2016年5月20日金曜日

摂津池田城の縄張り概念は、五月山山上にまで及んでいた!?

戦国大名池田筑後守勝正研究の核心である、勝正そのものの事実や家の事、また、その本拠たる池田城の事をしっかりとご紹介する事をそろそろしないといけません。
 摂津池田氏については、滅びた家だけに、総合的な検証もなければ、史料も無いため、これまでは、史料集めを兼ねたその外郭部分を見てきたのですが、少しずつ中心部分のことも見えるようになってきています。かといって、今日明日にご紹介いただけるような状態でもないのですが、兎に角、池田勝正についての細部をご紹介できる段階に入りつつあります。
 
それらは、このブログで先ず紹介し、ゆくゆくは、本にでもまとめられたらと考えています。ご興味のある方は、お楽しみにお待ち下さい。

それで、最近、池田城の支城について考えていますが、肝心の池田城そのもののテーマを立てていないことに気づき、それもやらなければならないと考えている次第です。
 それで今回は、ちょっと古い資料にある池田城の口伝・記述をご紹介して、後便に精を入れるための吉書はじめにしておきたいと思います。
 宇保町の荒木藤市郎氏を中心として池田町史編纂室を設け、昭和14年(1939)4月1日に、発行された池田町史にある、「池田城址」についての記述です。
※池田町史(第一篇:風物詩)P21

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昭和14年以前の様子(左奥の森が伊居太神社か)
一、城址
城址は五月山の南麓にあって、俚俗は城山と呼んで居る。周囲十余町歩に亘り、回字形をなして居る。近時城址の高台に2・3住宅等が造られて居るが、一度■(日の下に邛)を曳いて荒城の址に立てば、千古を語る老樹松鬱に和し、なんとなく在りし昔の偲ばれて荒城の歌でも唱いたくなる。
 廃墟の中央に一段高い平面の台地がある。俚俗は天守閣の跡だと呼んで居る。其前面東南下に谷の様に凹んだ所は堀と字して居る。濠址であろう。城は世々土豪池田氏の拠りし処であるが、池田氏の伝は詳らかでない。

一、城下町
今池田町の町の辻々を見るとひとつとして直線をなすものはない。悉く中途で屈折した枡形の町並みである。近時市街整理の為め其の2・3主要路線は屈折を除かれたが...。この屈曲した町並みが池田城を繞城下町として発達した遺址である。そうして伝へらるる池田城の遺墟を見るに、当時は未だ自然の険を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々(やや)山上の大広寺付近か其の遺址の一部の様に思われる、と某将軍(元37連隊長)は話された
 知性は、西は猪名川の断崖に臨み、北は峻嶺の五月山を負い、東南部は杉ヶ谷川の自然濠を控え、南部は恵那堀の第2次濠があった様である。今この堀は林口町と田中町両界の溝渠となって居るが『細川両家記』を見ると、永正5年5月10日、細川高国の為に埋められた様である。そして山脚は城山より南東部の高台、附属小学校より建石町法園寺に至り、其れより東部に屈曲して、上池田町に亘る一帯の高台は羅城(外郭)を廻らして居た様である。

『永禄記』
 永禄11年10月2日池田へ御手遣い、大軍を以て外構放火せられ云々
 
又建石町回生病院付近では『弓場』の地名を存し、又陽春寺登山路の下より小阪前に至る区域は『的場』と呼んで居る。思うに当時武道教練に設けられた射場の地であろう。当時は常備の武士を城内の館舎に置いて、非常に備えしと謂えば其の地勢より見て、建石町及び上池田町の高台の地は屋敷町の地であって、下町方面は主として商業地区として発達したものの様である、かの俚謡に

山家なれども池田は名所。月に十二の市が立つ。

と謡われた場所は下町に当たる、東西本町より仲之町方面に亘れる地区に限定されて居た様である。
(後略)
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ちなみに、同月29日に池田市が誕生しています。市に昇格するにあたって、これまでの基礎になる要素をまとめて、今後に役立てようとしたのでしょう。そうだとすれば、大変賢実で、立派な考えだと思います。

