2015年3月11日水曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:一 摂津国統一過程と周辺環境)

荒尾市荒木家文書にある天正3年2月頃は、その宛先である荒木村重にとって、どのような環境であったのか考えてみたい。先ず、その背景としての経過と前年の様子を俯瞰してみる。
 天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依然、畿内とその周辺において義昭の影響力は強かった。摂津国内の旧政権守護格である池田・伊丹氏と大坂本願寺の動き、近江国では六角氏、伊勢国長嶋の本願寺宗、甲斐国守護武田氏の西進、安芸国毛利氏の東進の動きがあり、信長は対抗勢力に、速やか且つ、根本的な対応が必要であった。
 そんな中で村重は、池田・伊丹氏を制圧し、大坂本願寺も軍事的な封じ込めに成功。そして村重は、有馬郡守護の有馬氏を除いて、天正3年夏頃には、ほぼ国内を掌握して伊丹・花隈等の要所に城を築いて整備も行った。
 同時に織田方も伊勢国長嶋を制圧、近江国の六角氏勢力を壊滅させる等、可能な要素から各個対応を行った。残る要素へも十分な準備を整えて、計画通りに進めていたのだった。
 そして天正3年、信長はその計画を実行する。2月、部将となった明智光秀が丹波国へ進攻。他方、3月は河内国へ侵攻し、翌月に高屋城を降した。5月、三河国長篠で武田勝頼を破り、8月には越前国など北陸方面の一向宗を制圧。
 このように織田方は、畿内諸勢力と繋がる周辺勢力を撃破したため、孤立を深めた大坂本願寺方から和睦を引き出す程の優位に立った。また、信長はこの間に、京都で徳政令を発布。これは前例に無い程、大規模な対応を朝廷・権門へ実施し、政治的な対策も怠らなかった *15
 織田政権は、天正2年から翌年にかけて、体制作りと軍事的目標への決戦準備を行い、着実に達成させていた。村重もその計画通りに行動し、軍事・政治共に同政権を支えたのだった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(15)前掲註(6)、「二 天正三年徳政令と新知進献」(第四章 第一節)。







2015年3月10日火曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:二 柴田勝家の場合)

織田信長は将軍義昭の追放を決して以降、独自に「天下」を掌握しようとした頃から、一職支配・守護補任をし始める。長岡(細川)藤孝に山城国桂川西岸地域の一職を与え、塙(原田)直政に山城・大和国の守護を与えている。直政の両国守護は、当時でも前代未聞としている。
天正3年9月、信長は重臣の柴田勝家を越前国に封じた。その際、信長により「越前国掟条々」との朱印状を与え、織田政権下の一職支配において、統一権力としての支配原則とそれを委ねられた武将の関係を規定している。
 その中では、大綱をいくつかに分けて記されているが、特に第六条に「大国を預置」とし、それに対し「越前国之儀、多分柴田令覚悟候」とある事に脇田氏は注目している。これは、信長にとって越前国を柴田に預けたのであり、いつでも返却の義務を負うとの意味であるとしている。また、信長はかかる家臣への支配を、より強力にするために「目付」を置いている。
 しかし、一方で信長は、そういった任免権を完全に掌握しつつ、地域采配での一定の裁量権を柴田に与えている。これにより柴田は検地を行った上で、実際に知行の宛行いを執行する事も、一職支配には含まれていたと分析されている *14
 このように、一職支配下の地域においても信長が掌握しており、信長は上級土地所有権を確保しながら、政策の徹底管理をし、更に、人間関係をも規定して、管理不行き届きによる離脱や変転を未然に防ぐ策を講じていた。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(14)前掲註(5)、「二 統一権力と一職支配」(第三章 第一節)。







2015年3月9日月曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:一 守護と一職支配の関係)

織田政権における一職支配がどのように成立したのか、脇田氏の分析 *13を見ておきたい。
 織田信長が尾張国の支配者となったのは、永禄2年(1559)春、同族で同苗の信賢を降した時であった。これを以て信長は直ちに上洛し、将軍義輝に参勤して御礼を述べている。
 これは、信長が実力で一国の支配者となった事に対し、その権力の裏付けのために将軍の承認を求めたのであった。永禄11年秋、信長の上洛直前までの名乗りは、一国支配権としての尾張守護権継承であって、尾張国の正統な支配者としての地位を示すものであった。地域支配権としての一職は、守護ないし、守護に准ずるものと捉えられている事が明白であると分析されている。
 それから後、信長が京都において独自に政権を築く中でも、それと同様の概念が存続していたと考えられる。『信長公記』に「惣別、荒木ハ雖一僕之身に候、一年公方様御敵之砌、忠節申候に付て、摂津国一職に被仰付」とあり、荒木村重が「摂津守」を名乗り、摂津国を支配した事は明らかであるから、一職支配と守護の関係は密接であった。織田政権の一円知行は一職支配として記載され、それが守護権の継承である事も明らかである、と述べられている。
 また、実質的に村重が摂津国内を切り従える過程で、在地における複雑な土地所有、権利関係、領主・農民の階級関係は、領主からすれば安定的とは言えず、村重としては、より上級の強力な権力の保証が必須であり、織田政権による一職を必要としたとも考えられている。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(13)前掲註(6)、「一 一職支配と守護権」(第三章 第一節)。







2015年3月8日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:三 家数改め)

織田信長は、指出・検地と共に領国内で家数改めを行った。この家数改めは、直接百姓を人身的に把握しようと試みたものとされている *12。夫役(役務)徴発は、家数改めを基礎に行われた。
 家数改めは、支配領域拡大と共に順次実施され、近江国では永禄11年頃から数年かけて、河内国では天正4年頃に高屋城を中心とした南部方面で、また越前国等でも行われていたらしい。
 このような織田政権の領内の人身把握によって、様々な夫役が課せられた。出陣時の陣夫(兵としても)・建設用務や日常用務、竹・藁・縄などの供出があった。
 信長は、この家数改めについて一定基準を作りつつ領内の把握を行い、必要な要素を速やかに徴集した。また、地域を一職支配している柴田勝家などの武将もそれと同様に管理していた。



【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(12)前掲註(6)、「四 夫役徴収の実態」(第五章 第二節)。







2015年3月7日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:二 指出と検地)

脇田氏によると「戦国大名織田政権も領域内において、指出・検地を実施し、土地所有関係を整備したことは明らかである。」としている *10。その中で荒木村重が、織田政権に属していた頃のものを見てみたい。
 「指出」については、永禄11年に近江国安吉郷等、翌年に堺周辺地域、天正3年及び翌年に山城国狛氏所領等で行われている。「検地」は、元亀2年頃に伊勢国の神戸氏所領等、天正5年に越前国で行われた。
 そしてこの時の高表示は、貫高が伊勢国、石高が近江・山城・越前国となっている。因みに摂津国垂水西牧南郷の年貢についての記録 *11では、基本的には石高で、それを貫高換算して並記もしてある。
 さて、「指出」とはその名の通り、所有者・給人・一職者等により年貢高を指出し、織田政権としてこれを把握した後に再確認し、支配を行なっていた。これは、同時に複数関わっていた権利の錯綜を整理し、一元的に権力と結び付ける意図もあった。対して「検地」とは、縄打ち・竿入れ等といわれ、現地にて土地丈量を行うものである。随って、強権により在地に臨む事となる。
 両者はいわば、自己申告と強制調査のような感覚であるが、何れにしても収入を権力者に把握されるのだから、当事者にとってはかなりの抵抗感がある。中でも検地は、よほど時期を見極めなければならない、大変な政治事業である。
 しかしながら、この指出・検地は、富の収奪という面もあるが、権利の整理と把握が一体化した目的であり、是非とも行わなければならない政策であった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(10)前掲註(6)、「一 検地・指出の実施状況」(第三章 第二節)。
(11)「南都代官方算用状」等。『豊中市史』史料編 二。







2015年3月6日金曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:一 中世の石高と近世の石高の違い)

「石高」とはどんな定儀なのか、少し考えてみたい。石高制の一般的な把握は、米納年貢を基本とした「総生産」高で、これはまた正確な土地の測量と把握によって成されており、太閤検地を経た、徳川幕府による完成された政策という事が通念化しているように思われる。それがいわゆる近世と中世の特徴的な違いとして理解されているのであるが、その石高の概念は突然現れたものではない。時代により、意味合いを変えて存在したのである。
 当然、石高は中世にも概念はあり、それについて脇田氏は「則ち石高は米作を行わない畑、屋敷を含めて算定され、また農村・都市を問わず実施されている。その際、石高は米の生産高といいながら、現実の生産高ではなくて、町場における石高は、純農村部より高く、大坂では反当り4石2斗となっている。随って石高は、米の生産高に一定の社会的富を考慮して決定されたものといわれるのである。」と述べている *9。また、同氏は「つまり石高自体が米の生産高を基準としつつも、社会的富の表現であり、使用価値としてのみではなく、商品価値を有するものとして実現していたのではないか。」ともしている。
 この事は勿論、近世においても同様の理解と算定がなされていた部分もあると思うが、中世から近世への過渡期、織田信長の登場で、その複雑な富の権利関係を権力側にひき寄せる試みがなされ、それが軍事・経済的優位をも生み、中世的世界を抱える戦国大名を圧倒していった。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(9)前掲註(5)、「第一節 石高制における石の性格」(第一章)。







2015年3月5日木曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:四 軍事政策)

「兵農分離」という言葉と織田信長という人物名は、親密でもある。兵農分離とは単に、兵と農との職種を分けるためではなく、上位への権力集中の意図があり、その事は命令行動の効率化や速応体制の構築をも目的としていたらしい *8。これは数だけの軍事力では無い、体質強化への改革でもあった。
 それは封建社会においての基底的な関係でもある土地所有関係、一職権利関係、人身的従属が錯綜し、常に動揺していた事に対する身分社会の再構築でもあった。それからまた、それまでの動揺の中で常に見られた、領主層の一揆への加担やそのための分裂等について、それらの関係性を断ち、上級権力へ軍事力を集中させる試みが、兵農分離の根本概念であったとされている。
 それ故に、あらゆる階級層・身分で、規定の再編・厳格化が進められ、所有関係・役負担体系の再編となり、兵農の他、商農などの分離も行われた。これは、軍と非軍の正確な把握となり、全体の価値、いわば国力の把握にもなり、やがて個別政策によって全体の効率化にも繋がった。
 信長は、そうやって編成された軍を持つ家臣団を城下町に集住させ、統制によって効果的な武力利用を行っていた訳である。同時代には日本各地で同様の傾向にはあったと思われるが、その本質は、織田領国内のそれと大きく違っていた。
 後に信長の領国は急拡大するが、基本方針を守りながら情況に応じて変化・拡大させ、再編を繰り返し行った。そして地域の担当武将などによって、諸施策を忠実に実行させる独自の仕組みを構築した。信長は、その管理者としても独創的であった。



【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(8)前掲註(5)、「第一節 兵農分離の実現」(第三章)。







2015年3月4日水曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)

織田政権の支配地域では、国毎に貫や石の高表示が存在していた。これは、当時の市場と地域の事情もあり、それを容認していた事にもなる。
 中世においては、荘園年貢の代銭納が発達しており、それは遠隔地からの現物輪送の困難さにも起因していた。また、室町中期以降、畿内近国は首都市場圏ともいわれる巨大なマーケットとなっており、全国の市場の中心的地位を占めていた。
 例えば、応永14年(1407)と翌年の山科家財政状況が分析 *5されている。この年貢の大部分は代銭納であるが、美濃・紀伊・丹波・播磨など畿内近国は現物納が行われている。このように遠隔地からは代銭納を行わせ、畿内・近国からは現物で収納させているのは、京都での年貢物販売と交換による、地域差からの利潤も含める仕組みができ上がっていたためでもある。こういった流通経済の情況を前提として、自己の所領を統一的に表し、「高」の掌握を行った。
 織田政権は、尾張・美濃・伊勢において、貫高を採用していた。これに対し、石高を採用していたのは、京都を中心とする首都市場圏で、それは米を主とする高表示となっていた *6
 それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した *7
 この政令のため京都へ米が入らず、市場が混乱。この事は、米に内包された商品価値による「貨幣」的性格を現していると考えられている。また、信長の本拠であった岐阜では、この撰銭令が特に厳格に行われた事もあって悪銭が集中、商売が停止してしまう事態ともなっていた。
 信長による撰銭令は、金銀銭の規定など経済政策を多面的に展開して、問題解決を図ろうとしたが、流通経済においては混乱を招いただけに終った。
 随って、この撰銭令は貫徹されず、結局、米による取引がなされるようになり、織田政権はこれを容認せざるを得なくなる。その伝統的・社会的に安定した価値は、確実な流通手段となっていたのである。元々首都市場圏の発達において、米の商品化は進んでおり、それが畿内近国における「石」高の基盤になったと考えられている。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(7)前掲註(5)、「二 銭と米の流通」(第一章 第一節)。







2015年3月3日火曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:二 信長の社会的地位)

永禄11年秋の入洛後、信長は、幕府・朝廷からの役職・官位授与を固辞し続けていたが、元亀4年(天正元)に将軍義昭が京都を落ちた後、その方針を変える事となった。
 信長は、義昭の子息義尋(よしひろ)を庇護・推戴しつつ、天正2年3月18日に参議・従三位となり、以後、年毎に昇進する。翌年11月、権大納言・右大将に任官し、この時点で自ら開幕可能な地位(元亀4年7月時点の義昭は、権大納言・征夷大将軍・従三位。)に就いた。これにより、室町幕府から自立する土台ができ、公にもその事を喧伝する事となった *3
 因みに、信長はこの年7月、官位昇進の勅諚を一旦辞退したが、一方で勅許を願い出、主立った家臣へ惟任・惟住・原田等九州の名族の称を各々に与えている *4。もしかすると村重の「摂津守」の正式な名乗りも、これに関係したものかもしれない。
 また、同年に信長は、家督を嫡男信忠に譲ってもおり、この年は織田政権にとっての画期であった。そして同6年正月、信長は正二位に昇った。
 この信長の、将軍義昭追放後からの積極的な任官は、京都という全国市場の中枢支配において、有利な現実があったためと考えられている。また、次第に信長は、武家としての強力な政権を築いたが、その決定的な力を持ちつつも公家や寺社の否認に使わず、保護を行った。このために用いるべく術(方法)として、任官も大きく役立ったらしい。



【註】
(3)藤田達生「室町幕府体制との決別」『本能寺の変の群像(中世と近世の相克)』雄山閣出版(第一章 4)。
(4)前掲註(1)、「一 薩摩下向の目的」(第一部 第三章)。







2015年3月2日月曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:一 基本政策)

