2016年4月10日日曜日

戦国時代の摂津国池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々

戦国時代という、後世のその名付けの通り、日常的に武力行使の政治解決が行われていた時代には、政治的機構と設備、体制は軍事と一体化しているため、分けることが難しいのですが、かといって一緒にしてしまうと、膨大になってしまい、思考と理解の集中が効率的では無くなるので、一旦、分けて考えることにしたいと思います。
 以下、摂津池田氏に関わりの深い村々について、ご紹介して、考えていきたいと思います。理解が進む中で、これらの要素を一体化させて、当時の世界を理解できるようになればと思います。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。


◎宇保村:うほむら(池田市宇保町)
  • 池田村の南東部にある字名。承元2年(1208)3月19日の女清原氏田地売券案(勝尾寺文書)に「在豊嶋北条宇保十九条二里卅四坪内」とみえるのが早く、嘉禄2年(1226)11月18日の有馬淡治田地売券(同文書)・同3年10月12日の土師恒正田地売券案(同文書)にもみえる。このうち嘉禄2年の売券の端裏書に「くれはのたのけん」とあり、また同3年の売券案には売地である「宇保十九条卅四坪之内」の四至に「限南呉庭寺地」がみえ、宇保村は呉庭庄に含まれる地であった事が知られる。中世後期、池田氏の本拠地として池田に町屋ができ発展してくる頃には宇保村の名は史料に登場しなくなる。近世、池田村の中の字名としてもみえるが、宇保町・宇保村の呼称はみえない。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)では宇保に庄屋1、職業無記載(百姓と思われる)32戸で、農村地帯となっている。安永9年(1780)の書上写(小西家文書)では宇保分として139石4斗6升9合が記される。【地名:宇保村】
  • (前略)。坂上氏の先祖は、この猪名津彦神社の祭神「阿知使主・都加使主」で、池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から招いて仁徳天皇に奉った人物です。この様な由来で宇保は坂上氏の拠点となって来たのでしょう。宇保にはもと坂上氏の菩提寺「禅城寺」があって、「池田の観音さん」として有名でした。
     この地には猪名津彦を葬ったと思われる横穴石室の円墳と小さい祠がありました。今も境内に巨石や300年を越える樹木の切り株が残っています。文化2年(1805)石棺が開けられると、中には朱に染まった遺物が発見されました。伊居太神社の神官がこれを持ち帰って、境内に埋葬しなおしました。
     長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳の御神体は、昭和33年(1958)髙床式本殿と拝殿が建てられて再び御神体が勧請されて祭られたのが、現在の社殿です。巨石のいくつかは石垣に利用されました。戦後伊居太神社の神輿が、建石町衆によって宇保の猪名津彦神社まで巡幸した事もありました。
     お祭りは伊居太神社の夏越祭・秋例祭に合わせて行われています。(中略)。神社の再建も地車も祭りも全てが地元宇保の方々の努力によって、行事として伝承され、歴史上有重要な史跡として保存されてきました。【改訂版 池田歴史探訪:猪名津彦神社】
  • 中世後期に、摂津国内で大きな勢力に成長した池田家中で、「宇保」の名字を冠する人物が確認される事から、宇保を根拠地とする豪族が居たことは確実である。また、摂津国春日社領垂水西牧神供米方々算用帳には、池田氏から荒木村重に統治の実権が移っても宇保氏の給分が見えるし、村重が没落した後の村重の二男村基などの音信にもその名が見える事から、宇保氏は代々非常に信頼される関係を築いていたとも想像される。宇保対馬守某は、村重の使いとして先方を訪ねる程の信頼を受けている。村重は旧池田家体制の人材を基本的に用いない方針だったと思われる中で、珍しい例でもあろう。ただ、天正4年あたりからは、領土拡張の中で人材不足からか、徐々に登用の傾向にはあるようだ。
     さて、宇保氏の根拠地である宇保は、江戸時代にも池田郷と一体化したような感覚を持つ地域でもあり、いわば、池田郷の南の触覚のような存在とでもいえるだろう。南から北上してくると、宇保を経たり、至近の道を通って池田郷に入ることとなる。また、宇保は、少々小高くもあり、周囲への視界も開けている。そういう立地に城や館城のようなものを備えていた事と思われる。【俺】

◎栄根村と栄根寺跡:さかねむらとえいこんじあと(川西市栄根及び寺畑)
  • 小花村の南西、最明寺川下流域の左岸に位置する。壱之坪の地名がある。「住吉大社神代記」に「河辺為奈山」は「坂根山」とも号すると記され、東は猪名川と公田、南は公田、西は御子代国の境の山、北は公田と羽束国の境を限るという範囲であるが、河辺・豊島両郡の山をすべて為奈山と称するともいう。また昔、大神が土蜘蛛を討って坂の上に宿寝をしたので坂寝山と名付けたという。
     [中世]正中2年(1325)閏正月日の小戸庄地頭代覚円申状(武田健三氏所蔵文書)に「栄根村」とみえ、領家預所弁房と当庄名主源八らは弁房の兄多田院政所代土肥孫九郎や多田院御家人らと徒党を組み、小戸庄内の当村にある地頭居所を襲って刃傷・強盗に及んだと地頭代は訴えている。正平7年(1352)2月12日の後藤基景軍忠状(後藤文書)によると、赤松則祐について後藤基景が、同6年9月伊川城(神戸市西区)を出て須磨城(現同市須磨区)・神呪寺(現西宮市)の戦いを経て、29日坂根と稲野で南朝方と合戦している。なお稲野は古代にみえる為奈野の地名を継承するものであろう。
     永和元年(1375)多田加納村々として「丹後脇 栄根寺領 二十家・西畑 栄根寺領 五十六家」が多田院に棟別銭を納めており(同年7月25日「諸堂造営料棟別銭村注文」多田居神社文書)、地内の栄根寺が同院の勢力下にあったことが知られる。応永4年(1397)から同9年にかけて、栄根寺は多田院と借物・沽却田について争っているが、多田院の理が認められている(同5年6月13日「京極氏奉行人連署奉書」・同9年3月14日「左衛門尉某遵行状」同文書など)。文明18年(1486)の多田庄段銭結解状(同文書)によれば、多田庄新田分のなかに栄根寺領一二丁五反半(うち現作七丁五反半)がみえ、五貫八二文を納付。
     永正3年(1506)の多田庄段銭結解状(同文書)では田数の変化は無いが、一貫六七三文を納付している。この栄根寺領田が坂根にあったものか明らかではない。なお天文-弘治年間(1532-58)頃に丹波八上(現篠山市)の波多野一族の荒木氏が小戸庄栄根に移り、のち池田勝正に仕えるようになったという(「荒木略記」内閣文庫蔵)。(後略)。【地名:栄根村】 
  • 栄根寺(えいこんじ)は、柳林山と号する浄土宗寺院の跡。聖武天皇の勅願所として建立されたという。文安年間(1444-49)作という栄根寺縁起(大阪府池田市西光寺蔵)によれば行基の開基、多田満仲らが信仰したといい、本尊の鎌倉期の霊験談が記される。中世には多田院に棟別銭を納めるなど同院の勢力下にあった(→栄根村)。
     戦国期に荒木氏の伊丹城落城のとき本堂・伽藍が焼失したが、寺基は残り、寺領も継続された。豊臣秀吉の時代に寺領を召し上げられて、次第に衰退していった。境内除地は東西55間・南北54間で、薬師堂・阿弥陀堂・地蔵堂がある(天保3年「寺畑村明細帳」寺畑部落有文書)。
     寺跡に残された薬師堂には平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像があり、県指定文化財。平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅するが、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されている。【地名:栄根寺跡】
  • 現在は川西市花屋敷1丁目にある浄土宗寺院、山号は桜林山。縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作 らせたのがはじまりという。最近発掘調査により寺畑1丁目の栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認される。 本尊薬師如来坐像(県指定文化財)は平安時代の作。縁起は、源満仲による再興と、本尊の霊験談を伝えている。中世後期には、12町歩余の当寺領の反銭を、多田院が徴収している。天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃し、1631年(寛永8)から西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。執筆者: 熱田公【Web版尼崎地域史事典『apedia』

