摂津国豊能郡高山村出身とされる高山右近は、非常に有名でありながら、謎の多い武将でもあります。
荒木村重の家臣となり、有力な武将となる以前については、詳しく判っていません。そんな高山右近が、元亀2年8月28日に行われた白井河原合戦とそこに至る活動に関わっている事が、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した報告書と、彼が後に編纂した『フロイス日本史』の中に記述されています。
ただ、フロイスは外国人であるために、起きた出来事をその意味を含めて正確に把握しているとも言えず、また、敵味方の主観的な見方も極端なところがあって、この記述のみで全てを言い表しているとはいえないのも事実です。他の記録類も同様に、「真実とは何か」という、そもそもの価値をどう定義するかにもよるのですが、やはりそれは対象についての記録を全て見比べる事でのみ真実の描写が可能であり、本来、記録とは、自分(記録者)の目線以上でも、以下でも無いのです。
特に合戦という出来事については、残った記録と地形・気象、それらを取り巻く背景(政治・経済・権力など)を総合的に見る事で、「その時」が見えて来るのだろうと思います。真実とは、それでなければ見えないものと感じます。調査不足、それから自分の対象への偏見、無学のある内は、いくらそれについて語ろうとも矛盾が多く、決して真実に至る事ができません。
これは他のどんな分野でも同じ事が言えると思います。その探求が、いわゆる「科学」であり、歴史の分野は、その元は科学であって、私個人的には「歴史科学」と捉えています。
前置きが長くなりました。高山右近と白井河原合戦についての本題に移ります。
『フロイス日本史』などによると、高山右近には男子の兄弟があったようで、その一人が元亀2年(1571)7月頃に戦死しているようです。
これについて『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』や『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』には、詳しく記述されています。
先にも触れたように、フロイスは外国人であるために、民俗性や五畿内特有の習慣等を踏まえていない場合や記憶違いなども記述に多々見られます。ですので、他の日本側の史料(資料)と照らし合わせる事で、その間違いを補正する事ができます。
それから更に、フロイスの元の記述は外国語です。それを訳してもらったものを私達は資料として読んでいるのですが、その訳の感覚も時代や担当者などの人によっての違いがあります。それらの要素も補正する必要があります。
先ず、日本側の当時の資料群を見、その時に何があったのか、フロイスの記述の空白と間違いを補う元にしたいと思います。それに並行し、『フロイス日本史』などにある関連部分を、それぞれ抜き出してみます。同じ部分を『耶蘇会士日本通信』から抜き出して比較してみたいと思います。
このテーマも結構長くなりそうなので、いくつかに分けて述べてみたいと思います。
論点の主要素となる、ルイス・フロイスの記述の分析の前に、日本側の各資料から白井河原合戦に至る背景を見てみたいと思います。
日本側に残る資料では、元亀2年中の和田惟政・池田衆・高槻方面、その関連について時間経過を追ってみたいと思います。
--(元亀2年中の時間経過)---------------------------------
2/5 三好三人衆方本願寺光佐、和田惟政との誼について返信せず
2/5 三好三人衆方荒木村重など池田衆、堺商人の茶席へ出座
3/5 三好三人衆被官木村宗治、松永久秀などを訪ねる
3/19 三好三人衆方池田正秀など池田衆、堺商人天王寺屋の茶席へ出座
3/22 三好三人衆など、河内国若江城の松永久通を訪ねる
5 和田惟政、三好三人衆方安威城を落す
6/2 三好三人衆方細川晴元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
6/6 三好三人衆方松永久秀、「渡出」などへ音信
6/10 和田惟政、吹田城を落とす
6/中旬 和田惟政など、原田城を落とす
6/23 和田惟政、牛頭天王(現原田神社)へ禁制を下す
6/24 三好三人衆方池田衆、湯山年寄中へ宛てて音信
7/8 和田惟政、三淵藤英などとともに山城国木津へ出陣
7/11 和田惟政、大和国へ入る
7/12 和田惟政、奈良周辺で交戦
7/15 三好三人衆方松永久秀、高槻方面へ出陣
7/20 和田惟政、高槻城へ戻る?
