2011年1月22日土曜日

金魚の稚魚が産まれました

個人的な話しですいません。←このブログの全部が個人的じゃ!

部屋で金魚を育てようと思って去年の春、ホームセンターで金魚すくいの金魚(小赤の名前で出ています)を買いました。全くの素人だったので、何もわからず心配ばかりしながら、育てました。チカラ及ばず何匹かは死んでしまったのですが、今、4匹が元亀に、あ!違う、元気に泳いでいます。12〜3センチくらいの大きさになっています。

 最初は、七人の侍にしようと思って、7匹買って来たのですが、寒さにやられたり、病気などで、残念な事になったのですが、最初のメンバーが生き残ってくれいています。金魚も飼ってみると色々と、知らなかった事が見えて来て、人懐っこくてかわいいものです。

 金魚ってどのくらいで大人になるのかがわからず、いつものようにしていたら、卵を産むようになっていて、ある日、水槽を見てビックリです。「た、卵産んでる!」って大騒ぎです。
 その後、何度も産卵したのですが、うまく行かず、諦めていたのですが、今回は卵ごと小さな水槽にいれ、温度を少し高め(26度)にして、そっとしておいたら、何と、3日目くらいに卵から稚魚になっていました。50疋では利かない数です。

 今はとりあえず、水草を入れ、流木を入れて、エアーだけを動かして様子を見ています。透明の稚魚が思い思いに泳いでいます。かわいいです。
 年の初めから何だかこれは幸先が良い感じがしますね。どのくらいが、無事に成長してくれるかはわかりませんが、ガンバリマス。

2011年1月21日金曜日

池田勝正が、テレビに登場!

池田勝正研究、苦節十数年、これ程嬉しかった事はありません!つ、遂に、池田勝正が取り上げられました!

関東方面で少し前から放送されている番組で、近畿地方では「おっサンテレビ」で有名な、サンテレビで「戦国鍋TV」という番組名で放映されています。
 その中で、色々な場面設定がされたシリーズコーナーがあるのですが、「戦ハーフタイム」で金ヶ崎の退き口で池田勝正が取り上げられています。つ、遂に、史実としてデビューのきっかけができました!嬉しいです。

 また、その勝正役が若手俳優の中村龍介さんが演じていて、イケメンです。好感度もものすごいUP↑↑↑↑です。龍介さんは、戦国鍋TV中で他の武将の役もされているのですが、是非、今後も続けて勝正役を演じて欲しいものです。

いや〜、楽しみです。これを機に、池田勝正の事を多くの皆さんに知って欲しいと思っています。

番組は、「歴史の事実を何となく学べる」をコンセプトに面白おかしく、歴史的事実を紹介しています。若手俳優を起用し、しっかり歴史的事実も押えて番組作りがされています。すばらしいコンセプトだと思います。踊って歌うコーナーもとっても面白いです。堺衆や利休七哲などいったアイドルグループまで登場します。

個人的には、原作無しに脚本だけで大河ドラマなんかより、ずっとこの方が放送として面白いと思います。ある意味、意義もあるように思います。
 それよりも、面白い番組ですので、お気軽に、是非ご覧下さい。

2011年1月15日土曜日

摂津国中嶋(堀)城について

摂津国堀(中嶋)城についてちょっと記事を書いてみましたので、ご覧下さい。
現在でもその所在が特定されていないのですが、中世・近世の畿内の政治史では、重要な場所です。
 また、現在では中嶋の嶋の字は、「島」と表記する方がいいのかもしれません。一応、現代版の文字で表記しています。
 この摂津国堀(中嶋)城は、細川右馬頭藤賢の城で、1566年(永禄9)頃に築城されたと伝わるようですが詳しくは解っていません。中島(堀)城は、池田勝正荒木村重などにも関わっています。特に1574年(天正2)7月20日には、この城を巡って荒木村重・池田衆勢が、大坂本願寺の門徒衆と大会戦を行っていることが、史料に現れます。


2011年1月12日水曜日

河内(枚方)街道

河内街道について、ちょっとコラムを作ってみましたので、ご覧下さい。

東大阪市加納の旧市街
この河内街道は、今の日常生活でも利用しているのですが、歴史的な道です。1704年に大和川の付け替えが行われるまでは、河内平野を東西に横切る新開池があって、これを渡って枚方から、八尾までをつなぐ主要な道でした。河内街道は、茨田郡・若江郡の南北の主要道だったようです。
 なお、江戸時代の古図には、河内街道との呼称は見当たらないようで、明治時代以降に河内街道と呼ばれるようになったようです。

