2021年6月5日土曜日

摂津池田家は、楠木正成の血統を継いでいたのか!?伊居太神社社宝の置手拭型兜鉢の意味を考える

 郷土史家の中岡嘉弘氏の蔵書の中から、久安寺に関する非売品の書籍『摂津の国 細河の莊 久安寺ものがたり』を読ませていただいたことがキッカケで、これまで繋がらなかった線が沢山、繋がりました。国の重要文化財ともなっている楼門からしても、相当な勢力と財力であったことは確かだったのですが、火災や明治維新後の混乱で資料が散逸し、詳しいことは解らないままです。公的な調査でも、断片的で、分野化されたものがあるばかりで、それらを繋ぐにはやはり、不明な点が多い状態です。
 しかしながら、同寺に伝わっていることや公的外の要素が書籍にまとめられ、また、宗教家としての形式の成り立ちの説明や社会的意義、経緯を論理立てて説明されている書籍に接し、私の中にあった蓄積と疑問が、いっぺんに繋がりました。

直接的に、久安寺のご住職は繫がりはなかったのですが、中岡さんを通じて、それを知る事ができ、私は私の何かが出来ること、得たように感じています。
 まだまだ不完全ですが、そこに繋がる思索を少し、この記事でお伝えしておきたいと思います。また、そういう状況ですので、ご指摘や情報があれば、どうぞお気軽にお寄せ下さい。

さて、そんな中で、偶然に鎧兜に関する私の蔵書ページを何気なく捲っていた時です。伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」について、それまで漠然としていたものが、急に具体的になったような気になりました。
 同社には様々な社宝があり、戦国時代の遺物として、この「置手拭型兜鉢」が伝わるのですが、これは鎧兜研究分野では全国的に有名なものです。完全なカタチではなく、損傷激しく、しかも鉄砲と思しき銃痕のある遺物(内側からの破壊との見解も)であることも、その特異さから、注目されています。池田家や池田城とも結びつきの深い同社に伝わる遺物であることで、摂津池田家との強い繫がりがあると考えられていましたが、決定的な判断材料は無く、永年に渡り、全容は不明です。
 ある日、私は『歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊(140頁)』に出会いました。これを購入してから随分と日が経つのに、ちゃんと見ていなかったのでしょう。また、久安寺の本を読んだことから、私の感覚が敏感になっていたからでしょう。重要な一文が目に止まりました。実際のページは以下です。

 

【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊


上記の絵を部分拡大
 

上記画像の文字部分を書き起こしておきます。

【楠木正成像】
江戸時代に描かれた楠木正成画像の遺品は数多く残っている。本品もそのうちのひとつで、背後に正成の着料が描かれている。その兜が正にこの置手拭形兜なのである。実物と若干の相違はあるものの、大型の並角本(ならびつのもと)や鉄鋲、眉形(まゆなり)の切鉄など特徴をよく掴んでいる。江戸時代においては楠木正成のイメージといえば、この兜であったことがよくわかる。
【置手拭型兜鉢】
本品は江戸時代には多田満仲および楠木正成所用とされ、『集古十種』などに所載された名物兜である。古様な眉庇の形状は注目に値すし、置手拭としては最古例に属すると思われる。現状鉄地に見えるが、当初の黒漆が残る。江戸時代には本品を写した兜が幾つも作られている。

この歴史的背景の中で、伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」をご覧下さい。前後左右の主要部分には、楠木正成に因んだ「菊柄」をあしらったデザインになっています。


置手拭型兜鉢(現在は朝鮮式兜として表示) 

 

摂津池田家は、元の姓が「藤原」でしたが、地域名の「伊居太(池田)」を名乗って地域を代表する存在となりました。このブランド化の過程で、楠木正成嫡子正行の遺児を貰い受け(妻は丹波国守護代家内藤氏)て、継承する系譜が伝わっています。その関係からか、同家の通字は代々「正」の字を用いています。
 また、摂津池田家は、当初、今の池田市南部(尼崎市北部地域も含む)に勢力を持ち、次第に勢力を増しながら、五月山南麓に本拠を構えるに至ります。この場所は、当初、摂津国河辺郡(現川西市など)を拠点とする多田源氏の勢力下(日本国内で最大の荘園)で、五月山の北側の細河荘を越え、五月山南麓にまで影響力を持っていたと思われます。加えて、西側の現在の宝塚市山本付近もその勢力下であったと考えられます。

時を経て、流通経済が発達するにつけ、都市型の有徳人(武士)であった、藤原系池田氏が北上し、地域の勢力図を塗り替えるように成長して行きます。
 しかしながら、全国的なブランドであり、皇室の血統を持つ多田源氏や大寺院である久安寺の影響力は依然として強く、この折り合いをつけるべく、様々な政策や手盾を講じて、時代に必要な舵取りを行いました。池田家中にも、多田源氏の血統と姻戚関係を結ぶものもあり、時代により池田家中の構成を均衡させていきます。

 

久安寺古図


そういった意味で、「置手拭型兜鉢」は、池田家中には軍旗や家紋と同じく、象徴としての重要な役割があったものと思われます。故に、この兜は、池田家の中心たる者や家が継承していたものではないかと思うようになりました。
 室町将軍の「大鎧」や天皇の地位の象徴としての「三種の神器」といった具合に、池田家中でもそのようなアイテムがあったと思われいます。

今現在、伊居太神社では、先祖伝来のこの「置手拭型兜鉢」を朝鮮式兜としていますが、これは明かな間違いです。絶対に違います。また、そのように表記し始めたのも最近のことで、それまでは戦国時代の伝来兜としていました。それが変わったキッカケは、韓国の学者が調査のために訪ねた折、その学者がこの兜について、そのように見解を述べたことから、それまでの伝承を変更したようです。

さて、話しは少し遡りまして、足利尊氏の室町幕府開幕の頃のことです。記述の『摂津の国 細河の荘 久安寺ものがたり』の中で、室町幕府開幕にあたり、足利尊氏がその策を練るため、尊氏と盟友であった伊勢国司北畠親房と久安寺にて語らい、活用もしたとの推測があります。これについて、裏付けとして考えられているのが、この頃に発行された、尊氏による禁制などが、久安寺、寿命寺、伊居太神社などに残っています。また、久安寺の本尊千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木像は、親房の寄進と伝わっています。

足利尊氏禁制

 
更に、寿命寺には、楠木正成公奉納と伝わる兜(これは置手拭型兜鉢ではない)と菊水旗が伝わっており、これは、楠木正行が箕面の瀬川合戦を経て兵庫湊川へ赴く時、正行が寿命寺に立ち寄って戦勝祈願して、この兜と旗を奉納したものとされています。

このような経緯、実績の積み重ねの中で、ブランド化と象徴化が醸成され、この兜にもの言わぬ価値が付加されていったのでしょう。池田家当主は、この兜を継承し、戦の時には身につけることで、全ての意志を代表する存在になっていたことと思われます。

時は下って、織田信長が活躍していた頃の時代。ご存知の様に戦国時代も最も激しい頃です。信長が戴いていた筈の上位権威である将軍義昭と不和になり、当時の日本国首都は混乱の極みに陥ります。
 その過程で、池田家もそれに呼応するように分裂します。この時、数世紀の間、池田家の中心であった「筑後守家」とそれに相当する中心的一族の「遠江守家」との間に過去の不仲に起因する不整合が再び不和の種となります。
 家中政治の中心軸が変わろうとするその時、誰がその正統の資格があるかで争い、この「置手拭型兜鉢」も右に左に引き合う事態に陥り、家中は混乱していたのでしょう。
 また、江戸時代の通念を考えれば、そんな中で、若しくは、「多田満仲」を系譜二持つ一派の象徴として、これを用いていたのかもしれません。
 結果的に、摂津池田家は元亀四年(1573)滅亡しますので、この兜の象徴性はある一面で大きく低下したのかもしれませんが、しかし、無価値になった訳ではなかったのでしょう。だからこそ残されたのだと思います。兜がこれ程までに損傷しても、現在に伝わっている意味が必ずあるのです。この先の事は、また、これから学んで調べを進めたいと思います。

歴史的遺物は、一般に「文化財」といいます。しかし、市区町村、都道府県、国の文化財になっていないものの側の方が圧倒的です。
 また一方で、「文化財」はとは何かという、漠然とした解りにくさもあるように思います。これについて、私なりに別の言葉で置き換えて、納得しています。「文化」のそれは「共有」です。
 その時代に地域や人々が共有していたものが、文化です。時間を経て、大多数が消滅する中で残った、いや、守ったものが文化財です。文化財(歴史的遺物)には、それに凝縮された時代やその時のカタチ(意味)を知り、現代社会の基礎を知るという意味では、非常に大切な手がかりなのです。
 そういう意味で、最も深刻なのは、その最前線である専門家自身が果たすべき義務を怠り、意味も理解していない事です。これは、このコロナ禍であらゆる分野で起きている事が露呈しましたね。既に文化財分野では、そのような状況でした。この現状は危機的です。国が、地域が崩壊します。

私は何事に於いても論拠の無い極端な見解を認めませんが、必要なことは見失うべきではないと考えています。何よりも、法的に規定された事は履行せねばならず、担当者は常々その役割りを負っています。当然ながら担当者は然るべき、報酬を得ています。法と組織とは、そういう事です。必要な事を、積み重ねる意味を法と予算とによって、組織化されているのです。今現在、それすらも行われておらず、無為に、不法に失われている例が急増しているのです。

先祖の歴史を消すことになるこの行為は、将来的な営みの主体性を失い、外圧(敵意のある行為以外にも、地域性を失って消失の原因を作る事になる)にも抗えなくなることは確実です。
 少々話しが逸れましたが、この「置手拭型兜鉢」を通じて、地域の文化財に対する日頃の想いも結びつき、このような記事にしようと思い立ちました。この記事をキッカケに、是非とも地域の文化財を知るキッカケ、それにまつわることも知っていただけたらと思います。
 ご縁があって、その地に暮らす事になり、過去と現在と未来をつなぐ文化財(共有財)の意味を感じていただけたらと思います。身近な歴史を気軽に学んでいただけたらと思います。