最近の研究では「天下布武」の印を使用するようになったのは永禄10年とされ、織田信長はその頃から、領国の外側にも意識の概念を形成するようになったようである。
 その2年前、京都では13代室町将軍義輝が、三好義継等によって殺害される政変が起きていた。そして間もなく、互いに足利の後継たる正統を掲げて、義栄と義昭が家督を争った。
 中でも義昭は、義輝の実弟でありながらも思うように事が運ばなかったが、その実現が危ぶまれたところで信長と出合い、一気に入洛を果した。そしてまた信長も義昭との出合いの中で、自らの構想に現実性を帯び、直ちに実行した。
 更に、この信長の行動を支えたもう一つの要素として、織田家の朝廷との関係もあげられている。この二大要素が、信長への強力な求心力となり、天下布武印の使用も含めて「侍」結集の論理となったようである。
 信長は、永禄11年秋の入洛について、朝廷から奉書を受けた事も理由に含めており、元々複数の大義を一体化させていた。彼は上洛途上、近江国内に入ると、それまでの名乗りである「尾張守」という地域覇者から「弾正忠」という、朝廷をより意識した位階に変えている。これは社会的身分を下げてまでも自らの想いを実行 *1しているのである。
 また、将軍義昭政権を樹立直後、直ちに禁中修理と将軍の新第を築造する工事に取りかかった。これについて信長は、21カ国の諸大名・諸将に宛てて触れ状を発給し、従わなければ公武の命に背くものとして討伐する意を示した。
 橋本氏によるとこれは、永禄12年1月14日に、信長から将軍義昭へ提出された「室町幕府殿中掟」とその追加条項とも連動しており、諸大名には将軍義昭へ臣従させながらも、その将軍義昭には朝廷への忠勤を疎かにさせないよう特に規定する事で、諸大名の将軍への一極的従属性に制限をも設けるという、信長権力の位置と威勢を示したものであるとしている *2
 後に天下統一について信長は、手法の違い等から将軍義昭と対立したが、結局は打ち勝って、朝廷との関係を更に深めて行く事となった。やがて、自らの天下の構想について信長は、厳格に規定して制度をも作り上げていった。


【註】
(1)橋本政宣「二 織豊政権と朝廷」『近世公家社会の研究』吉川弘文館(終章)。
(2)前掲註(1)、「一 信長の禁中修理と二つの文書」(第二部 第一章)。






2015年3月1日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(序文)

個人的に本会会員のM.A.氏と親しく、色々と意見交換する中で、会報『村重』創刊号の「熊本県荒尾市の荒木氏系図」の話題となり、お手持ち分から該当項を送って頂いた。
 その中の史料で、織田信長が天正3年11月付けで、摂津・河内国内に都合40万石を荒木村重へ宛て行うとした朱印状(以下、荒尾市荒木家文書と表記)に興味を持った。但し、同じくM.A.氏提供の同文書の写真を見ると、月付けは11月では無く、2月である事が判明した。
 そしてまたこの伝承文書については、同文中で見解が示されており、「これは朱印が薄くはっきりしなかった。もうひとつは宛行状の文面にある「四十万石」が、当時のものとしては問題がありそうだということであった。これはそうであろうと思われる。つまり、この頃は近世のように検地による正確な測量が行われていないので、小規模な丈量はしても、大規模な領知を石高によってあらわすことはしなかったと考えられる。」とある。
 しかしながら、「このような問題はあるが、荒木氏に関する文書が同家に伝わった事については、何らかの大きな意味があるはずである。」と完全に否定できない背景や、何らかの可能性があるとの考えも添えられている。

信長文書としての真偽の吟味は別として、筆者もまた、この荒尾市荒木家文書について、内容の成立環境が整っていた可能性があり、人間的信用や当時の社会的契約としても、妥当な事実が存在した痕跡ではないかと考えてみた。
 また、今回はこれまでのように個人研究の中から探求する方法に加え、既に専門家の詳細な研究が存在する事から、それらを組み合わせて紹介する事で、限られた字数によって大きなテーマを考察するには効果的であると考えた。以下、脇田修氏や橋本政信氏の論文を中心に取り上げながら、その根拠を述べてみたい。








2015年2月28日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(はじめに)

当時、私が会員であった荒木村重研究会会報に載せるべく、荒木村重が摂津国及び河内北半国も領有(40万石)した事について「荒尾市荒木家に伝わる信長朱印状の一考察」と題して書いた原稿です。結局この原稿はボツになりましたので、多くの皆様の批評を受けたく思い、ネット上に公開する事に致しました。平成22年(2010)秋頃に発行された10号会報用になる筈だった原稿です。また、その後に調べのついた事柄なども若干補足して公開した行く思います。
※今は村重研究会に所属していません。

以下の項目で論を展開しています。

序文
◎第一章 天正三年頃までの織田信長の政治
 一 基本政策
 二 信長の社会的地位
 三 経済政策
 四 軍事政策
◎第二章 検地について
 一 中世の石高と近世の石高の違い
 二 指出と検地
 三 家数改め
◎第三章 信長の領国統治体制
 一 守護と一職支配の関係
 二 柴田勝家の場合
◎第四章 織田政権での荒木村重
 一 摂津国統一過程と周辺環境
 二 村重の河内国との関係
おわりに
◎備考
 『荒尾市荒木家』の翻刻




2015年2月27日金曜日

永禄12年の但馬山名氏攻めと播磨国攻め従軍(はじめに)

永禄11年秋、足利義昭の要請に応じた織田信長を伴って入京し、第十五代室町将軍に任ぜられると、翌年から早速、政権の基盤作りを精力的に行います。
 摂津国内最有力の勢力であった池田衆は、京畿政治の中でも中心的役割を担うに足る実力を持ち、幕府からも頼りにされていました。
 正式に義昭政権が発足すると、様々な依頼も幕府に寄せられるようになり、幕府自体は決して安定しているとは言えない中でも、政権支持勢力をできるだけ取り込む、繋ぎ止めるためにもそれらに応える必要がありました。とりわけ、西国方面は常に乱れ、安定しませんでした。
 これに対応するために、街道でつながり、播磨方面とも決して浅くない関係を持つ池田家をその任に就かせたようです。池田家は守護家ですので、幕府の播磨への窓口ともいえるかもしれません。
 それらについて、以下の項目を上げ、考えてみたいと思います。
 

(1)池田勝正の播磨国担当
(2)但馬国山名氏攻めへの池田衆従軍
(3)幕府方と毛利氏との協力関係
(4)龍野赤松氏救援作戦従軍
(5)瀬戸内海北岸の三好三人衆勢力の掃討
(6)幕府による第一・第二次播磨国侵攻作戦について




2015年2月22日日曜日

永禄10年の大仏焼失と池田勝正の奈良出陣(はじめに)

永禄10年(1566)10月10日、奈良の大仏が、松永久秀と三好三人衆との闘争(戦争)の只中に焼け落ちます。これは多くの人が知る事実です。また、この大仏の焼失について、久秀が焼いたとする説も今に伝わっています。これも有名な逸話です。
 この時、大仏のある回廊に陣を取り、その焼け落ちる様を池田勝正は見ていました。しかし、この事実はあまり伝えられていません。
 大仏焼失に至るまでの動き、また、その当日の詳しい動きを、池田勝正を中心にご紹介したいと思います。以下の項目に分けてご案内します。


(1)三好長慶の死後に家中が分裂
(2)池田勝正の三好三人衆方への加勢
(3)三好三人衆勢、河内国を制して大和国へ侵攻
(4)奈良多聞山城の攻防戦
(5)大仏焼失と松永方にとっての一時的な戦況好転
(6)堅城多聞山城落城



2015年2月20日金曜日

荒木村重も関わった、当主池田筑後守勝正追放のクーデター(その7.1:池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」)

同テーマ内のその7「池田勝正追放後に別の当主を立てたか」でも提起した概念ですが、その続報です。
 その7での記事中でご紹介しました、史料3から5までの署名者である民部丞某は、同一人物である事が、判明しました。それら全ての花押が一致しました。再度、以下にその史料を掲示します。

-(参考史料1)-------------------------
◎史料3:元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てた禁制
※島本町史(史料編)P443など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料4:元亀元年9月付けで、民部丞某が摂津国多田院へ宛てた禁制
※川西市史4(資料編1)P456など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料5:元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てた禁制
※箕面市史(資料編2)P414
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
-------------------------

それで、同じく、その7の記事でご紹介しました史料1に登場する民部丞ですが、この人物と既出の参考史料3から5で署名している民部丞なる人物とは、同一ではないかとの可能性は高くなるように思います。

-(参考史料2)-------------------------
◎史料1:元亀3年らしき11月6日付け、将軍義昭の上野中務大輔秀政へ宛てた御内書
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
-------------------------

ただ、それらの史料の人物を、同一として完全一致させる断定的証拠も今のところ無いため、慎重に扱う必要はありますが、史料3から5の民部丞の署名が一致した事で、その可能性としては極めて高くなったといえます。
 それからちなみに、この民部丞の禁制に関する副状も見当たらない事から、自立的な強い権力保持者だったかもしれません。

元亀3年冬の時点で、池田一族衆が民部丞を当主に再び立て、将軍義昭へ加担する事を申し出たとすれば、その後の池田衆としての動きは、民部丞に焦点をあてて行く事になります。
 将軍義昭と織田信長が不和となり、双方は京都で争います。この時の記録に摂津池田衆の動きが様々な史料に頻出します。これについては、追々詳しくご紹介するつもりです。
 史料上で、民部丞のある程度の行動が明らかになった事で、それまでバラバラに存在していた要素が繋がって、道筋がつけられるようになったのは、一歩前進です。
 
ただ、克服すべき課題もまだあります。以下に箇条書きにしてみます。

◎民部丞の元亀2〜3年夏までの史料上の動きが見られない。
◎池田一族が、上記参考史料2の中で将軍義昭に伝えた民部丞なる人物と同参考史料1の資料群に署名している民部丞なる人物との一致は、完全に結びつける史料は今のところ無い。
◎民部丞の池田家中での地位や活動が不明である。
◎民部丞と池田知正との関係が、否定も肯定もできない。

これらの課題を抱えていますので、花押の一致が先入観にならないよう、慎重に民部丞の行動をこれからも史料で追いたいと思います。
 一方で、民部丞が池田家に関連すると見られる状況証拠もあります。禁制の内容を見比べてみます。池田家と関係の深い箕面寺に対して下した、歴代池田当主とその後に摂津守護格となった荒木村重の禁制を見てみます。
 先ずは、天文20年5月付け、池田(右)兵衛尉長正が下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411

-(史料1)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の河持ち制するの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩於者、制す物取られるべく候。尚以て是非及はば、成敗加え罪科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
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続いて池田八郎三郎勝正が、永禄7年2月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P413

-(史料2)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨背き輩あ、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
-------------------------

時代が代わって、ここから以下は荒木摂津守村重が、天正3年11月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P414

-(史料3)-------------------------
一、山林竹木剪り取り事付き所々散在盗み剪り事、一、寺家寺領於新儀非例申し懸け事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若しこの旨相背き輩在り之於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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上記史料3についての副状です。荒木村重一族同苗平大夫重堅が、天正3年11月26日付けで当郡中所々散在に宛てた音信(折紙)です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料4)-------------------------
箕面寺山林盗み取りの者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以って彼の寺へ村重御制札出し置かれの間、堅く停止為すべくの旨候。万一異儀於者成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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同じく村重の、天正3年11月26日付け音信です。
※箕面市史(資料編2)P414、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料5)-------------------------
一、当寺両座の間、先規の如く仰せ付けられるべく事、一、寺役等同前為すべく事、一、諸事寺法堅固に仰せ付けられるべき事、右条々寺家法度に任せ申し付けられるべく候。若し、相背かれ族之在る於者、堅く寺中仰せ付け為されるべく候。仍て件の如し。
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上記史料5についての副状です。荒木重堅が、天正3年11月26日付けで箕面寺年預御坊参御同宿中に宛てた音信です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料6)-------------------------
御寺家御法度儀に付きて摂津守一書相調え入れせしめ候。各有様為に仰せ付けられるべく候。万一異儀申され仁之在り於者、この方へ仰せ越されるべく候。堅く申すべく候。恐々謹言。
-------------------------

この箕面寺は、池田家とも縁の深い寺で、政治的な画期では必ず音信し、確認事項を交わすなどしています。また、禁制は全て直状形式です。直状は、当主自らが発行する形式で、文末が「仍て件の如し」となっています。
 池田一族が没落すると、代わって台頭してきた荒木村重が音信しています。村重と箕面寺は村重の池田家中時代から既知の仲でしたので、再確認とった音信といえます。基本的な事は踏襲し、もし不都合があれば調整するともいっています。
 それから内容では、箕面寺の自治権も認めているようです。それ以前と少し違う感じがするのは、「摂津守(村重)統治下での」といったところが明らかにされているところです。
 
さて、話しを池田家統治下に戻します。

そのように箕面寺へ宛てて下された禁制の内容は、前例を踏襲されていて、それを発行できる事自体が、権限の継承と考えられますので、長正から民部丞までは、そういった流れがあったと考えられます。
 そこで視点を少し変えて、江戸時代に書かれた『荒木略記』という伝承資料を見てみます。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P2

-(伝承資料1)-------------------------
「荒木略記」荒木信濃守条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させ、その子息直正と申し候を取り立て、大将に仕るべくとて、勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
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続いて、『陰徳太平記』という伝承資料を見てみます。
※陰徳太平記4-P53 (米原正義校注)

-(伝承資料2)-------------------------
「陰徳太平記」三好勢摂州渡海之事:
(前略)。かかりける所に、池田勝正は、元亀元年6月18日、同名豊後守、同周防守2人を生害させて、其の身は何国(いずくに)共なく出奔せり。さるに因りて跡に残る池田の一門、並びに家老諸士等十方(とほう)に暗(く)れて居たりければ、為方(せんかた)なうして頓(やが)て阿波国へ使いを遣わし、御味方に参るべく候間、不日に御渡海候へと云い送る。(後略)。
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こういった伝承にも元亀元年6月の池田家内訌の事が取り上げられているのですが、『荒木略記』には、勝正を追放した後に、別の当主を立てたとあります。
 これまで(というか今でも)、伝承資料は信用性が低いとして、始めから相手にされない傾向にありますが、その割には都合よく引用される事が多々あります。
 しかし、平成の世である今、そんな事をいつまでも続けてよいとは、個人的には考えていません。どの程度正確に伝えているのかも測るべきだと思います。自分で調べてみて感じる事は、何よりも、現に、ある程度の方向性は正しい場合が多いです。これらの事を現代風に例えるなら、伝承資料とは「証言」と捉えてもいいのではないかと思います。