◎久代庄と久代村:くしろのしょうとくしろむら(川西市久代)
  • 久代庄は、猪名川左岸にあった中世の庄園。庄名は近世の久代村に継承される。貞応2年(1223)3月日の蔵人所牒案(東洋文庫所蔵弁官補任裏文書)に「久□(代)庄内いまいち並豊島市」とみえ、当庄の市を含む摂津国・河内国の諸市・津などに対して、書物を入れる櫃を朝廷の納殿に年貢として造進させるため国司・領家・地頭・神人らの濫妨を停止し、檜物を扱う商人の往反の煩いをなくすよう命じている。
     弘安元年(1278)10-12月の勘仲記紙背文書中の某申状によれば、久代村で尚高入道が濫妨をなし、百姓を責めるので、もはや滅亡しつつあるという。先師・祖師宛置くところの仏事云々ともあるので、寺院の支配下にあったものか。南北朝内乱時、当地は南朝方が支配し、正平7年(1352)紀伊国を本拠とする小山隆長に「久志呂庄」が安堵されている(同年3月24日「後村上天皇綸旨」小山文書)。文明14年(1482)頃のものと思われる摂津国寺社本所領並奉公方知行等注文(蜷川家文書)によると、久代村は京都北山霊鷲寺領で、当知行の注記がある。室町末期も久代村は同寺の支配下であった(「久代村古記録」吉川家文書)。享徳2年(1453)の段銭配当田数は16町6反280歩、文明18年、明応3年(1494)はもとに24町5反で、文亀3年(1503)の即位、永正16年(1519)の公方御成、永禄2年(1559)の御殿修理など、しばしば課された段銭や棟別銭の配符や納切符が写されている。天文12年(1543)には「徳政之御礼不足」について3貫文を「追打」されている。
     また「久代村惣社」は春日社で、同3年3月21日に柱立棟上があり、願人は久代東大隅守平豊実・久代中加賀守平光家、地下老衆神主(4人)、御当若衆15人・東条老衆2人であった。久代東・久代中は地侍級の者かと思われるが、地下老衆などの信仰組織があったことが注目され、2町余の堂宮田、2町9反大の祭礼田もあり、所在地・面積・斗代と配分先・作人名などを記した記録もみられる。春日社の信仰組織は同時に惣の組織であったのかもしれない。これらの文書類は江戸時代に筆写・整理されて伝わっている。【地名:久代庄】
  • 久代村は、久代庄から近世には久代村として継承される。村は加茂村の南に位置し、上之台(台地)と里(平地)に分かれる。「摂津国風土記」逸文(中臣祓う気吹く抄)に「河辺の郡、山木の保。籤稲の村」とみえ、このクシシロは当地が遺称地とされる。仁徳天皇の代に津直沖名の田で、もとの名は柏葉田といったが、罪の代償に差出す田として田串を立てたので、籤稲の名がついたという。中世の久代庄の遺称地。
     天正8年(1580)8月、織田信長は当地を池田信輝の嫡子之助の所領として宛行っている(川西市史)。慶長絵図に「久我村」とみえ、高528石余、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では「久代村」とあり、同4年の高528石余のうち永荒当川成48石余で、取箇307石余のうち36石余は神田村(現大阪府池田市)出作分で、また75石は大豆納とされている(「免状」「年貢皆済状」吉川家文書)。(中略)。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社(現春日神社)、法華宗真門院久成院・一向宗覚正寺(現浄土真宗本願寺派)・同宗徳通寺(現真宗大谷派)がみえる。【地名:久代村】
  • 久代村にある春日社の祭神は天児屋根命・天津児屋根命。旧村社。北東の低地にあったが、江戸時代に移したと伝える。本殿(寛政3年修理)は安土桃山時代の余風を残す江戸時代初 期の建築とみられ(川西市史)、県指定文化財。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社とみえ、除地は東西90間・南北60間 で、天文3年(1534)の勧請とし、神主は宮座大老(32人)より順に勤め祭祀をつかさどると記す。久代新田村は寛永4年(1627)当社の分霊を勧請しているが、神主は久代村宮座が支配していた(宝暦11年「久代新田氏神宮座氏子争論申合書」同文書)。【地名:(久代)春日神社】

◎久代新田村(川西市東久代)
  • 久代村の東、猪名川の右岸に位置する。天正年間(1573-92)猪名川左岸の神田村(現大阪府池田市)の多数の百姓と久代村の少数の百姓により開発されたことから、文禄3年(1594)の神田村検地帳では同村の新田高66石余と登録された(川西市史)。寛永2年(1625)の改で94石余。文禄3年の本田畑(久代)・新田畑(新田分)は寛永2年までは免状一紙の下札であったが、改以後は免状が分紙(久代村と久代新田分)で交付されたという(以上「久代村古記録」吉川家文書)。慶長国絵図では久代村に含まれるものと考えられる。正保郷帳では高94石余。延宝6年(1678)の検地高112石余。元禄3年(1690)に再び検地が行われ、高192石余で、本高94石余が158石余に引き上げられた(久代村古記録)。さらに新開が進み、天保郷帳では高354石余。領主の変遷は久代村(高3石余分)と同様。氏神春日大明神は久代村春日神社より勧請、久代村宮座17人が支配、境内の立木による小社の建立や勧進興行をめぐって久代新田の氏子と争論となるが、宝暦11年(1761)落着した(吉川家文書)。現在は廃社。【地名:久代新田村】
  •  池田家はこの久代庄の代官職を得て、久代村と深く関わっている。久代村の侍衆は、池田氏の被官となっているらしく、池田家中の「大西殿」や池田正弘が、久代村の侍分と思われる田舟備後守佐賀に久代村宮分などの儀について「申付」をしている事から、上下関係があった事がわかる。また、庄内の段銭徴収の明細に「城殿江御礼」「殿ヨリ御出シ分」とみえ、これらは池田氏を指すと考えられる。また、久代庄の給人・段銭徴収明細などの中に「飯尾分」「大広寺分」「刀根山江うけ取ノ礼」などとあり、池田氏に関すると思われる人物や組織、場所が見られる。
     池田氏・荒木氏の没落後、新たな社会秩序の中で近世時代に移るが、このように池田氏との関わりの深い土地柄でもあるために、久代村の開発が、「池田の人々」も関わって行われるようになる。【俺】

