2016年3月26日土曜日

中岡嘉弘氏著 改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)という本

中岡嘉弘氏は、私と同じく池田郷土史学会の会員でもあり、池田の郷土史について、色々と教えていただいています。中岡さんは1930年のお生まれで、京都のご出身。1950年代から池田にお住まいです。
 京都出身という事もあるのだと思いますが、生活の中で身についた歴史的知識というものがあるので、池田の歴史についても広く、深く観察されています。その広さと深さに私は溺れるばかりですが、お話しをお聞きすると、色々勉強になります。
 また、中岡さんは、ライオンズクラブにも所属され、地域活動にも熱心に取り組んでおられます。私も出来る範囲で見習いたいと思いますが、追いつくことはできなさそうです。

その中岡さんが2009年(平成21)に出版された、改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)は、その集大成ともいえる本で、自ら取材された池田市内各所の寺社・史跡・遺跡が網羅されています。平凡社から刊行された大著、日本歴史地名大系ともまた違った、地元目線の詳細な記述ですし、本を片手に地域の文化財を気軽に訪ねられるように、記事内容・装丁なども工夫されています。
 この年、池田市は市制70周年を迎えた年で、その記念としてもふさわしい内容です。この3年前に、池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)を出版されています。

最近また、池田歴史探訪を読み直していて、改めてその凄さを感じている次第です。

残念ながら、どちらも今は品切れで、手に入れることが難しいのですが、図書館などでご覧いただけますので、是非ご一読下さい。
 このサイトでも、池田勝正と関係する記事を抜粋してご紹介できるように準備をしてみたいと思います。ネットを通して、中岡さんの取材力で池田の文化力が伝わったらいいなと願っています。ご期待下さい。


中岡嘉弘著 改訂 池田歴史探訪



2016年3月20日日曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)

古江橋を経て多田へ続く道(1970年頃か)
政治的問題を解決するため、武力行使が一般化していた戦国時代には、摂津国豊嶋郡細河庄(郷)は、摂津国人池田氏にとっても重要な地域でした。
 しかし、そういう場所でありながら、研究や解明がほとんど進んでいません。今も池田市域内は文化圏が3つに分かれているような感覚があります。北部の細河、中央の池田、南の石橋、という感覚です。
 この感覚は、実のところ、物理的な根本的要素が大きく変わっていない事から、昔も今もそんなに変質していないかもしれません。北の細河地域は、池田との間に五月山が楔のように存在する事から、どうしても行き来が阻害され、気持ちというか、感覚的に文化の乖離ができていきます。実際、近代の池田市の地域構成史を見てもそれが分かります。
 しかし、戦国時代となれば、そうも言ってられません。直接的な生死にも関係しますし、利益や権利、生活を侵されないように、互いに結束する事が必要になります。そんな中で、木部村で頭角を現す下村氏や東山村の山脇氏といった勢力は、池田氏とも関係を深くしていきます。それもやはり、必然の事であったと考えられます。

既に発表されている大阪府の地名1 -日本歴史地名大系28-(平凡社刊)などの通説や池田市史での見解も参考にしなあら、私が見聞きした事も加えて、この細河地域と池田城(池田氏も含む)について、考えてみたいと思います。

以下の要素について、それぞれご紹介し、まとめてみたいと思います。


摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺
細河庄内の木部村と武将下村氏について
細河庄内の東山村と武将山脇氏について
◎細河庄内を通る街道
◎細河庄と周辺
◎細河庄での牡丹の花卉栽培

【参考】
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考えてみる
戦国時代の摂津国池田氏の地域支配及び軍事に関わる周辺の村々
戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺
戦国時代に池田市の木部町にあった木部城
 

【出典】
写真:グラフいけだ1970年12月 特集:ふるさとのみちしるべ
   発行:池田市役所 / 編集:市長室・秘書課広報係


2016年3月17日木曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き)

元亀元年6月の池田家内訌後、当主勝正を放逐し、特別な旧誼もある三好三人衆方へ復帰した。三好方にとって、この事は大利であった。港のある摂津国尼崎方面から、いくつかの要所を押さえれば池田領内を利用して、そのまま丹波国とも連絡がつけられるようになった。また、池田衆の将軍義昭政権からの離脱は、摂津国内に居た三人の守護職の拠点地域を東西に分断し、幕府・織田信長方の連絡も断つ事が可能な状況となった。三好三人衆側から見ると、池田領内を通る複数の街道へも監視や管理ができるようになる。
 この重要な地域に大勢力を持っていた池田衆は、双方の権力(武力)から重要視されていた。したがって、池田家が三好三人衆方に加担するにあたり、当然、様々な条件が提示されたり、池田衆側からも何らかの条件を求める事があっただろうと思われる。家と集団を存続させるべく、然るべき保証を得るなどし、行動していたと考えられる。

元亀2年8月、池田衆は摂津国嶋上郡の郡山方面で、守護の一人である和田伊賀守惟政と会戦して大勝。千里丘陵の東側から山城国境まで勢力を拡大するなどした。池田衆は三好三人衆方に加わった事で、勢力を更に伸長させる事となった。
 しかし、家政(かせい:家の政治)の岐路で重大な決意をし、家運を開いた池田衆であったが、この頃は合議的家政運営という状況だった事と上位を常に頼る伝統的な身分的特性もあって、上位の分裂に巻き込まれ、再び家中の意見が分かれて騒動となってしまった。そして遂に、この分裂で池田家は将軍義昭の京都(西国)落ちと共に、解体となってしまった。

<参考史料>
1548年(天文17)------------
8月12日 三好長慶、同名政長の排除を細川晴元・近江守護六角定頼に求める
      ※三好長慶(人物叢書)98頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
6月26日 三好三人衆方三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
      ※言継卿記4・425頁など
7月    三好三人衆方池田民部丞某、山城国大山崎惣中へ禁制を下す
      ※島本町史(史料編)443頁など
8月13日 摂津守護伊丹忠親、三好三人衆・池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
      ※群書類従20(合戦部:細川両家記)634頁
9月    三好三人衆方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す
      ※川西市史4(史料編1)456頁など
11月5日 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国箕面寺に禁制を下す
      ※箕面市史(資料編2)414頁など
1571年(元亀2)------------
6月24日 三好三人衆方摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
      ※兵庫県史(史料編・中世1)503頁など
8月28日 摂津国郡山(白井河原)合戦
      ※高槻市史3(史料編1)438頁など
11月8日 三好三人衆方摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
      ※箕面市史(資料編2)411頁など
1572年(元亀3)------------
3月14日 京都吉田神社神官吉田兼見、三好三人衆方池田三人衆荒木村重へ音信
      ※兼見卿記1(続群書類従完成会)37頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月14日 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
      ※戦国期三好政権の研究97頁、高知県史(古代中世史料)651頁など
4月4日  将軍義昭方本願寺光佐、越前守護朝倉義景への音信で池田遠江守について触れる
      ※本願寺日記・下・611頁など
4月6日  織田信長方荒木村重など、将軍義昭側近曽我助乗など宿所へ宛てて音信
      ※人文研究(第48巻)1030頁など
4月28日 将軍義昭方池田清貧斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政等へ起請文を提出
      ※織田信長文書の研究・上・630頁など
1574年(天正5)------------
8月19日 足利義昭方甲斐守護武田勝頼、同摂津国人池田遠江守某へ音信
      ※高知県史(古代中世史料)966頁など




2016年3月16日水曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌の様子とその後の勝正の動き)

織田信長は、阿波・讃岐国の大名三好氏の勢力が西から迫る事は早くから想定しており、金ヶ崎城から京都へ戻った時には、暫くとどまって、その動きを観察していたらしい。
 しかし、信長にとっての最大の誤算は、近江国の姉川方面での決戦が見え始めた重要な時に、摂津国池田家中で内訌が起きた事であった。この事により瀬戸内海と京都が寸断され、逆に京都へ三好勢が直接進攻できる状況となった。また、この池田家内訌に影響を受けた原田家など近隣諸家も、池田家に同調する動きが見られた。

池田家内訌の原因は何であったのか。金ヶ崎城から京都へ戻った信長は、不穏な状況と向き合うにあたり、万一の場合に備えて、主立った国衆や勢力から人質を取った。
 しかし、これが感情的な反発の引き金となり、池田家中に鬱積した不満に火をつけたのではないかとも考えられる。将軍義昭に対して、「無理を重ねて尽くしても、信用されていない。」と、池田の多くの人々が考えたのかもしれない。また、誰を人質に出すかで議論が紛糾した可能性もある。
 そして池田家当主である勝正は、家中の不満を鎮める事ができず、勝正親派であった家老2人を失い、城を出る事となった。勝正は、その後も幕府方として行動し、間もなく豊嶋郡内の原田城を攻撃するなどして、幕府方に身を寄せつつ、池田家惣領復帰を目指して活動したと考えられる。

<参考史料>
1569年(永禄12)------------

11月21日 堺商人今井宗久、三好三人衆勢の動きを将軍義昭側近細川藤孝などへ通報
       ※堺市史5(続編)918頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
5月     幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
       ※大日本史料10・4・556頁(毛利家文書)、信長公記(新人物往来社)103頁など
6月2日   阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)189頁など
6月18日  将軍義昭側近細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・525頁(武徳編年集成)など
6月18日  摂津池田城内で内訌が起こる
       ※言継卿記4・424頁、多聞院日記2(増補 続史料大成)194頁など
6月26日  摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
       ※言継卿記4・425頁など
7月6日   幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
       ※言継卿記4・428頁など
8月10日  流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
       ※近世公家社会の研究22頁など
8月25日  摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
       ※言継卿記4・440頁など
8月27日  摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
       ※池田市史(史料編1)81頁、ビブリア52号155頁(二條宴乗記)など
1571年(元亀2)------------
8月2日   摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
       ※池田市史(史料編1)82頁など
1572年(元亀3)------------
1月4日   本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺衆中へ宛てて畿内の様子を音信
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁など
4月16日  摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁、信長公記(新人物往来社)125頁など
11月6日  将軍義昭、側近上野秀政へ池田家の扱いについて内書を下す
       ※戦国期三好政権の研究98頁、高知県史(古代中世史料)652頁など
1574年(天正2)------------
4月2日   足利義昭方池田勝正、本願寺勢に加わる
       ※続群書類従29下(永禄以来年代記)270頁など






2016年3月15日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで)

越前国の南西の防衛は、敦賀郡にある天筒山が最も重要と考えられている。そのため、天筒山を要塞化し、更に木ノ芽峠までも要塞化して防衛に力を注いでいたらしい。その天筒山から海側に伸びた尾根の先端に有名な金ヶ崎城がある。
 この要塞を池田勝正を含む幕府・織田信長の軍勢は、海と陸から攻め、遂に落とした。同時に、天筒山城と補完関係にある疋壇城も攻囲(交通の遮断も)して落した。

筆者が考えるように、地元の研究者も、敦賀郡へ幕府勢が入る時、2つのルートを進軍しただろうと考えられている。敦賀平野を攻めるには、いくつかの口の一つから侵攻するのでは、大軍であっても難しい。また要所で、必要な軍勢を分割して充てるためにも、大軍の用意は不可欠であったと考えられる。
 他方、この時の幕府軍(織田信長)の動きを詳しく見ると非常に慎重で、用意も周到である。京都や岐阜にも控えの兵を多数用意もしている。更に、信長の陣中に飛鳥井氏や日野氏などの公家も同行していた。しかも飛鳥井家は、若狭守護武田家と伝統的に親密な間柄にあり、人選も考え抜かれて決められているらしい。
 それらの事から、信長は噂通りに浅井氏の離反が確認できると、すぐに退却したのだと思われる。この時は状況不利とも見て、体制を立て直す事を決め、殿軍として池田勝正などを置いて一旦退いたが、同方面の勢力と「決戦」を行う用意は、始めから想定されていた事と考えられる。またその事は、官軍に弓を引いた既成事実を作らせる事ともなっただろう。
 故に、それら各々を別の要素と捉えるよりも、一連の動きとして見る方が、実際の動きに合致しているように思われる。その意味で「姉川の合戦」は、第二次浅井・朝倉攻め、と捉える事が可能だと考えられる。
 
<参考史料>
1569年(永禄12)------------

4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
      ※越州軍記(朝倉義景のすべて)など
1570年(永禄13・元亀元)------------
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城などを落とす
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月28日 幕府衆諏訪俊郷など、山城国人革島一宣へ兵船徴用などについて音信(奉書)
      ※福井県史(資料編2)45頁など
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
      ※大日本史料10・4(武家雲箋)400頁など
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
      ※言継卿記4・412頁など
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
      ※大日本史料10・4・358+401頁など
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
      ※言継卿記4・414頁、信長公記(新人物往来社)104頁など
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
      ※言継卿記4・420頁など
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
      ※福井県史(資料編2)722頁など
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
      ※大日本史料10・4・526頁など
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
      ※言継卿記4・424頁
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
      ※言継卿記4・425頁など
6月28日 近江国姉川合戦







