2019年7月7日日曜日

前田利家、佐々成政などの武将も陣を取った摂津太田城と太田氏について考えてみる

摂津太田城については、不明な事が今も多いようです。発掘も殆ど行われずに破壊されてしまった事と、文献があまり無いところから進展が図れないようです。摂津池田氏もそうですが、散見される手がかりを集めて、そこから推量することから始めないとダメなのでしょうね。
 ネットでザッと調べてみましたが、詳しく調べられたところは、あまり無いようなので、みなさんの参考になればと思い、記事としてアップしてみます。非常に文字数が多くなりますが、現在茨木市太田やその周辺にお住まいの方々の他、太田にゆかりの方へ何らかのお役に立てばと思い、長文ですが敢えて詳しく載せておきたいと思います。

まず、『わがまち茨木(城郭編)』から該当項目を抜粋してみます。
※わがまち茨木(城郭編)P24

------------------------------------------
(1)はじめに
茨木市には数多くの城があるらしいが、城らしい城は茨木城だけではなかろうか。太田城は砦といったほうがよいかも知れない。しかし茨木城よりも200年余りも以前の平安時代末期の城であった。今、太田城の面影は、石垣の一部だかしか残っていない。また長く続いたであろうと思われる記録も残っていない。ただ側面的な事象を取り上げて”まぼろしの太田城”を構築してみたいと思う。
(2)太田の家並
旧市街(2002年4月頃の撮影)
太田一・二丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭く、まっすぐに突き抜ける道ではなく、T字型(三叉路)になって折れ続いている。これは城下町の特徴を示している。一戸一戸を見ると、古風な門や門長屋・格子の玄関など時代劇映画のセットを思わせる佇まいである。
(3)太田城跡
太田には”太田地番図”という大図面がある。その中に”城の口” ”城の前”という小字があり、太田城があったように思われる。そこは太田の旧住宅の南端から約200メートル南方の地点である。城の口は広い平地にあるが、城の前はそれより低いところにあった。1960年頃までは付近一帯水田であり、よい米の生産地であった。今この城の前は町名変更で付近の土地を合わせて”城の前町”と改名している。
わがまち茨木(城郭編)より
上の二図を比べると、城の半分は東芝中央倉庫の敷地になっている。城の西側と南側の落差は7〜8メートルの急斜面であって、いわゆる舌状台地の突端を利用した城であったと推定している。大きさは東西・南北共に150メートル前後だっただろうか。その東端に高さ2メートルくらいの”城の山”があり、太田城跡のシンボルでもあった。その位置から考えると、物見櫓的な働きをしていたのではなかろうか。
 昭和35年、城跡の半分が東芝に買収され、中央倉庫にするため約2メートルばかり切り下げる土地造成を行った。その折、城の山の西方で青みがかった幅2〜3メートルの土が50メートルばかり続いて出てきたが、遺物は何も出なかった。昭和32年、城の口の西方(通称”段の森”とか”お宮の下”とかいっている)の、里道を拡張して農道にするため土を掘り返した折に、松の根が数本でてきたことから大きな森があったのではなかろうかと想像される。
○大阪府全志---「太田城址は南方にあり。太田太郎頼基の築きし所にして、同氏累世の居城たりしも、廃城の年月は詳らかならず。今は田圃となりて、城の崎、城の前などの字地を存せり。」とあるしかし、太田地番図には、城の崎の地名は見当たらない。
(4)太田野太郎丸の墓
城の山は東西数メートル、南北10メートル、高さ2メートルばかりの草地で、その南方で北面した自然石の墓石があった。表には”地蔵菩薩”、裏には”太田野太郎丸”と彫り込まれ、これを覆う常緑樹が数本植えられていた。毎年8月24日の地蔵盆には、提灯をかかげてお祭りしていた。
○大阪府全志---「其の墓は南方田圃の間にありて、高さ三尺許の自然石なり。」
○三島村誌---「太田太郎源頼基文治三丁未年摂津国川原条に於いて義経の為に討ち死に。其碑銘表面に地蔵菩薩・裏面に太田野太郎丸と記載あり。本村の南へ距ること三町にして、田間に屹立せり。」
ところが、この城の山も買収範域に入ったので、約50メートル北西の空き地に墓石を移すと共に、伊吹をを植えてこざっぱりとしたところとし、例年通りのお祭りをしていた。しかし、年と共に荒れ果ててきたので、太田共有財産管理会では、1978年(昭和53)に石垣を造り、頼基の行跡を石に刻んで立派な顕彰場所とした。
(5)太田城
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
太田野太郎丸とは、太田太郎頼基のことで、太田城を居城としていた。太田城は彼が築城したというが、記録が無いので細部の点が不明である。ただ城の東・南・西の所々に石垣が散見できる程度であったが、これも1961年(昭和36)の土地造成のため破壊された。しかし北西部の1箇所だけが残っている
 源平合戦では全て討って出て戦っているように、その当時は城を守るという考えは無く、太田城も台地の上につくった砦の域を脱しなかったと思われる。
------------------------------------------

続いて、城郭を調べるには、バイブル的存在の『日本城郭大系12(大阪・兵庫)』より「太田城」の項目を抜粋します。ちなにに、城郭大系の該当項目も『わがまち茨木(城郭編)』を元に書かれています。
※日本城郭大系12(大阪・兵庫)P73

------------------------------------------
太田城は安威川の東岸、西国街道に接した南側付近一帯に築かれていたと推定されるが、昭和35年、この地に東芝中央倉庫が建設された際に、旧地形は全く損なわれてしまい、今はただ「城の前」町という町名にその名を留めるのみとなってしまった。それでも、1960年(昭和35)以前の様子は、太田在住の歴史家加藤弥三一氏の著された『まぼろしの太田城』によって僅かながらうかがうことができる。
城跡の面影の残る段丘(2002年4月頃の撮影)
同書によれば、従前この地には「城の口」「城の前」という小字と、「城の山」という小丘陵が存在していた。「城の口」は、同書中の図をも加味していえば、舌状に張り出した台地の先端部付近の平地を指し、「城の山」はその先端のやや東寄りに位置する高さ2〜3メートルの微高地であった。その大きさは、東西数メートル × 南北十数メートルであったという。「城の前」はこの舌状台地の南側一帯で、落差は7〜8メートルもあったといい、良田であった。また、「城の口」は、その西方を「段の森」あるいは「お宮の下」とかいったが、1957年(昭和32)、俚道拡張工事の際に土を掘り返したところ、数本の松根がでてきたところから、大きな森となっていたのではないかといわれている。さらに、東芝中央倉庫の造成工事に際して、この地を約2メートル切り下げたところ、「城の山」の西方で青味(泥)がかった幅数メートルの土が、南北に50メートルばかり続いていた。当時の堀かと思われたが、遺物は何も出土しなかった、と記されている。
 いずれも正確な場所がわからないのは残念なことであるが、加藤氏の貴重な著述によって、太田城の概略を知る事ができるのは、ありがたいことである。
 さて、以上に要約した加藤氏の所説によれば、太田城は、その南面においては7〜8メートルの比高を有する舌状台地の突端に築かれた城郭であったと推定される。「城の山」も、おそらく太田城に関係する施設であったと思われ、その位置からすれば、物見櫓的機能が想定されよう。
安威川の様子(2002年4月頃の撮影)
ところで、この太田の地は、東方の芥川と西方の安威川とによって挟まれた丘陵が沖積平野へと移行する傾斜変換点付近に立地しており、古来、開けた土地であった。『新撰姓氏録 摂津国神別』には、前述の中臣藍連と同族である中臣太田連の名が見えている他、太田城の北東、継体陵古墳の西傍には式内太田神社も鎮座している。また、京都と中国地方とを結ぶ西国街道も太田を通っていて、交通上の要衝としての側面も忘れることはできない。
 したがって、『大阪府全志』は太田城を太田頼基(12世紀後半在世)の築城とするが、おそらくその初源はさらに遡るものと思われ、その形態も、居館を兼ねた館城であった可能性が大きい。また、『平家物語』第12巻に、西国街道を通って中国地方へ落ちのびる源義経の軍勢に対する太田頼基の言葉として、「我が門の前を通しながら矢一つ射かけであるべきか」とみえているが、城跡の南面がその更に南側より7〜8メートルも高く、自然の要害をなしていた感があることと思い合わせれば、太田城は北側の西国街道に面して大手を開いていたことも考えられる。
昔の伝太田頼基墓(今よりも前の形態)
さて、平安時代末期頃に太田城に在城したと伝えられる太田頼基は、『尊卑分脈』によれば、多田源氏の祖、満仲九世の孫で、太田太郎と号したとされる。この頼基の名が史上初めて現れるのは『平家物語』第4巻で、治承4年(1180)4月9日の夜、源頼政が以仁王から令旨を賜らんとして、王のため馳せ参ずるであろう源氏の名を数えあげていく件があるが、その中に、「多田の次郎朝実、手嶋の冠者髙頼、太田の太郎頼基」とみえている。
また、『吉記』の寿永2年(1183)7月24日の条には、多田の下知と称して、太田太郎頼基なるものが、西国から送られてくる平氏の糧米を奪ったり、乗船を破壊したりしたこともみえており、この頃、太田氏は多田源氏の一族として、その支配下に組み込まれて活動していたことがうかがわれる。その他、太田頼基の名は『吾妻鏡』『玉葉』『源平盛衰記』などに見えるが、その居城については、『玉葉』43巻、文治元年(1185)10月30日の条に、「摂州の武士太田太郎以下、城郭を構えて云々」とみえるのみで、詳細は不明である。そして、それから約300年を経た大永7年(1527)に、細川高国と同晴元との間で戦われた合戦の最中に、太田城は周辺の茨木城・安威城などと共に、晴元方の武将柳本弾正の手によって開城させられてしまったという記事(『足利季世記』)を最後に、史上から姿を消してしまう。
 なお、『信長公記』には、天正6年(1578)の荒木征伐の際、信長が「荒木の城へ差し向け、太田郷北の山に御砦の御普請申し付けられ候」とあるが、これは地形から見て全く別の城(砦)を指すものであろうと思われる。
------------------------------------------

以上のように地形的には、太田村のあたりから段丘状になり、見通しも利く事から、軍事的な要地であったと思われます。
 『信長公記』の記述は、天正6年(1578)秋、荒木村重の織田信長政権離叛による武力闘争ですが、それより以前にも太田村は重要視されています。元亀2年(1571)秋の白井河原合戦の時です。『中川史料集』に太田郷の事が記述されています。先ずは、『信長公記』荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事の条をご紹介します。
※『改訂信長公記』(新人物往来社)P235

------------------------------------------
◎次の日(11月10日)、滝川左近将監一益、明智惟任日向守光秀、丹羽惟住五郎左衛門尉長秀、蜂屋兵庫頭頼隆、氏家左京亮直通、伊賀(安藤)伊賀守守就、稲葉伊予守良通、島上郡芥川、島下郡糠塚、同太田村、猟師川辺(地名?)に陣取り、御敵城茨木の城へ差し向かい、太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。(中略)茨木へ差し向かい候付け城、太田郷砦御普請出来(しゅったい)申すについて、越前衆、不破、前田、佐々、原、金森、日根野、入れ置く。(中略)
◎11月18日、信長公、總持寺へ御出で、津田七兵衛信澄人数を以て、茨木の小口押さえ、総持寺寺中御要害、越前衆、不破河内守、前田又左右衞門尉利家、佐々内蔵佐成政、金森五郎八長近、日根野備中守弘就、日根野弥治弥次右衛門尉盛就、原彦次郎長頼などに仰せ付けられ、太田郷御砦引き払い、近々と取り詰めさせ。(後略)
------------------------------------------

日本城郭大系12(大阪・兵庫)より
『信長公記』によれば、前田利家、佐々成政といった武将が、太田城に陣を取っています。西国街道を押さえる意味もあって、太田は重要視されていたと思われます。この折、普請作業も行われていますので、元の形態は改変されているようです。また、文中の「太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。」とは、太田茶臼山古墳(継体天皇 三嶋藍野陵)と思われます。太田の開発前のお話しを聞きますと、そのあたりがひときわ地形が高く、「山」と認識される場所であったようです。
 太田村の北側、2キロメートル程のところに塚原や安威といった要所があり、そこに通る塚原街道や茨木街道を押さえるための砦も普請したかもしれません。双方の道の北へは、丹波国と繋がっています。ちなみに、『公記』は、摂津池田を攻める時も、五月山を「北の山」と記しています。
 一方、この時点で織田信長の有力武将であった、明智光秀の名も記述されており、太田村の重要性から、きっと明智光秀も太田城に入ったりしていたのではないでしょうか。丹波国方面と頻りに連絡を取り合っていたりします。

続いて、『中川史料集』太祖清秀公の元亀3年の項目の記述です。
※中川史料集P21

------------------------------------------
一、9月1日、暁、郡山御立ちあり。近郷の領主御味方として馳せ参る。人々には下村市之丞、熊田孫七、鳥養四郎大夫、山脇源大夫、太田平八、粟生兵衛尉、戸伏一族各手勢を召し連れ御備えに加わる。然る所に茨木方の諸士太田郷の山々、西の尾筋に出張し、弓鉄砲を打ち掛け遮り留めんとす。熊田千助、一の御先備えにて、加勢の人々相加わり鉄砲を真っ先に進め、即時に追い払い手を分け、馳せ立て競い進む。熊田孫七、森田彦市郎は地蔵峠より、人数を進め西南に掛け打ち入る。茨木方にも水尾図書助、倉垣宮内少輔等激しく防ぎ戦うといえ共、御先手は名を得たる者どもなれば、水尾、倉垣暫時に敗軍して討死す。(後略)
------------------------------------------

この詳しい分析は、当ブログの記事「白井河原合戦」をご参照いただければと思いますが、やはり太田村は要衝である事が、こういった記事により判明します。
 この白井河原合戦当時、元亀2年(1571)8月28日に合戦が行われ、高槻の地域領主(摂津守護)和田惟政が、高槻を中心としつつ太田村あたりも支配していたようです。その時の太田城主が、太田氏であったかどうかは不明ですが、『中川史料集』では、「太田平八」なる武士が登場しています。やはり、太田一族は脈々と続いていたのです。
 地形もですが、村に西国街道を通しており、また、川も隣接しています。更に、土地も肥沃で、米を初めとした産物に恵まれているなど、非常に重要な土地であったようです。

続けて、この太田平八について、『豊後岡藩(中川家)諸士系譜二』にその手がかりが記されています。
※摂津市史(史料編1)P532

------------------------------------------
 ◎第18巻
此の巻に者元亀三年九月朔日茨木城御討入之刻、大祖の旗下に属する輩記之。
太田元左衛門
其の祖太田平八、代々摂州太田の郷を領す。後家督衰微して水の尾村(現茨木市)に家居す。元亀三年九月茨木御討入の時来て、太祖の旗下に属す。
◎第19巻
此の巻に者元亀三年九月茨木城御討入之後、摂州の諸士、大祖の旗下に属する輩記之。
太田忠右衛門
其の祖太田志摩守、代々摂州太田郷に有りて、室町公方の御家人たり、元亀三年九月、清秀公茨木御討入之刻来て旗下に属す。
------------------------------------------

近世の中川家の文書に、家臣としての太田氏の名が見られます。ここに「太田平八」の名が見え、本流でありながら太田郷から出た家系としての太田氏を記しています。また、別の太田氏も記されており、こちらは、後に本流となった太田氏一派らしく、「志摩守」を名乗っているようです。
 どこでもあるのですが、太田氏も同族同士の内訌が起き、太田を出た一派があったり、取り込んだりした一派があって、本流が入れ替わったりした時期があったのではないかと思います。