2021年5月15日土曜日

荒木村重の重臣であった宇保対馬守が在地に城を構えた可能性について

永年、気になっていた、大阪府池田市にある宇保地域について考えを深めたいと思います。
 この地域に縁(ゆかり)があると思われる「対馬守」や「彦丞」「平三郎」などの名乗りを冠した宇保氏が、史料に現れることから、侍格身分の有力者が存在したことは確実と思われます。
 また、宇保村の猪名津彦神社は、伊居太神社(現池田市綾羽)の御旅所であることから時代が近世となっても、在郷町としての池田村との結びつきも強く、節目毎に作成される村絵図(地図)にも宇保村は関連づけされて記録されています。この宇保辺りの様子を「穴織宮拾要記」には、「池田ノ町屋ハくれは田より宇保尊鉢につつく也、中新町ハ絹屋町也と有」と記録されています。
 「クレハ」は、後に荘園となりますが、それ以前は豊島郡の北半のこの地が北条地区と公称され、宇保・佐備村のような村々が分立し行政区画が組織されていました。
 荘園体制の崩れ始めた同じ頃、池田市宇保地域には、呉庭総社の天王社が興り、これに地域開発有力者の坂上・土師氏につながる倉七郎正季がその神主を勤めています。天王社とは、中世時代に急速に発展した牛頭天王のことで、京都の八坂神社を中心とする信仰です。また、正季の嫡子正弘は、天王社神主に加えて、禅城寺俗別当に就任し、更に地域の求心力を高めています。
 有力者にとって、土地の神社・寺院の支配は極めて重要で、このような例はいくつもあります。この地に牛頭天王が勧進されたのは、草創期の鎌倉幕府の支配権確保の目的があったようです。また、創建年代は不明ですが、この禅城寺も呉庭荘にとって、関係の深い寺で、この名残りが今も観音堂として同地にあります。
 池田市の歴史にとって、宇保地域は非常に重要ですので、『新修 池田市史』には大変詳しく取り上げられており、ご興味のある方はそちらをご覧下さい。第5章第1節(391頁)や第8章第1節3(609頁)などにあります。

また、宇保には猪名津彦神社があり、その境内は古墳時代後期の円墳です。この一帯は宇保段丘と呼ばれる猪名川左岸の河岸段丘の西端で、少し高くなっています。
 それから、池田のクレハトリ・アヤハトリ伝説の場所の一つ「染殿井」が、宇保の猪名津彦神社から真西に、直線距離で300メートル程の距離にあります。クレハトリ・アヤハトリは、応神天皇即位37年(西暦306年)頃のこととされています。その頃、ここに井戸があったようですが、大正時代頃の地図では、この井戸のあたりに川が南北に走り、池田郷から南へ走る神田村へ通じる道もありました。今は、区画整理されてしまい、全く面影は残っていません。

さて、室町時代末期、いわゆる戦国時代に摂津国内最有力の勢力(国人)に成長する池田氏は、当初、現池田市南部地域に勢力を保っており、時を経て次第に北上するなどして、今の池田城跡公園に本拠(城)を構えるに至ります。元は藤原姓であった摂津池田氏の起源は、池田市南部に持ち、西国街道などから得る金融・商品経済の恩恵を受けるなどして成長したと考えられています。
 少々時代が降っていますが、その一端を知るための当時の記述を上げてみましょう。『新修 池田市史 第一巻(P608)』からの引用です。

(資料1)------------------------
応仁の乱を通して、年貢・貸金などの収入は増加し、国人領主のもとに富が蓄積されていった。こえは応仁の乱以前のことであるが、文正元年(1466)春のこと、京都の相国寺蔭凉軒の季瓊真蘂が有馬の温泉に湯治に赴いた。この時、池田充政が有馬に真蘂を訪ねた。充政は自家の収入について話したのであろうか、真蘂の日記『蔭凉軒日録』に「池田の一ヶ月の子母銭は是、千貫也。然れば則ち一年一万二千貫文也。一年中の米子一万石を収むと云々」と記している。子母銭は貸し付けた金利である。金融資本家としての池田氏の一面である。
------------------------(資料1おわり)

中世池田氏が、軍事・防衛上の理由により、本拠地をより北方へ構えた事から、南部地域の出先機関的な意味合いも持っていたのかもしれませんが、宇保村は、いつの時代にも池田氏にとっては重要視されていたと思われます。平たく言えば、仕事仲間と言っても良いでしょう。その宇保村について、詳しく記述されている資料がありますので、以下に抜粋します。

【脚注】
各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】としておきます。

◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。

(資料2)------------------------

  • 池田村の南東部にある字名。承元2年(1208)3月19日の女清原氏田地売券案(勝尾寺文書)に「在豊嶋北条宇保十九条二里卅四坪内」とみえるのが早く、嘉禄2年(1226)11月18日の有馬淡治田地売券(同文書)・同3年10月12日の土師恒正田地売券案(同文書)にもみえる。このうち嘉禄2年の売券の端裏書に「くれはのたのけん」とあり、また同3年の売券案には売地である「宇保十九条卅四坪之内」の四至に「限南呉庭寺地」がみえ、宇保村は呉庭庄に含まれる地であった事が知られる。中世後期、池田氏の本拠地として池田に町屋ができ発展してくる頃には宇保村の名は史料に登場しなくなる。近世、池田村の中の字名としてもみえるが、宇保町・宇保村の呼称はみえない。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)では宇保に庄屋1、職業無記載(百姓と思われる)32戸で、農村地帯となっている。安永9年(1780)の書上写(小西家文書)では宇保分として139石4斗6升9合が記される。【地名:宇保村】
  • (前略)坂上氏の先祖は、この猪名津彦神社の祭神「阿知使主・都加使主」で、池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から招いて仁徳天皇に奉った人物です。この様な由来で宇保は坂上氏の拠点となって来たのでしょう。宇保にはもと坂上氏の菩提寺「禅城寺」があって、「池田の観音さん」として有名でした。
        この地には猪名津彦を葬ったと思われる横穴石室の円墳と小さい祠がありました。今も境内に巨石や300年を越える樹木の切り株が残っています。文化2年(1805)石棺が開けられると、中には朱に染まった遺物が発見されました。伊居太神社の神官がこれを持ち帰って、境内に埋葬しなおしました。
        長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳の御神体は、昭和33年(1958)髙床式本殿と拝殿が建てられて再び御神体が勧請されて祭られたのが、現在の社殿です。巨石のいくつかは石垣に利用されました。戦後伊居太神社の神輿が、建石町衆によって宇保の猪名津彦神社まで巡幸した事もありました。
        お祭りは伊居太神社の夏越祭・秋例祭に合わせて行われています。(中略)神社の再建も地車も祭りも全てが地元宇保の方々の努力によって、行事として伝承され、歴史上有重要な史跡として保存されてきました。【改訂版 池田歴史探訪:猪名津彦神社】

------------------------(資料2おわり)

また一方で、宇保地域は、地形が起伏に富み、要害姓もあります。池田城南部の防御施設としても機能させていたものと思われますし、何より、村を守るためには、有力者がその必要性を感じていたはずです。川や用水の管理と言った面もあるでしょう。
 今のところ、それらの想定が公的にはされていないために、それに関する物理的な発掘調査などは行われていませんので、私個人的な推定になるのですが、やはり、永年に渡って気になっています。

さて、宇保という地域名を名乗る宇保氏について、考えてみたいと思います。その全てを調べた訳ではないのですが、時代的に割りと早い時期から史料に現れるのは『春日社柛供料所摂州桜井郷本新田畠三帳』です。これに宇保氏が記述されています。これは、奈良春日社南郷目代(荘官)の今西家に伝わる帳簿で、永享元年(1429)8月の記録です。
※豊中市史(史料編2)P226

(資料3)------------------------
十五条六リ 一反小 作少路道久 宇保方
------------------------(資料3おわり)

非常に長い記録ですので、前後は略しています。宇保氏は、奈良春日社領である桜井郷内の土地(十五条六リ)に一反(991.74平方メートル = 300坪)と少しの耕作地を持っていたようです。その土地で実際の農作業を行うのは、少路道久で、これは宇保方と契約していたようです。宇保氏は、「給人」といって、耕作地で作物生産の権利を得ている人物で、土地所有者(奈良春日社)に毎年、年貢を払います。小作人として少路氏がここを担当していました。
 また、天正7年11月に発行された『春日社領垂水西牧南郷知行方目録』にも、宇保氏の名が見られます。
※豊中市史(史料編2)P505

(資料4)------------------------
宇保分 与(與)三二郎 田数一町六反六十歩(一所取三ヶ所) 御供四斗三升六合
------------------------(資料4おわり)

これは、荒木村重が織田信長政権から離れる直前の記録です。この時には、宇保氏は同じ春日社領の垂水南郷にも給分を持っており、かなり広い面積を得ていたことが判ります。

一方、有力者として、また、武士として活動していた記録も見られます。この文書(『湯山文書』)は短いのですが、その内容に池田家中20名が署名している文書です。6月24日付けの年記不明史料ですが、個人的には元亀2年(1571)と推定しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503など

(資料5)------------------------
内容:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名者:小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫数秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家。
※■=判読不明文字。
------------------------(資料5おわり)

続いての史料も年記不明ですが、内容からすると、天正2年(1574)と思われる3月15日の文書です。池田家の解体に伴って頭角を現した荒木(この時、信濃守)村重が、織田信長方として尼崎巽・市庭の年寄中へ宛てて発行した音信です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P432など

(資料6)------------------------
先年の御朱印旨に任せ、法華寺内之儀、拙者申し付けるべく為上使差し下し候。早々堀構え之事、申し付けられるべく儀肝要候。委細宇保対馬守・観世又三郎申し含め候。恐々謹言。
------------------------(資料6おわり)

重要な港町であった、尼崎の町を再構築するために、本興寺門前の市庭の役員へ重要事項を通達した文書です。早急に堀を構えるように通知しています。この通達の使者として宇保対馬守が尼崎に赴いています。現地では上位からの細かな指示や、現地見聞を行ったことと思われます。

一方で、上記とは別と思われる宇保氏一族の活動も見られます。

鋳物師関連史料の中に収められている史料集に、荒木村重没落後、村重の嫡子次男である荒木村基被官と思われる宇保(四郎兵衛尉)真清が、公卿の日野家雑掌真継兵庫助久直へ宛てて音信しています。また、これへの関連史料があり、同件について、村基が同じ所に宛てて音信しています。
※中世鋳物師史料(名古屋大学文学部国史研究室編)P141、144

