同テーマ内のその7「池田勝正追放後に別の当主を立てたか」でも提起した概念ですが、その続報です。
その7での記事中でご紹介しました、史料3から5までの署名者である民部丞某は、同一人物である事が、判明しました。それら全ての花押が一致しました。再度、以下にその史料を掲示します。
-(参考史料1)-------------------------
◎史料3:元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てた禁制
※島本町史(史料編)P443など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
◎史料4:元亀元年9月付けで、民部丞某が摂津国多田院へ宛てた禁制
※川西市史4(資料編1)P456など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
◎史料5:元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てた禁制
※箕面市史(資料編2)P414
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
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それで、同じく、その7の記事でご紹介しました史料1に登場する民部丞ですが、この人物と既出の参考史料3から5で署名している民部丞なる人物とは、同一ではないかとの可能性は高くなるように思います。
-(参考史料2)-------------------------
◎史料1:元亀3年らしき11月6日付け、将軍義昭の上野中務大輔秀政へ宛てた御内書
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
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ただ、それらの史料の人物を、同一として完全一致させる断定的証拠も今のところ無いため、慎重に扱う必要はありますが、史料3から5の民部丞の署名が一致した事で、その可能性としては極めて高くなったといえます。
それからちなみに、この民部丞の禁制に関する副状も見当たらない事から、自立的な強い権力保持者だったかもしれません。
元亀3年冬の時点で、池田一族衆が民部丞を当主に再び立て、将軍義昭へ加担する事を申し出たとすれば、その後の池田衆としての動きは、民部丞に焦点をあてて行く事になります。
将軍義昭と織田信長が不和となり、双方は京都で争います。この時の記録に摂津池田衆の動きが様々な史料に頻出します。これについては、追々詳しくご紹介するつもりです。
史料上で、民部丞のある程度の行動が明らかになった事で、それまでバラバラに存在していた要素が繋がって、道筋がつけられるようになったのは、一歩前進です。
ただ、克服すべき課題もまだあります。以下に箇条書きにしてみます。
◎民部丞の元亀2〜3年夏までの史料上の動きが見られない。
◎池田一族が、上記参考史料2の中で将軍義昭に伝えた民部丞なる人物と同参考史料1の資料群に署名している民部丞なる人物との一致は、完全に結びつける史料は今のところ無い。
◎民部丞の池田家中での地位や活動が不明である。
◎民部丞と池田知正との関係が、否定も肯定もできない。
これらの課題を抱えていますので、花押の一致が先入観にならないよう、慎重に民部丞の行動をこれからも史料で追いたいと思います。
一方で、民部丞が池田家に関連すると見られる状況証拠もあります。禁制の内容を見比べてみます。池田家と関係の深い箕面寺に対して下した、歴代池田当主とその後に摂津守護格となった荒木村重の禁制を見てみます。
先ずは、天文20年5月付け、池田(右)兵衛尉長正が下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411
-(史料1)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の河持ち制するの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩於者、制す物取られるべく候。尚以て是非及はば、成敗加え罪科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
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続いて池田八郎三郎勝正が、永禄7年2月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P413
-(史料2)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨背き輩あ、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
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時代が代わって、ここから以下は荒木摂津守村重が、天正3年11月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P414
-(史料3)-------------------------
一、山林竹木剪り取り事付き所々散在盗み剪り事、一、寺家寺領於新儀非例申し懸け事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若しこの旨相背き輩在り之於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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上記史料3についての副状です。荒木村重一族同苗平大夫重堅が、天正3年11月26日付けで当郡中所々散在に宛てた音信(折紙)です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28