永禄年間初頭に河内国守護畠山氏が三好長慶によって追われると、三好方の池田勝正はその影響で、河内国へも軍事活動範囲を拡げていきます。
 また、大阪平野の中央部にもあたる若江郡は、川に囲まれた島のようになっていて、天然の要害といってもよく、ここには若江城がありました。その若江城に阿波国三好家の宗家でもある義継が入っていた事から、池田勝正も何度か訪れているようです。

宇波神社に街道が突き当たる
元亀元年6月、摂津池田家中で内訌が起り、勝正は家を出ます。勝正は一旦、大坂方面へ南下しつつ京都へ入り、将軍義昭に状況報告を行います。6月20日の事です。
 その6日後、勝正は再び河内国若江の三好義継と共に京都の将軍義昭へ状況報告に向かいます。

その頃、勝正は若江城を経て京都を訪ねたかどうかは不明ですが、もし若江城に勝正が入っていたとすれば、この河内街道も使っていたのかもしれません。前述のように、河内街道は茨田・若江郡の主要街道だった訳ですから。





2010年12月29日水曜日

元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程

また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していますが、単独で兵を多数率いていたわけでは無いようです。
 そういった状況の中で、池田勝正は元亀元年越前朝倉攻めに従軍する訳ですが、近江国高島郡から北への道程がはっきりしないところがあります。この高島郡は肥沃な土地で、様々な権利関係がある複雑な状況だったようです。
 西島太郎氏は朽木氏をはじめとした、この地域の研究者ですが、その論文を読むと非常に深く分析されています。大変勉強になります。宮島敬一氏は浅井氏を主に素材として研究されていて、こちらも勉強になります。
 永禄4年頃から、浅井氏が高島郡に影響力を行使しはじめ、幕府、六角、浅井氏の想いが錯綜する複雑な関係になっていったようです。
 この地域は、西佐々木七家と言われた勢力があり、佐々木越中家を筆頭に、田中、朽木、永田、能登、横山、山崎の各氏が構成していたようです。この惣領家が佐々木越中家であったと考えられています。その佐々木越中家の居城が、清水山城で、安曇川の北側にあります。
 さて、元亀元年越前朝倉攻めの時、織田信長は、高島郡に入ると、その地域筆頭の佐々木越中家の居城では無く、田中氏の居城である田中城に宿泊(本営)しています。これは、少し違和感を感じる事です。
 やはり、幕府・朝廷公式の軍勢である、引率者織田信長が高嶋郡に入ったなら、地域の筆頭である佐々木越中家がこれを迎える筈です。
※清水山城については発掘などの物理的検証が始まったばかりですし、文献史料の発掘も西島氏によってやっとはじまったところですから、史料がないだけだとは思います。

 個人的に、この時に信長が田中城に入ったのは、この地域の勢力分断があったためではないかと今のところ考えています。そのため、軍事的・政治的に重要であった高嶋郡で、敵対する動きを見定め、各地域勢力の軍勢集結地にし、物資や港の確保などといっ事も同時に行うところであったようにも考えています。

 そして信長は、そこから山手へ入り、朽木方面を経由して熊川へ。そしてもう一隊は、西近江街道を北へ進んだのではないかと考えています。
 一方、浅井氏は、既述のように湖北地域の勢力拡大の野心は持ち続けており、永禄11年12月12日の段階でも、高島郡の朽木氏に領知についての起請文を発行しています。そしてまた、翌年正月の本圀寺の戦いを経て、同年6月下旬には、六角氏の牢人が奈良方面へ現れるとも噂とともに、浅井氏が信長から離れる噂が立っています。高嶋方面の利権関係が更に緊迫していた事が想定できるように思います。

 こういった事を背景にして、元亀元年越前朝倉攻めは行われ、浅井方の影響力の強い高島郡から北へも敢えて、幕府・織田方は軍勢を進ませた可能性もあると思います。一応、公的には友好関係ですから、浅井氏は拒む事ができません。この行動にどう反応するか、幕府・織田方は確認しなければならなかったのかもしれません。

 それが、信長の田中城宿泊だったのではないかと、個人的に考えています。安曇川から北は浅井方の影響地であったのかもしれません。




2010年12月22日水曜日

元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路

元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。
 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。
 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵の前衛拠点制圧を目的として、最低二筋に分かれて決戦地点まで進みます。

