2013年6月15日土曜日

荒木村重など、池田一族が署名した『中之坊文書』について

有馬城跡から有馬の町を見る
摂津国有馬郡湯山年寄中に宛てた、荒木村重など池田家中の諸侍が署名した『中之坊文書*』は、非常に重要な史料です。
 しかし、残念ながら年記を欠き、6月24日とのみあるだけで、何時の事なのか不明です。ですので、研究は進んでいません。この史料は神戸市のとある個人さんの所蔵史料で、私も一度実物を拝見したいと思いつつ、未だ実現には至っていません。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180などにあります。
 
同史料は京都を含む、当時の首都の歴史、地域史にとっては非常に重要な史料です。特に、私の研究している池田勝正にとっては、言うまでもなく重要です。
 冷静に考えると、京都の政治にとっても重要なのですから、日本の歴史にとっても重要なはずですが、どうもそのあたりが、うまく連動していないようです。時代的には、京都で政権地盤を築く織田信長の黎明期の範囲に入ります。

現在の有馬城跡
ところで、湯山とは、今の神戸市北区有馬温泉町です。
 
さて、この『中之坊文書』については、若干の推定と通説、間違いが存在しています。ご存知の方も多いと思いますが、それらをご紹介しておきたいと思います。

  1. この史料は兵庫県史などにより、元亀元年のものと管見の消極的な推定がされています。
  2. 元亀元年6月の池田家内訌時に、当主の勝正が追放された後に発行された、池田二十一人衆によるもの、との通説があります。
  3. 史料によっては翻刻に誤字があります。また、史料中の「卜」の文字が読めず、欠字扱いになっています。

(1)の推定は(2)の通説を含め、双方は発想の連動があるようですが、どちらも当時の史料を見比べると、完全に推定が一致するとは言い難いように思います。

というのは、以下の理由があります。
    (a)池田二十一人衆とは、当時の史料に出て来ない。出てくるのは伝聞史料で、二十一人衆として『言継卿記』に、三十六人衆として『多聞院日記』に、どちらも一度だけ確認できる。よって、家政機関として近隣に周知されておらず、機能もしていなかったと思われる。
    (b)署名人数は20人しかおらず、小河出羽守家綱は、池田家中とは別の人物の可能性がある。
    (c)荒木村重が「池田」姓を用い、信濃守の官途を名乗る理由を考える必要がある。
    (d)元亀元年の池田家内訌の直後には、勝正の後継者が立てられていたとの伝承があり、その確認が出来ていない。史料上ではそれらしき「民部丞」なる人物が確認できる。

      ところで、『中之坊文書』の内容をご紹介しておきます。
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      本文:
      湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
      署名部分:
      小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、菅野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
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      となっています。

      本文は、非常に短いですが、それについて20人もの人々が署名しています。また、湯山の集落政治のまとめ役の人々が、随分と馳走を申し出た事について、少しも疎かには扱わない。恐れ入り謹しんでお伝えします。と池田の人々は伝えています。

      こういった状況から、この時の池田家中は、突出した当主が居らず、合議的体制で一時的に運営されていたとも考えられます。当主の書状に添えて発行される副状にしては、人の数が多過ぎます。

      白井河原古戦場付近
      それを踏まえ、前記の(a)〜(d)を満たす時期を考えてみると、元亀2年ではないかと、個人的には考えています。ということは、そうです、白井河原合戦の直前になります。この史料は、同合戦に連なる動きから出た行動だったのではないでしょうか。場所としても「湯山」は、主要街道を通す要所で、池田ともつながりの浅く無い地域です。
       ここから協力(馳走)を取付ける事ができれば、池田衆は憂い無く大軍を東に投入できる環境が調います。

      6月下旬といえば、今の暦で言うと、8月上旬頃で、そろそろ稲の作況を見る時期です。そんな時期に池田衆は、何らかの交渉を行っているのです。
       また、ちなみに連署の顔ぶれは、白井河原合戦の様子を描いた伝記等でも見られます。

      郡山城跡付近から西国街道を見る
      そして見事に池田衆は、白井河原合戦に勝利し、支配地を東へ大きく拡大させる事となります。湯山の年寄衆も池田家へ加担した事を喜び、行く末に明るい未来を感じた事でしょう。