さて、その太田村と同村を内包する太田保について、『大阪府の地名』から抜粋してみます。先ずは、太田村の項目です。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P185

------------------------------------------
◎太田村(茨木市太田1-3丁目、太田東芝町、東太田1-4丁目、花園1-2丁目、城の前町、高田町、西太田町、十日市町、三島丘1-2丁目)
太田神社(2019年6月撮影)
耳原(みのはら)村の東、島下郡の中央東端にあり、東は島上郡土室(はむろ)村。村の西を安威川が流れ、中央部を西国街道が横断。古くは「大田」と表記。「新撰姓氏録」(摂津国神別)に、天児屋根命十三世の孫の御身宿禰の末裔とある中臣大田連本貫の地といわれ、継体天皇三島藍野陵という茶臼山古墳、延喜式内社に比定される太田神社、飛鳥時代の太田廃寺跡がある。「播磨国風土記」揖保郡大田里の項に「摂津国三島賀美郡大田村」がみえ、三島賀美郡にあたる島上郡には大田の村名がなく、当村との関係も考えられる。
 中世には造酒司領大田保が設けられた。また幕府御家人で摂津源氏の流れをくむという太田太郎頼基(「平家物語」巻一二判官都落ち)の居城があったと伝え、城の崎・城の前などの関係小字が残る(大阪府全志)。南北朝期には西国街道の宿所であったとみられ、応安4年(1371)有馬温泉(神戸市北区)へ出かけた京都八坂神社社家顕詮は、下向途中の9月20日、大田宿北側の「的屋」で一泊している(八坂神社記録)。
 戦国期には車屋という旅宿もあった(「大乗院寺社雑事記」文明19年3月14日条)。総持寺散在所領取帳写(常称寺文書)文安2年(1444)正月17日請取分に、大田村の「高津か」「馬田」「め極のつ」の総持寺領のことがみえ、高津か(髙塚)は茶臼山古墳をさすとみられる。
 元和初年の摂津一国高御改帳によると大田村1,015石余は丹波篠山藩松平康重領。以後篠山藩の支配が続き、延享3年(1746)三卿の田安領となって幕末に至る。江戸時代中期以降の戸口は65戸・300人前後(太田区有文書)。特産物に寒天があった。寛政10年(1798)安威村をはじめとする島下・島上29ヵ村が、太田村5名、上音羽村・道祖本(さいのもと)村各1名の寒天業者を相手に製造差留訴訟を行った。差留の理由は製造工程で原料の天草を安威川・茨木川に晒すため、その灰汁や塩分が用水を通して田地に流れ込み作付けが悪くなること、寒天製造は多くの労働力が必要とし、また農業日雇よりも軽労働なので、日雇稼が寒天製造に集まり、農業経営に差支えること、製造業者の中には田地を売払って専行化した者もおり、農地の余剰があること、天草を煮詰めるのに大量の薪・炭を必要とするため、薪・炭が高騰、それを理由に野道具鍛冶屋が農具の値を引き上げたこと、薪・炭の消費や京都の大火などで郡北の山林が乱伐され、保水がきわめて悪くなったことなどであった(水尾区有文書)。寒天製造は17世紀中頃、山城伏見から北摂地方へ移され、すでに元禄初年には天満市(現北区)の重要乾物となっていた。最盛期は明和〜寛政期(1764〜1801)で、寛政10年には当村を中心とした一里四方の地に、60〜70の釜が設けられていたようである(同文書)。文化10年(1813)には寒天株仲間も結成され、大坂三町人の一である尼崎家がその元締となった(石田家文書)。寒天のほか独活(うど)も当地の特産物で、天保年間(1830〜44)当村の与左衛門により品種改良がなされ、以後太田村では全村的に栽培、「与左衛門うど」とよばれて高く評価され、現在まで引き継がれている。
雲見坂(2002年4月頃の撮影)
茶臼山古墳西隣の太田神社は速素戔鳴命・天照皇大神・豊受大神を祀り、「延喜式」神名帳島下郡の「太田神社」に比定される。「延喜式」九条家本・金剛寺本は「大田神社」と表記。中臣大田連と関連の深い神社とみられている。俗に大神宮ともいう。神社には他に八坂神社・女九神社があり、女九神社は継体天皇の九人の妃を祀るという。寺院には浄土真宗本願寺派の安楽寺・西福寺・称念寺がある。なお西国街道に面して舟形光背の線刻如来石造があり、鎌倉時代のものといわれている。西国街道を横切る雲見坂は、太田頼基が雲気をみて戦の勝敗を占ったところと伝える。
------------------------------------------

続いて、太田保についてご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社刊)P186

------------------------------------------
◎太田保
茨木市東部、安威川流域にあった造酒司領。島下郡に属し、近世の太田村を中心として一部に耳原村を含んだ(勝尾寺文書)。「山槐記」応保元年(1161)12月26日条に「造酒司申、摂津国大田保為奈佐原■■妨事」とあるのが早く、東接する新熊野神社(現京都市東山区)領島上郡奈佐原庄より押妨を受け国司に訴えたが、その沙汰がない間に再度の押妨にみまわれている。造酒司領大田保は、諸寮司に割当てた官田の一つで、宮中での諸行事などに供される酒や酢の原料となる米を負担していた。成立は不明であるが、他の諸寮司田の成立からみて9世紀末頃と考えられ、また造酒司領の保が置かれたのは、令制下に摂津国に25戸設けられた酒戸(令義解)のいくつかが当地にあったことによるのではないかと推定される。大田保は造酒司領として鎌倉期まで続いていた。「平戸記」仁治元年(1240)閏10月17日条に引く嘉禄2年(1226)11月3日の左弁官下文に、造酒司への諸国納物のなかの摂津国米149石2斗のうち「於72石者、以大田保便補之、不足77石3斗」とみえ、摂津国からの納米は所済されず、当保からの便補によってまかわなわれている。この下文は同記同月日条所引の仁治元年閏10月3日の造酒司解に副進されたもので、その解文には「大和河内和泉摂津等、如形雖有便補之地、更不及半分之所済、於其外八ヶ国者、惣以忘進済之思」とあり、諸国からの納米が難渋するなかで、摂津国では大田保が貴重な便補地であったことを伝えている。
 室町期には足利将軍家の管轄に入ったらしく、「満済准后日記」永享4年(1432)2月22日条に「一条家門へ自将軍所領二ヶ所被進之云々」、康正2年造内裏段銭並国役引付に「弐貫五百文(中略)日野前大納言御家領(摂津国大田保段銭)」とみえる。これよりさき、永享3年11月15日の室町幕府奉行人連署奉書(御前落居記録)に「大田七郎頼忠与日野中納言家雑掌相論摂津国大田保内所職田畠(畠田五郎左衛門入道浄忠跡)事」とあり、南西方畑田に本拠があったと考えられる畠田浄忠の欠所地をめぐって、在地土豪の大田頼忠と日野家雑掌との間で紛争があった。以上のことから大田保のほとんどは足利将軍家より日野家に与えられ、公文職は裏松中納言(義資か)家に与えられていたが、永享4年将軍義教は改めて公文職を一条家に与えたことがわかる。当保の所職田畑は、本来足利将軍家領で、取巻く貴族らに随分得分として分与されていたと考えられる。なお、一条兼良の「桃華蘂葉」には「摂津国大田保公文職並売得田畠、普光院時(足利義教)、同時載一紙所宛行也、依有要用売与池田筑後守了、(此中少分為堀川判官給恩除之)」とみえ、その後、一条家は公文職と売得田を摂津国人池田氏に売却している。おそらく在地土豪太田氏や池田氏の進出によりその支配が維持できなくなったものと思われる。
------------------------------------------

これらの記述(事実)が示すように、地味、地勢が豊かである故に、権威までも吸着した歴史があります。時代による差異はありますが、江戸時代の基準で1,015石の採れ高は、非常に大きく、表高でこの規模ですから、やはり非常に豊かな土地であった事は間違いありません。
 戦国時代もいよいよ深まると、成長した地域勢力が、この地を求めて競うようになります。それが太田氏であり、同国人である池田氏であった訳です。池田氏は摂津国内でも、飛び抜けて優勢な勢力であり、本拠の豊嶋郡を出て島下郡まで勢力を伸ばす程に旺盛でした。

1570年(元亀元)創建の清浄山安楽寺
さて、これ程の素養を持つ太田村ですので、この豊かさを持つ土地であるからこそ、それを守るための策が無いはずがありません。当然、城があり、中心になる太田氏などの勢力があったはずです。それらの手がかりがどこにあるのか、今はわかりませんが、今後、明らかになることを楽しみにしています。

さて、この太田城に興味を持ち始めたキッカケであった安楽寺様には、色々とお世話になりました。今も親しくさせていただき、取材などで何か新しい事が判れば、お知らせしたいと思います。


◎浄土真宗本願寺派 西本願寺 清浄山 安楽寺
〒567-0018 大阪府茨木市太田1丁目14番6号
https://www.ibaraki-anrakuji.com




2019年6月18日火曜日

中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について

年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。

そんな中、意図せず、ツイッターでRTされた記事からたどり、そのブログを眺めていますと、中之文書中の署名者の手がかりと思しき記事があり、同文書の時期や状況からして、その手がかりから得た要素を非常に有力視しています。ここで一旦、中之坊文書を以下にあげます。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180など

--(史料)-----------------------------------------------------------
湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守■清(誤読:卜清)、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正次(誤読:正行)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参
-------------------------------------------------------------

さて、この文書の残存課題は以下です。

(1)年記がわからない
(2)人物の出自がわからない
(3)本文が短く、文書の意図がわからない
(4)池田衆(連署者)と宛所の関係がわからない

これらの内の(1)については、本ブログでも推定理由を述べて、元亀2年(1571)と、今のところ考えています。また、その時期の特定と同時に(3)+(4)も必然性の推定が出来、交通の要衝で、要地であった有馬の湯山年寄中からの協力同意に、池田衆が返報したものと考えています。
 この時期、三好三人衆勢力が再び五畿内地域で勢力を強め、将軍義昭・織田信長の幕府方本拠である、京都を圧迫する程になっていました。
 また、有馬郡に西接する播磨国(美嚢郡)三木城でも交戦があり、池田から西側の動きに確実な信頼を築いて、池田勢が敵に包囲された局面を打開するための反転攻勢を成功させようとしていた時期の音信と考えています。つまり、元亀2年の白井河原合戦直前の文書です。

◎参考:白井河原合戦についての研究 

『中之坊文書』は、私の研究にとって、そういう重要な文書なのですが、署名している20名の人物の出自が、全て把握できていないという、大変なジレンマがありました。これらの人物が判明すれば、その時の政治・軍事情勢解明の手がかりにもなるはずです。

今回、なんとなく出自の推定が立ったのは、藤田橘介重綱という人物です。志末与志さんのブログ『志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 - 松山重治―境界の調停と軍事 -
という記事からで、それを読んでいて、「松山重治に従った勇士たち - 藤田忠正 -」の項目が非常に参考になりました。
 それによると、藤田氏は、播磨国美嚢郡の国人で、吉川荘に起源を持つ人物で、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であったそうです。また、三好家中の松山重治被官であったようです。
 そういえば、私の研究ノートでの『播磨清水寺文書』では、藤田氏の名が度々見られ、このあたりに縁の国人であることは認知していたはずですが、気付いていませんでした。志末与志さんのおかげで、私の永年の疑問が晴れ、その日から少し、なんだか毎日嬉しいです。

さて、元亀2年という時期に藤田氏が、池田衆と共に名を連ねる理由ですが、池田と湯山とは有馬街道で繋がっており、政治・経済・軍事ともに非常に密接です。有馬道とは、京都 - 池田 - 湯山や、大坂 - 池田 - 湯山という流れがあり、当時の多くの人々が利用する主要道の一つで、往来も盛んでした。
 ちなみに藤田氏の家紋は、その名の通り「下がり藤」です。摂津池田氏と同じ本姓は、藤原氏で同族です。
 そしてまた、必要に迫られ、湯山と池田衆の双方にとって、何らかの約束をする時、地縁者や関係の深い既知の人物がそこに居れば、なお安心します。約束を違う確率が低くなり、実現が固くなるからです。

署名の中で、私の把握している人物を上げてみます。

【池田家臣】
池田清貧、池田(荒木)村重、池田正良、荒木卜清、神田景次、池田正慶、高野一盛(多分家臣)、池田正遠、池田正敦、藤井敦秀、瓦林加介、池田正行、宇保兼家
【不明な人物】
小河家綱、安井正房、行田賢忠、藤田重綱
【その他】 ※家臣では無いが、出自が推定できる人物。
萱野宗清(現箕面市萱野の住人)


萱野氏は、摂津守護であった高槻を本拠とした和田惟政の西進に圧迫され、自らの領知を保持するために、池田氏を頼った勢力であると思われます。
 これに同じような関係で、播磨国に出自を持つ藤田氏も行動していたのかもしれない、と思いつきました。加えて「小河」氏も不明だったのですが、読みは「おうご」で、そうすると播磨国人の「淡河」といった系譜が思い浮かびます。ただ、摂津国守護家一族の伊丹氏の縁者で「小河(おがわ)」という人物も見られますので、そこは何とも言えないところです。
 それにしても先にあげた「小河」氏は、中之坊文書では、一番初めに署名をしていますし、順番はあまり関係が無いとも言われるものの、一番初めや上位であることはやはり、何の意味も無いということは、考えられないのではないかと思います。小河出羽守家綱は、藤田重綱と同じ「綱」の字も持ちます。それも何か気になります。しかし、小河氏は池田家臣でもなく、この人物いについては、中之坊文書でのみ登場して、他では見られません。
 中之坊文書に見える人々は、播磨・有馬郡あたりの人物と池田衆が連絡を取り合い、互いの利益補助のために一時的に結束した足跡ではないかとも考えていますが、今のところは、確実な証拠はありません。

しかし、今回の藤田重綱の出自推定が立ったことで、そういった動きの可能性があったことも、推定ができるようになったかもしれません。続けてまた、調べていきたいと思います。


2019年6月5日水曜日

天正6年(1578)秋、摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと

明治期の地図(+-+-+線が県境であり旧国境)
1576年(天正4)初頭、丹波国内の最大勢力であった波多野秀治の、織田信長政権離叛により明智光秀は、丹波国平定を目前にして、敗走します。この時、光秀は、現兵庫県三田(さんだ)市を通り、池田を経て、京都へ戻ったようです。
 この当時、摂津国内をほぼ掌握して、大名(守護)となっていたのは、荒木村重で、村重は、光秀の丹波平定戦を支援する役割りも担っていました。現在の三田市は当時、摂津国に属していましたが、播磨・丹波とも国境を接しており、要衝でした。多数の重要な街道を通し、いわば「ロータリー」のようになっていて、三田からはどこへでも進むことができました。
 江戸時代には、そういう立地から物資の集散地となり、特に米については、三田での値が、摂津国内の米価を決めたともいわれます。

さて、戦国時代、天正頃の三田へ話しを戻します。天正4年の光秀の、丹波国撤退から、その後は再入国の機会無く、時を待つことになりましたが、再びその機運が高まったのは、荒木村重が織田政権を離叛した1578年(天正6)でした。
 天正4年初頭以降、摂津国を領していた村重が、一族であった荒木重堅を三田へ入れ、領国統治を進めており、着実な成果を上げていました。光秀が丹波から撤退した同年2月、村重は、丹波・摂津の国境の村、「母子(もし)」に禁制を下し、素早く国境対応を行ったりしています。ここは、波多野氏の居城「八上」の後背地にあたり、通路でもある重要なところです。
 国境というのは、時の勢力により、実効支配が出たり、引っ込んだりしますので、境目自体は変わりませんが、実質的な状況変化があります。また、八上城の防衛を考えるなら「後背地」は確保しておかねば城が孤立し、脅かされ、物資補給もできません。

