先日ご紹介した、「池田勝正の跡職を継いだ、知正は山脇系池田氏か!?」の項目ですが、以前から気になっていた事とも結びついて、知正の他にも、細河郷東山の山脇系池田氏らしき人物が存在する可能性に気づきました。
この事は、近日公開予定の「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」でも詳しくご紹介できればと思いますが、その前哨として、少し散文的に思索をしたいと思います。
最近、池田市史など、池田の歴史の中心部分を読み直すようになり、『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目を読んでいると、気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P306
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【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
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この中で、村の中に4つに分かれた百姓株があって、「角右衛門講」が存在したとの事。「講」というのは、その目的(テーマ)に縁や利益を持った人々が、地域を越えて集う協働の意味合いもあり、東山にそういう集団が存在していたという事は、以下の別の私の記憶に結びつきました。
年記を欠きますが、『堺市史』の説を採りつつ、個人的にも永禄12年(1569)と比定している8月27日付けの史料があります。堺商人今井(納屋)宗久が、堺の五ヶ庄という場所の権利について、池田覚右衛門某・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906
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態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
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音信の内容は、五ヶ庄というところの天王寺善珠庵が持つ土地(代官請けなど)について、池田勝正が得ていたのですが、これを今井宗久へ返還せよ、と迫るものです。これは、この五ヶ庄あたりに鉄砲の生産工場を作るため、権利の集約が必要で、その動きがこの音信に見られるという訳です。
ちなみに、この時、当主の勝正は軍勢を率いて播磨・但馬国方面に出陣中で、その留守にこのような音信を行っています。しかも、何度も同じような内容で迫っています。それに先方(池田家)の人物を呼び捨てにするなど、非礼な態度です。
またこの件、別に一元化しなくても、権利を持っている者が協力して当たればいいのですが、政商の今井宗久がこの役を一手に任されており、バラバラになっている権利を強制的に集約し、一元化しようとしていいたようです。
さて、今井宗久が音信の宛て先にしている池田家の人物ですが、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉です。あと、文中に池田紀伊守正秀と荒木弥介(村重)が見られます。これらは、勝正の側近です。
中でも「池田覚右衛門」が気になります。そうです、東山村にあった講の名前にある、「角右衛門講」とは、「覚」の字は違いますが、この人物が関係するのではないかと考えたのです。
それだけではありません。この今井宗久が宛てた、もう一人の人物である「秋岡甚兵衛尉」は、荒木美作守宗次という人物の奉行人(家老的重臣)です。荒木宗次は、池田家当主の池田長正の家老でした。整理すると、池田当主の家老であった荒木宗次の重臣が、秋岡甚兵衛尉というわけです。
永禄12年当時は、当主が池田勝正に代が替わり、前当主であった長正の重臣も新たな体制の下に再編成され、秋岡甚兵衛尉もその重臣衆として活動していたようです。
それで、この今井宗久の音信が宛てられた池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉という単位(コンビ)ですが、やはり偶然ではなく、勝正の重臣衆の中でも何か近しい関係とか、同じ所属といったような共通性があったものと思われます。
この後、元亀元年(1570)6月に池田家の内訌となり、その後間もなく、池田家中と荒木村重の内訌が起き、荒木村重の時代になりますが、ここまでの流れを池田知正と共に、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉の両人は、荒木与党として活動したものと思われます。
ただ、池田覚右衛門は、この今井宗久の音信のみで確認される人物ですので、証明するにはやや安定性を欠きますが、秋岡甚兵衛尉は荒木村重の与党として、いくつかの資料に見られます。
それから、既述の『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目に、もう一つ気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P309
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【寺院と民間の信仰】
寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった。
東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。
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上記は村に残る伝承ですが、その中に「東禅寺は、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創された。」とあります。この慶長9年は、知正が死亡した年であり、また、この年以前までに知正によって、大広寺を池田の旧地に復して本格的に池田郷が復興する時期でもありました。
東山で昔、私が何人かにお聞きしたところによると、武士を止めて帰農した人もあったとの事も聞いていましたので、それが池田市史の記述にある「豪族・庄屋らの協力を得た」という要素に結びつくのでしょう。
また、地名としても「ミナミンジョ」という場所は「ユバジョ」ともいい、これは「弓場ジョ」かもしれないとの推定がなされているところもあります。
ちなみに、池田城跡にも「弓場(ユンバ)」と呼ばれた場所があります。やはり、東山の村自体が城や砦のような機能を持っていた可能性を感じます。