(資料7)------------------------
◎先刻申し入れの如く候。彼の知行分之儀、荒木(弥助)村基存分に成し申し候者、知行分存知候間、重馬のかい料之儀、進められるべく申し之由、松台(松永霜台か)仰せ付けられるべく候。恐々謹言。 3月26日 宇保真清 ※宛先:眞兵 まいる御宿所
◎彼の間之儀、急度一言相澄ませ申すべく、弥(いよいよ)御入魂畏みて承るべく候。委曲宇保(四郎兵衞尉)真清申されるべく候条、巨細能わず候、恐々謹言。 4月19日 荒木(弥助)村基
------------------------(資料7おわり)

この史料は年記未詳ですが、山梨県在住の私の知人の研究によると、天正11年の説が立てられています。天正11年ですと、本能寺の変後で、中央政治も大きく変化していた頃です。また、荒木村重は、同14年に没したとされていますので、その説の通りだと、存命中でした。長男の村次が戦で重傷を負っており、家督継承が困難であったため、次男の荒木村基が、家督継承者格として行動していたという説が立てられています。また、村基は、それまで系図上でのみ見られた人物だったのですが、この史料の発見で、実在する事が判明しました。
 個人的には、この資料中に登場する「松台」なる人物が気になっており、また、宛先である真継兵庫助は、天正年間前半頃に活動していたともあって、もう少し遡るかもしれないとも感じています。

この史料は、真継氏が日本全国の鋳物師に関する元締めとなりつつある過程の動きとして注目され、名古屋大学がその研究のために資料研究を行っているものです。ちなみに、真継氏は柳原家雑掌として仕えました。柳原家は、日野家の分流で公家。真継氏は戦国期から江戸時代に諸国鋳物師御蔵職(いもじみくらしき)を継承していた家柄でした。
 荒木村重は、摂津守護として摂津全土の他に、河内国北半分、播磨国に勢力を及ぼしていた経緯もあって、各職能集団の把握も行っていたであろうことから、こういった取りまとめの便宜を図っていたようです。特に河内国内には、日本国内有数の鋳物師集団が居り、荒木氏は真継氏の求めに応じるに充分な繫がりを持っていました。それに宇保氏も関わっていた形跡がこの史料からも判明します。

『大阪府の地名』にもあるように、池田に城・町屋ができて発展してくる頃には、そこに地域中心のより大きな求心力が発生し、「宇保」はひとつの地域となっていったようです。そのため、その地域の有力者(武士)は、地名(名字)を冠するようになったのでしょう。
 また、先にも触れました、宇保村内にある猪名津彦神社は、伊居太神社(現池田市綾羽)の御旅所であること、この宇保の地域が早くから拓けて、坂上・土師氏の系譜を持つ地域の有力者の倉氏・村治氏が禅城寺及び天王社に深く関わっていたことから勘案すると、宇保氏は「猪名津彦」に関係する可能性がある「彦丞」を名乗っていることから、神職(どこかの段階で入れ替わりつつ...)であった可能性があります。鋳物師は、梵鐘などを製作する当時は「大工」と呼ばれる職能集団でもあったので、神社仏閣などの繫がりも宇保氏の神職という経歴が役だったかもしれません。地域支配には、神社・寺院の取り込みが非常に密接な関係を持っています。

さて、そういう宇保氏の根拠地である宇保村には、やはり城を構えていることが自然ではないかとも考えています。その可能性について、古地図と現地写真から蓋然要素(私の勝手な)をお伝えしたいと思います。
 ちなみに、集落(郭)が北と南に分かれて存在する例は、豊中市の原田城の例があります。それがなぜ分かれているのか、築城年代によるものか何かは不明ですが、宇保村からそう遠くない地域にもそういった例があります。
 また、この仮製図が作られた頃は、明治初年ころで、一旦、集落が縮小(経済混乱人口の減少など)しているところもあり、宇保村もそのようであったのかもしれません。南側だけ残ったとも考えられます。地形からすると、西側の地形の段差(断崖)をキッカケとして、宇保村も元々は一体化していたようにも思うのですが今のところ不明です。

 

明治初年作成 陸軍陸地測量部仮製図(1/20000)
 
陸軍陸地測量部仮製図 宇保村拡大及び撮影地点


【地点A】現在の猪名津彦神社

【地点B】伝善(禅)城寺跡観音堂(撮影:2002年)

【地点C】北集落への主要道(東西方向) ※戦国時代には某かの仕切りがあった?

【地点D】約4メートル程ある要害性を伴う断崖

【地点E】北西角の要害性を伴う断崖。ここも高低差約4メートル程。

【地点F】猪名津彦神社西側縁道と北集落東西道の交点

【地点G】北集落東縁 ※集落の終端から北は、地形が下がる。

【地点H】南集落北向き入口付近

【地点 I 】南集落北縁付近集落の様子 ※写真奥の道は、地点H家屋の蔵へ続く。

【地点J】南集落南端付近の様子

【地点K】現在は東西方向の道が通る ※道の荒廃は不明



2020年12月10日木曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十四回「焼討ちの代償」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十四回「焼討ちの代償」2020.11.29 放送分です。

 

 ◎概要 -----------

今回の時間の流れは、元亀2年(1571)から3年にかけてで、元亀3年頃から将軍義昭と織田信長の不仲が外聞にも明らかになります。この頃から将軍の独自行動が活発化します。これに不審を持つ信長は、疎ましく思いつつも幕府内部の不和は、政治・軍事的な弱点ともなることから、目の前の問題に向き合い、各個に解決を図る努力をしていました。
 しかしながら、それらは隠せなくなっており、周辺も動揺し始めます。将軍権威は軍事力が無くても侮りがたく、事情を知らない人々は、将軍の誘いに応じ始め、独自の団体概念が形成されていきます。
 近畿地域ではその政治的震源にも近いことから、動揺が早くから伝わって、それはまた機敏で過敏でした。摂津池田家でも例外では無く、最有力勢力であったことから、多方面から誘いの話しが舞い込んできます。
 この時、池田家中は三好三人衆に味方していましたが、外からの変化、それに加えて、内側からの変化が伴って、家中も再び穏やかではなくなりました。現職将軍権威に再び復帰しようとする声も出始めていました。今度は、衰微し始めていた三好勢力から離れる動きが元になていました。
 池田家の血を引く血族と、後に登用された荒木村重等の人々との間に、深い溝、心の壁が出来はじめます。要するに現代でもある、「よそ者」と一族の壁です。それから、不穏な時の権威への渇望です。
 元亀2年秋に大活躍した池田三人衆(池田紀伊守正秀、池田勘右衛門尉正村と、荒木信濃守村重)は、家中政治において、当時としては先進的でもあった、集団主導体制を敷きますが、これが時代の変化に対応できず、1年足らずで分裂してしまいます。これは当主を置かずに、官僚機構を政治のトップに据えた仕組みでしたが、感情のもつれを解決できずに分解してしまいました。今でもそうですが、平等は理想ではあるものの、正義を実現できません。それぞれに尺度が違うためです。結果として、そこに連なる運命共同体(摂津池田家と関連地域)を主導できませんででした。

幕府とて状況は同じです。その縮図が摂津池田家の中にありました。これは、相似性といわれる、フラクタル理論(数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念など)が、歴史科学にも現れると個人的に感じている、ひとつの現象です。
 織田信長が苦しみ、戦い抜いた宗教と政治の分離とか、戦国時代の悪い教訓を政治に活かした徳川家康の政治と銭の分離、法治の、より深い定着、国民の受けるべき教育などなど、今も国際社会では、その区別がつけられずに苦しんでいることが、日本は先に解決していると考えています。1516年に発行されたトマス・モアの著作ユートピア(桃源郷)読めば、その殆どが日本で実現しているように思えます。モアが挙げている、人間の理想としての要素の殆どは、日本の社会で実現しているのではないでしょうか。

話しが逸れました。すみません。

今回、取り上げる要素の中で、易や占星術などを司る人物が池田家中に居たであろうこと、茶道や和歌に通じた人物も池田家中におり、そららのことをお伝えしようと思います。また、摂津池田に武田信玄から手紙が来ていたようです。それもご紹介します。

今回は、以下の要素で解説します。

◎易(エキ:占い)
易は、当時の社会にとって重要な要素でした。今のように科学的な背景で成り立っていない世の中でしたので、この部分を担っていたと考えても良いでしょう。
 今も日常で使いますが、「神」の言うこと、すること、で解らない現象や未来を一括しようとします。これが、中世では殆どがこの領域であったことでしょう。人間が測ることができるものは、殆どありません。気温、水が沸騰する温度、移動する早さ、地球が丸いということ、人体の仕組み、病気の原因などなど、その殆どは、感じるままに理解をしていました。五感の範囲で社会を理解しています。
 しかし、今も同じことや必要なことはあまり変わりません。期限までに行うこと、何かを決定すること、決まりや約束を守ることなどなど、時間と空間にまつわる、社会的な営み、その継続と維持のための行動です。それらは、共同体を護ることに他なりません。
 多くの人間が居ると、考え方が違うのは今も昔も同じです。しかし、ひとつの方向に向かうために決めなければなりません。そういう時に、神の力というか、易による科学めいたというか、シャーマニズムのようなファジーな科学力を使って、折り目をつける訳です。一応の地位、能力を持った人物が、物事の根拠のような道筋で以て、なにがしかの混迷を収めるのです。また、日本人の文化の根底は、神事(その上に仏教が乗っている。PCの仕組みで言えば、MS-DOSの上にWindowsが乗っているみたいな...)であり、そこから少し派生したような感じで、科学めいた予見や予知も行うようなことをしていたのではないかと考えています。
 易、陰陽道や天体の知識をもって天道を説いたり、気象の予測、古事故実、作法などに通じて、重要な場面で重要な役割を果たしていたと考えています。
 池田家中でも、名に「卜」の字を持った人物がおり、この人物がそういったことを担っていたのではないかと思います。「卜」の字は、あまり多くの意味は持たず、そのものずばり、「占う」という意味しかありません。
 池田家中では、「卜」の字を使う荒木卜清という人物が居ました。お察しの通り、荒木村重の一族です。卜清は、池田家政の主要な人物でもあったようで、彼の発行した文書も残っています。

◎筒井順慶と松永久秀
筒井順慶は大和の国民ですが、興福寺の衆徒でもあって、興福寺の一員でした。大和の国民からすると、松永久秀は余所(よそ)の人であり、国内の風土にも馴染まない、お尋ね者でした。大和国は、永年「守護不入」の地であり、幕府権威の入り込まないひとつの独立国のような地域でした。
 松永が、三好長慶の重臣として大和国の奈良に入った時、これに対して強い反発がありました。その頃からの松永の所領でしたので、松永に通じる者もあって、他に頼るところもない松永は、大和の支配に固執していました。
 この動きに長い間、付き従っていたのが、伊丹氏で、池田と伊丹氏は元々同族でありながらも、何の因果か敵対する環境にありました。池田は三好方に付き、伊丹氏はその反対側という構図が、長い間続いていました。
 また、池田家中でも度々、小さな反目があって、何らかのきっかけで池田を出た池田一族の一派が、松永氏方に身を寄せていました。その流れを汲むのが、池田丹後守正教です。正教は、切支丹大名でもあり、河内国若江三人衆の一人でもあります。