戦国時代、現在の三田市北部地域は、そういった重要な地域でした。

1578年(天正6)秋。荒木村重は、織田政権から離叛します。これは信長にとって、非常に深刻な事態となり、状況を悪化させないために、信長自らが出陣して、「初動全力」で鎮静にあたります。結果は歴史が示す通りですが、この頃の三田市北部の様子を少し詳しくご紹介します。

村重の離叛で、波多野氏勢力とは一体化します。この時両者(先に波多野氏は毛利方に)は、織田政権と敵対していた毛利輝元方となります。元々摂津の荒木氏は、丹波国が起源とみられますので、そういう接点も何らかの働きがあったかもしれません。
 さて、毛利方からすると、村重が味方に加わったことで、軍事的には一気に京都間際まで、友軍勢力が拡がり、将軍義昭再入洛が現実味を帯びるようになります。また、織田方へ頑強に抵抗していた、本願寺宗とも地続きの協力関係となります。
 一方の織田方にとっては、天下を平定するための終盤の安定感さえも出始めていた頃ですから、村重の政権離叛は、大きな危機を迎えたわけです。
 信長は、丹波国内とその周辺の事情をよく知る光秀を、再び同方面へ入れ、優先して敵勢力の分断を行いました。今度は光秀がそれらを首尾良く進め、村重勢力の弱体化に貢献します。村重方は、三田、花隈、有岡、尼崎などに追い籠められて、点の勢力維持となってしまいます。

小柿周辺の城館配置(三田市史より)
さて、この頃、村重のかつての主君であった池田勝正も三田市北部に入って活動していたようです。時期としては天正6年(天正5年も余地はある)に入ってからかもしれません。勝正は、1570年(元亀元)6月の家中内訌以来、将軍義昭方として行動していたようです。中央政権の権力が複雑に作用して、勢力が離合集散していましたので、勝正の行動の詳しくはまた後日としますが、備後国鞆に居所を構え、鞆幕府ともいわれる権力体を保持しており、それに従って勝正は、行動していたようです。鞆に近い場所に居た可能性もあり、言い伝えや遺物があります。
 摂津池田家に関する系図に、勝正は「天正6年歿」とあります。また、その他いくつかの史料や遺物があります。そして、勝正の墓と伝わる五輪塔が、三田市北部の小柿という地域にあります。
先に説明したように、この地域は、戦国時代当時は非常に重要な地域です。ここに勝正が入っていたならば、しかも墓があるなら、「戦死」ではないでしょうか。勝正の行動は、一貫性が見られるため、多分、将軍義昭方勢力として、この小柿地域に入り、同じ友軍勢力であった波多野氏と呼応して行動していたのではないかと思います。

伝館跡の石垣(2001年頃撮影)
地元の方に話しを聞いたことがあります。それによると、勝正の縁故地は、この地域に2箇所あり、(1)は、墓のあるところ。ここは、道の分岐を押さえるような立地です。かつて、墓のあるところの直ぐ上に寺があったとのこと。墓はその寺にあったが、廃寺となったために、現在地に移したとのこと。
 (2)は、(1)からすると、対角線上の北東側、小柿三舟会館のある方面にも勝正の墓(三右衛門墓とも)伝わる五輪塔があり、この周辺に勝正に従って移ってきた武士の方々が定着したとのことです。(2)の場所には、その館跡と言われる石垣も残っています。その侍(伝勝正らしき)が没してからは、同地に慈徳寺が建てられ、更に後、山王神社となり、1910年、同村内の天満神社と合祀するため移転しました。山王神社は勝正公が崇拝していたとも伝わっています。
 ちなみに、館跡があったとされる場所は、後背は山ですし、通路もあり出入りは可能です。また川も流れ出ていて水の心配もありません。館を構えるには適した地形です。
侍が没してから山王神社となった経緯はどんな感じなんでしょうね。気になります。また、この慈徳寺というのは、勝正の墓と関係するのでしょうかね
摂津池田氏の菩提寺である大広寺には、勝正が死亡したことは把握されていたようです。法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か。詳しくは、以下の参考ページをご覧下さい

(1)の伝池田勝正墓方面を望む(右の山裾あたり)
これら2箇所の縁故地は、互いに見通しが利き、重要な通路上にあります。そしてまた、それらの真ん中に、高平田中城館(城館配置図中の(11))という推定地もあって、この三点で、通路は完全に管理できる相関にあります。小柿のこの地域からは、丹波(篠山・亀岡)方面と摂津能勢方面へ繋がる道があり、非常に重要な地でした。
他方、1578年(天正6)では、特にこの地域は最前線であり、非常に緊迫した状態の地域でした。そういう地域で、明智光秀、池田勝正、荒木村重(重堅)は、再び接点を持ち、刃を交えたのです。彼らは、かつて、非常に関係の深い仲であったにも関わらず...。
※村重は、天正6年秋には動けずに、三田方面へは入れなかったかもしれませんが、何らかの情報を得ていたに留まるかもしれません。

◎参考:池田氏関係の図録「伝池田勝正墓塔」 (私の過去の記事より)
◎参考:池田筑後守勝正の法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か 

【ごあんない】
兵庫県三田市の状況をまとめた「荒木村重と摂津国有馬郡三田について」という研究発表のレジュメや荒木村重の領国支配についての論文(会報への原稿)「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」がありますので、ご希望される方には、実費にてお分けします。このブログの右帯下部にある「連絡フォーム」からお問い合わせ下さい。


※以下の360°写真は、伝池田勝正墓の今の様子(2019年撮影)です。



2019年5月6日月曜日

新しい世、令和の新元号を戴くこと慶賀の至り。今年は皇紀2679年。

5月1日より、令和の新元号となり、各地で祝賀行事も行われたり、そういったムードになていますね。ただ、年々国家と国民の距離が開くような気もしているのですが、皇居の一般参賀は、たくさんの人が訪れているようですね。

若干、違うかもしれませんが、皇紀2600年を祝う国家行事(祝典)が、昭和15年(1940)にあり、その時の映像がありますので、ご紹介しておきます。外国からの招待参賀あって、その様子も収められています。
※皇紀:天皇の歴史で、西暦と相対する日本独自の紀年法。

凄い時代だったと思います。この人々の時代に、戦争は負けましたが、同じ人々が国家の再建を果たし、今があります。その時に必要な世の中の形ができます。この時は、近代の戦国時代とも言うべく、世界情勢でした。技術、経済力に優れる欧米列強から国を守るため、ある程度の軍国化は自然なことであり、その当時は、それについて何も特別な考えはありませんでした。日本でも、その他の国でも。
 第一次世界大戦の結果、近代戦争に負けるということの悲惨さを目の当たりにして、日本は身構えたところがあるかもしれません。当時も今と同じ、グローバル化、急速な技術の発展と国防をどのように調和させるのか、難しい舵取りを迫られていたことでしょう。国内の意見も纏めにくい時代にもなっていました。

歴史とは、その通りになぞるものでは無く、学ぶものですね。儀式や行事とは違いますから。バカな前例主義はやめて、思考の停止に気づきかないといけませんね。歴史から摂理や真理、あるべき姿を学び、実践しなければならないと思いますね。何の為にそれをするか、ちゃんと考えて行動しないといけませんね。



2019年4月29日月曜日

藤井寺市の伝統工芸品「小山団扇(こやまうちわ)」は、甲斐武田家臣山本勘介がこの地に伝えた!

藤の花を見物に、大阪府藤井寺市の紫雲山葛井寺を訪ねました。とてもきれいで、良かったです。桜もいいですが、他の花もいいですね。最近は、あまり藤の花も街中で見かけないので、少し遠くに出かけないといけません。

葛井寺(ふじいでら)の藤の花
葛井寺(ふじいでら)境内


 お寺も七世紀中頃に興りを持つ古刹で、永い歴史を持つ真言宗のお寺です。近隣には、1300年以上の歴史を持つ辛国神社や古墳群があり、一時代を築いた地域でもあります。街道の曲がりくねり、風景もとても良かったです。
 間もなく、令和の世を迎えるにあたって、意識はしていなかったものの、時間や時代の流れを少し感じることができたのは、とても良かったと思います。

 藤井寺市は、人口6万人ほどの都市ですが、有名なのはやはり、藤井寺球場のお陰でしょうね。今はもう取り壊されて、学校や住宅になっていますが、それもまた、一時代の文化を担った事物です。
 藤井寺市は、生まれて初めて訪ねたところですが、独特の雰囲気があって、それはそれで、文化の多様性や奥深さを感じました。「藤井寺まちかど情報館 ゆめぷらざ」で、色々教えていただきました。 とても勉強になりました。

そこで知ったのですが、藤井寺市の伝統工芸品として、小山団扇(こやまうちわ)というものがあるそうです。この工芸は何と、甲斐武田家臣の山本勘助がこの地に伝えたのだそうです。戦国時代の永禄年間、三好氏の動静を探るため、この地に潜伏。名を変え、隠れ蓑としての生業として団扇の製造販売をしたことから、藤井寺市域に定着したのだそうです。初耳でした。知りませんでした。その後、発展を遂げ、ブランド化すると、江戸幕府将軍や、皇室にも献上されるようになったのだそうです。
  詳しくは、以下のブログをご覧下さい。パンフレットの案内をテキスト化されています。また、観光協会のサイトも上げておきます。

ブログ:なにかいいこと「小山団扇」
https://blogs.yahoo.co.jp/tumumasi2001/38291104.html
藤井寺市観光協会公式サイト
http://www.fujiidera-kanko.info/index.html

また、貰ったパンフレットのイメージも以下に上げておきます。

小山団扇パンフの表面

小山団扇パンフの裏面

この日は、春らしい気候で、とても良い日帰り旅でした。大阪もまだまだ知らない事が多いですし、いいところがいっぱいあります。地域それぞれに魅力がありますね。


2019年4月28日日曜日

人間は二度死ぬ?平成から令和になる今、考えること。

平成の役割りを終え、新しい元号になろうとするその時の言葉として、これが相応しいかどうかはわかりませんが、ひとつの世が変わるその時を目前に控え、時間や人間などといった、半ば宗教的な思いを馳せることも、私の中に時々おきます。

とある漁港(泉佐野市)で見かけた光景も、何だかそういう思いに結びついてしまいます。水槽に、一疋だけの魚が、止まること無く泳ぎ続けていました。


ぐるぐる、ぐるぐる、泳ぎ続けています。たった一疋だけです。

見方を変えれば、これは元気な魚かもしれません。はたまた、この後、大量の仲間がこの水槽に入ってくるのかもしれません。兎に角これは、魚屋さんの水槽だという事は、一瞬忘れて下さいね。

しかし、この光景、私なりに感じたことがあります。一人だけでは生きて行けないし、未来も無い。その光景に見えたのです。

今は元気。だけど、その後です。

動物であれ、植物であれ、継ぐことの不必要は無いはずです。そう言う意味では、お墓は、とっても重要ですし、拠としての意味があったのです。
 しかし、現代日本社会のように、どことも繋がらない状態を続けていては、この水槽の魚のようになってしまうような気がします。今現在も繋がらない。未来を考えて繋がろうともしない。考えようともしない。限度も考えない。これは新しい概念の「自死」だとも思います。大きく見れば、文字通り、社会の自滅でしょうか。

人間は、肉体的に、物理的に滅びます。それが葬式で、それが一度目です。しかし、その後、その人が生きたことと、その行動。更には、それ以前の先祖の繫がりを、目に見えるカタチにしているのがお墓で、今を生きている自分と繫がりを持てる唯一の方策です。それが、現世の苦しみを緩和するための、様々な困難を乗り越える、一つのアイテムとなっているのです。
 しかし、今は、その墓さえも経済的困窮と文化的変質から、物体として残すことを望みません。人の、二度目の死を忌避する方策だったにもかかわらず...。

その「二度目の死」とは何かというと、その人に一番近い人々の心から、その人自体が消えてしまうと言うとです。その連続となれば、今生きているその人は、どこから来たのか、解らなくなるということです。

過去の日本の人々は、それを一番に恐れました。それが無くなる事は、過去も未来も現在も、全てを失うことになったからです。
 それを失えば、物体として人間(の身体)が、そこにあるだけです。それは、モノと同じ事です。戸籍などというものは、記録、データ上のものであって、物体としての証し、がなければ、この世での証明のしようがありません。それは、今も昔も同じ事です。そんな映画もありましたね。

自他の中で生きるから、「己(おのれ)」があります。自分は、人の心の中にあるのです。だから、人の心から自分が消えてしまえば、それが末期(まつご)になるわけです。それが、人間が二度死ぬという意味だと、私は理解しています。

そう言う意味では、新しい元号の「令和」は、昭和が消える、もう一つの新時代を迎えることになるのでしょうね。


2019年2月26日火曜日

新撰組屯所となった京都壬生の八木家は、但馬国守護代八木氏の系譜!?

先日、梅を見に京都へ行ってきました。その日、壬生の新撰組関連の旧蹟も巡ってきました。昔、幕末に興味を持っていた頃、新撰組の史跡を巡っていましたが、京都の壬生寺周辺には行っていませんでした。大阪の生まれ育ちですので、隣県の京都はスグに行けますが、今回初めての訪問となりました。

新撰組について、色々な本を読んていましたが、司馬遼太郎の小説も読んでいました。「燃えよ剣」は、映画やテレビドラマにもなって、司馬氏の代表作でもありますね。

その舞台ともなった八木邸は、新撰組隊士が寝起きしていた頃と同じ場所、同じ造りの状態です。永年、実際に人も住んでいましたので、部分的に改修などはされていますが、ほぼ当時のままです。刀傷や文机も今に伝わっていて、実際にそれらを見ると大変感慨深かったです。




さて、この八木家なのですが、越前朝倉家の縁がある名家と伝わり、この壬生のあたりの取り仕切り役の家柄だったそうです。八木家の家紋も三盛木瓜紋です。

しかし、私が思いますに、室町末期の戦国時代、朝倉家の有力家臣に八木姓はありませんので、それは但馬守護家の山名氏の重臣八木氏の流れを持つのではないかと思いました。
 元亀元年(1570)の朝倉攻めの頃、朝倉氏は若狭国や丹後国、その西の山名氏とも関係を持っていたのではないかと調べていたのですが、この地域の資料に、それを裏付ける有力な証拠が無く、ちょっと調べの手が止まっていたのですが、この八木邸を訪問し思わぬ接点の可能性も見つかりました。但馬山名氏には、四人の有力者「近世の家老ともいうべく守護代(しゅごだい)」が居り、室町時代末期には、守護を凌ぐほどの勢いを持っていました。
 一方で、但馬・因幡・伯耆国を治めた山名氏は、没落しつつあったとはいえ、名家でしたので、豊臣秀吉のお伽衆となり、家は存続します。ですので、この流れで山名氏の有力家臣であった八木氏も京都に出てきたのではないかとも、今は想像しています。
 しかし、実は越前国守護となった朝倉氏の出莊が、実は「但馬国朝倉」であり、その時代からの繫がりである可能性もあります。また、朝倉氏は、平安時代から大武士団を形成し栄えていた日下部氏の流れをくむ氏族のひとつで、実は八木氏もこれに同じ系譜を持っています。
 確証はいまのところ無いのですが、何れにしても、何の縁も無いのであれば、当時であっても公言することは難しい筈です。単純に、知っている人の数が多いからです。ですので、何らかの接点がある事は、間違い無いと思います。

「京都鶴屋 鶴寿庵」の栞には、
当店は、御菓子司”京都鶴屋”と名乗ります。当家「八木家」は天正年間中(室町時代)に、京・洛西壬生村に居を構え当代まで十五代。幕末には新撰組発祥の地、壬生屯所でありました。  (後略)
とあります。

天正年間は20年間ありました。朝倉家が滅びたのは、天正元年です。本能寺の変で織田信長が斃れたのが天正10年。そのほとぼりが醒めた頃に八木家は京都に出てこられたのでしょう。

【参考】播磨屋 但馬八木氏


2019年1月13日日曜日

文化とは何か - 摂津池田家滅亡から考える(文化形成・権威と権力) -

近年、世界中で移民や国のあり方に、大きな課題が投げかけられています。地域社会共通の認識といえる「文化」や国境の意味について、改めて考えるようになっています。
 技術の発展で、人やモノの移動、通信・金融の交換が容易になり、いわゆるグローバル化が進んだ結果です。

池田勝正が生きた室町時代末期、日本、近畿地域でもそれは起きていました。摂津池田家はその、いわばグローバル化の中で成長し、反映を築いたのですが、そのグローバル化によって、人の心を繋ぐ基本単位である「家」や組織の文化が維持できなくなり、瓦解したとも言えます。

「文化」とは、日常的によく耳にしますが、それは一体何でしょう?

