2015年3月4日水曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)

織田政権の支配地域では、国毎に貫や石の高表示が存在していた。これは、当時の市場と地域の事情もあり、それを容認していた事にもなる。
 中世においては、荘園年貢の代銭納が発達しており、それは遠隔地からの現物輪送の困難さにも起因していた。また、室町中期以降、畿内近国は首都市場圏ともいわれる巨大なマーケットとなっており、全国の市場の中心的地位を占めていた。
 例えば、応永14年(1407)と翌年の山科家財政状況が分析 *5されている。この年貢の大部分は代銭納であるが、美濃・紀伊・丹波・播磨など畿内近国は現物納が行われている。このように遠隔地からは代銭納を行わせ、畿内・近国からは現物で収納させているのは、京都での年貢物販売と交換による、地域差からの利潤も含める仕組みができ上がっていたためでもある。こういった流通経済の情況を前提として、自己の所領を統一的に表し、「高」の掌握を行った。
 織田政権は、尾張・美濃・伊勢において、貫高を採用していた。これに対し、石高を採用していたのは、京都を中心とする首都市場圏で、それは米を主とする高表示となっていた *6
 それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した *7
 この政令のため京都へ米が入らず、市場が混乱。この事は、米に内包された商品価値による「貨幣」的性格を現していると考えられている。また、信長の本拠であった岐阜では、この撰銭令が特に厳格に行われた事もあって悪銭が集中、商売が停止してしまう事態ともなっていた。
 信長による撰銭令は、金銀銭の規定など経済政策を多面的に展開して、問題解決を図ろうとしたが、流通経済においては混乱を招いただけに終った。
 随って、この撰銭令は貫徹されず、結局、米による取引がなされるようになり、織田政権はこれを容認せざるを得なくなる。その伝統的・社会的に安定した価値は、確実な流通手段となっていたのである。元々首都市場圏の発達において、米の商品化は進んでおり、それが畿内近国における「石」高の基盤になったと考えられている。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(7)前掲註(5)、「二 銭と米の流通」(第一章 第一節)。





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