-(史料4)-------------------------
箕面寺山林盗み取りの者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以って彼の寺へ村重御制札出し置かれの間、堅く停止為すべくの旨候。万一異儀於者成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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同じく村重の、天正3年11月26日付け音信です。
※箕面市史(資料編2)P414、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28
-(史料5)-------------------------
一、当寺両座の間、先規の如く仰せ付けられるべく事、一、寺役等同前為すべく事、一、諸事寺法堅固に仰せ付けられるべき事、右条々寺家法度に任せ申し付けられるべく候。若し、相背かれ族之在る於者、堅く寺中仰せ付け為されるべく候。仍て件の如し。
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上記史料5についての副状です。荒木重堅が、天正3年11月26日付けで箕面寺年預御坊参御同宿中に宛てた音信です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28
-(史料6)-------------------------
御寺家御法度儀に付きて摂津守一書相調え入れせしめ候。各有様為に仰せ付けられるべく候。万一異儀申され仁之在り於者、この方へ仰せ越されるべく候。堅く申すべく候。恐々謹言。
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この箕面寺は、池田家とも縁の深い寺で、政治的な画期では必ず音信し、確認事項を交わすなどしています。また、禁制は全て直状形式です。直状は、当主自らが発行する形式で、文末が「仍て件の如し」となっています。
池田一族が没落すると、代わって台頭してきた荒木村重が音信しています。村重と箕面寺は村重の池田家中時代から既知の仲でしたので、再確認とった音信といえます。基本的な事は踏襲し、もし不都合があれば調整するともいっています。
それから内容では、箕面寺の自治権も認めているようです。それ以前と少し違う感じがするのは、「摂津守(村重)統治下での」といったところが明らかにされているところです。
さて、話しを池田家統治下に戻します。
そのように箕面寺へ宛てて下された禁制の内容は、前例を踏襲されていて、それを発行できる事自体が、権限の継承と考えられますので、長正から民部丞までは、そういった流れがあったと考えられます。
そこで視点を少し変えて、江戸時代に書かれた『荒木略記』という伝承資料を見てみます。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P2
-(伝承資料1)-------------------------
「荒木略記」荒木信濃守条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させ、その子息直正と申し候を取り立て、大将に仕るべくとて、勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
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続いて、『陰徳太平記』という伝承資料を見てみます。
※陰徳太平記4-P53 (米原正義校注)
-(伝承資料2)-------------------------
「陰徳太平記」三好勢摂州渡海之事:
(前略)。かかりける所に、池田勝正は、元亀元年6月18日、同名豊後守、同周防守2人を生害させて、其の身は何国(いずくに)共なく出奔せり。さるに因りて跡に残る池田の一門、並びに家老諸士等十方(とほう)に暗(く)れて居たりければ、為方(せんかた)なうして頓(やが)て阿波国へ使いを遣わし、御味方に参るべく候間、不日に御渡海候へと云い送る。(後略)。
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こういった伝承にも元亀元年6月の池田家内訌の事が取り上げられているのですが、『荒木略記』には、勝正を追放した後に、別の当主を立てたとあります。
これまで(というか今でも)、伝承資料は信用性が低いとして、始めから相手にされない傾向にありますが、その割には都合よく引用される事が多々あります。
しかし、平成の世である今、そんな事をいつまでも続けてよいとは、個人的には考えていません。どの程度正確に伝えているのかも測るべきだと思います。自分で調べてみて感じる事は、何よりも、現に、ある程度の方向性は正しい場合が多いです。これらの事を現代風に例えるなら、伝承資料とは「証言」と捉えてもいいのではないかと思います。
この元亀元年6月の池田家内訌について、上記の2つの伝承資料は、正確に伝えています。細部に若干の「狂い」はありますが、現存している他の史料を丹念に見れば、それらしき動きをしている人物が確認できました。それが「民部丞」に関する史料群です。
今のところ、完全一致という訳ではありませんが、手掛かりとするには非常に有力な要素と思います。ですので、始めに少し触れました、元亀4年の将軍義昭と織田信長の京都での闘争について、池田衆の動きの輪郭を示す事ができるようになります。
私自身も、その頃の池田家中の核がどこにあるのかが掴めなかった事から、理解が混乱していたのですが、上記の想定の下で、再度見直していきたいと思います。
結論としては、元亀元年6月の池田家内訌で、勝正を追放した直後、伝承資料通りに池田家中は、一旦、新たな当主を立てたと考えられます。