この元亀元年6月の池田家内訌について、上記の2つの伝承資料は、正確に伝えています。細部に若干の「狂い」はありますが、現存している他の史料を丹念に見れば、それらしき動きをしている人物が確認できました。それが「民部丞」に関する史料群です。

今のところ、完全一致という訳ではありませんが、手掛かりとするには非常に有力な要素と思います。ですので、始めに少し触れました、元亀4年の将軍義昭と織田信長の京都での闘争について、池田衆の動きの輪郭を示す事ができるようになります。
 私自身も、その頃の池田家中の核がどこにあるのかが掴めなかった事から、理解が混乱していたのですが、上記の想定の下で、再度見直していきたいと思います。
 
結論としては、元亀元年6月の池田家内訌で、勝正を追放した直後、伝承資料通りに池田家中は、一旦、新たな当主を立てたと考えられます。



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2015年2月13日金曜日

白井河原合戦についての研究

白井河原合戦は、京都の中央政権を研究する上でも非常に重要な出来事だと思いますが、地方豪族の私闘のように概念付けされ、どちらかというと、歴史的な位置付けとしては軽んじられている現状にあるかと思います。
 白井河原合戦の何が重要で、どんな事が起きていたかという事を以下にご紹介していきたいと思います。シリーズで書いたものや随筆として書いたものもありますが、それらを以下にまとめます。ご興味のある方は、是非ご一読下さい。
 
<シリーズでの研究>
白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)
白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)
白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)
白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))


<別シリーズで取り上げた一項目として>
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)
摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)


<随筆>
【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要
元亀2年の白井河原合戦について
和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る
白井河原合戦前夜
元亀2年8月28日の白井河原合戦の事
8月29日の白井河原合戦
宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城
441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣
旧暦8月28日は、現在のカレンダーでいうと10月13日です。
白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について
佐保城と佐保栗栖山城と白井河原合戦の関係性を考える NEW
『佐保佐保栗栖山砦跡- 国際公園都市特定土地区画整理事業に伴う調査報告書 -』にある「人質」「曲輪1(のみ)の火災跡」について考える  NEW


2015年2月11日水曜日

戦国時代の交通・流通(はじめに)

私は、摂津守護池田筑後守勝正について研究していますが、彼が活動した室町時代末期には流通もかなり発達していました。
 そのため、様々な交通手段やそれに関わる組織、経済、手段、規制(法)、整備、管理、地形などなど様々な要素が社会の中で概念化されていました。

人間(個人)は社会に属し、生きるために活動しますので、当然、移動を伴います。陸路・海(川)路を使います。それらがどうなっていて、当時利用され、認知されていたのかを知りたいと思い、これらの分野についても調べたりしています。
 気付いたり、見えてきた事を少しずつ記事にしていきたいと思います。特に近畿周辺の事になると思いますが、ご興味のある方はどうぞご参照下さい。


追伸:この分野に興味を持って、現地の見学に行ったりすると、皇太子殿下が訪ねられた時の写真が飾ってあったり、記念碑が建てられていたりすることが多いので、現地の人に聞いてみました。
 すると、皇太子殿下は歴代の皇族の方々の研究分野は植物系が多いけども、皇太子殿下については、中世の水運や交通についてご研究されているとの事でした。それを聞くと、急に皇室が身近になったような気もしました。なんだか、ちょっと嬉しくなるような感情もあり、思わぬ新発見でした。


河内(枚方)街道について



摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)

今も戦国時代も「お金」です。それのみで社会は構成されていませんが、やっぱりお金は、生活する上で重要な要素である事は、現代社会と同じです。ただ、戦国時代と現代との違いは、問題解決に武力行使を含めて解決するかどうか、です。
 そんなお金の事について、摂津池田家が、どのように収入を得ていたのかを考えてみたいと思います。ちょっとした経済学みたいなものですので、全てを網羅するのは難しいですが、少しずつ記事にしてご紹介するつもりです。

元亀2年(1571)の8月28日に、摂津池田家と和田伊賀守惟政が白井河原合戦(現茨木市郡付近)を行います。これに関連して興味深い動きがあります。
 白井河原合戦に至るまでには伏線があり、幕府方の和田惟政が同伊丹忠親と共に池田領へ侵攻します。特に和田勢は幕府からの支援も得て(というか幕府として)、千里丘陵の南北から攻め込んでいます。5月から8月上旬にかけて、特に南に力を割いて侵攻し、豊嶋郡の中南部を占領し、瀬川の南側辺りまで進みます。
豊中市小曽根に残る今西家
豊嶋郡中南部には、春日社の目代今西家があり、その管理地がある所です。ここは摂津池田家にとっても代官請けを任されている場所であり、重要な収入源のひとつです。
 元亀2年5月から8月の動きは、攻められる三好三人衆方池田家にとっては、重要な地域が切り取られる深刻な事態です。これは解りやすい明確な状況です。
 しかし一方で、元の摂津池田家当主で、幕府方武将としての池田勝正が、7月から8月にかけて、この地域に入っている事は明らかです。細川藤孝・三淵藤英と共に池田城周辺をも攻撃しています。
 そんな中、三淵藤英が春日社目代今西家へ宛てて禁制を下しています。永年の池田家との関係がありながらも、前年まで池田家当主であった池田勝正に禁制を求める事なく、南郷社家目代(今西家)は、7月26日付けで三淵から禁制を受けています。
※新修豊中市史(古文書・古記録)P273、豊中市史(史料編1)P122

-(史料1)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事、一、竹木剪り採り之事、付き立ち毛(農作物)苅り取り事、一、非分課役相懸け事、付き寄宿免除事、放火事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

そして、それには副状というか、附則のような補足の約束が付けられ、今西家に対して特別な配慮がされています。今西氏も判断に迷い、護るべきものへの憂慮を深めて、苦渋した事でしょう。7月26日付けで、三淵が春日社目代へ宛てて判物を下しています。
※豊中市史(史料編1)P123

-(史料2)-------------------------
御土居屋敷(今西屋敷)の儀、往古従り陣無きの由候。只今の儀者日暮れの間、向後之引き懸け成すべからず候。恐々謹言。
-------------------------

三淵が、禁制と判物を今西家に下す前、和田惟政が「摂州豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現原田神社)」に宛てて、禁制を6月23日付けで下しています。今西家への禁制と内容(項目)は同じです。
 ちなみに、和田から三淵にこの地域の主将が変わっているのは、和田は大和方面への対応も行っていたためで、7月頃は奈良へも出陣して、筒井順慶などの支援を行っています。
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史3(史料編1)P432

-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

現在の原田神社
さてしかし、これらの規範概念に附則を加えて、三淵は今西家に配慮している訳です。今西家にとっては、これまで永い間に渡って代官請の契約をしていた池田家が分裂し、敵味方となって争っているのですから、判断に迷うのは当然でしょう。しかも、それが自分の管理地内で起きている訳です。
 そして三淵が7月26日に禁制を発行した僅か6日後の8月1日付けで、新項目を加えて、三淵が新たな禁制を摂津豊嶋郡牛頭天王(現原田神社:大阪府豊中市中桜塚)へ宛てて発行しています。
 陣取りについての不測の事態を警戒しているようで、これらを正式に条文に入れるよう、今西家の周辺地域からも要望が出されていた事が判ります。
※豊中市史(史料編1)P122、新修豊中市史(古文書・古記録)P273

-(史料4)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱入、一、狼藉事、一、竹木剪り採り事、一、陣取りに付き殺生の事、一、矢銭・兵糧米相懸け以下非分課役事、一、国質・所質請け取り沙汰事、一、敵味方選らずべく事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

史料4の最後の条文、一、敵味方選らずべく事、とは、戦争に巻き込まれる事を何としても避けたいとの意思が伝わってきます。

一方、この場に確実に居た池田勝正についてですが、今西家はなぜ勝正に禁制を求めなかったかというと、一般的には、実効性が低いと見たためという方向性で考えるでしょう。
 しかし、その一番の原因は、この時の幕府(織田信長)による、地域利権の整理(経済政策)の動きが大きく作用しているとも考えられます。多分これは、幕府が一旦、池田家の領地を接収したものと考えられます。
 幕府が制圧し、その地域を欠所として接収し、その後に幕府が認めた権利というカタチで給分を然るべき者に下します。これは複雑で不安定な権利の整理を行い、中央集権的に管理を強化する政策です。

もし、白井河原合戦が和田惟政の勝利となり、垂水庄が幕府方に占領されていれば、勝正が再びこの地を幕府より与えられていた事でしょう。
 8月2日、池田城に対する相城(原田城などを再利用か)へ池田勝正が入ったのは、そういう意味があったと思われます。
※大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)

-(史料5)-------------------------
『元亀2年記』8月2日条:
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
-------------------------

明治時代頃の原田城跡の様子
原田地域は、伊丹・吹田との連絡のために非常に重要な場所で、伊丹城へは手旗や光(鏡)、狼煙などで連絡が可能です。目視も十分にでき、戦前の軍事演習では、原田の丘陵から手旗で伊丹方面の友軍に連絡をしていたようです。幕府方は地縁のある勝正がここを守るのは適任と考えたのでしょう。もちろん、原田地域の有力者であった、原田氏とその関係者もそこには多く居ます。
 勝正と行動を共にしていた細川藤孝は、事態を楽観的に捉えていたようで、勝正と別れて勝龍寺城に戻り、翌日には歌会に出座したりしています。史料を見ても、確かに幕府方が有利で、そういう判断をしたのも無理はありません。
 しかし、三好三人衆方池田家は、この頃に着々と反撃の準備を行っていた事もまた、事実です。
 
さて、この時期の池田家は、どちらにしても、上位権力の体制内での勢力となってしまいますから、その上位政権の政策や意思に従う事になります。
 将軍義昭・織田信長政権についての政策研究は、脇田修氏や橋本政信氏の研究をお読み頂ければと思います。大変詳細に分析されていて、興味深い概念提示がされています。私はその説に大いに影響を受けています。

摂津池田家に対する領地の接収は、この時が始めてではありません。それらは追々ご紹介しますが、池田家が将軍義昭政権下に入ってから度々あり、それに耐えきれなくなった池田家中が、当主勝正に不満を抱き、内訌に至ったものと考えられます。
 尤も、その一点では無く、いくつかの要素があっての内訌理由ですが、不満の火種は経済問題であった割合が大きかったと思われます。生活が圧迫される、景気が悪くなる事は、解りやすい大きな問題である事は、今も昔も変わりませんから。





2015年1月13日火曜日

摂津池田家についての発表会 続報

来月の8日に予定されています、私の摂津池田家についての研究発表会ですが、会場が決まりましたのでお知らせします。 ご興味のある方は、是非お越し下さい。
※私も会員なのですが、池田郷土史学会様では、会員も募集中です。年会費3,000円です。

とき:平成27年2月8日 13:30〜15:00
ところ:池田コミュニティーセンター 栄本町 2皆
テーマ:「池田氏の内紛と白井河原合戦」
主催: 池田郷土史学会様 第629会例会
費用:一般 700円 会員 500円 (レジュメあり)


2014年12月11日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その7:池田勝正追放後に別の当主を立てたか)

池田勝正とその時代の池田家について見ていくと、気になる事(人物)があります。後世に創作(全くの事実無根と考えている訳では無い)された家伝で、『陰徳太平記』や『中川家記』などには、元亀元年6月の池田家内訌で勝正を追った後に、別の当主を立てたかのような記述があります。これが、事実かどうか、すごく気になっていました。
 ところが、実際の当時の史料を丹念に見ていくと、どうもそれらしい人物がいる事に気がつきました。

元亀元年夏に勝正を追放後、白井河原合戦(元亀2年8月)の大勝利を経て、一時は順風が吹いたかと思われましたが、再び家中で対立が起きます。池田一族と荒木村重などのいわゆる、外様の対立となります。
 この時、池田一族は当主として民部丞なる人物を立てる、と、将軍義昭に伝えて、その支援を約したようです。その動きを伝える史料があります。また、同史料では年記を欠きますが、内容から見て元亀3年頃の事と思われます。将軍義昭が上野中務大輔秀政へ御内書を下しました。
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98

-(史料1)-------------------------
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
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ご存じのように、これはこの頃の中央政権(京都)内部で、将軍義昭と織田信長が対立した事と相対した動きです。
 やはりこの時も、池田家は頼りにされおり、双方から誘いがあったようで、池田家が分裂して、池田一族は将軍義昭に、荒木村重が織田方に味方する事がわかると、それぞれの勢力から大変喜ばれています。
 織田信長に関する史料をご紹介します。元亀4年2月23日付けで織田信長が、細川兵部大輔藤孝へ音信したものです。
※織田信長文書の研究-上-P606、兵庫県史(史料編・中世9) P432など

-(史料2)-------------------------
前置き:
公儀後逆心に就き、重ねて条目祝着浅からず候、
本文:
一、塙九郎左衛門尉直政差し上せ御理り申し上げ候処、上意の趣き、条々下し成され候。(中略)一、摂津国辺の事、荒木信濃守村重信長に対し無二の忠節、相励まれるべく旨尤も候。(後略)。
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この中央政権内の対立の結果は、皆さんがご存じの結果に終わり、織田方が将軍義昭に競り勝ち、独自の政権を樹立する事となります。
 池田家も将軍義昭政権の機能停止をもって、それまでの主従の力関係、権力構成が変わります。ただそれは、急に入れ替わった訳では無く、天正2年いっぱいまでは、池田衆ブランドも侮りがたく、荒木方との競り合いはあったようです。

さて、元亀元年6月の池田家内訌直後に視点を戻します。先述の(史料1)に登場する人物と同じかどうかは現在のところ調査中ですが、民部丞某が、元亀元年7月から11月までの間に、3ヶ所に禁制を下しています。それらは何れも、池田家当主が音信したり、禁制を下したりしている実績のあるところです。
 ちなみに、文末は「仍て件の如し」で、これは直状形式といわれるもので、本人自らが書いた命令書という概念で分類されています。

先ず1つ目の史料です。この頃は、6月28日に吹田へ三好三人衆勢力が上陸する状況で、大山崎方面もこれに関連する対応を講じていたようです。 史料は元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。
※島本町史(史料編)P443など
 
-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事並びに放火事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、国質・所質に付き沙汰之事、一、非分申し懸け族(候?)事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩に於て者、速やかに厳科に処すべき者也。仍て件の如し。
-------------------------

続いて2つ目。摂津国川辺郡の多田院へ宛てて禁制を下します。この頃は、本願寺宗が反幕府方へ付き、大きく環境が変わる時期です。また、同月8日には伊丹・和田勢が、池田領内の市場などを放火したりして打ち回ります。
※川西市史4(資料編1)P456など