◎刀根山(豊中市刀根山)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。



2016年4月9日土曜日

戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える

どこで、どのように確認すれば良いのかわからないまま、個人的には「城」というのは、軍事・政治的に展開するためには、本城と支城で構成されている事が、必要不可欠であったと考えています。更に踏み込んだ言い方をすると、「郡」単位を支配領域に持つ、いわゆる戦国領主にとっても、それは当然の原理であっただろうと思います。

上は天皇から、下は名主・諸座構成員に至るまで、日本国中隅々に下達、また、徴集、動員を行うには、制度・仕組みが無ければ維持させる事ができません。これが機能していなければ、社会の永続はあり得ません。

そして、特に戦国時代末期の頃を見てみると、地域毎の特徴はあると思いますが、その中にも組織を維持する仕組みが無ければ、生きていけません。ましてや戦国時代ですから、「軍事」という直接的に生き死にをかけた行動も必要です。
 人間は、一人では絶対に生きる事ができず、必ず帰属しなければなりません。また、組織に属していても、それ以上に大きなチカラに対する時には、共同してそれに対処しようとします。
 人間が他の動物と違うところは、それを可能にする意思疎通・伝達能力を持つ事にあります。人間の歴史は、正にそれの記録ではないかと思います。

ちょっと前置きが長くなりましたが、そういう摂理から考えて、摂津国豊嶋郡を中心とし、近隣の数郡を支配下に置く池田氏ともなれば、本拠である池田城が単体で存立していたはずが無いと考えています。永禄11年秋には摂津守護を幕府から正式に任じられているのですから、その時点では既に、そういう規模と実力を持つ家だった事は間違いありません。
 池田氏と血縁関係にあったりする氏族の本拠地や支配地にある政所はもちろんの事、軍事的に必要な要地を領内各所に置いていた、と個人的には考えています。
 特に軍事的に、池田城の支城の事について考えてみると、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『大阪府(兵庫県)の地名』が基本的な資料になるように思います。

一方で、池田という都市そのものの維持・増殖行動にも注目すべき点があるのではないかと思います。都市そのものの生態というか、都市が活力を持ち続けるための、主導者(役)としての池田氏の立場という要素もあったように思います。
 池田は街道を多く交差させる都市でもあり、それらと共存、また、利用する行動特性もあったと考えられ、日常的には産業・商業利用もされていたでしょうから、重要拠点にあたるところは、池田氏が縁組みするなどして、特別な関係を築いていたのではないかと思います。
 
その他、見聞きしたり、個人的に考えるところも加えて、以下に思索として、まとめてみたいと思います。前述のように、何を以て本城と支城の連携機能とするか、や範囲も難しいところですが、今は感覚的な部分も含めて、取りあえず池田城の支城群として上げてみます。その他、関係の深い周辺の村々や寺社を分けてご紹介したいと思います。
 これらは、北側は細河地域全域、南側の領域感覚としては、箕面川から北側の範囲。西側は猪名川を越えて、平井の段丘のあたりを想定しています。

先ずは、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、自己調査【俺】、その他【書名・出典名】としておきます。

◎望海亭跡(池田市綾羽)
  • 望海亭の記

    摂津池田村に寺有り。大広と云う。前の総寺祥山禅師之を主る。師、目は雲霄を視、機は仏祖を呑み、曹洞下の老尊宿なり。其の俗譜を論ずれば、則ち日本国管領畠山源君の葭莩なり。華と謂ふべし。池田筑後の守藤充正、夙に師の風を欽び攸を相て創基せるもの、此の寺是なり。山を負ひ海に瀕し、殿宇翼如たり。而して亭を山頂に置き、偏して望海と云う。先に是余等持の官寺に居り、師某人を以て介と為し、亭記を作らんことを求む。夫れ望海楼なる者は、白傅の唐に於ける、東坡の宋に於ける、惟肖の本朝に於ける文は以て賑ひ、詩は以て貼る。千古の佳話なり。余未だ嘗て身ら歴て之を目撃せず、縦い其の萬が一を髣髴すと雖も、小社の阿房を賦すや笑ふべし。求むるに随ひ辭するに随ひ、茲に年有り。庚子のの夏、師適々事以て洛に入り、一日余が小補の斗室に訪ね、話次いで又亭記及び、求めて已まず。是に於て就きて亭の望海と為せし所以を詳らかにするなり。亭南に面し、南は乃ち滄海なり。而して天王の浮圖雲間に層出し、住吉の松原波底に鼓動す。東南に跨ぐ者三州、曰く紀、曰く泉、曰く河、斯に咽喉す。呉綾蜀錦、盬鐵銜艫相逐ふ者は、商売の往来なり。官租軍給、粟麥連檣絶えざる者は、行使のの運漕なり。紅粧翠蓋、盃盤狼藉、青蒻綠蓑、煙雨勃窣、太守水嬉を張くるなり。漁翁鈎瀬を下るなり。野老謳歌して水田漠々たり。市人言語して城府潭々たり。摂人の其の楽しみを楽しむなり。沙鴎翔びて岸柳暗く、宿雁驚きて渚蓮に飛ぶ。夜潮月を吹き銀山鐵壁前に粉砕し、海市雪を映じ、珠宮貝闕、上に湧現するが若きに至っては、亭上の四時なり。亭上の朝暮なり。之を欄檻の上に翫び之を袵席の間に接するは、蓋し偉観なり。余師の説く所を聞き、寸歩を移さずして此の亭に優遊す。紅塵の萬頃の滄波と為るか、滄波の十丈の紅塵と為るか、得て知らざるのみ。余に一説あり、洞上に最上乗の禅有り。名付けて寶鏡三昧と云う。嗚呼、水天際無く一波起らず、滄海は豈一面の寶鏡に非ずや、此の亭は豈一箇の鏡臺に非ずや。海中有る所の色像、豈胡来古現、漢来漢現に非ずや。師は此の三昧に入り、機に応じ物に接し、遠くは曹山の洞水を取り、近くは永平の峨山を取り、五位功勲、三種滲漏、皆鏡中より流出し、天を蓋ひ、四来の学者をして、此の光影を弄び、同に三昧を証せしむ。亦た大ならずや。言未だ既らずして師起ちて袵を斂め、亭記成れりと云う。
     文明12年6月吉日書す。前の等持 横川の叟景三。
     