7/21 和田惟政、京都へ入る
7/22 和田惟政、高槻城へ戻る
7/22 三好三人衆方松永久秀、高槻方面から撤退
7/23 三淵藤英・細川藤孝、高槻方面へ出陣
7/26 三淵藤英、南郷春日社に宛てて禁制を下す
7/26 三淵藤英、南郷春日社目代へ音信
7/下旬 細川藤孝・池田勝正など、池田城を攻める
8/1 三淵藤英、牛頭天王へ禁制を下す
8/2 池田勝正、原田城へ入る
8/3 三好三人衆方松永久秀、大和国辰市で大敗
8/7 細川藤孝など、筒井順慶の援軍として奈良へ出陣
8/18 和田・伊丹勢、池田周辺で交戦
8/21 三好三人衆方池田衆、出陣の触れを出す
8/22 三好三人衆方池田衆、東へ向けて出陣
8/27 和田惟政、幣久良山に陣を取る
8/28 白井河原合戦
8/28 三淵藤英、高槻城へ入る
8/29 三好三人衆方池田勢、白井河原周辺諸城を攻撃
9 総持寺が焼ける
9/4 三好三人衆方淡路衆、大坂周辺などへ上陸
9/6 三好三人衆方池田勢、幕府勢に局地的に敗北
9/9 交渉が成立し、池田・幕府勢と停戦となる
9/13 織田信長、京都へ入る
9/中旬 吹田城、三好三人衆方池田方に復帰か
9/18 織田方島田秀満勢、摂津国へ出陣
9/24 明智光秀、摂津国へ出陣
9/25 一色藤長など、摂津国へ出陣
9/30 三淵藤英、奈良へ出陣
10 三好三人衆方中川清秀、新庄城へ入る?
10/14 織田信長、細川藤孝へ勝竜寺城の普請について指示
11/1 織田信長、高槻城へ替番の兵を入れる事について指示
11/8 三好三人衆方池田三人衆、摂津国豊嶋郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
11/14 織田信長、伊丹忠親へ通路の封鎖を命じる
11/14 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
11/14 三好三人衆方松永久秀、河内国佐太・金田の陣にて公卿近衛前久をもてなす
11/24 三好三人衆方池田衆の池田正秀所有の茶器、堺商人の茶席で披露される
12/6 三好三人衆方松永久秀、河内国十七カ所内波志者に在陣
12/13 三好三人衆方池田正行、今西橘五郎へ音信
12/20 和田惟長、摂津国神峯山寺寺家中へ宛てて音信
12/20 和田惟長一族同名惟増、摂津国神峯山寺同宿中へ宛てて音信
-----------------------------------
上記の出来事の意味を簡単にお伝えしておきたいと思います。
この年の初頭、三好三人衆が幕府・織田信長方に反撃するために調略を行っており、それが成功します。2/5と3/19の茶会、3/5と3/22の三好三人衆と同被官木村宗治の行動は、それによるものです。また、茶会も三好三人衆方と池田衆を更に深く結びつけるための会席です。この時、荒木村重が池田家政の中心に就いた事を三好三人衆へ紹介したものと思われます。いわば、出世の足がかりとなった会合でした。様々な打ち合わせも行われた事でしょう。
その後、5月頃から目立った行動が起き始め、軍事衝突が再び起こります。特に6月からは和田惟政が積極的に三好三人衆方の池田衆を攻めます。これは京都とその西側地域、またそれに続く海への連絡路を塞ぐカタチとなっている池田を制圧する必要があっため、幕府・織田方の当面の集中攻撃対象になっていたものと思われます。
一方、元亀2年は、近江国方面で、幕府・織田方は大規模な戦略行動(戦争)があって、京都周辺へ兵を割く余裕が無かったために、和田は伊丹衆と共に東奔西走します。
池田衆を攻めつつも、奈良方面へも出陣し、松永久秀などの三好三人衆方勢力にも対応しなければなりませんでした。それが、7/8・7/11・7/12の行動です。
さて、白井河原合戦に至る環境を見てみます。
6月10日頃、和田は吹田城を落しているようで、千里丘陵の南側から西へ進み始めます。同月23日、和田は、牛頭天王社へ禁制を下します。これは三好三人衆方の池田衆にとって、非常に深刻な出来事で、池田氏と繋がりの深い(被官化していたいと考えられる)原田氏の拠点、原田村の祭神が牛頭天王です。ここに幕府方の禁制が下されたという事は、池田氏の主要支配地域が和田方に移った事を示します。
その後、史料は暫く途切れますが、7月23日にまた、現れ始めます。
その前日、和田が京都から高槻城に戻ると、幕府は三淵大和守藤英・細川兵部大輔藤孝を出陣させて、増援を行います。この時に池田勝正もこれに従軍しています。幕府方は池田城を攻めるための決定がなされ、そういった作戦が立てられていてものと思われます。
