2016年7月8日金曜日

摂津池田家が滅びた理由

池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。
 詳しい分析は、また後日に「摂津池田家の支配体制」などの研究を通じてご紹介したいと思いますが、ここではその前哨としての記事にしておきたいと思います。

摂津国内において、最も大きな勢力として成長した池田家が、実質的に当主勝正を最後に、伝統的独自文化を保持した組織としては、終焉を迎えます。
 室町将軍第十四代義栄や同十五代義昭政権の樹立と運営に大きく貢献し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの報告書にも「(池田)家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内において、もっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた。」などとも、紹介される程でした。
 
それ程までの組織が、なぜ崩れ、滅びたか。少し時間を巻き戻して、簡単に経過を見てみます。

勝正の先々代の当主は信正で、この人物が他の国人衆に先がけて、今でいう官僚制、江戸時代でいう家老制を採り入れます。これは、信正が将軍の宰相であった管領の細川晴元重臣として、京都に居ることが多かったための措置だったようですが、この制度が池田家の活動のスピードを早め、その範囲を拡げる事に寄与して、急速に成長していきます。
 その証左として、池田家は代を重ねる毎に成長し、勝正の代には、前記の如く、五畿内の誰もが認める大勢力に成長していました。フロイスの記述に現れる池田家が、勝正の代の様子です。

しかし、これが活力でありながら、池田家にとっての最大の課題であった訳です。

つまり、活動するために関わる人数が増えるのですが、組織の柱となる人々(一族)と、外来の勢力との差を池田家主導部が、上手く制御できなかった事に、組織崩壊の最大の理由があったと見られます。家の存在意義の核を見失ったと言えるのかもしれません。
 近年まで日本の伝統的習慣であった、一族結合(家制度)ですが、室町時代にも当然この感覚を中心に組織が作られています。
 しかし、組織が大きくなれば一族だけでは人数が足りず、有能な人材登用を継続していく事になりますが、この過程での人間関係と組織体制作りに失敗した事が、池田家の滅んだ原因だと思われます。加えて、家老組織(四人衆と呼んでいた)が、別の権力体となり、代替わりの度に当主との関係が難しくなります。
 こういった背景もあり、内輪もめの回数も増え、またその間隔も狭くなり、元亀元年(1570)6月に大きな内訌を発生させ、当主勝正は、池田家を追われる事となりました。これが池田家崩壊の始まりとなりました。その3年後、更に四人衆と荒木村重が内訌を起こし、組織が二分され、元亀4年夏、将軍義昭政権と共に池田家も機能停止し、実質的な組織の解体となりました。その後は主従が逆転します。ご存知の通り、荒木村重が摂津国を制圧して、守護格の扱いを受けるに至ります。
※個人的にはこの時村重は、摂津国の他、河内国中北部も領地を任されたと考えています。詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。
 
これらは何も池田家の事、室町時代の事として終わる話しでは無いと思います。今でも同じですよね。会社や地域自治、国のあり方など、全く同じ事が今でも起きています。
 義務と権利をうまく使い分け、運命共同体の向かう方向をしっかりと指し示し、主導的人物と支援組織を有機的に組み上げられるかどうかが理想だと思いますが、これが一番難しいですよね。
 
そういう意味では、江戸時代というのは、凄い社会だったのでは無いかと思います。善悪を法によって規定し、これに社会が収まって、内乱を起こさずに何百年も社会として機能していたのですから。


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