ですので、22日に近江国高島郡田中城に入った後は、ここから二手に分かれて進軍したと個人的に想定しています。
 というのは、元々浅井方の動きを知るためのもので、高島郡から西近江街道を進めば、越前国境まで浅井領内を進みます。この行動に対して反応するかどうかを試したのではないかとも考えています。また、浅井勢が北上した時にこれを察知して食い止める必要も有り、西近江街道に軍勢を入れておく必要もあったと思われます。
 もちろん、疋田城ほか、抵抗する拠点を制圧・攻囲する必要もあります。また、湖北は、今津・海津など要港があり、これも視野に入れつつ、実際的に補給の事も考えておかなければいけません。

さて、池田勝正はこの二つの内、どちらを進んだかです。

現在もそうなのですが、軍隊は地域性を帯び、やはり織田信長の軍勢の最小単位もやはり、一族衆単位です。この当時の軍隊はそういう編成になっているようで、池田衆は幕府から出した軍勢として位置づけられています。摂津守護職を受けている家ですから当然でしょう。
 この時、池田衆は3,000の兵を出しているのは、当時の史料からもわかりますので、それは中核といっても良い勢力です。また、信長にとっても尤も信頼の置ける部隊のひとつでしたので、そばに置いたか、敢えて、幕府衆として西近江街道を進ませたかは、今も判断に悩むところです。
 しかし、この時の事に関する若桜国方面での記述では、信長や徳川家康についての記述が多いように見えますので、勝正など幕府衆は信長に随伴していなかったかもしれません。

それからまた、高島郡で陣を取った時、この地域は浅井方の勢力も入り込み、幕府方などの勢力と拮抗していた地域であったよです。
 元亀元年早々の諸国大名宛てに公武参内を促す触れ状に、「西佐々木七家」とありますが、この西佐々木七家の惣領家とされる佐々木越中家の本拠と考えられる清水山城を宿泊場所に選んでいません。ちなみに田中城は、割と大きな安曇川を境として南側にあります。
 今後、調査が進めば田中城と清水山城との関係がはっきりするのかもしれませんが、しかし、こういった環境やその行動から見て、この安曇川が勢力の境だったのでは無いかとも考えられます。

広い平野となっている高島郡安曇川で軍勢と物資を集めたと思われます。ここで敵と味方の政治的な判断を行い、信長は若狭方面へ進みます。また、若狭でも軍勢を集めており、伝わるところによると、ここで兵の総数が50,000(全体を合わせてだと思います)になったとしています。
 さて、それを見越して、安曇川の平野に控えを置き、途中の補給が無い、西近江街道を進む一隊に半分以上を預け、大軍を維持させて示威行動を取らせたのではないでしょうか。
 途中に人数を割く計算もあると思いますが、信長は常に大軍を準備し、その圧倒的な数で敵の戦意を削ぎ、交渉に持ち込む事が常套手段です。ですので、この時もその常套手段を用いて目的遂行を続けたと思われます。
 西近江街道を進む一隊は、疋田城を囲みます。ここを攻める必要は無く、釘付けにさえしておけば良いところで、その事で、浅井勢が塩津街道から北上すれば、ここで食い止める事と、動きがいち早く察知できます。ちなみに、北国街道もありますが、この時は浅井勢がこれを使っても意味はありません。

史料を見ると信長は、用意周到に準備を行い、行動しています。カケのような事はほとんどしません。カケのように見える行動は、永禄12年正月の三好三人衆勢力による京都本圀寺攻めの時や天正4年の本願寺合戦の折に原田直政が戦死した戦いなどがありますが、数としては少ないです。
 それは大抵、守りの戦いで、全体がひっくり返る程の状況ではありません。手当を間違えば、大きな損害になると考えた場合には、自ら迅速果敢に行動しています。そういった事は全て、政権主導者として必要な事を行っているのであって、時と場所を機敏に捉えて、信長は過不足無く周到に行動しています。

よって、この元亀元年の越前朝倉攻めは、後年にドラマチックに描かれていますが、こういった信長による用意周到な計画と行動によって、相手の行動も当然ながら想定されており、勝正の行動もそれに沿ったものだったと考えられます。