    望海亭廃せられて既に久し。記も亦た其の原本を失う。星霜再び移らば、即ち名勝復た伝ふる由無し。故に旧圖に據り故趾を求め、石を建て記を勒し、以て不朽を要むと云う。
     古の深山の庵の跡をしも 千代まで見よと残す石碑
                            邑人 山川正宣誌
                            大阪 呉策書
    【池田郷土研究 第18号 大廣寺望海亭碑文小考:吉田靖雄】

◎池田城下の家老屋敷群(池田市旧市街地)
  • 一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
    ※■=欠字
    【穴織宮拾要記 末(抜粋)】

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎東山砦(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】
  • 正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士 ○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
  • 第十代城主池田知正は勝正の弟で久左衛門、のち民部丞を経て備後守となった。(中略)。知正は嗣子がなかったので、弟光重の子幼名於虎丸の三九郎を養子にしていた、知正歿後三九郎が家督を継いで豊臣秀頼に仕えたが、慶長10(1605)年7月28日僅か18才で歿した。大広寺に墓が残る。
     知正の弟光重は、弥右衛門と称した、知正、三九郎相次いで歿したので、東山村にいた光重がその家督を継ぎ、秀頼に仕えて備後守となった。(後略)。【城主池田氏略記:林田良平】
  • 東山村は、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)の中では最も大きな石高を持ち、集落も最も大きい。また、地理的にも、五月山の北側の斜面の守りで、山上の尾根道へ繫がる何本かの山道を持ち、ここからは比較的緩やかに上る事ができる。更に、村の眼下を走る摂丹街道、北の水平方向には妙見街道がよく見える。
     池田城の裏を固め、重要街道を押さえるためには、東山村は非常に重要であったため、ここの有力者山脇氏と池田氏は深く結びついていて、池田姓を名乗る一族扱いであった。伝承や言い伝えでは、最後の自主的な池田氏の当主知正と東山村に居た光重は兄弟であったとしている事から、知正も山脇系池田氏だったのであろう。重要な地を得るため、池田家中から血の濃い人物が山脇氏と姻戚関係を持ったのだろう。
     そんな環境にあるので、東山村自体が館城のように機能していたと思われ、村の中央には広場のような場所(クルマのすれ違いのために近年拡げられたらしいが...)もあって、独特の構造ももっているように見受けられる。村そのものも大きく、細郷の中心的な村でもあった。もっとも、村同士の交流はあまり無いらしいが...。【俺】

◎木部砦:きべとりで(池田市木部町)
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山麓にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川を合流する。池田村より北上してきた能勢街道は村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降はすべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しないという条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】

◎神田砦:こうだとりで(池田市神田)
  • 神田の東方、小字菅井にあり、今は田畑あるいは宅地となっている。地名は城垣内の名を残している。天正年間(1573-91)、池田城主勝正の甥池田備後守が居住していた。池田城陥落の後も備後守は当城にいたが、慶長9年(1604)3月18日、卒去してより廃城となった。【全集:神田砦】
  • 城垣内の地名を残すが、遺構は全く存しない。『摂津志』では「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とし、『大阪府全志』では「天正年中池田勝正の臣池田備後守の守」る所とし、備後守死去の慶長9年3月18日以降、放棄されたとする。また、『北豊島村誌』では、池田弥右衛門尉光重の拠った所とするなど、諸説あるが、なお未詳。【大系:神田砦】
  • 八坂神社は、猪名川左岸、早苗の森に鎮座。祭神は素戔嗚尊。旧神田村社。(中略)。神宮寺であった常福寺蔵の慶長16年(1611)の奥書のある清光山常福寺縁起によると天元元年(978)の創建。社伝によると、天正7年(1579)織田信長の伊丹城攻撃の兵火にかかり焼失、それ以前は不明という。慶長15年、池田豊後守光重がその嫡子の成人を祝って当社を再建、現存の本堂はその時に建立されたもので、一間社流造、檜皮葺の桃山時代の様式を伝え、国指定重要文化財。(後略)。【地名:八坂神社】
  • 常福寺は、高野山真言宗。清光山と号し、本尊は千手観音。慶長16年(1611)の奥書を持つ清光山常福寺縁起(寺蔵)によると、天平3年(731)の開創で、行基が自作の千手観音を安置したという。当寺二世の海然大徳は、真言密教を極め、種々の法験を示したといい、寺伝によるとその法験によって天元2年(979)現在の八坂神社の祭神(縁起は牛頭天王とする)が降臨したという。その後、同社の神宮寺として隆盛したようで、長徳4年(998)一条天皇は勅願所とし、現寺号を下賜。承保2年(1075)白河天皇は源頼義に命じ、正安3年(1301)には後伏見天皇が北条貞時に命じてそれぞれ堂宇を修補させたという。天正6年(1578)10月、伊丹城の城主荒木村重が織田信長にそむいた時、常福寺衆徒は荒木氏に同心し籠城との流言が広まったため、翌7年寺領没収され、堂舎も焼き払われた。その復興に尽力したのは池田備後守光重で、慶長11年本堂が再建され、以後仏供料として50石下付したという。寺蔵文書中に慶長7年3月17日付けの光重自筆除地免状がある。慶長15年の棟札(「池田市史」所引)には珠徳院・西之坊・玉蔵坊などの支院がみえるが、江戸時代には玉蔵院・珠徳院・西福院があった。玉蔵院は明治37年(1904)新潟に移り、他の二院は同41年当寺に合併された(大阪府全志)。境内北の土蔵前に「願主 右衛門尉藤原景正 正応六」と刻した花崗岩製宝篋印塔の基礎があり、当寺梵鐘は天和2年(1682)の黄檗僧高泉の銘がある。(後略)。【地名:常福寺】

◎今在家城(池田市豊島南)
  • 北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。【全集:今在家城】
  • 城の内・城の淵という地名があるが、遺構はまったく残っていない。『摂津志』に「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とあり、天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:今在家城】
  • 神田村の南東にあり、東は轟木村。西は川辺郡下河原村(現兵庫県伊丹市)。村のほぼ中央を西国街道(山陽道)が東西に通り、村の西部で南西流から南流に方向を変えた箕面川と交差する。19世記初頭の山崎通分間延絵図に、この辺りの箕面川に「平日水ナシ」と記され、橋も架けられていない。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高561石余で、うち392石余が麻田藩領、259石余が旗本船越三郎四郎永景領。麻田藩領は元和年間(1615-24)以降のことで、幕末まで続く。船越領は慶長4年(1599)以来と推定され、寛文10年(1670)にはうち209石余が分家三郎四郎景通に分知され、以後当村は麻田藩・船越本分家の相級地となり、幕末に至る。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調は、麻田藩領を東今在家村、船越本分家領を西今在家村と記す。東今在家村については「摂津名所図会」にもみえ、行政村としてではなく、東西の今在家村の区別があったと思われる。(後略)。【地名:今在家村】

