2014年9月30日火曜日

永禄12年正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について(はじめに)

永禄12年正月に行われた京都六条本圀寺・桂川合戦は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、中央政権にを樹立して最初の試練でした。また、この合戦は日本史上でも有名な合戦です。
 これに池田勝正も積極的に参戦し、重要な役割を果たしているのですが、家が滅んでいるだけに、記録的に滅茶苦茶な伝わり方をしており、そこには事実無根な要素も多数見られます。通説のまま、今も真実が正される事も無く伝わっています。意外と業界でもそれを詳しく見直すような動きは無いようで、そういった研究や著作を見たことがありません。
 日本史上でも重要な戦いであるだけに、それは正しておくべきだと思います。池田勝正を調べる上で、この六条本圀寺・桂川合戦の真実について、判った事をいくつかに分けて説明したいと思います。

またこの事で、勝正についての汚名挽回にもつながるでしょう。私は彼の信奉者で、絶対に善人であって欲しいという偏った思い入れはありません。ひとりの人間の生き方に興味があるだけです。
 しかし、事実では無い、明らかな間違いは正しておく必要があると思います。正確にその人生を理解するためにもです。

それらの説明を以下の視点からしていきたいと思います。

 (1)六条本圀寺へ至る三好三人衆の行動
 (2)幕府方池田衆などの行動
 (3)合戦の様子
 (4)合戦の背景
 (5)六条本圀寺・桂川合戦における嘘だらけの池田勝正像
 (6)この合戦から判った、防衛面での京都の脆さ
   ※本圀寺、本能寺、旧二条城など。
   ※京都を守り続ける必要性と意味。
   ※池田衆は京都にも屋敷を持っていた。

 (参考)現在の六条本圀寺跡の様子
 (参考)戦国武将の戦い方


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