2020年11月21日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十二回「反撃の二百挺(ちょう)」2020.11.15 放送分です。

 

 ◎概要 -----------
今回の時間的流れは、1570年(元亀元年)5月から9月下旬頃まででした。越前国の朝倉氏攻めから戻り、反幕府連合が具現化したところを描いていました。
 さて、大河ドラマも、新型コロナの想定外があるとはいえ、番組内容に随分と批判が多くなっているようですね。将軍のデートシーンとか、薬屋の日常とか、旅芸人の身の上話などなど、主人公と関係の無いところに時間を割き過ぎていることに、不満を持っている人が多いようですね。それよりも、本能寺の変を経て、天王山の戦いまで描く時間があるのか?と心配する声が出ています。私もそう思います。結局、明智光秀の人物像が見えてこないのではないかと思います。

その事は脇に置いて、いつものようにドラマの隙間を楽しみましょう。

このドラマ中に描かれていた当時の時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。家中の経済的・労務的疲弊が表層化し、議論が収斂せずに感情的になります。闘争に発展してしまい、当主勝正の側近2名が殺害され、勝正は城を出ます。
 
池田家は元亀元年6月以降、一時的に三好三人衆方に復帰します。元亀年間は4年の時間があるのですが、摂津池田家も将軍義昭の中央政府も七転八倒の苦悩を味わいます。そして遂に、どちらも組織崩壊となって、新たな時代を迎えるのです。
 荒木村重、中川清秀、高山右近は、池田家中にあって、この流れの中で台頭し、荒木村重は遂に、摂津国及び河内国北半分を任されるまでの大名に急成長するのです。

今回は、以下の要素で解説します。

◎今井宗久、筒井順慶


今井宗久については、これまでにもお伝えしていますが、今井氏は奈良の今井町出身であることから今井を名乗りました。それ故に、奈良の勢力とは結びつきが強く、もちろんそれは、公私ともの付き合いです。
 今回、奈良の人である筒井順慶が登場しました。見ての通り、坊主ではありますが、代々興福寺に所属する家でした。奈良だけは守護が置かれない、幕府権力の及びにくい地域で、興福寺がそれを司っていました。奈良だけは通念が違い、一般的な国の「国人(こくじん/こくにん)」ではなく、「国民(くにたみ)」と呼びました。
 お坊さんも色々あって、学問に長けた人、力のある人、商才のある人、医学、技術などなど、宗教といえども、一つの国のように機能していましたので、自衛手段も持たなくてはなりません。
 長い時間の中で、筒井氏は武士に近い職種になった人々で、こういった人々は他にも多くあり、また、興福寺に限らず、比叡山などの大きな寺社ではそういった組織がありました。奈良では特に、そういった人々を衆徒(しゅと)と呼んだようです。

◎茶会
今井宗久が筒井順慶を明智光秀に引き合わせるため、茶会に誘います。茶とは、喫茶ですが、これは鎌倉時代に健康維持のために、薬と同じような感覚で日本に伝来したようです。はじめは特に、寺での修業の一環で、喫茶を行っていたようですが、それが一般的になっていきました。
 この頃には、茶会と言っても茶だけを飲むのではなく、娯楽的な面もありました。食事、飲酒、囲碁・将棋などなどを行っています。普通の食事とは少し区別があったようですが、茶道のような、形式的な作法は発展過程であって、今のように固定した概念はなかったようです。村田珠光という奈良の人が、「わび茶」の創始者と伝わっており、権威化したのは千利休ですね。
 池田家でも、池田紀伊守正秀という人物が、茶道や和歌に通じ、名物茶器も多数所有し、松永久秀もそうでした。後に荒木村重も利休七哲と言われた数寄者に数えられ、池田家中にも当時の流行を心得る人々がありました。池田市域では、豊臣秀吉が久安寺で大茶会を催したと伝えられています。

◎鉄砲
堺市役所に展示してある鉄砲

1543年、鉄砲は種子島にポルトガルから伝わったとされています。このシーンの時代設定は1570年ですから、鉄砲伝来とされる年から37年も経過しています。現在よりもいくら発達と伝播が遅いと言っても、この当時既に日本国内では、各地で鉄砲が生産されはじめており、特に畿内(近畿)地域では、生産・運用共に先進地域でした。
 今も当時も、経済活動を元にした生活をしていますので、売れる商品は作り、より良く発展させます。この鉄砲の有用性、また、守るに長けた武器として需要はうなぎ登りでした。発足当初でもあり、劣勢を自覚していた将軍義昭・織田信長政権は、この鉄砲の有効活用に全力を上げていました。
 今井宗久は幕府の御用商人として、この鉄砲の流通確保・生産を一手に任されており、この当時は、生産効率を上げるために生産地の集約を進めていました。堺の近郊にその場所を求めていたのですが、そこに池田家の権益がありました。今井宗久は、これらを幕府に返上せよと池田家に迫りますが、当主の池田勝正は、それらに正当性がない事からそれを受け入れませんでした。この用件の窓口になっていたのが、荒木村重でもありました。
 その場所は堺五個荘といわれる地域で、今も堺市に五個荘というところがあります。その周辺に鉄砲工場を集約しようとしていました。
 また一方で、摂津池田家も多くの鉄砲を所有していたとみられ、翌年の白井河原合戦では、3000の兵の内に300挺の鉄砲を配備していました。だいたい、一割ですね。これは、攻める作戦でしたので、護る場合とは、配分が違うかもしれません。また、これは主力部隊のみの数ですので、守備する地域もあるわけで、当然そこにも必要になります。だいたい、鉄砲は兵の構成の一割と考えても300〜500は保有していたと思われます。

◎三好三人衆と池田家内訌
このドラマ中に描かれていた時期、摂津池田家では、大変なことが起きていました。家中騒動です。
 将軍義昭政権下で、摂津守護職を任され、歴代最高の地位を得たのですが、役務が重く、経済的にも疲弊し始めていました。連続する戦争への出兵、権利の返上などで、急激な環境の変化に池田家中は耐えられなくなっていたようです。そこに三好三人衆方への復帰要望が高まりを見せていたとみられます。近衛前久の動きもあったと考えられます。
 池田勝正は、忠実に将軍義昭政権を支える考えで行動していたのでしょう。しかしそれに異議を唱える家中の状況がありました。姉川合戦の直前、遂に池田家中では議論が収斂されず、感情的な闘争へと発展。四人衆と呼ばれた家老の内、2名が殺害されて、池田勝正は池田城を出ます。その後すぐ、三好三人衆の内、三好長逸と石成友通が同城に入ったとの噂が立っています。その後、一時的に池田家は三好三人衆方として行動します。この時、革新的な家政体制も導入し、三好三人衆に倣った、当主を置かない、合議体制を導入していました。また、集団(三名による)主導体制とみて良いと思います。


◎姉川合戦
姉川古戦場遠景

シーンでは、合戦図で終わりましたね。池田家にとっては、これにも出陣を予定していました。当主の勝正は、京都の屋敷でその調整と準備を行っていたようです。ところが、本国の池田での様子がおかしいことから、勝正が国元に戻ったところで、議論紛糾し、内訌に発展してしまいます。これはどうも、6月18日頃からのことで、19日の夜になって意見が激しく衝突し、重臣2名が殺害され、勝正は夜中に城を出たようです。小姓両人、小者両人、観世三郎元久(観世流猿楽師七世の大夫の家筋父の諱は元忠。)を伴って、池田城を出たとあります。
 勝正は、この紛糾の間にも将軍義昭へ状況報告を行っており、ついに破談となった後の20日には、一度、将軍に状況報告を自ら行っているようです。
 この事態を受け、将軍は姉川合戦への出陣を断念し、諸将へ出陣延期を伝えています。勝正が途中経過として随時の報告を行っていた間も、出陣を諦めておらず、延期の下知を二度も行っています。希望を捨てず、姉川合戦の想定日ギリギリまで策を講じていましたが、遂に、その前日に出陣中止を公布します。将軍義昭は是非とも出陣することを考えていたようです。将軍の出陣は、後巻き又は、後詰めといわれる、重要な戦術的意味と、将軍自らの出陣という戦略的な意味があり、これができなくなったことで、織田信長にとっては戦いを有利に進められない苦境に立たされたのです。これは、外聞も直ぐに状況を察知します。生まれて間もない幕府は、弱いのではないかという憶測にも繋がりました。


◎三好三人衆など反幕府(将軍義昭)勢の蜂起
ドラマでは、幕府政所のトップ摂津晴門が、反織田信長連合のまとめ役のようになっていますが、これを行っていたのは、京都から落ち、丹波国、後に大坂本願寺に身を寄せていた近衛前久でした。この実態は橋本政信氏により素晴らしい論文が出され、私はその説を支持しています。
 さて、池田家の内訌や、近江国守護六角氏の動きなどの動きから、三好三人衆を中心とした軍事的策動があることは、織田信長も見通していました。浅井氏の政権離叛からそれは察知された事です。越前朝倉攻めの中でそれが判明すると、急遽京都に戻って、10日程過ごします。その間、各地の情報収集を行い、大坂本願寺の動きも警戒していました。しかし、状況からして、性急な動きは無いと見て、姉川での合戦を以て、決戦を行う方針を打ち出したようです。この一戦は、大局から見て必ず勝たなければならない戦でしたが、信長はその目的を果たします。これが負け戦であれば、政局は大きく変わっていたでしょう。前哨戦の六角も撃破し、軍威は保つ事ができました。
 しかし、池田家内訌が反政府の烽火となり、この後、三好三人衆の大挙攻勢、本願寺勢の武力蜂起、筒井順慶の奈良での攻勢などが一斉に行われ、幕府方は窮地に立たされます。
 池田勝正は終始、幕府守護職の職責を全うし、若しくは、それにしがみつき、随時の報告を行っていたようです。一旦将軍に状況報告をした後、事態の収拾も兼ねた状況把握のため、要所を巡っていたようです。6月26日、河内国半国守護の三好義継と共に京都へ入り、将軍と面会しています。勝正は、味方の糾合と残存兵力を把握する動きも行っていたと見られます。
 ドラマでは、海老江の陣が取り上げられていましたが、天満森から海老江へ陣を移していたのですが、池田勝正もこの陣におり、一定の役割りを果たしていました。