まだ、調べ足りないところもあるのですが、今のところそういった状況も想定できるのではないかと考えています。



2010年12月10日金曜日

池田勝正も従軍した、元亀元年の金ヶ崎の退き口について考える

私の思考がそっちに向いているついでに、再度「金ヶ崎の退き口」について考えてみました。

ちょっと、攻める側の幕府・織田信長方と、攻められる側の朝倉・浅井方の立場で各々考えてみてたいと思います。
 『言継卿記』を見ると、いわゆる「金ヶ崎の退き口」が開始された直後の4月29日、六角承禎などの勢力が、近江国内に内に入って放火などの打ち廻りを行っています。その後も大規模に攻勢を続けている事から、準備の上での行動だったようです。この六角氏の行動は、朝倉・浅井方とも連動した行動だったと思われ、意思統一ができていたのでしょう。

城趾から見た敦賀湾と市街地
となれば、朝倉・浅井方にとっては、幕府・織田勢が、木ノ芽峠を越えて嶺北地域に入ったところで「挟撃する事」を計画していたと考える方が自然だと思います。金ヶ崎の退き口での朝倉方の動きは、遅れた動きのように見えますが、それを予定していたために、後世に誤解されているかもしれません。

一方、幕府・織田方は、木ノ芽峠を越えてしまうと、挟撃される恐れがあり、これを十二分に注意して警戒していたはずです。疋田城や天筒山・金ヶ崎城で朝倉方が抵抗している以上、構えの姿勢をみせており、幕府・織田方に対して開戦準備をしていた事も明らかです。
 天筒山での交戦では、朝倉方に1,000名以上もの犠牲を出しているらしい事から、全体としては相当数人数を用意していた事がわかります。それは数十、数百では比べものにならない組織力と準備が必要な数です。

中池見湿地
前の項目でも触れたように、永禄12年時点で浅井方に不穏な動き(将軍義昭(幕府)からの離反)のある事が噂されており、幕府・織田方はこれを十分に警戒して、浅井方の動きを探っていたと考えるべきだと考えています。信長が引き返す決断をした、位置とタイミングが絶妙過ぎます。偶然では無理でしょう。
 また、信長は、4月23日に若狭国佐柿の国吉城に入ると、ここに2日間留まって戦況を分析し、準備が整うのを待って、関峠を経て越前国敦賀へ入っています。近江国西岸・若狭国での行動とは違って、越前国侵攻が開始されると、非常に慎重な行動を取っています。更に、国吉城という非常に堅固で安全な城を本営に選んでもいます。

要するに、「金ヶ崎の退き口」は、朝倉・浅井方の意図が、警戒していた幕府・織田方に事前に発覚しまい、朝倉・浅井方の予定が狂ってしまった戦いであったのだろうと見られます。
 ですので、現在伝わっているところの「金ヶ崎の退き口」という退却戦は、幕府・織田方にとっては、危ないのは危ないと思いますが、窮地という程のものでは無く、冷静・沈着に予定通りの行動で撤退した事でしょう。
 朝倉・浅井方が深追いしなかったのも、こういった状況から、事実上、「できなかった」というのが正確なところではないかと思います。




2010年12月8日水曜日

元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて

金ヶ崎の退き口で有名な元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、これに池田勝正が幕府守護格として3,000を率いて参陣しています。これは幕府方としては、主力を成す軍勢です。
 しかし実は、この遠征は周到に用意され、敵か味方かを知る事が主要目的であり、それを見越した手配がされていた事がわかります。
 永禄12年段階で、浅井方の不穏な動きが伝わっており、これを確認するためであったと考えられます。撤退は折り込み済みの行動だったというわけです。信長は、浅井に動きがあった場合に備えて、京都に軍勢の控えを置き、岐阜方面などでも準備をしていた事が各種資料からわかります。また、将軍の近江出陣も予定されていました。信長はイメージとは違い、非常に慎重で、用意もしっかり整えなければ、大規模な行動は起こしません。

想定外だったのは、むしろ摂津池田の幕府からの離反でした。

さて、元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、若狭守護武田家の救援を大儀として、この軍事行動を起こしたようですが、武田家に背く勢力の背景は朝倉氏でした。最終的にこの繋がりを辿って、朝倉氏領内への軍事侵攻を企んでいましたが、やはり事が進むに連れ、想定通りの動きが見られました。それがいわゆる「金ヶ崎の退き口」となったわけです。
 ですので、撤退も幕臣である朽木氏の領内に入り、朽木から京都への街道を使わず、より安全な丹波国を経由して京都へ入っています。撤退ルートも予め設定されており、波多野氏などの友好的な勢力下の領内を通って京都へ戻っているのです。
 戻ると今度は、本願寺や一揆の動向を暫く観察し、同時に兵糧等の物資を運び込んで京都での会戦準備を行っています。この時、将軍の居所を兼ねた城が落成したばかりです。ここからも信長の周到さが窺われます。
 それを見届けた信長は、5月9日になって、岐阜へ戻るため、数万の軍勢を率いて京都を出発しています。