◎西市場城(池田市豊島北)
  • 西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城址で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の三面に水田を巡らして暗渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は、観応年間(1350-51)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【全集:西市場城】
  • 『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【大系:西市場砦】
  • 神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。(中略)。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが史料上の確認は得られていない。(後略)。【地名:西市場村】

◎豊嶋中之島城?(池田市住吉)
  • 西市場村の東にあり、村の北境を箕面川が南西流する。元和年間(1615-24)以降、麻田藩領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高70石余。溜池に寛永14年築造という丁田池があった。浄土真宗本願寺派の正光寺がある。【地名:中之島村】
  • 以前、2001年に「池田中之島城?」として記事を書いたが、その頃は核心に至らず、提起的な形で文を終えた。それを今の時点で再び取り上げてみたい。その記事の中でも触れているが、中之島村は、江戸時代の後半に村を移動して現在地にある。元あった場所は、轟木村の北側の箕面川の脇(あられのトヨス工場付近)で、ここが度々水害の被害を受けるので、より高地の現在地に村を移した。
     この場所は、待兼山の丘陵が標高を下げながら、西に張り出した台地の西端に立地する。中之島村にある正光寺は、陸軍参謀本部陸地測量部の明治18年の輯製図では、村の北側に独立的に描かれている。
     ちなみに、江戸時代になると、西国街道周辺の池田市南側にあった村は、ほとんどが麻田藩領となって、池田村と切り離されてしまい、文化的な分断が永年続いた。
     それらの事を併せて考えると、旧地に城があったかどうか検討すると、水害被害を受けやすい場所に常設の軍事的拠点を作るかどうかは若干いぶかしむところがある。また、西市場城・今在家城との位置関係が近すぎるように思える。
     しかしながら、地図をよく見ると、稜線が続く部分に人工的な方形に加工されたような50メートル四方の場所があるので、ここを少し高くして、施設などをそこに備えていたとすれば、その目的としては、北側にある才田村(出在家村)・尊鉢村からまっすぐ南へ伸びる道に対するものだったかもしれない。この道は、能勢街道から石橋村を経ずに、小坂田村や原田村へ通じる幹線でもある。
     一方、正光寺の位置に城跡があった場合は、東市場村を意識し、そこへの道に対する目的があったのではないかと思われる。
     もし、西市場・今在家・中之島に城があった場合、今在家と中之島は、箕面川の南にあって、防御力としては低くなるが、2つの城で相互補完する目的があったかもしれない。そういう観点では、城を作る理由は無くも無いだろう。また、関所や管理施設も兼ねたような、政治的な意味合いを持った、施設だったかもしれない。どちらの推定地も左程の距離は無く、東西に300メートル程の差である。どちらにあったとしても、目的は変わらないだろう。【俺】
    ※参考ページ:池田城関係の図録(池田中之島城?)

◎加茂城(川西市加茂)
  • 加茂城は旧加茂村字「上加茂」にある。一帯に「城屋敷」「城垣内」などの小字名があり、伝承では荒木義村(吉村)の居城という。義村は「荒木系図」によると、村重の父で、信濃守を称し、摂津池田六人衆の一人であった。天正6年(1578)に荒木村重が有岡城に籠もった時、織田信長がこれを攻めるため、嫡男の三位中将信忠をここに配置したと『信長公記』にある。そして信忠転戦後の翌年4月には、塩川国満・伊賀七郎・伊賀兵左衛門らがこれを守っていた。【大系:加茂城】
  •  栄根村の南、最明寺川下流域の大地上に古くから開けた上加茂村と、東部の猪名川沿い平地部の下加茂から成なる。(中略)。上加茂にある中世城館の跡は、加茂城とよばれ、付近に城屋敷・城垣内などの字が残るが、遺構は残らない。伝書では荒木義村の居城という。義村は村重の父とされる。天正6年の有岡城攻めの時に「賀茂」は織田方の付城の一つで、当初は織田信忠の陣所となるが、翌年4月には塩川国満・伊賀七郎・伊賀平左衛門らが入城している(信長公記)。【地名:賀茂村】

◎原田城(豊中市原田元町)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。




2016年3月26日土曜日

中岡嘉弘氏著 改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)という本

中岡嘉弘氏は、私と同じく池田郷土史学会の会員でもあり、池田の郷土史について、色々と教えていただいています。中岡さんは1930年のお生まれで、京都のご出身。1950年代から池田にお住まいです。
 京都出身という事もあるのだと思いますが、生活の中で身についた歴史的知識というものがあるので、池田の歴史についても広く、深く観察されています。その広さと深さに私は溺れるばかりですが、お話しをお聞きすると、色々勉強になります。
 また、中岡さんは、ライオンズクラブにも所属され、地域活動にも熱心に取り組んでおられます。私も出来る範囲で見習いたいと思いますが、追いつくことはできなさそうです。

その中岡さんが2009年(平成21)に出版された、改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)は、その集大成ともいえる本で、自ら取材された池田市内各所の寺社・史跡・遺跡が網羅されています。平凡社から刊行された大著、日本歴史地名大系ともまた違った、地元目線の詳細な記述ですし、本を片手に地域の文化財を気軽に訪ねられるように、記事内容・装丁なども工夫されています。
 この年、池田市は市制70周年を迎えた年で、その記念としてもふさわしい内容です。この3年前に、池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)を出版されています。

最近また、池田歴史探訪を読み直していて、改めてその凄さを感じている次第です。

残念ながら、どちらも今は品切れで、手に入れることが難しいのですが、図書館などでご覧いただけますので、是非ご一読下さい。
 このサイトでも、池田勝正と関係する記事を抜粋してご紹介できるように準備をしてみたいと思います。ネットを通して、中岡さんの取材力で池田の文化力が伝わったらいいなと願っています。ご期待下さい。


中岡嘉弘著 改訂 池田歴史探訪



2016年3月20日日曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)