これらの要素から、東山を中心とした地域から出た山脇氏を始め、他にも武士として活動する人々が居て、その中に池田姓を名乗る一派があったのでは無いかと考えるようになった訳です。
◎参考ページ:池田氏関係の図録(池田市東山地区)
この事は、近日公開予定の「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」でも詳しくご紹介できればと思いますが、その前哨として、少し散文的に思索をしたいと思います。
最近、池田市史など、池田の歴史の中心部分を読み直すようになり、『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目を読んでいると、気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P306
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【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
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この中で、村の中に4つに分かれた百姓株があって、「角右衛門講」が存在したとの事。「講」というのは、その目的(テーマ)に縁や利益を持った人々が、地域を越えて集う協働の意味合いもあり、東山にそういう集団が存在していたという事は、以下の別の私の記憶に結びつきました。
年記を欠きますが、『堺市史』の説を採りつつ、個人的にも永禄12年(1569)と比定している8月27日付けの史料があります。堺商人今井(納屋)宗久が、堺の五ヶ庄という場所の権利について、池田覚右衛門某・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906
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態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
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音信の内容は、五ヶ庄というところの天王寺善珠庵が持つ土地(代官請けなど)について、池田勝正が得ていたのですが、これを今井宗久へ返還せよ、と迫るものです。これは、この五ヶ庄あたりに鉄砲の生産工場を作るため、権利の集約が必要で、その動きがこの音信に見られるという訳です。
ちなみに、この時、当主の勝正は軍勢を率いて播磨・但馬国方面に出陣中で、その留守にこのような音信を行っています。しかも、何度も同じような内容で迫っています。それに先方(池田家)の人物を呼び捨てにするなど、非礼な態度です。
またこの件、別に一元化しなくても、権利を持っている者が協力して当たればいいのですが、政商の今井宗久がこの役を一手に任されており、バラバラになっている権利を強制的に集約し、一元化しようとしていいたようです。
さて、今井宗久が音信の宛て先にしている池田家の人物ですが、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉です。あと、文中に池田紀伊守正秀と荒木弥介(村重)が見られます。これらは、勝正の側近です。
中でも「池田覚右衛門」が気になります。そうです、東山村にあった講の名前にある、「角右衛門講」とは、「覚」の字は違いますが、この人物が関係するのではないかと考えたのです。
それだけではありません。この今井宗久が宛てた、もう一人の人物である「秋岡甚兵衛尉」は、荒木美作守宗次という人物の奉行人(家老的重臣)です。荒木宗次は、池田家当主の池田長正の家老でした。整理すると、池田当主の家老であった荒木宗次の重臣が、秋岡甚兵衛尉というわけです。
永禄12年当時は、当主が池田勝正に代が替わり、前当主であった長正の重臣も新たな体制の下に再編成され、秋岡甚兵衛尉もその重臣衆として活動していたようです。
それで、この今井宗久の音信が宛てられた池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉という単位(コンビ)ですが、やはり偶然ではなく、勝正の重臣衆の中でも何か近しい関係とか、同じ所属といったような共通性があったものと思われます。
この後、元亀元年(1570)6月に池田家の内訌となり、その後間もなく、池田家中と荒木村重の内訌が起き、荒木村重の時代になりますが、ここまでの流れを池田知正と共に、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉の両人は、荒木与党として活動したものと思われます。
ただ、池田覚右衛門は、この今井宗久の音信のみで確認される人物ですので、証明するにはやや安定性を欠きますが、秋岡甚兵衛尉は荒木村重の与党として、いくつかの資料に見られます。
それから、既述の『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目に、もう一つ気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P309
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【寺院と民間の信仰】
寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった。
東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。
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西から東山(村)を望む |
東山で昔、私が何人かにお聞きしたところによると、武士を止めて帰農した人もあったとの事も聞いていましたので、それが池田市史の記述にある「豪族・庄屋らの協力を得た」という要素に結びつくのでしょう。
また、地名としても「ミナミンジョ」という場所は「ユバジョ」ともいい、これは「弓場ジョ」かもしれないとの推定がなされているところもあります。
ちなみに、池田城跡にも「弓場(ユンバ)」と呼ばれた場所があります。やはり、東山の村自体が城や砦のような機能を持っていた可能性を感じます。
これらの要素から、東山を中心とした地域から出た山脇氏を始め、他にも武士として活動する人々が居て、その中に池田姓を名乗る一派があったのでは無いかと考えるようになった訳です。
◎参考ページ:池田氏関係の図録(池田市東山地区)
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