      『中之坊文書』について、個人的にはそのようなストーリーを組み立てています。同文書については、論文を書き、近い内に皆さんにもご覧いただければと考えていますので、ご興味をお持ちの方は、お楽しみにお待ち下さい。




      2013年5月21日火曜日

      三重県桑名市にある「輪中の郷」という資料館

      「輪中の郷」の看板
      「輪中(わじゅう)」とは、学校で習ったので、知っていたつもりなのですが、天井川と同義の環境を指すものと思い込んでいました。
       しかし、輪中には定義があり、地域社会組織やその生活を守る習慣と仕組みまでも含めたものをそう呼ぶのだと、資料館を訪ねてみて認識を新たにしました。
       入館時にもらった、パンフレットにある輪中の定義をご紹介します。

      輪中とは低くて湿った土地にある集落と農地を囲む堤防があって、水を防ぐための組織体を作って、外水や内水を管理する治水共同体、またはそれがある地域の事をいいます。
       

      パンフレット「輪中と水屋」 (輪中の郷発行)より

      ですから、人間がこの伊勢国桑名郡長嶋地域に住み、社会生活を営んでから現在まで、大変広くて深い歴史があると言う訳です。水との戦い、災害の歴史です。そしてまた、その反対側にある恵み。それから、人間が起こす争いもあります。
       作る、運ぶ、食う、戦う、防ぐ、ための情報や技術、方法や仕組みを長嶋の人々は、「生活」として営み続けて来た訳です。
       
       私は、伊勢国長嶋の一向一揆について、また、輪中について知りたいと思い、気軽に(池田勝正の動きとは直接関係無いので...)訪ねてみたのですが、大変勉強になりました。また、非常に興味深い展示で、よく解りました。たまたま、館長さん直々のお話しも聞く事ができ、幸運でもありました。

      近年では、海外からもこの「輪中」について知りたいと、訪ねて来られるそうで、日本人の治水の工夫が、優れた資料の保存・整理技術によって、他地域へ、更に世界の役に立ちつつあるようです。
       こういう難題を克服して来た日本の取組みもすばらしいと思いますが、地域の方々のご苦労も国の事業に活かされ、また、展示される事で、それらが一堂に展望できるという事は、正に苦労が報われたといえるのかも知れません。
       先人の苦労を忘れない意味でも、大変意義深い資料館だと思いました。改めて、資料の保存と活用は、大変重要である事を認識させられました。

      追伸:堤防改修の難工事を命を賭して完成させた薩摩藩士平田靭負翁以下烈士の歴史も是非知って欲しいと思います。
      木曽三川治水偉人伝 平田靭負正輔(国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所ホームページ)
      ※靭負(ゆきえ)とは、衛門府の和訓で、唐名は金吾。

      桑名市を訪ねる事があれば、是非一見される事をオススメします。個人的には、展示資料の最後に見送ってくれる、金魚と鯉もステキな演出だなぁと思います。思い出にも残ります。
      ※ちなみに輪中の郷は、歴史民俗資料館・体験教室・体験農園施設が一体になった施設です。詳しくはホームページをご覧下さい。
      URL:http://www.waju.jp

      最後に、この長島町の地形などは、摂津・河内国にも室町時代には湿地が多く残っていたため、その文化や生活の参考になると思いました。また、長嶋一向一揆は、五畿内での反織田信長とも連動しており、やはり、伊勢国方面の動きももう少し見ておかないとダメだなぁ、と思いを深くしました。

      2013年5月15日水曜日

      奈良県生駒郡安堵町窪田にある重要文化財中家住宅

      中家住宅主屋
      前回(奈良多聞山城の城門遺構)からの続きです。

      奈良多聞山城の城門の遺構と伝わる石田家住宅を見学のため、奈良県生駒郡安堵町を訪ねたのですが、その隣の中家住宅が国の重要文化財で、この一帯の歴史的遺物の中心です。
       当然、中世の頃は主郭に当主の屋敷がある、統一的な構造だったと思われますが、永い歴史の中で家名保存のために養子縁組などが行われて、同じ敷地内に二つの家系が置かれるようになったようです。
       江戸幕末などの社会的な大混乱の中で明確な事はわからなくなっているようで、今は、縁続きではあるけども、別々のお宅になっているようです。また、石田家住宅は現在無住で、家の痛みが目立ちます。