-(史料4)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

3つ目です。同国豊嶋郡箕面寺に宛てて禁制を下します。この頃は、幕府方の劣勢が誰の目から見ても判る時期で、同月には、南山城地域でも土一揆が活発化したりしています。 元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てて禁制を下しています。
※箕面市史(資料編2)P414

-(史料5)-------------------------
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
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上記の禁制が発行された時期は、反幕府勢力の三好三人衆勢力が五畿内地域で勢いを盛り返し、大規模に軍事行動を起こしていました。
 そして、これらの地域や組織に禁制を下した民部丞なる人物が、全て同一人物となれば、池田勝正追放後に当主として立てた人物である可能性は非常に高くなると考えています。同時に、伝承記録は正確な部分もあるという事も判明します。

この人物比定については、近日に明らかにする予定ですのでご期待下さい。この人物は、これまでに誰も特定していませんので、同一人物か否かがハッキリすれば、次の可能性に移る事ができ、摂津池田家についての研究は、更に一歩進む事と期待しています。



※ただいま記事(5・6・8分)を執筆中




2014年11月30日日曜日

ブログ紙面に広告の掲載を始めたいと思います

いつも池田勝正研究所のブログをご覧いただきありがとうございます。

2009年にブログを開設以来、今では、毎日大変多くの方々にご覧いただけるようになりました。この閲覧者数の増加は、情報を提供する私にとっても大変励みになります。これからも多くの方々のご興味を満たすことができる記事を書いていきたいと思います。

一方で、将来的にはこの池田勝正研究所の記事をまとめて、本にしたいと考えており、その資金作りの一助としたいために、このブログを活用できたらと思うようになりました。ブログに広告を表示し、もしそれでいくらかの収入につながれば、本にするための資金にしたいと思います。
 
広告の表示で、このブログの紙面が少し賑やかになりますが、どうかご理解の程、宜しくお願いいたします。近日、この取組を始めたいと思います。


2014年11月12日水曜日

摂津池田家についての研究発表会

摂津池田家についての研究発表会を致します。ご興味のある方は、是非お越し下さい。
※私も会員なのですが、池田郷土史学会様では、会員も募集中です。年会費3,000円です。

とき:平成27年2月8日 13:30〜15:00
ところ:池田コミュニティーセンター栄本町 2皆
テーマ:(仮題)「荒木村重の登場-池田衆の内紛と白井河原合戦の前後」
主催: 池田郷土史学会様 第629会例会
費用:一般 700円 会員 500円 (レジュメあり)

まだ、完全に内容を固めたわけでは無いのですが、一応の方向性としては、「 荒木村重が活躍した白井河原合戦に見る、池田衆の構成と内紛の歴史」について、ご紹介したいと考えています。
 池田衆の内紛の過程で頭角を現した荒木村重について、史料を基にご案内ができればと思います。史料を見ると、荒木村重は池田家中の中枢に請われて地位を上昇させており、村重の人物像について、これまで言われてきたような「下克上」を体現した狡猾な人間であったとは、私には思えません。その場その場で、ベストを尽くした結果が「摂津一職守護荒木村重」であったと思います。

私は荒木村重の信奉者ではありませんが、淡々と歴史を見、事実が何であったかを知りたいと思い続けています。
 発表では、それらの過程をご紹介し、今までよく判らなかったところに迫ることができればと思います。これを機に、多くの方に地域史の魅力や面白さを知っていただき、また、研究の拡がりに繋がればと願っております。


2014年9月30日火曜日

永禄12年正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について(はじめに)

永禄12年正月に行われた京都六条本圀寺・桂川合戦は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、中央政権にを樹立して最初の試練でした。また、この合戦は日本史上でも有名な合戦です。
 これに池田勝正も積極的に参戦し、重要な役割を果たしているのですが、家が滅んでいるだけに、記録的に滅茶苦茶な伝わり方をしており、そこには事実無根な要素も多数見られます。通説のまま、今も真実が正される事も無く伝わっています。意外と業界でもそれを詳しく見直すような動きは無いようで、そういった研究や著作を見たことがありません。
 日本史上でも重要な戦いであるだけに、それは正しておくべきだと思います。池田勝正を調べる上で、この六条本圀寺・桂川合戦の真実について、判った事をいくつかに分けて説明したいと思います。

またこの事で、勝正についての汚名挽回にもつながるでしょう。私は彼の信奉者で、絶対に善人であって欲しいという偏った思い入れはありません。ひとりの人間の生き方に興味があるだけです。
 しかし、事実では無い、明らかな間違いは正しておく必要があると思います。正確にその人生を理解するためにもです。

それらの説明を以下の視点からしていきたいと思います。

 (1)六条本圀寺へ至る三好三人衆の行動
 (2)幕府方池田衆などの行動
 (3)合戦の様子
 (4)合戦の背景
 (5)六条本圀寺・桂川合戦における嘘だらけの池田勝正像
 (6)この合戦から判った、防衛面での京都の脆さ
   ※本圀寺、本能寺、旧二条城など。
   ※京都を守り続ける必要性と意味。
   ※池田衆は京都にも屋敷を持っていた。

 (参考)現在の六条本圀寺跡の様子
 (参考)戦国武将の戦い方


2014年8月15日金曜日

京都六条本圀寺跡を訪ねる

永禄12年(1569)正月、就任したばかりの将軍義昭居所で起きた京都六条本圀寺・桂川合戦は、池田勝正にとっても大きな出来事でした。

このテーマについても何れ詳しく取り上げたいと思います。このエピソードは、諸家の伝承で取り上げられていますが、多くが間違えて取り上げられており、それが勝正の名誉を損なっている元になっています。もちろん、事実とは違います。

さて、詳しい事は後日としまして、先日、その舞台となった京都六条本圀寺跡を訪ねてきました。今回は、簡単に写真でご紹介します。
 また、この歴史探訪にあたって、湘南情報数理化学研究所の主宰藤田眞作様のサイトにある「第20回 六条本圀寺はどこへ」を主に参考に下調べをさせていただきました。流石に学者さんだけあり、非常に詳しく調べられています。すばらしい資料です。
 また、「六条の地に於ける終竟の本圀寺」「京都六条本圀寺(本文)」というインターネットサイト(ページ)もありこちらも大変参考になります。こちらに写真や地図、見取図もあります。

本圀寺は現在、同じ京都市の山科区に存在するのですが、1971年(昭和46)まで、今回探訪した場所にありました。 本当に信じられないくらい、そこに本圀寺があったとは思えない景色でしたが、実際に歩いてみるとその大きさもですが、いくつかの名残があり、想像を助けてくれました。
 歩いてみると感じるのは、広大な寺地です。今は五条通りがありますが、これが寺地を東西に分断するカタチになってしまいました。その本圀寺の領域の広さを示すために、碑が南北に1つずつ建てられています。また、五条通りの周辺に塔頭寺院も残っていて、今もその永い歴史の縁を繋いでいます。また、1つだけ本圀寺の門も残っています。
 もちろん、創建当初からこの規模という事では無く、時代による変遷があり、最終的な大きさとしての名残だと思います。
 それから、永禄12年当時は、本願寺の施設はありませんので、この六条あたりではこの本圀寺が最大級の施設だったようです。

京都の神社仏閣はどこもそうですが、歴史深く、様々な有名なエピソードがあります。しかし、それら1つずつに触れていては、特定の視点を深める事はできませんので、永禄12年正月に起きた、三好三人衆勢による京都本圀寺襲撃事件に視点を絞っていきたいと思います。
 京都本圀寺を実際に歩いてみて思うのは「広大な寺地」です。これ程の寺地規模自体が、将軍義昭を守ったのはよく理解できます。臨時の幕府拠点となっていた事もよく解ります。当時の京都は、永年の戦乱で将軍の居所たる城や適当な屋敷も無く、一時的に寺を利用せざるを得なかった事も三好三人衆側への弱点ともなっていました。
 しかし、「将軍は京都に留まる」という、本来の職務を重視した将軍義昭政権は、そのためにいざという時の防御も考えて本圀寺にその居所を定めた訳です。
※義昭の前の将軍義栄は、京都に防御を満たす適当な場所が無いために、摂津国冨田に御座所を置いていました。

この三好三人衆による本圀寺襲撃事件をきっかけに、京都市中に急遽、将軍居所たる城の重要性が取沙汰され、二条城の建設となります。ちなみに、この時の二条城は、今の二条城とは違う位置に建設され、これに池田衆も役負担を命じられています。

詳しくはまた後日の特集でご紹介するとして、以下、歴史探訪の時に撮った写真をご紹介致します。

京都本圀寺寺地南側境にある碑


五条通を越えて北側にある本圀寺寺地境の碑

旧境内内にあたる猪熊通から北を望む

五条通北側にある智了院から南を望む

今も残る本圀寺の墓地

真如院(写真左)など今も塔頭が通りに並ぶ





2014年6月28日土曜日

戦国時代に池田市木部町にあった木部砦(城)跡

久しぶりに更新します。ちょっと時間が無くて、テーマの途中で止まったままですいません。まとまった時間が取れないので、思索を深める事ができず、まだまとまっていません。残りは必ずアップしますので、もう少々お待ち下さい。

それで、今回はその償いという訳ではないのですが、池田市の木部地域にあった木部城をご紹介します。以前(10年以上前)、呉江舎でも取り上げたのですが、今年の5月に地元の方に詳しく状況をお聞きした事を図と写真で簡単にまとめましたので、ご覧頂ければと思います。

参考ページ:摂津池田城の支城木部砦跡?

場所は、大阪府池田市木部町376を北限とした付近一帯です。



また、今のところ想像ですが、素人ながら縄張図も書いてみました。


<図の要所説明>
  • A・Bの場所に高所へ上がる道が存在したか?また、存在したとすれば、施設や設備が存在した可能性もある。
  •  C.代官所と伝わる場所があり、重要施設が存在した可能性もある。現在も僅かながら道が折れ曲がった環境になっている。
  •  D.の場所に奇妙なクランク状の道があった。現在は駐車場になっている。何らかの公的な施設があった可能性もある。
  •  土居という小字があった事から、土塁があり、またその上部には柵や壁などがあった可能性もある。
  •  木部砦は、能勢街道と余野街道に挟まれた立地に存在している事から、防御のために、土塁で城域を囲んでいた可能性もある。
  •  川は、元は堀のような役割を持ち、砦領域の外郭を流れていた可能性もある。現在の流路は、造園業が盛んとなって、後世に付け替えられたのかも知れない。

上記は、今のところの情報での作図ですので、あくまで想像です。今後は更に詳しく聞き取り、専門家にも聞き、精度を上げた図を作成したいと考えています。

それから、取材した時の木部砦跡の写真をいくつか以下に紹介します。



伝土居あたりから西を見る
伝土居あたりから北を見る

西縁の段差の様子(南から北を見る)

西縁の段差の様子(北から南を見る)
北縁の現在の様子(昭和30年代の洪水後に改修し、幅が倍に)
伝土居付近から五月山を見る(山の窪みあたりに愛宕神社)
五月山山上の愛宕神社から木部方面を見る

現在の池田市木部町は、摂津国豊嶋郡細河郷内にある木部村ですが、ここには「下村」という姓があり、庄屋も務められていた家があります。
 『多聞院日記』の永禄10年5月18日条に、奈良に出陣した池田勝正の配下の武将として下村重介という武将が戦死した旨が記録されています。この武将は、足軽大将で100名程を束ねていたと、その時に聞いた情報が書き残されています。

私はこの下村重介が木部村の出身の侍だったと考えていて、長い間興味を持っていました。そしてこの木部地域は、能勢街道と余野街道が交差し、猪名川と余野側も交差する重要な地域です。
 また、五月山の裏に位置する細川荘の出入り口にあたり、池田を支える重要な場所でもありました。もちろん軍事上も大変重要な位置です。

それからまた、戦国時代は、国境や郡境が曖昧で、力関係で常に移動しています。猪名川を挟んだ東西は猪名川が大きいために安易に勢力が入り込むこともありませんが、細河荘の北側は山で、その尾根上を重要な街道が通っています。更にその西側には、能勢街道も通っています。

この辺りは川辺郡と豊嶋郡の境目で、川辺郡は塩川氏、豊嶋郡は池田氏が領する地域で、実力で勝る池田氏は、猪名川を越えて西に勢力を拡げていました。今の川西市小戸・小花・栄根・加茂・久代あたりにも勢力を拡げ、栄根のあたりを荒木村重一派が領していたようです。

現在と同じく兵庫県と大阪府池田市の境となっている山塊の尾根筋から南側を池田氏が、その北側を塩川氏の領域とていたのでしょう。
 ですので、重要な場所には必ず軍事的な施設や設備があって、それぞれが連携していたと考えられます。写真でもおわかりのように、五月山から見れば細河荘方面はもちろん、北側は全て見渡すことができます。
 そして、その南にある池田氏の拠点、池田城がこの五月山を利用して軍事的な補完関係にあった事は、戦国時代であれば、当然のことだったと思われます。

そんな凄い事が見えてくる池田市細河地区です。続きはまた、追々アップいたします。




2014年3月15日土曜日

摂津原田氏とその城について考える(その1:元亀4年以前の摂津国原田城について)

原田城は池田氏の本拠地である摂津国豊嶋郡の中南部にあって、非常に重要な地域でした。そしてここには重要な街道も多くあり、また、その西側には猪名川、南側には神崎川も流れていて、それらの川は郡境で、原田は「境」に囲まれた地域でもありました。

さて、少し史料上に出てくる原田城を見てみましょう。年代順に並べてみます。

天文10年(1541)11月4日、細川晴元の重臣であった木沢長政が敵対するようになり、晴元方池田信正の関連地域を攻めます。この時に原田城を攻めたようです。ちなみにこれが、豊中市教育委員会によるところの原田城の記述に関する初見です。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P605

-史料(1)------------------------------
(前略)。同11月4日に打ち立て、池田城・原田城は三好方と一味なるにより、先原田城へ取り懸け責る所に、三宅出羽守、京の晴元へ帰参の噯い有るにより、木沢方聞き、原田城打ち置いて、一夜陣取りて河内へ帰られける。
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続いて、天文16年(1547)2月9日から細川晴元勢が原田城を攻め、同月20日に落しています。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P607

-史料(2)------------------------------
2月9日に四国衆、淡路衆、三好衆、畠山総衆、同遊佐、同木沢大和守、同弟都合30,000余騎にて摂津国原田城を取り巻ければ、則ち城内難儀なり。三好宗三(政長)を頼み噯いに成りて同20日に城を明け渡し也。
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それから近年、ちょっと興味深い戦国時代の人々の感覚的な要素が、研究で指摘されるようになっています。河内国守護畠山氏も含め、奈良・和歌山方面の研究を主にされている、田中慶治氏の著作の中で興味深い分析をされています。その興味深い一節を引用します。
※中世後期畿内近国の権力構造P282

