は東山町(大阪府池田市)に及び、神殿(田?)には総門が、また香華田や寺院僧堂も存在したと伝わっています。更に、吉田橋(池田市吉田町)の東(イゴキ)に、寺戸千軒や流行病患者のための病院、東山村に紫雲寺、木部村に蓮台寺、古江村に等覚寺などがあったとされています。それらの伝承は今のところ、少々時代の盛衰の時差はあるものの、細河庄が一時代の先進的地域であった事を物語っています。
 そんな久安寺には、戦国時代に於いても主要道の一つであった摂丹街道が通り、その途中にいくつもの里(山)道を交える重要な交通路でした。その通路を監視・管理する為とも思われる砦跡があり、尾根道を切断する巨大な堀切が今も残っています。
 この付近にそのような堀切がいくつかあり、軍事的な意味合いも持ちつつ、関所のような施設があったのではないかとも考えたりしています。

久安寺から余野川を挟んだ山にある摂丹街道を監視したと思われる施設の堀切

摂丹街道を監視したと思われる施設の位置関係 

堀切の現状(2025年3月撮影)

(3)集落の近く
豊嶋・河辺郡の境目である古江村(現池田市古江町)は、主要道である能勢街道を通し、その東側至近に片岡村があって、そこを妙見街道が通ります。その妙見道に豊嶋・河辺郡を結ぶ脇街道が複数交差しており、この付近は、交通の要衝となっていました。
 伝等覚寺と思しき寺跡のような痕跡がありました。片岡村の伝承として、戦国時代まで、村の上に「古御坊」と呼ばれる寺があり、それが戦乱で焼けてしまったので、その下の里に僧侶が降りてきて住み着いたので、その僧侶の名から「片岡」という集落名になったと伝わっています。
 しかし、この場所はそういった古刹があった事から、人や物が集まり、街道も次第に形成されたのではないかと考えられます。
 古江村側には、その西側至近の場所に猪名川が流れ、また、東西に伸びる長細い丘陵の突端が古江村付近で落ち込んだ間を能勢街道が通っています。その街道の対岸の山をも見通す場所に古江古墳がありますが、ここも戦国時代には砦として使われていたと考えられます。戦国時代、基本的に古墳は、軍事的な利用がされていたと考えられます。
 さて、そんな古江村から里道で谷筋を上る場所に、広い削平地と人工的な堀のような普請跡がありました。ここは有事の場合に、村人の避難場所であり、守りのための砦ではなかったかと考えられます。削平地は非常に広く、村人の他にも収容が可能な程、広い場所です。

そしてまた、その対岸、細河庄の中央部を余野川が流れ、古江村などからそれを超えた先に五月山があります。五月山を中心に見た場合、その北側、池田城からは北側背後にあたる重要な場所に中河原村があります。
 その中河原村の背後の山の中に平坦地を設けてあり、そこに村人の避難地があったのではないかと思われる場所があります。ここは、古代寺院があったと考えられる場所で、その跡地を使って、何らかの施設を整えていた可能性があり、人工的に造成された広い地形が残っています。近年それらは、植木畑にもなっていますので、その区別をつけることも課題です。

古代寺院跡地と推定される場所の平坦地の人工的普請跡

中河原社の位置関係

中河原社とその周辺に拡がる広大な削平地(2025年4月撮影)

人工的な普請が認められる跡地の位置

伝等覚寺と思われる場所などの位置関係

伝等覚寺跡(伝古御坊?)と思われる現状(2025年5月撮影)

一方で、摂津池田氏の本拠である、池田城は五月山南側にあり、なだらかに標高を下げつつ丘陵地を経て平らな地形となっていきます。
 池田城は、この地形を巧みに利用し、川や丘、谷を使って防御構想を組んでいたと考えられます。それに沿って城跡があり、また、史料上からもその範囲が想定されます。また、この川の外側にも縁故地や城館跡などを設けており、橋頭堡のようないくつも設定して、強固な防御態勢を敷いていたと思われます。

摂津池田城の南側の川を利用した防衛ライン構想の想定


追伸:今回、の調査では、 I さん、N さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)へ戻る

摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページへ戻る