      内堀の様子
      この中家住宅は勿論、建物もすばらしい歴史的遺物ですが、その周囲もすばらしい環境です。中世の館城がそのまま残っていて、大変参考になります。
      現在、外堀は途切れていますが、元は二重に囲まれていたらしい水堀で、江戸期に手を加えられているものの内堀はそのまま残っています。
       また、その周囲には集落があり、そのまた外側は自然の川を利用した集落の結界、即ち、堀になっていたようです。

      この中家は『中家の魅力(向陽書房)』によると、南北朝時代に足利尊氏に従って伊勢国鈴鹿郡から大和国へ入り、1339年(暦応2)12月に現在の窪田に定着したと伝わっています。この時、岡崎庄・笠目庄・窪田庄を幕府から領地が認められ、窪田対馬守康秀を名乗ったようです。
      敷地内の中氏菩提寺「持仏堂」
      その後、同一族は中氏を名乗り、奈良の有力者に成長しつつあった筒井氏の縁続きともなって、窪田一帯に威をふるうようになったようです。
       この中氏は、筒井順慶など、その一族の大和国統一戦のために尽力するも、筒井氏の国替えには従わず、大和国に残って、それ以来今も現在の地に在るというわけです。
       
      凄いです。

      永禄9年春から始まった三好三人衆と松永久秀との戦いの時には、池田勝正も三好方として3,000〜4,000程の兵を大和国へ入れています。この時、筒井順慶は三好方として多聞山城などを攻撃していましたので、両者は友軍として軍議などでは顔を合わせていた事でしょう。

      外堀の様子
      中氏は、中世以来の由緒により13人の被官を持つ家柄でしたが、1595年(文禄4)、大和国領主となった増田長盛により行われた検地の折、士分を停止させられます。
       この時中氏は、百姓としての身分が確定(決心)し、新たな時代を歩む事になったようです。既に被官を率いる程になっているため、自分の意思だけではなく、支える人々とも話し合って、土地に残る事を決めたのでしょう。
       そして、時を経て近世には、庄屋や大庄屋としての役目を江戸幕府から命じられ、現在に至っています。

      重要文化財中家住宅は、永い歴史が1カ所に積み重なっています。

      窪田の集落の様子
      先にも述べましたが、中家住宅は勿論、建物も大変貴重で、すばらしいのですが、その周囲の環境までも残っている点で、非常に珍しい文化財です。

      是非一度、訪ねてみて下さい。
      ※施設の維持協力金として一人500円の入館料がかかるのですが、是非ご協力下さい。また、今もお住まいの個人宅ですので、予約の上で、訪ねて下さい。

      参考:奈良県生駒郡安堵町役場中家住宅のページ

      ちなみに、安堵町は中々交通事情の不便なところにあるのですが、それ故にこれ程の文化財が残ったとも言えます。すばらしい文化財を目の当たりにすれば、多少の不便さも吹っ飛びます。
       それから、こちらのお宅でも10年程前に先祖伝来の鎧兜一式が盗難に遭ったのだそうです。犯人は捕まったそうですが、盗られたモノは戻って来ないのだそうです。こんなお話しを聞くたびに、本当に何とも言えない、涙の出そうな激しい怒りを覚えます。

      2013年5月4日土曜日

      奈良多聞山城の城門遺構

      伝多聞山城城門の構造
      前からちょっと気になっていた、多聞山城の城門遺構と伝わっている石田家住宅の門を見学に行ってきました。この門は、国指定の重要文化財である中家住宅に隣接して今も残っています。石田家住宅は今は無住で、外観だけを見る事ができるのですが、無住のせいか、随分荒れ果てています。

      奈良の多聞山城は、池田勝正も3,000程の兵を率いて攻めています。 随分と難儀しながらも、城そのものは落します。しかし、戦略的な意味は果たす事ができず、闘争そのものの決着をつけるには至りませんでした。

      この石田家住宅の門は、あくまでも伝承で、多聞山城の遺構かどうかは不明なのだそうですが、見た所、庄屋さん宅の門としては頑丈すぎる構造のように思えます。門柱は、幅45センチはあろうかという太さです。