◎茶道具
三好長慶政権時代、連歌や茶の湯は、互いの交流を深めるため、盛んに興行されていました。池田家は、三好家から妻を迎えていたために、一族扱いを受けて、大いに家格を上昇させることとなり、政治・経済・軍事は、拡がりと深まりを見せます。
 中でも、三好家中の三好越前守政長は、武野紹鴎に茶を学んで、銘茶器を多く所蔵していました。九十九髪茄子(作物茄子)、松島の茶壷」(東山御物)、新田肩衝、曜変天目、伊勢天目、青磁竹の子茶入なども所持していました。また、名刀の目利きにも優れ、多くの門弟も居たようです。
 そんな状況の中、池田家でも和歌や茶道に優れた人物がおり、中でも池田四人衆の一人、池田紀伊守正秀は、それらの道に通じた文化人でした。自らの斎号を冠した「清貧釜」など、名物茶器を所有していました。また、池田家中では和歌に通じた人が多く、今も連歌集にそれらの人々が詠んだ句が残されています。

◎将軍義昭と織田信長の心情的乖離
将軍義昭は、元々は僧侶であり、武士として、将軍としての帝王学も学んでいません。それ故に、生まれながらにして武士であり、武士の家系を代々継ぐ織田信長とは、やはり融合することができなかったようです。
 将軍義昭が描く天下像と織田信長のそれとは、相容れないものがあって、遂には関係が壊れてしまいます。政治中枢内の深刻な対立が起き、今度は互いに自らの組織固めに奔走することになります。
 近畿の有力者は、こういった出来事には影響されないはずが無く、池田家中でも、その去就を巡って、対立が起きます。白井河原合戦での大成功が、池田家中の結束を固めたこともあったのですが、1年足らずで再び内訌が起きてしまいます。元亀3年(1572)夏あたりから、池田家中は騒々しくなっていったようです。この年の秋から翌年春にかけては、池田三人衆の内の2名(池田紀伊守正秀、池田勘右衛門尉正村)と荒木村重が分裂して、対立構図となります。
 今でもありますよね。国政で対立すると、地方政治も同じ構図になっていく事が。このあたりは、今も昔も変わりません。だからこそ、過去のを見、その先人の経験を現代の私たちの知恵にする必要があるように思います。

◎武田信玄と摂津池田
甲斐国の守護武田信玄が、京都を目指して軍事行動を起こすのが、元亀3年の秋です。これに先だって、近畿の要地でもあった池田へ武田信玄が布石を打ちます。武田信玄が、池田の寿命寺(池田市西本町)へ宛てて、手紙を出します。
 年紀はなく、9月11日付けのものですが、私はこれを元亀三年のものと考えています。内容は、巻数などが武田信玄に送られたことについて、礼が述べられていて、そのお礼として、信玄から黄金十一両、青銅十斤が寿命寺西坊へ贈られているとの内容です。
 信玄が京都へ向けて出陣しており、これに対する関係の深まりを意図する史料として注目されます。また、寿命寺西坊から贈ったものの中に杉原紙十帖があります。これについて、今でもこの習慣の名残があるように思われるのは、相手からの返信を希望する場合に、返信用封筒にこちらの宛名を書き、切手も貼って封筒を同封することで、相手の手を煩わせないように配慮するという感覚がありますね。これと同じように、書簡の何度とない往復を希望したり、予測される場合には、それ用の便箋を贈るという意味であったり、配慮ではないかと考えています。紙を先方に贈る行為が、頻繁に見られ、これらはそういった意味合いがあるものと、私は捉えています。
 元亀3年秋、池田は幕府方としての立場を強めていた(復帰)と考えられます。その為に、同じ幕府方の武田信玄が、京都に入った後の事を想定して、こういった準備を行っていたと思われます。この流れの中で、後に池田家の重要人物(池田遠江守:池田正村らしい)が、甲斐国に将軍義昭の使者として趣いているらしい動きも見られます。

ところで、結局将軍義昭に加担するならば、池田勝正との争いは何だったのでしょう?こういうところは、一貫性がなくなります。それについて、私は当主よりも強い権力があったとみています。池田四人衆という官僚集団です。中でも池田紀伊守です。

 

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2020年12月6日日曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画のインデックスページ

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

(本文ここから)---------------------
大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 のインデックスページを作りました。記事が探しやすくなると思いますので、必要な方はご活用下さい。

毎週、順次に記事を加えていきます。

第三十四回「焼討ちの代償」

第三十三回「比叡山に棲(す)む魔物」

第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」

第三十一回「逃げよ信長」

第三十回「朝倉義景を討て」

第二十九回「摂津晴門の計略」

第二十八回「新しき幕府」

第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」放送前の先回り企画

第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」

-<補足企画>------------------------------------------

織田信長が使った「天下布武」のハンコから始まった近世と中世の終わり。その意味、意識、社会、城について。

【快挙達成!!】第59回大河ドラマ『麒麟がくる』にて、池田勝正が登場しました!

戦国時代の社会的身分

2020年12月4日金曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十三回「比叡山に棲(す)む魔物」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十三回「比叡山に棲(す)む魔物」2020.11.22 放送分です。

 

 ◎概要 -----------

大変遅くなり、お楽しみの方には申し訳けありません。2週遅れの最新情報をお届けします。
インターネット内での評判を見ると、持ち直すこと無く、順調に下がっている感じで、やはり、脚本家に全てを創ってもらうのは不可能だと思います。配役は悪くないと思いますが、結局は、筋書きの悪さで、評価が下がっているようですね。
 これまでは、原作があって脚本家がテレビ向けに手を加えるといった手法で、大河ドラマが作られていましたが、数年前にこれを廃止し、今は脚本家によるフィクションという建前で制作されています。作家と脚本家では能力が違い、役割りも違うので、それを無理にくっつけていりところが、そもそもの失敗です。私も最近は、退屈気味に見ています。

さて、後ろ向きの前置きをしつつ、本題です。今回は、元亀元年(1570)秋ころから翌年秋にかけての流れでした。比叡山を中心にしたストーリー展開でした。女子どもをなで切りにしたシーンが印象的でしたね。歴代大河ドラマの中でも、歴史に残る表現だったと思います。良くも悪くも...。

今回は、以下の要素で解説します。


◎比叡山のような大寺院
聖徳太子が仏教を国教とする方針を打ち出して以来、その取組は国家をあげて続けられ、奈良時代から平安時代頃までは仏教は概ね輸入(外国人僧侶など)でしたが、遂に最澄(天台宗:比叡山)と弘法(空海 真言宗:比叡山)の傑僧の開山によって、国産化の道が拓かれました。それ以前にも、役小角(えんのおずぬ:えんのぎょうじゃ)などの国民救済の活動があり、人々の苦しみから救う宗教的活動が、日本国内において勃興が見られました。
 比叡山を開いた最澄や高野山を開いた弘法の業績は、国家事業としての使命を帯びた人材が道筋をつけた足跡でした。特に比叡山は、平安京の北東方向にあって、鬼門を封じる役目と都の平穏と安寧を祈る場所としても重要な施設でした。
 室町時代になると、そこから800年程経った頃で、既に施設も充実し、不動的権威も持ち合わせていたことでしょう。天台宗については、あまり深くは調べておらず、認識が浅いのですが、門跡寺院として今も不動の地位にあります。正月の天皇への祝賀参列をする大社のひとつとして、日吉神社もあります。
 こういった大寺院は、「山」と呼ばれる概念でできており、多くの寺や子院で構成され、その頂点に衆議の議場たる本堂があります。その法主がその集団の代表です。ある意味、民主的な制度によって、その組織の維持が図られていました。
 ちなみに、こういった大寺院は全国各地にあり、池田市域にも久安寺があって、相当な規模の山であったことは、残闕や言い伝えによっても想像ができます。これがどのように池田の政治に関わったかは、大変興味のあるところで、今後も見ていきたいと考えています。
 それから、荒木村重が池田家臣から頭角を顕し、伊丹城を改修して有岡城を造成する頃には、日吉神社の勧進を城内で行いたいとして、準備をしていた記録があります。


昭和初期頃の原田城跡
昭和初期頃の原田城跡

◎元亀元年秋頃の池田城周辺

元亀元年6月の池田城での政変を機に、三好三人衆方が近畿地域へ再攻勢のために戻ってきます。これに大坂本願寺も加担して、三好方が優勢になります。
 8月25日、池田家の家臣とも言える原田城内でも内訌が発生します。原田衆は城を焼き、主たる人物は池田方に合流します。視点を変えると、この一方の勢力は池田勝正に味方したと考えられます。
 池田家内訌の余波は暫く続いていたらしく、この頃のいくつかの資料が残ります。池田某が、多田院に禁制を下し、池田城周辺で勝正勢力の粛正が行われたとの言い伝えも残っています。
 この動きに対して、幕府・織田信長方は軍勢を出し、池田領内の市場などを焼き打つなどしています。
 更に、9月中旬から本格的に大坂本願寺が三好方に加担して挙兵すると、形勢は三好方に圧倒的有利となります。この動きに沿って池田衆も箕面寺など各地に禁制を下すなどして、活動をしている様子が見られます。


◎和睦(わぼく:停戦)
ドラマ中で、織田信長が窮地に立たされた場面で、朝廷を使って事態の打開を画策する旨の描かれ方をしていたのですが、実際のところは、朝廷側が積極的に幕府(信長)の支援をしていました。朝廷経済の正常化に期待してのことでもあり、権威の再興も目的のひとつにはあったでしょう。それは、幕府にとっても持ちつ持たれつの、いわゆる「ウィンウィン」の関係を志向していたからで、これは信長の尊皇の考えと、その権威の使い分けをうまく適応させた行動だったと思います。
 朝廷側は、この幕府の窮地に、積極的に行動していたことが窺える資料が多く見出されています。決して、信長が邪な気持ちで朝廷を利用していたのではなく、誠心誠意の朝廷への気持ちが天皇の気持ちを動かした結果だと思います。