人間の意識には、この文化が非常に重要であるはずですが、それについて、日頃あまり考えを深める事は無いように思います。島国であり、多分、ほぼ単一民族国家であるからでもあります。

この文化について、滅びてしまった摂津池田家を通して、考えてみたいと思います。先人は今、私たちが苦しんでいる状況を既に経験しています。近年は、歴史学に「相似性」概念を持ち込む人もあり、私はそれに影響を受けています。
 同じ日本の中で、前例としての事実が歴史であり、経緯です。要因が同じである場合が多いです。一方で、世界に目を向けた時、日本の社会経験が、世界よりも先である場合もあります。例えば、宗教と政治の関わり方とか、国民皆保険とか、教育、医療などです。

ちょっと脱線しました。話しを元に戻します。

本題の前に、「文化」についての定義をはっきりさせておかなければなりません。
 「文化」を辞書で引いてみると、
  1. 文明が進んで、生活が便利になる事。
  2. 真理を求め、常に進歩・向上をはかる、人間の精神的活動(によって作り出されたもの)。
と書かれています。 ※新明解国語辞典第三版/1959.9..20、三省堂発行
 更に、「文明」が分からず、続いて辞書を引いてみると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増す事。
と書かれていました。
 そのわからない部分を足して文化を説明するための文章を勝手に再構成すると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増し、生活が便利になる事
という事になり、現代の状況(生活)を理解する事ができます。

しかし、文化の項目の(2)について考えると、疑問が残ります。ある意味そうだと思いますが、(2)の意味を「文化」という言葉から、日常的にその性質を感じているでしょうか?

さて、それらの説明で、私の目の前にある池田固有の歴史的遺物(文化財、埋蔵文化財も含む)を理解ができるかどうか、また、説明がつくかどうか。大変な疑問を感じていました。
 (1)の意味で考えれば、何の格付けもされていない歴史的遺物というのは、古いだけのやっかいものでしかありません。これはごく一般的な認識です。しかし私は、もう一つの意味である(2)の事について、長い間考えていました。

私は「文化」というのは、言い換えれば「共有」ではないかと感じています。私の中では「文化」を「共有」と言い換えることによって、(1)と(2)のどちらも説明がつくような気がしています。
  進化の過程で、社会が共有してきたもの。それがそこに「文化財」として残っているという事は、先人を含めた私達が、歩んできた軌跡を再認識する事であり、また今後の応用(社会や地域)の元であると、説明ができると思います。
 そう意味で、曖昧な「文化(財)」という言葉を、あえて「歴史的文化財」「芸術的文化財」ときちんと区別して考える事で、しっかりとした意識の基礎を作る事ができるのではないかと考えています。
 
さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題です。

冒頭でも触れましたが、文化とは、私達が平和で穏やかに生活するにおいて、非常に大切な基礎になりますが、その重要性に気付く事はあまりありません。文化とは「共有」であり、生きる上で全ての根幹を成す「社会風土」でもあります。
 日本は長い間、近代社会となってもなお、つい最近まで「家制度」がその中心となり、個人が、一族や血縁を元に結束し、互いを守っていました。
 戦国時代もそうです。その名の通り、戦国の世の生活ですので、生死にかかわる保護を「家制度」を中心に求めていました。それについて、摂津池田氏を取り上げて、文化を考えてみたいと思います。もちろん、今は今の文化がある事は良く理解した上で進めます。

摂津池田氏は本姓は藤原で、地名を名乗るようになって、「池田」と称していました。応仁の乱の頃、「充正(みつまさ)」の代で、大いに発展し、中興と考えられています。
 池田氏は、その後200年程に渡り成長を続けましたが、勝正の代が独自権力体としては最後の当主です。
 私は勝正を中心に前後四代程を見ていますが、特に池田氏が飛躍的に発展したのは、いち早く官僚制を採り入れたことによるものです。
 意思決定と実行を別々にしたため、物事の進行が非常に速やかになって、周辺の同規模の国人衆から抜きん出た成長を遂げます。また、その成長過程で人材不足ともなり、必ずしも血縁を伴わない有能な人材を採用するようになります。その中に、荒木家や中川家などがあります。
 また、その本拠地の立地も5本の国家的主要道を通し、他にも様々な街道が扇の要のように領内で交差していたため、人や物が集まりやすい環境にありました。

そういった環境もあって、摂津国内では最大級の国人に成長し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの日記には「要すれば軍備の調った一万の軍隊を用意できる。」とも紹介される程に有名で、大きな勢力でした。

しかし、そんな池田氏も滅んでしまいます。それは何であったか。

急成長したために「家中文化」が崩壊したためだと考えています。
 これはもう少し詳しく説明しないといけませんが、価値を「共有」するための統治の仕組み(装置)を作り出せず、感覚・感情で物事を判断したためだと考えています。必要な組織化、権力の整理を行えず、時代の要請(意思決定)に応えることができずに、対立を経て、家が滅んでしましました。
 また、その過程での決定的な悪要素は、当初は、当主(惣領)の補佐役としての家老(老人(おとな):池田四人衆)が、代を経るにつれて、独自権力化し、当主の選定にあたって対立する程になってしまいます。いわば、二重権力状態でした。
 私は勝正という人物は、池田四人衆に擁立された惣領であり、権力はどちらかというと、四人衆側の意向が強く働く実情であったと考えています。傀儡とまでは言えないですが、勝正の代になると、当主を補佐する役目が変化していたと考えられます。
 最終的には、四人衆と勝正も対立してしまい、一時的に当主を置かない時代も出現します。それ程に四人衆の権力が強かったと言えます。
 しかし、それもうまく行かず、四人衆自体が分裂し、それを以て池田氏は滅びてしまいました。この時、四人衆の中に荒木村重が居り、分裂の原因は池田一族の血と、よそ者の区別が決定的になったものと考えられます。運命共同体ともいえる組織の、文化を共有する装置が無かったための悲劇であると考えています。

翻って、今の私たちも、文化というものが理解されず、作ろうとしなければ、このようにあらゆる場面で、相違・対立が起き、意思統一ができなくなります。
 家庭、地域、府県、国など、単位が色々ありますが、文化があるからこその、その善悪の基準ができ、その内側で理解し合ってまとまります。意思形成の共有ができ、平和で穏やかに暮らせ、経済活動もできるのです。

今、移民の問題が世界的に深刻化していますが、文化そのものを理解することをしてこなかったためだろうと思います。地域文化を保持する工夫を打ち出さず、思考の停止状態であり、今、近代社会の概念と価値観を永続させるための分岐点に立っていると、非常に関心を持っています。価値の共有ができず、社会がバラバラになった時、本当に弱い存在である個人はどう生きるでしょう?
 
その意味で、文化財を大切にしない行為は、心の現れだと考えています。今や自治体(行政)そのものが、率先して歴史的文化財を蔑ろにしている状況です。考えずに、ただ見ているだけです。自治体や行政の意味さえも、もう衰退しつつあります。就職先のひとつみたいなものです。統治力(ガバナンス)が、低下すればどうなるか。無法地帯となります。法律だけで全て統治はできないのです。それは文化による「善悪の判断」が、機能しているから社会が支えられているのです。
 個人的には、建国以来、また、太平洋戦争敗戦直後よりも深刻であると感じている程です。これから先は、これまでとは全く違います。

国家観の欠如が、これまでに無い、事件と事故を起こしています。これまでには考えられなかったことが頻発しています。文化はゆっくり壊れています。この先は、更に壊れるでしょう。

文化は簡単に壊れます。組織も簡単に壊れます。例えるなら、胴上げの時、それぞれが役割りを忘れて、手を引っ込めるだけです。一度壊れてしまえば、二度と再生できません。


摂津池田氏の組織変化や権力構造の変化については、詳しく知りたい方は、こちらの資料もご活用下さい。
※用紙サイズはA3ですので、DLいただき、データをコンビニのコピー機で出力しますと、とてもきれいに印刷できます。

【追伸】
先に述べた、国語辞典からの言葉で文化の意味を考えた時の(2)の項目について、その意味で「移民」を考えるなら、簡単に自分の国を棄て、国作りの根本である「民族自決」も理解できず、愛国心で以て国を支えるつもりも無く、自分の都合で住む場所を変える性質があるなら、地域「文化」とは無縁であり、共有することもできないでしょう。


【オススメ動画】
タムボムニックTV「今 江藤淳みたいな日本人が必要!」2019/05/06 に公開
ニックさんが、運営するユーチューブチャンネルです。タイトルにはありませんが、内容は、文化についてです。日本に住む外国人から見た日本の文化とその先行について、感想を述べてくれています。
 大変簡潔に述べられていて、大変参考になります。是非、ご覧下さい。


2019年1月5日土曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(はじめに)

2020年の大河ドラマは「明智光秀」が取り上げられますので、それに向けて、池田勝正・荒木村重との接点を取り上げた特集を組んでみたいと思います。

明智光秀は将軍となった足利義昭をその流浪時代から支えた人物で、将軍となった義昭からも信頼を得ていたようです。
 義昭が将軍となった永禄11年(1568)秋からは側近として活動していたようです。初期の頃は、あまり当時の史料もありません。また、同じ側近でも、細川藤孝は領知を桂川西岸の山城国内に与えられ、幕府勢力の武将としても活動しますが、光秀は将軍義昭政権初期の頃は、文官のような活動を主に行っていたようです。

しかし、光秀はもちろん武士ですので、いざとなれば戦いにも動員されますが、領知もまとまったものはなかったようですので、武士と言っても、将軍の親衛隊のような状況だったようです。

一方、摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領池田筑後守勝正は、時の将軍(幕府)からも頼りにされる存在でしたが、当時の中央政治に家中政治も大きく影響を受け、不幸にも分裂の後、家制度の解体の憂き目に遭います。
 代わって、荒木村重が池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護格に成長します。そのタイミングで明智光秀も新境地を開き、戦国武将として立身出世します。光秀は織田信長政権内での新興勢力として、村重とも関係を深めていきます。両者の相性も良かったのか、縁組みをして絆を強くします。
 しかし、何の因果か、両者は遅いか、早いかの違いだけで、結局は織田政権から離れ、家は滅んでしまいます。
 
詳しくは、別立ての記事をご覧いただくとして、今のところ解っている光秀・勝正・村重、三者の接点(エピソード)を以下にあげてみます。

<明智光秀と池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)>
◎京都本圀寺の戦い(永禄12年正月)
越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」(元亀元年4月)
摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと(天正6年秋)



2018年10月19日金曜日

【貴重な資料映像】日本陸軍 最前線の中隊本部の様子

ユーチューブを見ていて見つけました。中国大陸での実際の中隊本部の様子です。この映像の解説には、「中支那派遣軍第11軍。最前線の中隊本部の様子。生々しいドキュメンタリー。」と短くあります。

 刻々と変わる様子を把握しながら、必要な手立てを講じるために、控えている将校に次々と指示を与えています。また、現場から状況を伝えに来る伝令。それを聞き、地図を見、立体的に状況を把握していく中隊長。

出入口の外には、馬や犬、忙しく動く兵。大砲と機関銃の音は、四六時中聞こえています。また、小隊長なのか、担架で運ばれて来て、中隊長以下、将校がその様子を見に行きます。戦死したのかもしれません。

場面の最後は、本部を移動させます。後退では無く、戦況が好転したのか、前進させるようです。

戦国時代の本陣もこれに近い感じだったかもしれません。もっとも、大砲や機関銃を主体にした戦い方ではなかったので、高いとこから見下ろして、状況を把握していたのでしょう。鉄砲玉もそんなに遠くまで飛びませんので、もっとオープンな空間で指揮をしていたのかもしれません。
 しかし、伝令が来たり、出したり、という状況は同じで、そういう連絡や状況把握の仕方は、そんなに変わらないでしょう。

いずれにしても、実際の指揮所の様子が映像で残っていたのは、大変貴重だと思います。




2018年10月17日水曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」)

元亀元年(1570)春、幕府・織田信長の軍勢は、天皇からも勅許をもらい、官軍(皇軍)として越前朝倉氏を攻めたのは、大変有名です。
 実際の攻める目的は、以下の複合的な要素を一気に解決する、非常に考え抜かれた行動でした。
 
 (1)若狭武藤氏討伐
 (2)若狭武田氏の守護家正常化支援
 (3)湖西地域の支配強化
 (4)比叡山に対する牽制
 (5)山陰地域の山名氏に対する示威行動
 (6)浅井氏の動向確認
 (7)天皇・公家領の回復
 
一応の表向きとしては、(1)(2)による、越前朝倉氏の討伐でしたが、実は、(6)の浅井氏の動向確認も大きな目的でした。
 この朝倉氏攻めの前年から、浅井氏が織田氏から離れた旨の噂(『多聞院日記』)が出ており、織田信長の義理の弟である浅井長政の行動が本当に噂通りなのか、確認する意味もあったようです。将軍義昭政権を支える織田家の身内から、そのような事が起きれば外聞も悪く、政権にも良い材料にはならないからです。

越前朝倉氏攻めは、そのような複合的な目的を一気に解決するため、大変用意周到に計画され、軍勢に公家も同行していました。行軍中に改元も行われています。また、予備の軍勢も用意し、京都にも準備(更に各地の武将にも準備をさせていた)していました。状況不利になった場合に、総崩れにならない工夫もされていました。
 現在の通説では、越前朝倉氏攻めと「姉川の合戦」は別々のものと考えられていますが、作戦からすれば、これは一体化したものです。作戦の筋書きとしては、
 
”浅井方に離叛の動きが見られる場合、戦況が悪ければ躊躇いなく撤退を行う。速やかに体制を立て直し、敵の本隊に決戦を挑み、殲滅する。”

といった流れであったと考えられます。そのための「姉川合戦」であり、そのための予備兵力の用意であった訳です。
 姉川合戦では、将軍義昭の出陣が計画されており、京都に集められた予備の軍勢を高嶋郡へ出し、決戦場(姉川)の「後詰め」を行う計画(将軍義昭御内書・細川藤孝奉書などにより)でした。
 それが、軍事行動の一連の計画であり、ストーリーでしたが、結果的にはその通りに進まず、誤算を生じてしまいます。それは歴史が示しているところです。