      伝多聞山城城門全景
      石田家住宅に隣接して中家住宅があり、同家は大庄屋を務めた家柄だったそうですが、確かに徳川幕府統治の重要拠点であったとはいえ、これ程の門とその構造はちょっとアンバランスで、様式を重んじる時代にしては、不自然なように思います。

      また、近江坂本城の遺構と長い間伝わっていた「西教寺総門」が、最近の調査で伝承通り、坂本城の遺構である事が確認されたりしていますので、伝承は結構正確である可能性も指摘されています。
      ※個人的な経験で、そうでない事もありますが、そういう場合は、時代が合わないし、後世に造られたりしているものも多いので、ちょっと調べると直ぐに判ります。

      さて、この多聞山城の城門遺構が、もし本物だったら、全国版ニュースに取り上げられる規模の大ニュースでしょうし、城郭史分野、建築分野にも大きな波紋を投げかけるとともに、研究も大きく発展する遺構になるでしょう。

      重要文化財 中家住宅
      お話しでは、中家住宅が重要文化財になる時の調査で、石田家住宅のこの門も一応調べられたし、その後、平成12年くらいに移築保存の話しも上がっていたそうですが、何れも確固たる立証に至らず、認定は見送りになったとの事でした。

      しかし、専門家が見ても意見の分かれる事も多いですし、また、文化財の持ち主との関係等から、うまく事が進まないケースも多いため、本質を見失って、本願を遂げられない事も少なくありません。
        それ故に、真偽の程はグレーなまま、この遺構の扱いが曖昧になり、現物は日増しに朽ちているという状況です。

      文化財は、この先新たな環境を迎える事が必定で、今、文化財についてしっかりと見つめておかなければ、日本固有、地域固有の文化財は急速に朽ちて行く事は明らかです。
      ※最近では、大東市の平野屋会所保存についての問題、大阪市の渡邊家住宅の保存に関する問題などがありました。いずれも取り壊しとなり、大変貴重な文化財が破壊されてしまいました。双方共に相続に関する金銭的な問題です。

      自分達の共有してきたものを残し、伝える事は、国の豊かさや強さに繋がっていると感じています。「国(日本)のまほろば」といわれる奈良県は、特に事を他の地域よりも真剣に考えていただければと願っています。

      奈良県は、東大寺や春日大社だけではない、すばらしい文化財が沢山あります。是非、機会をみつけて見学にお出かけ下さい。


      追伸:文が長くなり過ぎましたので、重要文化財の中家住宅については、また、改めて紹介します。中家住宅もすばらしい文化財でした。


      2013年4月29日月曜日

      元亀元年夏の摂津国野田・福島の戦いと野田ふじ

      摂津国の戦国大名池田勝正も参陣していた元亀元年(1570)夏の野田・福島城攻めについて、永年気になっていました。
       江戸時代、そこは藤の花の名所としても知られる所となりました。
       藤の花は、家紋のモチーフとしても用いられる程、日本文化に深く根付いた植物です。また、藤の花は「藤原家」の象徴でもあり、その縁を持つ春日神社や本願寺宗系の紋にも使われています。

      近頃特に、桜がもてはやされていますが、藤の花も歴史は古く、また、花自体も繊細で可憐な趣を持ち、日本を代表する花の一つです。

      平成25年(2013)4月28日、そんな「野田の藤」を見に、大阪市福島区玉川を訪ねてみました。少し盛りは過ぎていたものの、すごくキレイに可憐な花をつけていました。
       今まであまり、じっくりとは見なかったのですが、改めて見てみると、その香りや色合い、繊細さなど、とても魅力的な世界観を持つ花です。キレイでした。

      さて、野田・福島の戦いについてです。この付近の場所には城があったとされていますが、詳しい規模と位置は未だ不明のままです。
      しかし、地元の福島歴史研究会などの調査により、少しずつ解明されてきているようです。調査資料は今のところ専門的な資料は出版されていないようですが、その成果は『なにわのみやび 野田のふじ』で紹介されており、興味深いです。
      現在の大阪市営地下鉄千日前線とJR環状線「玉川駅」近くに立つ「野田城跡」の碑は、南西端にあたり、その中心部は、そこから北東方面にある圓満寺と極楽寺のようです。それらは共に野田城跡を示す、だいたい妥当な指標となっているようです。
       一方、福島城はというと、『なにわのみやび 野田のふじ』を参考にすると、野田城に連なる城のようで、野田城の東と北を守る外郭部に「福島」はあったのかもしれません。それは対岸の中之島とその間を流れる淀川とも深く関係していたと思われます。