-参考(1)------------------------------
中世後期の(大和国)宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。
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と見解が述べられています。これは、大変興味深い研究結果です。ただ、これが学会全体に認められた概念になっているのかどうかで、公的な認識は変わってくると思いますが、しかし、私も池田家の動きを見る中で、こういった気概が、その地域で活動する人々の中に無ければ、結束ができないと考えています。
 結束ができないと言うことは、集団での行動や経済活動、都市の形成と維持の全てができないと考えているからです。現代と違い、法律も行き届かず、個人の利益や自由、安全などを集団に委ねる必要があった室町時代では、現代よりもこういった結束意識は強かったと思います。また、そうでなければ、集団からはじき出された個人は、とうてい生きていけません。集団への帰属意識は半ば、生きるための基本的意識であったように思います。
 摂津池田家との意識の差がどのくらいあるのかという問題点があるのかもしれませんが、畿内地域での感覚は、それ程大差が無いように思います。田中慶治氏の研究は大変参考になりました。

さて、原田城に関する史料の紹介に戻ります。これは直接的な史料では無いのですが、天文18年(1549)1月24日に、細川晴元衆三好政長勢が、摂津国多田の陣から南下し、池田領内を放火するなどして打ち廻ります。市庭とは、池田城下の市場との見解もあるのですが、もう少し広範に打ち廻っていた可能性もあります。西国街道沿いの市場集落や原田方面にも及んでいたかもしれません。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P609

-史料(3)------------------------------
(前略) 一、同1月24日に三好入道宗三政長、摂津国多田衆引き催し候て、池田市庭放火する也。
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同年4月28日、細川晴元衆三好政長勢が、自分の息子が籠もる摂津国榎並の城の援護のために尼崎方面を放火などして打ち廻ったようです。この動きについては池田は重要な位置関係にありますので、何らかの役割を果たしていたのかもしれません。この時、晴元が一庫城に入り、後巻きに着いたのを確認して、政長は伊丹城から出陣しています。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P610

-史料(4)------------------------------
(前略)、同28日に取り出で打ち廻し、摂津国武庫郡中西宮まで放火させられたり。此の時淡路衆、尼崎に在陣候つれ共、無人数にて其の夜中に越水へ加わられけり。
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原田城跡の比高差の様子
同年8月24日から細川晴元に敵対する同族同苗の氏綱に与する三好筑前守長慶が、細川晴元方の拠点の一つになっている伊丹城を攻め始めます。この時、伊丹城の四方に向かい城を築いて持久戦体制を取ります。これに池田衆も参加していて、森本(現兵庫県伊丹市森本)に入ります。
 ちなみに、森本方面から真東に原田城があり、こことの距離は半里(約2キロメートル)程です。人間が歩いても30分程、馬なら10分足らずでしょう。また、視界も開けていて、ハッキリと見える距離で、手旗など信号も色々と送る事ができて、連絡が可能です。
 実際、戦前にこのあたりの平野で、度々陸軍の軍事演習が行われており、原田城跡あたりの高台の木に上って、伊丹方面の友軍に手旗信号で連絡を行っていた記録もあるようです。
 ですので、この一連の軍事行動でも原田城は、重要な役割を果たしていたいと考えられますが、直接的な史料は見当たりません。あくまで推測するしかないのですが、状況証拠を集めると、その推測の妥当性は高くなるように思います。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P611

-史料(5)------------------------------
一、伊丹城計り堅固也。同8月24日より対城拵え、東方は森本に池田衆、南は富松、前田城(場所不明)に淡路国衆、西は御願塚に三好方衆、乾は昆陽城に小河式部丞籠もられたり。此の分に候へども伊丹城より同郷へ夜々手遣いして百姓痛(?)と申し候也。とかく月日を送る也。(後略)。
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天文22年(1553)8月18日、丹波国に出陣中の池田衆の留守を衝いて、再度、細川晴元方である塩川国満勢が池田領内に入って打ち廻ります。この時は多分、池田城の周辺を打ち廻っただけで、それより南下する事はなかったと思われます。この頃には晴元方は、随分劣勢で、攻めたとしても大規模ではなかったようです。しかし、池田と一対の城である原田城も緊張感をもって備えていたことでしょう。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P613

-史料(6)------------------------------
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして、則ち明くる日帰る也。
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その後しばらくは、豊嶋郡の原田城下に差し迫った危機はないように思われ、あるにしても、その周縁部での事のように思われます。そのため、原田城に関連する項目は見当たらず、永禄9年(1566)まで時は下ります。
 5月28日、足利義昭擁立派であり、松永弾正少弼久秀与力である伊丹親興などの軍勢が、足利義栄擁立派三好三人衆方の池田勝正領内に攻め入ります。この時も池田勝正が軍勢を率いて堺へ出陣をしていた隙を突いての、池田領内の侵入で、陽動作戦のようでした。池田衆は敵の10分の1の300で反撃し、14名の武将を討ち取っています。
 多分、この時も池田衆の主力が堺へ出陣していたことから、その間の領内の防衛については、それぞれの城が連携していたいと思われます。概ね、池田城と連携する原田城も何らかの役割を果たしていた事でしょう。
※続群書類従29号 下 (雑部:永禄九年記)

-史料(7)------------------------------
6月9日条:
去月28日、伊丹・塩川・中島等人衆(数)3,000計り、池田押し寄せ、市場中付け散々相戦い、池田衆300計り切り出し、伊丹同道2人、塩川内衆彼是12人打ち取り云々。
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そしてその2年後の同11年9月30日、足利義昭擁立派である織田信長が、大挙して摂津国へ攻め入ります。池田衆は三好三人衆方として、城を頼みに唯一の籠城戦を展開し、敵に一矢を報います。
 しかし、大軍に囲まれ、救援の見込みもなく、勝正は奮戦したものの3日後には開城を余儀なくされます。
※言継卿記4-P273、多聞院日記2(増補 続史料大成)P91、群書類従20(合戦部:細川両家記)P629、信長公記(現代思潮社)P91

-史料(8)------------------------------
『言継卿記』9月30日条:
(前略)。今日武家摂津国芥川へ御座移され云々。勝竜寺・芥川の城などの城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調え之有り、池田へ取り懸け云々。(後略)。
『多聞院日記』9月30日条:
(前略)。一、摂州悉く焼き払い、河州高屋まで今日は焼き払い了ぬ。山城国稲八妻昨夜退城了ぬ。城州、摂州、河州、隙開け、急度当国(大和国)へ人数越すべく歟。(後略)。
『細川両家記』
一、同9月30日に織田上総介信長50,000人計りで池田城取り巻き。火水と攻められ候処、城の内より切り出で14人討ち取り、其の外に手負い数百人之有る由候。(後略)。
『信長公記』信長御入洛十余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)。10月2日に池田の城、筑後守居城へお取りかけ、信長は北の山に御人数を備えられ、御覧候。水野金吾内に隠れ無き勇士梶川平左衛門尉とてこれ在り。並びに御馬廻の内魚住隼人・山田半兵衛尉、是れも隠れ無き武篇者なり。両人先を争い、外構えに乗り込み、爰にて、押しつ押されつ、暫くの闘いに、梶川平左衛門、腰骨を突かれて罷り退き、討ち死に也。魚住隼人も爰にて手を負い、罷り退かる。ヶ様に厳しく候の間、互いに討ち死に数多これ在り。終に火をかけ、町を放火候也。 (後略)。
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この時、原田城も当然ながら、何らかの役割を果たしていた筈ですが、数万の軍勢ともなれば、到底手には負えません。友軍の三好三人衆勢も総崩れとなり、大混乱で、そんな中で池田衆・原田衆は、それぞれ城に籠もって身を守るのが精一杯だったろうと思われます。
 その後池田衆は、三好一族ではありながら、将軍となった足利義昭政権に取り立てられ、摂津の守護職を任される事となります。池田家は勝正の代で、歴代最高の社会的地位を得て、家中の人々もこの重責に応えようと懸命に働きますが、報わる事なく、次第に家中の思いの違いが、統制が乱れにつながっていきます。

元亀元年6月18日、遂に当主である池田勝正を追放するに至る内訌が発生します。この一連の騒動の記録に、原田城が登場します。
 この内訌で勝正は、池田城を追われるのですが、京都へ向かう途中に、原田城へ立ち寄った可能性が、記録から推察ができます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634
 
-史料(9)------------------------------
『言継卿記』6月19日条:
摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:
去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内2人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。(後略)。
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勝正は、能勢街道を大坂方面へ向かったとしていますが、この途中に原田城があります。多分勝正は、一旦、原田城に入ったのではないかと思われます。
原田城の土塁跡
また更に、能勢街道上には、刀根山(現豊中市刀根山)の寺内町もあり、ここには池田家の祈願所でもある高法寺がありました。ここにも、一旦、入ったかもしれません。
 『言継卿記』では、刀根山を経て大坂方面へ向かった、との記述があるのですが、多分、勝正はその伝聞記録の通りの動きをしただろうと考えています。
 というのは、池田衆は近江国での「姉川の合戦」のため、同国高島郡へ軍勢を率いて出陣する予定があった事から、不測の事態が生じた事を知らせる必要があったため、勝正は原田城へ入った可能性も低くは無いと考えています。身を守るためもあっただろうと思います。
 池田家中で内訌があった事が、京都に報じられると、すぐ様、幕府は反応しています。
※言継卿記4-P424

-史料(10)------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。(後略)。
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そして、同月28日、摂津守護であり、将軍義昭の側近である和田惟政が、敵となった池田領内に侵攻を始めます。原田城下といってもよい領域である小曽根春日社に宛てて、6月28日付けで惟政は、禁制を発行します。
 同日、三好三人衆勢は吹田へ上陸し、原田城下は戦闘地域となり、最前線となります。そして翌月6日、吹田城で交戦があり、幕府・織田信長方が勝って、吹田城は確保されました。
 しかし互いの勢力が、原田・吹田方面とその周辺地域に軍勢を繰り出すなど一進一退で、優劣の判断がつき難い状況でした。
 そのため、その去就を巡って、原田城内でも様々な話し合いが行われていたと想像されます。そんな中、原田の西方川辺郡の猪名寺付近で交戦が行われます。8月13日の事です。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-史料(11)------------------------------
一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
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◎注意:『細川両家記』での「へ」は、「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があり、意味が通りやすいように、適宜書き換えています。

同月25日、遂に原田城内で動きが出ます。織田信長が、再び大軍を摂津国方面へ入れた事も原因かもしれません。
 原田家中の主要勢力が、原田城を焼いて、池田城へ入ったと記述があります。城を焼くくらいですから、大多数の総意だと思われますが、いずれにしても、この原田家の人々の動きは、三好三人衆方に加わる事を決し、見込みの無い籠城よりは、より展望の開ける方法を選んで行動したことは、間違いない事でしょう。
※言継卿記4-P440

-史料(12)------------------------------
8月25日条:
一、早旦飛鳥井中将、同烏丸弁、辰刻(午前7時〜9時)藤宰相等摂津国へ出陣云々。同織田弾正忠信長出陣。3,000計り之有り。両三日陣立ての衆40,000云々。一、摂津国原田の城自焼せしめ、池田へ加わり云々。
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これにより、三好三人衆方池田家の防衛戦は北側へ後退し、多分、瀬川あたりの川が境界になったのだろうと思われます。
 明けて9月8日、伊丹忠親・和田惟政連合勢は、共同して池田領内の市場などを放火したりして、打ち廻ります。これは状況からして、西国街道沿いの東・西市場村を指すのかもしれません。
※言継卿記4-P443

-史料(13)------------------------------
9月9日条:
(前略)。池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。(後略)。
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8月25日に原田城が放棄され、この後に幕府方が入って、拠点化目的で再利用したとも考えられます。原田城は、地政学的にも要地であり、また、天然の要害性も持っており、利用しないはずはありません。
 元亀元年9月13日、大坂本願寺が、幕府・織田信長方に対して、組織的に敵対する事を明らかにした事で、一気に形成は逆転してしまい、この年の暮れ、幕府・織田方は劣勢を解消するために、それら諸勢力と一時的に和睦を結びます。

しかし翌2年、6月頃から再び摂津国豊嶋郡方面では、交戦が活発に行われるようになります。6月10日、吹田城が再び和田惟政によって落とされます。
※言継卿記4-P502

-史料(14)------------------------------
6月11日条:
(前略)、昨日摂津国和田伊賀守惟政吹田へ取り懸かり打ち果たし云々。首57上げ云々。但し親は遁げ云々。
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更に同月23日には、豊嶋郡牛頭天王へ宛てて、惟政が禁制を発行します。また、翌月26日、翌8月1日には、幕府衆三淵藤英が、南郷目代今西家などに宛てて禁制を発行しています。当番制などで、和田惟政から三淵藤英へ担当の交代があったようです。
※豊中市史(史料編1)P122

-史料(15)------------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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この方面はまた、一進一退の戦闘の最前線になります。
 しかし、この時は幕府方が優勢だったようで、そしてまた、前年のように瀬川付近にまで攻め入っている様子が窺えます。7月下旬から翌月初旬にかけて、将軍義昭側近の細川藤孝が、池田勝正と共に池田城を攻めています。
 しかし、この時は池田城に打撃を与えることはできず、勝正は原田城に入って、その後の警戒を行う任務に就きます。藤孝は、居城の勝竜寺城に戻ります。記述からは、原田へ新たに付城を拵えたとも受け取れます。
※大日本史料第10編之6(元亀2年記)P701

-史料(16)------------------------------
8月2日条:
晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守入城。
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その後間もなくの8月28日、三好三人衆方の池田衆が反撃に出て、白井河原での決戦を行い、幕府方の和田惟政を打ち負かして大勝します。この合戦で、勢力図が大きく塗り変わり、池田家の歴代では最大の版図を獲得します。戦争で得た領土としては、これが最大だったのではないかと思います。また、惟政やその被官が多数死亡したした事により、池田衆は元の領地を取り戻しただろうと思われます。
 そういう状況になりましたので、勝正は原田城を退いて、必要な対策を講じる活動などをしつつ、最終的には京都へ戻るなどしたのだろうと思われます。

白井河原合戦後の原田城は、三好三人衆方池田家領に復し、最前線では無くなりましたので、元亀4年(1574)までの数年間は、短いながらも戦争の無い日が続きます。その事もあって、城に関する史料は見られなくなります。
 
次は、将軍義昭が京都から追放され、織田信長による新たな中央政治が始まった天正元年以降の摂津原田城について見ていきたいと思います。




2014年2月15日土曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その4:三好三人衆の勢力は、依然侮れない影響力があった事)