◎比叡山での対峙

西本宮大門

ドラマの描き方は、ちょっと問題が起きるのではないかと心配になるところもありますね。実際は、比叡山に組織的な武力闘争をする意志があったかどうかは疑問視されていて、発掘結果からも、これまでに言われていたように、大がかりな焼き打ちは行われていない事がわかっています。
 戦国時代には、戦争などで不利になった側が逃げ込む場としての存在が明らかになっています。現代感覚で言うと、「夫婦げんかの時の駆け込み寺」みたいな要素(←ちょっと昭和感覚)があります。基本的に宗教というのは、精神のよりどころであり、叡智の拠点であって、そういう在家のゴタゴタとは別の次元の領域でした。今の感覚とは少し違います。
 社会としての法律や警察などの環境も違いますから、もちろん自衛しなくてはなりません。消防も医療も、何もかも。ですから、今とは違う多少の荒っぽさはあります。しかし、それらは、相当な理由がなければ行為としては発生しないのです。法治はあり、無法ではありませんでした。
 朝倉・浅井方は、比叡山の領域へ、領主が意図せず逃げ込んだのが実情で、これに対して比叡山が断固とした態度を取らなかったところに誤解が生まれたのでしょう。それは、経済関係です。これは、比叡山の経済関係に恩恵を受けた地域に集中し、その付近で曖昧な行動があったために、混乱させました。
 織田信長は逃げ込んだ朝倉・浅井方に対して、武士ならば「そこに隠れずに堂々と出てきて勝負しろ」と相手に問いかけています。また、それまでざわついていた比叡山の麓は、織田信長の出陣の報が伝わると、静かになったと記されています。それ程、織田信長は、一目置かれる社会的認識を得ていたと言えます。
 比叡山は京都を護り、天皇からも血をもらった門跡寺院です。それ故に、戦国時代と言えども、無法な事はできません。天皇がそれを許しません。信長は、それらを見越して天皇の許し(勅許)を得た行動を終始行っていたのは、こういう窮地で大いに役だったのです。この歳の暮、幕府方は結局のところ戦局不利となり、天皇の勅命で各方面と和睦します。ドラマでは個別の和睦となっていますが、実際は、いくつかの局面で天皇の勅命によって和睦に至っています。

 

<時系列>
1570年(永禄13・元亀元)------------

5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日  阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
6月18日 摂津池田城内で内訌が起こる
6月18日 将軍義昭側近細川藤孝等、畿内御家人中へ宛てて音信
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
6月20日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
6月26日 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に再び面会
6月26日 三好三人衆方三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
6月28日 近江国姉川合戦
7月    三好三人衆方池田民部丞某、山城国大山崎惣中へ禁制を下す
7月6日  幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
8月10日 流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
8月13日 摂津守護伊丹忠親、三好三人衆・池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
8月25日 摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
8月27日 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
9月    三好三人衆方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す
9月13日 大坂本願寺、将軍義昭・織田方に対して軍事蜂起
9月23日 将軍義昭・織田勢、摂津国海老江から撤退
9月25日 織田信長、比叡山の麓へ陣を取る
11月5日 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国箕面寺に禁制を下す

 

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2020年11月10日火曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十一回「逃げよ信長」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

 

今回は、第三十一回「逃げよ信長」2020.11.8 放送分です。

 

◎概要 -----------
今回もまた結構、ファンタジー色の強い作りでした。大将があんなに取り乱すなんてあり得ないと思いませんか?はい、あり得ません。ダメ押しはこの辺にしておきます。しかも、信長は逃げたのではありません。

さて、今回も何と!池田勝正の登場です!!!名前だけ。

池田勝正の文字だけの登場シーン


事実はどうだったかというと、皆さまにしつこくお伝えしている通りですが、角度を変えて、簡潔にそれらの要素をお伝えしようと思います。
 明智光秀は幕府方奉公衆や軍監的立場、いわば将軍の名代的な立場で従軍していました。他にも一色藤長(御供衆)など多数の幕府衆が従軍し、軍事のみならず様々な役割りを果たしていました。
 池田勝正も摂津守護として幕府方の中核勢力として従軍していましたし、飛鳥井・日野氏等の公家も従軍していました。これは、官軍としての公戦であるためで、進軍中は錦の御旗、幕府の五三桐紋、足利の二つ引両紋などを掲げていたことでしょう。これに弓を引けば、幕府への敵対、及び朝廷への反逆となり、賊軍となります。この環境はその後も非常に有効で、比叡山勢力への強硬も朝廷権威があっためにできたことです。
 更に、この進軍中に改元を行い、朝廷との親密性も見せつけながら進みます。これにより、行軍中に参陣する勢力が増え、京都を発つ時には三万程の数でしたが、近江国高島郡に入る当たりでは五万の軍勢になっていました。

 信長は非常に用心深く、練りに練った作戦を立てます。ドラマのように慌てることも、取り乱すことも無かったことでしょう。全て想定通りに進んでいた筈です。まあ、部分的には想定外もあったと思います。

あ、そうそう、重要な要素を忘れるところでした。いわゆる「金ケ崎の退き口」と言われる撤退戦では、池田勝正が主力の軍勢でした。五万と言っても、地域の小さな勢力を集めたもので、まとまった勢力を出せるところは数える程しかありません。織田信長直属武将と言えども、一千程のクラスター集団です。
 池田家は三好一族でもあるため、使役的意味もあったのかもしれませんが、自発的に池田家は軍勢を出していたのでしょう。三千もの兵を率いた事は京都の人々を驚かせ、公卿山科言継の日記にも書き留められています。

この出陣で、浅井氏が噂通りに反逆したことを確認すると、信長は直ぐに撤退を決め、態勢を立て直すために京都へ戻りました。信長一行が少数であったのは、飛鳥井・日野氏などの公家衆を優先的に帰京させるためで、この退路も朽木谷へ入り、京都を目指します。朽木氏は将軍義輝、その先代義晴も居を構えた伝統的な幕府奉公衆で、万一の危険を避けるために近江国内を通らず、丹波寄りに道を取って、京都へ戻ります。安全な退路も確保済みでした。
 
無かった訳ではありませんが、実際には、朝倉・浅井軍による激しい追撃は不可能であったと言って良いでしょう朝倉方本体の一乗谷出陣は、4月27日です。大軍で追撃できるはずがありません。取られた城や拠点を取り戻す程度だったでしょう。ですので、朝倉・浅井軍は国吉城を超えて、若狭国に入ることはできませんでした本格的な軍事衝突は「姉川の合戦」です。

信長が用意周到であったこと、以下に要素を箇条書きにしてみます。

  • 二条城を完成させてから朝倉攻めを決行 
  • 禁裏の部分修復を終える
  • 進軍直前に新しい道を完成させ、京都への交通・軍勢の移動を想定
  • 進軍中に改元(朝廷からの信任がなければできない) 
  • 軍事行動に対して、朝廷からの勅許を受ける
  • 朝廷がこの軍事行動の武運を勅願寺社に命じる
  • 朝廷の旧領回復(首都経済正常化)
  • 控えの兵(二次攻撃用も)を京都や主要地域に配備
  • 水軍を編成し海上を封鎖
  • 退路の準備(朽木など幕府縁の確かな勢力の領内を通過)
  • 京都周辺の勢力から人質を取る
  • 公家衆による朝廷に弓を引く勢力の現認
  • 若狭国の朝倉家介入からの開放
  • 日本海側勢力への牽制(山名氏との縁切り)
  • 三好三人衆と本願寺の連携を予期

 

このような早さと周到さは、多分、前代未聞でしょう。天下を取るだけの能力と才能は十分に備えた人物でした。個人的に調べれば調べるほど、やはり凄い人物で、日本の歴史を変えるに相応しい人物だと感じています。

また、以下は越前朝倉氏攻めについての課題と結果、時系列を箇条書きにして、簡潔に表してみたいと思います。課題については、その対応としての軍事・政治行動が歴史です。相対的にご理解頂ければと思います。摂津池田家もこれらの流れの中で、役割りを受け持ち、行動していました。

【ご案内】
越前朝倉攻めについて、私は平成23年に池田郷土史学会で研究発表を行っており、その時のレジュメをご覧になれば、だいたいの概要はおかりいただけると思います。ご興味のある方は、PDFファイルをダウンロードいただければと思います。

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(39.6MB)
 ↑用紙サイズはA3です。

▼過去記事
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-


<課題>
・地域勢力に押領されている朝廷領の回復
・若狭国への朝倉氏による侵略・介入の停止
・近江国の敵味方の整理(浅井氏を含む)
・但馬・因幡・伯耆国を治める山名氏との縁切り
・首都交通の掌握
・朝廷経済の正常化
・幕府権威の威武
・足利義昭の私怨