      野田・福島城は、洲というか、島というか、その陸地の南端部分で、その南と西側は瀬戸内海にも繋がり、補給はここから受ける事ができるようです。
       野田・福島の戦いでは、8,000〜12,000もの三好三人衆方の兵が入ったとされ、それ程の人数が居続ける場所と物資が必要ですので、それに耐え得る地を選ばなければなりません。
      それから、その当時から既に野田村には本願寺宗の寺院も多くあったようですので、そこに陣を置くという事は、本願寺方とも話しはついていたと考えられます。

      同年の春、織田信長は越前国朝倉氏を攻めるために出陣しましたが、近江国大名の浅井氏が朝倉方としての旗色を鮮明にさせた事で、信長は京都へ撤退します。
       信長はこの時、京都に10日間程居り、情報収集を行っています。その時既に本願寺の行動を気にかけており、敵である事は認識していたようです。

      更に、将軍義昭と敵対する将軍義栄方の三好三人衆は、京都を中心とする近畿での政治に実績があり、侮り難い勢力でした。公家の中にも義栄方の勢力がありました。
       近衛前久は、藤原氏筆頭の血筋でしたが、前久は義栄方として大坂本願寺に身を寄せていました。
       それから、本願寺宗の中興の祖である親鸞上人は、近衛系の日野氏出身者で、その関係から前久は、大坂に身を寄せていたのです。
      近衛氏が反義昭・信長であったのですから、春日社領や藤原氏に系譜を持つ氏族の糾合は得易い訳で、そんな繋がりから、春日領とも関係の浅く無い「野田・福島」方面は、三好三人衆方の攻勢拠点となったのでしょう。本願寺方が提供したと言えるのかもしれません。
       実際、6月には和泉国堺に浪人(三好方)が集まっているという情報が、幕府・織田方に寄せられていました。
       
      はじめの頃、この合戦は、幕府・織田方が軍事力で優勢でしたが、そういう血の歴史が、それ以上の力を発揮したのでした。

      本願寺宗は、教団存続のために検討を重ね、準備もし、多方面に協力を取付けた上で、「反幕府」に決した訳です。失敗すれば半世紀前の血みどろの歴史を繰り返し、教団存続の道も断たれます。本願寺宗は、慎重に慎重を重ねた結果、武力に訴える道を選んだのだろうと思います。

      摂津国野田・福島の戦いは、本願寺教団にとって、運命の場所と瞬間になりました。

      2013年3月18日月曜日

      天正5年4月6日、織田信長方荒木村重、播磨国人原右京進宿所へ宛てて音信

      小野市史第4巻 史料編の380ページに、興味深い史料があります。

      この時は織田信長方であったであろう荒木村重が、播磨国人と思われる原右京進の宿所へ宛てて音信しています。

      内容は、
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      存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候。急度御参会然るべく候。恐々謹言。
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      となっています。

      この史料は年記を欠きますが、個人的推定で天正5年ではないかと考えています。理由は、文中の「急度御参会然るべく候」とは、村重が播磨方面で活動を活発化させていた頃のものと考えてみました。
       村重はこの年5月、9月に小寺(黒田)勘兵衛孝高に音信するなどしていますし、羽柴秀吉なども盛んに播磨方面で活動しています。

      もう一つ、この史料に注目すべき点があります。「安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候」とあります。
       安見は多分、河内国人の安見氏で、この頃は安見新七郎が当主です。通説では、天正3年頃に安見氏は滅びたと伝わっていますが、活動しています。

      昔は何かと縁故関係がなければ、信用を得られません。どこの誰かも解らないのに、深い話しもできません。
       この安見氏とは、かつては河内国の守護代も務めた家柄でもあり、また、河内国発祥とされる鋳物師集団とも関わりがあり、安見氏の本拠である交野・茨田郡には、田中家という鋳物師が居り、江戸時代には禁裏御用も務める程の集団でした。

