「東大寺大仏殿の戦い」などと呼称される永禄10年10月10日に至る、一連の奈良市街の戦いについてですが、これに池田勝正も参戦していました。この流れの中で気になるのが「マメ山」です。
Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を多聞山城の北800メートル程のところとしているのが通説になっているようです。確かにここには今も奈良豆比古神社があり、その関係でマメ山と呼ばれていたのかもしれません。
※「戦国合戦大事典」は間違いが多く、個人的にはあまり参考にしていません。
また、近鉄奈良駅のすぐ北側に奈良女子大学があって、駅からその大学までの間に大豆山町があります。どちらに池田勝正は居たのでしょうか?
近日にまた、詳しく調べたいと思いますが、私は今のところ、池田勝正が多聞山城の北側800メートルの「マメ山」なる場所に永禄10年5月時点で陣を取る事は不可能だったのではないかと考えています。その頃の状況を見ると、佐保川をはさんで一進一退で、三好三人衆方が圧倒的優位で多聞山城を囲んでいたわけではありません。
また、奈良統治の拠点で、巨額をつぎ込んで築いた松永久秀自慢の堅城であった多聞山城から僅か800メートル(8町弱)の位置に、三好三人衆方がこの時点でやすやすと進めるとは考えられません。
この一連の動きについて記録が詳しい『多聞院日記』を見ると、5月28日になって筒井順慶方の大和国民秋山衆が多聞山城へ前進を強行し、24〜25間(約45メートル)に迫ったようでした。しかし、これは佐保川をはさんでの事と思われ、距離は近いですが要害性を決定的に砕いたものではありませんでした。
一方、勝正も多聞山城を守る天然の要害である佐保川を越える事の重要性を理解しており、5月18日に松永方の宿院城に夜襲を敢行しますが、失敗。100名程の足軽を束ねる大将の下村重介を戦死させてしまいます。宿院城は佐保川を渡らせないために強力な守りの橋頭堡でした。城は現在の奈良女子大の場所にありました。
更に、雲井坂(柚留木町付近)にも城があり、街道から多聞山城へ進む事を阻んでいました。この城から、宿院城までは北西へ600〜700メートルの距離で、地形的にもマメ山の丘陵の南東縁です。
ですので、三好三人衆勢は、この時点で佐保川を渡る事ができていない筈です。当時の佐保川は現在よりも水量が多く、「堀」としての役割を十分に持っていたようです。ですので当然、本城である多聞山城にも接近する事はできませんし、その背後に回り込む事など不可能です。
更に、松永は守りをそんなに簡単に考えていません。多聞山城から北へ1里半程の間に木津城や鹿背山城などをつくり、木津川を防衛ラインとして一体化させた防衛概念を作り上げていたようです。近年の鹿背山城の発掘調査では、非常に堅固で大型の城である事がわかっており、松永久秀の手によるものであろうと考えられています。また更に多聞山城の西側の超昇寺城や信貴山城なども相互に防衛線を構築していました。連絡と連携のための様々な工夫も施されていたと考えられます。
状況的に、三好勢は木津川を超えて北から多聞山城に近づく事はこの時点では不可能であったと考えられます。それが、可能になったのは永禄11年も夏以降になってからで、永禄10年時点では、多聞山城に近づく事は無理で、堅牢さもまだまだ十分にあった筈です。当然、勝正も多聞山城の北800メートルの位置に陣を進める事もできなかったと思われます。
ということで、永禄10年5月23日に池田勝正が陣を取ったマメ山は、宿院城の押さえとしての策だったと考えられます。そして勝正の宿所は場所的に近い西方寺だったのでしょう。それは丘陵の西端です。ここからは飯盛山城方面も目視でき、狼煙などの連絡が可能です。
そして今も「大豆山町」との地名を残す場所もありますが、当時のその状況については不明です。
写真(1):佐保川の様子
写真(2):油留木町にある「雲井阪」の碑
写真(3):木津川市の鹿背山城跡登城口にある西念寺
写真(4):崇徳寺のある大豆山町の通り
Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を多聞山城の北800メートル程のところとしているのが通説になっているようです。確かにここには今も奈良豆比古神社があり、その関係でマメ山と呼ばれていたのかもしれません。
※「戦国合戦大事典」は間違いが多く、個人的にはあまり参考にしていません。
また、近鉄奈良駅のすぐ北側に奈良女子大学があって、駅からその大学までの間に大豆山町があります。どちらに池田勝正は居たのでしょうか?