◎戦争の経済学
戦争するには兎に角お金がかかります。自国の軍隊である、自衛隊のデータではないのですが、米陸軍兵士の装備は、一人につき450万円ほどかかっているそうです。装備だけでこの金額です。食糧や他の車両や燃料などは別の計算です。もちろん、支払われる給料も含まれていません。
 完全一致ではありませんが、命の危険を伴う仕事に対して、それなりの退化と尊厳、名誉の補償が無ければ、人は集まりません。これらのことを総合的に考えて、人を動員し、目的を達成しなくてはなりません。この要素を基本として、時間軸が発生します。毎時、毎日、毎週、毎月と、どれ程の資力がこれを実現させるでしょうか。

白井河原古戦場
白井河原古戦場


◎元亀2年秋の白井河原合戦

織田信長が比叡山を焼き打つことを決したとされる日は、元亀2年9月12日です。これは、実際のところ、池田衆の活躍がそうさせた可能性があります。
 それに先立つ同年8月29日、三好三人衆方池田衆は、いわゆる白井河原合戦で幕府の重臣である和田惟政を討ち、京都へ攻め上る勢いを見せます。京都は東西南北から囲まれ、陥落寸前の環境が醸成されます。
 この窮地に対して、幕府・織田信長は起死回生の一手を打つことを企図して、曖昧な態度と、それが禍する事態の悪化を鑑みて、比叡山に対して軍事行動を強行したのが、実情のようです。敵主力の2方向のベクトルの内、ひとつを塞いでしまえば、挟まれることはありません。金ケ崎の退き口と同じ発想です。
 白井河原合戦とは、現在の茨木市郡山付近であった大合戦で、この合戦は戦局を変える大きな転換点でもありました。この戦いによって、荒木村重の名が知られるところとなり、毛利方の手紙にも村重の名が登場する程の衝撃でした。
 この合戦は詳細に見ると、練りに練られた池田方の作戦は見事なもので、池田衆の強さが再認識された出来事でもありました。3000の兵を3つに分けて行動し、荒木村重はその一隊を率いて囮として危険な役割りを担っていました。池田方は300程の鉄砲をそれぞれに分け、非常に先進的な使用方法で、敵の和田惟政を戦死させるなど、壊滅させます。
 比叡山焼き打ちは、西からのこの進撃に対する有効な軍事的・政治的手立てを打つべく考えて行動した可能性は少なからずあります。詳しくは、過去のブログ記事をご覧下さい。

 

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2020年11月21日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」2020.11.15 放送分です。

 

 ◎概要 -----------
今回の時間的流れは、1570年(元亀元年)5月から9月下旬頃まででした。越前国の朝倉氏攻めから戻り、反幕府連合が具現化したところを描いていました。
 さて、大河ドラマも、新型コロナの想定外があるとはいえ、番組内容に随分と批判が多くなっているようですね。将軍のデートシーンとか、薬屋の日常とか、旅芸人の身の上話などなど、主人公と関係の無いところに時間を割き過ぎていることに、不満を持っている人が多いようですね。それよりも、本能寺の変を経て、天王山の戦いまで描く時間があるのか?と心配する声が出ています。私もそう思います。結局、明智光秀の人物像が見えてこないのではないかと思います。

その事は脇に置いて、いつものようにドラマの隙間を楽しみましょう。

このドラマ中に描かれていた当時の時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。家中の経済的・労務的疲弊が表層化し、議論が収斂せずに感情的になります。闘争に発展してしまい、当主勝正の側近2名が殺害され、勝正は城を出ます。
 
池田家は元亀元年6月以降、一時的に三好三人衆方に復帰します。元亀年間は4年の時間があるのですが、摂津池田家も将軍義昭の中央政府も七転八倒の苦悩を味わいます。そして遂に、どちらも組織崩壊となって、新たな時代を迎えるのです。
 荒木村重、中川清秀、高山右近は、池田家中にあって、この流れの中で台頭し、荒木村重は遂に、摂津国及び河内国北半分を任されるまでの大名に急成長するのです。

今回は、以下の要素で解説します。

◎今井宗久、筒井順慶


今井宗久については、これまでにもお伝えしていますが、今井氏は奈良の今井町出身であることから今井を名乗りました。それ故に、奈良の勢力とは結びつきが強く、もちろんそれは、公私ともの付き合いです。
 今回、奈良の人である筒井順慶が登場しました。見ての通り、坊主ではありますが、代々興福寺に所属する家でした。奈良だけは守護が置かれない、幕府権力の及びにくい地域で、興福寺がそれを司っていました。奈良だけは通念が違い、一般的な国の「国人(こくじん/こくにん)」ではなく、「国民(くにたみ)」と呼びました。
 お坊さんも色々あって、学問に長けた人、力のある人、商才のある人、医学、技術などなど、宗教といえども、一つの国のように機能していましたので、自衛手段も持たなくてはなりません。
 長い時間の中で、筒井氏は武士に近い職種になった人々で、こういった人々は他にも多くあり、また、興福寺に限らず、比叡山などの大きな寺社ではそういった組織がありました。奈良では特に、そういった人々を衆徒(しゅと)と呼んだようです。

◎茶会
今井宗久が筒井順慶を明智光秀に引き合わせるため、茶会に誘います。茶とは、喫茶ですが、これは鎌倉時代に健康維持のために、薬と同じような感覚で日本に伝来したようです。はじめは特に、寺での修業の一環で、喫茶を行っていたようですが、それが一般的になっていきました。
 この頃には、茶会と言っても茶だけを飲むのではなく、娯楽的な面もありました。食事、飲酒、囲碁・将棋などなどを行っています。普通の食事とは少し区別があったようですが、茶道のような、形式的な作法は発展過程であって、今のように固定した概念はなかったようです。村田珠光という奈良の人が、「わび茶」の創始者と伝わっており、権威化したのは千利休ですね。
 池田家でも、池田紀伊守正秀という人物が、茶道や和歌に通じ、名物茶器も多数所有し、松永久秀もそうでした。後に荒木村重も利休七哲と言われた数寄者に数えられ、池田家中にも当時の流行を心得る人々がありました。池田市域では、豊臣秀吉が久安寺で大茶会を催したと伝えられています。

◎鉄砲
堺市役所に展示してある鉄砲

1543年、鉄砲は種子島にポルトガルから伝わったとされています。このシーンの時代設定は1570年ですから、鉄砲伝来とされる年から37年も経過しています。現在よりもいくら発達と伝播が遅いと言っても、この当時既に日本国内では、各地で鉄砲が生産されはじめており、特に畿内(近畿)地域では、生産・運用共に先進地域でした。
 今も当時も、経済活動を元にした生活をしていますので、売れる商品は作り、より良く発展させます。この鉄砲の有用性、また、守るに長けた武器として需要はうなぎ登りでした。発足当初でもあり、劣勢を自覚していた将軍義昭・織田信長政権は、この鉄砲の有効活用に全力を上げていました。
 今井宗久は幕府の御用商人として、この鉄砲の流通確保・生産を一手に任されており、この当時は、生産効率を上げるために生産地の集約を進めていました。堺の近郊にその場所を求めていたのですが、そこに池田家の権益がありました。今井宗久は、これらを幕府に返上せよと池田家に迫りますが、当主の池田勝正は、それらに正当性がない事からそれを受け入れませんでした。この用件の窓口になっていたのが、荒木村重でもありました。
 その場所は堺五個荘といわれる地域で、今も堺市に五個荘というところがあります。その周辺に鉄砲工場を集約しようとしていました。
 また一方で、摂津池田家も多くの鉄砲を所有していたとみられ、翌年の白井河原合戦では、3000の兵の内に300挺の鉄砲を配備していました。だいたい、一割ですね。これは、攻める作戦でしたので、護る場合とは、配分が違うかもしれません。また、これは主力部隊のみの数ですので、守備する地域もあるわけで、当然そこにも必要になります。だいたい、鉄砲は兵の構成の一割と考えても300〜500は保有していたと思われます。

◎三好三人衆と池田家内訌
このドラマ中に描かれていた時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。
 将軍義昭政権下で、摂津守護職を任され、歴代最高の地位を得たのですが、役務が重く、経済的にも疲弊し始めていました。連続する戦争への出兵、権利の返上などで、急激な環境の変化に池田家中は耐えられなくなっていたようです。そこに三好三人衆方への復帰要望が高まりを見せていたとみられます。近衛前久の動きもあったと考えられます。
 池田勝正は、忠実に将軍義昭政権を支える考えで行動していたのでしょう。しかしそれに異議を唱える家中の状況がありました。姉川合戦の直前、遂に池田家中では議論が収斂されず、感情的な闘争へと発展。四人衆と呼ばれた家老の内、2名が殺害されて、池田勝正は池田城を出ます。その後すぐ、三好三人衆の内、三好長逸と石成友通が同城に入ったとの噂が立っています。その後、一時的に池田家は三好三人衆方として行動します。この時、革新的な家政体制も導入し、三好三人衆に倣った、当主を置かない、合議体制を導入していました。また、集団(三名による)主導体制とみて良いと思います。


◎姉川合戦
姉川古戦場遠景

シーンでは、合戦図で終わりましたね。池田家にとっては、これにも出陣を予定していました。当主の勝正は、京都の屋敷でその調整と準備を行っていたようです。ところが、本国の池田での様子がおかしいことから、勝正が国元に戻ったところで、議論紛糾し、内訌に発展してしまいます。これはどうも、6月18日頃からのことで、19日の夜になって意見が激しく衝突し、重臣2名が殺害され、勝正は夜中に城を出たようです。小姓両人、小者両人、観世三郎元久(観世流猿楽師七世の大夫の家筋父の諱は元忠。)を伴って、池田城を出たとあります。
 勝正は、この紛糾の間にも将軍義昭へ状況報告を行っており、ついに破談となった後の20日には、一度、将軍に状況報告を自ら行っているようです。
 この事態を受け、将軍は姉川合戦への出陣を断念し、諸将へ出陣延期を伝えています。勝正が途中経過として随時の報告を行っていた間も、出陣を諦めておらず、延期の下知を二度も行っています。希望を捨てず、姉川合戦の想定日ギリギリまで策を講じていましたが、遂に、その前日に出陣中止を公布します。将軍義昭は是非とも出陣することを考えていたようです。将軍の出陣は、後巻き又は、後詰めといわれる、重要な戦術的意味と、将軍自らの出陣という戦略的な意味があり、これができなくなったことで、織田信長にとっては戦いを有利に進められない苦境に立たされたのです。これは、外聞も直ぐに状況を察知します。生まれて間もない幕府は、弱いのではないかという憶測にも繋がりました。