2016年3月14日月曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(軍事行動の目的と池田家の役割)

近年の、中・近世における交通・物流研究の深化により、戦国時代の権力についても多角的な視点が示めされるようになってきている。また、中世後期は「戦国時代」とも呼ばれ、政治の一部として「武力」が、政治問題の解決方法に用いられていた。軍事的な視点では、節目となる大きな戦争が既に知られている。しかし、それはまだ、その時代の部分的世界の理解であるように思える。
 元亀元年4月、朝廷からも信任された官軍としての幕府軍は、朝倉氏を攻めるために、越前国へ向かった。それは周到に用意され、進軍中に改元も行われている。また、その数も30,000〜50,000という大軍を動員し、その中、池田勝正は3,000名を率いて従軍した。これは、幕府軍の中でも中核ともいえる組織規模(一団)である。

この、話し合いを考慮しない朝倉征伐の目的は、勿論、その本拠地である一乗谷へ侵攻する事であるが、それに加えて政権離反の兆しがある浅井氏の動向確認、また、未完でもある近江国制圧と若狭国内乱の平定も目的にしていたと考えられる。更に、それによる若狭湾から湖北各津を経た京都・奈良・大坂への流通掌握も重要であった。

朝倉氏征伐は、京都を中心とした軍事・経済・交通など、複合的な課題を総合的に解決するための行動であったと考えられる。また、朝倉義景によって拉致されたとする、若狭守護家の武田孫犬丸(元明)の解放も目的の中に組み込まれていたのかも知れない。
 これらの目的に対して池田家は、幕府・織田信長から大きな期待をかけられるに見合う規模と実力、畿内近国でのブランド力を備えていたといえる。

<参考史料>
1568年(永禄11)------------

4月8日   近江国菅浦関係者らしき善応寺など、近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造64頁など
8月     足利義昭擁立派越前守護朝倉義景、若狭守護武田元明を若狭国から拉致する
       ※朝倉義景(人物叢書)64頁など
8月18日  近江国菅浦惣中、織田信長方近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造65頁など
11月12日 幕府奉行衆松田頼隆など、若狭国賀茂庄名主百姓中へ宛てて音信
       ※福井県史(資料編2)529頁など
12月12日 幕府・織田信長方浅井久政など、近江国人朽木元綱へ起請文を提出
       ※浅井氏三代(人物叢書)195など
1569年(永禄12)------------
6月23日  近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)135頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日  織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
       ※姫路市史8(史料編:古代・中世1)591頁など
3月6日   織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
       ※言継卿記4・396頁など
3月12日  近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・403頁など
4月20日  織田信長幕府軍として、京都を出陣
       ※言継卿記4・407頁など
4月28日  正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
       ※言継卿記4・410頁など
6月20日  織田信長、近江国菅浦へ禁制を下す
       ※大日本史料10・4・532頁など







2016年3月13日日曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(諸役負担、軍事負担、一部の権利返上)

池田衆のそれまでの経緯と実力から、「郡」単位の領知(本拠の豊嶋郡を中心に)を上位権力から認められるまでになっていた。
 そして池田衆は将軍義昭政権において、摂津守護職を任される事となった。この時、池田衆の郡単位での様々な役の経験と地域求心力は、他の地域でも有効だったと思われるが、実際には様々な困難に出くわす事となったのかもしれない。地域の最上位権力である国の守護となると、それまでとは全く異なる環境も多く、政治・軍事的に、政策を進めるも退くも、自分を守る術が身についていない。
 また一方で、将軍となった足利義昭は永年、僧として生活しており、その将軍就任については特異な例でもあった。そのため、政権を安定させる事ができず、敵対勢力との闘争や諸利権の整理が困難で、常に波乱であった。それからまた、敵対勢力や要地制圧のために、西は播磨・但馬国、北は越前国へ軍事動員され、中でも播磨国へは、夏と秋の連続で出陣している。
 更に、京都での将軍御所などの建設や禁裏の補修など、中央政治への奉仕に駆り出される役にも、守護職として義務を果たさねばならなかった。
 池田衆は将軍義昭政権を支えるべく、守護職という歴代最高の社会的地位を得たが、義務としての課役もこれまでとは比べものにならない量となった。軍事的負担や諸役負担はもとより、権益の一部返上なども行っており、池田家中では、それらの負担の増大に池田家中の人々は耐え難くなっていたように察せられる。

<参考史料>
1563年(永禄6)------------

3月30日  三好方池田勝正、摂津国箕面寺岩本坊へ宛てて音信
       ※箕面市史(資料編2)413頁など
1565年(永禄8)------------
10月15日 三好方三好方池田勝正、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世1)449頁など
11月23日   三好方池田勝正、京都東寺へ禁制を下す
       ※東寺百合文書(9編910册622頁)など
1567年(永禄10)------------
5月22日  三好三人衆方池田勝正、大和国薬師寺へ禁制を下す
       ※奈良県史18・408(薬師寺文書)頁など
1569年(永禄12)------------
正月     摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世2)432頁など
1月27日  京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
       ※言継卿記4・305頁など
4月15日  京都妙覚寺にて摂津衆など集い、公事について事務(打ち合わせ)を行う
       ※言継卿記4・326頁など
8月19日  幕府・織田信長方朝山日乗、播磨国庄山城より戦況等を毛利元就他へ音信
       ※龍野市史(史料編1)663頁など
10月23日 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族正詮などへ堺五箇荘押領について音信
       ※堺市史5(続編)914頁など
10月26日 摂津守護池田勝正など幕府勢、再度播磨国へ出陣
       ※池田市史(史料編1)81頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
3月15日  禁裏の紫宸殿の瓦工事がほぼ終わる
       ※言継卿記4・398頁など
3月18日  奈良興福寺多聞院英俊、将軍義昭の新第を見物する
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)174頁など






2016年3月12日土曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(池田衆の実力)

池田家は、摂津国内屈指の規模を持つ勢力で、それについては様々な史料でも確認できる。それは、交通の発達による流通も含め、その時代性に見合う地の利と中世的社会全体の発展があり、五畿内中の有力都市に成長した事と無縁ではない。
 都市・交通・物流・農産品の生産などが複合的に、より地の利の豊かな地域へ求心力をもたらした結果、発展した池田が歴史の表舞台で活躍した。

永禄12年正月、織田信長が美濃国岐阜に戻った隙を衝いて、三好三人衆勢が京都本圀寺に起居していた将軍義昭を襲撃する事件(本圀寺・桂川合戦)が起きた。これに池田勝正など、摂津三守護が急遽応戦し、事無きを得た。この時、特に功のあった勝正一族で同苗の紀伊守入道清貧斎正秀が信長から賞されている。

一方、後世の伝承で、この時に勝正が役目を省みず池田へ逃げ帰ったとするものがあるが、これらは全て事実無根である事が当時の史料から確認できる。残念ながら、その虚像が今も一般に広く定着している。
 更に付け加えると、勝正は第14代室町将軍義栄政権でも活躍した。勝正は、その政権樹立にも大きな役割りを果たしていたのだった。

池田家の歴史上、勝正の時代に大きな飛躍があり、直接的支配地や影響力を及ぼす領域が拡大した。様々な歴史的事実を見れば、それは疑いない事であるが、それについて当時のキリスト教宣教師の記録が、詳らかに報じてくれてもいる。
 それから、勝正が摂津守護となった事に伴い、その居所である池田城にも変化をもたらしたであろう事は想像に難く無い。労務のための人材、そしてその仕事場や居場所が必要となる。また、社会的な地位にともなう形式と格式をともなった建物や使用品も必要となる。幕府を支えるべく、摂津国守護所としての池田城は、必然的にそれまでとは違う変化を遂げた事と思われる。それはまた、広域的に見れば、京都を守る拠点(都市)としての役割もあったのだろうと考えられる。


<参考史料>
1539年(天文8)------------
閏6月13日 将軍義晴、摂津国人池田筑後守など有力国人へ御内書を送る
       ※摂津市史(資料編1)379頁など
1564年(永禄7)------------
10月頃   宣教師フロイスの編書『日本史』に摂津池田家が紹介される
       ※フロイス日本史3(中央公論社)P192頁など
1566年(永禄9)------------
5月30日  足利義栄擁立派三好義継被官池田勝正、堺へ出陣
       ※大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)615頁など
1567年(永禄10)------------
5月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田勝正勢、奈良油坂の西方寺に布陣
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)13頁など
1568年(永禄11)------------
1月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田衆、奈良多聞城の付城へ入る
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)50、ビブリア62号60頁(二條宴乗記)など
7月15日  将軍義栄方池田清貧斎正秀、公卿近衛家を訪問
       ※言継卿記4・255頁など
1569年(永禄12)------------
1月5日   足利義栄擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
       ※言継卿記4・299頁など
1月6日   摂津守護池田勝正など、将軍義昭救援のため山城国乙訓郡西岡方面へ到着
       ※言継卿記4・300頁など
1月8日   摂津守護池田勝正、西岡勝龍寺城へ帰城
       ※言継卿記4・301頁など
1月10日  織田信長、池田勝正一族清貧斎正秀を褒賞
       ※信長公記(新人物往来社)93頁など
1月12日  摂津国池田へ避難中の将軍義昭側近細川輝経、将軍義昭へ参候
       ※ビブリア62号63頁(二條宴乗記)など
1572年(元亀3)------------
11月19日 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ池田衆が幕府方となった事について音信
       ※兵庫県史(史料編・中世9)432頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月12日  将軍義昭方池田某(知正?)、義昭へ参侯
       ※耶蘇会士日本通信・下・248頁など





2016年3月11日金曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(はじめに)

筆者は池田郷土史学会の会員で、平成23年(2011)7月10日に「浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-」と題して、研究発表を行いました。この年、大河ドラマで「江〜姫たちの戦国〜」を放映中でしたので、それに沿った内容で、池田勝正の関わりを紹介しようとの考えで企画しました。

史実として、越前朝倉攻めには池田勝正が従軍しており、その軍勢の中核的勢力として活躍しました。中心部分は「越前朝倉攻め」ですが、そこに至る経過とその環境、また、その事が、池田家の内訌につながったという要素を一つの線上にまとめて説明しました。

以下は、その時のレジュメの内容です。その後に気付いた事なども若干補足したり、ウェブ用に横書き体裁に変換して、皆さんのご参考になればと思い、公開したいと思います。
 
【摂津守護職として、将軍義昭・織田信長政権を支える】
 ◎池田衆の実力
 ◎諸役負担、軍事負担、一部の権利返
【浅井・朝倉攻め】
 ◎軍事行動の目的と池田家の役割
 ◎金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
【池田家内訌】
 ◎内訌の様子とその後の勝正の動き
 ◎三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き
【補足】

2016年3月4日金曜日

1570年(元亀元)の「金ケ崎の退き口」の池田勝正の退路

このテーマについて、長い間考えているのですが、最近ちょっと福井県小浜市を訪ねる機会があって、いくつか購入した資料を見ていると、再度考えるヒントが色々ありましたので、この機に少し思索をしてみたいと思います。

今も勝正の退路を見極める事ができずにいるのですが、私の頭の中には以下のような要素がバラバラにあります。なかなか整理が進んでいません。


『朽木村史(通史編)』90頁にある図より
(い)池田勝正は摂津守護として従軍しているため、幕府軍としての立場であった。そのため、その軍勢の中枢部分におり、織田信長やそれに従軍した公卿の飛鳥井氏や日野氏の護衛任務も兼ねていた可能性もある。軍勢は幕府や錦の旗を立てて進んだと思われる。
 なお、将軍義昭側近であった明智光秀も将軍名代的なカタチで、幕府軍の中に居たと思われる。なお、軍勢の配分は不詳で、更なる研究が必要。

(ろ)京都を出た軍勢は、琵琶湖西岸を進み、近江国高島郡へ入って田中城を本営に宿泊。そこから、軍勢は二手に分かれて、一隊は七里半街道(敦賀へ)を、一隊は九里半街道を進み、信長自身が居る本体は九里半街道を進んでいるため、この本隊に勝正も居ただろうと考えられる。
 田中城から朽木・熊川を経由して国吉城へ向かう道程で進んだと思われる。もちろん、常に本隊の前には、必ず斥候が出ているし、政治的な対応を行うための前触れも出ている。

(は)越前国敦賀に入り、金ケ崎城・天筒山城を攻撃する時、信長は若狭・越前国境の城である国吉城に居り、ここに公卿衆などの本隊もあったらしい。信長はここに2日間留まっている。
 金ケ崎城・天筒山城を総攻撃する頃の4月25日に信長は、国境を越えて花城山城に進み、続いて妙顕寺へ陣を進めた可能性があり、その翌26日、金ケ崎城・天筒山城を落とした。この攻城に池田勝正も参加していたいと思われる。