<結果>
・浅井氏の幕府方からの離叛が判明
・朝廷に弓を引く勢力は賊軍である環境(大義名分)を作り上げた
・三好三人衆などの連合勢力が組織されていることが判明
・地域の旗色が鮮明となり、当面の課題の可視化に成功


<時系列>
1569年(永禄12)------------
4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
6月23日 近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ

1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
3月6日  織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
3月12日 近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
4月20日 織田信長幕府軍として、京都を出陣
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城、疋田城などを落とす
4月28日 幕府衆諏訪俊郷等、山城国人革島一宣へ兵船の徴用などについて音信
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
4月28日 正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
5月    幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
6月2日  阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信

<当時の史料>
5/4 幕府奉行衆一色藤長、丹波国人波多野秀信床下へ宛てて音信
※大日本史料10-4P358+401(武家雲箋)
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉明智十兵衛尉光秀池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。


この朝倉攻め直後、摂津池田家に三好三人衆方からの調略が行われ、内訌が発生します。これにより、姉川の合戦で、織田・徳川連合軍は苦戦に陥ります。池田家内訌により、西近江地域への将軍出陣ができなくなって、後巻きという重要な役割りを果たせなくなったからです。この時も、幕府方の主力軍勢として出陣予定でした。これについては、また次回にお知らせします。

 

【次回のこと】
元亀に改元したものの、織田信長は七転八倒の苦しみを味わいます。反織田信長(幕府)包囲網が出来上がるためです。この動きの糸を引いていたのは、摂津晴門ではありません。公卿の近衛前久でした。晴門にそんな能力も権力もありません。実際、この数年後に将軍義昭により罷免されています。

 

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2020年11月7日土曜日

戦国時代の社会的身分

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

 

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、大河ドラマ「麒麟がくる」のはみ出し企画です。ちょっと文が長くなってしまいました。ご興味ある方は、お読み下さい。同時に、画像は説明資料ですので、ご理解の一助にご活用下さい。


今や時代劇はNHKだけしか、番組制作はできなくなりました。ある機会があり、大学を卒業したばかりの若者と話しをしていたら、「時代劇は見たことがありません」との答え。若干ショックでした。もう、そんな時代です。教えないのだから、そうなるのも当然です。これから先は、そのような時代が到来することを思い知った出来事でした。

さて、そんな昭和な、そんな時代劇を見て育った時代の方々に贈る、時代劇話しです。

テレビ時代劇であれ、映画であれ、その当時の日本人には、ミドルネームのような呼称があることに気付いている人も多いと思います。ど真ん中の話題では、明智十兵衛(尉)光秀です。この十兵衛は、正式には兵衛尉(ひょうえのじょう)という社会的身分を伴っています。  十は、オリジナルです。その家に伝わる系譜だったり、その人自身に冠するものです。例えば、三や五の数字、義や助などの漢字があります。ちなみに、助だと助兵衞になってしまうので、要注意です。余談ながら、柳生十兵衛もそうですね。
 今も歌舞伎役者とか、落語家などは、襲名制があり、相撲も階級があります。こういった伝統的な分野には今も見られますね。

もっと身近には、「職能給一覧表」という、毎月の給与の基準に、こういった制度や概念が今も社会秩序を支えています。

その他、遠山の金さんは、杉良太郎などが演じた人気番組でした。金さんとは、遠山金四郎景元のことで、江戸町奉行の名奉行として名を残している人物です。この人物の官名は「左衛門尉」でした。ドラマの中で、番組後半の法廷(白州)での登場シーンでは必ず、「遠山左衛門尉様のおな〜り〜」と声が発せられます。この人物も「尉」です。
 それから、池田勝正は、筑後守(ちくごのかみ)、荒木村重は、信濃守から摂津守へ官名を変えています。

このミドルネームみたいな、この官名(名乗り)、実は当時の社会ではとっても意味があるのです。日本人が、つい最近まで使っていた、社会の指標であったり、判断の基準にもしていたり、社会秩序であった制度です。今も皇室、宮内庁では使われています。
 この社会的身分により、天皇陛下や将軍、地域の殿様などといった、重要人物にどの距離まで近づけるかの基準にもなりますし、就ける職種も制限があったりします。官職表をご覧下さい。

官職表の縦には、一〜十位までの位階があり、五位以上が殿上人といって、屋敷の座に上がれます。それ以下は、廊下やその向こう側までしか近づけません。
 これに対し、横並びは、役職です。例えば、織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った頃、元は地方官(国司)である尾張守を名乗っていましたが、京都に上洛する途中で、「弾正忠(だんじょうちゅう / じょう)」という官位に名乗りを変更しています。これは今で言うところの、警察庁長官に相当します。

再度、官職表をご覧下さい。弾正台という役職には、正六位のところに大忠・小忠があり、小忠は六位の下です。位には上下あります。いずれにしても、六位は、あまり身分は高くありません。ですので、織田信長は、普通は天皇の近くに姿を晒すことすらできません。例外もあったでしょうが、基本的には、こういった環境は厳格に守られていました。ですので、後年、織田信長が社会的身分を急に上昇させるのは、そういった制度があったためです。

一方、筑後守、信濃守といった国司職の名乗りです。国割り図をご覧下さい。江戸時代まで、日本は合衆国制的な仕組みで国が成り立っていました。国は66ヶ国ありました。その国にそれぞれ国司がおり、これを束ねるの長官が「守(かみ)」で、その副官が「介(すけ)」です。江戸時代は、少し習慣が変わりますが、室町時代には、そういった倣いになっていました。
 国司の種類は、大国・上国・中国・小国と分かれており、小国の最高位は従(じゅ)六位、中国は正六位、上国は従五位下、大国は従五位でした。国司である限り、最高位は従五位までで、辛うじて、廊下より上での立ち位置です。

では、池田勝正はどうでしょう。筑後守です。筑後は、上国ですので、従五位下です。信濃守も同じですね。ですので、この官名をもつ両者は、対等に話しができます。
 はたまた、三淵藤英はどうでしょうか。藤英は大和守で、従五位、細川藤孝は兵部大輔(ひょうぶのたいふ)で、正五位下で、三淵よりちょっと上位です。

そしてこれらは、適当に名乗っているわけではなく、天皇から許される位です。人事権でもあります。また、これは将軍が取り次いで申請します。当然ながら、これらは費用が発生し、同時に、その名乗りが相応しいのか、また、その官位に空きがあるのかを審査し、就任の可否が下されます。
 朝廷、幕府(将軍)にとっては、実際には、重要な収入源でもあったと同時に、権威でもありました。また、これらは受ける側にとって、地域政治や家中政治には有効的に機能していました。もちろん、「並み」や「相当」といった間隔で、公式とは言えなくても、それと看做される環境があって、名乗る事もあったようです。しかし、自称「課長」では、格好が悪いし、信用度も低いので、お金を積み、社会的貢献度を重ねて、多くの人が正式な官位を手に入れようとします。

ああ、明智光秀の「十兵衛尉」の解説を忘れていました。兵衛は「兵衛府」で、「尉」は、大尉と小尉がありますね。この役職には右と左があります。織田信長と同じく、大であっても最高位は従六位です。これは信長と同じ社会的地位です。
 後に光秀は「日向守」を名乗りますが、それでも「正六位下」です。ちょっとだけ、地位は上昇しました。同じ頃、羽柴秀吉は筑前守です。身分は「従五位下」です。秀吉は光秀よりもワンランク上です。

少し長くなりました。もし、ご興味のある方は、参考にして下さい。

 

国・県対照表
国・県対照表


国・県対照と五畿七道
国・県対照と五畿七道


官位相当表
官位相当表

 

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2020年11月2日月曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第三十回「朝倉義景を討て」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第三十回「朝倉義景を討て」2020.11.1放送分です。

 

◎概要 -----------
今回は、将軍のロマンスが描かれて、なんのこっちゃわからん話しになって、けっこう動揺しています。あと何回の放送分があるでしょうか。こんなに寄り道をしていて、間に合うでしょうか?というか、光秀の人物像を描くことはできるのでしょうか?このままでは、またコケる予感がします。
 それと、今回のストーリーは、ファンタジーレベルで、史実とは全く違います。最新の学説を採用して筋書きを書いたりする一節がある割りには、こんなことが起きたり、時代考証者を置いたりしている割りには、ロマンスに時間を割いたりと、この頃は何だか作者の想いがどこにあるのかわからなくなる時があります。

さて、今回のレポートですが、特に取り上げるところも無いので、越前朝倉攻めに要素をを絞って、皆さまにご紹介したいと思います。

越前朝倉攻めについて、私は平成23年に池田郷土史学会で研究発表を行っており、その時のレジュメをご覧になれば、だいたいの概要はおかりいただけると思います。ご興味のある方は、PDFファイルをダウンロードいただければと思います。

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(39.6MB)
 ↑用紙サイズはA3です。

また、同じ内容をネットでもご覧いただけるようにブログに記事をアップしています。こちらも併せてご覧下さい。以下、項目一覧です。

【摂津守護職として、将軍義昭・織田信長政権を支える】
 ◎池田衆の実力
 ◎諸役負担、軍事負担、一部の権利返
【浅井・朝倉攻め】
 ◎軍事行動の目的と池田家の役割
 ◎金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
【池田家内訌】
 ◎内訌の様子とその後の勝正の動き
 ◎三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き