 さて、話しを戻します。若狭武藤氏及び越前朝倉攻めのため、信長は3万程の軍勢を率いて4月20日に京都を出陣します。これに勝正も同じく軍勢を率いて京都を出たようです。軍勢は和爾を経由して、高島郡田中の田中城に到着。ここで宿泊します。
 補給や安全確保のためにも軍勢は、ここから二手に分かれたと思われ、二方向から敦賀へ向けて進んだのだと思います。であれば、高島郡の平野部に軍勢を更に招集していたと考えられます。信長は、示威も兼ね、また、独自の戦術からも常に大軍を動かしています。また、この平野には田中の城を初め、多数の城や寺社があり、宿営も容易です。ここで、味方か敵かを確認できる、政治的な行動を示す場所でもあったと考えられます。

 そして信長は熊川を経由して、若狭国へ入るルートを使い、別の一隊を西近江路から進ませ、海津経由で途中、疋田城を囲んで孤立化させて、敦賀に入ったと思われます。









2010年11月24日水曜日

勝正のエピソードは色々あります

○キリシタンとの関わりがあり、記述にも頻出する。
○阿波足利政権を支える。
○三好三人衆方に加担し、大和国の松永久秀を攻めた時、東大寺大仏の焼失を目撃す。
○番替で兵を交代制として編成。
○動員兵力は三千から四千くらいまで可能だった。
○鉄砲の組織的運用の可能性。
○四人衆は実在するも、二十一人衆は実際には存在せず。
○播磨国鶴林寺へ禁制を掲げる。
○播磨国竜野方面へ遠征。
○但馬国此隅山城へ遠征。
○三千の兵を率いて越前朝倉氏討伐に従軍し、金ヶ崎退き口でも活躍す。
○摂津国原田城を守る。
○四人衆が分裂し、荒木村重と対立するも、四人衆は勝正を迎えず。
○荒木村重は、旧池田家臣を不登用の方針を採る。
○天正二年に摂津池田家は完全に壊滅したと考えられる。この年以後、勝正の史料上の記述は見られず。
○天正三年五月十五日に池田四人衆の一人池田正秀の史料上の実在を確認するも、この後は途絶える。

2010年1月30日土曜日

大和信貴山城について


 現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。
 中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。
 そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概念が芽生え始める頃には、それらがネットワーク関係を以って構成されていたようです。
 永禄年間には、大和領有を目論む三好長慶勢の最前線となり、生駒山地の北端部に飯盛山城を大城郭に変貌させます。
 それに先立って、松永久秀が生駒山地の南端付近に信貴山城を根拠地として、大規模に改修を行っていました。
 この事は、京都と大阪、和泉方面から大和国への流通について監視や管理が可能となり、三好勢にとっては、大和への進攻のための補給をその西側の大坂湾から安定的に受ける事ができます。
 また、生駒山地の頂上部はほぼ平坦で、道を通して南北の移動が可能です。そのことは、生駒山地を東西に貫く、いくつかの街道管理のためにも必要な事でもあります。要するに、生駒山地を利用すると非常に迅速に大和・河内両国の有事に対応する事が可能になります。
 この事から、飯盛山城信貴山城は、生駒山地を利用して、相互関係を保持していたと考えてもいいように思います。両城ともに、兵や物資を大規模に備蓄が可能なつくりとなっていますし、有事への機動性を確保する意図があったと考えてもいいように思います。
 また、生駒山地(津田城・二上山城)や摂津国北部の山地(池田城・芥川山城)を支配する事は、大阪平野を取り囲む広域の情報ネットワークを活用する事が十分可能で、実際にそれぞれの山城に登ってみると、その事が考慮されていたと考えざるを得ません。
 それぞれの城は目視が可能な位置にあり、それぞれを伝えば、京都へも奈良へも神戸へも簡単な伝達が可能になっていますし、交通の拠点にあたる位置には、大規模な城が存在している点から考えても、連絡を迅速に行い、素早く行動できるようにできるネットワークと仕組みになっていたと考えられます。