同月26日、三淵は南郷春日社に宛てて禁制を下し、今西家にも音信しています。この事もまた、池田城に居る池田衆にとっては深刻な出来事です。池田氏はこの今西家の代官請けを代々続けており、主要な収入源の一つです。この関係が絶たれたのですから、一大事です。
また、池田家当主の復帰を目指す池田勝正にとっても、勝正の名で禁制を下す事ができず、一旦は幕府に接収されるカタチになっている事から、勝正もこの状況に将来を憂慮した事でしょう。
同時にこの頃、池田城は攻撃されていた事と思われます。禁制が下されているという事は、その付近で戦闘等が行われるなどして、無政府状態になっていたりしたのでしょう。
翌月1日、更に三淵により、牛頭天王社に再度の禁制が下されています。
7月下旬から8月上旬にかけて、池田領内に幕府勢力が大規模に入り、交戦が行われていたようです。結局のところ、池田城が落ちなかったため、幕府方の池田勝正は池田城の監視のために、付け城的役割を帯びた原田城へ入ります。
他方、池田城の池田衆は激しく抵抗したものと思われます。内部の事と地形をよく知る池田勝正を付けて大規模に攻めても落ちなかったのですから、そのような状況が想像できます。
この一連の交戦の中で、高山右近の兄弟(高山飛騨守の子)が戦死したのではないかと思われます。
池田衆は、6月から7月の時点では、東へ大規模に進む余裕は無かったと思われますので、高山右近の兄弟は、原田から吹田のあたりで戦死したものと思われます。
8月2日、池田勝正が原田城に入ってからは、大きな戦闘行動は無かったようです。1週間から10日程でしょうか。また、三淵と細川は京都等へ戻ったようです。また、現在の太陽暦では、9月6日頃で、そろそろ収穫の頃です。
それからまた和田は、伊丹衆とも連携を考え、作戦の練り直しを行っていたようです。どのような規模か、また攻め方などは詳しく判りませんが、和田は池田城を続けて攻めようとしていた事が判ります。
これに対し、池田衆も反撃の準備を進めていたようです。同月18日、和田・伊丹勢は200名もの戦死者を出す損害を受けています。池田衆は、この時点で反撃の体制が整っていたようです。
白井河原合戦は、この流れの中で起きたもので、より長い期間を通じてこの合戦を見れば、一連の闘争の「決戦」だったと、捉える事ができると思います。
フロイスの記述にある和田は、優位性を急激に崩された後の立て直しに窮した姿だったのだろうと思います。個人的には、そのように分析しています。また、その記述は文字としては繋がっていますが、そこにある要素は、必ずしも連続した出来事ではありません。断片的なものが一つになっています。
それからまた、この時の当主は高山飛騨守ですが、高山父子はこの戦いの中で、「新たに築造した城に籠って生き延びた」とある事から、その頃から城造りの才能に長けた一面があり、それが幸運にも命を守ったのかもしれません。はたまた、この時の事も含め、後に城造りに関して世に名を知られるようになるための、才能を開花させるキッカケになった出来事だったのかもしれません。
次は、フロイスの記述をその視点で確認してみたいと思います。
荒木村重の家臣となり、有力な武将となる以前については、詳しく判っていません。そんな高山右近が、元亀2年8月28日に行われた白井河原合戦とそこに至る活動に関わっている事が、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した報告書と、彼が後に編纂した『フロイス日本史』の中に記述されています。
ただ、フロイスは外国人であるために、起きた出来事をその意味を含めて正確に把握しているとも言えず、また、敵味方の主観的な見方も極端なところがあって、この記述のみで全てを言い表しているとはいえないのも事実です。他の記録類も同様に、「真実とは何か」という、そもそもの価値をどう定義するかにもよるのですが、やはりそれは対象についての記録を全て見比べる事でのみ真実の描写が可能であり、本来、記録とは、自分(記録者)の目線以上でも、以下でも無いのです。
特に合戦という出来事については、残った記録と地形・気象、それらを取り巻く背景(政治・経済・権力など)を総合的に見る事で、「その時」が見えて来るのだろうと思います。真実とは、それでなければ見えないものと感じます。調査不足、それから自分の対象への偏見、無学のある内は、いくらそれについて語ろうとも矛盾が多く、決して真実に至る事ができません。
