2013年9月22日日曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その7:三好下野守と為三が同一人物と考えられている史料群)

このブログ上でこれまでは、史料上において、三好下野守と右衛門大夫政勝(為三)が別人であるとの論拠を示しました。しかしながら、両者が同一人物である可能性を示す要素が無くなった訳ではありません。
 それについて京都大徳寺内の『大仙院文書』に収録されている両者の花押を見ると、ほぼ同じなのです。これは一体、何を意味するのでしょうか?

これは重要な事実です。

しかしまた、それが史料上の動きとは一致しない事も事実ですので、この相互の矛盾について、考える必要があります。
 この問題については、全ての史料とその花押を検証する必要性があるのだろうと思います。為三の自署史料も多くはありませんが、存在します。また幸い、下野守については多くの自署史料が残っていますので、それらを全て点検する事は、手間を惜しまなければ不可能ではありません。

その点検は追々進めるとして、先ず『大仙院文書』を見てみたいと思います。欠年7月17日付けで、三好右衛門大輔政生が、大仙院御所回鱗へ宛てた書状(折紙)です。
※大仙院文書P19(史料番号28) 花押番号:30番

-史料(1)------------------------------
御音信為、御樽代20疋送り給い候。毎度御懇ろの儀、謝し申し難く候、御次ぎ和尚様へ御意得候て御取り成し所仰せ候。相応の儀承り、馳走致すべく候。恐々謹言。
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※後の考証記述:コノ文書、現状ハ切紙タリト雖モ、料紙ノ下部二横ノ折筋アリ。蓋シモト折紙ナルベシ。

続いて、欠年7月9日付けで、三好右衛門大輔政生が、大仙院内如意庵(御返報)へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P20(史料番号30) 花押番号:32番

-史料(2)------------------------------
出張の儀に就き、御懇ろの御状祝着の至り候。仍て御樽代為鵝目30疋送り給い候。本望候。必ず面拝以て御懇ろ御礼申し入れるべく候。恐々謹言。
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※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好右衛門大輔政生 如意庵 御返報」

更に、欠年8月24日付け、三好下野守政生が、大仙院侍者中へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P19(史料番号29) 花押番号:31番

-史料(3)------------------------------
御音信為、鳥目20疋贈り下され候。過分忝く存じ候。爰元へ罷り越し候条、即ち愚札以て申し上げる処成れ共、憚り多くに就き音無きに至り存じ候。心底於慮外非ず候。此れ等の趣、然るべく様御披露憑み奉り候。恐々謹言。
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※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好下野守政生 大仙院侍者御中」

そして、三好政勝(為三)に関する史料もあります。欠年4月3日付け、三好右衛門大夫政勝が、大仙院関係の金首座へ宛てた書状(切紙)です。
※大仙院文書P65(史料番号89) 花押番号:86番

-史料(4)------------------------------
尊書拝見仕り候。仍て是れ従り早々申し上げるべくの処、御上洛存ぜず候て音無く迷惑せしめ候。将又御音信為鳥目50疋拝領、過分の至り候。近日爰元取出すべくの条、相応の儀仰せ蒙り、馳走致すべく候。聊かも疎意有るべからずを以ち候。此れ等の趣、御披露宜しく預かり候。恐々謹言。
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※後の考証記述:モト封紙ウハ書ナラン、「三好右衛門大夫政勝 金首座」

そしてこの『大仙院文書』(株式会社続群書類従完成会刊)は、ありがたい事に、全ての史料の花押を収録してくれいています。是非、図書館などで該当史料をご覧下さい。
 史料の番号、28〜30番は「右衛門大輔(たいふ)」を、89番は「右衛門大夫(だいぶ)」を、29番は「下野守」を名乗っているようです。また、諱は、89番の「政勝」以外は、全て「政生」です。

ちなみに、正式な官位での(右)衛門府には、「大夫」や「大輔」は無い筈なのですが、室町時代後期にはそういった名乗りをよく見かけます。例えば、高山右近大夫や右近允などもそうです。
 また、こういった官位を与える側も、この時代は乱世でもあって、そういった折衷案的なものも認められる風潮にあったのかもしれません。各位の定員的なものも曖昧になりながらも、権威を保たなければならない事情もあったのだろうと思われます。
 
さて、花押からその人物の社会的な変化を見ると、政生は「右衛門大輔」から「下野守」へ名乗りを変化させているようです。

そして文頭でも述べましたように、その政生は、右衛門大夫政勝と花押が一致するのです。
 この点が、三好右衛門大夫政勝と同苗下野守が同一人物であると考えられる要素です。花押が一致するのですから、そう判断されても無理はありません。

ただ、既述の「三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素)」のように、史料上ではやはり、別人である可能性が高いように思います。
 また、『大仙院文書』などの史料を読み比べても、何か両者の性格の違いが現れているようにも見えます。「下野守」を名乗る政生の文書内容は、相手に対して言葉が丁寧で、且つ、態度も献身的な印象を受けます。

それから、この両者の花押が一致する事については、もう少し長い活動期間の中で比較する必要があろうかと思われます。永禄3年頃まで、両者は細川晴元と将軍義輝(義晴)方に属し、互いに結びつきの強い集団で活動していましたので、社会的な地位や活動内容など、兄弟という事も有って両者の親密性があります。
 花押を見比べるなら、政勝が「一任斎」や「為三」を名乗る頃のものと、三好下野守が署名する史料とも比較する必要があるでしょう。
 三好下野守は、遊び心も花押に加えるような人物であり、花押そのものも何度か変えています。そのあたりの事情も考えた方がいいのかもしれません。

私としては、この三好下野守と右衛門大夫政勝の花押が一致する事については、史料上での食い違いが認められる事から、両者が同一人物とするには、納得のいかないところがあります。
 故に、両者の自署する史料の花押を、活動年代全期間に渡って確認しなければ、花押がなぜ一致するかという、その理由の方向すら決まりません。

今後は先ず、その作業を進め、また、ご報告したいと思います。




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