昭和40年代初期頃の写真(池田市史 史料編より)
さて、町史にある上記の記述で興味深いのは、この町史が発行された時代は大東亜(太平洋)戦争前で、軍人が日常的に多数おり、その軍人に池田城についての所見を聞いて、城の縄張りの概念復元を試みている点です。全国の村や町に帝国在郷軍人会が必ずあって、活動をしていました。
 この記述を見た事もきっかけの一つだと感じていますが、私自身が色々調べる内に、やはり池田城防備の概念は、五月山山上にも及び、大広寺もその一部を担っていたと考えるようになっています。現在山上にある「五月山愛宕神社」もその関係地だと思います。ここに立つと、北東方面以外は全て俯瞰できます。いわゆる270度の視野です。河内飯盛山城もそうですが、山城の立地はだいたいこういう条件のところに造られています。
 池田城は山城ではなく、その中腹に造られていますが、池田城は時代時代の中で重要な拠点の地位でもあり、こういった事から考えても、視野を確保して備える要素は、不可欠であり、必ず求められただろうと考えています。同時に、五月山北側の細川地域との連絡や通路接続についても、頂上は結節点として機能していたと思われます。
 
詳しくはまた、池田城の項目で考えてみたいと思います。では、また。


2016年5月14日土曜日

摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられている史料

元亀4年7月に足利義昭が京都から落ちた事で、幕府機能が停止します。しかし、織田信長方が五畿内地域で優勢ではあったものの、その後も余震が続き、天正3年春頃までは足利義昭方の勢力も抵抗を続けて、侮れませんでした。
 とはいうものの、織田方は重要な戦で確実に勝ち、また、政治的対応も進めて、同年夏頃には一応のメドを立てて、京都とその周辺地域で優位に立ちました。こうなると、足利義昭も抜本的な構想の再編を行う必要に迫られて、毛利輝元との連合を模索します。

そして遂に、互いの利害が一致し、天正4年2月28日に足利義昭は、毛利家に迎えられて、備後国鞆に入ります。これで、西側に権威を持った大きな対抗勢力ができ、織田信長は京都を維持しながらも敵に囲まれる状況に陥りました。
 この足利義昭の移座に、名家や名だたる武士も多く付き従っているようですが、摂津国大名の池田家の一派もこれに供奉していたようです。義昭が鞆に入った直後の天正4年3月29日、毛利輝元が、池田勘助に知行を宛て行っています。
※黄薇古簡集P269

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備中国薗庄内有井本所18貫之地之事、給地為置き遣わし候。知行全うせしめ、いよいよ馳走肝要候。仍って一行件の如し。
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その翌月20日、毛利輝元の一族である小早川隆景が、足利義昭関係者、若しくは、池田から移ってきたと思われる、上野右衛門大夫某(上野肥前守系の毛利被官かもしれない)・渡辺対馬守某へ、池田勘助の事について音信しています。
※黄薇古簡集P268

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池田勘助大取り退きの由、其の心得候。然る間当地行の事、相違無く宛て行うべく候。忠義肝要為すべく候。仰せられるべく通り与え候。随って同意得之者共進退事者、忠義次第に安堵の儀申し付けるべく候。恐々謹言。
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とあります。
 実は、毛利家中の名だたる武将で、池田姓を持つ人物が以外にも存在しません。4月29日の文中で「池田勘助大取り退きの由、其の心得候。然る間当地行の事、相違無く宛て行うべく候。」と言っているのは、他から移ってきた事を指していると考えられます。
 また、この備中国薗庄内有井(現岡山県倉敷市真備町有井)は、同国の最西端、西国街道を通す高梁川の西側で、毛利領国境の地域です。また、ここには、比較的規模が大きいと想定されている馬入堂山城があります。
 そしてそこから少し西には、摂津池田勝正が入ったとの伝承がある備後国上御領村があります。この頃、摂津国大坂の石山本願寺支援の計画が持ち上がり、毛利領内国境を固める必要もあったため、こういった措置を取ったのかもしれません。しかし、国境の不安定な地域です。「随って同意得之者共進退事者、忠義次第に安堵の儀申し付けるべく候。」との文意は、そういった事情を顕しているのかもしれません。