 ▼過去記事
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-

越前朝倉攻めと池田勝正について、ちょっとだけ自分のコダワリをお伝えします。通説になっている、

  • 「戦は時の運!」みたいな、織田信長の勇猛、猪突猛進、無理強い。
  •  浅井長政の突然の裏切りからの近江国朽木(滋賀県高島市)を経由した京都への逃げ帰り。
  •  越前朝倉攻めと姉川合戦は、別々の戦い。


近江国清水山城主郭礎石建物復元図
織田信長などが陣を置いた
近江国清水山城主郭礎石建物復元図

これらの実際は、全部一つの要素・用途(作戦)であって、別々に考えるべきものではありませんでした。また、信長の行動は、非常に慎重で、用心深いため、練りに練られた行動計画を立てます。予定が狂えば、直ぐに修正案を出し、戦であれば、重要な戦いは、どんな手を使っても勝つために、自らが先頭に立って戦います。
 この重要な局面で、摂津池田家は大きな役割りを担っていました。また、劇中と違い、将軍義昭と幕府は、積極的に武威を示す行動を志向し、あらゆる手を尽くしていました。
 

しかしながら、無理を重ねた池田勝正の行動は家中の不和を招き、その動揺を察した三好三人衆方に、つけいる隙を与えてしまいました。結果的にこの不和から、家中は分裂、荒木村重が台頭しますが、それは決して狡猾な下剋上ではなく、乞われて家中の地位、ひいては、社会的地位を上昇させることになり、それも通説と史実は異なります。

これらの悲劇は、現代社会でも繰り返され、起きうる事です。組織と個人の対比の中で、組織を悪のように考える風潮がありますが、その組織に糧を得、組織に護られて日常を暮らしていることもまた、歴史から学ぶことができるように思います。組織は支えなければ、簡単に壊れます。そして、その組織が無くなった時、悲惨な将来が待っています。争いの絶えない、無限の荒廃です。それが戦国時代です。身を守ることが精一杯でした。

支えなければ、国も地域も、簡単に壊れます。現代で置き換えるなら、有名会社組織(政治組織でも可)をなぞるとそういう組織論は理解を得られるかもしれません。誰も支えなくなれば壊れます。

明日は、文化の日。日頃よく使う「文化」って、皆さんは、どのように解釈していますか?良い機会ですので、池田勝正を研究する内に、自分なりに見えてきた「文化」とは何かについて、ご紹介できたらと思います。近日に公開します。 

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2020年10月29日木曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十九回「摂津晴門の計略」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第二十九回「摂津晴門の計略」2020.10.25放送分です。



概要 -----------
今回は、陰謀渦巻く、ドロドロとした組織と人間関係を取り上げていました。個人的な感覚では、何だか間延びした構成で、何が言いたいのか分からない感じでした。太夫や駒、東庵の露出が多く、肝心の光秀が脇役のようになって、人物像を描くための流れが澱んでしまっていますね。実際に、ネットでは、そういった所の批判が出ています。
 さて、そういうヤッカミは脇に置き、いつものように劇中の要素を取り出して史実はどうであるか、池田家はどのような動きをしていたのかをご紹介します。


二条城の実態 -----------
劇中では、立派な重層天守がイメージ化されていましたね。また、格式に見合う調度品を寺社仏閣から徴発(半ば召し上げ)ていたような表現でしたが、これは概ね事実と異なるでしょう。実際は、多くの品が献上されていました。これらには、礼状と何らかの便宜が図られていました。献上する側は、これが目当てです。部分的にそのようになったものもあるかもしれません。播磨国龍野の赤松氏などは、娘を将軍の側へと送り出しています。
 しかし、物品を強奪すれば泥棒と同じ行動になり、その幕府は信用されなくなります。当時も今も同じで、法治を重視(今ほど厳密では無い)しています。法と慣習に沿って取り決めを行います。
 さて、二条城の実際は、40日の突貫工事でした。そのため、昼夜を問わない、多少の無理強いはありましたが、それは、これまでの幕府の権限と法による動員であって、奴隷労働ではありませんでした。賃金などの報酬は支払われます。また、義務としての使役もあり、それらを組み合わせて、折り合いをつけています。
 一方で、物理的な要素はというと、40日でできる範囲は限度があります。ですので、実際は土木工事部分が主で、調度品などは、追々取り揃えられましたので、40日で大坂城のような城が出来たのではありません。堀や塀などの防御設備、将軍の居所と政務空間など、当面必要な要素を優先して拵えてあり、実際は簡素なものでした。1月27日に着工して、4月14日に落成し、将軍義昭がここに入ります。この期間で、本当に重層の建物ができたと思いますか?
 一方、この御用普請も池田衆は動員されていたと考えられます。守護になった以上、将軍の公事(くじ:公的な事業)には参加しなければなりませんし、資金や労力の提供も義務化されていました。そして、将軍義昭が二条城に入った翌日の15日、京都妙覚寺にて池田衆など将軍義昭政権側(幕府)関係者、即ち池田氏などの守護が一同に集い、今後の事務の打ち合わせを行っています。


摂津晴門という人物 -----------
摂津晴門は室町幕府の官僚トップで、行政処理を代々任される家柄でもありました。鎌倉幕府の頃からそういった関係にあり、そのために公家などとも姻戚関係にあって、時を経るにつけ社会的地位と身分を高めていました。
 しかし、永らく室町幕府の政務トップは伊勢氏で、摂津氏はあまり活躍の場がありませんでした。第十三代将軍義輝の時代、政変があって、摂津晴門を起用。その流れから、劇中の晴門は、将軍義昭の政所トップとして再登用され、引き継き政務にあたることとなりました。
 しかし、実際には社会の激変に対応できず、任命権者の将軍義昭から数年後には義昭から罷免され、元の政所執政伊勢氏が返り咲きます。幕府政務の責任ある中心から永年離れていたこともあり、実力が不足していたのでしょう。
 幕府とは訴訟事や財政、管理業務、軍事など、様々な機構を持ち、今の総務大臣(総理大臣といってもよい)と同じような職務内容でした。

いわゆる、戦国大名とは、これに類する統治能力を持ち、地域の安定のための機構を持ちますので、幕府並みの官僚機構を持っていました。違うのは、規模だけです。武士に限らず、寺社仏閣、商人に至るまで、組織化するためには、こういった事務処理能力が必須で、これが無ければ組織は維持できませんでした。一方で、組織規模の大小は、この官僚機構の大きさと体制を持つかによりました。


明智光秀のオウリョウ -----------
劇中で、明智光秀と摂津晴門の対立シーンがありました。光秀が「東寺八幡宮領」をオウリョウしていると訴えがあった事で、行き違い、陰謀があったと言い争う場面です。これは実際にあったことですが、このオウリョウとは、現代の「横領」とは意味合いが違います。文字も違い「押領」と書きます。
 現代のオウリョウとは、人のものを盗る、明かな犯罪行為として、法的な規定もあります。しかし、この時代の「押領」とは、権利の衝突の意味合いがあり、よく見ると、経緯からして微妙な立ち位置による、相違的な要素が多くあります。これは「押妨」とも表され、権利を主張するものからすれば、両者とも「押妨」と評します。
 この「押領」については、細川藤孝、摂津晴門、三淵藤英、はたまた、織田信長まで、皆「押妨」で争いをしています。そして、池田勝正も、その一族の池田衆も皆、この「押領」で訴訟事を抱えていたのが実情で、当時はそれほど珍しいことではありませんでした。

劇中では、手元を移した時に書状が見えたのですが、多分「宝菩提院禅我書状案 」で、これは1570年8月10付けで出されたもので、東寺百合文書「ひ函175号文書」のような気が(日付は違いますが、内容は山城国下久世のことですし、ほぼ同じっぽいです。)します。これは、実際には劇中の時間軸よりも一年ほど後です。また、光秀は、他にも同種の訴訟事を持っていたようですが、その解決には数年罹っているものもあり、今の時代感覚の清廉潔白さとは、意味合いが違います。陰謀とか、ハメラレタとかの話しではありません。
 ちなみに、摂津守護となってからの池田勝正は、守護職の義務により、手持ちの領知、権利を返還させられています。これは詳しく見ると、当時の法治に照らしても、言いがかり的要素が強く、この部分で元三好派であった懲罰的扱いを受けていると考えています。この窓口は、御用商人である今井宗久に行わせている所から見ても、公権力で実行するには後ろめたさがあった行動を感じます。

【参考】東寺百合文書WEB:文書名・宝菩提院禅我書状案


近衛前久という人物 -----------
この人物は前回もご紹介しましたので、冒頭部分を引用しておきます。この時代の近衛家は、五摂家筆頭という名門の公家でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
 劇中、近衛前久が将軍義昭政権の復帰を懇願しているかのように描かれていましたが、史実は、同政権打倒の急先鋒で、そのために各地の勢力を糾合していました。また、織田信長も前久に将軍義昭政権の力になって欲しいと要請しており、劇中で描かれていることとは全く逆でした。脚本家はこの点も読み違えています。
 反織田信長連合体の中心にあったのは、社会的地位の高い近衛前久で、そうでなければ比叡山・本願寺勢力を連合させることなど、できるはずもありません。間もなく、将軍義昭と織田信長は袂を分かち、敵対関係となりますが、将軍義昭が反信長となったことから、今度は近衛前久とも接近することになります。