池田勝正は、この動きの中心的人物でもありました。幕府方を支える中心勢力で、越前朝倉氏攻めでは、3,000の兵を出していました。
 当時の政治制度上、将軍(幕府)が天皇を護っていますので、幕府を支える一勢力であった織田家は、有力な支援者という立場ではあるものの、池田家と制度上は同列です。実際の当時の社会的な見方としては、少し違うと思いますが...。
 そして、その幕府組織の中心で活動していたのが明智光秀で、朝倉氏攻めでは将軍義昭の代わりに従軍していたのでした。その将軍が朝倉方に身を寄せていた時から随行して、事情をよく知っていたからでしょう。他にも何人かの同僚も出陣していましたが、一団を成す程の軍勢ではなく、小規模であり、政治的な立場での従軍だったと思われます。
 ですので、池田勝正と明智光秀は、同じ幕府方の人物として、意思疎通も蜜に行っていたと思われます。また、公家衆一行を警固するための厳重な手配もされていたことでしょう。
 
そんな中で起きた「金ケ崎の退き口」でした。警戒しながらの行軍でしたが、織田信長は、情報に接すると直ぐに、公家衆を警固しながら、京都へ向かいます。これも予定されていた道程を辿りましたが、有力幕臣の朽木氏の領内とはいえ、不測の事態に備える緊張感はあったと思います。
 撤退の追撃を阻むため、幕府勢の主力である池田衆が「殿軍」を努めることになったのは、自然な流れであったと思われます。光秀は幕府方、将軍義昭の側近としてこれに従い、また、織田方からは木下秀吉が手勢を率いてこれを支援しています。この数は、その時の秀吉の経済力からして、池田衆程では無いでしょう。

撤退戦は、緊張感が走ったようですが、実際はそれほど厳しい追撃は無く、被害事態は少なかったようです。5月の上旬までには京都を経て、池田衆は帰城したようですが、次の出陣に直ぐさま備えなければなりませんでした。

6月28日、姉川で合戦が行われ、織田・徳川連合軍は、朝倉・浅井連合軍に苦戦の末に勝利します。その苦戦の理由は、将軍義昭の高嶋郡への出陣ができず、後詰めを欠いたためです。幕府勢の主力であった池田衆が、出陣できなかったためです。
 三好三人衆が、池田家に調略を行い、池田家中で内紛が起きたことによるもので、当時の池田家は、それ程の影響力がありました。
 この時、一方の明智光秀は、将軍出陣のため、高嶋郡や若狭国方面への調整を行っていました。将軍が出陣した際には、再び池田勝正と明智光秀は、行動を共にしていたかもしれません。

池田家中は、6月18日に分裂し、勝正は居城である池田城を追われます。間もなく、一族的な存在であった原田氏の城、原田城も内紛が起きています。この頃、各地の勝正派は、勝正を頼って集まったと考えられ、この一団が京都などにしばらく留まって、幕府方として活動していたと考えられます。
 勝正と光秀も、元亀争乱の難局を乗り越えるため、互いに協力して、活動する場面もあったことでしょう。

越前朝倉氏攻めの詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)




2018年6月9日土曜日

戦国武将池田勝正の権力構造

摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領、池田筑後守勝正について、永年研究をしているのですが、最近になって何となく気づいた事があり、急に勝正像の輪郭が出てくるようになったような気がします。

その結論を先に言うと、勝正はそれまでの惣領の権力とは異なり、家老(官僚)であった池田四人衆によって立てられた当主であると考えられます。つまり、順当な流れとして捉えられている、当主の嫡男から選ばれて、家中が従うという、単純な民主的手法では無いと思われます。これが異常とか、突出したということでは無く、その時の均衡で生まれた絶妙な権力体であったと思われます。
 この経緯や理由は、様々にありますが、四人衆の独自権力行使とその活動の最大化の始まりであったと考えられます。
※厳密に言うと、四人衆のこの権力指向は、前代にもあったので、これはこれで詳しくご紹介しないといけませんが...。
 
結局、この四人衆権力の強大化が、摂津国最大級の繁栄を誇った池田家を崩壊させてしまう事になります。勝正の四人衆による擁立が、その始まりで、これを機に家中政治での権力強化・確立が成されたのかもしれません。また始めは、両者共に「もちつもたれつ」だったかもしれません。
 それまでは、家中の様々な意見や権力が分立していた状況の、集約が進んだ可能性もあります。
 
さて、私の結論である「勝正が四人衆によって擁立され、それまでの当主とは性質が違う」という点について、論を進めたいと思います。
 先ず、史料です。この史料は、池田四人衆(この時は三人衆)により、将軍義昭へ、池田当主として民部丞を立てる旨を申請して、将軍から返答を受けています。元亀3年と思われるものです。
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98

-(史料1)-----------------------
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず處、詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
(年記を欠く)11月6日
------------------------

この中で四人衆は、前の当主でもあった勝正を再び当主に立てるのでは無く、民部丞という別の池田家中の人物を立てると申請しています。

一方で、民部丞なる人物ですが、この人物は元亀元年6月の池田家内訌で勝正が失脚した後に立てられたと思われる代表者(当主)です。史料がありますので、ご紹介します。
 それらは全て元亀元年の発行で、宛先は広範囲ではありますが、池田家が禁制などを下した実績のある地域や組織です。また、この民部丞の花押は、3通とも一致しますので、同一人物であると考えられます。以下、史料をまとめて示します。
※元亀元年7月分:島本町史(史料編)P443 / 同年9月分:川西市史4(資料編1)P456 / /同年11月分:箕面市史(資料編2)P414

-(史料2)-----------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事並びに放火事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、国質・所質に付き沙汰之事、一、非分申し懸け族(候?)事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩に於て者、速やかに厳科に処すべき者也。仍て件の如し。
元亀元年7月 
------------------------

-(史料3)-----------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
元亀元年9月 
------------------------

-(史料4)-----------------------
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
元亀元年11月5日 
------------------------

この民部丞の発行した直状(上から下への通達形式をもった書状)は、四人衆による副状が今のところ見当たりません。ですので、民部丞は一定の権力として、地域社会の認知は受けていたものと考えられます。
 しかし、民部丞についての史料はこの3通の他には無く、活動実態は掴めないところがあります。この民部丞の禁制発行の後、元亀3年の秋頃に、池田四人衆によって再び当主として擁立するような動きがあったと見られます。

『荒木略記』など、後世の「軍記物」レベルですが、勝正の失脚後に当主を立てたとしている記述があり、これがそれにあたるのかもしれないと考えています。史料として裏付けができなくない可能性があります。

いずれにしても、そのような経緯があるとすれば、四人衆が当主を独自に決められる程の権力となっており、立てたり、廃したりしている様子も史料から窺えます。
 一般的な理解や感覚を以て見れば、民部丞が全うな当主であり、尊敬と実力があれば、このような状況は決して生まれる筈がありません。普通の感覚と環境であれば、両者は感情的な衝突に発展するでしょう。しかしそれは、武力での解決が見られず、平然と起きています。また、民部丞が池田家当主が代表としてでは無く、四人衆が幕府に直接交渉もし、用件を進めて、上位権力とも堂々とやり取りしています。
 元亀3年11月の史料内容からすれば、民部丞も勝正も、共に前池田家惣領格ですが、民部丞の方が勝正よりも時局に対するために都合が良いと考えたのか、四人衆は民部丞を擁立しています。また、勝正を立てると都合の悪い事があったのかもしれません。どう考えても、幕府への貢献は勝正に大きな実績があります。
 一方、この頃、このように勝正の名前が上がるわけですから、確実に生存しており、連絡のつく関係でもあったことは確実だったのでしょう。

さて、このように、池田四人衆が当主に代わる権力体になった事から、都合の良いことと、悪いことを操作する面もあったのかもしれません。時代と状況が非常に早く複雑で、判断の誤りや失敗も多くあった事でしょうし、人的なつながりも複雑になり、混沌としていた時代が家中にも及んでいたことでしょう。四人衆権力があったとしても、采配が難しくなっていたと想像できます。責任や権利が自分の力量を越え、結果的に自業自得に陥ったのだとも思われます。あれ程の繁栄を誇った池田家を自分の代で崩壊させてしまったのです。

未だ集めるべき史料と証拠を、筆者は手に入れていないのかもしれません。また、もう少し、細かな事物があると思います。これはこれから追うとして、今のところ、そのように考えています。


2018年2月12日月曜日

奈良市油阪にある草鞋山西方寺と池田勝正について(奈良東大寺合戦)

西方寺表門
草鞋山(そうあいざん)西方寺は、池田勝正に縁があるお寺でもあります。松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年(1567)、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。
 この時の様子について、『多聞院日記(以下、多聞院)』に詳しく記述があります。

5月2日、池田勝正など三好三人衆勢が10,000程の兵を率いて東大寺へ陣を取ります。『多聞院』同日条をご紹介します。
 
-(史料1)-----------------------
石成並びに池田衆以下10,000計りにて東大寺へ陣替え、念仏堂・二月堂・大仏の廻廊等に陣取り了ぬ。松永弾正衆は戒壇院に籠り、大天魔の所為と見たり。浅猿浅猿。
------------------------

同月5日、池田勝正と三好山城守が交代の兵として4,000〜5,000程を奈良へ入れます。同日条の『多聞院』です。

-(史料2)-----------------------
路次不通の間社参叶ず。日中後雨下り了ぬ。一、池田衆並びに三好山城守番替えとして、4・5,000程越し了ぬ。
------------------------

この奈良の三好三人衆方と松永久秀方の闘争の様子が、京都へも伝わります。『言継卿記(以下、言継)』5月15日条です。

-(史料3)-----------------------
今日摂州之池田・篠原等、和州へ陣立て云々。8,000計り云々。三好下野守以下、二月堂、東大寺大仏殿、高畠等方々陣取り。12,000計り之有り。三好左京大夫・松永弾正・同右衛門佐以下、多聞城・興福寺・東大寺之戒壇等之持ち云々。5,000計り云々。
------------------------

西方寺本堂
その2日後の17日、池田勝正が奈良油坂の西方寺へ移陣します。『多聞院』5月17日条です。

-(史料4)-----------------------
摂州池田自身越して、今日西方寺に陣取り了ぬ。三好下野守は此の間、天満山にありしも、西へ廻りて西の坂に陣取り。以上7〜8,000程西へ廻し了ぬ。石成大将として念仏堂にありし衆は、氷室山法雲院の後ろの畠に取り寄せ了ぬ。筒井は大乗院山同所也。寺内へ通路絶し了ぬ。
------------------------

国宝転害門
この時、戦況の変化で、三好三人衆方が要所へ陣を置く、陣替えを行ったようです。勝正はその中でも、佐保川の南、奈良市街の段丘上の西端、油坂の西方寺へ陣を取っています。
 その翌日の夜、池田勝正は多聞山城の橋頭堡である宿院城に夜襲をかけますが失敗し、100名程の侍大将である下村重介という武将が戦死。攻略は失敗に終わります。また、これについて松永久秀は、城下の火の用心のため、坊舎を取り壊すよう指示を出しています。
 『多聞院』5月19日条です。

-(史料5)-----------------------
一、昨夜宿院の城へ夜打ちして、池田衆損じ了ぬ。㝡福院(さいふくいん)へ込み入り了ぬ。(下村重介死に了ぬ。100計りの大将と云々)事の終い次第也。坊舎をもこぼち了ぬ。並びに金龍院辻の城の火用心に、坊を取り壊すべくの由申され歟。浅猿浅猿。
------------------------

転害門に残る銃撃戦の跡
22日、どちらの手かは判りませんが、多分、松永方だと思います。未剋(午後1時から3時)に宿院城近くの町が焼き払われています。
 同日条の『多聞院』です。
 
-(史料6)-----------------------
未剋に二条郷・内侍原(なしはら)以下焼き払われ了ぬ。笑止笑止。
------------------------

この事態に池田勝正は、更に強気な態度を見せ、西方寺から更に東の「マメ山(大豆山)」へ陣を進め、宿院城至近に兵を寄せます。『多聞院』5月23日条です。

-(史料7)-----------------------
一、今暁マメ山へ池田衆陣を寄せ了ぬ。
------------------------

二月堂
包囲を狭められる松永久秀は、この打開策として、その翌日、兵を出して無量寿院などを焼いて、三好三人衆勢の更なる前進に備えます。『多聞院』5月24日条です。

-(史料8)-----------------------
夜前多聞より無量寿院焼き了ぬ。一、今暁法輪院へ三人衆入り了ぬ。之依り宝徳院・妙音院・徳蔵院以下悉く以て多聞山より火矢にて放火了ぬ。
------------------------

多聞山城は要所に城や砦を配しており、攻めるのは大変難しかったようです。佐保川を天然の堀として、その南側の丘陵上に橋頭堡としての宿院城を築き、そのすぐ西側の北小路には飯田氏の城(北小路城)が、東の雲井坂にも砦がありました。
 また、宿院城から1里(4キロメートル)程北西には超昇寺氏の城、更に多聞山城から北東に2里(8キロメートル)程には鹿背山城、東の柳生氏とも連携しています。

三好三人衆勢が、完全に多聞山城を包囲している とは言い難い状況ではありました。だからこそ、東大寺域内に陣を取ることを考えたのではないかと思います。

28日、三好三人衆方筒井順慶衆の秋山勢が、遂に多聞山城を攻め始めますが、守りが固く、決定打に欠く状況だったようです。
 しかし、この時に多聞山城攻めの橋頭堡構築に成功し、宿院城をも東西から挟むカタチを取ることができたようです。『多聞院』5月28日条です。
 
-(史料9)-----------------------
一、申刻(午後3時〜5時)秋山衆無量寿院(場所不明)の屋敷門の築地に矢倉を上げ打ち寄せ了ぬ。手負い少々之在り。当座2人死に了ぬ。間僅か24〜25間(約450メートル)歟。
------------------------


東大寺南大門
この後、多聞山城攻めは膠着状態となり、他の地域での交戦が行われたようです。
 8月に入ると、多聞山城攻めが再び始まり、16日に軍勢をまとめ、三好三人衆勢が動きを見せます。『言継』8月25日条です。

-(史料10)-----------------------
去る16日大和国南都の儀、松浦・松永彦十郎等興福寺自り出、三好日向守以下同心、池田手へ出云々。
------------------------

東大寺南大門柱に残る弾痕
同じ日、奈良興福寺の塔頭多聞院の英俊もこの動きを日記に記しています。『多聞院』8月16日条です。

-(史料11)-----------------------
一、早旦より三人(衆)東西へ出勢了ぬ。午刻(午前11時〜午後1時)に松浦・松山人数200計りにて裏帰り、西の手へ出了ぬ。
------------------------

同月21日、池田衆は松永方の超昇寺勢と交戦を行います。この場所は不明ですが、西方寺から大豆山の陣にかけての、佐保川を挟んでのことかもしれません。この交戦で双方に少し戦死者が出たようです。『多聞院』8月21日条です。

-(史料12)-----------------------
超昇寺殿(現奈良市佐紀町)人数、摂州池田衆出合わせ一戦に及び、少々双方死に了ぬ。
------------------------

南大門側面の弾痕
この後、両陣営は一進一退を繰り返しつつも、徐々に松永方が圧され始め、多聞山城に三好三人衆勢が迫ります。総攻撃を前日に控えて、準備をする三好三人衆勢の陣へ松永方が夜襲をかけた運命の日、10月10日を機に、一時的に形勢は逆転し、闘争は更に泥沼化します。

池田勝正も西方寺の僧侶も、この時の火を見ていたはずです。勝正は特に大仏殿に陣を置いていましたから、間近に見ており、どんな気持ちで、大仏が焼け落ちる姿を見たのでしょうか。池田勝正が西方寺に陣を取った年、奈良では歴史的な大事件が起きた年でもありました。
 草鞋山西方寺について、まとめられている資料がありますので、ご紹介します。いつものように平凡社の地名シリーズです。
※奈良県の地名P542