さて、この池田「勘助」なる人物は、池田家中では「紀伊守」の家系で使われる名乗りと思われ、紀伊守といえば、清貧斎正秀が有名です。そして、その嫡子と思われる正行も勘介を名乗り、後に紀伊守を名乗っています。ちなみに、助と介の違いがありますが、同一の人物とみて良いと思います。この時代も割りと、漢字の使い方はアバウトです。但し、現在のところ、慎重に見る可能性も残されてはいる段階ですが...。

ここで、紀伊守(清貧斎一狐)正秀の登場する史料をご紹介します。元亀4年4月27日付けで、織田信長奉行人林佐渡守通勝・同佐久間右衛門尉信盛・同柴田修理亮勝家・美濃国三人衆(安東守就・氏家朴全・稲葉一鉄)・同滝川左近尉一益が、幕府奉行人一色式部少輔藤長・同上野中務大輔秀政・同一色駿河守昭秀・同曽我兵庫頭祐乗・同松田豊前守頼隆・同飯尾右馬助貞連・同池田清貧斎一狐(正秀)へ宛てた起請文です。
※織田信長文書の研究-上-P629

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霊社起請文前書事、公儀信長御間事、御和平之上、信長一切表裏致すべからず候。並びに信長以前之条数、何れも堅く御請け之条、各慥かに受け取り申し候間、違逆有るべからず、若し此の旨違背せしめ者、起請文御罰深厚に罷り蒙るべき者也。仍って前書件の如し。
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その翌日、今度は幕府側から織田方奉行人へ宛てて起請文を発行します。28日付け、幕府奉行人池田清貧斎一狐(正秀)・同飯尾右馬助貞連・同松田豊前守頼隆・同曽我兵庫頭祐乗・同飯川肥後守信堅・同一色駿河守昭秀・同上野中務大輔秀政・一色式部少輔藤長が、織田方奉行人塙九郎左衛門尉直政・同滝川左近尉一益・同佐久間右衛門尉信盛へ宛てて起請文を発行しています。
※織田信長文書の研究-上-P630

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霊社起請文前書事、今度信長御和平之上者、一切御違変有るべからず候間、各請け取り申し候。猶以て今自り以後、信長に対し逆心之儀を存ずべからず候。但し以前之条数、然るに自り御相違者、右之趣き御分別預かるべく候。若し此の旨違背於て者、起請文御罰深厚に罷り蒙るべき者也。仍って前書件の如し。
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この2つの史料から判るように、池田正秀は、将軍義昭の側近として取り立てられています。また、この時正秀は、清貧斎一狐として、入道となっていたようですので、当主の紀伊守は別にいたのではないかと思います。それは多分、正行です。
 次に、年記未詳ですが、池田家中の人々が連署して、摂津国有馬郡湯山年寄中へ宛てた、6月24日付けの音信を示します。これは、いわゆる池田二十一人衆の連署状として知られている史料です。今のところ個人的にはこれを元亀2年(1571)と推定しています。署名者は、小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、菅野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503

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湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
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この文書に「池田勘介正行」がおり、その父と思われる、「池田清貧斎一狐」も署名しています。そしてその後、勘介正行は、紀伊守を名乗ります。その史料をご紹介します。年記未詳12月13日付けで、池田正行が、奈良春日社領南郷目代今西橘五郎へ音信したものです。正行の花押の形状が一致しているので、同一人物と思われます。
※春日大社南郷目代今西家文書P456