古江橋を経て多田へ続く道(1970年頃か)
政治的問題を解決するため、武力行使が一般化していた戦国時代には、摂津国豊嶋郡細河庄(郷)は、摂津国人池田氏にとっても重要な地域でした。
 しかし、そういう場所でありながら、研究や解明がほとんど進んでいません。今も池田市域内は文化圏が3つに分かれているような感覚があります。北部の細河、中央の池田、南の石橋、という感覚です。
 この感覚は、実のところ、物理的な根本的要素が大きく変わっていない事から、昔も今もそんなに変質していないかもしれません。北の細河地域は、池田との間に五月山が楔のように存在する事から、どうしても行き来が阻害され、気持ちというか、感覚的に文化の乖離ができていきます。実際、近代の池田市の地域構成史を見てもそれが分かります。
 しかし、戦国時代となれば、そうも言ってられません。直接的な生死にも関係しますし、利益や権利、生活を侵されないように、互いに結束する事が必要になります。そんな中で、木部村で頭角を現す下村氏や東山村の山脇氏といった勢力は、池田氏とも関係を深くしていきます。それもやはり、必然の事であったと考えられます。

既に発表されている大阪府の地名1 -日本歴史地名大系28-(平凡社刊)などの通説や池田市史での見解も参考にしなあら、私が見聞きした事も加えて、この細河地域と池田城(池田氏も含む)について、考えてみたいと思います。

以下の要素について、それぞれご紹介し、まとめてみたいと思います。


摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺
細河庄内の木部村と武将下村氏について
細河庄内の東山村と武将山脇氏について
◎細河庄内を通る街道
◎細河庄と周辺
◎細河庄での牡丹の花卉栽培

【参考】
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考えてみる
戦国時代の摂津国池田氏の地域支配及び軍事に関わる周辺の村々
戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺
戦国時代に池田市の木部町にあった木部城
 

【出典】
写真:グラフいけだ1970年12月 特集:ふるさとのみちしるべ
   発行:池田市役所 / 編集:市長室・秘書課広報係


2016年3月17日木曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き)

元亀元年6月の池田家内訌後、当主勝正を放逐し、特別な旧誼もある三好三人衆方へ復帰した。三好方にとって、この事は大利であった。港のある摂津国尼崎方面から、いくつかの要所を押さえれば池田領内を利用して、そのまま丹波国とも連絡がつけられるようになった。また、池田衆の将軍義昭政権からの離脱は、摂津国内に居た三人の守護職の拠点地域を東西に分断し、幕府・織田信長方の連絡も断つ事が可能な状況となった。三好三人衆側から見ると、池田領内を通る複数の街道へも監視や管理ができるようになる。
 この重要な地域に大勢力を持っていた池田衆は、双方の権力(武力)から重要視されていた。したがって、池田家が三好三人衆方に加担するにあたり、当然、様々な条件が提示されたり、池田衆側からも何らかの条件を求める事があっただろうと思われる。家と集団を存続させるべく、然るべき保証を得るなどし、行動していたと考えられる。

元亀2年8月、池田衆は摂津国嶋上郡の郡山方面で、守護の一人である和田伊賀守惟政と会戦して大勝。千里丘陵の東側から山城国境まで勢力を拡大するなどした。池田衆は三好三人衆方に加わった事で、勢力を更に伸長させる事となった。
 しかし、家政(かせい:家の政治)の岐路で重大な決意をし、家運を開いた池田衆であったが、この頃は合議的家政運営という状況だった事と上位を常に頼る伝統的な身分的特性もあって、上位の分裂に巻き込まれ、再び家中の意見が分かれて騒動となってしまった。そして遂に、この分裂で池田家は将軍義昭の京都(西国)落ちと共に、解体となってしまった。

<参考史料>
1548年(天文17)------------
8月12日 三好長慶、同名政長の排除を細川晴元・近江守護六角定頼に求める
      ※三好長慶(人物叢書)98頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
6月26日 三好三人衆方三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
      ※言継卿記4・425頁など
7月    三好三人衆方池田民部丞某、山城国大山崎惣中へ禁制を下す
      ※島本町史(史料編)443頁など
8月13日 摂津守護伊丹忠親、三好三人衆・池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
      ※群書類従20(合戦部:細川両家記)634頁
9月    三好三人衆方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す
      ※川西市史4(史料編1)456頁など
11月5日 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国箕面寺に禁制を下す
      ※箕面市史(資料編2)414頁など
1571年(元亀2)------------
6月24日 三好三人衆方摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
      ※兵庫県史(史料編・中世1)503頁など
8月28日 摂津国郡山(白井河原)合戦
      ※高槻市史3(史料編1)438頁など
11月8日 三好三人衆方摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
      ※箕面市史(資料編2)411頁など
1572年(元亀3)------------
3月14日 京都吉田神社神官吉田兼見、三好三人衆方池田三人衆荒木村重へ音信
      ※兼見卿記1(続群書類従完成会)37頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月14日 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
      ※戦国期三好政権の研究97頁、高知県史(古代中世史料)651頁など
4月4日  将軍義昭方本願寺光佐、越前守護朝倉義景への音信で池田遠江守について触れる
      ※本願寺日記・下・611頁など
4月6日  織田信長方荒木村重など、将軍義昭側近曽我助乗など宿所へ宛てて音信
      ※人文研究(第48巻)1030頁など
4月28日 将軍義昭方池田清貧斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政等へ起請文を提出
      ※織田信長文書の研究・上・630頁など
1574年(天正5)------------
8月19日 足利義昭方甲斐守護武田勝頼、同摂津国人池田遠江守某へ音信
      ※高知県史(古代中世史料)966頁など




2016年3月16日水曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌の様子とその後の勝正の動き)

織田信長は、阿波・讃岐国の大名三好氏の勢力が西から迫る事は早くから想定しており、金ヶ崎城から京都へ戻った時には、暫くとどまって、その動きを観察していたらしい。
 しかし、信長にとっての最大の誤算は、近江国の姉川方面での決戦が見え始めた重要な時に、摂津国池田家中で内訌が起きた事であった。この事により瀬戸内海と京都が寸断され、逆に京都へ三好勢が直接進攻できる状況となった。また、この池田家内訌に影響を受けた原田家など近隣諸家も、池田家に同調する動きが見られた。

池田家内訌の原因は何であったのか。金ヶ崎城から京都へ戻った信長は、不穏な状況と向き合うにあたり、万一の場合に備えて、主立った国衆や勢力から人質を取った。
 しかし、これが感情的な反発の引き金となり、池田家中に鬱積した不満に火をつけたのではないかとも考えられる。将軍義昭に対して、「無理を重ねて尽くしても、信用されていない。」と、池田の多くの人々が考えたのかもしれない。また、誰を人質に出すかで議論が紛糾した可能性もある。
 そして池田家当主である勝正は、家中の不満を鎮める事ができず、勝正親派であった家老2人を失い、城を出る事となった。勝正は、その後も幕府方として行動し、間もなく豊嶋郡内の原田城を攻撃するなどして、幕府方に身を寄せつつ、池田家惣領復帰を目指して活動したと考えられる。