近日にまた、詳しく調べたいと思いますが、私は今のところ、池田勝正が多聞山城の北側800メートルの「マメ山」なる場所に永禄10年5月時点で陣を取る事は不可能だったのではないかと考えています。その頃の状況を見ると、佐保川をはさんで一進一退で、三好三人衆方が圧倒的優位で多聞山城を囲んでいたわけではありません。
また、奈良統治の拠点で、巨額をつぎ込んで築いた松永久秀自慢の堅城であった多聞山城から僅か800メートル(8町弱)の位置に、三好三人衆方がこの時点でやすやすと進めるとは考えられません。
この一連の動きについて記録が詳しい『多聞院日記』を見ると、5月28日になって筒井順慶方の大和国民秋山衆が多聞山城へ前進を強行し、24〜25間(約45メートル)に迫ったようでした。しかし、これは佐保川をはさんでの事と思われ、距離は近いですが要害性を決定的に砕いたものではありませんでした。
一方、勝正も多聞山城を守る天然の要害である佐保川を越える事の重要性を理解しており、5月18日に松永方の宿院城に夜襲を敢行しますが、失敗。100名程の足軽を束ねる大将の下村重介を戦死させてしまいます。宿院城は佐保川を渡らせないために強力な守りの橋頭堡でした。城は現在の奈良女子大の場所にありました。
更に、雲井坂(柚留木町付近)にも城があり、街道から多聞山城へ進む事を阻んでいました。この城から、宿院城までは北西へ600〜700メートルの距離で、地形的にもマメ山の丘陵の南東縁です。
ですので、三好三人衆勢は、この時点で佐保川を渡る事ができていない筈です。当時の佐保川は現在よりも水量が多く、「堀」としての役割を十分に持っていたようです。ですので当然、本城である多聞山城にも接近する事はできませんし、その背後に回り込む事など不可能です。
更に、松永は守りをそんなに簡単に考えていません。多聞山城から北へ1里半程の間に木津城や鹿背山城などをつくり、木津川を防衛ラインとして一体化させた防衛概念を作り上げていたようです。近年の鹿背山城の発掘調査では、非常に堅固で大型の城である事がわかっており、松永久秀の手によるものであろうと考えられています。また更に多聞山城の西側の超昇寺城や信貴山城なども相互に防衛線を構築していました。連絡と連携のための様々な工夫も施されていたと考えられます。
状況的に、三好勢は木津川を超えて北から多聞山城に近づく事はこの時点では不可能であったと考えられます。それが、可能になったのは永禄11年も夏以降になってからで、永禄10年時点では、多聞山城に近づく事は無理で、堅牢さもまだまだ十分にあった筈です。当然、勝正も多聞山城の北800メートルの位置に陣を進める事もできなかったと思われます。
ということで、永禄10年5月23日に池田勝正が陣を取ったマメ山は、宿院城の押さえとしての策だったと考えられます。そして勝正の宿所は場所的に近い西方寺だったのでしょう。それは丘陵の西端です。ここからは飯盛山城方面も目視でき、狼煙などの連絡が可能です。
そして今も「大豆山町」との地名を残す場所もありますが、当時のその状況については不明です。
写真(1):佐保川の様子
写真(2):油留木町にある「雲井阪」の碑
写真(3):木津川市の鹿背山城跡登城口にある西念寺
写真(4):崇徳寺のある大豆山町の通り