(に)4月27日、幕府・織田勢は、金ケ崎城・天筒山城から2〜3里(約8〜12キロメートル)ほどの至近距離にある、木ノ芽峠の城を攻め、これに徳川家康が従軍していたらしいが、池田勝正は前線に出ず、金ケ崎城の本陣に居て、信長や公卿衆などを守る役目を持っていた可能性もある。しかし、2〜3里では、至近距離であるため、前線に出ていた可能性も無くは無い。このあたりの所は、もう少し調べる必要がある。

(ほ)信長が越前朝倉氏攻めを中止し、撤退を決めた4月28日、池田勝正は将軍側近明智光秀、織田信長側近の木下秀吉と共に、金ケ崎城・天筒山城を固めて、撤退戦に移ることとなり、この時点で、摂津池田衆は敦賀に居たことは確実である。
 それについて史料を改めて読んでみると、明智光秀と木下秀吉は、周辺の状況を把握するため、場所は不明ながら小浜や朽木、熊川などに残り、徳川家康や池田勝正などが京都に戻った可能性も高いように思われる。

(へ)織田信長との同盟を破棄した近江国人浅井長政は、近江国内一帯に警戒線を張ったことから、敦賀から近江国北部の街道は封鎖され、若狭国西部からの道で撤退せざるを得なくなる。時間が経つ程に状況が不利となるため、先ず、織田信長や公卿衆が先に京都へ戻ることになり、少人数で逆に目立たせないように工夫をして、急遽敦賀を出たらしい。
 越前・若狭国境の関峠を越えれば、堅牢な国吉城があって、追っ手が来てもそこが最初の防衛線となる。信長一行は少人数であるために、機動力はあるが、襲われればひとたまりも無いため、味方の領内を通り、道中の安全には確実な方法を選んでいる。
 若狭国熊川には奉公衆の沼田氏、同国大飯には同本郷氏、同国遠敷郡後瀬山には若狭守護武田氏、近江国高島郡には奉公衆朽木氏が居て、これらの領内を移動し、一旦は、朽木に入って、更にそこから近江国内をなるべく通らず、そこから京都への最短路である、針畑越から京都へ戻ったと思われる。

(と)遅れて京都を目指す、池田勝正など殿軍は、同じ道程を辿ったと思われる。若しくは、いくつかの道に分散させて戻ったかもしれない。
 軍記物にあるように、朝倉・浅井の追っ手や近江国人の一揆による襲撃は、無いとは思えないが、事実としては左程深刻なものでは無いと見られる。撤退路には、諸方に幕府加担者が居り、そこが拠点となって何段も食い止める方策になっている。また、朝倉勢が一乗谷を大挙出陣したのは、5月11日頃であり、「金ケ崎の退き口」の時点で大軍に包囲されるような状況になかった事は、当時の判断にもあった筈である。現実にあったのは「かもしれない」や「恐れがある」予測段階だっただろうと思われる。
 一方、池田勝正などの殿軍は、敦賀から京都へ戻るが、これも近江国内の通過は極力避けて、熊川から朽木領内を経由して、針畑越えを選んだと思われる。この針畑越えは、この時の徳川家康の通過を伝えている。また、針畑越の街道も朽木氏の勢力が及んでおり、要所に城がある。朽木氏領内で1日分の補給さえ考慮すれば、2日程で京都へたどり着ける。
 ただし、『鯖街道』(向陽書房刊)によると、平成10年頃だろうか、小浜市泉町から京都の出町柳まで、全長約80キロメートルの針畑越を走破する競技が行われ、100余名が全員完走して、一着のランナーはなんと、8時間3分でゴールしたとの事。時速10キロメートルの計算になる。馬などを乗り継げば、かなりの短時間で往来できる可能性は、この事実からも推測できる。
 針畑越の街道は、当時でも主要道であったらしく往来も盛んだったため、多分、江戸時代でいうところの伝馬制度になっていたと思われます。こういう軍事的な大動員があるなら、要所ではそのための追加策も講じられていたでしょう。
 
(ち)殿軍がいつ戻ったのかは、ハッキリした史料はなく、不詳であるが、5月1日頃には戻っていたのではないかと思われる。この日、念のために将軍居所である、二条城に兵糧を入れたりして、防戦の準備をしたとの記述が見られる。また、もしかすると明智光秀は朽木に留まって、情報収集などを行っていたかもしれない。また、織田信長は、各地の京都周辺の情報収集、分析、準備を終えて、5月9日に京都から岐阜へ向けて出発している。それまでには、越前国からの撤収や手配は、少なくとも終えているものと考えられる。

(り)何よりもこの越前朝倉攻めは、近江国人浅井長政が、当時の噂通りに幕府方の行動に背くかどうかの確認の意味も含められていたと考えられる。そのため、撤退する事も予め行動の要素の中に入っていたと思われる。ルートも予め決められていたというか、必然的そこしか選択肢がない状況にもなっただろう。
 急に決めた事をこれ程の数の軍勢を、こうも簡単に移動させる事は難しいだろう。織田信長の行動を見ると、用意は周到に行われており、「姉川の合戦」までの事は、一連の構想や計画に入っていた事と思われる。

何となく、書いている内にだんだんと輪郭が浮かんで、断定的になっているようなところはありますが、状況から考えて、あまり複雑な経路を取らずに、危険な道を選ばず、最短で京都へ戻ることを考えただろうと思います。
『朽木村史(通史編)』86頁にある図より
信長の朽木越えの動向について、朽木氏の家臣であった長谷川家に伝わる『長谷川家先祖書』*には、28日、信長公は保坂より朽木越えの街道に入り、慕谷(ししだに)を通行され、その時、朽木河内守元綱公が警固の兵を召し連れて道案内をされたので、信長公は無事に下市の圓満堂に着いて休憩され、元綱公より接待を受けられました。その際、隣家の長谷川惣兵衛茂元(茂政)が、お茶とお菓子を献上したところ、信長公は履いていた鹿革製のたちつけ(はかまの一種)と銀製の箸一対を下さいました。当家では今日まで、家宝として持っています。、との旨の記述があるようです。
 また、その下市から北に進んだところに、現在の県道23号線との分岐点があり、このあたりを三ツ石と呼んだそうですが、このあたりに「信長の隠れ岩」*と伝わるところがります。同時に、ここにも朽木氏関連の城がありました。
 この県道23号線の先には針畑越の街道と合流します。途中に長泉寺やこの辺りにも朽木氏の関連城郭があります。上記の図を参照下さい。
※朽木村史(通史編) -滋賀県高島市刊-より
 
こういった伝承や当時の史料などから総合的に考えてみると、信長は朽木から南へは進まず、針畑超えを選んで、京都へ入ったものと思われます。多分、勝正など殿軍も同じような道を選んだ事でしょう。
 それから、小浜と朽木は大変結びつきが強く、朽木氏と若狭武田氏も親交があったと思われます。若狭武田氏は、幕府とも強い結びつきがありますので、朽木氏とは代々結びつきは強かったはずです。ですので、こういった要素は、この信長の行動や勝正など殿軍の行動も必然性を与えていたはずだと思います。

後世の脚色が強い「金ヶ崎の退き口」のドラマチックな記述は、嘘だと思います。これは、以前も書きましたが、信長は非常に慎重な武将で、退路も考えて行動しています。朽木と高島郡を押さえる事は、若狭とも関連します。加えて、この撤退戦直後の史実として、5月17日に高島郡の有力豪族(高島七頭の一家)が、信長の配下となる旨を伝えて来ますし、同月6日に明智光秀・丹羽長秀を若狭国の武藤氏の元へ派遣したりしています。『信長公記』の記述では、この時も針畑越えを使ったとあります。

信長が撤退の最中にギリギリの賭けをする程ならば、このような事は出来ないし、起こりません。この見立て、いかがでしょうか?詳しくは、他の朝倉攻めに関する記事もご覧いただければと思います。


【オススメ】
滋賀県高島市から発行されている朽木村史(通史編・資料編)は、素晴らしいです。これで、5,000円(税別)とは大変お得です。朽木の全てが分かると言っても過言ではありません。こちらの方面の歴史を知りたい方は、是非お買い求め下さい。
◎高島市の公式ページ
 http://www.city.takashima.lg.jp/www/contents/1435818305138/index.html





2016年3月2日水曜日

河内飯盛城に三好長慶が入った理由を考える

近年、河内国飯盛城跡を国の史跡として指定を受けるべく、その機運が盛り上がる中で見られる、「飯盛城は日本の首都だった」との解釈なのですが、私のこれまでの理解ではそういう発想がなかったので、ある意味では衝撃的でした。

摂津国人池田勝正を見ていく上では、どうしてもその上位権力の動きを見る必要がありますので、当然ながら、三好政権についても詳しく見る必要があります。
 追いかけている年代は、勝正が生まれてから死亡するまでの期間として1530年(享禄3)〜1578年(天正7)の約50年間で、その前後2年づつくらいを加えて対象にして見ています。

それで、ちょっとこの記事を書く段階ではうろ覚えなのですが、享禄年間頃かそれより前、畠山氏の争いの中で、河内国の統治権利が南北に分割された政治決着があり、この前例を以て、その後の動きがあるように捉えていました。
 木沢長政の上位権力である畠山在氏が、その河内北半国守護格のようになり、その重臣であった木沢長政が飯盛山城に拠点を構え始め、長政はそういった権力の境目に、色々と城を築いていたと理解していました。信貴山城・二上山城などもそうですね。
 それを契機として、河内国が南北に分断したこと自体、競う本質が出来た事になるので、どちらも相手が弱体化すれば、統一しようとする動きがいわば摂理に変化したように思います。

私はこの前例が、織田信長の時代にも見られ、争いの種、政治の概念にもなっていたと見ています。

それと、河内と大和国境は、地域を越えて国人の結びつきが強く、いつ敵味方に分かれるか判らず、微妙な紛争地域でしたので、ここを監視する必要があります。飯盛城・信貴山城・二上山城あたりは、そういった目的の城と考えていました。

もちろん、河内飯盛城のポテンシャル(素質)は、戦争の時代には、どうしても取っておくべき要地ではあったのですが、それに加えて、河内・大和国境の人間の結びつきがあって、ここに三好長慶が入って、それらを監視していたと考えていました。
 永禄2〜3年にかけて、幕府方として河内畠山家内訌に介入し、終いには畠山家を機能停止させてしまう事になったのですが、三好長慶に対抗する周辺勢力が、畠山家の残党と結びつき、これに抵抗をしていました。また間もなく、畠山氏のこの動きに近江守護の六角氏も加担する動きを見せ、同じ、反三好連合ができあがり、大和国も不穏な状態が続いていました。
 ちなみに六角氏は、管領細川晴元と三好長慶の抗争で、晴元の隠居と引き替えにその嫡子六郎(昭元)の管領就任を条件に和睦しましたが、長慶はこれを実行せず、手元に置いて軟禁状態にした事から、両家は良い関係にありませんでした。畠山氏は、この六角氏と結びつき、その領内に一時期、匿われていたようです。

そういった事情から、戦争の新たな局面を迎えたため、永禄4年に長慶は、息子の義興に当主を譲り、いわば隠居して、後援の体制を作り、それまで居た芥川山城から飯盛城に移り、奈良の松永久秀と共に、河内・大和国の対策に乗り出します。また、政権内での現代の管区のような受け持ちも、そういう区分けされた概念で、河内を南北に分けて統治を行っていたと思います。
 ですので、体制としては当主が三好義興なのですから、ここが首都(首都という発想ならば...)だと思っていました。義興が京都へ出仕し、長慶がそれを助ける体制だと見ていました。長慶は、大和の制圧により、畠山氏残党の勢いを削ぐ次の目標を立てていたのではないかと思います。

先日の「落語と城トーク」のシンポジウムトークを聞いていると、「飯盛城の石垣は、東側に多く、見せる城としては、東に向いていた」との見解が示されていた事からも、多聞山城についてもそういった向きはありますので、それぞれの城は同じ目的があったと感じました。大和国を囲むように、一貫した同じ方策(政策)を行っていたと思います。
※もちろん、飯盛城の東側に多く見られる石垣は、全て長慶の生きていた時代なのか、その後なのか、どういう段階を経ていったのかを明らかにする必要はあるのですが...。

そんな中、長慶の跡取りである義興の急逝、続いて長慶の急逝。続いて、三好三人衆と松永久秀の内訌があって、大和国制圧の目的は達せられませんでしたが、その後の将軍義昭政権でも、結局は同じ考え方、政策、軍事行動を行っており、今、飯盛城の位置づけを強調して「日本の首都だった」としているところは、何となく違和感を持ちながらも、そういった側面での事だったと、個人的にはやはり思うのです。
 現に、将軍義昭政権下では、河内国を二つに分けて、北部を三好義継、南部を畠山昭高へ与えて、それぞれ両守護としています。これは、先例に習うと共に、概念が既に出来ているために、交渉の落としどころとしても使えたのだろうと思います。