これは他のどんな分野でも同じ事が言えると思います。その探求が、いわゆる「科学」であり、歴史の分野は、その元は科学であって、私個人的には「歴史科学」と捉えています。
前置きが長くなりました。高山右近と白井河原合戦についての本題に移ります。
『フロイス日本史』などによると、高山右近には男子の兄弟があったようで、その一人が元亀2年(1571)7月頃に戦死しているようです。
これについて『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』や『耶蘇会士日本通信 下 -(西暦)1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書簡-』には、詳しく記述されています。
先にも触れたように、フロイスは外国人であるために、民俗性や五畿内特有の習慣等を踏まえていない場合や記憶違いなども記述に多々見られます。ですので、他の日本側の史料(資料)と照らし合わせる事で、その間違いを補正する事ができます。
それから更に、フロイスの元の記述は外国語です。それを訳してもらったものを私達は資料として読んでいるのですが、その訳の感覚も時代や担当者などの人によっての違いがあります。それらの要素も補正する必要があります。
先ず、日本側の当時の資料群を見、その時に何があったのか、フロイスの記述の空白と間違いを補う元にしたいと思います。それに並行し、『フロイス日本史』などにある関連部分を、それぞれ抜き出してみます。同じ部分を『耶蘇会士日本通信』から抜き出して比較してみたいと思います。
このテーマも結構長くなりそうなので、いくつかに分けて述べてみたいと思います。
論点の主要素となる、ルイス・フロイスの記述の分析の前に、日本側の各資料から白井河原合戦に至る背景を見てみたいと思います。
日本側に残る資料では、元亀2年中の和田惟政・池田衆・高槻方面、その関連について時間経過を追ってみたいと思います。
--(元亀2年中の時間経過)---------------------------------
2/5 三好三人衆方本願寺光佐、和田惟政との誼について返信せず
2/5 三好三人衆方荒木村重など池田衆、堺商人の茶席へ出座
3/5 三好三人衆被官木村宗治、松永久秀などを訪ねる
3/19 三好三人衆方池田正秀など池田衆、堺商人天王寺屋の茶席へ出座
3/22 三好三人衆など、河内国若江城の松永久通を訪ねる
5 和田惟政、三好三人衆方安威城を落す
6/2 三好三人衆方細川晴元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
6/6 三好三人衆方松永久秀、「渡出」などへ音信
6/10 和田惟政、吹田城を落とす
6/中旬 和田惟政など、原田城を落とす
6/23 和田惟政、牛頭天王(現原田神社)へ禁制を下す
6/24 三好三人衆方池田衆、湯山年寄中へ宛てて音信
7/8 和田惟政、三淵藤英などとともに山城国木津へ出陣
7/11 和田惟政、大和国へ入る
7/12 和田惟政、奈良周辺で交戦
7/15 三好三人衆方松永久秀、高槻方面へ出陣
7/20 和田惟政、高槻城へ戻る?
7/21 和田惟政、京都へ入る
7/22 和田惟政、高槻城へ戻る
7/22 三好三人衆方松永久秀、高槻方面から撤退
7/23 三淵藤英・細川藤孝、高槻方面へ出陣
7/26 三淵藤英、南郷春日社に宛てて禁制を下す
7/26 三淵藤英、南郷春日社目代へ音信
7/下旬 細川藤孝・池田勝正など、池田城を攻める
8/1 三淵藤英、牛頭天王へ禁制を下す
8/2 池田勝正、原田城へ入る
8/3 三好三人衆方松永久秀、大和国辰市で大敗
8/7 細川藤孝など、筒井順慶の援軍として奈良へ出陣
8/18 和田・伊丹勢、池田周辺で交戦
8/21 三好三人衆方池田衆、出陣の触れを出す
8/22 三好三人衆方池田衆、東へ向けて出陣
8/27 和田惟政、幣久良山に陣を取る
8/28 白井河原合戦
8/28 三淵藤英、高槻城へ入る
8/29 三好三人衆方池田勢、白井河原周辺諸城を攻撃
9 総持寺が焼ける
9/4 三好三人衆方淡路衆、大坂周辺などへ上陸
9/6 三好三人衆方池田勢、幕府勢に局地的に敗北
9/9 交渉が成立し、池田・幕府勢と停戦となる
9/13 織田信長、京都へ入る
9/中旬 吹田城、三好三人衆方池田方に復帰か
9/18 織田方島田秀満勢、摂津国へ出陣
9/24 明智光秀、摂津国へ出陣
9/25 一色藤長など、摂津国へ出陣
9/30 三淵藤英、奈良へ出陣
10 三好三人衆方中川清秀、新庄城へ入る?