第十四代室町将軍義栄を支えた三好三人衆は、足利義昭が第十五代将軍になって京都に入っても、依然侮れない影響力を五畿内地域とその周辺に及ぼしていました。

三好長慶など、三好氏の京都での実績は天文年間以前から半世紀にも渡り、広く深く、様々な分野に関係を持っていました。
 義昭が将軍職を任された永禄11年(1568)秋から、摂津国池田家の内訌が起きた元亀元年(1570)6月までの約2年間について、下野した三好三人衆の動きと、その影響力について、考えてみたいと思います。
 
京都の宗教界の視点で、斎藤夏来氏による興味深い研究『織豊期の公帖発給権 -五山法度第四条の背景と機能-』をご紹介します。
 永禄11年6月と元亀元年7月の2度にわたり、京都相国寺住持に補任されている高僧江春瑞超は、その時点で開封披露する入寺式を行わず、元亀2年になって相国寺に入って、公帖を開封披露しているようです。

これは非常に興味深い事です。

公帖とは台帖・公文などとも呼ばれるもので、これは室町幕府足利将軍から与えられる公文書です。これによって、禅宗官寺の住持に補任されて出世する叢林長老は、諸山・十刹・五山の住持を歴任し、最終的には南禅寺住持に補任されて、紫衣着用を許される存在だったようです。
 ただし、室町中期以降は、各地の諸山・十刹寺院は多くが廃壊し、名目的補任がなされる場合もあったようですが、南禅寺住持を頂点とする権威は機能していたようで、これが、将軍からの公認を受ける事と与える事の格式をも維持させていたようです。
 
そういう意味のある公帖を、江春瑞超なる人物は、第14代将軍義栄から永禄11年7月に受けていますが、その開封披露をすぐに行わず、その実力を見極める態度を取っています。
 何らかの事情があったのだろうと思いますが、興味深いのは、義昭は永禄11年10月に正式な将軍となっているにも関わらず、義昭が公帖を発行したのは元亀元年7月です。そして、江春瑞超は、その時点でも将軍の実力を見極めるかのように、公帖の開封披露を見送っています。

そしてまた、雲岫永俊なる人物は、将軍義栄(この時は実際には将軍ではないが、将軍と目される状態ではあった)時代の永禄10年10月付けで、景徳寺・真如寺住持となっています。
 その後、将軍義昭時代の元亀3年11月付けで、再度両寺の住持となっていますが、その折、義昭は永禄10年10月付けで義栄が発行した文書(御判)を破棄して、その立場を誇示していているようです。
  この出来事は、政治的なターニングポイントを示しているといえます。

一方、軍事面での三好三人衆の動きを見てみます。

永禄11年秋、足利義昭が将軍に就き、政権が始動します。しかし、この時の軍事侵攻は、京都を中心として、摂津国東部・河内国・大和国北部を主に制圧したのみで、圧倒的な安定政権とするには程遠い状態でもありました。
 近畿地域では、和泉国は殆ど手をつけていませんでしたし、山城国北部・大和国・丹波国は、敵味方が混在していました。伊勢国もそうです。更に近江国も六角氏などの抵抗があり、完全に制圧はできていませんでした。
 京都に隣接する国でも、また、京都を内包する山城国も完全に制圧できていないのですから、畿内周辺の国になると、権威は及んでいませんでした。将軍義昭政権に対抗する最有力勢力である三好三人衆は、一旦京都を落ちて後退したものの、永禄11年暮れには再び京都への返り咲きを企図して、大規模な行動を開始します。
 12月28日、三好三人衆勢が、和泉国家原城を攻め、数日でこれを落とします。この行動について、三好三人衆方の某が、和泉国人多賀左近大夫に音信しています。
※新修 泉佐野市史4(古代・中世1) P710

-史料(1)--------------------------------------------
前置き:
尚々来る13日(1月13日)御礼参るを以て申し入れるべく候。
本文:
先度は、鯛御意に懸けられ候。一段祝着の至り候。尤も御礼参るを以て申すべく候へ共、今夜堺より罷り越し、くたびれ申し候まま、其の儀無く候。昨日三人衆出られ候を見物申し候つる、人数5,000計りと申し候。させる(さ程?)儀は有間敷く候。将亦紀伊国根来寺辺の儀は、如何候や、承り度く存じ候。恐々謹言。
---------------------------------------------

この三好三人衆の行動には、堺の商人も協力していた事は有名で、様々な便宜を図っていたようです。
 また、三好三人衆方の軍事行動は広域活動で、播磨国方面でも諸勢力が活動していた事がわかります。有馬街道によってつながる、摂津国池田衆がこの方面に対応しています。この時、幕府方摂津国守護池田勝正が、永禄12年正月付けで、播磨国鶴林寺並びに境内へ宛てて禁制を下しています。なお、文体は直状形式といわれるもので、上意(将軍義昭)の下達の役割を務めている事が判ります。
※兵庫県史(史料編・中世2)P432

-史料(2)--------------------------------------------
一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取之事付き放火之事、一、竹木剪り採り堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
---------------------------------------------

同月2日、三好三人衆勢は、河内国出口・中振方面まで北上し、陣を置きます。各所の協力もあって、この軍勢は進軍が早く、同月5日に将軍義昭居所である、京都本圀寺を攻めます。手薄な将軍居所を多数の軍勢で襲われたため、幕府方は苦戦を強いられましたが、急遽支援に駆けつけた池田勝正など京都周辺の幕府勢により、この難を逃れました。
 これが「本圀寺・桂川合戦」といわれる戦いで、将軍義昭は危うく殺害されるところでした。この時、三好三人衆方へ、山城国八幡神宮寺も加担しており、この合戦の後で幕府方に攻められています。同じく摂津国尼崎・兵庫も同様に攻められ、京都近郊であっても、永禄12年春までは三好三人衆へ加担する勢力が非常に多かった事が判ります。

また幕府は、大山崎周辺に徳政令を発し、旧政権との経済的な関係を絶つための政策を施しています。ただ、地域の有力者が貸し付けた金品が、幕府の発した徳政令で損害を受けないように、幕府は抜け目なく保護政策を打ち出しています。大山崎の八幡神人などに対して、2月23日付けで奉書を下し、免除を行っています。
※島本町史(史料編)P443

-史料(3)--------------------------------------------
大山崎八幡神人等、方々輩口に対する入米銭・質物以下事、神物為に依り、徳政法の段に准えるべからず。先(前)御代に任せ御下知の旨に任せ、弥動(働)き之由改めるべからず、所仰せ下され候。仍て下知件の如し。
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それから、有力寺院が幕府方に属す見込みが立てば、矢銭賦課の免除も行っています。こういった行動も、三好三人衆時代の関係を整理するための行動です。
 3月2日付けで、佐久間信盛・坂井正尚・森可成・蜂屋頼隆・柴田勝家、野間長前(三好義継重臣)・竹内秀勝・結城忠正・和田惟政が、摂津国多田院彼者に宛てて音信しています。
※川西市史4(史料編)P460

-史料(4)--------------------------------------------
当院の御事、自余混じえず候て、今度の御用之相除き候。違儀有るべからず候。恐々頓首。
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更に、紀伊国高野山も三好三人衆方に加担する動きがあり、その関連史料があります。織田信長が金剛峯寺惣分沙汰中に宛てて、4月7日付けで音信しています。
※五條市史(史料)P314

-史料(5)--------------------------------------------
当山衆僧連判以って御敵一味せしめ、度々行(てだて:軍事行動)に及び、剰(あまつさ)え要害構え、大和国宇智郡押妨言語道断の次第候。早々開け渡すべく候。然ず者急度御成敗なられるべく候。
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それから物理的に、将軍居所としての施設を京都に造る対応も行います。京都は永年の混乱と政治的な不安定さで、将軍の相応しい居場所がありませんでした。本圀寺・桂川合戦に危うく勝った現実を重く見て、将軍の居城として、急遽二条城を造営する事を決します。
 いざと言う時には城が必要です。京都に将軍が居てこそ、禁裏守護という本来の任務が果たされるというわけです。織田信長は、その事にこだわり続けたようです。
 この工事は2ヶ月程で主要部分は完成し、永禄12年4月14日に将軍義昭は、その新城に入っています。
 
さて、三好三人衆の動きです。

永禄12年10月頃、三好三人衆方の調略で河内国高屋城内で騒動が起きているようですが、この年は、幕府方が優勢で、五畿内で三好三人衆方の目立った動きは見られません。播磨・淡路国などでの動きが主でした。
 11月21日、堺商人今井宗久が細川藤孝や織田方佐久間信盛に、三好三人衆方の軍勢が阿波国から淡路国へ渡ったと伝えており、その数は3,000と報告しています。

年が明けて永禄13年、前年末に動きのあった三好三人衆勢力は動きを活発にします。三人衆方の重要人物である、加地権介久勝が大阪辺に居ると、今井(納屋)宗久が、2月19日付けで、将軍義昭側近の祐阿弥陀仏へ報告しています。
※堺市史5(続編)P927

-史料(6)--------------------------------------------
御折紙畏みて拝見致し候。仍て諸牢人当津(堺)に至り、相集まり由、何れ共只今迄者事ならず候。従何方申し上げられ候哉。(三好三人衆方)加地権介委細摂津国大坂辺之在る由、大略実儀候。其の外の儀者取り沙汰無く候。猶々承り儀候者、御注進申すべく候。今朝、淡路国表の儀申し上げ候。漸く為すべく。恐惶。
---------------------------------------------

それから間もなく、奈良興福寺一乗院の坊官二條宴乗が、元亀元年6月1日付けで、堺へ牢人衆が集まっている旨を日記に書き留めています。この牢人衆とは三好三人衆の軍勢です。
 また、同じ興福寺の多聞院坊官英俊も、同月2日付けで、その旨を日記に書き留めています。
※ビブリア53号-P148(二條宴乗記)、多聞院日記2(増補 続史料大成)P189

-史料(7)--------------------------------------------
『二條宴乗記』6月1日条:
進左(近衛前久諸大夫、進藤左衛門大夫長治)、大坂より帰。三人衆・足軽衆在津由。
『多聞院日記 』6月2日条:
牢人衆堺へ着き歟の由沙汰之在り。指したる儀有るべからず歟。
---------------------------------------------

6月28日の姉川合戦に先立って、近江守護の六角承禎父子の勢力が近江国野洲方面へ出陣。同月4日に、織田信長方の軍勢と合戦となりますが、六角方は破れて敗走します。この六角方は、三好三人衆と連絡を取り合っており、且つ、朝倉・浅井方とも連動していました。
※言継卿記4-P420、信長公記(新人物往来社)P105

-史料(8)--------------------------------------------
『言継卿記』6月4日条:
近江国小浜於合戦午時(午前11〜午後1時)に之有り云々。近江守護六角入道承禎(義賢)・嫡子義治以上2,000〜3,000人討死、敗軍云々。申刻(午後3時〜5時)武家へ方々自り注進之有り云々。織田信長内佐久間信盛・同柴田勝家・近江国衆進藤・同永原等勝軍云々。珍重珍重。
『信長公記』落窪合戦の事条:
6月4日、佐々木承禎父子、近江国南郡所々に一揆を催し、野洲川表へ人数を出し、柴田勝家・佐久間信盛懸け合い、野洲川にて足軽に引き付け、落窪の郷にて取合い、一戦に及び、切り崩し、討ち取りし首の注文。三雲父子、高野瀬、永原、伊賀・甲賀衆究竟の侍780討ち取り、近江国過半相静まる。
---------------------------------------------

永禄11年秋、稔りの時期を狙って、電撃的に上洛戦を展開し、足利義昭の将軍就任となったものの、その政権の課題は山積で、不安定なものでした。
 京都の周辺でさえ、有力勢力が反幕府的な動きを見せる中で、三好三人衆勢力も中央政権復帰に向けての軍事行動を盛んに行っていました。決して、織田信長が支える将軍義昭政権が、圧倒的であった訳ではありません。
 更に、将軍義昭政権発足から間もなく、その両者の不和も表沙汰となる程で、禁裏や諸権門などから見れば、この政権も何とも不安定な要素を孕んでいました。

次回は、三好三人衆に加担する、反幕府勢力を束ねる人物について、見て行きたいと思います。


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2014年1月29日水曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その3:幕府(織田信長)が五畿内など諸勢力に対して人質を出すよう命じた事について)

将軍義昭を中心とする幕府は、信用できるに足る実力があるのかどうか、京都周辺の大名や権門など、諸勢力が注意深く見、観察していました。
 一方で、その幕府に敵対する勢力、三好三人衆などを中心とする反幕府勢力の動きも侮れないものがありました。諸勢力は家名を保つために、どちらに加担すべきかを非常に慎重に見極めていました。

その事は織田信長もよくわかっていたはずで、その行動結果は信用されるに足る安定した政権を作るために腐心した歴史だったとも思えます。

さて、その信長の、慎重で確実な方法を選ぶ性格が裏目に出た失敗は、元亀元年5月頃の、畿内など諸勢力への「人質差し出し」命令でした。先ず、その関連史料をご紹介します。
※大日本史料10-4-P556、織田信長文書の研究-上-P409、信長公記(新人物往来社刊)P102

-史料(1)-------------------------------------
『織田信長文書の研究』織田信長が、吉田(毛利家一族)へ宛てた、7月10日付けの音信:
(前略)、一、在洛中畿内の面々人質相取られ、天下に意儀無き趣き候条、(後略)。
『信長公記』越前手筒山攻め落とさるるの事条:
(前略)。4月晦日 朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛尉光秀、丹羽五郎左衛門尉長秀両人、若狭国へ遣わされ、武藤上野介友益人質執り候て参るべきの旨、御諚候。武藤友益母儀を人質として召し置き、其の上、武藤構え破却させ。5月6日(中略)。さて、京表面々等の人質執り固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるに於いては、時日を移さず御入洛あるべきの旨、仰せ上げらる。(後略)。
--------------------------------------

史料では、そのはっきりとした時期は判らないものの、信長が4月30日に京都へ戻ってから、翌月9日に京都を発つまでに実行されたものと思われます。
 他方、五畿内やその西側の地域では、三好三人衆方への繋がりを断ち切れず、不穏な動きも見られていました。
 例えば、同年2月の時点で堺商人今井宗久は、幕府衆(将軍義昭の側近)上野秀政・一色藤長・玄浄院・金山信貞・河内国高屋・和田惟政・朝山日乗・明智光秀・野村越中守・御局様・木下秀吉・森可成・松永久秀・畠山高政・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政・蜂屋頼隆・丹羽長秀・金森長近・河尻秀隆・武井夕庵・一角好斎・御長・雲松軒・布施式部丞へ宛てて、三好三人衆方の動きを報告しています。
※堺市史5(続編)P927