更に更に、三好義継が討伐された天正元年(1573)、その権力の欠所に荒木村重が任命され、摂津国を中心としながら、京都周辺の織田政権浸透に尽力した、と個人的には考えています。
 脇田修氏の研究では、河内国南部には、土地や権利の差し出し的な把握が行われていますが、北部は荒木村重が討伐されるまで行われていないようで、これはやはり、そういった権力の境目があったことを示していると思います。
※これについて詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。


2016年2月28日日曜日

落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加して

摂津池田城跡に関する埋蔵文化財の破壊を、あるべきものをあるべくように向けるか。それについての思索の参考に、落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加してきました。

日時:平成28年(2016)2月28日13:30から16:00
会場:大東市民会館キラリエホール
主催:大東商工会議所 商業部会
共催:大東市・NPO法人摂河泉地域文化研究所・大東のざき観光ステーション
後援:大東市商業連合会

この催しは、大東商工会議所商業部会が飯盛城を国史跡指定推進事業を推進しており、それについて、大東市市制施行60周年プレイベントとして、飯盛城国史跡指定推進プロジェクトの位置付けて行われました。

催しの冒頭に、商工会議所の商工部会長の挨拶があり、この一連の取り組みの意図の説明があり、それによると、大東市は近年、人口の減少が見られ、それに伴う商工業の衰微もおきている為、この取り組みで、いわゆる活性化たる賑わいの核にしていきたい趣旨もあるとの事でした。もちろん、市政としての内憂外患の打破にも期待しているようです。
 細かく書くと、色々あるのですが、大東市を上げての取り組みでもあり、市長自らもそれに理解を傾けて取り組んでいるようでした。いずれにしても、地域を上げての取り組みにしていこうとの熱意は感じられました。

個人的には、大和川開削後の歴史上で非常に重要な位置付けでもあった、平野屋会所跡の保存活動に失敗し、文化不毛地帯だと思っていた大東市でしたが、市長の交代で流れが大きく変わったと感じるきっかけにもなりました。


大東市で開催の落語と城トークの会場の様子

河内飯盛城は、現在、国の史跡登録に向けて、積極的に活動しています。ここ数年で答えは出ると思いますし、多分、指定は受けることになると思います。飯盛城は随分前から、それに価する遺跡だとの評価はされており、また、このところの国の省庁移転の取り組みで、文化庁が京都へ移る可能性が高まっている事もあって、周辺環境の色々な高まりもそれには好都合となるでしょうね。

会場は満員で、定員600名を上回っていたと思います。平均年齢が高かったのが気になったところですが、文化財への理解を広げるイベントになった事は確かだと思います。
 中でも、飯盛城についての「城トーク」コーナーがあり、週風亭昇太さんのコメントがすばらしく、会場の空気を一変させたと感じました。城好きで知られた昇太さんの、ある日の出来事を上げられてのお話です。

落語会の前に地元の城を見たくて、早めに現地に入られてタクシーに乗って、そこへ向かおうとした時のやり取りで、

昇太:
「◯◯まで行ってください。ちょっとお城跡を見たいんです。」
運転手:
「あそこに行っても何も無いよ。」
昇太:
「ちょっと、行ってみたいんです。」(...そりゃあ、何も残っていないかもしれないけど、何もないという今も見たいし、普通の人には気づかれない痕跡を見たいんだけどな...。)
運転手:
「ほんとに何もないよ。本当にこの街には何もなくて、だから人も居なくなって寂れる一方なんだよ。」
昇太:
「ん〜、難しい問題ですよね。私ちょっと城が好きなので、すいませんけど、兎に角行ってください。」

みたいな事があったようなんです。しかし、これについて、昇太さんが考える、文化財や遺跡に対する想いをコメントされ、それについて、私も感動しました。

昇太:
「そのタクシーの運転手さんは、家族とか、自分の子供にもこの街には何もない。だから何もできない。っていってるのかもしれません。でも、大人が子供にそういう事を言い続けるから、その子供もそう思ってしまって、地域を知るきかっけとか、それにつながる希望とかもいっしょに無くしてしまうんです。
 だから、大人がそんな事を子供にいってはいけないんです。知らないのなら、何も言わない方がマシだと思います。そんな事よりも、自分が少しでもそういうことを知って、ここには何があった、昔、こんな偉い人がいて、みんなを助けたんだよっていう、そういう言い伝えとか、地域の事(歴史)を中心に親子がつながる方が、よっぽど日常が楽しいと思うんです。」

といった、趣旨のことを発言され、私は本当に感動しました。その通りです。
 残念ながら、昇太さんが体験されたような事が、どちらかといえば普通です。私も常にそれを体験していて、悲しいくらいに普通です。食って、寝て、遊ぶだけの都市、現代生活になりつつあるのは非常に残念です。

このコメントが会場におられる人々に響いたのか、大きく頷く方も居て、その後のコメントも心の耳でコメントを聞いている方が増えたような感じにもなったように思います。会場の雰囲気は一変したように見えました。

細かなところは色々あったのですが、全体の結果としては、企画意図は遂げられていたのではないかと思います。これを機に、文化財への理解が進めばいいなと、心から願っています。



2016年2月27日土曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡)

江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、流路が変わり、現在のような風景になったのですが、今もそれ以前の川と池の境目が残っています。結構な段差があるところもあって、それらの痕跡をその当時の地図と見比べると面白いです。

先に紹介した、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図を元に、池・川の痕跡を写真でご紹介します。地図の中に、a〜eまでの地点を入れてあり、それに相対して以下に写真を示します。

大和川付け替え前の川の流路

 a地点(古箕輪八幡神社付近):
東大阪市古箕輪にある古箕輪八幡神社は少し高くなっていて、このあたりから北に落ち込んでいます。北への見通しが利くため、戦前は陸軍の用地だったようで、今もそれを記す石標が残っています。
 江戸時代から戦後、昭和30年くらいまで、このあたりに舟が着き、港のようになっていました。また、この近くにある藤五郎橋あたりは、水位を調整するパナマ運河のような閘門がありました。

東大阪市古箕輪の古箕輪八幡神社の段差

b地点(加納2丁目付近):
東大阪市加納2丁目の旧集落の鎮守宇波(うわ)神社西側の段差です。ここは現在、戸建住宅の建築中で、次第に見えなく、気づきにくくなるでしょう。左側は、宇波神社の地車保管庫です。
 このあたりが段丘の最北端にあたり、水深もあった事から船着場だったようです。宇波神社は、写真の段差よりも更に上で、この段丘の一番高い所にあります。万が一の水害の被害を受け無いよう、村の人々の想いが伝わります。

 
戸建住宅のための擁壁は1メートル以上ある


c地点(今米1丁目付近):
今米1丁目付近の旧吉田川の川筋跡です。今はもう川はありませんが、大きな川だったようです。このあたりも結構な段差が残っています。 すぐ南には川中村が隣接していて、ここは、大和川付け替えに尽力した中甚兵衛公のご子孫(甚兵衛公兄の系統)が今もお住いです。中甚兵衛公には、大正3年に従五位が贈られています。江戸時代で言えば、ちょっとした大名が受ける位階です。中世でも通用する、高い位です。

今米1丁目付近の入り組んだ段差

d地点(水走2丁目付近) :
東大阪市水走2丁目付近は旧集落で、大津神社があります。この神社は式内社で、平安時代にまとめられた神社の叢書に出てくる、古い神社です。
 神社には、大津神社由緒として「当社は延喜式神名帳に載せられている古社にして、御祭神は大歳神(おおちしのかみ)の御子大土神(おおすなのかみ:土之御祖神:すなのみおやのかみ)で、字宮森に鎮座するとあります。創建の年月は詳らかではないが、伝説によれば、天児屋根命(枚岡神社の御祭神)の乳母津速比賣(つはやひめ)ともいわれています。
 社名よりして古代当地は、湖沼時代に沿岸地域での港津として重要な交通上の拠点として発展してきた地と推察されます。平安時代から室町時代の中世にかけての集落が営まれた水走遺跡と合わせ、土豪水走氏が河内の一つの拠点として拓き発展してきたものと考えられる。」と石碑に刻まれ、紹介文があります。
 古水走村は、吉田川の東岸に位置し、すぐ南には奈良街道が通っていますので、交通の要衝でもあったでしょう。


東大阪市水走にある大津神社

e地点(吉田本町付近) :
東大阪市吉田本町付近は、今も地形が少し高くなっていて、その半島のようになった地形の上を古い道が通っています。d地点の大津神社から200メートル程南にある吉田本町郵便局のすぐ西側は、写真のような断崖です。2メートルくらいはあろうかと思います。湖だった頃、水深は結構深かったのだろうと思います。

東大阪吉田本町郵便局の西側あたり

f地点(稲葉1丁目付近):
玉串川が北上して分岐すると、東に注げば吉田川になります。玉串川は西側に注いで行きますが、その川筋跡が残っています。稲葉1丁目付近の段差がそれで、写真のように、結構高さがあります。写真の右手前にある道を行くとすぐに、稲葉神社があり、樹木の右手には近畿自動車教習所があるところの段差です。

近畿自動車教習所の南側境界のあたり


g地点(吉田1丁目の花園商店街付近):
東大阪市吉田1丁目の花園商店街の中を府道15号線が通っていますが、商店街なので、車の通行は難しい雰囲気なのですが、通れなくは無いです。しかし、商店街が賑わっていた頃は、朝晩以外は買い物客が行き交っていたでしょうし、日中は無理だったでしょうね。そういう所に府道が設定されているのは、昔からの大動脈だったからです。
 そんな道の脇が断崖です。ここも2メートルくらいはあります。玉串川から吉田川になる分岐点のあたりです。川に沿って道があり、駅ができたので、その道が商店街になったようです。
 このあたりの実際は、なだらかに高低差がついているのですが、写真の場所は生活の都合上、削ってしまって垂直な角が出ています。幸か不幸か、そのために、高さが見た目にも分かり易くなっていますね。


東大阪市の花園商店街に沿った断崖



他にも色々あるのですが、今回はこのくらいにしておきます。また追い追い、増やしていきたいと思いますので、どうぞご期待ください。
 当たり前のいつもの景色も、その理由を知れば、とても興味深く、見え方も全く変わります。今回ご紹介した池・川跡は、先人が豊かな地域づくりの為に開いた痕跡でもあり、確実に今に繋がっている事なのです。

日常の何気ない凸凹ですが、面白いでしょ?

【関連記事】
東大阪市箕輪・古箕輪にある八幡宮のルーツを考えてみる

2016年2月13日土曜日

池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その3:個人的な感想)

池田勝正という人物を調べてみて、「歴史」というものについて考える時、私は、決して社会の中の一分野であるべきでないと思うようになりました。
 先人の社会は不完全な部分があるように見えますが、そこには原則や真理、また、その営みの連続が現在にも繋がっているのですから、同じ失敗をする事の無いように、私たちの有効的な智恵として、歴史を捉えるべきだと感じます。

一般的には、歴史の全てを知る必要はありません。しかし、代表的な事は知っておいた方が良いと思います。また、大き過ぎるものよりも身近で手軽なものになるべく接するのが良いと思います。
 地域の文化財は、国宝や重要文化財(確かにすばらしい)よりも庶民的で、地域性があったり、創意工夫があるものも多いのです。そして、地域の文化財も国宝や重要文化財と同じように、何百年もの歴史を持ちながら、しかもお金をかけずに、すぐ近くで触れられます。

人間は生まれてから、現時点に至るまで、色々な経験を得ます。悪い事も良い事も、色々と経験し、事の善悪を判断するようになり、その中から、自分のあるべき方向を見い出します。同じ失敗をせぬよう、これまでの自分の経験を生かして、行動します。これは、その人の時間の重なりであり、歴史であるといえます。

さて、みなさん。もし、同じ失敗ばかりする人が居た時、その人を見てどう思うでしょうか?過ぎてから気付き、事前に問題をよく考えずに行動してばかりで、より良い結果が生まれるでしょうか?これまでの経験や人との繋がりの中でよく考え、一番良い方法を選ぶのが最善の筈ですよね。

日本の国や地域の社会とて、個人のこういった行動と同じです。

今は国家制度としての教育(学校)があり、自由に学べる社会ではありますが、結局、それがために分野化され、細分化された「歴史」というものが、社会の役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています。
 私は、いわゆる「歴史」というものをそのように見たり、感じたりしています。地域(国にも)には、地域の歴史があり、それが地域の性格を形成しています。また、色々な状況(環境)に影響を受けて、絶妙な均衡を保ちながらカタチ作られています。
 