-(資料1)-----------------------
【西方寺】(奈良市油阪町)
草鞋山(そうあいざん)と号し西山浄土宗。開基は祐乗と伝える。もと東大寺の別院で佐保山麓にあったが、永禄年間(1558-70)松永久秀が多聞城を築く際に移して西方寺と改めたという。本尊阿弥陀如来坐像(国重文。鎌倉時代)は、廃眉間寺(現在は現法蓮町)の旧仏といわれる。銀杏の大木があり、厄除銀杏とよばれる。西北の墓地は奈良で最大、南都惣墓と称され、室町期の石仏や石塔が見られる。
-----------------------(資料1おわり)-

続いて、随分前に西方寺さんを訪ねた時にもらった案内(パンフレット「参拝の栞」)を抜粋してご紹介します。

-(資料2)-----------------------
◎開基は行基菩薩
皆さんから西方寺と呼ばれているこの寺は人皇45代聖武天皇の御宇神亀年間、行基菩薩によって多聞山(今の若草中学校付近)に創建されました。今でも時々西方寺のものと見られる屋根瓦や疎石が出てきます。何れにせよ西方寺のそもそもの基は相当に古く少なくとも平成の今日から1200余年前には既に開かれていたという事になります。

 ・ほろほろと鳴く山鳥の聲きけば 父かとぞ思う母かとぞ思う。
 ・六つの道おちこち通うはらからも 我が父ぞかし我が母ぞかし

という和歌は西方寺の開基行基菩薩が多聞山でお詠みになられたものであるといわれます。余りにも昔のことですので、行基菩薩をおしのびする形見の品はありませんが、この表の門だけは多聞山から移転後も現存する唯一の建造物である点に歴史の重みが感じられます。その右後方に見られるのが厄除け銀杏です。
※表門は平成25年(2013)に建て替えられています。

◎移転再興と南都総墓所の御綸旨
しかるに、天下麻の如く乱れた室町時代、戦国武将の一人松永弾正久秀が多聞山城を築くにあたり、時の住持、祐全(ゆうぜん)上人によって現在の地に移転再興せられたのであります。
 それが永禄2年(1559)であり、正親町天皇からは南都総墓所の御綸旨も下賜されました。再興される前年には織田信長と今川義元が桶狭間で、再興の翌年には上杉武田の両将が川中島で覇を争うという戦乱の時代に当たります。毎年6月18日の祐全上人の祥月命日には西方寺婦人会員達が祐全上人とお弟子の祐範、祐乗の三上人の旅僧姿をして御生前の御苦労をしのぶ開山忌がつとめられます。

◎重文指定の御本尊と宮本武蔵と山号
西方寺の本堂正面須弥壇におまつりしている御本尊阿弥陀如来は平安時代の高僧慈覚大師が一刀三礼の丹誠こめてお作りなされた有り難き御木像で京都の真如堂の御本尊と並び称されています。
 若き日の剣聖、宮本武蔵が修行の道中、この寺に逗留し朝夕、心経と念仏をとなえてお仕えした由来にもとづき心経念仏の弥陀とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
 西方寺の山号を草鞋山(そうあいざん)と申しますのは現在地に移転再建された室町時代、この付近一帯が広野原で、春日神社や東大寺に参詣にこられた京都の勅使や公卿達、諸国行脚の道中奈良の地を訪ねられた修行僧達がこの地でワラジを履き替えたり、紐をしめ直したりされていた事から草鞋野(わらじの)と呼ばれていたことに因んでつけられたものであります。

◎茶席空庵の由来
西方寺の庭に空庵(くーあん)という茶席があります。室町時代の永禄2年にこの寺を多聞山から現在地に移転するという大業を成就せられた中興開山祐全上人が隠居せられた際に弟子で第二世をついだ祐範上人が御師匠の老後をお慰めするために創建せられたもので、その様式形態は洛西の苔寺にある茶席湘南亭と同じ小庵好みといわれ手摺りつきの露台が付属している事、その露台の屋根裏が土天井である事、正客が、下座につく所謂下座床である事等に特徴があるとされておりますが、元文5年(1740)、火災で焼失したものを昭和4年(1929)に総代の井倉宗苔氏(当主乙弥太氏の祖父)が私財を惜しみなく投じて昔通り復元せられたのはまことに奇特の至りであります。

◎そのひと言
そのひと言で はげまされ そのひとことで 夢をもち
そのひと言で 立ち上がる そのひと言で 風が立ち
そのひと言で がっかりし そのひと言で 泣かされる
ほんのわずかなひと言が 不思議な大きな力をもつ
ほんのちょっとのひと言が
察しあいよろこばせあい 折れあいて
あわぬ性分 あわす合掌
-----------------------(資料2おわり)-

時代の変化で、このあたりを訪ねる度に町の様子は変わっています。少なくなりつつありますが、今も残る歴史的遺物が、過去を思うキッカケにしてくれます。

2018年2月4日日曜日

永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻について

筆者は、但馬・因幡山名氏の事は、池田勝正も従軍したため、関心を持っています。

永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻は、複合的な目的を持っていたと考えられ、そのひとつに、山名氏の制圧もあったと思います。毛利の要請もあり、幕府の軍事行動は、協力関係を保ちながらの共通目的の遂行でもありました。
 しかし幕府・織田方の思惑には、生野銀山の支配もあったと思われます。将軍義昭政権が始動したものの、資金面も含め、無いものづくしでした。

しかし、幕府・織田方の想定通りにはいかなかったのが、歴史としての結果です。

それから、この時の事を少し細かく見ると、毛利方と敵対する、三好三人衆方に加担する赤松・浦上・宇喜多勢の牽制(龍野赤松氏支援)のために、播磨国庄山の辺りに拠点を設け、そこから軍勢を割いて、但馬山名氏制圧のために北上させているようです。
 しかし、肝心の播磨国方面の軍事作戦が失敗し、龍野赤松氏が青山合戦でまさかの敗走となったため、北上していた軍勢は逆包囲を避けて、急遽退却した。決して幕府・織田信長方が優位ではない、微妙な状況を感じ取って、山名氏とその有力者は権益確保の抵抗を行ったのではないかと考えています。

その後、同年秋に再度、池田勝正ほか摂津衆などの軍勢が播磨国に再侵攻し、龍野赤松氏の支援を行っているようです。養久の乙城の伝承がそれに関するものではないかと思います。
 それと、この時の出来事と思われる事件が『播磨国鵤莊史料』に見られます。御太子絵伝を池田衆が持ち帰ったところ、色々不吉な事が起きるので、返す。、みたいな事が書かれていて、これが永禄12年秋の事ではないかと考えています。第一次播磨侵攻では、ここまで進軍できていないため。

ですので、幕府・織田勢は、庄山あたりを拠点にして活動し、ここを突破口として様々な軍事・政治的な重要資源としていたと考えられます。幕府の官吏的使僧の朝山日乗が、庄山城から、毛利方へ状況をこと細かに報告しています。
 少なくとも、この時点では別所氏も幕府方でしたし、不可能なことではないとも思います。第二次侵攻もその線上にある要素ではないかと思われます。

一方で、元亀元年(1570)の朝倉氏攻めは、この膠着した山名氏の対策も意識して行われた、大動員を条件とした示威的軍事行動ではなかったかと思います。錦の御旗をも持ち出していますし。これがうまくいけば、山名氏の背後を脅かす勢力を形成できます。
 実は、今井宗久の音信のやり取りにもあるように、将軍義昭の意向である三好三人衆攻めも、当面の達成目標の有力候補であったようですが、この優先度を下げて、朝倉氏攻めに変更したのは、山名氏の事も意識しての事だったのではないかと考えています。

将軍義昭政権樹立後、一貫して今井宗久は、淡路・阿波国攻めを意識し、そうとう綿密でこまめに、三好三人衆方の動向を幕府に報告しています。当初、優先順位としては、こちらの方向性が有力だったと考えられます。兄である将軍義輝を弑逆した、中心人物ですから当然のことです。
 それが、急旋回するような唐突感でもって、永禄12年冬頃から翌年初頭にかけて、越前攻めになったのは、やはり前記の状況を打開するために、将軍義昭政権としての方針の変更、目的達成の優先順位を変更したと考えられます。政権基盤安定の大きな目的のために...。
 
近日に、このテーマを少し詳しく紐解いてみたいと思います。

2017年12月15日金曜日

先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は盛況でした。

先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は、大変多くの方にお越しいただきました。女性も多く驚きました。これを機に、地域の歴史や文化にも興味をお持ちいただき、文化財にも関心をお持ちいただけたらと願っています。

また、私自身も励みになり、今後とも研究を続けて皆様にお伝えできればと思います。 地域の歴史は、地域の市民によって手がけられることが一番良いと思います。過去にその場で、実際に起きたことですので、自然環境、地域文化など肌感覚のフィールドワークによって、より深く、立体的に考え、感じることができます。何よりも、そんなにお金もかかりません。すぐそこの、手の届く歴史なのですから。

発表で使いましたレジュメを公開します。著作権はフリーですので、ご興味のある方は、どうぞご活用ください。
 ただし、出典のある資料はその限りではありませんので、ご注意下さい。個人的に使う分には問題はありません。

◎研究発表レジュメ:研究_摂津池田家の政治体制を見る(20171210).pdf
※用紙サイズはA3ですので、DLいただき、データをコンビニのコピー機で出力しますと、とてもきれいに印刷できます。


いつも発表は、大変緊張します。これも段々慣れるようにしますので、どうぞ見守って下さい。ありがとうごさいました。

2017年11月9日木曜日

摂津池田家の政治体制についての研究発表 その2

池田勝正を中心とした、摂津池田家の政治体制について研究発表を行います。

日時:平成29年12月10日(日) 午後1時30分より
テーマ:摂津池田家の政治体制を見る(発展から滅亡までと荒木村重の台頭)
場所:共同利用施設「池田会館」 池田市新町1-8

文字通り、池田家の発展の概要をお伝えできればと考えているのですが、何分、日曜研究者ですので、専門的なところが見えていないところはあるかもしれません。摂津の最有力国人となる、道程の輪郭が少し見える様になればと想います。
 また、その過程で、荒木家が、いかに関わり、地位を上昇させたかもご紹介し、荒木村重のその後の台頭の意味(イメージ)が、ご興味のある方の好奇心に結びついたらと、思います。

ただいま、鋭意、準備中です。ご期待にお応えできますように、頑張ります。



2017年7月30日日曜日

摂津池田家の政治体制についての研究発表

今年の12月10日に、「摂津池田家の政治体制について」研究発表の機会をさせていただく事になりました。私が所属する池田郷土史学会での会員発表なのですが、ご興味のある方は、どうぞお越し下さい。

詳細が決まれば、また、このブログ上でお知らせ致します。


2017年6月9日金曜日

摂津池田家とその領知内の人々の所属意識について考える(津池田家から荒木村重へ)

例えば、「大阪人」とか、「○○市民」とか、「日本人」といった、生きるための所属(帰属)意識というのは、その社会の真っ只中に居ればあまり必要ないのですが、個人の本拠(物理的・意識的な)や文化圏は必ずあり、古今東西、絶えたことはありません。自分自身の経験からも、それは必ずあり、状況に応じて必要になります。

しかし、現代よりももっと生存環境が厳しく、個人がどこかに所属しなければ生きていけなかった戦国時代には、そういう感覚はどうなっていたのかと、個人的に興味がありました。勿論、一番身近な運命共同体である、家族や村といったところの感覚はある程度理解できますが、その範囲を拡げたところの「郡」や「国」といったところの感覚はどういうものだったのかという部分です。この内、「国」もある程度想像はつきます。
 この感覚は、協働や連帯には必要な事で、逆にそれが無ければ社会はまとまらず、地域社会(コミュニティー)は成立しません。この所属意識は、その社会や生活の「核」になる重要な感覚であり概念(文化)だと考えています。

それで、こういった感覚が、戦国時代の摂津池田一族の中にどのようにあり、また、それに関係する人々にもあったのかどうか、とても興味がありました。しかし、確たる資料も見つけられないまま、また、あったとしても膨大な史料の言葉の何が、それにあたるのかも判らず、漫然と史料を読み飛ばしていました。

そんな中にあって、ある日、大変興味深い論文と出会い、その自分の永年の疑問が氷解し理解も進みました。やはりそういう意識はあったのです。
 『中世後期畿内近国の権力構造』の中で、田中慶治氏は、中世後期の宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。、と見解を述べています。
 
以下、同論文を続けて少し引用します。なお、史料番号は、『中世後期畿内近国の権力構造』の番号に倣います。
※中世後期畿内近国の権力構造P268

(史料14)----------------------------
【坂合部氏定書】
一、木原村・畠田村ハ牧野殿ノ御領中ニテ御座候へ共、知行ハ坂合部へ取、万事人足百姓是也。
(中略)
一、坂合部幕之文(紋)ハ井筒ニ山鳩、然共同名エモ前々ヨリ井筒計ユルシ申候。
一、石井喜兵衛エモ同名ニナシ申候事ハ、世ニカハリテカラノユルシニテ候、是ハ紀州伊都郡ノ侍衆宇智之郡侍衆ノ中ニテ手柄ヲモツテ同名ニナシ申候。其時両郡之侍衆より御褒美トシテ具足太刀刀被下候ニ付、坂合部殿モ是ニコシス御喜候テ井筒ニ山鳩ノ紋クタサレ候。是ハイマモツテノ事ニテ候。井筒ニ山鳩ノ紋ハムカシヨリ後々マテ有間敷候也。

 永禄11年9月19日
  坂合部兵部之大夫頼重(花押)
  辻元伝助政清(花押)
  誠神蘭之助正経(花押)
  古沢又之丞正次(花押)
----------------------------(史料14おわり)

これについて、『中世後期畿内近国の権力構造』は史料解析し解説を加えています。簡単に触れます。

(史料解析)----------------------------
【史料14】は、大変興味深い史料である。この史料から、石井喜兵衛という侍が手柄を立てたことにより、同名成していることがわかる。池上裕子氏は、伊賀惣国一揆が百姓の侍成を行っていることに注目された。そして惣国一揆による侍成を戦国大名が行使した権限と同じであるとされ、伊賀惣国一揆を惣国一揆の到達点とされた。
 とするならば、坂合部同名中の行っている侍の同名成という身分変更も、戦国大名が行使した権限と同じである、同名中の到達点を示しているといえるのではないか。
 また宇智郡、伊都郡両郡の侍衆が石井喜兵衛に褒美を与えていることから、この時期、国人衆や百姓衆ばかりでなく、侍クラスの者も一揆を結んでいたこともうかがえる。(後略)
----------------------------(史料解析おわり)

とあります。更に続けます。
※中世後期畿内近国の権力構造P281

(史料22)----------------------------
【畠山政長判物】
為郡衆使者、大岡参洛、誠感悦不少候。殊従惣衆中太刀一腰、金200疋到来今時分祝着至候。明春者早々可令進発候之間、各堪忍肝要候。併憑入候之外、無他候。謹言。
 12月12日    政長(花押)
  三ケ殿
----------------------------(史料22おわり)

(史料23)----------------------------
【畠山卜山(尚順)判物】
就き其方働之儀、度々注進趣、得其覚候。尤神妙候。敵未大澤小峯楯籠之由候。然者早々伊都郡衆申談可被取懸候。此口之儀者、近明ニ可合戦候。委細猶林堂忠兵衛可申候。謹言。
 8月21日    卜山(花押)
  宇智郡衆中
----------------------------(史料23おわり)