◎三好三人衆など反幕府(将軍義昭)勢の蜂起
ドラマでは、幕府政所のトップ摂津晴門が、反織田信長連合のまとめ役のようになっていますが、これを行っていたのは、京都から落ち、丹波国、後に大坂本願寺に身を寄せていた近衛前久でした。この実態は橋本政信氏により素晴らしい論文が出され、私はその説を支持しています。
 さて、池田家の内訌や、近江国守護六角氏の動きなどの動きから、三好三人衆を中心とした軍事的策動があることは、織田信長も見通していました。浅井氏の政権離叛からそれは察知された事です。越前朝倉攻めの中でそれが判明すると、急遽京都に戻って、10日程過ごします。その間、各地の情報収集を行い、大坂本願寺の動きも警戒していました。しかし、状況からして、性急な動きは無いと見て、姉川での合戦を以て、決戦を行う方針を打ち出したようです。この一戦は、大局から見て必ず勝たなければならない戦でしたが、信長はその目的を果たします。これが負け戦であれば、政局は大きく変わっていたでしょう。前哨戦の六角も撃破し、軍威は保つ事ができました。
 しかし、池田家内訌が反政府の烽火となり、この後、三好三人衆の大挙攻勢、本願寺勢の武力蜂起、筒井順慶の奈良での攻勢などが一斉に行われ、幕府方は窮地に立たされます。
 池田勝正は終始、幕府守護職の職責を全うし、若しくは、それにしがみつき、随時の報告を行っていたようです。一旦将軍に状況報告をした後、事態の収拾も兼ねた状況把握のため、要所を巡っていたようです。6月26日、河内国半国守護の三好義継と共に京都へ入り、将軍と面会しています。勝正は、味方の糾合と残存兵力を把握する動きも行っていたと見られます。
 ドラマでは、海老江の陣が取り上げられていましたが、天満森から海老江へ陣を移していたのですが、池田勝正もこの陣におり、一定の役割りを果たしていました。


◎比叡山での対峙

西本宮大門

ドラマの描き方は、ちょっと問題が起きるのではないかと心配になるところもありますね。実際は、比叡山に組織的な武力闘争をする意志があったかどうかは疑問視されていて、発掘結果からも、これまでに言われていたように、大がかりな焼き打ちは行われていない事がわかっています。
 戦国時代には、戦争などで不利になった側が逃げ込む場としての存在が明らかになっています。現代感覚で言うと、「夫婦げんかの時の駆け込み寺」みたいな要素(←ちょっと昭和感覚)があります。基本的に宗教というのは、精神のよりどころであり、叡智の拠点であって、そういう在家のゴタゴタとは別の次元の領域でした。今の感覚とは少し違います。
 社会としての法律や警察などの環境も違いますから、もちろん自衛しなくてはなりません。消防も医療も、何もかも。ですから、今とは違う多少の荒っぽさはあります。しかし、それらは、相当な理由がなければ行為としては発生しないのです。法治はあり、無法ではありませんでした。
 朝倉・浅井方は、比叡山の領域へ、領主が意図せず逃げ込んだのが実情で、これに対して比叡山が断固とした態度を取らなかったところに誤解が生まれたのでしょう。それは、経済関係です。これは、比叡山の経済関係に恩恵を受けた地域に集中し、その付近で曖昧な行動があったために、混乱させました。
 織田信長は逃げ込んだ朝倉・浅井方に対して、武士ならば「そこに隠れずに堂々と出てきて勝負しろ」と相手に問いかけています。また、それまでざわついていた比叡山の麓は、織田信長の出陣の報が伝わると、静かになったと記されています。それ程、織田信長は、一目置かれる社会的認識を得ていたと言えます。
 比叡山は京都を護り、天皇からも血をもらった門跡寺院です。それ故に、戦国時代と言えども、無法な事はできません。天皇がそれを許しません。信長は、それらを見越して天皇の許し(勅許)を得た行動を終始行っていたのは、こういう窮地で大いに役だったのです。この歳の暮、幕府方は結局のところ戦局不利となり、天皇の勅命で各方面と和睦します。ドラマでは個別の和睦となっていますが、実際は、いくつかの局面で天皇の勅命によって和睦に至っています。

 

<時系列>
1570年(永禄13・元亀元)------------

5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日  阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
6月18日 摂津池田城内で内訌が起こる
6月18日 将軍義昭側近細川藤孝等、畿内御家人中へ宛てて音信
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
6月20日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
6月26日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に再び面会
6月26日 三好三人衆方三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
6月28日 近江国姉川合戦
7月    三好三人衆方池田民部丞某、山城国大山崎惣中へ禁制を下す
7月6日  幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
8月10日 流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
8月13日 摂津守護伊丹忠親、三好三人衆・池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
8月25日 摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
8月27日 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
9月    三好三人衆方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す
9月13日 大坂本願寺、将軍義昭・織田方に対して軍事蜂起
9月23日 将軍義昭・織田勢、摂津国海老江から撤退
9月25日 織田信長、比叡山の麓へ陣を取る
11月5日 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国箕面寺に禁制を下す

 

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2020年11月10日火曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十一回「逃げよ信長」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十一回「逃げよ信長」2020.11.8 放送分です。

 

◎概要 -----------
今回もまた結構、ファンタジー色の強い作りでした。大将があんなに取り乱すなんてあり得ないと思いませんか?はい、あり得ません。ダメ押しはこの辺にしておきます。しかも、信長は逃げたのではありません。

さて、今回も何と!池田勝正の登場です!!!名前だけ。

池田勝正の文字だけの登場シーン


事実はどうだったかというと、皆さまにしつこくお伝えしている通りですが、角度を変えて、簡潔にそれらの要素をお伝えしようと思います。
 明智光秀は幕府方奉公衆や軍監的立場、いわば将軍の名代的な立場で従軍していました。他にも一色藤長(御供衆)など多数の幕府衆が従軍し、軍事のみならず様々な役割りを果たしていました。
 池田勝正も摂津守護として幕府方の中核勢力として従軍していましたし、飛鳥井・日野氏等の公家も従軍していました。これは、官軍としての公戦であるためで、進軍中は錦の御旗、幕府の五三桐紋、足利の二つ引両紋などを掲げていたことでしょう。これに弓を引けば、幕府への敵対、及び朝廷への反逆となり、賊軍となります。この環境はその後も非常に有効で、比叡山勢力への強硬も朝廷権威があっためにできたことです。
 更に、この進軍中に改元を行い、朝廷との親密性も見せつけながら進みます。これにより、行軍中に参陣する勢力が増え、京都を発つ時には三万程の数でしたが、近江国高島郡に入る当たりでは五万の軍勢になっていました。

 信長は非常に用心深く、練りに練った作戦を立てます。ドラマのように慌てることも、取り乱すことも無かったことでしょう。全て想定通りに進んでいた筈です。まあ、部分的には想定外もあったと思います。

あ、そうそう、重要な要素を忘れるところでした。いわゆる「金ケ崎の退き口」と言われる撤退戦では、池田勝正が主力の軍勢でした。五万と言っても、地域の小さな勢力を集めたもので、まとまった勢力を出せるところは数える程しかありません。織田信長直属武将と言えども、一千程のクラスター集団です。
 池田家は三好一族でもあるため、使役的意味もあったのかもしれませんが、自発的に池田家は軍勢を出していたのでしょう。三千もの兵を率いた事は京都の人々を驚かせ、公卿山科言継の日記にも書き留められています。

この出陣で、浅井氏が噂通りに反逆したことを確認すると、信長は直ぐに撤退を決め、態勢を立て直すために京都へ戻りました。信長一行が少数であったのは、飛鳥井・日野氏などの公家衆を優先的に帰京させるためで、この退路も朽木谷へ入り、京都を目指します。朽木氏は将軍義輝、その先代義晴も居を構えた伝統的な幕府奉公衆で、万一の危険を避けるために近江国内を通らず、丹波寄りに道を取って、京都へ戻ります。安全な退路も確保済みでした。
 
無かった訳ではありませんが、実際には、朝倉・浅井軍による激しい追撃は不可能であったと言って良いでしょう朝倉方本体の一乗谷出陣は、4月27日です。大軍で追撃できるはずがありません。取られた城や拠点を取り戻す程度だったでしょう。ですので、朝倉・浅井軍は国吉城を超えて、若狭国に入ることはできませんでした本格的な軍事衝突は「姉川の合戦」です。

信長が用意周到であったこと、以下に要素を箇条書きにしてみます。

  • 二条城を完成させてから朝倉攻めを決行 
  • 禁裏の部分修復を終える
  • 進軍直前に新しい道を完成させ、京都への交通・軍勢の移動を想定
  • 進軍中に改元(朝廷からの信任がなければできない) 
  • 軍事行動に対して、朝廷からの勅許を受ける
  • 朝廷がこの軍事行動の武運を勅願寺社に命じる
  • 朝廷の旧領回復(首都経済正常化)
  • 控えの兵(二次攻撃用も)を京都や主要地域に配備
  • 水軍を編成し海上を封鎖
  • 退路の準備(朽木など幕府縁の確かな勢力の領内を通過)
  • 京都周辺の勢力から人質を取る
  • 公家衆による朝廷に弓を引く勢力の現認
  • 若狭国の朝倉家介入からの開放
  • 日本海側勢力への牽制(山名氏との縁切り)
  • 三好三人衆と本願寺の連携を予期

 

このような早さと周到さは、多分、前代未聞でしょう。天下を取るだけの能力と才能は十分に備えた人物でした。個人的に調べれば調べるほど、やはり凄い人物で、日本の歴史を変えるに相応しい人物だと感じています。

また、以下は越前朝倉氏攻めについての課題と結果、時系列を箇条書きにして、簡潔に表してみたいと思います。課題については、その対応としての軍事・政治行動が歴史です。相対的にご理解頂ければと思います。摂津池田家もこれらの流れの中で、役割りを受け持ち、行動していました。

【ご案内】
越前朝倉攻めについて、私は平成23年に池田郷土史学会で研究発表を行っており、その時のレジュメをご覧になれば、だいたいの概要はおかりいただけると思います。ご興味のある方は、PDFファイルをダウンロードいただければと思います。