浅井長政を当主とした浅井家の行動 -----------
近江国北部で頭角を表した浅井家は、家格としては高くなく、なぜ大名家としての通説が定着したのか、業界でも疑問を投げかける人も少なくありません。これは、越前朝倉家と結びつきを深くしてからの経済的繁栄があるからだと考えられています。
 当時は、日本海が大陸との玄関となっていて、環日本海貿易が盛んに行われていました。そのため、現代とは真逆の日本海側の都市が繁栄しており、この地域から身を起こす大名が多くあったのはその為です。
 劇中でも度々登場する越前朝倉氏ですが、その拠点は一乗谷であり、その谷を中心に巨大な城郭都市を建設していました。その中に朝倉氏は屋敷を持ち、字として「浅井」が残っています。いわば、近江国人という考え方よりは、朝倉方の北近江勢力であったのが実情です。滋賀県北部は、南部と違って文化風土も違いますし、そういう流れは当時から培われたものです。
 一方で、この地域は浅井氏の前の時代は、多賀氏が一大勢力で、その名の通り多賀大社との繫がりを深くする家でしたが、時代の移り変わりと共に、浅井氏へ地域求心力が移っていきました。その種はやはり、今も昔も経済力です。
 そして、永禄12年(1569)6月に浅井氏が幕府方から離れたとの噂が流れます。これは、奈良興福寺の坊官(官僚)である二條宴乗の日記に記されています。奈良にもこの噂が伝わっていますので、当然、幕府や主要な人物の耳に届いていたことでしょう。将軍義昭は、奈良の興福寺出身ですので、当然将軍の耳にも情報は入っていたはずです。若狭国根来地域では「お水送り」の行事があり、奈良興福寺ではこれを受けて「お水取り」があります。こういった行事からも若狭国やその周辺に興福寺領があり、情報は直ぐに届きました。

ちなみに、この年、越前朝倉氏は、仮想敵を将軍義昭政権(幕府)と決しており、雪の溶けた4月以降には、金ケ崎城、木ノ芽峠、中河内、椿坂などに城を整備して、戦争の準備を始めていました。

 

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2020年10月24日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十八回「新しき幕府」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第二十八回「新しき幕府」2020.10.18放送分です。

◎概要
今回は、京都を手中に収めていた三好勢が推す将軍義栄方を退け、永禄11年(1568)秋に、足利義昭・織田信長が入京。義昭が将軍となります。このあたりから、越前朝倉義景を攻めることに決するあたりまでを描いていました。時間的には1568年後半から1570年あたりまでで、あまり時間は進めていません。
 この間は、摂津池田勝正は大活躍で、将軍義栄も将軍義昭も支えることができる、双方から頼られる勢力でした。何と大河ドラマ企画始まって以来59年にして、初めて池田勝正の名前が取り上げられました。

さて、この回の表題のように、将軍義輝系政権の正常化を目指し、ないないづくしの幕府復興のために邁進します。しかし、急造でもあったために、早くも思惑の違いも表層化しつつ、進める事になります。
 永年、実質的な中央政権機能を備えていた三好勢の影響力は、直ぐには排除できず、また、還瀬戸内海の繫がり(政治・経済的な)も未だに握られており、侮りがたい状況でした。摂津池田氏は、織田信長方との戦闘には負けたものの、将軍義昭・織田信長政権に重用されます。実際の史実は、敵からも味方からも頼られる、非常に大きな池田氏の存在でした。

◎足利義昭将軍就任
織田信長が足利義昭に供奉(ぐぶ)し、入京を果たします。ドラマでは、兜を脱いでの入京になっていますが、この部分は創作です。まあ、ドラマですので、流れを受け入れましょう。
 ドラマでは、この入洛戦の様子が地図を使って表現されていたのですが、摂津芥川あたりで終わったことになっていました。もう少し、西に進んで池田合戦を取り上げて欲しかったのですが、なぜかそこはカット。

さて、ドラマ中で、将軍職就任式のシーンがありましたが、これは10月22日に禁裏(御所)でその宣下が行われました。この時に、京都市中は厳戒態勢が敷かれており、池田勝正は「辻固め」役を担っています。
 その2日後、池田勝正は将軍となった義昭を訪ね、祝言を述べます。この折に、摂津守護職を任されたようです。通常これは一名に任されるものですが、同じ摂津国人の伊丹忠親、甲賀出身の武士で足利義昭の重臣であった和田惟政も同じく摂津守護を任されたことから、この三名をもって、いわゆる摂津三守護と通称されています。


◎六条本圀寺合戦
ドラマだけではわかりづらいのですが、三好勢は一時的に京都から退きはしましたが、各地にその勢いを残しており、泉州地域あたりで反撃拠点を持っていました。堺あたりでは、早くも軍事行動を整えていました。
 これらの動きは、随時に情報が伝わっており、突然ではありませんでした。知ってはいましたが、京都周辺の勢力は、新旧どちらの勢力に対して積極的になるべきか、躊躇いがあり行動できず、様子を見ていたというのが現実であり、その間隙を縫った三好方の行動でした。これは再び将軍を殺害するか、拉致する目的をもっていたと考えられています。
 堺を出た5,000程の三好勢は、生駒山の山裾などを通り、今の枚方市から淀のあたりを経由して、京都東福寺に陣取ります。そこで将軍山城を先ず落とし、京都市中にあった六条本圀寺に攻め込みます。この動きに合わせて、河内飯盛城、高槻城などでは、クーデターが起きています。

池田勝正もこれらの動きは掴んでおり、将軍救援の軍を集めて池田を発ちます。しかし、高槻城の入江氏が西国街道を塞いだために、大きく迂回して山中を行軍し、今の長岡京市へ出ます。池田・伊丹勢が西側から。三好義継(幕府方で松永久秀が擁立)が南から三好勢を攻める体制となり、合戦となります。細川藤孝はこの時はあまり軍事力を持たず、陣取りをしてもそれ程の脅威と言える数ではありませんでした。西側に居たのでしょう。
 しかし、この戦闘は激戦となり、細川藤孝・池田勝正は行方不明、三好義継は討死と京都へ伝わる程でした。
 結果的に、幕府方が勝利します。織田信長が1月10日に京都へ入りますが、この時には落ち着きを取り戻してもおり、その布陣が堅固であることから池田衆を褒めています。


◎二条城の建設
京都は永年の闘争で荒廃しており、将軍義輝の暗殺の折、その将軍御所などが焼亡していました。そのために、防衛施設がなく、寺社や民家などの民間施設しかありませんでした。そのため、比較的防御に適した施設として、六条本圀寺が将軍の居所に充てられていました。
 三好三人衆は、これがわかっていて、守りが手薄であるところを狙っていたことは確実です。なぜなら、将軍義栄が京都に入らなかった、入れなかったのは、同じ理由によるものだったからです。
 しかし、この両者の違いは、将軍の元々の役割りにこだわり、無理をしてでも京都に将軍が留まるべき事を実行しようとしたからです。それが、新たな幕府を喧伝し、信用力が増すからです。
 将軍の居所として、二条城の建設が必要と決し、1月27日から工事を着工します。元の武衛跡、即ち将軍義輝が起居した将軍邸の跡です。この工事には、摂津池田衆も動員されていたようです。守護は、こういった幕府の命令に従う義務があるからです。また、税の徴収、軍事動員にも義務が課せられています。ですので、社会的地位は上昇しましたが、経済的にも、使役義務的にも非常に過酷な環境下に身を置くことになりました。

それから、墓や石仏のことですが、これは無縁仏や放置、管理者のわからないものを利用していたようです。多分、それらは供養をし、魂を抜いたものを使い、無秩序に勝手に使ったものではないでしょう。この時代、戦場には僧と神主を連れて行き、神仏の力を借りる行いをしていました。
 現代のように重機も加工機械も、内燃機関による輸送も出来ない時代に、石材を確保することは非常に困難です。ですから、短期工事には、こういったことを発想したのでしょう。ただ、忌み嫌う習慣から、行動に移すことは少なかったようで、そういう意味では現代感覚に近いところがあったのでしょう。しかし、礼儀や作法を無視していた訳ではなく、ドラマ中にあったように、あえて、仏像を蹴ったり叩いたりするようなことはしなかった思います。
 実際に信長は、この幕府を運営するにあたり、世間の聞こえを非常に気にしていたようですから、あまり奇抜すぎることはできなかったのが実際の所で、その行動ひとつひとつに非常な気遣いがあったことは、事実です。ただ、必要なことは思い切ってやり、徹底していたことも事実です。その基になるのは、結果を出し、道をつけることでした。そういう意味では、混迷の世を牽引するに相応しい視点も持っていたと言えると思います。


◎幕府再興の動き
通常の将軍ご沙汰始めは、2月17日で、この前に色々な準備を行ってもいました。しかし、三好三人衆の反転攻勢があったことから、急遽、これに関わった反将軍義昭勢力を討伐することになり、尼崎や堺、兵庫、石清水八幡宮などを攻めました。その間に、京都の二条城建設は進められています。
 また、内政の対応も進めていました。徳政令を発布し、借金を棒引きする準備をしています。これは、三好三人衆方との経済的繫がりを断つために行うもので、受ける側は非常に恩恵がありますが、貸した側は大きな損害が出ますので、その摂政も行っていました。
 その他、公家旧領地の調査(押領されている土地の返還を目的とした)、税金徴収のための体制整備を行っています。

それに加えて、この間に、但馬・播磨国(第一次)攻め、第二次播磨国攻めを行って、大規模な出兵を行っています。
 池田勝正は、それらの殆どに加わります。また、堺周辺の権益の幕府への返還もあり、池田衆にとって、将軍義昭政権への加担は、過酷なものとなっていました。

 

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2020年10月21日水曜日

【快挙達成!!】第59回大河ドラマ『麒麟がくる』にて、池田勝正が登場しました! ※今は名前だけ

 快挙です!!凄いことが起こりました!大河ドラマにて池田勝正の名前が登場しました。摂津池田衆の呼称も入れると、二回もです。

 大河ドラマ59年の歴史に於いて、これは初めてのことと思います。多分、今後も何らかのカタチで取り上げられるでしょう。私も勝手に責任を感じ、今後とも池田勝正の全体像解明に向けて、更なる精進を重ねたいと思います。

 今後とも激励、叱咤のほど、どうぞ宜しくお願い致します。

 

なお、荒木村重については、登場必至です。何せ、荒木村重の息子、村次は、明智光秀の娘を娶っており、この関係からかなり深く描かれると思われます。配役もそれなりの人物が充てられるでしょう。それ故に、村重の出自は摂津池田家であるために、ここに繋ぐために池田勝正も流れを繋ぐためにストーリーが練られているでしょう。

 

兎に角、万歳!知名度が、ちょっとだけ上がりました!