地域とその歴史を知る事は、よりよい未来の選択のため。また、その個性を知る事は、よりよい発展のため。それらを知るためには、科学に裏付けられた公平な歴史を残して(記録や調査)おかなければなりません。
 そういう環境を経ることで、その向こうに、心のよりどころとすべき、優しく豊かな社会が見えるのだと思います。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その2:歴史研究が進む中で期待される地域史)

最近、中世時代の研究が進んで様々な分野の解明成果が発表されています。中世は社会が乱れ、移動も少なからずあり、また、戦乱で史料が亡くなっており、まとまった史料がありません。それ故に断片的で散在する史料の検証は進みませんでした。
 このために勝者側の比較的まとまった史料だけが研究対象となってしまい、実際にその権力を支えた地域の人々の実態は埋もれていました。
 しかし、その両方を比較検討する事で、その当時の実像が明らかになりつつあります。これは科学的歴史を継承する観点では、大変なレベルアップです。これまではやや推定を含む感情的・創作的な傾向が強かったため、誤解も多くありました。
 そういった研究が進むにつれて、地域史は大変重要度を増し、注目される環境にあります。地域史は、その地域にとってもより良い発展のための基礎データともなり、また、旧社会制度の解明にも役立ち、より広域の様々な分野に対する研究にも役立っています。それは、日本国内だけではなく、世界規模に及ぶ事もしばしばです。一地域の歴史ではあるのですが、それは「世界共通概念」が凝縮された歴史でもあるのです。

そんな中にあって、地域の歴史はやはり、地域の人々にしか見えて来ない性質がある事を知らなければなりません。その地域に住まなければ、やはりその地域の事はわかりません。逆にいえば、大きな世界の答えが、小さな地域の出来事と相対していることも多くあるのです。地域史は大きな可能性を秘めていると感じています。
 しかしながら、現代は移り変わりが、急すぎる程急です。山も川も丘も、あっという間に変形し、消滅します。こういう現代だからこそ、なお、地域史の発展の基礎は、その地域の人々の目と志しが重要となっているのです。なにしろ、地域の核となるべき人(住民)も、移動が当たり前の時代ですから。

かく言う、この私もそうなのですから。地域史という分野は、風前の灯なのかもしれません。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その1:池田勝正の真実を知るための在野研究)

(1)池田勝正の真実を知を知るための在野研究
池田筑後守勝正の実像を知るには摂津国人である池田家そのものの歴史をひもとく事が必要です。研究者などによる学問の発展により、その当時の記録には摂津池田家の記述が頻出している事がわかってきました。しかし、摂津池田家についてのまとまった研究というのは、なぜか現在も皆無です。
 人物・特産・出来事・交通など様々な分野でも少なく無い資源を持つ池田ですが、その中興的な基盤を作った摂津池田家の研究が殆ど無いというのは、非常に残念な事です。
 
そんな理由から、実質的な最後の当主である池田勝正について調べ始めました。しかし、勝正について、現在伝わっているものは、事実無根のものが多く、勝正没後に作られた、ある意図を帯びた作為的なものばかりです。それらは、自家の正統性を主張するために生み出された創作です。

歴史というものは、勝者の歴史とも言われる事がありますが、現代科学の発展した今を生きる私たちは、「事実はどうであったのか」を検証し、これまでの伝承を補正・整理しながら未来へつなげる事もしておくべきだと考えます。この後も持続的にこの試みが成されれば、きっと大きな成果が上がる事でしょう。

この私の試みは、小さなものですが、未来への役に立つなら、それが目的の到達点であり、大変嬉しく思います。私が先人の研究から得たように、私も何らかの継承ができればと願っています。


池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (はじめに)

池田市は常々、「歴史のまち・文化のまち」と自分自身を形容する事が多いのですが、私個人はそれに対して少々懐疑的です。
※最近は、その環境を鑑みて、ついにそれを標榜しなくなりつつもあります。

昭和の末期、図書館で見る資料を見れば、その頃の池田市教育委員会は、大変意欲的に文化財の保存と活用に向き合っていました。それが今はどうか。何が違い、そうさせているのか。
 詳しくは、池田市埋蔵文化財発掘調査概報を図書館などで、ご覧いただけたらと思います。書いてある事と実際がどうなっているのかが判ります。

さて、今の池田市のルーツともなった中心部地域については、全国的にも注目される要素が沢山あります。その地域については、しっかりとした考えと計画をもって進めてもらいたいものです。

今は代替わりの時期です。また、時代そのものも変わりつつある、その真っ只中です。これまでとは違う日本になっていきますが、過去を知る必要が無いとは思えません。また、過去がどうであったか、その先に生きる科学的事実を市民(子孫)に伝えなくていいとも思いません。
 個人的に思うことですが、こういう地域の歴史に熱心に取り組む自治体というのは、現代生活にも、非常に活力があるように思います。その逆の地域は、色々な問題解決も膠着状態で、勢いが無く、寂れているところが多いように感じています。

どんどん街並みは変わり、技術も変わり、嗜好も変わります。いつまで経っても昭和のままのルールと手法。これで、変化のスピードに適うはず無いのです。

私は思います。「食って、寝て、遊ぶ」だけの文化って、先進国として自慢できますか?それはすばらしい事ですか?
※現実生活を否定している事ではないので、それはおわかりいただけると思います。

私が2005年頃に書いた、池田勝正を研究して学んだ文化財について、感じたことを以下にご紹介し、そういう世界(感じ方や考え方)も知っていただけたらと思います。

(1)池田勝正の真実を知るための在野研究
(2)歴史研究が進む中で期待される地域史
(3)個人的な感想



2016年2月11日木曜日

1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

近頃の日本の株価平均の急速な下落とか、中国の経済状態やヨーロッパの事などの世界的な経済・金融の動きについて、討論番組を見ていてふと、気づいた事があります。

これまでにご紹介した「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)」にも自分が書いた事なのですが、将軍義昭政権の初期の段階で、織田信長は経済政策に失敗しています。
 日本の歴史としては、織田信長の執った政策は、日本の政治史発展に大きな貢献をした事は明かですが、しかし、当時を生きる人にとっては、大波乱の時代でもあった訳です。

写真1:池田市細川地域から出土した古銭
詳しくは、上記のページをご覧いただければと思いますが、言いたい事の核として部分的に取り上げると、「それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した。」と記述しているところがあります。
 池田家の内訌は、この翌年の6月ですから、加担する政権の経済的な失敗が見えてくる時期でもあったと思います。もちろん、池田家内訌の理由がこの一つの要素だけでは無く、他にも色々あるのですが、経済的な要因は、今も昔も変わらず、判断するための大きな要素になります。

こう言う背景要素もあって、先鋭的で、性急な判断に迫られるような事が起きた場合、議論は紛糾し、刃傷沙汰に至りやすくなるものと思われます。そういった中で、1570年(元亀元)6月の池田家内訌に至ったのでは無いかと、ふと、思いつきました。

写真2:出土した古銭の代表例
この、気づきというか、ヒントはまた広い視点持をちつつ、深く掘り下げてみたいと思います。

【写真1】昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に出土した古銭で、写真のような状態で発見された。古銭は、年号による種類では48種類、書体による選別では93種類で、分類不能なものは555枚。総合計18,317枚。発見された古銭の年代の開きは約800年。
※出典はグラフいけだNo.18 (1972年2月) より。
【写真2】開元通宝は、西暦621年に初鋳された唐銭で、この発見の中では最も古い。永楽通宝は、西暦1411年に鋳造され始めた明銭で、室町時代の日明貿易によって大量に入り始め、江戸時代初頭まで流通した。織田信長はこの永楽通宝を旗印にもしている。
※出典は同上。



2016年2月3日水曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(はじめに)

中世の摂津国大坂周辺は、江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、現在のような流路になるまでは少し風景は違っていました。当然、その付け替え以前は、交通を始め、様々な要素が、その後とは違います。摂津池田衆の家運が最盛期だった室町時代末期頃も、その事を踏まえて見ていく必要があります。
 この大和川付け替えについては、大東市立民俗資料館で判りやすく学ぶことができます。また、淀川の治水の歴史については、枚方市にある淀川資料館で詳しく見ることができます。現在の災害の無い、豊かな生活を送ることができるのは、壮絶とも言える先人の努力のおかげである事がよくわかります。
 淀川資料館では、近現代に功労のあった、外国人技師のエッセル、デ・レイケ、沖野忠雄技師、大橋房太郎大阪府議の志には、本当に感動します。特に大橋府議は、献身的な努力を生涯に渡り続けられ、水害で苦しむ人々を減らすべく、尽力されました。何しろ、私の生まれ育った「放出(はなてん)」出身の偉人です。出身が庄屋の身分であったにも関わらず、亡くなる時には借家住まいとなって、私財も全て注ぎ込んで、大阪府民のために働かれた方です。葬儀は府葬で、その見送りには多くの人が感謝を捧げたとの事です。
 感情移入してしまいました。淀川資料館も機会があれは、是非、見学してみて下さい。淀川は身近なのに、知らない事ばかりでした。学校で教える事も無いと思いますので、是非お子さんを連れて、見学をされて、淀川縁でお弁当でも食べて、のんびり楽しんでみてはいかがでしょうか。
 
以下の図は、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図です。


大和川付け替え前の川の流路

 
さて、以下に散文的に昔の大坂周辺の川や池についてのコラムを増やしていきたいと思います。どうぞお楽しみに。

東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡
戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)
・大東市に残る昔の川の跡



2016年1月25日月曜日

ミニシンポジウム「天下人三好長慶と飯盛城」を聴講して、城について考えた事

去る平成28年1月24日、大東市で「天下人三好長慶と飯盛城」についてのミニシンポジウムがあり、学術的な見地から、以下の項目でお話しがありました。

◎天下人三好長慶と飯盛城 (天野 忠幸氏)
◎飯盛城跡を国史跡に (中西 裕樹氏)

飯盛山山頂から南西方面を望む
今回は私にとって特に中西氏のお話しに興味を持ちました。中西氏は、プレゼンテーションソフトのパワーポイントを使って、ビジュアル的に説明され、一般市民向けに理解しやすいように工夫されていました。
 内容は、飯盛城を中心として、それに関する近隣の城などの比較を含めて、特徴を説明し、その存在意義を説明されていました。また、レジュメには、三好長慶の永禄4年頃の支配領域図と共に、その域内にある城と、その外周にある重要な城が載せられていて、その図を元に城の説明が進んでいきました。

個人的には、こういった城の配置や大きさについて、それぞれ単体で存立しているものでは無く、連携機能を元に考えられたものだろうと感じています。また、誰(地域)と敵対するかによって、組み合わせが変わっていくものとも思います。
野崎観音寺(城跡)から北西を望む
いわゆる、本支城関係がこれにあたり、敵の居る方向によって城の配置と、本城を置く場所も変わり、それに相対して支城の連携も変わると思います。

例えば、永禄4年頃には、南河内の畠山氏勢力が、三好長慶に敵対していましたので、それに向かうための人員配置と城の置き方となります。加えて、畠山氏に連動勢力が、紀伊・大和・近江国などにあり、その後背勢力にも対応するために飯盛城・信貴山城(高安城・二上山城・立野城含む)・多聞城・鹿背山城が拠点となり、その周囲の支城と連携した地域防衛(攻撃も)体制を構築するといった感じではないかと感じています。
 他方、拠点には重要(政権中枢)人物が入っていますので、それぞれが連絡・連携できる状態で、相互補完もできるようになっていたのだろうと思います。「面」で防御するイメージというと判りやすいでしょうか。
北条集落から飯盛城跡を望む
飛行機の無い時代の戦争は、「後詰め」が非常に大きな役割を果たします。これは、「将棋」のやり方をイメージをすると判りやすいと思いますが、駒1つだけを意識しても、攻めも守りもできません。駒同士が、如何に連携しているかが駒を動かす理由になります。何重にも関連した手を打てば、相手は崩しようがありません。

私は城の配置や機能(役割分担)も、基本的にはそのように考えられていると思います。ですので、連絡を取り合うための施設が必ず城内や隣接して存在しと考えています。例えば、狼煙や鉦、鏡の光を使う、旗などを使った方法で周辺の城と連絡を取るような施設があったと思います。ですので、そういった城から視界が利く方向は、連絡を取る必要があった城と、敵を見張る事ができる方角(仮想敵の方向へ開けている)だったと思います。

それから街道は、敵の流れを止めつつ、物や人の移動など、自軍に都合良く使うために工夫をしておかないといけません。そういった事も考慮された本支城の構築だったろうし、軍勢が集まる拠点としても、本城というのは、重要であったのではないでしょうか。
個人的に考える本支城の関係と広域地域ネットワーク
戦国時代も後期になると、人の数、物資の量も飛躍的に多くなりますし、それに加えて迅速に移動させる必要が出てきます。