      小寺領内に野里村があり、ここが鋳物師集団の居住する所でした。もちろん、小寺氏は置塩城の播磨守護家赤松氏に仕える家でしたので、安見氏とは、鋳物師つながりの縁故があったと考えられます。
        更に安見氏の本拠地は京都に近く、京都の禁裏は経済立て直しの一環として、鋳物師統括も真継氏によって進められていましたので、安見氏との接点もあったようです。そういった複数の要因がこの動きとなり、この史料に現れているのではないかと考えたりしています。

      安見氏は、荒木村重の命で播磨国に赴き、原氏と何らかの打ち合わせを行っています。 なぜ村重が命令しているとわかるかというと、「安見参り候はば」と呼び捨てにしているからです。
       それと、この史料にはもう一人人物が現れます。「安河」です。これは既知の人物で、フルネームで書かず、省略されています。
       これは、安○河内守という人物だと思います。村重の側から原氏へ赴いた人物です。「存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。」という一文からわかります。
       現代文にすると、「安河にこちらの考えを伝えておきましたが、詳しい返答があり、誠に満足です。」 みたいな内容になろうかと思います。
       相手の使者だと、安河に対して敬語が使われる筈ですが、特にそれが見られませんので、状況としては、村重が安河を原氏へ使いにやり、村重がその返事を聞き、更に村重は安見を派遣したようです。急ぎの事があったのでしょう。

      こういった動きが、村重謀叛の折の黒田勘兵衛の行動に繋がるいち要素になっているのだと思います。

      2013年2月28日木曜日

      天正3年9月18日、長雲軒妙相、河内国人安見新七郎宿所へ宛てて音信す

      名古屋大学文学部国史研究室の所有する史料が『中世鋳物師史料』として発刊されています。

      同史料に含まれる書状に、年欠9月18日付けで、長雲軒妙相なる人物が、河内国人安見新七郎宿所へ宛てたものがあります。この安見氏は、河内国守護代の家系で、この新七郎はその当主にあたる人物です。また、安見氏は、北河内地域などの鋳物師を統括していたようです。枚方の鋳物師として、田中家があり、領内の職人として把握していたようです。

      そしてこの安見氏、この後に、荒木村重の被官となっているようです。 村重の使者として、播磨国人らしき原氏の元に発っている書状が存在します。

      長雲軒妙相なる人物の書状の内容は、
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      尚々佐右(佐久間右衛門尉信盛)いよいよ仰せ付けられ由、地下人申しに付きて、先日申し遣わし候処、返事御入れ事、其の写しをも彼の地下人方へ遣わし候。同篇御用捨て専一候。以上、と前置きしている。本文は、久しく老面談ぜず候者、十一日 御上洛に就き、御供致し候。仍て河内国枚方之在る鋳物師事、其の方自り夫役仰せ付けられの由候。惣別諸国候鋳物師事、禁裏御料所に付きて、諸役御免許に候。御朱印をも遣わされ候条、向後御用捨て尤も然るべく候。柳原殿自り仰され候間、申し入れ事候。若し又御存じ無き事候歟。彼の在所候者共、御尋ね有り、急度仰せ付けられるべく候。此の方御用の儀候者、相応じ疎意有るべからず候。恐々謹言。
      -------------------------------------
      となっています。

       そして、この書状の年代比定ですが、佐久間右衛門尉信盛の河内国周辺での活動時期や、文中の「十一日就 御上洛、仍ひらかた在之鋳物師事、自其方夫役被仰付之由候」とは、織田信長の上洛を指すと考えられ、天正3年10月10日に信長は上洛している事から、この史料は天正3年と思われます。

      それから、長雲軒妙相なる人物は、内容からすると、織田政権の関係者のようです。

      2002年11月の交野城跡の様子
      天正3年頃の安見氏は、河内国交野郡を中心とする地域を拠点として活動しており、交野城を根城としていたようです。交野城あたりは、奈良と京都への要衝でもあり、大坂・奈良・京都からちょうど20キロメートル程の位置にあります。3カ国国境の地域といってもいい場所です。また、土地も肥沃で、米や作物も多く採れます。
       また安見氏は、永年に渡るそれまでの守護代としての活動経験もあり、河内国全土に繋がりも持ち、鷹山氏など大和国側にも影響力を持っていました。
       ちなみに同じ盆地内にある津田城は、交野城と補完関係にもあったようで、地理的にも京都に対する重要な場所です。