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(39.6MB)
 ↑用紙サイズはA3です。

▼過去記事
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-


<課題>
・地域勢力に押領されている朝廷領の回復
・若狭国への朝倉氏による侵略・介入の停止
・近江国の敵味方の整理(浅井氏を含む)
・但馬・因幡・伯耆国を治める山名氏との縁切り
・首都交通の掌握
・朝廷経済の正常化
・幕府権威の威武
・足利義昭の私怨

<結果>
・浅井氏の幕府方からの離叛が判明
・朝廷に弓を引く勢力は賊軍である環境(大義名分)を作り上げた
・三好三人衆などの連合勢力が組織されていることが判明
・地域の旗色が鮮明となり、当面の課題の可視化に成功


<時系列>
1569年(永禄12)------------
4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
6月23日 近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ

1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
3月6日  織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
3月12日 近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
4月20日 織田信長幕府軍として、京都を出陣
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城、疋田城などを落とす
4月28日 幕府衆諏訪俊郷等、山城国人革島一宣へ兵船の徴用などについて音信
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
4月28日 正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
5月    幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日  阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信

<当時の史料>
5/4 幕府奉行衆一色藤長、丹波国人波多野秀信床下へ宛てて音信
※大日本史料10-4P358+401(武家雲箋)
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉明智十兵衛尉光秀池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。


この朝倉攻め直後、摂津池田家に三好三人衆方からの調略が行われ、内訌が発生します。これにより、姉川の合戦で、織田・徳川連合軍は苦戦に陥ります。池田家内訌により、西近江地域への将軍出陣ができなくなって、後巻きという重要な役割りを果たせなくなったからです。この時も、幕府方の主力軍勢として出陣予定でした。これについては、また次回にお知らせします。

 

【次回のこと】
元亀に改元したものの、織田信長は七転八倒の苦しみを味わいます。反織田信長(幕府)包囲網が出来上がるためです。この動きの糸を引いていたのは、摂津晴門ではありません。公卿の近衛前久でした。晴門にそんな能力も権力もありません。実際、この数年後に将軍義昭により罷免されています。

 

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2020年11月7日土曜日

戦国時代の社会的身分

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

 

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、大河ドラマ「麒麟がくる」のはみ出し企画です。ちょっと文が長くなってしまいました。ご興味ある方は、お読み下さい。同時に、画像は説明資料ですので、ご理解の一助にご活用下さい。


今や時代劇はNHKだけしか、番組制作はできなくなりました。ある機会があり、大学を卒業したばかりの若者と話しをしていたら、「時代劇は見たことがありません」との答え。若干ショックでした。もう、そんな時代です。教えないのだから、そうなるのも当然です。これから先は、そのような時代が到来することを思い知った出来事でした。

さて、そんな昭和な、そんな時代劇を見て育った時代の方々に贈る、時代劇話しです。

テレビ時代劇であれ、映画であれ、その当時の日本人には、ミドルネームのような呼称があることに気付いている人も多いと思います。ど真ん中の話題では、明智十兵衛(尉)光秀です。この十兵衛は、正式には兵衛尉(ひょうえのじょう)という社会的身分を伴っています。  十は、オリジナルです。その家に伝わる系譜だったり、その人自身に冠するものです。例えば、三や五の数字、義や助などの漢字があります。ちなみに、助だと助兵衞になってしまうので、要注意です。余談ながら、柳生十兵衛もそうですね。
 今も歌舞伎役者とか、落語家などは、襲名制があり、相撲も階級があります。こういった伝統的な分野には今も見られますね。

もっと身近には、「職能給一覧表」という、毎月の給与の基準に、こういった制度や概念が今も社会秩序を支えています。

その他、遠山の金さんは、杉良太郎などが演じた人気番組でした。金さんとは、遠山金四郎景元のことで、江戸町奉行の名奉行として名を残している人物です。この人物の官名は「左衛門尉」でした。ドラマの中で、番組後半の法廷(白州)での登場シーンでは必ず、「遠山左衛門尉様のおな〜り〜」と声が発せられます。この人物も「尉」です。
 それから、池田勝正は、筑後守(ちくごのかみ)、荒木村重は、信濃守から摂津守へ官名を変えています。

このミドルネームみたいな、この官名(名乗り)、実は当時の社会ではとっても意味があるのです。日本人が、つい最近まで使っていた、社会の指標であったり、判断の基準にもしていたり、社会秩序であった制度です。今も皇室、宮内庁では使われています。
 この社会的身分により、天皇陛下や将軍、地域の殿様などといった、重要人物にどの距離まで近づけるかの基準にもなりますし、就ける職種も制限があったりします。官職表をご覧下さい。

官職表の縦には、一〜十位までの位階があり、五位以上が殿上人といって、屋敷の座に上がれます。それ以下は、廊下やその向こう側までしか近づけません。
 これに対し、横並びは、役職です。例えば、織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った頃、元は地方官(国司)である尾張守を名乗っていましたが、京都に上洛する途中で、「弾正忠(だんじょうちゅう / じょう)」という官位に名乗りを変更しています。これは今で言うところの、警察庁長官に相当します。

再度、官職表をご覧下さい。弾正台という役職には、正六位のところに大忠・小忠があり、小忠は六位の下です。位には上下あります。いずれにしても、六位は、あまり身分は高くありません。ですので、織田信長は、普通は天皇の近くに姿を晒すことすらできません。例外もあったでしょうが、基本的には、こういった環境は厳格に守られていました。ですので、後年、織田信長が社会的身分を急に上昇させるのは、そういった制度があったためです。

一方、筑後守、信濃守といった国司職の名乗りです。国割り図をご覧下さい。江戸時代まで、日本は合衆国制的な仕組みで国が成り立っていました。国は66ヶ国ありました。その国にそれぞれ国司がおり、これを束ねるの長官が「守(かみ)」で、その副官が「介(すけ)」です。江戸時代は、少し習慣が変わりますが、室町時代には、そういった倣いになっていました。
 国司の種類は、大国・上国・中国・小国と分かれており、小国の最高位は従(じゅ)六位、中国は正六位、上国は従五位下、大国は従五位でした。国司である限り、最高位は従五位までで、辛うじて、廊下より上での立ち位置です。

では、池田勝正はどうでしょう。筑後守です。筑後は、上国ですので、従五位下です。信濃守も同じですね。ですので、この官名をもつ両者は、対等に話しができます。
 はたまた、三淵藤英はどうでしょうか。藤英は大和守で、従五位、細川藤孝は兵部大輔(ひょうぶのたいふ)で、正五位下で、三淵よりちょっと上位です。

そしてこれらは、適当に名乗っているわけではなく、天皇から許される位です。人事権でもあります。また、これは将軍が取り次いで申請します。当然ながら、これらは費用が発生し、同時に、その名乗りが相応しいのか、また、その官位に空きがあるのかを審査し、就任の可否が下されます。
 朝廷、幕府(将軍)にとっては、実際には、重要な収入源でもあったと同時に、権威でもありました。また、これらは受ける側にとって、地域政治や家中政治には有効的に機能していました。もちろん、「並み」や「相当」といった間隔で、公式とは言えなくても、それと看做される環境があって、名乗る事もあったようです。しかし、自称「課長」では、格好が悪いし、信用度も低いので、お金を積み、社会的貢献度を重ねて、多くの人が正式な官位を手に入れようとします。

ああ、明智光秀の「十兵衛尉」の解説を忘れていました。兵衛は「兵衛府」で、「尉」は、大尉と小尉がありますね。この役職には右と左があります。織田信長と同じく、大であっても最高位は従六位です。これは信長と同じ社会的地位です。
 後に光秀は「日向守」を名乗りますが、それでも「正六位下」です。ちょっとだけ、地位は上昇しました。同じ頃、羽柴秀吉は筑前守です。身分は「従五位下」です。秀吉は光秀よりもワンランク上です。

少し長くなりました。もし、ご興味のある方は、参考にして下さい。

 

国・県対照表
国・県対照表


国・県対照と五畿七道
国・県対照と五畿七道


官位相当表
官位相当表

 

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2020年11月2日月曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十回「朝倉義景を討て」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第三十回「朝倉義景を討て」2020.11.1放送分です。

 

◎概要 -----------
今回は、将軍のロマンスが描かれて、なんのこっちゃわからん話しになって、けっこう動揺しています。あと何回の放送分があるでしょうか。こんなに寄り道をしていて、間に合うでしょうか?というか、光秀の人物像を描くことはできるのでしょうか?このままでは、またコケる予感がします。
 それと、今回のストーリーは、ファンタジーレベルで、史実とは全く違います。最新の学説を採用して筋書きを書いたりする一節がある割りには、こんなことが起きたり、時代考証者を置いたりしている割りには、ロマンスに時間を割いたりと、この頃は何だか作者の想いがどこにあるのかわからなくなる時があります。

さて、今回のレポートですが、特に取り上げるところも無いので、越前朝倉攻めに要素をを絞って、皆さまにご紹介したいと思います。

越前朝倉攻めについて、私は平成23年に池田郷土史学会で研究発表を行っており、その時のレジュメをご覧になれば、だいたいの概要はおかりいただけると思います。ご興味のある方は、PDFファイルをダウンロードいただければと思います。

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(39.6MB)
 ↑用紙サイズはA3です。

また、同じ内容をネットでもご覧いただけるようにブログに記事をアップしています。こちらも併せてご覧下さい。以下、項目一覧です。

【摂津守護職として、将軍義昭・織田信長政権を支える】
 ◎池田衆の実力
 ◎諸役負担、軍事負担、一部の権利返
【浅井・朝倉攻め】
 ◎軍事行動の目的と池田家の役割
 ◎金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
【池田家内訌】
 ◎内訌の様子とその後の勝正の動き
 ◎三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き


 ▼過去記事
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-

越前朝倉攻めと池田勝正について、ちょっとだけ自分のコダワリをお伝えします。通説になっている、

  • 「戦は時の運!」みたいな、織田信長の勇猛、猪突猛進、無理強い。
  •  浅井長政の突然の裏切りからの近江国朽木(滋賀県高島市)を経由した京都への逃げ帰り。
  •  越前朝倉攻めと姉川合戦は、別々の戦い。


近江国清水山城主郭礎石建物復元図
織田信長などが陣を置いた
近江国清水山城主郭礎石建物復元図

これらの実際は、全部一つの要素・用途(作戦)であって、別々に考えるべきものではありませんでした。また、信長の行動は、非常に慎重で、用心深いため、練りに練られた行動計画を立てます。予定が狂えば、直ぐに修正案を出し、戦であれば、重要な戦いは、どんな手を使っても勝つために、自らが先頭に立って戦います。
 この重要な局面で、摂津池田家は大きな役割りを担っていました。また、劇中と違い、将軍義昭と幕府は、積極的に武威を示す行動を志向し、あらゆる手を尽くしていました。
 