ですので、私の考える城の配置は、政権中枢の人物が、地域支配を行う本城を持ち、地域支配のためのグループ化が行われた人物がそれぞれの支城を持つ。そしてそれらのグループ同士が、互いに連携して、広域のネットワークを持ちながら、より広い面の軍事支援補完を行うというカタチになっていると思います。
 ですので、人の立場と役割が、そのまま城の機能と大きさになっていくのだろうと考えています。まあ、ある意味、それが自然な成り行きだとも思います。重要なところに重要人物が居て、その城も大きいというのは...。

この頃の城については、そのように考えたりしているのですが、シンポジウムの質問の時間には、それについて訊いてみなかったのですが、またいつか、専門家でもある中西氏などに訊いてみようと思います。



2016年1月24日日曜日

池田四人衆の事について(はじめに)

摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較にならない程の差になったと考えられます。

池田四人衆とは、守護職家でいえば、守護代のような、近世大名の組織体制でいうところの家老のような、当主と同等の権力を持つ執政機構といえるのだろうと思います。
 四人衆は、勝正が当主の時代から見ると先々代の信正の代に創設されたと考えられます。これは信正が、管領である細川晴元の重臣で、その側に仕えるために京都の屋敷に居住していた事から、本拠である池田城に当主の分身を置くために考え出された体制のようです。
 四人衆はその名の通り4名で構成され、個人的には、その内の2名は京都で当主の補佐を行い、一方の2名は池田に居て、本拠地の管理を行ったものと考えています。

その後、池田家が大きな勢力に成長して行く過程で、離合集散を引き起こしながら、管領機構である四人衆自体が当主と対立する程の「権力体」になってしまいます。皮肉な事に、池田家を成長させた官僚機構が、滅亡の原因となってしまったとも言えます。

以下、池田四人衆について書いた項目をまとめてみました。また、少しずつ記事を増やしていきたいと思います。論文的に、体系的な書き方もできていけたらと考えています。



2016年1月23日土曜日

1570年(元亀元)の幕府による阿波三好氏討伐計画(はじめに)

元亀元年(1570)の幕府による越前守護朝倉義景攻めは有名ですが、実は阿波国三好氏攻めをも計画しており、検討の結果、朝倉攻めになった事は、あまり知られていないような気がします。

永禄12年(1569)時点で幕府は、阿波か越前のどちらを攻めるか、決めかねていたようです。しかし、結果的に越前朝倉討伐となりましたが、これは、この年に織田信長との同盟勢力であった近江国人浅井氏が、「離反する」との噂が出た事。加えて、永禄11年8月に朝倉氏が、隣国の若狭守護家の武田家内紛に介入して、若狭への影響力を強めいていた事もあって、後者に決まったようです。
 当時の政治的・軍事的深刻度合いから、越前攻めを優先させたようで、阿波攻めも同時並行で準備はされていました。

その幕府方の動きについて、関連する要素をご紹介していきたいと思います。

(1)将軍義昭政権始動時の幕府の状況
(2)幕府が当面行うべき事
(3)当初から阿波か越前を討伐する計画があった
(4)越前朝倉氏攻めに決まった理由
(5)西国の情報を集めていた堺商人今井宗久
(6)阿波国攻めの準備の状況
(7)永禄12年(1569)の播磨国攻めは、阿波国攻めの準備



2016年1月18日月曜日

乱世を駆け抜けた城「若江城を探る」シンポジウムを聴講して

去る1月16日、先週の土曜日なのですが、東大阪市立男女共同参画センター・イコーラムホールで開催(主催:近畿大学 文芸学部文化・歴史学科)されたシンポジウムに参加してきました。当日は盛況で、立ち見も出る程でした。プログラムは、
  • 問題提起-歴史的拠点としての若江 網 伸也氏(近畿大学文芸学部)
  • 落葉 若江城と三好氏 -調査結果から- 菅原 章太氏(東大阪市教育委員会)
  • 城郭史から見た若江城の再評価 -戦国から織田への転換点- 中西 裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
  • 若江城はどのようにイメージされてきたか 小谷 利明氏(八尾市立歴史民俗資料館)
  • シンポジウム:網、菅原、中西、小谷各氏
の内容で行われましたが、私はちょっと先約があって、シンポジウムは聴くことができず、講演会のみの参加だったのですが、内容は大変興味深かいものがありました。

個人的には、会場の参加者の様子を見ると、専門的に研究している風でも無く、興味レベルの市民が参加していたようでしたので、もう少し判りやすい比較やビジュアルを多用して説明した方が良かったのではないかと思いました。つまり、説明が詳し過ぎたように感じました。
 私自身は面白かったのですが、内容が結構アカデミックで、学術レベルが高すぎた感はあったかもしれません。難しいところですね。

さて、その中で興味があったのは、以下の要素です。
  • 重要な地域(若江地域について)は、時代が変わっても同じ。
  • 若江城の成立環境後期は、守護方としての動きの可能性がある事。
  • 三好義継は始め、河内守護職として飯盛山城に入り、永禄13年始め頃には若江城に移ったとの考えを再認識した。
これらの要素は、私の関心分野にも大きな影響があり、もう一度考え直さないといけない所も出てきました。

そう言われてみると、もう一度、自分の研究ノートを見直した時、同じ要素を載せてはあるのですが、その意味や可能性を考えずに通り過ぎて、通年や一般論を思い込んでいる所があるのです。そういった事が一カ所でもあると、それに関連する場所や出来事もつながって理解します。
 「思い込み」は禁物ですね。怖いですね。全ての前提が摂理(真実)とは全く違う方向に進んでしまいます。
 
シンポジウムに参加して良かったです。これを機に、私の研究も、該当部分を見直していきたいと思います。全体の研究も、より摂理に近付けるようになっていけばと思います。



2016年1月9日土曜日

摂津池田家の支配体制(はじめに)

応仁・文明の乱以降、京都中央政治の混乱もあり、日本全国の地方都市は独自に権力を形成するようになったとも言えます。
 それは、更なる混乱を招き、戦国時代とも言われる、動乱の時代になりました。そんな環境の中で、首都京都に近い摂津国の有力武士であった池田家も成長していきます。将軍義栄・義昭の時代には、同国内でも数郡を支配下に持つ最有力の勢力に成長し、池田家が戦国領主の概念を超える程の規模となっています。
 実質上の池田家最後の領主であった勝正の時代を目安に、池田家周辺の支配体制を考察してみたいと思います。
 
(1)摂津国川辺郡久代村の支配
(2)同国原田郷との関係
(3)摂津国垂水西牧南郷目代今西家との関係
(4)池田一族の代官請け
(5)池田家被官について
(6)池田周辺の政所
(7)摂津国豊嶋郡箕面寺
(8)池田氏が下した禁制及び定め

2016年1月7日木曜日

永禄年間末期の三好義継の居城は、河内国の飯盛山城か!?


飯盛山城跡から京都方面を望む
近年、河内国飯盛山城を国指定の史跡にしようと、大東市や四條畷市で盛り上がっているようで、学術的な再検証も行われているようです。
 それにともなって、様々な出版物も出ていて、その理由について書かれています。三好義継は、池田勝正とも深く関係していますので、大変興味深く見ているのですが、自分でも思い込みがあったので、それを補正しようと、自分でまとめている資料を見直しています。
 最近の飯盛山城の捉え方にによると、足利義昭が第15代室町将軍に就いた永禄11年秋には、三好義継は飯盛山城を本拠にしており、若江城に移ったのは翌々年の同13年頃との推定がされています。
 本城と支城の関係や人物についてなど、こまごまとした要素を詳しく検討した論文のようなものも追々出てくると思いますが、今のところ、この新たな見解に納得のいく所も多くあり、受け入れています。
 ただ、永禄12年正月に、三好三人衆方の軍勢が将軍義昭の居所となっていた京都六条本圀寺を襲った時、その行軍行程は河内国の淀川東岸及び東高野街道を進んだと思われますので、これと飯盛山城との関係について興味を持っているところです。
石垣の様子
三好三人衆の軍勢が、飯盛山城下を通過をしたのであれば、敵方である飯盛山城に、どのような対処をしたのでしょうか。何もせず北上すれば、背後から襲われます。やはり、ここに軍勢を割くなどして、後衛としなければいけないはずです。
※歴史資料では、この時の三好三人衆方の軍勢は、義継方の村などの拠点を放火するなど打ち廻りつつ進んだようです。
 そうすると、三好義継は塞がれた道を使えませんので、田原方面から交野などを経由するか、奈良多聞山城の松永久秀と合流し、南山城方面を北上するなどして京都に入ったか、ちょっと再考の余地が出てきます。
 義継が一番敵に近かった割には、京都に入るのが遅いようにも思いますので、敵方勢力に阻まれたり、迂回の必要があったりして、時間がかかったのかもしれません。飯盛山城からの普通の行軍であれば、半日から1日もあれば、十分に京都に入れるはずです。
 義継の河内(北)半国守護としての最初の居城が、若江城では無く、飯盛山城であったとすれば、そういったところの出来事との整合性も補正する必要があり、これに関係する勝正との動きも修正の必要がありそうです。

また、今後の詳しい調査に期待しています。



2015年10月8日木曜日

永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(その1:なぜこの上洛戦が永禄11年秋だったのか)

織田信長が、足利義昭の上洛要請に応じて京都を制した事は、多くの方々がご存知の事と思います。
 尾張国内の統一、また、美濃・伊勢・近江国内の要所の制圧、若しくは影響下に置き、その上で京都侵攻への具体的な絞り込みを行いました。同時に、京都周辺での協力勢力の連絡と取り込みも行い、信長は念入りに計画を進めています。

しかし、個人的に今もあまりピンと来ていないのですが、織田信長の「天下構想」というか、それへの意欲というのは、どんなものだったのでしょうか。最近の研究では、有名な「天下布武」というフレーズを使い始めたのは永禄10年(1567)頃からとされています。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏のように、自分の手で日本全国を束ねるような意欲というか、欲望のようなものが、信長の中にどれほどあったのでしょうか?
 信長と前者の違いは、信長自らが武士の棟梁としてそれを推し進めたのでは無く、足利義昭越しに天下を見ていた事でしょうか。また、「天下布武」を使い始めた時期は、足利義昭の動きと関係するのかもしれません。
 
まあ、その事は脇に置き、美濃国岐阜から京都へ至る道程では、それに敵対する意志を見せていた六角氏と京都を手中に収めていた三好三人衆の勢力がありました。
 永禄11年(1568)秋の時点では、当面の敵はこれらの勢力への対応に絞り込む事ができます。ですので、信長は足利義昭の権威も利用しながら、各方面への対応を行います。
 京都周辺で、三好三人衆方に対抗する勢力を利用しつつ、その三好三人衆の本拠地でもある阿波・讃岐国方面への圧力を加えるために信長は、毛利元就と連携します。
 同時に、龍野赤松氏や播磨国東部の別所氏とも通じ、三好三人衆に圧されて劣勢となった松永久秀、河内南半国守護を追われた畠山氏とも連絡を取ります。
 足利義昭を奉じた信長の進軍と、時を同じくして動くように手はずを整えていたのです。「信長方の軍勢五万」というのは、大ざっぱにこのあたりの事も入れた感覚だろうと思います。大軍であった事は間違い無いことですが、池田城攻めだけに「五万」を付けたという訳では無く、その周辺も含めての事(実際、池田氏の支配領域だけでも豊嶋郡とその周辺にも及ぶ。)だと思います。占領地域にも軍勢を割かないといけないので、全部を前線に集中させるわけにいきません。

信長は京都を囲み、その進軍エネルギーの導火線のように、大軍を用意して、京都を目指したというわけです。
 信長は更に万全を期します。近江守護六角氏の内情を調べ、六角氏の有力被官を離反させています。また、三好三人衆も長期間に渡り、松永久秀などと内ゲバ中でした。信長が軍勢を動かす前には殆ど、勝つための準備が出来ていたのです。相手の状況を探り、自軍が有利になる時期も見計らっていたのです。
 一方、大軍を迅速に動かす事で、相手に抵抗準備をさせず、心理的にも大きな圧力を与えられます。そしてその範囲も、京都占領後にその維持が必要な地域を対象としていたようです。実際にはそれが不十分ではあったようですが、山城・摂津・河内・大和(近江も)に及び、これはそれまでの上洛戦とは少し目の付けどころが違うように思います。