10/14 織田信長、細川藤孝へ勝竜寺城の普請について指示
11/1 織田信長、高槻城へ替番の兵を入れる事について指示
11/8 三好三人衆方池田三人衆、摂津国豊嶋郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
11/14 織田信長、伊丹忠親へ通路の封鎖を命じる
11/14 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
11/14 三好三人衆方松永久秀、河内国佐太・金田の陣にて公卿近衛前久をもてなす
11/24 三好三人衆方池田衆の池田正秀所有の茶器、堺商人の茶席で披露される
12/6 三好三人衆方松永久秀、河内国十七カ所内波志者に在陣
12/13 三好三人衆方池田正行、今西橘五郎へ音信
12/20 和田惟長、摂津国神峯山寺寺家中へ宛てて音信
12/20 和田惟長一族同名惟増、摂津国神峯山寺同宿中へ宛てて音信
-----------------------------------
上記の出来事の意味を簡単にお伝えしておきたいと思います。
池田城を推定復元した模型 |
その後、5月頃から目立った行動が起き始め、軍事衝突が再び起こります。特に6月からは和田惟政が積極的に三好三人衆方の池田衆を攻めます。これは京都とその西側地域、またそれに続く海への連絡路を塞ぐカタチとなっている池田を制圧する必要があっため、幕府・織田方の当面の集中攻撃対象になっていたものと思われます。
一方、元亀2年は、近江国方面で、幕府・織田方は大規模な戦略行動(戦争)があって、京都周辺へ兵を割く余裕が無かったために、和田は伊丹衆と共に東奔西走します。
池田衆を攻めつつも、奈良方面へも出陣し、松永久秀などの三好三人衆方勢力にも対応しなければなりませんでした。それが、7/8・7/11・7/12の行動です。
原田神社 |
6月10日頃、和田は吹田城を落しているようで、千里丘陵の南側から西へ進み始めます。同月23日、和田は、牛頭天王社へ禁制を下します。これは三好三人衆方の池田衆にとって、非常に深刻な出来事で、池田氏と繋がりの深い(被官化していたいと考えられる)原田氏の拠点、原田村の祭神が牛頭天王です。ここに幕府方の禁制が下されたという事は、池田氏の主要支配地域が和田方に移った事を示します。
その後、史料は暫く途切れますが、7月23日にまた、現れ始めます。
その前日、和田が京都から高槻城に戻ると、幕府は三淵大和守藤英・細川兵部大輔藤孝を出陣させて、増援を行います。この時に池田勝正もこれに従軍しています。幕府方は池田城を攻めるための決定がなされ、そういった作戦が立てられていてものと思われます。
春日社の南郷目代今西家屋敷 |
また、池田家当主の復帰を目指す池田勝正にとっても、勝正の名で禁制を下す事ができず、一旦は幕府に接収されるカタチになっている事から、勝正もこの状況に将来を憂慮した事でしょう。
同時にこの頃、池田城は攻撃されていた事と思われます。禁制が下されているという事は、その付近で戦闘等が行われるなどして、無政府状態になっていたりしたのでしょう。
翌月1日、更に三淵により、牛頭天王社に再度の禁制が下されています。
7月下旬から8月上旬にかけて、池田領内に幕府勢力が大規模に入り、交戦が行われていたようです。結局のところ、池田城が落ちなかったため、幕府方の池田勝正は池田城の監視のために、付け城的役割を帯びた原田城へ入ります。
他方、池田城の池田衆は激しく抵抗したものと思われます。内部の事と地形をよく知る池田勝正を付けて大規模に攻めても落ちなかったのですから、そのような状況が想像できます。
この一連の交戦の中で、高山右近の兄弟(高山飛騨守の子)が戦死したのではないかと思われます。
池田衆は、6月から7月の時点では、東へ大規模に進む余裕は無かったと思われますので、高山右近の兄弟は、原田から吹田のあたりで戦死したものと思われます。
摂津原田城跡 |
それからまた和田は、伊丹衆とも連携を考え、作戦の練り直しを行っていたようです。どのような規模か、また攻め方などは詳しく判りませんが、和田は池田城を続けて攻めようとしていた事が判ります。
これに対し、池田衆も反撃の準備を進めていたようです。同月18日、和田・伊丹勢は200名もの戦死者を出す損害を受けています。池田衆は、この時点で反撃の体制が整っていたようです。
今西屋敷付近の田んぼ |
フロイスの記述にある和田は、優位性を急激に崩された後の立て直しに窮した姿だったのだろうと思います。個人的には、そのように分析しています。また、その記述は文字としては繋がっていますが、そこにある要素は、必ずしも連続した出来事ではありません。断片的なものが一つになっています。
それからまた、この時の当主は高山飛騨守ですが、高山父子はこの戦いの中で、「新たに築造した城に籠って生き延びた」とある事から、その頃から城造りの才能に長けた一面があり、それが幸運にも命を守ったのかもしれません。はたまた、この時の事も含め、後に城造りに関して世に名を知られるようになるための、才能を開花させるキッカケになった出来事だったのかもしれません。
次は、フロイスの記述をその視点で確認してみたいと思います。