しかしながら、無理を重ねた池田勝正の行動は家中の不和を招き、その動揺を察した三好三人衆方に、つけいる隙を与えてしまいました。結果的にこの不和から、家中は分裂、荒木村重が台頭しますが、それは決して狡猾な下剋上ではなく、乞われて家中の地位、ひいては、社会的地位を上昇させることになり、それも通説と史実は異なります。

これらの悲劇は、現代社会でも繰り返され、起きうる事です。組織と個人の対比の中で、組織を悪のように考える風潮がありますが、その組織に糧を得、組織に護られて日常を暮らしていることもまた、歴史から学ぶことができるように思います。組織は支えなければ、簡単に壊れます。そして、その組織が無くなった時、悲惨な将来が待っています。争いの絶えない、無限の荒廃です。それが戦国時代です。身を守ることが精一杯でした。

支えなければ、国も地域も、簡単に壊れます。現代で置き換えるなら、有名会社組織(政治組織でも可)をなぞるとそういう組織論は理解を得られるかもしれません。誰も支えなくなれば壊れます。

明日は、文化の日。日頃よく使う「文化」って、皆さんは、どのように解釈していますか?良い機会ですので、池田勝正を研究する内に、自分なりに見えてきた「文化」とは何かについて、ご紹介できたらと思います。近日に公開します。 

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2020年10月29日木曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十九回「摂津晴門の計略」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第二十九回「摂津晴門の計略」2020.10.25放送分です。



概要 -----------
今回は、陰謀渦巻く、ドロドロとした組織と人間関係を取り上げていました。個人的な感覚では、何だか間延びした構成で、何が言いたいのか分からない感じでした。太夫や駒、東庵の露出が多く、肝心の光秀が脇役のようになって、人物像を描くための流れが澱んでしまっていますね。実際に、ネットでは、そういった所の批判が出ています。
 さて、そういうヤッカミは脇に置き、いつものように劇中の要素を取り出して史実はどうであるか、池田家はどのような動きをしていたのかをご紹介します。


二条城の実態 -----------
劇中では、立派な重層天守がイメージ化されていましたね。また、格式に見合う調度品を寺社仏閣から徴発(半ば召し上げ)ていたような表現でしたが、これは概ね事実と異なるでしょう。実際は、多くの品が献上されていました。これらには、礼状と何らかの便宜が図られていました。献上する側は、これが目当てです。部分的にそのようになったものもあるかもしれません。播磨国龍野の赤松氏などは、娘を将軍の側へと送り出しています。
 しかし、物品を強奪すれば泥棒と同じ行動になり、その幕府は信用されなくなります。当時も今も同じで、法治を重視(今ほど厳密では無い)しています。法と慣習に沿って取り決めを行います。
 さて、二条城の実際は、40日の突貫工事でした。そのため、昼夜を問わない、多少の無理強いはありましたが、それは、これまでの幕府の権限と法による動員であって、奴隷労働ではありませんでした。賃金などの報酬は支払われます。また、義務としての使役もあり、それらを組み合わせて、折り合いをつけています。
 一方で、物理的な要素はというと、40日でできる範囲は限度があります。ですので、実際は土木工事部分が主で、調度品などは、追々取り揃えられましたので、40日で大坂城のような城が出来たのではありません。堀や塀などの防御設備、将軍の居所と政務空間など、当面必要な要素を優先して拵えてあり、実際は簡素なものでした。1月27日に着工して、4月14日に落成し、将軍義昭がここに入ります。この期間で、本当に重層の建物ができたと思いますか?
 一方、この御用普請も池田衆は動員されていたと考えられます。守護になった以上、将軍の公事(くじ:公的な事業)には参加しなければなりませんし、資金や労力の提供も義務化されていました。そして、将軍義昭が二条城に入った翌日の15日、京都妙覚寺にて池田衆など将軍義昭政権側(幕府)関係者、即ち池田氏などの守護が一同に集い、今後の事務の打ち合わせを行っています。


摂津晴門という人物 -----------
摂津晴門は室町幕府の官僚トップで、行政処理を代々任される家柄でもありました。鎌倉幕府の頃からそういった関係にあり、そのために公家などとも姻戚関係にあって、時を経るにつけ社会的地位と身分を高めていました。
 しかし、永らく室町幕府の政務トップは伊勢氏で、摂津氏はあまり活躍の場がありませんでした。第十三代将軍義輝の時代、政変があって、摂津晴門を起用。その流れから、劇中の晴門は、将軍義昭の政所トップとして再登用され、引き継き政務にあたることとなりました。
 しかし、実際には社会の激変に対応できず、任命権者の将軍義昭から数年後には義昭から罷免され、元の政所執政伊勢氏が返り咲きます。幕府政務の責任ある中心から永年離れていたこともあり、実力が不足していたのでしょう。
 幕府とは訴訟事や財政、管理業務、軍事など、様々な機構を持ち、今の総務大臣(総理大臣といってもよい)と同じような職務内容でした。

いわゆる、戦国大名とは、これに類する統治能力を持ち、地域の安定のための機構を持ちますので、幕府並みの官僚機構を持っていました。違うのは、規模だけです。武士に限らず、寺社仏閣、商人に至るまで、組織化するためには、こういった事務処理能力が必須で、これが無ければ組織は維持できませんでした。一方で、組織規模の大小は、この官僚機構の大きさと体制を持つかによりました。


明智光秀のオウリョウ -----------
劇中で、明智光秀と摂津晴門の対立シーンがありました。光秀が「東寺八幡宮領」をオウリョウしていると訴えがあった事で、行き違い、陰謀があったと言い争う場面です。これは実際にあったことですが、このオウリョウとは、現代の「横領」とは意味合いが違います。文字も違い「押領」と書きます。
 現代のオウリョウとは、人のものを盗る、明かな犯罪行為として、法的な規定もあります。しかし、この時代の「押領」とは、権利の衝突の意味合いがあり、よく見ると、経緯からして微妙な立ち位置による、相違的な要素が多くあります。これは「押妨」とも表され、権利を主張するものからすれば、両者とも「押妨」と評します。
 この「押領」については、細川藤孝、摂津晴門、三淵藤英、はたまた、織田信長まで、皆「押妨」で争いをしています。そして、池田勝正も、その一族の池田衆も皆、この「押領」で訴訟事を抱えていたのが実情で、当時はそれほど珍しいことではありませんでした。

劇中では、手元を移した時に書状が見えたのですが、多分「宝菩提院禅我書状案 」で、これは1570年8月10付けで出されたもので、東寺百合文書「ひ函175号文書」のような気が(日付は違いますが、内容は山城国下久世のことですし、ほぼ同じっぽいです。)します。これは、実際には劇中の時間軸よりも一年ほど後です。また、光秀は、他にも同種の訴訟事を持っていたようですが、その解決には数年罹っているものもあり、今の時代感覚の清廉潔白さとは、意味合いが違います。陰謀とか、ハメラレタとかの話しではありません。
 ちなみに、摂津守護となってからの池田勝正は、守護職の義務により、手持ちの領知、権利を返還させられています。これは詳しく見ると、当時の法治に照らしても、言いがかり的要素が強く、この部分で元三好派であった懲罰的扱いを受けていると考えています。この窓口は、御用商人である今井宗久に行わせている所から見ても、公権力で実行するには後ろめたさがあった行動を感じます。

【参考】東寺百合文書WEB:文書名・宝菩提院禅我書状案


近衛前久という人物 -----------
この人物は前回もご紹介しましたので、冒頭部分を引用しておきます。この時代の近衛家は、五摂家筆頭という名門の公家でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
 劇中、近衛前久が将軍義昭政権の復帰を懇願しているかのように描かれていましたが、史実は、同政権打倒の急先鋒で、そのために各地の勢力を糾合していました。また、織田信長も前久に将軍義昭政権の力になって欲しいと要請しており、劇中で描かれていることとは全く逆でした。脚本家はこの点も読み違えています。
 反織田信長連合体の中心にあったのは、社会的地位の高い近衛前久で、そうでなければ比叡山・本願寺勢力を連合させることなど、できるはずもありません。間もなく、将軍義昭と織田信長は袂を分かち、敵対関係となりますが、将軍義昭が反信長となったことから、今度は近衛前久とも接近することになります。


浅井長政を当主とした浅井家の行動 -----------
近江国北部で頭角を表した浅井家は、家格としては高くなく、なぜ大名家としての通説が定着したのか、業界でも疑問を投げかける人も少なくありません。これは、越前朝倉家と結びつきを深くしてからの経済的繁栄があるからだと考えられています。
 当時は、日本海が大陸との玄関となっていて、環日本海貿易が盛んに行われていました。そのため、現代とは真逆の日本海側の都市が繁栄しており、この地域から身を起こす大名が多くあったのはその為です。
 劇中でも度々登場する越前朝倉氏ですが、その拠点は一乗谷であり、その谷を中心に巨大な城郭都市を建設していました。その中に朝倉氏は屋敷を持ち、字として「浅井」が残っています。いわば、近江国人という考え方よりは、朝倉方の北近江勢力であったのが実情です。滋賀県北部は、南部と違って文化風土も違いますし、そういう流れは当時から培われたものです。
 一方で、この地域は浅井氏の前の時代は、多賀氏が一大勢力で、その名の通り多賀大社との繫がりを深くする家でしたが、時代の移り変わりと共に、浅井氏へ地域求心力が移っていきました。その種はやはり、今も昔も経済力です。
 そして、永禄12年(1569)6月に浅井氏が幕府方から離れたとの噂が流れます。これは、奈良興福寺の坊官(官僚)である二條宴乗の日記に記されています。奈良にもこの噂が伝わっていますので、当然、幕府や主要な人物の耳に届いていたことでしょう。将軍義昭は、奈良の興福寺出身ですので、当然将軍の耳にも情報は入っていたはずです。若狭国根来地域では「お水送り」の行事があり、奈良興福寺ではこれを受けて「お水取り」があります。こういった行事からも若狭国やその周辺に興福寺領があり、情報は直ぐに届きました。

ちなみに、この年、越前朝倉氏は、仮想敵を将軍義昭政権(幕府)と決しており、雪の溶けた4月以降には、金ケ崎城、木ノ芽峠、中河内、椿坂などに城を整備して、戦争の準備を始めていました。

 

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