 

 


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2020年10月3日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」放送前の先回り企画

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」2020.10.4放送分

大河ドラマ「麒麟がくる」勝手に予測、先回り企画です。この回は、タイトルと予告を見るにつけ、足利義昭を奉じた織田信長勢が上洛戦を勝利で終えて、入京。そこで一区切りになるのではないかと思います。

細かな事は脇に置き、上洛戦とその後、将軍義昭政権黎明期では、池田衆が大活躍しています。ドラマを愉しむための予備知識としてご活用いただくと、劇中の状況がより良く掴めると思いますので、その頃の出来事をご紹介しておきたいと思います。以下、池田衆の活躍する主要エピソードを抜き出して説明します。
 時間軸としては、上洛戦を行った永禄11年(1568)の秋から同13年3月までの、越前朝倉氏討伐の直前までの出来事です。

◎概要
織田信長は、足利義昭の将軍就任の願いに応じ、軍勢を大挙し京都へ向かいます。最終的にこの軍勢は五万程になったとされ、これ程の軍勢を迎え撃てる大名は、この当時はどこにもいなかったでしょう。
 織田信長の常套手段はいくつかあります。よく見ると、いつも同じ手です。また、信長は情報を非常に重視しており、不具合は直ぐに修正して、対応します。
 また、決して猪突猛進ではありません。非常に慎重で、いくつもの策を講じて事にあたります。準備が周到です。また、原理と理念を重視し、それをなんとしても守ろうとします。
 それは、この上洛戦でも発揮されます。信長は、足利義昭を奉じて美濃の岐阜を発ち京都へ向かいますが、その通路の情報を集めてました。また、戦いは稔りの秋と限っていたことでしょう。そのためには、世間を驚かせる軍容を調える必要があります。これらを準備し、一気に実行した戦いでした。決して弱い勢力ではなかった三好三人衆でしたが、戦の準備も調えることができず、一旦、撤退の策を選んだようです。

特に大きな反撃を受けることも無く進んだのですが、唯一、摂津の池田衆だけは数日間に及ぶ反撃を行い、一矢を報いています。しかし、池田勝正は降伏して上洛戦は終わります。
 足利義昭・織田信長は入京を果たし、間もなく、義昭は京都で将軍宣下を受けます。その後、室町幕府の立て直しに向けて、東奔西走、24時間の活動を強いて、休む間もなく活動します。池田衆は将軍義昭に登用され、守護格を任じられます。池田衆は大きな期待を寄せられ幕府再興に尽力します。

以下、要素毎に解説します。

 

<永禄11年>--------------------
◎春 足利義栄の将軍就任後

東大寺転害門に残る銃弾痕
東大寺転害門に残る銃弾痕
足利義栄が将軍となったのは、2月8日でした。元々は一体化していた三好方組織も、三好一族と松永久秀とに分かれ、争いが始まっていました。その争いの勝敗が決したと世間の認識が整い、将軍就任が認められました。ただ、三好方と松永方の戦いは続いており、松永の本拠であった奈良多聞山城が落ちたのは、足利義昭が上洛する直前まで持ちこたえていました。ですので、この間、三好方は主に奈良へは軍勢を入れ続けなければならず、別の変化に対応することは、余裕があるとはいえない状況でした。奈良市中では銃撃戦が毎日のようにあり、今の奈良公園のあたりは最前線の主戦場でした。今も古い建物には、この時の銃弾痕が残ります。


松永久秀は、劣勢に耐えつつ、織田信長と音信を行っており、足利義昭上洛の準備も同時に進めていました。また、将軍となった義栄はなかなか入京できず(9月には入洛)、摂津富田の普門寺から動けませんでした。京都には適当な居所が無いためでもありますが、しかし、本来は武門の棟梁は天皇を護る役目がありますので、これは一番重要な仕事ができていないことになります。
 それでも三好三人衆方は、主要人物を京都に入れ、幕府機構を何とか再開・維持しようと試みており、主要人物は頻繁に京都入りをしていました。そんな中で、池田紀伊守正秀という人物が、近衛前久邸を訪ねています。酒宴もあったと記録されています。池田家は京都に屋敷も持っていました。

日が経つにつれ、夏頃には足利義昭の入京の情報が入り始め、8月には三好方が近江守護の六角氏と対策協議を行っています。六角氏は将軍義栄を支持していた勢力でした。

◎秋 足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦
池田城跡公園
池田城跡公園
7月25日、足利義昭は美濃国の立政寺(りゅうしょうじ)に入り、ここで織田信長と対面します。この時にはもう、信長は全ての準備も終わり、スケジュールを説明するほどの最終段階だったでしょう。間もなく、信長は足利義昭を奉じて軍勢を出陣させ、翌月7日には、隣国近江の佐和山城に入っています。この時は、浅井長政もこの上洛戦に協力していますので、ここまでは安全に移動が可能でした。
 既に情報は入り、守護六角氏の本拠観音寺山城を攻める時には、内部分裂状態にあった、六角方の重臣が織田方に寝返り、難攻不落の城もあっけなく落ちました。
 三好方は、この城を頼りにしていたため、軍勢をここで足止めできると考えていたようです。六角方は一度は織田方を撃退したものの、結局は翌月の13日に落城します。

この情報は直ぐに京都へ入り、大混乱となります。また、同時に松永久秀の元にも入っていました。足利義昭も奈良興福寺一乗院門跡(当主)であった経歴から、諸方に向けて音信をし、織田方の軍事行動を支援していました。
 この勢いに驚いた朝廷は、織田信長に禁中(御所)警固を命じます。信長はこの上洛の年からの名乗りが「弾正忠(だんじょうちゅう)」でこれは、警察に相当する役職です。これを見ても、用意周到です。

先だって、23日、足利義昭の側近細川藤孝、近江国人甲賀の和田惟政が京都へ入ります。その2日後、最先頭の兵が京都へ入り始めます。また、この頃には、主要な人物は京都を落ちていきます将軍義栄、その関係者である水無瀬親氏などの公卿です。三好方の主要な人物も退却を始めていました。
 京都に近い勝竜寺城には、三好方の石成友通(いわなりともみち)が居て、交戦しましたが直ぐに突破されてしまいます。芥川山城(高槻市)付近でも同じでした。敗走した三好方の人々は、一旦池田城を目指したようです。池田城下は街道を多く交差させていたため、ロータリーのようになり、どこに向かうにも一旦は安全な城に入るという状況だったようです。
 そういう緊迫した状況にあって、人々がもたらす情報も池田城に入り、池田勝正は防戦体制を整えていたことでしょう。

さて、素朴な疑問がありますよね。皆逃げるのに池田勝正だけはなぜ、戦ったかという疑問。これには理由があります。三好勢の本拠は、四国や淡路島で、そこへ逃れる事ができたのですが、池田衆は地場勢力ですから、逃れる場所がありません。ですので、戦わざるを得なかったのです。
横岡公園から西側を望む
横岡公園から西側を望む

9月30日、池田城の織田信長の軍勢が池田城を包囲し、合戦が始まります。この時、信長も池田まで出てきており、陣を敷きます。今の池田市五月ヶ丘にある横岡公園がその陣と考えられます。ここからは、池田城がほぼ俯瞰できて、山へ通じる主要道も封鎖できる絶好の位置です。ここから西側へは急激に地形を下げ、展望は良好です。

 この池田城合戦で池田勝正は激しく抵抗し、信長の親衛隊が戦死、大けがをするなどして後退しました。そのため、力押しは止めて、城下を放火するという策に出、これをもって池田勝正は、10月2日に降伏を申し出て合戦は終わります。3日間の闘争でした。
 この池田城の戦いをもって、上洛戦は決着がつき、織田信長の一連の軍事行動は終わります。池田勝正は翌日、芥川山城の足利義昭・織田信長を訪ねています。
 18日、足利義昭は京都にて将軍宣下を受けて、第十五代室町将軍となります。22日、将軍義昭が禁裏(天皇)へ参内し、この時の警固に池田勝正は市中警固役を担っています。24日、池田勝正は将軍へ参内し、摂津守護を任されています。
 元々池田家は将軍義晴の代から御家人(江戸時代の旗本)格を得ており、将軍を護る任を命ぜられていたため、これはその流れに沿ったものでした。しかし、守護となれば、更に社会的地位が上がり、歴代池田家当主の中でも勝正は最高の社会的地位を得たことになります。ちなみに、守護とは今の府・県知事に相当します。
 池田家にとって、一旦は敵対したものの、敗軍して浪人すること無く、中央政権側に取り立てられてのですから、秋の稔りは全て失うことはありませんでした。それは家臣にとってこの上ない安堵となったでしょう。しかし、安心ばかりではなく、これに期待する幕府側の思惑があったのです。

