以前から気になっていたのですが、今後の備忘録代わりに、ちょっと書き留めておきたいと思います。
北摂山塊では、主に銅を産出していたため、無数の間歩跡があります。豊能・河辺郡あたりに広がっていて、一部は豊島郡にも見られます。実は、五月山にも秦野鉱山と呼ばれた間歩などの跡があります。詳しくは「池田・箕面市境にある石澄滝と鉱山」をご覧下さい。
その北摂の鉱山の代表が多田銀銅山(現猪名川町)ですが、この銀銅山の産出量が戦国時代のいつ頃から再び増えるのか、あやふやなままでした。
天正年間の後期や慶長の頃には、豊臣秀吉の政策による、銀銅山の振興があった事が、ある程度はっきりしている事ですが、もう少し前からそういった政策があって、もしかすると、荒木村重が摂津国を任される頃もその胎動(再興)があったのではないかと考えていました。
参考サイト:多田銀山史跡保存顕彰会公式サイト
先日、『兵庫県の地名1』を読んでいましたら、「天正2年に摂津国河辺郡笹部村から離れた同村内の山下に吹き場が移され、山下町として形成されたとされ、同じく鉱山関係者の居住地として下財屋敷が笹部村枝郷として置かれた。」、との旨の記述を見つけ、この頃には既に、鉱山開発に再び力を入れ始めていた地域政治政策の兆候かもしれないと感じるようになりました。
この裏づけは、もう少し色々な資料を読まないといけないのですが、このあたりの有力者であった、塩川氏が滅んでいる事から、まとまった史料も無く、また、鉱物採掘史のような分野も確立されていないようなので、わからないままです。
ただ、当時からこの辺りには鉱山が多いことは知られていましたし、但馬国生野銀山や石見(国)銀山などが盛んに鉱物を産出しており、精錬法なども新たな技術導入で精度も向上していました。
塩川氏は領内にこういった鉱脈を持つ山がある可能性を当然ながら知っていた筈で、鉱山開発も行っていた事と思われます。塩川氏は、多田院の御家人から頭角を現したとされますが、その領地は海からも町場からも遠い立地で、農産物といっても平地はあまり多くはありませんし、林業が有望産業ですが、それだけではこれ程の勢力に育つとは思えないところがあります。
戦国時代ですから、特に軍事的な面も考慮して婚姻などが行われるでしょうが、やはり中でも大きな要素は「経済」ではないかと思われます。
京都の中央政治とも結びつきを深めるために、管領家の細川氏とも関係しているようですし、伊丹・池田氏などとも婚姻関係を持っています。
そういう歴史と地域環境の中で、天正14年(1586)頃に塩川氏は隣地の能勢氏と抗争し、上意(豊臣秀吉)により取り潰しとなって、没落するようです。まだ戦国時代の余震が続く時代でしたので、地域領主は大なり小なり、境界争いを抱えています。ですので、こういった地域紛争も珍しいことでは無かった時代です。
しかし、塩川氏と能勢氏の紛争には、中央政権が積極介入して、仲裁の裁定ではなく、取り潰したのです。これは、塩川氏の領内にある多田銀山を直轄地域にしたいための行動かもしれません。話しが出来すぎたところもあるように思いますが、このあたりの歴史が未だ、正確になっていませんので、作為的なストーリーも工作しながら現代に伝わっている可能性も無いとは言えないように思います。
さて、天正6年秋に荒木村重が、織田信長政権から離反した、いわゆる「謀反」ですが、これは、少なくとも総国一揆とも言えるでしょう。荒木村重をトップとして、その他全ての人々が同調して、織田信長政権から離反したのですから。
ただ、その後直ぐに重要人物が切り崩され、その力が削がれてしまいます。信長も、この動きには非常な危機感を抱き、迅速に、超法規的強行対応を行います。その結果、やはり織田政権に対しては、一国や二国程度の知事(地域統括者)では総力が及びませんでした。
しかし、荒木村重もそのくらいの事はよくよく考えていたと思われます。これ程の人を束ね、しかも広い地域からの同意を得るためには、説得を支える勝算と元手が必要です。加えて、未来想定も提示して、はじめて納得を得られるものであって、あやふやな想定では、同意は得られません。
私が以前から考えていたのは、その中に、摂津国領内の鉱山も抱えていた事を目算に入れ、これらを元手に本願寺、毛利などの大勢力との交渉、更に足利義昭の返り咲きのための資金、その他近隣への対応なども村重が想定していたのではないかと想像しています。
それから、この時代、「明(みん)の国」が発行する銅貨決済方法が揺らぎ、日本国内では私鋳銭(ニセ銭)が増え、金融不安が起きていて、これをどう安定させるかが課題になっていた時期でもありました。それに代わる策として、国内鉱山から算出される金や銀、銅を始めとした鉱物資源によって、金融安定化を模索していたらしい時期で、それとも重なるように考えています。
