2020年11月10日火曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十一回「逃げよ信長」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十一回「逃げよ信長」2020.11.8 放送分です。

 

◎概要 -----------
今回もまた結構、ファンタジー色の強い作りでした。大将があんなに取り乱すなんてあり得ないと思いませんか?はい、あり得ません。ダメ押しはこの辺にしておきます。しかも、信長は逃げたのではありません。

さて、今回も何と!池田勝正の登場です!!!名前だけ。

池田勝正の文字だけの登場シーン


事実はどうだったかというと、皆さまにしつこくお伝えしている通りですが、角度を変えて、簡潔にそれらの要素をお伝えしようと思います。
 明智光秀は幕府方奉公衆や軍監的立場、いわば将軍の名代的な立場で従軍していました。他にも一色藤長(御供衆)など多数の幕府衆が従軍し、軍事のみならず様々な役割りを果たしていました。
 池田勝正も摂津守護として幕府方の中核勢力として従軍していましたし、飛鳥井・日野氏等の公家も従軍していました。これは、官軍としての公戦であるためで、進軍中は錦の御旗、幕府の五三桐紋、足利の二つ引両紋などを掲げていたことでしょう。これに弓を引けば、幕府への敵対、及び朝廷への反逆となり、賊軍となります。この環境はその後も非常に有効で、比叡山勢力への強硬も朝廷権威があっためにできたことです。
 更に、この進軍中に改元を行い、朝廷との親密性も見せつけながら進みます。これにより、行軍中に参陣する勢力が増え、京都を発つ時には三万程の数でしたが、近江国高島郡に入る当たりでは五万の軍勢になっていました。

 信長は非常に用心深く、練りに練った作戦を立てます。ドラマのように慌てることも、取り乱すことも無かったことでしょう。全て想定通りに進んでいた筈です。まあ、部分的には想定外もあったと思います。

あ、そうそう、重要な要素を忘れるところでした。いわゆる「金ケ崎の退き口」と言われる撤退戦では、池田勝正が主力の軍勢でした。五万と言っても、地域の小さな勢力を集めたもので、まとまった勢力を出せるところは数える程しかありません。織田信長直属武将と言えども、一千程のクラスター集団です。
 池田家は三好一族でもあるため、使役的意味もあったのかもしれませんが、自発的に池田家は軍勢を出していたのでしょう。三千もの兵を率いた事は京都の人々を驚かせ、公卿山科言継の日記にも書き留められています。

この出陣で、浅井氏が噂通りに反逆したことを確認すると、信長は直ぐに撤退を決め、態勢を立て直すために京都へ戻りました。信長一行が少数であったのは、飛鳥井・日野氏などの公家衆を優先的に帰京させるためで、この退路も朽木谷へ入り、京都を目指します。朽木氏は将軍義輝、その先代義晴も居を構えた伝統的な幕府奉公衆で、万一の危険を避けるために近江国内を通らず、丹波寄りに道を取って、京都へ戻ります。安全な退路も確保済みでした。
 
無かった訳ではありませんが、実際には、朝倉・浅井軍による激しい追撃は不可能であったと言って良いでしょう朝倉方本体の一乗谷出陣は、4月27日です。大軍で追撃できるはずがありません。取られた城や拠点を取り戻す程度だったでしょう。ですので、朝倉・浅井軍は国吉城を超えて、若狭国に入ることはできませんでした本格的な軍事衝突は「姉川の合戦」です。

信長が用意周到であったこと、以下に要素を箇条書きにしてみます。

  • 二条城を完成させてから朝倉攻めを決行 
  • 禁裏の部分修復を終える
  • 進軍直前に新しい道を完成させ、京都への交通・軍勢の移動を想定
  • 進軍中に改元(朝廷からの信任がなければできない) 
  • 軍事行動に対して、朝廷からの勅許を受ける
  • 朝廷がこの軍事行動の武運を勅願寺社に命じる
  • 朝廷の旧領回復(首都経済正常化)
  • 控えの兵(二次攻撃用も)を京都や主要地域に配備
  • 水軍を編成し海上を封鎖
  • 退路の準備(朽木など幕府縁の確かな勢力の領内を通過)
  • 京都周辺の勢力から人質を取る
  • 公家衆による朝廷に弓を引く勢力の現認
  • 若狭国の朝倉家介入からの開放
  • 日本海側勢力への牽制(山名氏との縁切り)
  • 三好三人衆と本願寺の連携を予期

 

このような早さと周到さは、多分、前代未聞でしょう。天下を取るだけの能力と才能は十分に備えた人物でした。個人的に調べれば調べるほど、やはり凄い人物で、日本の歴史を変えるに相応しい人物だと感じています。

また、以下は越前朝倉氏攻めについての課題と結果、時系列を箇条書きにして、簡潔に表してみたいと思います。課題については、その対応としての軍事・政治行動が歴史です。相対的にご理解頂ければと思います。摂津池田家もこれらの流れの中で、役割りを受け持ち、行動していました。

【ご案内】
越前朝倉攻めについて、私は平成23年に池田郷土史学会で研究発表を行っており、その時のレジュメをご覧になれば、だいたいの概要はおかりいただけると思います。ご興味のある方は、PDFファイルをダウンロードいただければと思います。

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(39.6MB)
 ↑用紙サイズはA3です。

▼過去記事
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-


<課題>
・地域勢力に押領されている朝廷領の回復
・若狭国への朝倉氏による侵略・介入の停止
・近江国の敵味方の整理(浅井氏を含む)
・但馬・因幡・伯耆国を治める山名氏との縁切り
・首都交通の掌握
・朝廷経済の正常化
・幕府権威の威武
・足利義昭の私怨

<結果>
・浅井氏の幕府方からの離叛が判明
・朝廷に弓を引く勢力は賊軍である環境(大義名分)を作り上げた
・三好三人衆などの連合勢力が組織されていることが判明
・地域の旗色が鮮明となり、当面の課題の可視化に成功


<時系列>
1569年(永禄12)------------
4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
6月23日 近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ

1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
3月6日  織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
3月12日 近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
4月20日 織田信長幕府軍として、京都を出陣
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城、疋田城などを落とす
4月28日 幕府衆諏訪俊郷等、山城国人革島一宣へ兵船の徴用などについて音信
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
4月28日 正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
5月    幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日  阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信

<当時の史料>
5/4 幕府奉行衆一色藤長、丹波国人波多野秀信床下へ宛てて音信
※大日本史料10-4P358+401(武家雲箋)
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉明智十兵衛尉光秀池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。


この朝倉攻め直後、摂津池田家に三好三人衆方からの調略が行われ、内訌が発生します。これにより、姉川の合戦で、織田・徳川連合軍は苦戦に陥ります。池田家内訌により、西近江地域への将軍出陣ができなくなって、後巻きという重要な役割りを果たせなくなったからです。この時も、幕府方の主力軍勢として出陣予定でした。これについては、また次回にお知らせします。

 

【次回のこと】
元亀に改元したものの、織田信長は七転八倒の苦しみを味わいます。反織田信長(幕府)包囲網が出来上がるためです。この動きの糸を引いていたのは、摂津晴門ではありません。公卿の近衛前久でした。晴門にそんな能力も権力もありません。実際、この数年後に将軍義昭により罷免されています。

 

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