      参考:河内国津田城

      そういった人物であり、その本拠地域でしたので、京都とも関係が深く、また、政権維持に重要な人物でもありましたので、重用されたようです。
       天正年間初期、織田政権が各地に軍事侵攻する中で、京都を中心とする地域の防衛も疎かにできず、荒木村重に摂津だけではなく、河内半国(中・北)をも任せていたようです。それは、キリシタン史料など、様々な資料に見られます。
       また、安見新七郎は、父直政が元亀2年、松永久秀に嫌疑をかけられて自害させられています。間もなく、居城の交野城に松永勢が攻め寄せますが、これを退けて守り抜きました。史料を見ていると、この事件以来、新七郎は反松永勢力として活動したようです。

      それから、通説では、天正3年の織田信長による河内国平定で、安見氏は滅びたとなっているようですが、織田政権に組み込まれたのが実情のようです。 その後も活動が見られます。

      2013年2月27日水曜日

      大東市の市民学芸員制度

      南郷研究会という郷土研究会に参加したところ、ちょうど、「市民学芸員Report」という会報が配られた事から、大東市の市民学芸員という取組みを知りました。
       その方は南郷研究会の会員であると同時に、この市民学芸員もされておられて、地域の文化財について熱心に取り組んでおられます。
       この大東市の「市民学芸員」制度は、同市の歴史民俗資料館付けの組織で、全くのボランティアで皆さん参加されておられます。今年で5年目となるそうです。今まで知りませんでした。

      多分、全国的に見ても先駆的な取組みだと思いますし、個人的にもこういった取組みをしていくべきだと考えていた事から、興味を持ちました。

      例えば、アメリカの映画作りは、莫大な予算とプロジェクトによる取組みでもあるのですが、結構、ボランティアも活用されています。そのボランティアも専門性に分けられ、それを統括するスタッフが居て、組織立てられているようです。労力提供する側にもメリットがあり、受ける組織にもメリットがあるように、互いのメリットの交換の場になっています。
       というのは、俳優の莫大なギャラが制作費を圧迫している背景もあるからだとか...。

      しかし、これは今の日本社会全体でも必要な事だと思います。労働の質の向上と継承は、社会の大きな宝です。何よりも、お金を節約したいなら、行政はキチンと組織立てて考える努力をし、市民と共に課題を克服して行くべきだと常々感じています。
       市民の側でも、有為な人材が公的な後ろ盾を受けられる事にもなり、人材の発掘と目的達成の補完が可能になります。

      細かな制度の練り上げも必要だと思いますが、制度作りは、行政が得意とするところですので、それを活かす事で解決できるでしょう。また、現実的にそういった素地もニーズもある訳ですから、あとは、行政のやる気だけです。

      地方・地域分権を唱うならなら、こういった分野も自主的に考える事ができるかどうか、この一点を見ても、その自治体の万事の素質だと思います。
       一方で、道路や橋、水道などのインフラの維持管理も深刻な問題が指摘されている程ですから、実際のところ深刻な無法行動が続けられているのが現状であり、地域分権などとは夢のまた夢です。

      ちょっと横道に逸れてしまいましたが、大東市のこういった「市民学芸員制度」は、非常に期待出来ますし、多くの町に広がって欲しいと願っています。

      大東市立歴史民俗資料館 市民学芸員REPORT は、大東市内の公的な施設などで手に入るようです。興味をお持ちの方は、一度手に取ってご覧下さい。


      ちなみに、同組織の活動拠点は同市民俗資料館です。
      大東市立歴史民俗資料館公式ホームページ

      追伸:個人的には、こういった市民活力の現実的な概念として寝屋川市の取り組む地域通貨での支払いも組み合わす事ができれば、有為な人材を定着させ、成長の持続につながるものと考えています。バランスは難しいと思いますが、責任と発展を持続させるには頼りになる要素であると思います。

      2013年1月12日土曜日

      メディアに池田勝正が取り上げられました!