-史料(2)-------------------------------------
急度啓上せしめ候。淡路国へ早舟押し申し候処、一昨日辰刻(午前7時〜9時)、阿波国衆不慮雑説候て、引き退かれ候。然る処、安宅神太郎信康手の衆、相慕われ候処、阿波国衆手負い死人200計り之在りの由候。敵方時刻相見られ申し候。恐々謹言。
--------------------------------------

それから、越前国敦賀から京都へ戻り、京都周辺の動向を見ていた信長は、河内守護畠山左衛門督昭高へ音信し、5月4日付けで、敵への対応について、指示を与えています。
※寝屋川市史3(古代・中世史料)P950

-史料(3)-------------------------------------
其の表の雑説の儀、未だ休み之由候。治定の所実らず候歟。紀伊国・同根来寺馳走申しの旨然るべく候。旧(もと)から申し如く候。信長毛頭疎意無き於候。御手前の儀、堅固に仰せ付けられるべく事肝要候。恐々謹言。
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そのような不安定な状況でもあり、信長は来る朝倉・浅井方との決戦を目前にして、主立った勢力から人質を取りました。それには当然、池田家も含まれていたと考えられます。

そして5月中旬、越前国朝倉義景は、近江国へ向け、20,000の軍勢を出陣させ、これに呼応して同じ頃、浪人中の近江守護六角氏は、5月12日付けで近江国長命寺へ宛てて禁制を下す等して、活動を活発化させています。
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P315

-史料(4)-------------------------------------
一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、一、放火並びに竹木伐採、田畠苅り執り事、一、兵糧米・矢銭等相懸け一切非分課役事、右条々、堅く停止され了ぬ。若し違犯輩は厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
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近江国での決戦の機運は高まり、反幕府方諸勢力は申し合わせた動きを見せます。信長はその最中に六角方と和睦の交渉を行いましたが、5月19日に破談となり、鈴鹿山脈の千草越えで岐阜への帰途につきました。その途上、信長は鉄砲で狙撃されましたが、危うく難を逃れました。
 一方、京都とその周辺の幕府衆も作戦通りの準備を急いでいました。そして朝倉氏は近江国へ向けて出陣しています。浅井氏領で合戦が行われるとの目算を立て、概ね双方は手筈を整えていたのでしょう。

この軍事衝突は、浅井氏への報復を目指しながらも先ず、東海道の自由をどちらが取るか。その目的しかありません。

この頃、近江国の北半分は浅井氏が優勢で、その浅井氏領内を攻めるには、東西両方から攻める必要がありました。東側は信長を中心とする、美濃・尾張・三河・伊勢国を中心とする勢力で構成されていました。
 そしてもう一方の西側は、幕府勢が高島郡に進む予定で、それは後巻きを兼ねて、朝倉・浅井方を攻める事になっていたようです。これに将軍も出陣する予定で、池田衆が再びそれに供奉する予定だったようです。その関連史料をいくつかご紹介します。
 信長が高島郡への参陣について、若狭守護武田氏一族同名彦五郎信方へ、6月6日付けで音信しています。
※福井県史(資料編2)P722

-史料(5)-------------------------------------
前置き部分:
委曲嶋田但馬守秀満に相含め候。定め申し届けるべく候。
本文:
来る28日(6月28日)江北(近江国北郡)へ至り行及ぶべく候。其れに就き高嶋郡御動座為すべくの旨候。此の時候条参陣遂げられ、御馳走肝要候。恐々謹言。
--------------------------------------

また、その近江国高島郡への出陣について、将軍義昭が、近江国人佐々木(田中)下野守へ、6月17日付けで御内書を下しています。
※大日本史料10-4-P526

-史料(6)-------------------------------------
今度其の表に至り進発せしめ候。然らば此の節軍忠抽ぜられるべく也。近年不(無)沙汰の段、是非無き次第に候。先々如く其の覚悟すべく事肝要也。奉公浅深に依り、恩賞有るべく候。委細御走衆三上兵庫頭輝房申し含め差し下し候。尚細川兵部大輔藤孝申すべく也。
--------------------------------------

更に、同日付けで同じ宛て所への奉書を幕府奉公衆細川兵部大輔藤孝が下しています。
※大日本史料10-4-P526

-史料(7)-------------------------------------
本文:
浅井御退治為、其の国へ至り御動座成られ候。以前の御奉公の筋目に軍忠抽ぜられるべく旨、御内書成られ候。御恩賞の儀は、随分馳走せしむべく候。委しくは、御走衆三上兵庫頭輝房申されるべく候。恐々謹言。
注釈:
是れ如く佐々木・京極・朽木を始め、三上兵庫頭軍勢を催し、御進発有るべくの処、近江国の軍散し■■は、其の事止む。
--------------------------------------

この準備の最中、頼りにしていた摂津守護池田家中で内訌が発生します。6月18日の事です。

これについて幕府は、直ちに反応・対応し、細川藤孝は、畿内御家人中へ宛てて音信します。この日付は、6月18日です。
※大日本史料10-4-P525

-史料(8)-------------------------------------
今18日御動座の旨、先度仰せ出されと雖も候。調略の子細有るに依り、来る20日に御進発候。其れ以前参陣肝要の由仰せ出され候。御油断有るべからず候。恐々謹言。
--------------------------------------

奉書では、20日に京都を発つから、それ以前に京都に入れと言っています。28日に決戦を行うには、これがギリギリのリミットです。

ちなみにこの動きは『言継卿記』にも記録されています。この事は、同日記だけを見ていては状況が判りませんが、その関連史料を併せ読むと状況が判明します。
 さて、18日付けで発した藤孝名の奉書は、出陣の延期を伝えており、その時点では事態の沈静化を期待していたようです。決戦の日は28日と決まっており、幕府は何とか間に合わせたいと考えていたのでしょう。

将軍の高島郡への出陣は、勝敗を決すると目される重要な役割だったためです。

しかし、翌日になっても池田家中の騒動は収まる気配は無く、しかも悪化。池田家当主の勝正が城を追われて京都へ報告に上ります。
 これを受けて幕府は、将軍出陣を更に延期する事を決め、その反勢力鎮圧のために、翌20日、摂津国方面へ軍勢を出します。言継卿記を見てみます。
※言継卿記4-P424

-史料(9)-------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。御前へ参り様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務大輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。(後略)。
--------------------------------------

この間、信長は何とか近江国北部に味方を作ろうと腐心し、要港の一つである菅浦へ禁制を下します。ここは、禁裏とも浅くない関係を持つ集落です。また、浅井氏配下でもあった地域でした。
※大日本史料10-4-P532

-史料(10)-------------------------------------
一、甲乙人乱妨狼藉の事、一、陣取り放火の事、一、竹木伐り採りの事、右違犯の輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
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そして6月26日、再び池田勝正は京都へ入り、将軍義昭に面会しました。この時、もう一人の河内守護三好左京大夫義継を伴っていました。
※言継卿記4-P425

-史料(11)-------------------------------------
(前略)。摂津国池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。(後略)。
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勝正のこの時の入京の目的は不明ですが、その翌日に決定された将軍出陣の事実上の中止を勘案すると、それは詳しい状況報告を将軍に行い、全体の行動の協議を行ったものと見られます。河内守護である三好義継を伴っていたのは、同国の動きと同時に松永山城守久秀から入る大和国方面の情報も併せて聞くためだったのではないかと思われます。
 ちなみに、この頃奈良では地震が頻発しており、かなり大きな揺れもあったようです。この会議で奈良の地震についての話題も出たのかもしれません。

将軍義昭が出陣を再び延期した事について、『言継卿記』に記述がありますので、ご紹介します。言継は同じ日に同じ項目を重ねて書いてしまい、それについて「按ズルニ、此ノ項重出」と注釈を付けています。
※言継卿記4-P425

-史料(12)-------------------------------------
6月27日条:
(前略)。今日武家御動座延引云々。(按ズルニ、此ノ項重出)。(中略)。今日武家御動座延引云々。近江国北部に軍之有り云々。(後略)。
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もう将軍の高嶋郡出陣は間に合いません。これについて、都の人々や関係者は、非常に危機感を持っていたと思われます。また、官軍に弓引く者が続出した事も。
 この翌日、日本史上あまりにまも有名な「姉川の合戦」が予定通りに行われました。しかし、織田・徳川勢が勝利しました。後巻きの無い戦いは非常に厳しかったと思われますが、重要な合戦で負けなかったのは、それ以上の誤算を引き起こさない為にも重要な事でした。

個人的に思うのは、浅井長政の離反よりも、池田衆の離反の方が状況としては深刻で、信長にとっては窮地の度合いは深かったと感じています。
 「越前朝倉氏攻め」から「姉川の合戦」は、切離れた要素では無く、一体の事象であり、ある意味、この重要な軍事政策に池田衆は大きく関わって、政権の存続に非常な影響力を持っていたと感じています。それについて、その一連の史料群が事実を伝えてくれている訳です。

それから、池田家のこの時の内訌は、幕府を通じての人質差し出し命令について、もめ事があったのかもしれません。また、新政権に懸命に尽くしたとて、信用もされず、将来への希望が揺らぐ中での家中の鬱積が、この人質差し出し命令で爆発したのではないかと、私は感じています。
 
次回は、元亀年間初頭までは、五畿内を中心とした周辺地域で結構三好三人衆勢力が侮れない勢力であった事について考えてみたいと思います。







2014年1月27日月曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦についての補足を「補遺」としていくつかご紹介しています。今までの資料に加えて、最近、新たな研究成果が公的に発表されたりしていますので、それらを全体の流れに組み入れて考える必要があります。

可能性を再度精査し、精度を上げる事で、その時何があったのかを論理的に検証・復元することが可能になると考えています。

さて、最近『わがまち茨木』の「水利編」と「街道編」を手に入れ、読んでみました。同じシリーズで「城郭編」は持っていたのですが、それらを併せ読んでちょっと新たに気づいた事がありますので、ご紹介してみようと思います。

耳原大池
「城郭編」に「耳原城(砦)」の事は紹介してあって、知ってはいたのですが、広域図が無く、城跡見取り図だけでは、関連性に気づきませんでした。
 最近購入した「水利編」に幣久良山の事とそこに関連する耳原大池の紹介が詳しくされていて、記事の中に耳原城の事も紹介されていました。城郭編と同じ方が記事を書いているのですが、発行時期が違うので、また違う書き方になっています。地図も「水利」についての視点になっています。それが、読む私の視点とちょうど一致しました。

幣久良山のすぐ東側に「鼻摺古墳(反正天皇陵)」という小さな古墳があって、それには東側から南をぐるりと回り込むような、半円形の濠跡も昭和51年時点まであったようです。それは西国街道に面しています。 100メートル以内の至近距離です。しかも、幣久良山へ南北に通じる道(福井街道)を挟むように立地もして、幣久良山に陣を置くには大変都合の良い環境を自然に作っています。
 要するに、街道の交差点にある要害のような環境が、自然に出来ているという訳です。

現在の西国街道の様子
そして、そこから西国街道を東へ300メートル以内のところに耳原城跡があったと伝わっているようです。現在の法華寺の裏というか、接するようにして直ぐ北側にあったと伝わっているのですが、現在は帝人大阪研究センターの敷地となり、駐車場の一部になっています。発掘がされたかどうかは今のところ確認できていません。

そこは法華寺よりも少し地面が高く、東側にすぐ段差があって、砦や城を置くには適しています。この場所は、庄屋であった市兵衛という人の屋敷で、「市兵衛屋敷」と呼ばれていたようです。そこには北と西側を守る堀の跡もあったようです。
 ちなみに、市兵衛さんのお墓が、法華寺内にあるようですので、両者の関係は密接にあるようです。

また、『武城旧記』という資料には、「手鞍山(幣久良山)也 天正年中、明智日向守在城、其の後織田辰之助耳原に在城す」とあるようです。「織田辰之助」とは不明ですが、これは荒木村重の謀反の時に近くの太田に陣を置いて合戦などがあったようですので、その頃のことを指しているのかもしれません。
 そして、元亀2年の白井河原合戦の時も明智光秀は9月24日に京都を出陣して摂津国方面へ入っている事から、断定はできませんが、何か関係しているのかもしれません。同月中旬には一時的に双方とも、停戦しています。
 もっとも、その頃に池田衆は高槻方面まで侵攻していますから、幕府(和田)方である明智勢が耳原まで進駐することは難しいかもしれません。ちなみにこの合戦で総持寺は焼失しています。

全容は不明ですが、耳原城が元亀2年頃も何らかのカタチで機能していたとすれば、幣久良山の陣と安威城との軍事的補完関係も考慮されたでしょう。耳原の城は、街道の監視などに使われたのかもしれません。

鼻摺古墳と耳原城の存在が、幣久良山に陣を取った和田惟政の戦術にどう影響したか、再度見直してみる必要もあると思います。まあ、この二つの要素は、全体に大きな影響を与えるというよりは、幣久良山の陣をより堅固に保持・支援するための要素なのかもしれません。







2014年1月22日水曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その2:越前国朝倉氏攻めについて)

越前国朝倉攻めは、将軍義昭・織田信長方にとって、当初から目的化されていた事です。有無を言わせず、潰す予定だった事が、当時の史料からも判ります。

一方、将軍義昭は、幼い頃に奈良興福寺一乗院に入り、僧として生活してきた人物であり、将軍としての帝王学を学んでいないばかりか、武家としての人脈もありませんでした。「将軍」といえば、武家の棟梁ですが、義昭については血のつながり以外に全うな要素はありませんでした。
 もちろん、第十三代室町将軍であった義輝は殺害されたために、禁裏の承認を経たとは言え、正式な家督の相続手続きも出来ていません。その後の第十四代将軍義栄との正邪たる競い合いは、感覚的な感情論で、本来の手続きが取られず、また、その環境も無いままに、将軍の座を取り合ったものでした。
 
ただ、この時代には、将軍とはいえ、制度もあまり機能しておらず、その権威もその職にある個人の能力次第で、厚くなったり、薄くなったりしていました。財政も同じくです。
 ですので、永禄11年秋に将軍義昭政権が始動した時には、その基礎作りからのスタートでした。摂津国池田家は何の縁も無い、そんな状況の政権に加担しましたので、東奔西走、苦心惨憺の棘の道へ踏み入れたに等しい選択となってしまいました。