一方、第十四代足利義栄はどうなったのかというと、京都を落ちのびて、阿波国本拠へ戻る途中の鳴門撫養(むや)で腫れ物を患って死亡しています。しかしこれは、松永久秀の暗殺説もあったりします。不自然な点が多いためです。

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<永禄12年>--------------------
◎正月 六条本圀寺合戦

六条本圀寺跡に残る門
六条本圀寺跡に残る門
この合戦は、5日から7日にかけて行われています。三好三人衆が再び将軍を殺害する可能性もある行動でしたが、何としても京都を護る将軍の役目だけは堅持すべく、重要な戦いでした。しかし、京都に適当な城は無く本圀寺という法華宗のお寺を将軍は居所としていました。明智光秀などの側近もここに居り、この戦いに側近衆は奮戦し、少数で見事に将軍の命を守りました。
 一方の池田勝正も救援にかけつけて勇敢に戦い、将軍を護る任務を果たしました。しかし後年の書物では、池田勝正が間抜けで、逃亡したとのウソが書かれており、当時の史料を見ると、この防戦に中心的役割を果たしていたことがわかります。

三好方は、第十四代将軍義栄を失い、求心力を欠いてしまいましたが、京都での活動が長く、まだまだ勢いはありました、時を移さず反撃の準備を調え、京都の奪還を画策していました。和泉国方面までは上洛戦の手が及ばず勢力も温存していましたし、堺でも三好方に組みする勢力が多くありました。
 年末から既に軍事行動を起こしており、京都を目指して各地で合戦が起き始めていました。それらの動きが、想定以上の早さで北上し、正月には京都間近の河内国枚方まで達しています。これらの情報は既に池田家にも入っており、準備はしていたようです。京都奪還のための相当数の兵で攻め上っていました。五千を超える兵数だったようです。
 1月4日には、三好方の軍勢が京都東福寺に陣取りを行い、京都市中は再び騒然となります。池田衆は将軍義昭を護るため、池田を出発しますが、この時高槻に居た入江氏が三好方に組みしたため、西国街道が塞がれ、大きく迂回することになりました。島本町大沢方面を通り、長岡京方面へ出る道を通り、京都へ向かいました。この当時は積雪もあり、非常に時間がかかったようです。

1月5日、京都六条にあった本圀寺を三好勢が襲います。しかし、西から池田勝正・伊丹忠親などの軍勢が迫って、手勢を割かなければならず、本圀寺に居た明智光秀などの少数の兵は、それも利用しながら奮戦しました。織田信長もこの報に接すると単騎で京都に向かい、10日に京都へ入っています。

1月7日夜、この日の午後に決着がついたらしく、池田勝正は細川藤孝などとともに勝竜寺城に入りました。桂川方面から池田勢は駆けつけましたが、桂川は水深深く、流れも早いために人の力では制御不可能ですが、当時の記録では西から切り込み、七条あたりで合戦になったようです。また、幕府などの重要人物は、池田城を目指して避難しており、池田城は当時からも堅固な城との認識があったものと思います。また、10日に信長が京都へ入った折、守りの備えが堅固なことに感心し、池田紀伊守正秀を褒めたという記述があります。

織田信長は、三好方の勢力が未だ侮りがたいとして、直ちにそれらに加担した勢力の討伐戦を行います。同時に、将軍の居所たる城の必要性を痛感し、二条城の建設を行います。これらに池田衆は経済的・労働的負担を強いられていました。


◎夏 播磨・但馬国攻め
但馬山名氏の居城子盗山城跡
但馬山名氏の居城子盗山城跡


三好勢力の討伐と幕府の経済基盤を確保するために、旧地の回復を企図して行動します。但馬国の生野銀山は当時からも有名な鉱山で、これの権益を手に入れるべく、山名氏の討伐の名目を立てます。
 この時も二万の大軍勢を整えて出陣します。池田勝正もこれに従軍して、主要な役割りを果たします。10日程で、18ヶ所の城を落としました。また、播磨国へ入る名目は、幕府方につく勢力の救援で、播磨国龍野の赤松氏支援でした。一方、山名氏討伐は、具体的な背反が見当たりませんが、要は、生野銀山を取り手に入れるためです。この軍事行動で、一応の目的は達して引き揚げますが、誤算が生じました。支援していた龍野赤松氏が、青山の戦いに負けてしまいます。三好方だった黒田官兵衛にです。
 そのため、退路を断たれる恐れが生じ、急遽、幕府軍は但馬から撤退し、播磨国を経由して、それぞれ本拠地へ戻りました。

◎秋 播磨国へ再び出陣

播磨国庄山城跡(現姫路市)
播磨国庄山城跡(現姫路市)
夏の出陣が目的達成不十分であったため、現地勢力の要請もあって再び同方面へ出陣する事になりました。これにも池田勝正は出陣しています。この頃の室町幕府は、友好勢力を維持するため、要請に応えて行動しつつ、自らの利益も実現するような行動をしていました。
 当時の播磨国など西側の方面は関係が複雑で、三好方に加担する勢力とそれに敵対する勢力が、自己防衛政策を軸にしたまだら斑模様の勢力状態にありました。例えば、黒田官兵衛が属する小寺家は置塩城の赤松氏の家老で三好方、それに敵対する龍野の赤松氏は幕府方、その西の勢力、備前国浦上・宇喜多氏は三好方、更に西の毛利氏は幕府方などという、混沌とした状況でした。瀬戸内海を挟んで、対岸に三好勢力があるため、小さな勢力は強い勢力に結びつきやすい状態になってしまいます。

状況的には、毛利氏が突出した勢力であっため、主にそこを中心として同じ勢力の支援をし、かたまりを作ろうとしていたようです。幕府に加担する龍野赤松氏を支援し、同族の争いを終わらせて統一を手伝おうとしていたようです。
 10月、池田勝正は再び播磨に出陣し、室山城(現たつの市)などの周辺を攻め落として引き上げています。この時は、海側の街道を通って進んだようです。
 またこの時、池田衆の一派が鵤莊内(揖保郡太子町)を乱暴し、斑鳩寺の懸け仏を持ち去ったという史料があります。経緯は不明ですが、そういったこともあったようです。ケンカか何かがあったのでしょうか?

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<永禄13年>--------------------
◎正月 諸国へ京都参内への触れを出す

将軍義昭を中心に室町幕府の再興を願って東奔西走しつつ、敵味方を判別するための方策も思いつくようになります。将軍を敬い忠誠を誓うために上洛せよと、諸大名に触書を出します。これに応えない者は、当面の敵と判別できることになります。ここに越前朝倉氏の名も見えます。また、朝倉氏に拉致軟禁されていた若狭国守護家の武田孫犬丸元明の名もあります。事実上不可能なことを突きつけ、攻め込む口実にしていた面もあると思います。
 この触れを出して間もなく、名指しされた大名は京都へ入り、将軍へ挨拶を行います。この中には池田勝正の名もありました。将軍への謁見と、様々な土産を献上し、誼を通じました。
 一方で、早くも織田信長と将軍義昭の不破が表面化しており、同じ時期に一旦の和解をしています。これ以前にも度々不和があり、周辺が心配するような状況も度々ありました。

◎3月  将軍義昭・織田信長、朝廷から越前朝倉氏征伐の勅許を得る
1日、織田信長は天皇から勅許を得て、朝倉討伐を行う事が認められます。これにより、錦の旗を立てた幕府軍を朝倉氏との戦いに利用できました。私戦では無く公戦となり、見方の離叛者を出す可能性を低くし、相手の謀反も誘うことができます。また、近隣の小勢力が幕府・織田信長方に従うようになります。
 更に、改元も予定し、その行軍中に「元亀」と改元する手はずも整えていました。また、出陣に合わせて、京都で建設中の二条城も完成させる予定でした。同時に、禁裏(宮中)の紫宸殿の修復も完成させました。

この動きに池田衆も動員されることになっており、摂津国内で最有力であった池田家は幕府方の中心的軍事勢力として三千の軍勢を出陣させました。幕府は立て直しを始めたばかりで、これ程の軍事力を持った単独の勢力は京都周辺にはなく、池田家が最大の勢力でした。しかし、池田家にとっては、度々の軍事動員が大きな負担でもありました。

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2020年9月29日火曜日

織田信長が使った「天下布武」のハンコから始まった近世と中世の終わり。その意味、意識、社会、城について。

最近、役所のハンコの廃止について、連日ニュースになっていますが、このハンコについて、織田信長は特別な意味を込めてあらゆる文書に使いました。
 しかし、それは大きな意味がありました。ハンコとは何か。署名からハンコに変わった意味。一つの時代が終わり、始まりました。また、社会の仕組み、城の仕組みまで変えてしまった、意識の変化がそこにありました。

その意味でも、織田信長は非常に独創的で、時代を的確に主導するに相応しい能力を備えていたといえるのではないかと感じています。

そんなハンコについて、テレビや雑誌などでお馴染みの千田嘉博先生が、大変分かりやすく、的確な研究結果を披露されていますので、抜粋してご紹介します。
 今起きている社会的な動きが、思慮の浅いものではなく、ハンコの持つ意味そのものをしっかりと考え、ある方向に導くためにも一つの教養になろうかと思います。