「史料22」と「史料23」の史料解析をまとめてご紹介します。
※中世後期畿内近国の権力構造P281

(史料解析)----------------------------
【史料22】は宇智「郡衆」が、「惣衆中」として、畠山政長に金品を贈ったことに対する政長からの礼状である。この中で政長は、宇智郡の武士を「郡衆」、「惣衆中」として把握している。畠山氏が宇智郡を一郡として掌握していたことがわかる。
【史料23】は宇智郡の武士に、畠山卜山が出陣を命じたものである。卜山はこの文書の宛先を「宇智郡衆中」としており、宇智郡の武士をグループで把握していることがわかる。この史料からも畠山氏が、宇智郡を一郡として把握していたことがわかる。
 また【史料23】では、卜山は、宇智郡衆に伊都郡衆と相談して攻撃するように命じている。第2節であげた【史料14】でも、宇智郡と伊都郡の武士が緊密な関係にあることがうかがえた。これらのことから、戦国時代の宇智郡の武士と伊都郡の武士が連携して行動していたことが指摘できる。
 中世後期の宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。(後略)
----------------------------(史料解析おわり)

こういった戦国時代の人々の所属意識について、それに関する論文を全て調べた訳では無いのですが、偶然に読んだ論文に、私の疑問を解く研究があり、非常に驚くと共に巡り合わせに感動しました。

この論文の視点を元に、摂津池田氏関連の史料を見てみます。すると、いくつかの気になる要素があります。何れも摂津国豊島郡箕面寺(現箕面山瀧安寺:大阪府箕面市)への文書ですが、それらを年代順にご紹介します。
 また、それらの文書形式は「直状形式」で、これは上位権力からの下達で、横並びの関係ではなく、上から下(身分)への通達です。

先ず、後の考証などで天文22年(1553)とされている池田勘右衛門尉正村・同十郎次郎正朝・同山城守基好・同紀伊守正秀などいわゆる池田四人衆が、「当郡中 所々散在」へ宛てたものを見たいと思います。日付は12月15日です。
※箕面市史(史料編2)P411

(史料1)----------------------------
箕面寺山林従所々散在盗取(剪)者言語道断曲事候。宗田(池田信正)御時之以筋目彼寺へ制札被出間、向後堅可令停止旨候。若背此旨輩於在之者則可加成敗由候也。仍件如。
----------------------------(史料1おわり)

【史料1】については、史料には元々年記が無かったようで、後年の考証などによっているので、本当に天文22年のものかという根本的な課題はあるものの、今のところ、この史料を額面通りに受け取るとすると、この頃は池田家当主の信正が不慮の切腹をさせられた事により、家政の混乱があった時期でした。
 正式に次の当主も決めていなかった状況だったようで、その空白を補うために、近世江戸時代でいうところの「家老」のような人物が一時的に家政の中枢を担っていたようです。
 文中の「宗田」とは信正の法名(入道号)で、信正の時の取り決めを今後も踏襲する旨を約す内容です。
 そして中でも重要なのは、宛先に「当郡中 所々散在」とある事で、豊島郡内という範囲を設けています。これは池田家の力の及ぶ範囲と思われ、また、池田家にとってはその責任の範囲の表明であったと考えられます。
 ですので、その中に住んだり権利を持っていたりする場合は、池田家から保護を受け、被対象者はそれを意識する訳です。

続いては、永禄6年(1563)3月30日付けで、池田勝正が箕面寺岩本坊に宛てた文書です。この時は、勝正が池田家当主になった直後で、対外的な新体制表明の意味があったと思われます。また、岩本坊は、箕面寺の中心的な存在です。
※箕面市史(史料編2)P413

(史料2)----------------------------
当郡其外拝領之内御買徳之事、縦雖為売主欠所■行々徳政之儀、当知行之筋目■不可有相違者也。仍為後日状如件。
■=欠字
----------------------------(史料2おわり)

【史料2】は、少し時代が下っていますが、池田家の当主が変わっても豊島郡内と箕面寺が持つ権益に対して、郡外であっても保護を約束する旨を伝えています。これは岩本坊に宛てられており、寺との直接的な契約を行っていることが判ります。

更に、池田勝正の史料が続きます。永禄12年(1569)3月2日付けで、筑後守(任官・名乗りはこれより前と思われる)となった勝正が箕面寺岩本坊へ宛てています。
※箕面市史(史料編2)P413

(史料3)----------------------------
当郡其外拝領之内散在御買徳分儀、縦売主雖欠所並徳政 公方(将軍義昭)徳政成候令免除者也。殊先年折紙進之候上者、尚以不可有別儀候。仍如件。
----------------------------(史料3おわり)

【史料3】は、この頃、中央政権である京都で、新将軍の就任がありました。足利義昭がその座についたのですが、永年続いた三好氏系の関連勢力では無く、その敵対勢力が最高権威の座に就きましたので、それについて地域社会の動揺を抑える意味もあってか、これまで通りに契約を履行する事を確認する内容になっています。
 また、文面はそれまでとほぼ同じですが、新政権で実施される「徳政」についての文言が追加され、寺の利益を損なわないようにする事を約束して、不安の払拭に努めています。

続いては、荒木村重が池田四人衆のメンバーに混じって署名している史料です。この史料は年記を欠きますが、個人的には白井河原合戦に勝利した後の新体制の表明として発行した音信と考えており、元亀2年(1571)と年代を推定しています。
 日付は11月8日で、署名者は、池田十郎次郎正朝・荒木信濃守村重・池田紀伊守正秀、宛先は「当郡中 所々散在」です。
※箕面市史(史料編2)P411

(史料4)----------------------------
箕面寺山林自所々散在盗取由候。言語道断曲事候。宗田(池田信正)御時以筋目彼寺へ制札被出間、向後堅可令停止旨候。若背此旨輩於在之者、則可被加成敗由候也。仍如件。
----------------------------(史料4おわり)

【史料4】は、この前年(元亀元年:1570)に池田四人衆の内、当主池田勝正寄りの2名が殺害され、残り2名となったところに荒木村重が加わって、3名体制になっていた事を示す史料と考えられます。
 この体制を「池田三人衆」と個人的に呼んでいますが、この新たな主導体制に替わった事で、関係する各所に保証についての表明を行っていると考えられます。内容は天文22年とされる池田四人衆の発行した文書と、それは全く同じです。宛先も同じで、豊島郡中の所々散在です。
 またこれは、池田家の権力の中心を示すものであり、顔ぶれとその人物の行動が実現できる環境としては、地域闘争で圧倒的な勝利を得た、白井河原合戦の直後でしかないと考えられます。

続いては、荒木村重の統治下となった摂津国豊島郡に村重とその一族の同名平大夫重堅が、村重の禁制に対する副状を発行しています。天正3年11月26日付けで、重堅が「当郡中 所々散在」に宛てています。
※箕面市史(史料編2)P415

(史料5)----------------------------
箕面寺山林盗取之者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以彼寺へ村重御制札被出置之間、堅可為停止旨候。万一於異儀者可加成敗由候也。仍如件。
----------------------------(史料5おわり)

【史料5】は、この時期、織田信長政権下での荒木村重の地位も確立され、安定的な地域内評価も得られ始めていた頃です。
 この前年、天正2年いっぱいまでは、京都周辺でも足利義昭の勢力も侮れず、動乱の余震は続いていました。池田家との闘争にも打ち勝ち、遂に池田家存続の核心的要素である、箕面寺にも禁制を下し、池田家当主と同内容の文書も下す事となった村重は、池田家に取って代わる勢力である事が認められた証拠でもあります。
 
これらの史料を見ると、やはり「郡」という単位を一定の基準として持っていた事が判ります。同時に、権利と義務といった契約やその中で生きるための生活も必ずありますので、意識というものも存在した事は確実です。
 池田家はこの豊島郡を中心に活動した勢力ですが、時代を経ると勢力を拡大させ、その周辺にも影響力を持つようになります。豊島郡という旧来の概念とは別に「下郡」という、千里丘陵以西から西宮あたりの平地を指す概念も戦国時代にはあって、豊島郡内にとどまらず勢いがあれば、旧来の郡域の外側にはみ出していきます。

今の自治体単位に置き換えると、豊島郡である池田市・箕面市・豊中市・豊能町を中心として、吹田市や川西市などにも池田家の勢力が及ぶようになっていました。
 それ程の地域を池田家が中心となって統治するのですから、相当な人数が必要になりますし、そこに暮らす人々の安全や営みの支えも築く必要があります。そういう中での信頼関係も結ばれなければ、地域は成立しません。
 それが地域の「核」であり、池田家の活動の「核」だと思います。歴史を見るには、その核がどこにあるのかを見る必要がります。対象によって色々ありますけども、摂津池田家の存続の「核」は、豊島郡への意識だったのだと思います。


参考サイト:箕面山瀧安寺公式サイト

2017年3月29日水曜日

天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重

四天王寺
独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。
 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦の明智光秀・佐久間信盛などを救援するためです。
 この時は本願寺方の勢い強く、天王寺砦の陥落が心配され、非常に切迫した状況でした。既に塙直政(原田備中守)一族など、名だたる武将が戦死し、この勝ちに乗じて、天王寺砦が多数の本願寺勢に攻囲されていました。

以下、その時の様子を『信長公記』から抜粋し、ご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料1)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
(前略)
5月3日、早朝、先は三好笑岩、根来・和泉衆。2段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄せのところ、大坂ろうの岸より罷り出で、10,000計りにて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以て、散々に打ち立て、上方の人数崩れ、原田備中手前にて請止(うけとめ)、数刻相戦うと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討ち死になり。其の侭、一揆ども天王寺へ取り懸かり、佐久間甚九郎、惟任日向守、猪子兵介、大津伝十郎、江州衆、楯籠もり候を、取り巻き、攻め候なり。其の折節、信長、京都に御座の事にて候。則ち、国々へ御触れなさる。
----------------------------------(資料1 終わり)

これは本願寺方が瀬戸内海を通じて、毛利方から補給と支援を受けていた事から、このルートを断つために、織田信長がその封鎖を行う中で起きた闘争です。それについて、再び信長公記の抜粋をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料2)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
4月14日、荒木摂津守・長岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中4人に仰せ付けられ、上方の御人数相加えられ、大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出(砦、以下同じ。)を推し並べ、3つ申し付け、川手の通路を取り切る。惟任日向守・長岡兵部大輔両人は、大坂より東南守口・森河内両所に、取出申し付けられる。原田備中守は、天王寺に要害丈夫に相構えられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘(かか)え、難波(なにわ)口より海上通路仕り候。木津を取り候へば、御敵の通路一切止め候の間、彼の在所を取り候へと、仰せ出さる。天王寺取出には、佐久間甚九郎正勝、惟任日向守光秀おかれ、其の上、御検使として、猪子兵介、大津伝十郎差し遣わされ、則ち御請け申し候。
(後略)
----------------------------------(資料2 終わり)

楼の岸跡
そんな中での想定外の出来事が起き、織田信長はこれに緊急対応した訳です。信長はこういう時、対応が非常に迅速ですし、自ら先頭に立ち、戦死も厭わず行動します。
 対応が遅ければ相手が有利になりますし、第2・第3の被害が自軍に及び、益々状況が悪化します。心理的にも不利になり、戦意が萎えます。

信長は、原田備中守が戦死した事を知ると、直ぐさま陣触れを出し、京都を発ちます。河内国若江城に入り、ここで情報収集と準備を整えます。これは天王寺砦の後詰めの役割りも兼ねます。若江から天王寺までは、ほぼ直線に真西の方向で、距離も2里(8キロメートル)余りの至近距離です。この時の様子です。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料3)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
5月5日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔(わず)か100騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。次の日、御逗留あって、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ候と雖も、俄懸の事に候間、相調わず、下々の者、人足以下、中々相続かず、首(かしら)々ばかり着陣に候。然りと雖も、5、3日の間をも拘(かか)えがたきの旨、度々注進候間、攻め殺させ候ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ、
(後略)
----------------------------------(資料3 終わり)

公記にもあるように、出陣が急な事であり、人数が揃いません。現代の信長イメージとは少し違うような感じがしますね。
 この時期、信長は政治的にも優位に立ち、社会的地位も上昇させ、全体の戦況も余裕が無かった訳ではありません。それでもこのような状態ですし、信長といえどもいつでも行動の強制ができる訳でもなかったようです。
 信長は勝たなければならない「戦」には「必ず勝つ」という事を強く認識し、その通りの結果をもたらします。また、救わなければならない対象も同じで、見捨てる事もありません。
 この時も、その通りの行動を取り、味方を救援に成功します。そして、2次被害も何とか食い止める事ができました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料4)----------------------------------
清水坂(この付近では良質な水が湧く)
【御後巻再三御合戦の事】
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意に候。
 爰にて、各々御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く寄り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は二段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大阪城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の砦々に、10ヶ所の付城仰せつけらる。
 天王寺には佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
(後略)
----------------------------------(資料4 終わり)

しかし、こんな時に荒木村重は、軍議の席で織田信長の作戦構想に異儀を立て、独自の見知を述べて、信長に認めさせます。
 この時、村重にとっても当面の危急は脱した状態で、さ程の苦しさ(政治・軍事的に)は無かったと見られますが、なぜこのような態度になったのでしょうか。

この頃、村重はそれまでの「信濃守」から「摂津守」の官途を叙任しており、これは信長の計らいや尽力もあった筈ですが、「それとこれとは別」といった態度にも見えなくはありません。
 織田政権の緊急事態に応えてこそ、日頃の恩に報いる事だと一般的には感じますが、村重には村重の立場があり、視点と考えがあったのでしょう。また、敵の数が多く、苦戦が予想されるため、自分の側の被害を避けたりする事を考えたのかもしれません。
 村重はこの2年前、摂津国内の中嶋・崇禅寺付近で合戦を行い、大きな損害を出しています。同じ事を繰り返す訳にはいかないと、考えていたかもしれません。

いずれにしても、村重は信長の命令を断り、後詰に徹する旨を述べ、尼崎から北野田、木津方面にかけての北方向から本願寺に備え、西方向にも警戒する陣構えを担当することになりました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料5)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
5月7日、御馬を寄せられ、15,000ばかりの御敵に、纔(わず)か3,000ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備えなされ、住吉口より懸けらせられ候。
 御先一段 佐久間右衛門尉、松永弾正(山城守)、長岡兵部大輔、若江衆。
 爰にて、荒木摂津守に先を仕り候へと、仰せられ候へば、我々は木津口の推へを仕り候はんと、申し候て、御請け申さず。信長、後に先をさせ候はで御満足と仰せされ候へき。
(後略)
----------------------------------(資料5 終わり)

摂津国内での合戦ですし、役割りからして村重が主たる軍勢を担うのは、当然の事だったと思います。
 しかし、村重のこの時の行動が不自然にも感じられ、後に村重は信長に対する謀反を起こした事から、『信長公記』の作者である太田牛一は、対比的に扱い、その出来事を特記したのかもしれません。

とに角、信長はこの緊急事態を打開しなければならない事を強く意識していましたので、自ら先頭に立って指揮する事を決します。そして、何とか危急を脱する事はでき、明智光秀や佐久間正勝などの武将は討死を免れました。
※信長公記(新人物往来社)P195

(資料6)----------------------------------
安居神社から北方向を望む
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰(ここ)かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣き、上意に候。爰にて、各御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く取り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は2段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大坂城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の塞々(とりでとりで)に、10ヶ所の付城仰せつけらる。天王寺には、佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定盤として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、まなべ七五三兵衛・沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
 6月5日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊まり、次の日、眞木嶋へお立ち寄り、井戸若狭守に下され、忝き次第なり。二条妙覚寺に御帰洛。翌日、安土に至りて御帰陣。
 (後略)
----------------------------------(資料6 終わり)