      池田の郷土史家の方の紹介で、池田城・池田氏関連の取材協力をさせていただきました。池田勝正も取り上げられています。

      毎日新聞社が運営している、「マチゴト・豊中池田」という地域密着型新聞(11万部発行)があります。その中に漫画で知ろう豊中・池田というコンセプトの「とよいけ劇場」という枠があり、第11号と12号が「池田城と池田氏」というテーマが設定され、それについて取材協力をさせていただきました。

      とよいけ劇場
      http://machigoto.jp/cartoon/
       ↑ページ中の「閲覧する」ボタンを押すとpdfファイルがダウンロードされますので、そちらからご覧下さい。

      時々こういったカタチで、池田勝正の事も紹介できたらいいなと思います。

      マチゴト・豊中池田はネット版も紙媒体版もあります。是非ご覧下さい。
      http://machigoto.jp/


      2013年1月8日火曜日

      河内国津田城

      国見山展望台
      河内国交野郡にあった津田城とは、どうも二ヶ所あったように思えます。
       一つは、標高286.5メートルの位置に築かれた国見山城とも称された城。もう一つは、津田村そのものか、それを含む一帯の城。
       このあたりは、在地領主の中原氏が勢力を持っていたようですが、次第に津田氏に取って代わられ、その津田氏三代目にあたる正明の時代に、三好長慶に属して、更に勢力を拡大したようです。
       交野郡の牧八郷と茨田郡の鞆呂岐六郷を併せて一万石余りの領有と、杉・藤坂・長尾・津ノ熊・大峰などの新村も開発するなどして勢力を拡げたようです。また、奈良興福寺との関係を持ち、津田村・藤坂村・芝村・杉村・穂谷村の「侍中」を津田筑後守範長が率いていた事が、永禄2年8月20日の交野郡五ヶ郷惣待中連絡帳から明らかになっています。

      津田山城内
      津田氏は三好長慶に属した事から、長慶の政策に大きく影響されたであろう事は容易に察せられます。長慶が河内国内の飯盛山に本拠を移した永禄3年以降、津田は京都までの街道上の要地として重視されていた事でしょう。
       その視点で見れば、国見山城は、京都まで見渡せる視界を持ちます。また、津田は交野平野ともいうべく、天野川が流れる平地一帯も見渡せ、そこを走る幾本もの街道もまた見る事ができます。

      津田の旧集落(上の方)
      津田村も比較的標高の高い位置にありますが、その地塊に続く三国山に登れば、津田村周辺と共に、摂津国の高槻方面にある芥川山城も含む、広大な視界を手にする事ができます。津田氏は、三好長慶に属する事で自己の支配領域拡大に役立て、長慶もその安定的な存在を自己の政権安定の一要素として活用した事でしょう。

      ところで、個人的な感想として、津田城が上と下の2つを運用していたと考えたのは、上の城である国見山城は、京都への対応のため、摂津・河内両国の連携に必要であったからと考えています。しかし、高い所の施設の維持管理には当然ながら、費用が重みます。また、人員も必要になったりしますから、そこを担当する津田氏はやはり優遇されるでしょう。
      津田の集落(下の方)
      一方、下の城である津田村ですが、津田氏の活動拠点であるため、人や物が集中してそこに集まります。いざという時にそこを守る必要がありますね。
       そういった理由から、城郭化せざるを得なかっただろうと思います。旧村を歩いてみると、そこここにその跡らしきものを感じます。尊光寺という津田氏一族の寺が現津田元町に存在しますので、村は津田氏と一体化した存在だったと思われます。

      その後、津田氏及び津田城は、三好長慶の死後、三好三人衆と松永久秀の闘争に巻き込まれて苦悩しますが、命脈を保ったようです。
       更に、将軍義昭・織田信長の時代に動乱があり、荒木村重も関わった天正3年の河内国平定の時(四代津田正時の頃)には津田村も焼かれ、勢力を縮小させながら地域の動揺に耐えていたようですが、本能寺の変の頃には明智光秀に応じたために、決定的な打撃を受けて弱体化してしまった模様です。 

      津田の秋の稔り
      しかし、元々肥沃で地の利もあり、また、村人の勤勉さもあって村は復興し、現在に至っています。
       正保郷長の村高は1,018石で、米の他に大麦・小麦・綿・菜種・芋・茶・大豆・大根などが取れ、酒造業・絞油業・素綿業が営まれました。宝暦10年(1760)には、1,317人が住む村となっており、石高と業種の多さから見ると豊かな村となっていた事がわかります。

      これ程の場所ですからやはり、政治的特権を得たならば、相当に栄えた事は容易に想像ができますし、上下2つの城を持つ事も不可能ではなかっただろうと思います。