シンポジウム 織田信長と謎の清水山城[記録集] 2002年3月発行 / サンライズ出版
◎基調講演:戦国時代の城 / 千田嘉博

---(文書形式と城の構造)-------------------------
さて、重大な意味といいましたが、それを読み解いていくために古文書を見てみたいと思います。城のあり方が大きく変化した天文(てんぶん)期を境に各地の戦国大名が出した文書の形式も大きく変わっていきました。戦国大名が出した文書を見ると、文書の最後に大名の名前があって、その下に花押、つまりサインをするタイプ(「判物:はんもつ」)と、文書の最後に名前を書いて、信長の「天下布武」のような印を押すタイプ(「印判状:いんばんじょう」)がありました。印を押したものは印だけで名前を記さなかったものもあります。
 例えば、私が教育委員会に呼ばれて講演に出かける場合、一応勤め人ですから私の博物館長に、教育長さんから「千田さんを派遣して下さい」という書類を出していただきます。その書類があってはじめて「行ってよろしい」ということになるのですが、殆どの場合、私はもちろん、館長も、依頼して下さった教育長さんとは個人的な面識がありません。
 それではなぜ博物館で「行ってよろしい」ということになるのかといいますと、教育委員会から送られてきた書類に教育長の印、赤いハンコが押されているからです。個人的な人間関係が全く無くても、そのハンコが押してあることで、公式の書類として通用するのです。

私たちが役所に行って証明書をもらう時も、特に市長さんや町長さんとお茶を飲んだことは無く、全く親しくなくても、市長印や町長印が押してあれば通用します。どんな人なのか知らないのに、その人の証明や判断に従う、というのはよく考えると奇妙なことです。しかし、それは私たちが個人的な関係の上で役所との関係をもっているのではなくて、組織的・官僚的な政治機構があって、市長さんや町長さんの権威を認めているから通用するのです。
 さらに凄いことに、どこの役所(あるいは会社)でも同じだと思いますが、ハンコというのは市長さんや町長さんが「よしわかった」といって全ての市長印・町長印を押しているのではありません。実際には誰か他の人がハンコを押すのです。サインは必ず本人でなくてはいけませんが、印は本人でなくても大丈夫なのです。政治機構ができあがっていれば、誰かがハンコを押せば教育長さん本人が押してなくてもちゃんと通用してしまうわけです。
 こうした花押(サイン)がある文書と印の押してある文書との違いは、現代社会だけではなく戦国時代の文書にも共通しました。
 先にもいいましたように花押というのは本人のサインですから、本人以外は書けないわけです。花押がある文書でないと信じられない、従えない、という社会は、政治機構ではなく、文書を出した人と受け取った人との個人的な親密感や信頼関係を基盤にしたことが明らかです。印を押した文書が通用する社会は人間関係ではなく官僚的な政治機構が基盤になっていたといえます。
 足利将軍邸など武士の館で会所という特異な建物が出現し個人と個人の人間関係をうまく構築する努力を重ねていたことは、将軍や大名達の遊びや文芸活動という文化史的な意味だけで捉えたのでは正しく評価したことになりません。これまで注目されてきませんでしたが、会所が室町時代に成立し、江戸時代の初頭には消滅したことの意味は、政治機構の変化との関係で解釈するべきです。ここでの議論に即して言えば、印を押した印判状を出すようになった大名は、会所で家臣達と横並びの人間関係を深めている場合ではなかったのです。
 判物から印判状へという文書形式の変化は先に上げましたように天文期を境に進んでいきました。早い遅いはありましたが、列島の各地で判物が少なくなり、印判状が増えていきました。そしてそれと連動して拠点城郭のかたちは並立型から求心型へと変化したのです。大名と家臣が個人と個人の信頼関係を基盤にして結ばれている時は、大名だけがみんなから超越した曲輪に住むというのは都合がよくありません。
 ところが印判状が出せる官僚的機構が確立してくると、大名を頂点とした政治機構が整って、より明確な序列ができあがります。また山城の階層的な空間にそれぞれの屋敷地を配置していくことは、そうした大名を中心とした序列をつくり出すのに絶好の装置でもありました。つまり天文期を境にした大きな変化は求心的な城への転換、大名と家臣との関係を基盤にした連携から政治機構を基盤にした権力へ、という様々な動きが一体となって実現したものだったことがわかるのです。
 そして、こうした変化は山城を中心に展開していきました。なぜ各地の大名が山城を拠点にしていったのかという大問題は、戦術や乱世の激化というだけではなく、中世から近世への社会構造や政治機構の大きな変革に裏打ちされていたのです。
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千田先生の素晴らしいご研究だと思います。


織田信長禁制
天下布武印の入った織田信長朱印状(禁制)

池田筑後守勝正花押
池田筑後守勝正花押

荒木村重花押
荒木村重花押

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大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」

予告しました、大河ドラマの脇道を愉しむ企画ですが、タイトルを考えてみました。今後はこのタイトルで、週一回のペースでお届けできればと思います。

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。
 図に乗って、ガイドツアーも企画するかもしれません。途中で企画が「沈voつ!」したり、どうなるか分かりませんが、どうぞお楽しみに〜。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

今回は、第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」2020.9.27放送分です。

◎概要
永禄9年(1566)あたりから同11年頃までの流れを筋書きにしており、話しの中心は将軍就任レースの緊張感を伝える内容になっていました。
 歴史上では、三好長慶が死去し、程なくして三好家中が分裂。三好三人衆 vs 松永久秀の争いになっていますが、そのあたりは、ちょっと違う取り上げられ方になっています。この三好と松永の争いに対して、池田勝正が三好方に付いたことから形成は一変。松永不利となり、松永は義昭を担ぎ、入京の手引きをしていたのが事実です。松永も始めは義栄を担いでいたのですが、ケンカの末に、「俺(松永)はこっち」になったのです。

◎足利義栄の将軍職就任
この足利義栄は、阿波国に居住していた足利氏で、足利家内部の闘争などにより、都落ちする(他にも理由が色々ある)などして日本各地に足利家が存続していました。その地域で闘争があった時、これらの足利氏は担がれて、戦争を有利に進めるために利用されるなどの動きがありました。
 それの三好氏版です。この義栄が将軍職に就くにあたって、池田衆は大きな貢献をしており、池田衆無しでは不可能だったと思われます。池田家は、三好氏の本流筋から嫁をもらい、三好一族扱いを受けていた特別な存在でした。また、その池田家は摂津国内では非常に裕福で、地域政治にも長けていました。当然、戦国の世ですから、軍事力も持ち4,000〜5,000程の動員は可能であったと考えています。
 将軍は本来、皇室を守るためにあるのですから、京都に入り、そこで宣下を受けるべきなのですが、戦乱で適当な場所が無いため、守りの固い摂津冨田の普門寺で将軍職就任を認める宣下を義栄は受けました。

◎明智光秀の身分
織田信長が美濃を平定し、その祝いになどに光秀が訪ねた折、家臣になる事を誘われるシーンがありました。
 細かな事は明らかになっていませんが、これは史実の通りに描かれており、光秀は織田信長が京都へ入った頃は幕臣の立場でした。ですので、直接の主人は将軍です。奉公衆(ほうこうしゅう)など将軍の近臣として活動していました。多分、実際は領知も無かったようですから動員兵力もほとんど無く、官僚的な仕事が主だったと思われます。
 将軍義昭が京都に入った頃は、ゼロからのスタートで、何の基盤もなく、24時間体制の仕事だったと思われます。権威の整理、お金の管理と創出、徴税、軍事の手配などなど、将軍義輝政権(表現は不正確)の立て直しに忙殺されていました。

◎松永久秀の立場
三好三人衆に対して、ほぼ敗北状態だったところに、織田信長の将軍義昭を奉じての上洛で、九死に一生を得た松永久秀でした。実際にはかつての栄光に陰りがあり、信長からは一目置かれつつも、厚遇はされていませんでした。天正5年(1577)に死亡するまでに久秀は、3回(最後は自刃)も信長に反逆し、その度に詫びを入れて降伏しています。
 今の流れで行くと、最後との矛盾が出ると思うのですが、このあたりはどのように描くのでしょうか。既に矛盾はあるのですが...。

◎近衛前久という人物
この人物は五摂家筆頭という名門貴族近衛家の当主でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
 ですので、足利義栄を将軍とするため、三好一族から一目を置かれていた面もあります。対して池田家は、その流れの中で様々な権益を獲得し、拡げることもしていたようです。
 近衛前久は明かな三好派で、後に劣勢となって織田信長方の軍勢が京都へ入った時には、殺害を恐れて京都から落ちのびています。大坂の本願寺へ身を寄せていました。

◎幕府奉公衆三淵氏、細川氏、一色氏
三淵藤英、細川藤孝は兄弟です。一色藤長は、丹後国の守護大名一色氏の系譜で名門の出です。またこれらの人々は足利氏の支族でもありました。こういった名族が幕府を支えるため、本拠地から出向するようなカタチで仕えたり、没落してしまい、最後の血を将軍に託すといった、様々な謂われの人々が幕府の中枢に入っていました。
 池田家は京都にも屋敷を持ち、御家人格(ごけにんかく:江戸時代の旗本に相当)でしたので、幕府にも知られた存在でした。そのため、こういった人物と深く交わっていました。時には、幕府からの命令や依頼を受けるなどしていた筈です。

 

摂津富田「普門寺」
摂津富田「普門寺」
国の重要文化財「方丈」

◎次回のこと
次回はいよいよ、将軍義昭の上洛ですね。池田衆は三好方として奮戦します。名前くらいは出てくるかも!