この荒木村重が謀反を決する国内の資産として、領内の鉱山を視野に入れていたかどうかは、まだ今のところ、決定的材料に乏しいのですが、伝承記録や技術史を辿る事で、何か見えてくるような気もしています。
今後も続けて、この分野にも注目していきたいと思います。
多田銀銅山の青木間歩の様子 |
その北摂の鉱山の代表が多田銀銅山(現猪名川町)ですが、この銀銅山の産出量が戦国時代のいつ頃から再び増えるのか、あやふやなままでした。
天正年間の後期や慶長の頃には、豊臣秀吉の政策による、銀銅山の振興があった事が、ある程度はっきりしている事ですが、もう少し前からそういった政策があって、もしかすると、荒木村重が摂津国を任される頃もその胎動(再興)があったのではないかと考えていました。
参考サイト:多田銀山史跡保存顕彰会公式サイト
先日、『兵庫県の地名1』を読んでいましたら、「天正2年に摂津国河辺郡笹部村から離れた同村内の山下に吹き場が移され、山下町として形成されたとされ、同じく鉱山関係者の居住地として下財屋敷が笹部村枝郷として置かれた。」、との旨の記述を見つけ、この頃には既に、鉱山開発に再び力を入れ始めていた地域政治政策の兆候かもしれないと感じるようになりました。
この裏づけは、もう少し色々な資料を読まないといけないのですが、このあたりの有力者であった、塩川氏が滅んでいる事から、まとまった史料も無く、また、鉱物採掘史のような分野も確立されていないようなので、わからないままです。
ただ、当時からこの辺りには鉱山が多いことは知られていましたし、但馬国生野銀山や石見(国)銀山などが盛んに鉱物を産出しており、精錬法なども新たな技術導入で精度も向上していました。
江戸時代の堀場作業の様子(別子銅山にて) |
戦国時代ですから、特に軍事的な面も考慮して婚姻などが行われるでしょうが、やはり中でも大きな要素は「経済」ではないかと思われます。
京都の中央政治とも結びつきを深めるために、管領家の細川氏とも関係しているようですし、伊丹・池田氏などとも婚姻関係を持っています。
そういう歴史と地域環境の中で、天正14年(1586)頃に塩川氏は隣地の能勢氏と抗争し、上意(豊臣秀吉)により取り潰しとなって、没落するようです。まだ戦国時代の余震が続く時代でしたので、地域領主は大なり小なり、境界争いを抱えています。ですので、こういった地域紛争も珍しいことでは無かった時代です。
しかし、塩川氏と能勢氏の紛争には、中央政権が積極介入して、仲裁の裁定ではなく、取り潰したのです。これは、塩川氏の領内にある多田銀山を直轄地域にしたいための行動かもしれません。話しが出来すぎたところもあるように思いますが、このあたりの歴史が未だ、正確になっていませんので、作為的なストーリーも工作しながら現代に伝わっている可能性も無いとは言えないように思います。
さて、天正6年秋に荒木村重が、織田信長政権から離反した、いわゆる「謀反」ですが、これは、少なくとも総国一揆とも言えるでしょう。荒木村重をトップとして、その他全ての人々が同調して、織田信長政権から離反したのですから。
ただ、その後直ぐに重要人物が切り崩され、その力が削がれてしまいます。信長も、この動きには非常な危機感を抱き、迅速に、超法規的強行対応を行います。その結果、やはり織田政権に対しては、一国や二国程度の知事(地域統括者)では総力が及びませんでした。
しかし、荒木村重もそのくらいの事はよくよく考えていたと思われます。これ程の人を束ね、しかも広い地域からの同意を得るためには、説得を支える勝算と元手が必要です。加えて、未来想定も提示して、はじめて納得を得られるものであって、あやふやな想定では、同意は得られません。
私が以前から考えていたのは、その中に、摂津国領内の鉱山も抱えていた事を目算に入れ、これらを元手に本願寺、毛利などの大勢力との交渉、更に足利義昭の返り咲きのための資金、その他近隣への対応なども村重が想定していたのではないかと想像しています。
それから、この時代、「明(みん)の国」が発行する銅貨決済方法が揺らぎ、日本国内では私鋳銭(ニセ銭)が増え、金融不安が起きていて、これをどう安定させるかが課題になっていた時期でもありました。それに代わる策として、国内鉱山から算出される金や銀、銅を始めとした鉱物資源によって、金融安定化を模索していたらしい時期で、それとも重なるように考えています。
この荒木村重が謀反を決する国内の資産として、領内の鉱山を視野に入れていたかどうかは、まだ今のところ、決定的材料に乏しいのですが、伝承記録や技術史を辿る事で、何か見えてくるような気もしています。
今後も続けて、この分野にも注目していきたいと思います。
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