それから、この上洛戦がなぜ「秋」なのかというと、収穫の時期だからです。勝てば、それらを手に入れる事ができます。それを手中に収めるのと、手放すのとでは、意味が全く違ってきます。一度の行動で、大勢(たいせい)を手に入れる事ができます。
 ですので、負けられない一戦をこのタイミングに込めており、攻め方も考え抜かれた方法でした。また、一度手中に収めた資源(財力)を手放さない覚悟と方策も念入りに、「不退」を守り抜いて維持しようとしました。
 政治に必要な要素というものを、その核を理解し、行動の中心(求心力)としていたようです。平たく言うと、永禄11年秋の上洛戦は、京都中央政権の経済を手中に入れ、他者に取られないようにする事。それを室町将軍に就く正統な人物が、武士の棟梁として禁裏と京都を守るという事。それらの要素保持を死守し、中央政権としての信用を得る事を目標にしていたと考えられます。

そんな状況で迎えた三好三人衆方の池田勢でした。三好三人衆方は、信長の目論見通り、総崩れとなり、西へ後退していきます。池田城には、そういった人々も一時的に収容しつつ、抗戦の準備も行います。間もなくこれは、この上洛戦で最も激しい攻防戦となりました。

詳しくは 「その6:池田城攻めの様子と詳報」でお伝えしたいと思います。どうぞご期待下さい。





2015年9月2日水曜日

素人が歴史を学ぶ(見る)上で心がけたい事

近年、自国の歴史や他国と関わる歴史、特に明治時代以降の近代史について、関心が高まっているように思います。
 確かに、私自身の過去を振り返って、学校ではどのように教えられていたかというと、近代史に入る頃には年末年始頃の3学期で、学ぶ方も教える方も、非常に怠惰だったと思います。ですので、歴史に興味を持つ者は、耳学問で、自分の見聞きする範囲、また、実際にその時代を生きた人の経験談か、伝聞で主に知る事になっていたと感じます。

ですので、非常に主観的、且つ、憶測や不正確な環境の中で、近代史を「学んでいたつもり」になっていたと思います。
 これは私だけの経験では無く、割と多くの人がそういった環境だったのではないかと思います。それに加えて、メディアに関わる人々もそのような状況の中で番組を作り、それを見てまた、私たちが学ぶというサイクルになっていたように思います。
 一概にそうもいえない立派なコンテンツ(番組や映画、出版物)もあり、よく調べ、真実を伝えようとする視点もありますが、マスメディアとは少し性質が違うようにも思います。

しかし、歴史とは、個人の経験が全てでもなければ、組織の理由が全てでもない事もあります。また、その最中には見えず、後になって気付く事もあります。それから、立場によっても、性別、年齢によっても当然違ってきます。
 感情や感覚だけでは説明できない事が、特に近代史の難しいところだと思います。組織の単位、利益の単位、スピードなどが、近世以前とは比べものにならない規模になっているからです。
 同時にその環境の中で個人は豊かになり、自由が拡大した事も視点の中心に置かないといけないと思います。国民が同意していた要素も見なければいけません。それは、中央集権が成された近代という時代の中心であった「国家」の産物です。全ての国民は、その中に居たのです。
 よく決まり文句のように言われる、情報統制されていたとか、教育でそう思い込まされていた、だけでは説明の出来ない状況があります。これは思考と責任の放棄以外の何者でもありません。社会と人間は、民族自決の上で国家を立てるためには、共有しなければいけないものがあります。また、自国と国際社会の関係も視野に入れて考える必要がります。

さて、私は全くの素人から中世時代の摂津国豊嶋郡池田の、特にその城主であった池田勝正という人物について調べていますが、その中で学んだ事があります。歴史を調べる時には、

◎現代の感覚で過去を見ない。
◎織田信長のような史上の人物を特別視しない。
◎「if」を考えない。(結果が歴史であり、絶対にその他はあり得ない事だから。)
◎当時の感覚に近づくよう心がける。(環境を理解する。)
◎対象を、できるだけ多くの情報を元に見る。
◎自分の先入観を無くす。
◎見解は言葉を慎重に選び、客観性を心がける。
◎証拠(史料)が無ければ、結論は出さない。
◎推定をする時も、その根拠をできるだけ多く用意する。
◎反論は、史料を以て行う。
◎機会を見つけて、なるべく自分の考えを他に問うこと。
◎議論で喧嘩をしないこと。喧嘩になる相手は、相手にしないこと。

そういった心がけ(条件)が必要だと思っています。これは日常の生活でも、完璧では無くても、そういう心がけは要りますよね。
 私も最初は、主観的な思い込みが強く、あるべき事実が見えていなかったように思います。今も学びの途上で、いつ終わるのかわかりませんが、兎に角ひたすら、情報に接する、史料を読む事だけは心がけています。
 できるだけ、客観的な判断をするためにそれが必要で、その結果として、真実が見えるようになるのだと思います。見えないのは、自分自身でそれが出来ていないのだろうとも感じています。 


2015年7月22日水曜日

研究用資料を製本して、本棚もスッキリ!

郷土研究をするのに、色々とコピーを取る事が多く、本棚の多くの面積(容積)を占めるようになってきています。
 私のように、限られた時代と人物を研究するだけでも多方面の資料をコピーする必要があるのですから、もっと広範に視点を持つ必要がある研究は相当な量になると思います。

資料としての書籍は、ある程度収まりが良いのですが、コピーしたものを整理して保存しておくのは、数が多くなると収まりも悪いし、見た目も悪いし、本棚上のインデックスとしての一覧性も悪く、何とかならないかと、長い間の悩みでした。

ところが最近、お手頃な値段で、コピー用紙束であっても1冊から製本をしていただける製本・印刷屋さんを見つけて、大助かり! ←どっかのテレビショッピングみたいですが...。

この長年の悩みが解消しつつあります。


(1)製本前の資料の状態

(2)「無線綴じ」で製本した状態 ※文字も本格印刷

(3)製本した資料の背の部分 ※紙がシッカリついて頑丈です

バインダーで留めていた頃は、見開きの部分がどうしても奥まってしまい、文字が読みづらい事もあったのですが、無線綴じ製本すると、あまり接合面が奥深く干渉しないので、難なく読めるようになりました。
 また、製本屋さんのプロの技で、ページを何度めくろうが、外れたりしなさそうな堅牢さです。やはりそういう専用のボンドがあるのでしょうね。
※実はこれが一番心配だったのですが、そんな心配は無用でした。頑丈です。

まあ、何と言っても、本棚に収まり、背の文字で一発視認ができるようになり、持ち運びも便利で、言うことなしです。本当に良い会社を見つけました。

ただいま、資料を鋭意、製本依頼中です。本棚もスッキリすると思うと、楽しみです。


追伸:ちょっと個人的には、将来的に論文集を出そうと思っているのですが、そういった事も対応してもらえるので、良い関係を作っておきたいと思っています。

【会社データ】
社名:株式会社大友出版印刷
所在地:〒544-0002 大阪市生野区小路3-11-9
URL:http://www.ohtomops.jp
連絡先:TEL(06)6751-2377
サービス内容:自費出版・自分史・ミニコミ誌・サークル誌・同人誌・卒業文集・学校新聞・各種テキスト・論文・各種パンフレット・ポスター・チラシ等
事業内容:製版業務・印刷業務・製本業務・版下業務
参考:製本についての同社公式説明ページ http://digital-work.co.jp/sassi/




2015年7月4日土曜日

信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について

私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。
 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。
 江戸時代でいうと「家老」と同等の立場のようで、官僚のような役割ももっていたようです。ただ、あらゆる点で中世は、江戸時代のように固定化した概念はあまりなく、その範囲も限定されたものでもなく、割と不規則だったように見えます。人物本位といったところがあると思います。
 その家老のような人物を4人選んだらしく、「四人衆(よにんしゅう)」と呼ばれる集団が、当主を補佐しています。そらからまた、この家老集団を出現させた需要として、池田信正が京都の中央政権に重く取り立てられ、同所に屋敷などを持つようになった事から、国元の政治を取り仕切る機関が必要になったからだと考えられます。

この四人衆時代の変遷があり、3期に分かれます。最後には内部分裂を起こし、池田家が解体となりますが、その最後まで中心的な役割を果たしていたのが池田紀伊守正秀です。
 以下に1期から3期までの四人衆の構成をご紹介します。

<第一期> (順不同)
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗山城守基好
 ・同苗十郎次郎正朝
当主と四人衆のイメージ画

<第二期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗周防守正詮
 ・同苗豊後守(正泰ヵ)

<第三期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・荒木信濃守村重

池田四人衆についての詳しくは「摂津池田四人衆の事」をご覧いただければと思いますが、この中心的な人物である池田紀伊守正秀については、生没年が不明です。私の守備範囲である年代の記録から判る範囲で、以下にご紹介します。
 ただ、没年については、1575年(天正3)以降、史料上に見られなくなりますので、その頃の可能性は高いと思います。この頃には随分と高齢だったとも想定されるため、その事も併せ考えると、没年の想定をこの頃に置くのも不自然では無いと思います。
 また近日に史料を上げて、詳しく正秀の行動をお知らせする事にしまして、ここではダイジェスト版でご紹介しようと思います。

◎池田家中政治の中心人物
当時の史料には「四人衆」との記述が多方面で現れる事から家政機関として、外部組織にも認知されていた事は確実です。
 そしてまた、その四人衆は「禁制」も多数発行しており、そこに4名の署名があって、正秀の名も見られます。それから『言継卿記』に、正秀が公家である山科言継の屋敷を訪ねて会談したりしており、外交の面でも広範囲に活動していたようです。
 池田家は、京都周辺の主要な重要都市に屋敷や拠点を持っていたいとようです。前記の京都を始め、和泉国の堺、摂津国平野にはあったようです。これは、正秀個人の所有なのか、池田家としての共同資産なのかわ分からないのですが、用件のある度にお寺などで宿泊するよりは、屋敷や拠点を持つことは便利ですし、重要です。その地域への出先機関ともなります。
 それからその他の地域でも、例えば、摂津国尼崎、同大坂、同冨田、同芥川城下、河内国飯森山城下など、大きな都市や軍事拠点には何らかの機関もあったと想定されます。本願寺宗が、各地に布教拠点を設けますが、これと同じような事は、宗教活動で無くても必要ですので、当時の通信事情を考えても、効率を考えればどうしても必要になって来ると思われます。
 
◎正秀の名前について
池田正秀の名前についてですが、中世と現代とでは社会的な慣習が異なります。個人は「家」を中心に活動し、生活しています。家は途切れずに続き、自分自身はその通過点であると考えているため、「生ききる」事に人生の価値を置いています。一方で、極まった時の「潔さ」という一面もあったと思います。どちらにしても、「後世」を意識しての価値観だと思います。
 さて、現代的に言うと、姓と名は、池田正秀です。しかし、その当時には社会的地位と現在の立場などが、名前の間に入ってきます。歌舞伎役者や落語家などの伝統芸能では、こういった習慣がまだ残っていますね。
 正秀は「紀伊守」という官途を名乗る家系だったようで、その官途を名乗ります。また、紀伊守を名乗る前段階の名前もあったりして、その時々の年齢や事情によって変わっていきますが、諱(いみな)はあまり変わりません。
 それから、跡継ぎが育ち、家の代表者を嫡男に譲る時が来れば、後見役となって入道(仏門に入るなど)となり、入道号を名乗ります。多分、「正行」は、正秀の嫡男で跡継ぎです。彼は父と同じく紀伊守を名乗っています。また、跡継ぎの事だけでは無く、何らかの理由で代表を退く場合にも入道となり、浮世から離れます。
 正秀の場合の入道号は「清貧斎」です。読みは多分、「せいひん」だと思います。「せいとん」という読み仮名を『言継卿記』に1箇所だけ書き込んであるのですが、せいとんの意味が分かりません。誤記ではないかとも思います。
 当時の史料を見ると「池田紀伊守入道」とあり、これは正秀を指します。時代によっては、同じ名乗りを記録していますが、その場合には諱(いみな)が重要な判断基準となります。
 それから、茶道や連歌に通じる場合、「斎号」というものを名乗ることがあります。正秀はその両方に秀でていた事から斎号も持っていたようで、「一狐」とも署名しています。これの意味はわからないのですが、狐(きつね)は、中国の伝説にも登場する妖怪だったり、イナリのような、神格化された信仰の要素など、日本には古くから身近な動物でした。正秀はそれらの要素の何かに注目して、斎号を取ったのだろうと思われます。
 ちなみに、正秀がいつ頃から入道号を名乗ったかというと、この長正が無くなった永禄6年初頭頃からでは無いかと考えています。対立はしましたが、当主長正は池田家のためによく働き、長正が亡くなる頃は、正秀が長正に心を寄せていて、その死亡を悼んだのではないかと思います。
 長正が死亡した直後と考えられる、永禄6年らしい2月27日付けの摂津国多田院僧衆へ宛てた音信では、勝正の書状に添えて四人衆が同内容の書状を発行しています。これに正秀は清貧斎と署名しています。

