質問がありましたので、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(前編)です。ご活用下さい。
近年、少しずつ知られるようになりました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)ですが、この合戦は、単なる地域戦ではなく、将軍義昭・織田信長政権に対して、政局を変える事になった大戦でした。
「白井河原合戦」とは、後年につけられた名前で、毛利家中でまとめられた『陰徳太平記』や豊後竹田家の中川家でまとめられた一家記(中川史料集)などで使われた言葉です。その時の既述が、順送りで現代に伝わっています。当時は、「郡山合戦」「宿久河原合戦」と呼ばれ、概ね実際と近い場所を呼称としています。
合戦場所の呼称、江戸時代に書かれた、物語風の脚色が、白井河原に焦点を当てるため、幣久良山(てくらやま)眼下の川が主戦場のように意識されているのですが、これは事実からすると、違います。
主戦場は、あくまで幣久良山から西側の約2キロ程の地点です。幕府方大将の和田惟政は、ここで戦死しました。和田惟政の一団約200名は、三好三人衆方池田勢の鉄砲300丁の斉射を受けて、対戦した時点で、ほぼ壊滅状態でした。池田方は、囮として前哨させた荒木村重一千名程を前に立て、和田方を引き出し、西側に出てきたところで、丘に隠していた二千名が現れ、ここで鉄砲の斉射が行われます。
以下、当時の様子の記録、抜粋です。
『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰
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(前略)翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)
総督(和田)は大臚勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ、又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時、城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。(中略)敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワ(約2キロメートル)の所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。
彼は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。
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この結果、和田方は、地域統治ができなくなり、そのまま一気に、京都への侵攻が現実味を帯びました。その結果、京都防衛の拠点、勝龍寺城(京都府長岡京市)の大幅な防備強化を行い、現在の城の形態は、この頃に起源があるとの見解を示しています。
また、この大合戦の周辺環境も将軍義昭・織田信長政権の空白で、弱り目でした。以下、箇条書きです。
- 伊勢長島での本願寺門徒の蜂起(5月) ※本願寺衆の各地での蜂起
- 松永久秀の反幕府行動の活発化(5月)
- 幕府方毛利元就死亡(6月)
- 六角承禎など近江国内で活動を活発化(7月)
- 比叡山焼き打ち(9月)
この情況で、白井河原合戦は行われており、後に明智光秀によって起こされる「本能寺の変」に近い意図がありました。相手の弱り目で、大挙決戦を挑む。池田衆は多分、この情況(将軍義昭・織田政権の)を情報として知っており、この大きな流れを作っていたのが、近衛前久でした。この時は、大坂本願寺内に居り、全体を繋ぐ役割と地位にいたようです。
兎に角、この白井河原合戦前後で、地域統治のための多くの人材を失い、将軍義昭・織田信長政権は、京都確保が難しくなり、9月の比叡山焼き打ちは、この事態打開のため、強硬策に出たと考えられます。戦争は、人材を失う事が策としての難点です。