<参考史料>
1569年(永禄12)------------

11月21日 堺商人今井宗久、三好三人衆勢の動きを将軍義昭側近細川藤孝などへ通報
       ※堺市史5(続編)918頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
5月     幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
       ※大日本史料10・4・556頁(毛利家文書)、信長公記(新人物往来社)103頁など
6月2日   阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)189頁など
6月18日  将軍義昭側近細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・525頁(武徳編年集成)など
6月18日  摂津池田城内で内訌が起こる
       ※言継卿記4・424頁、多聞院日記2(増補 続史料大成)194頁など
6月26日  摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
       ※言継卿記4・425頁など
7月6日   幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
       ※言継卿記4・428頁など
8月10日  流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
       ※近世公家社会の研究22頁など
8月25日  摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
       ※言継卿記4・440頁など
8月27日  摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
       ※池田市史(史料編1)81頁、ビブリア52号155頁(二條宴乗記)など
1571年(元亀2)------------
8月2日   摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
       ※池田市史(史料編1)82頁など
1572年(元亀3)------------
1月4日   本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺衆中へ宛てて畿内の様子を音信
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁など
4月16日  摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁、信長公記(新人物往来社)125頁など
11月6日  将軍義昭、側近上野秀政へ池田家の扱いについて内書を下す
       ※戦国期三好政権の研究98頁、高知県史(古代中世史料)652頁など
1574年(天正2)------------
4月2日   足利義昭方池田勝正、本願寺勢に加わる
       ※続群書類従29下(永禄以来年代記)270頁など






2016年3月15日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで)

越前国の南西の防衛は、敦賀郡にある天筒山が最も重要と考えられている。そのため、天筒山を要塞化し、更に木ノ芽峠までも要塞化して防衛に力を注いでいたらしい。その天筒山から海側に伸びた尾根の先端に有名な金ヶ崎城がある。
 この要塞を池田勝正を含む幕府・織田信長の軍勢は、海と陸から攻め、遂に落とした。同時に、天筒山城と補完関係にある疋壇城も攻囲(交通の遮断も)して落した。

筆者が考えるように、地元の研究者も、敦賀郡へ幕府勢が入る時、2つのルートを進軍しただろうと考えられている。敦賀平野を攻めるには、いくつかの口の一つから侵攻するのでは、大軍であっても難しい。また要所で、必要な軍勢を分割して充てるためにも、大軍の用意は不可欠であったと考えられる。
 他方、この時の幕府軍(織田信長)の動きを詳しく見ると非常に慎重で、用意も周到である。京都や岐阜にも控えの兵を多数用意もしている。更に、信長の陣中に飛鳥井氏や日野氏などの公家も同行していた。しかも飛鳥井家は、若狭守護武田家と伝統的に親密な間柄にあり、人選も考え抜かれて決められているらしい。
 それらの事から、信長は噂通りに浅井氏の離反が確認できると、すぐに退却したのだと思われる。この時は状況不利とも見て、体制を立て直す事を決め、殿軍として池田勝正などを置いて一旦退いたが、同方面の勢力と「決戦」を行う用意は、始めから想定されていた事と考えられる。またその事は、官軍に弓を引いた既成事実を作らせる事ともなっただろう。
 故に、それら各々を別の要素と捉えるよりも、一連の動きとして見る方が、実際の動きに合致しているように思われる。その意味で「姉川の合戦」は、第二次浅井・朝倉攻め、と捉える事が可能だと考えられる。
 
<参考史料>
1569年(永禄12)------------

4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
      ※越州軍記(朝倉義景のすべて)など
1570年(永禄13・元亀元)------------
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城などを落とす
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月28日 幕府衆諏訪俊郷など、山城国人革島一宣へ兵船徴用などについて音信(奉書)
      ※福井県史(資料編2)45頁など
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
      ※大日本史料10・4(武家雲箋)400頁など
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
      ※言継卿記4・412頁など
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
      ※大日本史料10・4・358+401頁など
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
      ※言継卿記4・414頁、信長公記(新人物往来社)104頁など
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
      ※言継卿記4・420頁など
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
      ※福井県史(資料編2)722頁など
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
      ※大日本史料10・4・526頁など
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
      ※言継卿記4・424頁
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
      ※言継卿記4・425頁など
6月28日 近江国姉川合戦







2016年3月14日月曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(軍事行動の目的と池田家の役割)

近年の、中・近世における交通・物流研究の深化により、戦国時代の権力についても多角的な視点が示めされるようになってきている。また、中世後期は「戦国時代」とも呼ばれ、政治の一部として「武力」が、政治問題の解決方法に用いられていた。軍事的な視点では、節目となる大きな戦争が既に知られている。しかし、それはまだ、その時代の部分的世界の理解であるように思える。
 元亀元年4月、朝廷からも信任された官軍としての幕府軍は、朝倉氏を攻めるために、越前国へ向かった。それは周到に用意され、進軍中に改元も行われている。また、その数も30,000〜50,000という大軍を動員し、その中、池田勝正は3,000名を率いて従軍した。これは、幕府軍の中でも中核ともいえる組織規模(一団)である。

この、話し合いを考慮しない朝倉征伐の目的は、勿論、その本拠地である一乗谷へ侵攻する事であるが、それに加えて政権離反の兆しがある浅井氏の動向確認、また、未完でもある近江国制圧と若狭国内乱の平定も目的にしていたと考えられる。更に、それによる若狭湾から湖北各津を経た京都・奈良・大坂への流通掌握も重要であった。

朝倉氏征伐は、京都を中心とした軍事・経済・交通など、複合的な課題を総合的に解決するための行動であったと考えられる。また、朝倉義景によって拉致されたとする、若狭守護家の武田孫犬丸(元明)の解放も目的の中に組み込まれていたのかも知れない。
 これらの目的に対して池田家は、幕府・織田信長から大きな期待をかけられるに見合う規模と実力、畿内近国でのブランド力を備えていたといえる。

<参考史料>
1568年(永禄11)------------

4月8日   近江国菅浦関係者らしき善応寺など、近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造64頁など
8月     足利義昭擁立派越前守護朝倉義景、若狭守護武田元明を若狭国から拉致する
       ※朝倉義景(人物叢書)64頁など
8月18日  近江国菅浦惣中、織田信長方近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造65頁など
11月12日 幕府奉行衆松田頼隆など、若狭国賀茂庄名主百姓中へ宛てて音信
       ※福井県史(資料編2)529頁など
12月12日 幕府・織田信長方浅井久政など、近江国人朽木元綱へ起請文を提出
       ※浅井氏三代(人物叢書)195など
1569年(永禄12)------------
6月23日  近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)135頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日  織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
       ※姫路市史8(史料編:古代・中世1)591頁など
3月6日   織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
       ※言継卿記4・396頁など
3月12日  近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・403頁など
4月20日  織田信長幕府軍として、京都を出陣
       ※言継卿記4・407頁など
4月28日  正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
       ※言継卿記4・410頁など
6月20日  織田信長、近江国菅浦へ禁制を下す
       ※大日本史料10・4・532頁など