それからまた、「天王寺砦とはどこか」という事ですが、わかりやすくまとめられている資料がありますので、ご紹介します。
※大阪府の地名1-P681

(資料6)----------------------------------
勝鬘院の多宝塔
天王寺砦跡(天王寺区伶人町・逢阪1丁目)
織田信長が築かせた城。城跡については月江寺付近とする説(摂津志)があるが、四天王寺の西、勝鬘院と茶臼山の間の上町台地西端に北ノ丸、中ノ丸、南ノ丸の小字が残り、この地は西が急崖で城地として最適の条件にある。江戸時代中頃とみられる石山合戦配陣図(大阪城天守閣蔵)にも、四天王寺に西接して「サクマ玄蕃サカイノ道ヲフサク」と記されている。
 天正4年(1576)3月、本願寺顕如は織田信長に反旗を翻し、石山本願寺に籠もって抗戦を始めた。信長は明智光秀・細川藤孝・原田直政・荒木村重らに命じて攻撃態勢を整え、天王寺口の攻め手を原田直政として城砦を構えさせた。
 本願寺側が木津(現浪速区)と楼ノ岸(現中央区)に砦を築いて、木津川を通じて海上と連絡をとっているのを知った信長は、まず木津川口の占拠を命じ、同年5月3日、原田直政・筒井順慶らに攻撃させた。しかし本願寺門徒の勢力は強く、木津川口の戦で原田直政は敗死、直政にかわって天王寺には明智光秀が布陣した。
 敗戦の報を受けた織田信長は、京都を発って、若江城(跡地は現東大阪市)に入り、5月7日には若江を出て天王寺へ救援に向かった。『信長公記』には「天王寺砦」とあるので、まださほど堅固な城郭ではなかったとみられる。信長は激戦の後、天王寺砦に拠る明智光秀と合流することに成功、門徒勢を石山本願寺の木戸口まで追撃したが、その堅塁を抜くことはできず、長期包囲戦術をとることにした。
勝鬘院に隣接する大江神社の坂
天王寺砦の増強も図られ、早くも5月9日、信長は摂津国平野庄(現平野区)中に「天王寺取立之城普請」のため用材などについて奔走するよう指令している。
 天王寺砦には佐久間信盛・同正勝父子と松永久秀が定番として詰めたが、翌5年8月、松永久秀の背反後は佐久間父子がもっぱら当たることとなった。大軍による長期の攻撃にもかかわらず、信長はついに武力で石山本願寺を落とすことができず、正親町天皇の調停という形で前関白近衛前久らを勅使として本願寺に派遣、和議によって石山を退去させようとした。和議の約定が成立した天正8年3月17日付けで信長は血判した覚書七ヵ条(本願寺文書)を出したが、その第二条で、顕如らが石山本願寺から退去するに先立って、まず信長方の軍勢が「天王寺北城」(天王寺北方にある信長方の付城)から撤兵し、近衛前久らと入れ替わると誓っている。
 和議が成立し、顕如は4月9日、紀州鷺森へ去り、退去を拒んでいた教如らも、ついに8月2日、信長に石山本願寺を明け渡した。その直後の8月中旬、信長は天王寺城の定番である佐久間父子の罪状ををあげて剃髪させ、高野山に追放した。罪状の冒頭で、佐久間父子が天王寺城に在城した5年間になんの戦功もあげず、「取出」(天王寺城)を堅固にさえしておればやがて信長の威光で退散するだろうと考えていたのは、武士道にもとるものである、と叱責している点が注目される。佐久間父子の追放後、天王寺城は壊された。
----------------------------------(資料6 終わり)

若江城跡
村重は、天正4年4月までは、天王寺砦にも出入りしていた可能性もあっただろうと思いますが、5月の軍議は、河内国若江城で行われたようです。また、信長公記では「住吉口」から天王寺の本願寺勢を攻めたようです。軍議の後、配置につくために各所へ進んだと思われます。村重は、河内国内を北上し、摂津国内へ入って木津川口へ向かったと思われます。

この天王寺での合戦の約2ヶ月後、足利義昭を奉じた毛利輝元勢が大船団を組んで、大坂の本願寺方に物資を搬入。この時、木津川口にて大海戦があり、織田方は大敗を喫します。村重も水軍を率いてこれに参戦しているようです。
 詳しくはわかりませんが、村重は早い段階からこの毛利方の動きを掴んでいたため、天王寺砦の戦いでは、木津川口や北野田方面を固めることを具申したのかもしれません。
 上記で記述の、村重が信長の命令を請けなかった理由のもう一方の推測としては、これも成り立つかもしれません。本質的には、村重に下された官途である「摂津守」の意味は、やはり摂津国の知事ですから、その中で起きる事については、主体的に行動することが求められ、期待されることが一般的感覚だったと思います。その意味では、村重のこの行動が、少々の不審を買ったことも否めないのではないかと思います。

この後の約2年間は、織田方の瀬戸内海の制海権はやや不利となり、一方の本願寺方にとっては物資補給のメドも立ちました。両軍共に、作戦の再構築が必要になったようです。


2017年3月23日木曜日

摂津池田家当主よりも地位の高い池田播磨守正久という人物について

摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。

今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年記未詳で、無神(10)月20日付けで、今西宮内小輔(春憲)宿所へ宛てたものです。
※池田市史(史料編1)P25、豊中市史(史料編1)P115、春日大社南郷目代今西家文書(本文編)P446

(史料1)----------------------------
前置き:尚々納所仕候様々御馳走所給候。尚此者可申候間、不能懇筆候。
本文:此間不申通御床敷存候。仍去年も以書状申候代物之儀、急度被成御馳走候而可給候。若貴所被仰儀、無同心之体候者、此方へ可被成御引付候。催促付可申候。但寄井筒屋其方へ不被借候哉。こい(乞い)可申候はば、御報に委細可承候。御隙之時進入御奉待候。恐々謹言。
----------------------------(史料1 終わり)

年記未詳の史料という事からその比定なのですが、個人的には『春日大社南郷目代今西家文書』の推定も参考にし、今のところ天文16年(1547)と考えていますが、これについては他の年代の可能性もあります。しかし、確証無く、流動的なところがあります。

それで、その年代比定の理由ですが、宛先である「今西宮内小輔」の活動時期は、天文から天正に渡り活動していて、池田家当主の信正・長正・勝正の3代を跨ぎます。ですので、この視点では、殆ど年代推定の幅を狭めることができません。
 次に、文の内容ですが、「尚々納所仕候様に御馳走所給候」や「仍去年も以書状申候」「若貴所被仰候儀無同心之体候者、此方へ可被成御引付候」などの部分は、天文15年に南郷目代今西家から大規模な代官請けを得た池田家が、今西家との関係を繋ごうとしていた行動で、池田信正失脚中の家政に関する動きと考えてみました。
 この史料のように池田正久は、家政の一端を担って活動していたのかもしれませんが、残念ながら、他に正久の史料は見当たらず、この件についての詳細は不明です。

更に、正久の官名である「播磨守」ですが、これは山陽道(8カ国)に属する大国(他に上国・中国・小国の区別あり)の扱いです。この大国は、地位にすると「従五位」で、池田家当主の「筑後守」の地位「従五位下」を上回るもので、播磨守は一段地位の高い人物となります。
 池田家中には、従五位下を上回る地位の人物は見当たらず、池田正久は家中で一番地位の高い人物という事になります。一般的には、こういう社会的地位を家中の者が得る時には、当主を超えない範囲で地位の配分(栄典授与・論功)が行われますが、何らかの特別な手柄を立てて地位を得ていくという可能性も無い訳ではありません。
 しかし、そういった場合は家中が割れて敵味方となり、激しく争う場合や、家を出た者が別の有力者に属して出世したような場合などに見受けられたりします。

いずれにしても、池田正久の地位の高さの実用性は、当主が健在で正常な家政運営が行われている間には、可能性として低いように思われます。
 それにあたる時期としては、天文16年6月25日に細川氏綱を擁立した池田家が管領細川晴元に背いて降伏し、恭順していた頃(信正は隠居し、宗田との入道号を名乗ったらしい)、即ち、池田家中が主体的で正常な家政を執り行えなくなっていた時期の正久の行動と考えてみました。

ちなみに、この池田家が細川晴元に対して恭順している時期に、池田家にとって大きな出来事がありました。
 池田信正は、義理の父である三好政長を通して晴元に謝罪し、一応は許されていました。政長は、晴元の最側近でもあり、その流れで接点を活かすことは自然な見立ててです。しかし、池田家にとって予想外だったのは、親類として保護するどころか、政長が池田家中の政治に介入を始め、財産なども不当に取り上げる行動に出た事でした。
 信正の妻は、三好政長の娘で、それにつながる一派が池田家中に居て、諍いが起きていたようです。
 もしかすると、池田正久は三好政長一派である可能性もあるにはあります。何事も有利に運ぶために、社会的地位を高くする方法もあるのかもしれません。そうだとすると、姓名も「三好」だった可能性もありますね。これは今のところ、筆者の空想レベルなのですが...。
 
それから、個人的には訝しんでいるところもあるのですが、この播磨守正久が池田勝正の父と推定する研究者もあるようです。その根拠も今のところは、希薄ですが、こちらが完全否定する程の材料も無いといったところです。

また、文中に「但寄井筒屋其方へ不被借候哉」との表現が見られます。「井筒屋」とは商人らしき人物ですが、この井筒屋について、関係無いとは思うのですが、池田の郷土史に井筒屋が関連していますので、一応、参考までにあげてみたいと思います。
※『わたしたちの郷土 -文学に現れた遺跡と人物-』より

(資料2)----------------------------
昭和30年代の池田本町の井筒屋跡写真
写真:昭和30年代の池田本町の井筒屋跡
【井筒屋跡】
本町いづつやの2階に住む豊年の新米坊主呉春(自筆の大黒天図署名より)
天明元年(1781)当時、存充白と名乗っていた松村呉春は京都から蕪村門の先輩、川田田福の好意に甘え池田の本町にあるその出店井筒屋の2階に移り住むこととなった。
 翌天明2年の年頭に当たり全てを新しくしようと考え、池田の古名、呉服で春を迎えるのだから呉服の呉と春とを結びつけて、呉春と呼ぶことにした。時に31才。
 本町井筒屋云々の署名は天明2年9月、呉春が池田荒城氏(満願寺屋)の転居祝いに贈った大黒天図に残されたものであるが、その頃はまだ丸坊主になって日が浅かったので、自分でも珍しくこんな称えをしたものらしい。一説には本町通、現紅屋呉服店ともいう。
【川田田福】
田福は、井筒屋庄兵衛と称した京都の人で呉服商を営み、池田本町に出店を持っていたので、池田と因縁が深い。田福は蕪村について俳諧を学び、その門下の中でも尊敬に値する人物であった。田福は謡曲、蹴鞠にも興味を持ち、また絵画をもよくしたようである。池田の高法寺に川田祐作居士遺愛碣というのが建っているが、これは荒木李𧮾の撰木で弟の荒木梅閭の筆である。
----------------------(資料2 終わり)

さて、史料1の文の内容は、少し音信が途絶えたが、去年も書状で伝えた「代物」の事、必ずの取り計らいを期待する。もし、そちらでそれに同意しない者があれば、催促を行うので、こちらへ報せてもらいたい。ただし、井筒屋よりそちらへ借りられるか。乞う事があれば、報せにより承る。状況次第に進めてもらい、それを待つ。、というような旨で伝えており、「代物」についての用件のようです。代物とは「銭」の事なのかもしれません。
 この音信の時期は、10月ですので、米の収穫時期です。前置きにある文は、その事のようです。しかし、それとは別に、去年から代物の事について伝えているようです。それを南郷目代の今西宮内少輔にも協力を求めているのは、上位の権力からの用件なのかもしれません。

池田正久についての史料は、この1点しか見当たらず、不明なところも多いのですが、今後も調査を続けていきたいと思います。



2017年3月20日月曜日

荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について

近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。
 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不明なところも多くあって「謎の武将」といったイメージも強いようです。特に、織田方の武将として名前が知られる前の活動については、殆ど知られていません。
 
筆者はどちらかというと、その前の摂津国の国人大名であった池田勝正の動きを研究している事もあって、その重なりが、この村重(家系)の黎明期から成長期にあたり、自然と並列研究のようになっています。
 それらも追々、お伝えしていきたいと考えているのですが、今回は以前から個人的に気になっていた、村重の父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、摂津国人らしき「北與」なる人物に宛てた史料がありますので、ご紹介したいと思います。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

(史料1)-------------------------------
前置き:尚々善へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
-------------------------------(史料1 終わり)

先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと考えています。以下、その理由を述べます。

この音信の宛先である「北与」とは、北河原氏と考えられ、同氏は摂津国川辺・豊島郡境付近の豪族とされています。また、文中の「弥介(やすけ)」とは、荒木村重を指すと考えられる事から、弥介を名乗っていたらしい元亀2年(1571)以前から永禄6年(1563)頃までの期間が想定されます。
 他方、「勝正折帋之儀」とは、荒木勝重の上位者である事が伺え、永禄6年2月の当主長正死亡後から元亀元年6月19日の勝正追放までの間が想定できます。なお、永禄4年9月9日には、南郷目代の今西家によって、勝正に対する特別な祝儀が贈られているため、その頃から勝正に代替わりとなったか、南郷の特別(主要)な管理を行うようになった可能性もあります。

更に文中の「同美」とは、荒木美作守宗次を指すと考えられ、その活動時期を見ると、永禄5年4月に荒木美作守が摂津国箕面寺に宛てた禁制の副状(池田長正に対する)を発行し、同年2月23日に南郷に関する問題解決のための音信を受けたりもしています。宗次の史料は、永禄8年2月以降は見られなくなります。当主の交代と共に、荒木美作守にも地位に変化を生じさせたものと思われます。

それらの状況を考え併せると、この史料は、宗次の史料上の活動が見られなくなる頃(池田長正の死亡による当主交代)に近い時期、永禄7年の池田家と今西橘五郎・宮内少輔(春房?)とのやり取りに関係のある史料と想定しています。

さて、文中に登場する人物名の補足をしておきたいと思います。文中には北河原一族の人物名が複数人出てきます。「北與=与右衛門?」「善=善右衛門?」「北右=右衛門?」「北右善=右衛門?と善右衛門?の両者をまとめて書いた」といった具合に、人物名を略して書いています。この件について、何度もやり取りしているためです。

文の内容を見ますと、「荒木信濃守は北河原方へ向かうつもりで、弥介方に長々逗留しており、やがて北与・右・善の3名とも合流し、南郷知行分の懸案解決を図る予定である。これについては、荒木美作守がよく知っているので、委しく申し聞き、事の次第がハッキリすれば、現当主池田勝正から証文を発行してもらうつもりなので安心するように。」との旨を伝えており、信濃守勝重は、当主勝正の奉行人のような行動をしていた事が判ります。
 前当主池田長正の家老荒木美作守から同名信濃守勝重が役を引き継ぎ、活動をしていた一端がこの史料から読み取れるように思います。

そして、折紙発給者の荒木信濃守勝重とは、その名から考えて、「弥介」の後に「信濃守」を名乗る村重に関係が深い人物と思われ、その名の一字に「重」の字を持っています。また更に、勝正と関わると考えられる「勝」の字も持ち、両者に深い関係を持つ人物と推定できます。
 この事から「弥介」すなわち後の村重は、当主勝正から見ると系図的には一世代下であろうことも判明します。この時点で村重は官名を持たず、その父と考えられる勝重が「信濃守」を名乗っているからです。また、概ね「紀伊守」「遠江守」などの官名は、それを代々継ぐ家系があって、当主がその官名を名乗ります。

ただ、荒木信濃守勝重についての史料は、今のところ、この1点のみで、他の活動については不明です。どの時点、どういう理由で勝重が、その地位を譲る事になったのかは、今後も見ていきたいと思います。