旧暦8月28日は、今年のカレンダーで言うと、10月13日です。
旧暦の元亀2年8月28日は、太陽暦の10月13日です。そうです、白井河原合戦は、こんな季節に行なわれたのです。
数字だけ見ていると、「夏」ですが、収穫の時期、しかもこんなに涼しい時期に合戦が行なわれました。朝晩は、随分と寒いですよね。また、『言継卿記』など当時の日記史料を読みますと、京都も奈良も晴れていたようですので、摂津国中部、白井河原あたりも晴れていた事と思います。
歴史上の出来事を、現在に置き換えてみるのも、結構面白いというか、意義があります。
この合戦で、三好三人衆方池田衆の荒木村重や中川清秀は名を挙げ、近隣に知られた武将となっていきます。
白井河原合戦について、『陰徳太平記』の「白井河原合戦並びに高槻茨木両城合戦之事」を見てみます。
(前略)。かくて各先陣2陣と手配りし、荒木信濃守村重、先陣にぞ進みける。(中略)。相続く士には、中川瀬兵衛尉清秀・池田久左衛門尉知正・安部野仁右衛門・星野左衛門尉・山脇加賀守・同名源太夫・野村丹後守・藤井加賀守・荒木善太夫・同名善兵衛・伊丹勘左衛門・川原林越後守・秋岡次郎太夫・本庄新兵衛・粟生伊織・安都部弥一郎・北の河原(北河原?)新五・同名与作・同名与一右衛門・福田午の介・佐伯庄衛門など皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。此の外二十一人衆に、池田清貧斎を始め、老功の士、勝正の幕下に属して、後陣を堅め、都合2,500余騎、上郡の馬塚に屯を張る。両陣白井河原を隔てて、互いに螺を吹き立て、敵の模様を窺いける。(後略)。
また、『耶蘇会士日本通信』の「1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰」にはこうあります。
(前略)。翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)。彼(和田惟政)は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督(惟政)の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)。総督の首級は他の武士一同のと共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり、とあります。
旧暦8月28日に行われた白井河原合戦に破れた和田方は、本拠の高槻城に入り、防戦の順日を行います。また、幕府方はこの報に接し、三淵大和守藤英を急派させています。
◎摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)
旧暦の元亀2年8月28日は、太陽暦の10月13日です。そうです、白井河原合戦は、こんな季節に行なわれたのです。
数字だけ見ていると、「夏」ですが、収穫の時期、しかもこんなに涼しい時期に合戦が行なわれました。朝晩は、随分と寒いですよね。また、『言継卿記』など当時の日記史料を読みますと、京都も奈良も晴れていたようですので、摂津国中部、白井河原あたりも晴れていた事と思います。
歴史上の出来事を、現在に置き換えてみるのも、結構面白いというか、意義があります。
この合戦で、三好三人衆方池田衆の荒木村重や中川清秀は名を挙げ、近隣に知られた武将となっていきます。
白井河原合戦について、『陰徳太平記』の「白井河原合戦並びに高槻茨木両城合戦之事」を見てみます。
(前略)。かくて各先陣2陣と手配りし、荒木信濃守村重、先陣にぞ進みける。(中略)。相続く士には、中川瀬兵衛尉清秀・池田久左衛門尉知正・安部野仁右衛門・星野左衛門尉・山脇加賀守・同名源太夫・野村丹後守・藤井加賀守・荒木善太夫・同名善兵衛・伊丹勘左衛門・川原林越後守・秋岡次郎太夫・本庄新兵衛・粟生伊織・安都部弥一郎・北の河原(北河原?)新五・同名与作・同名与一右衛門・福田午の介・佐伯庄衛門など皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。此の外二十一人衆に、池田清貧斎を始め、老功の士、勝正の幕下に属して、後陣を堅め、都合2,500余騎、上郡の馬塚に屯を張る。両陣白井河原を隔てて、互いに螺を吹き立て、敵の模様を窺いける。(後略)。
また、『耶蘇会士日本通信』の「1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰」にはこうあります。
(前略)。翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)。彼(和田惟政)は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督(惟政)の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)。総督の首級は他の武士一同のと共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり、とあります。
旧暦8月28日に行われた白井河原合戦に破れた和田方は、本拠の高槻城に入り、防戦の順日を行います。また、幕府方はこの報に接し、三淵大和守藤英を急派させています。
◎摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)