2016年3月13日日曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(諸役負担、軍事負担、一部の権利返上)

池田衆のそれまでの経緯と実力から、「郡」単位の領知(本拠の豊嶋郡を中心に)を上位権力から認められるまでになっていた。
 そして池田衆は将軍義昭政権において、摂津守護職を任される事となった。この時、池田衆の郡単位での様々な役の経験と地域求心力は、他の地域でも有効だったと思われるが、実際には様々な困難に出くわす事となったのかもしれない。地域の最上位権力である国の守護となると、それまでとは全く異なる環境も多く、政治・軍事的に、政策を進めるも退くも、自分を守る術が身についていない。
 また一方で、将軍となった足利義昭は永年、僧として生活しており、その将軍就任については特異な例でもあった。そのため、政権を安定させる事ができず、敵対勢力との闘争や諸利権の整理が困難で、常に波乱であった。それからまた、敵対勢力や要地制圧のために、西は播磨・但馬国、北は越前国へ軍事動員され、中でも播磨国へは、夏と秋の連続で出陣している。
 更に、京都での将軍御所などの建設や禁裏の補修など、中央政治への奉仕に駆り出される役にも、守護職として義務を果たさねばならなかった。
 池田衆は将軍義昭政権を支えるべく、守護職という歴代最高の社会的地位を得たが、義務としての課役もこれまでとは比べものにならない量となった。軍事的負担や諸役負担はもとより、権益の一部返上なども行っており、池田家中では、それらの負担の増大に池田家中の人々は耐え難くなっていたように察せられる。

<参考史料>
1563年(永禄6)------------

3月30日  三好方池田勝正、摂津国箕面寺岩本坊へ宛てて音信
       ※箕面市史(資料編2)413頁など
1565年(永禄8)------------
10月15日 三好方三好方池田勝正、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世1)449頁など
11月23日   三好方池田勝正、京都東寺へ禁制を下す
       ※東寺百合文書(9編910册622頁)など
1567年(永禄10)------------
5月22日  三好三人衆方池田勝正、大和国薬師寺へ禁制を下す
       ※奈良県史18・408(薬師寺文書)頁など
1569年(永禄12)------------
正月     摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世2)432頁など
1月27日  京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
       ※言継卿記4・305頁など
4月15日  京都妙覚寺にて摂津衆など集い、公事について事務(打ち合わせ)を行う
       ※言継卿記4・326頁など
8月19日  幕府・織田信長方朝山日乗、播磨国庄山城より戦況等を毛利元就他へ音信
       ※龍野市史(史料編1)663頁など
10月23日 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族正詮などへ堺五箇荘押領について音信
       ※堺市史5(続編)914頁など
10月26日 摂津守護池田勝正など幕府勢、再度播磨国へ出陣
       ※池田市史(史料編1)81頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
3月15日  禁裏の紫宸殿の瓦工事がほぼ終わる
       ※言継卿記4・398頁など
3月18日  奈良興福寺多聞院英俊、将軍義昭の新第を見物する
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)174頁など






2016年3月12日土曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(池田衆の実力)

池田家は、摂津国内屈指の規模を持つ勢力で、それについては様々な史料でも確認できる。それは、交通の発達による流通も含め、その時代性に見合う地の利と中世的社会全体の発展があり、五畿内中の有力都市に成長した事と無縁ではない。
 都市・交通・物流・農産品の生産などが複合的に、より地の利の豊かな地域へ求心力をもたらした結果、発展した池田が歴史の表舞台で活躍した。

永禄12年正月、織田信長が美濃国岐阜に戻った隙を衝いて、三好三人衆勢が京都本圀寺に起居していた将軍義昭を襲撃する事件(本圀寺・桂川合戦)が起きた。これに池田勝正など、摂津三守護が急遽応戦し、事無きを得た。この時、特に功のあった勝正一族で同苗の紀伊守入道清貧斎正秀が信長から賞されている。

一方、後世の伝承で、この時に勝正が役目を省みず池田へ逃げ帰ったとするものがあるが、これらは全て事実無根である事が当時の史料から確認できる。残念ながら、その虚像が今も一般に広く定着している。
 更に付け加えると、勝正は第14代室町将軍義栄政権でも活躍した。勝正は、その政権樹立にも大きな役割りを果たしていたのだった。

池田家の歴史上、勝正の時代に大きな飛躍があり、直接的支配地や影響力を及ぼす領域が拡大した。様々な歴史的事実を見れば、それは疑いない事であるが、それについて当時のキリスト教宣教師の記録が、詳らかに報じてくれてもいる。
 それから、勝正が摂津守護となった事に伴い、その居所である池田城にも変化をもたらしたであろう事は想像に難く無い。労務のための人材、そしてその仕事場や居場所が必要となる。また、社会的な地位にともなう形式と格式をともなった建物や使用品も必要となる。幕府を支えるべく、摂津国守護所としての池田城は、必然的にそれまでとは違う変化を遂げた事と思われる。それはまた、広域的に見れば、京都を守る拠点(都市)としての役割もあったのだろうと考えられる。


<参考史料>
1539年(天文8)------------
閏6月13日 将軍義晴、摂津国人池田筑後守など有力国人へ御内書を送る
       ※摂津市史(資料編1)379頁など
1564年(永禄7)------------
10月頃   宣教師フロイスの編書『日本史』に摂津池田家が紹介される
       ※フロイス日本史3(中央公論社)P192頁など
1566年(永禄9)------------
5月30日  足利義栄擁立派三好義継被官池田勝正、堺へ出陣
       ※大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)615頁など
1567年(永禄10)------------
5月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田勝正勢、奈良油坂の西方寺に布陣
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)13頁など
1568年(永禄11)------------
1月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田衆、奈良多聞城の付城へ入る
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)50、ビブリア62号60頁(二條宴乗記)など
7月15日  将軍義栄方池田清貧斎正秀、公卿近衛家を訪問
       ※言継卿記4・255頁など
1569年(永禄12)------------
1月5日   足利義栄擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
       ※言継卿記4・299頁など
1月6日   摂津守護池田勝正など、将軍義昭救援のため山城国乙訓郡西岡方面へ到着
       ※言継卿記4・300頁など
1月8日   摂津守護池田勝正、西岡勝龍寺城へ帰城
       ※言継卿記4・301頁など
1月10日  織田信長、池田勝正一族清貧斎正秀を褒賞
       ※信長公記(新人物往来社)93頁など
1月12日  摂津国池田へ避難中の将軍義昭側近細川輝経、将軍義昭へ参候
       ※ビブリア62号63頁(二條宴乗記)など
1572年(元亀3)------------
11月19日 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ池田衆が幕府方となった事について音信
       ※兵庫県史(史料編・中世9)432頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月12日  将軍義昭方池田某(知正?)、義昭へ参侯
       ※耶蘇会士日本通信・下・248頁など