さて、永禄11年以降の幕府・将軍義昭は、制圧すべき敵(地域)を早い段階から想定していたようです。まあ、将軍とはいえ、経済も含め、特に軍事では織田信長による考えで政策の立案がなされていたようです。
 朝倉攻めについても、早くから画策されていた事を示す史料がありますので、ご紹介します。長文なので、必要部分だけを抜粋して略します。
 幕府・織田信長方朝山日乗が、毛利元就・福原貞俊・児玉元就・井上春忠・小早川隆景・口羽通良・牛遠・山越・吉川元春・桂元重・井上就重・毛利輝元・熊谷高直・天野隆重へ宛てて、永禄12年8月19日付けで音信したものです。
※兵庫県史(史料編・中世3)P640

-史料(1)-----------------------------------------------
(前略)
一、信長者、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の衆100,000計りにて、国司(北畠具教)へ取り懸けられ候。10日の内に一国平均たる由候間、直ちに伊賀・大和国打ち通し、九月十日比、直ぐに在京為すべく候。左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。信長取り持ちにて候。我等御使い申し上げ候。なお、追々申し入れるべく候。また、切々御用仰せ上げられるべく候。御心に任せ馳走候。
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音信では、このように述べています。織田信長は早くから、京都を防衛し、且つ、政権の維持から発展をさせるために必要な策を立てていたようです。
 そしてそれらに優先順位を設けて、ひとつひとつ目標を達成しました。それが後世にも伝わる歴史として残っている訳です。永禄12年から元亀元年夏までの幕府軍(信長軍も含む)の動きは、以下のような計画があって、それに基づいていました。
※以下の要素は順不同です。
 
 (1)伊勢・志摩国制圧
 (2)伊賀国制圧
 (3)阿波国三好氏攻め
 (4)但馬・伯耆国山名氏攻め
 (5)播磨国攻め
 (6)河内・和泉国の制圧
 (7)近江国の制圧
 (8)越前国朝倉氏攻め
 (9)若狭国動乱正常化への介入
 (10)公家・権門への知行返還
 (11)特に首都経済に関わる要港・街道の掌握

ちなみに、上記の(1)(2)はさておき、永禄12年時点では、どうも阿波・讃岐国の三好氏攻めを優先して想定していたようです。敵対勢力の中で、特に大きな影響力を持ち、畿内地域での統治実績を持っていた事からも、早期に制圧する必要があると考えていたのでしょう。
 播磨国攻めは、そのための布石を兼ねていたと考えられます。もちろん、毛利氏への支援も兼ねていて、複合的な要素を意識した行動でした。

三好攻めの計画に関する史料をご覧下さい。永禄12年9月4日付けで、堺商人今井宗久が、淡路国人安宅信康衆同名石見守・菅平右衛門尉・庄久右衛門尉・梶原越前守景久宿所へ宛てて音信しています。今井宗久が阿波・讃岐方面へ攻めるための足がかりを作っていたようで、淡路国人安宅神太郎信康との調整を行っていました。
※堺市史(続編)P910

-史料(2)-----------------------------------------------
先便書状以て申し候。定めて参着為すべく候。差儀無くと雖も候。好便啓せしめ乍ら候。仍って御当家へ御忠節の段、今度美濃国於織田信長御感じ候。並びに御名誉是非無き題目候。殊更其の表の儀御調略比類無く、京都御沙汰迄候。随って当津南庄御存知、殊に珍重以て存じ候。我等儀も御存知如く、堺五ヶ庄御下知並びに御朱印を以て、拝領為され候。諸事猶以て御意覚悟を得るべく候。先度河尻与兵衛尉秀隆・坂井右近尉政尚懇ろに申し越され候間、先々宮半入(人物か?)へ当庄、将又吉日以て、相引き渡し申し候。政所の儀早々仰せ付けられ、支配等御収納之在るべく候。相応の儀於者、疎略存ぜずべからず通り、安宅神太朗信康殿へ御執り合い畏むべく候。恐々。
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しかし、永禄12年中頃に、信じがたい噂が出始めます。信長にとっては義理の弟である、浅井長政が幕府方勢力から離反するとの噂が出、大和国奈良にまで伝わっています。興福寺多聞院坊官の英俊の耳にまで達しており、その日記に記されています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P135

-史料(3)-----------------------------------------------
6月23日条:
近日江北(近江国北部)裏帰り、物騒の由沙汰在り之由とりとり沙汰云。
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更に同日記では9月に入って、伊賀・甲賀衆が近江国於蜂起するとの噂が流れている旨書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P146

-史料(4)-----------------------------------------------
9月7日条:
一、(前略)。昨日6日松永右衛門佐並びに竹内下総守同道、見舞い為伊勢国へ越すべくの由の処、合戦悪しくて、人数数多損じ、甲賀衆・伊賀惣国催して近江国一揆蜂起歟の由沙汰の間、10日迄延べ引き云々。
(後略)
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浅井氏の支配地域は、東海道・北国街道を含む近江国の北半分に及び、ここを脅かされると三河・尾張・美濃国と首都京都との交通が滞り、政権にとって様々な点で深刻な事態に陥ります。そのため、信長は浅井氏の離反が噂通りかどうか、急遽、確かめる必要に迫られて、その方策を考えます。
 これにより、公家や権門の領地も多い、近江国・若狭国への対応を行う事を決めたようです。上記の計画の内、(7)〜(11)までを一気に解決する策を考えたようです。その複数の要素が、越前朝倉氏攻めに集約されているという訳です。
 
信長は、朝倉攻めを決し、慎重に策を講じます。浅井氏が離反するという噂が立つくらいですから、誰が敵で、味方かを戦いの前に見極めておく事が必要になる訳です。そのために、以下のような指示を出します。従うかどうかという動きの監察と、戦争のための口実作りです。注目すべきは、諸大名の召集に越前国守護で、しかも義昭の将軍職継承支持者であったはずの朝倉義景の名はありません。
 以下は触れ状の案文と宛先です。1月20日付けで、信長が発行しています。
※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア(二條宴乗記)53-P134

-史料(5)-----------------------------------------------
信長上洛に就き京衆中立ち有るべく事
北畠大納言(具教)殿並びに北伊勢諸侍中・徳川三河守(家康)殿並びに三河・遠江諸侍衆・姉小路中納言(嗣頼)殿並びに飛騨国衆・山名殿父子並びに分国衆・畠山(昭高)殿並びに■在■国衆・遊佐河内守(信教)・三好左京大夫(義継)殿・松永山城守(久秀)並びに大和諸侍衆・同右衛門佐(久通)・松浦総五郎・同和泉国衆・別所小三郎(長治)・同播磨国衆・同孫左衛門尉並びに同名衆・丹波国衆・一色左京大夫(義有・満信)殿・同丹後国衆・武田孫犬丸元明・同若狭国衆・京極(高吉)殿並びに浅井備前長政・同尼子・同佐々木(高島郡七党)・同木村源五父子・同江州南諸侍衆・紀伊国衆・越中神保名代・能州名代・甲州名代・濃州名代・因州武田名代・備前衆名代・池田(勝正)・伊丹(忠親)・塩川・有右馬(有馬則頼?)。
同触状案文
禁中御修理武家御用其の外天下弥■■為、来る中旬参洛すべく候条、各御上洛、御礼申し上げられ、馳走肝要、御延べ引き有るべからず候。恐々謹言。
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そして同時に諸大名の動きを見るのと並行して、信長は禁裏も動かします。押領されている知行の返還を目的化するなどして、反幕府・禁裏への勢力を討伐する名目を、公的な行動の目的として打ち出します。また、幕府の権威を喧伝するために、改元申請を行って、朝倉氏攻めの途中で「元亀」の改元を実現しました。
 
それからまた、義昭の朝倉義景に対する私怨もあったように思われます。というのは、永禄8年に将軍義輝の暗殺以降に義昭が、奈良の一乗院を脱出した後の事です。
 事件直後は将軍義輝への同情から、義昭への関心を諸大名は示しますが、実際に義昭が援助を依頼すると、どの大名も積極的な行動は取りませんでした。ご存じのように、最終的には織田信長がその依頼を引き受けて、義昭の悲願は達成されますが、その間に朝倉氏に関わる時間が非常に長かった訳です。
 時間がかかったのは、朝倉氏が義昭の実力を疑い、試そうとしたためです。義昭が朝倉氏を頼って領内に入ると、敦賀で足止めをし、一乗谷へ進んで来ると、城外の寺に留め置き、そこで義昭に一働きさせる要求をしています。
 朝倉氏がその時に手を焼いていた加賀・越前国との和睦調停です。義昭は入洛の支えになってもらおうと、懸命に努力した結果、それを見事に実現しますが、それでも朝倉氏は義昭の希望を聞き入れませんでした。
 義昭が、朝倉氏の元を去ったのは、怒って国を出たのだと思います。義景は義昭が国を出ると伝えた時には慰留しています。義景は結局、義昭を利用するだけに使ったのです。
 幕府の有無を言わせない朝倉氏攻めは、そういった態度が、感情的な要素も育てたのだろうと思います。朝倉氏にはその時の態度が、災いの元となりました。
 
永禄13年4月20日、朝倉討伐軍として30,000の軍勢が京都を発ちましたが、これには公家飛鳥井氏・日野氏などの姿もありました。幕府軍と同時に「官軍」でもあった訳です。しかも飛鳥井氏は、若狭国武田氏とは伝統的に親密な間柄で有り、人選も考え抜かれていました。
 また、日野氏は、本願寺宗主の家系と同門の家柄であり、近江国から北陸にかけて広く根付いた本願寺宗に対する役目を持っていたのではないかとも考えられます。

このように信長は、慎重には慎重を期し、また、二重三重に策を講じ、そして大軍を動員して朝倉氏攻めを行ったのです。ですので、定説となっている、「浅井長政の裏切りが発覚し、信長は数騎のみで朽木谷を経て、命からがら京都へ逃げ帰った」エピソードは事実では無く、噂通りに浅井氏の動向が確認できた時点で、安全に京都へ戻る事など、いくつもの手を打ってあったというのが実際のところです。
 ちなみに、朽木氏は幕府方の奉行人で、近江国北西部では有力な勢力の一つでした。その北側、若狭街道で通じた若狭国熊川は、幕府奉行人沼田氏の根拠地です。退却は、それらの地域を通って京都へ戻っていますので、追う朝倉氏側も簡単に手出しはできない状況もあった事でしょう。

さて、「金ケ崎の退き口」に象徴されるように、朝倉・浅井氏は幕府・官軍に弓を引いたことになりますので、信長は公戦として堂々とあらゆる手を使えるようになった訳です。その点では逆に、信長にとって好都合ともなったのです。
 実際のところ信長は、浅井氏の離反も想定しており、京都・美濃などに予備の兵も置き、次の手が繰り出せるように準備もしていました。
 
ただ、一方で、信長にとっては自分の義理の弟までもが離反したとなると、他にも離反者を出す可能性があるという緊張感は高まりました。信長は、次に必要な策を立てつつ、朝倉・浅井方に決戦を挑むべく、そちらの準備も急遽進めました。これがいわゆる「姉川の合戦」です。
 信長は、浅井氏離反が発覚すると、公家衆を守りながら4月末に京都へ戻り、そこで情報収集を行うと同時に、第二次攻撃のための指示を出していました。間もなく一定のメドが立った事から、信長は5月9日に京都を発って、岐阜へ向かいます。
 
最後に、摂津池田衆について少し触れておきたいと思います。池田衆は、永禄11年秋以降、特に但馬・伯耆国山名氏攻め、播磨国龍野赤松氏支援(毛利氏の要請も兼ねる)、越前国朝倉氏攻めの戦に、幕府勢力として多数の兵を出しています。その他にも、小さな要望にもその都度応えています。また、公家・権門・幕府などへの知行返還も余儀なくされています。
 朝倉氏攻めでは3,000もの兵を出し、これは幕府軍の中核的な勢力を成す規模です。また、「金ケ崎の退き口」では、明智光秀と共に幕府方の殿軍も努めました。史料は、元亀元年5月4日付けで、幕府奉行衆一色式部少輔藤長が、丹波国人波多野右衛門大夫信秀床下へ宛てて音信したものです。
※大日本史料10-4P358+401

-史料(6)-----------------------------------------------
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉・明智十兵衛尉光秀・池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。
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あまり語られる事はありませんが、事実は多数の史料が証明してくれています。

次回は、この過酷な池田衆の環境に追い打ちをかける、人質を差し出す命令が信長から下った事について考えてみたいと思います。






2014年1月10日金曜日

座間市栗原神社火災は、在日米陸軍軍属の三男(15才)による放火

2013年3月7日未明に起きた、神奈川県座間市栗原中央の住宅6棟が全焼し、栗原神社の神楽殿や社務所も全焼しました。

その後、これに放火したとして、キャンプ座間(座間、相模原市)内のアメリカンスクールに通っていた、在日米陸軍軍属の三男の少年(15才)が、非現住建造物等放火容疑で逮捕されています。少年は住宅への放火を認めました。そしてまた、住宅から600メートル程程離れた栗原神社の放火もこの少年が関与したようです。

この火災で、農家や住宅も焼け、路頭に迷う人々を多く出した他、 400年以上続く神社の由来などが記された書類も消失しています。

ニュースソース神奈川発コミュニティーサイト「カナロコ」
※同記事の「関連記事」集に追跡記事がまとめられていますのでご参照下さい。

加えて、この事件は、沖縄でも問題化した「日米地位協定」が、日本の立場を如実に現す出来事になっています。詳しくは、ニュースソースをご覧下さい。


大変深く考えさせられる出来事です。地域の文化在はこんな遺失が日々、頻発しています。皆さん、感心を持って地域の文化財をご覧下さい。



2014年1月6日月曜日

軍師官兵衛、見ませんでした。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まりました。ね。私は今年も見ません(でした)。大河ドラマって、何のために作っているのかもう解りません。内容を見ても、1年もかけてやる必要があると思えません。

番組宣伝企画を放送開始前に色々やっていて、見ていたのですが、 その合間に流れる映像を見ました。戦国時代なら、現役の武士で頭を剃っていない者は居ません。剃っていなければ、武士ではありません。特に被官人なら尚更です。渡辺謙の時代とは違うのです。同じ手法が通じるとも思えません。
※正月に仲代達矢とか三船とか、昔の時代劇を見ていただけに、余計にそう感じてしまうのでしょうけど。

私は今年も淡々と歴史を見つめたいと思います。そういう方針で、今年も皆様にご紹介したいと思います。直ぐそこにある歴史。私たちが住む、同じ場所であった歴史を知り、ご紹介できればと思います。

今年も皆様のお役に立つブログでありたいと願っています。m(_ _ )m

追伸:この出来事はある意味、反面教師ですね。このブログも皆さんの思いを大事にする必要があるのかもしれませんね。最近のテレビ番組制作者のように、私も完全に思い込みでやってますから...。