荒尾市荒木家文書にある天正3年2月頃は、その宛先である荒木村重にとって、どのような環境であったのか考えてみたい。先ず、その背景としての経過と前年の様子を俯瞰してみる。
天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依然、畿内とその周辺において義昭の影響力は強かった。摂津国内の旧政権守護格である池田・伊丹氏と大坂本願寺の動き、近江国では六角氏、伊勢国長嶋の本願寺宗、甲斐国守護武田氏の西進、安芸国毛利氏の東進の動きがあり、信長は対抗勢力に、速やか且つ、根本的な対応が必要であった。
そんな中で村重は、池田・伊丹氏を制圧し、大坂本願寺も軍事的な封じ込めに成功。そして村重は、有馬郡守護の有馬氏を除いて、天正3年夏頃には、ほぼ国内を掌握して伊丹・花隈等の要所に城を築いて整備も行った。
同時に織田方も伊勢国長嶋を制圧、近江国の六角氏勢力を壊滅させる等、可能な要素から各個対応を行った。残る要素へも十分な準備を整えて、計画通りに進めていたのだった。
そして天正3年、信長はその計画を実行する。2月、部将となった明智光秀が丹波国へ進攻。他方、3月は河内国へ侵攻し、翌月に高屋城を降した。5月、三河国長篠で武田勝頼を破り、8月には越前国など北陸方面の一向宗を制圧。
このように織田方は、畿内諸勢力と繋がる周辺勢力を撃破したため、孤立を深めた大坂本願寺方から和睦を引き出す程の優位に立った。また、信長はこの間に、京都で徳政令を発布。これは前例に無い程、大規模な対応を朝廷・権門へ実施し、政治的な対策も怠らなかった *15。
織田政権は、天正2年から翌年にかけて、体制作りと軍事的目標への決戦準備を行い、着実に達成させていた。村重もその計画通りに行動し、軍事・政治共に同政権を支えたのだった。
【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(15)前掲註(6)、「二 天正三年徳政令と新知進献」(第四章 第一節)。
天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依然、畿内とその周辺において義昭の影響力は強かった。摂津国内の旧政権守護格である池田・伊丹氏と大坂本願寺の動き、近江国では六角氏、伊勢国長嶋の本願寺宗、甲斐国守護武田氏の西進、安芸国毛利氏の東進の動きがあり、信長は対抗勢力に、速やか且つ、根本的な対応が必要であった。
そんな中で村重は、池田・伊丹氏を制圧し、大坂本願寺も軍事的な封じ込めに成功。そして村重は、有馬郡守護の有馬氏を除いて、天正3年夏頃には、ほぼ国内を掌握して伊丹・花隈等の要所に城を築いて整備も行った。
同時に織田方も伊勢国長嶋を制圧、近江国の六角氏勢力を壊滅させる等、可能な要素から各個対応を行った。残る要素へも十分な準備を整えて、計画通りに進めていたのだった。
そして天正3年、信長はその計画を実行する。2月、部将となった明智光秀が丹波国へ進攻。他方、3月は河内国へ侵攻し、翌月に高屋城を降した。5月、三河国長篠で武田勝頼を破り、8月には越前国など北陸方面の一向宗を制圧。
このように織田方は、畿内諸勢力と繋がる周辺勢力を撃破したため、孤立を深めた大坂本願寺方から和睦を引き出す程の優位に立った。また、信長はこの間に、京都で徳政令を発布。これは前例に無い程、大規模な対応を朝廷・権門へ実施し、政治的な対策も怠らなかった *15。
織田政権は、天正2年から翌年にかけて、体制作りと軍事的目標への決戦準備を行い、着実に達成させていた。村重もその計画通りに行動し、軍事・政治共に同政権を支えたのだった。
【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(15)前掲註(6)、「二 天正三年徳政令と新知進献」(第四章 第一節)。