◎文化人としての活動
正秀は、連歌会にも出座し、多くの歌を残しています。織田信長が京都で政権を始動させる前、三好長慶がその座にありましたが、長慶は連歌を愛好しており、それらの歌会にも度々呼ばれています。
 一方で茶道にも通じ、様々な名物茶器も所有して、「清貧釜(せいひんがま)」など、彼の名を冠する茶道具もありました。堺商人の天王寺屋宗及などが記した茶席・茶道に関する史料『茶道古典全集』には、正秀の名が頻出しています。
 
◎武士・武人として
正秀など四人衆は、当主信正から勝正の代まで少なくとも3代に関わる活動をしていますので、その間に数多くの戦場を経験しています。その経験から後年には、戦場でも老練な作戦立案や目利きができたようです。
 『信長公記』によると、1569年(永禄12)正月の京都本圀寺・桂川合戦での機転の利いた手配りに正秀を褒めたと記述されています。これは池田衆の名代としての事だったのかもしれませんが、特記事項として取り上げられています。
 その2年後、1571年(元亀2)8月28日、今の茨木市で行われた大合戦「白井河原合戦」では、非常によく練られた作戦を成功させ、不利だった状況を見事に挽回しています。この時は三人衆時代で、その中心は正秀だったと見られます。

◎家中での発言力と求心力
1548年(天文17)5月6日、当主信正が、管領細川晴元から切腹を突然に命じられ、池田家中が混乱します。その時、四人衆が暫定的に当主の代行的役割を果たしますが、その時も家中の対立があって、暫く当主の一本化ができずにいました。その一方の当主を擁立していたのが四人衆でしたが、その四人衆が推す人物が病気などで死亡してしまい、結局は長正を当主にする事で決着します。
 四人衆は、当主格と対立もでき、「家」としての意思決定もできる機関であった事が、それを見てもわかります。
 当主の並存期間には、四人衆が独自に領内へ法度(禁制的なもの)を公布し、前当主信正に代わる、若しくは、同等の機関である事を公言しています。そこには四人衆を構成する正秀など4名の署名があり、地域社会に対する公権力を発動しています。

◎最期には幕臣に取り立てられる
数々の経験から、1573年(元亀4)初頭には、将軍義昭の近臣として、幕臣として取り立てられています。この頃には池田三人衆も分裂し、池田一族は幕府へ加担。対する荒木村重は小田信長へ加担して、それぞれの道を歩みます。
 皮肉な事に、両者は両陣営から重く取り立てられ、村重も将軍義昭方との交渉役として活動する事となります。実際に顔を合わす事もあったのかも知れません。
 この京都の中央政権内での将軍義昭と織田信長の分裂という極限状態で、両陣営から池田衆の取り組みが盛んに行われていた事が窺え、それは如何に池田家が地域ブランドを持っていたかを示す事実でもあります。
 その事を知る当時の記述があります。イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記した報告書『耶蘇会士日本通信』には、内藤如安(丹波国人)の都に着きたる日(3月12日)、池田殿兵士2,000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の来着に依り、都は少しく沈静せり。、とあります。
 これを率いる事ができたのはやはり、池田正秀を抜きにしては不可能で、池田衆が動いた事の京都市中の反応も、その当時の実力に相対するものだったと考えて、間違いは無いと思います。




2015年3月17日火曜日

戦国時代の影と闇(はじめに)

戦国時代とは、応仁の乱から徳川幕府の樹立で、争乱が一応沈静化するまでの期間を捉えてそう呼ばれています。
 基本的には話し合いで問題を解決をしようとはしますが、武力での解決も合法化させていた時代が戦国時代です。殺傷は日常的で、生きることは戦いでした。弱い者は生きていけません。
 現代と比べると野蛮で、危険な事も日常的に溢れていました。やはり、今の方が何においても優れており、平和で安全です。私は懐古主義でもなく、戦国時代好きでもありません。社会の歴史の発展を見る機会になればと、ちょっとコラムを考えてみました。過去を知り、今の社会の意味を実感する事にもつながればと思います。

(1)病気に苦しむ人々
(2)喧嘩から殺し合いになる事も日常的
(3)人質が串刺しになる時代
(4)海岸に生きたまま捨てられる赤ん坊
(5)海賊・盗賊に追いかけられる人々
(6)個人は組織に所属しなければ生きられない時代
(7)度々ある大火
(8)無政府状態となる争乱地域



2015年3月16日月曜日

キリシタンと摂津池田家(はじめに)

ポルトガル船が日本へ辿り着き、鉄砲の伝来となったとされる年が1543年。続いてキリスト教が日本へ上陸したとされる年が1549年。これらの経緯は学校でも教わり、日本人の多くが知るところです。しかし、その細かな地域との関わりまでは、知らない人が多いと思います。
 キリスト教伝道師は、地方での布教よりも、日本の首都での布教と地位の向上を企図し、京都とその周辺、堺などに拠点を設け、積極的に活動します。その為、年々京都とその周辺で信徒も増えていきます。その活動について、宣教師により克明に記録され、その中には池田氏についても記述が見られます。
 池田のヒト・モノ・コトとキリスト教について、以下の項目毎にご紹介してみたいと思います。

(1)摂津国余野殿の妻マリヤとその娘(高山)ジュスタ
(2)北摂地域とキリシタン
(3)荒木村重とキリスト教
(4)池田の都市とキリスト教



2015年3月15日日曜日

池田教正が関係していた可能性のある永禄10年2月の池田家内訌(はじめに)

池田丹後守教正は、「正」を持つその諱(いみな)、活動地域からして、摂津池田家出身の武将であろうとする説が有力なのですが、今のところ史料上の決め手が無く、結論が出ないまま、半ば放置状態です。
 私も個人的には、それらの説を概ね受け入れてはいますが、断定できる史料を見つけるに至っていません。1528年(大永8・享禄元)から1579年(天正7)までについて、私がこれまで見てきた中で池田教正に関する素材を集め、一旦整理をし、研究発展の今後に期待しつつ、多くのご意見を受けたいと思います。

(1)永禄10年2月の池田家内訌を見る
(2)三好義継・松永久秀の重臣だった池田教正
(3)キリシタンとしての池田教正
(4)茶の湯の記録に登場する池田教正
(5)荒木村重と池田教正
(6)河内国若江三人衆と池田教正



2015年3月14日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(備考:『荒尾市荒木家文書』天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状)

この史料については、写真があるので、許可や環境が整えば公開したいとも思っている。しかし、今のところ、文字のみをご覧頂く事にする。
 史料について、発表時の会報『村重』創刊号でも、若干の考証がされている。加えて、個人的にも専門家に聞いてみたが、「正文ではない」旨の回答だった。
 史料についての筆者の考えは論文にして述べた。もう少し補足するとすれば、この文書を受け継いだ人々の誰かが、重要な文書であるために、できるだけ復元しておこうと、朱印部分などを加えたりしたが故に、全体的な価値や判断を狂わせるような自体にせしめたのではないかと考えたりもした。

痕跡も無いものを作る事は困難だと思われる。何らかの端緒があって、また、そのものがあって、現存のカタチになっている事は間違いないと思う。それに、この一点だけが伝わっているのでは無く、村重に関する史料が数点(会報に掲載されているのは4点)、荒木家に伝わっているのである。

くどいようだが、筆者はこの史料の価値は、全く無いとは言えないと考えている。

以下、天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状の翻刻。

今度其の元忠節の事に依り、摂津国江(与?)河内之中相添え、都合四拾万石宛行われ候条、以後忠勤抽んずべく候也。

天正三年二月 (信長印)
    荒木摂津守殿








2015年3月13日金曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:おわりに)

天正7年10月3日付けのパードレ・ジョアン・フランシスコ書翰に、「其の(織田信長)臣下の一人にして二国の領主(摂津・河内を領せる荒木村重)たる者をして彼に叛起し数年来攻囲せる敵方(石山本願寺)に投ぜしめたり。」とある *20。この記述は、当時の状況を伝えるものであったのだろうと思われる。
 天正3年2月当時、信長が「摂津・河内」という重要地域の一職知行を村重に約した意図は、それによる京都(政権)の安定と大坂本願寺への布石として期待しためと思われる。織田政権の基礎作りにおいて、土着性を持つ村重に対し、摂津国に加えて河内(半)国をも任せたのは、特別な理由があった。
 それは信長が、複雑な政治情勢を考慮して、元々基盤のない畿内で分国を持つ事に慎重だったのではないかともされており、摂津国大坂に本拠を置く本願寺宗と敵対するについては、早急に在地勢力を取り込んで体制作りを行う必要があったためと考えられる。
 しかしながら、荒尾市荒木家文書の内容の問題としては、天正3年11月頃から村重は「摂津守」を公(おおやけ)に名乗るが、それ以前に信長が、公文書に摂津守を明記するかどうかという点がある。
 ただ、これまでに述べたように、織田政権の領国統治概念と当時の状況から考えると、有望で実質的な一職者である村重に対する、正式な(若しくは、新たな加増分の支配者として)一職知行契約の提示と考えるならば、時期的にも矛盾は無いように思われる。実際にこういった形の一職提示は、浦上宗景・三村元親 *21・播磨国守護系赤松氏などへの対応で多く見られる。
 先にも述べたように、天正3年11月には確実に、村重は自ら摂津守を公に名乗っているが、それは信長からの条件を満たした事で承認され、公的に摂津守を叙任した背景があったからなのかもしれない。
 何れにしても村重のその行動を支えたのは、地域内の一職契約と守護的裏付けがあったためと考えられる *22。また、然るべき時期に契約が提示された事は、村重の織田政権に対する、将来への基礎的な信頼関係構築ともなり得たであろう。

拙いながらも筆者が述べたように、文書自体の真偽は別としても、荒尾市荒木家文書については、それを発行するに至る、当時の政治環境が整っていように思えるのである。学界での研究論文の一部ではあるが、それらに照らしても、同文書(史料)は、公的な文書として成立する背景が全く有り得ないとは言い切れず、その可能性について筆者は、再び多角的な検証を行っても良いのではないかと考えるのである。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(20)八木哲浩編『荒木村重史料』伊丹資料叢書四(66頁)。
(21)「織田信長が八月五日付けで三村元親へ宛てた音信」『黄微古簡集』岡山県地方史研究連絡協議会。
(22)前掲註(6)、「三 一職支配=一円知行の本質」(補論)。







2015年3月12日木曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:二 村重の河内国との関係)

摂津・河内両国は、直接的に京都と接している事もあり、様々な面で非常に重要である。この点でも織田政権下では「摂河」という一体化した地域として促えられる事 *16も多々あった。
 永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山昭高が守護として領有していた。
 その後、将軍義昭と信長が争う中で三好氏は滅び、その重臣であった池田教正など若江三人衆といわれる人々が信長に従って、その支配を引き継いだ。しかし、この集団は地域の代表的人々であり、統率するというには身分や効率性、主導性に劣っていたように見える。
 こういった当時の状況もふまえ、荒木村重の人物的素要と個人的構想は、信長の目的に沿い、摂津国一職に加え、河内国の中・北部、則ち三好氏の支配地も信長から任された可能性があったように思われる。それについての要素がいくつか見出せる。
 信長は元亀元年から大坂本願寺に対峙するにあたり、その伏線上としても、自らの政権(構想)での直接管理が有利と考えると、キリスト教の布教について積極的に許可し、その動きの中で村重も、その領内において、その方針通りに追認する。
 河内国には元々、飯盛山城下を中心としてキリスト教徒の活動拠点が多く、こういった経緯も視野に入れて、同国内の本願寺宗への懐柔策ともしていたらしい。織田方が大坂本願寺を完全包囲するには、河内国の掌握が不可欠であった。
 それからまた、年記未詳4月6日付けで村重が、播磨国人らしき原右京進なる人物へ音信した中に、「安見」という名の人物が村重の使者として現れる *17。安見といえば思いつくのが、河内国北部の有力国人であり、同国で畠山氏が守護であった時代に側近を務めた一族である。
 その一致は現時点で確定的ではないが、村重と安見某が同時に史料上で確認できる事は、偶然とは考えられない。また、安見新七郎なる人物が、同地域の鋳物師集団も掌握している *18。河内鋳物師は全国的に知られた職人である。
 一方、天正2年4月11日付けで池田教正が、村重とも関係があるらしい栗山佐渡守の知行について、沙汰状を発行している *19
 このように村重の河内(半)国領有を想像させる関連要素は少なく無く、また、織田政権の当時の状況からも全く不自然とは考えられないのである。


【註】
(16)「織田信長が八月一七日付で長岡(細川)藤孝へ宛てた音信」等。『新修 大阪市史』第五巻(182頁)。
(17)「荒木村重が四月六日付で播磨国人らしき原右京進某へ宛てた音信」『小野市史』第四巻 (380頁)。
(18)「長雲軒妙相が安見新七郎宿所へ宛てた音信」『中世鋳物師史料』財団法人法政大学出版局(171頁)。
(19)『尼崎市史』第四巻 (297頁)。