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尚々吹田寺内衆へも此の由堅く仰せ付け候て出ずべく候。少し取り乱し候之間、閣筆候。重々後日に対し私曲之儀之在り候ハバ、貴所疎意為べく候。(悉く事無き之様御調え専一候。)南郷五ヶ村扱い之儀、相調え候由然るべく存じ候。其れに就き寺内村之儀も軈而作環住申すべく候歟。五ヶ村別儀無き様如く御調え所仰せ候。然るに自り後日ニ申事之在る於者、其の曲在る間敷く候。御案内為此の如く候。恐々謹言。
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ちょっと高圧的な感じの内容です。この史料は個人的に元亀2年ではないかと考えています。この頃に正行は、紀伊守を名乗って、正秀の跡を継いでいるものと考えられます。

そして、この元亀2年の後に再び池田家は内訌を起こして分裂し、荒木村重が台頭します。その頃の史料が、先に紹介した元亀4年のものです。
 ご存知の通り、この争いは村重が競り勝ちます。その後、劣勢となった池田家は、主に五畿内地域で活動していたようですが、天正3年頃には史料を追えなくなりますので、多分、バラバラになったか、吸収されたのだと思います。滅ぼされたかもしれません。

そんな流れの中で、天正4年3月の池田勘助の史料は、摂津池田家の武士の動向を探る貴重な史料ではないかと考えています。ただ、この勘助の諱がわからず、他の勘介・紀伊守とどういう繋がりを持っているのかは不明です。天正4年頃になると世代が変わり、この「池田勘助」とは、正行の嫡子かもしれません。今のところ、不明です。


2016年5月13日金曜日

池田筑後守勝正の法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か

研究特集「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田」としてご紹介している一連の記事ですが、今は「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」を調べています。ただ今、鋭意作成中ですので、近日の公開にご期待下さい。

色々な資料を読んでいますが、池田郷土史学会が発行している会報『池田郷土史研究』は、やはり必読ですね。凄い内容だと思いますし、よくこれだけの事ができてきたものだとも感服します。もちろん、時代時代で立派な方々は居られますが、戦前・戦後を生き、熱心に郷土の歴史の保護に努められた林田良平氏などの功績は誠に大きなものだと思います。日本全国の視野で見ても、これだけの郷土研究を深めてきたことは、珍しい取り組みの部類に入るのではないかと思います。

さて、その『池田郷土史研究』の第8号に収録の
 例会:第281回(昭和55・5・11)
発表者:林田 良平(理事)・富田 好久(理事) 
テーマ:城主池田氏と池田城(蝸牛驢文庫所蔵:池田郷土先賢資料書目(其28))

に、「大広寺由緒 第16世雲峰記 元禄6年(1693)4月」の筆写(昭和11年7月18日 林田良平写)が収められています。そこに、池田勝正についての気になる記述があります。
※池田郷土史研究(第8号)P30

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城主池田氏に関する記事左に抄録す。(中略)。
「当寺開基家之法名俗名」
一、前筑州太守大広寺殿玉堂金公大禅定門 俗名池田筑後守藤充正、池田之城主也。此城地と申し伝所今于に池田村に之有り。文明14年(1482)10月24日卒。
一、前筑州太守玉窓珍公大禅定門 此の筑後守者名乗並びに亡日之記さず。
一、前筑州太守久岩宗勝大禅定門 俗名池田筑後守勝正、初め之名伝八郎三郎、同池田城主也。亡日者4日也。年月者之記さず。
(後略)。
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また、参考までに、池田一族と思われる人物の墓石が紹介されいている資料があります。ただ、この人物の名前は不明のようです。「摂北古金石新資料 藤沢一夫稿 考古学雑誌所載(昭和9年11月号)」です。
※池田郷土史研究(第8号)P38

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(前略)。
大広寺附属墓地に室町以降各時代に亘る多数の石塔がある。虱潰的に調査の結果、古銘あるもの十数基を発見した。木崎氏著「摂河泉金石文」には、梵鐘及び池田家の2塔に就き記されて居るに過ぎない。是れ従り個々列記の中に、花崗岩の重合五輪、地輪の端物、高8寸5分、幅1尺1寸、4面に梵字。
・笑岩正忻禅定門 永正5年戊辰5月10日 (昭和8年10月24日調)
※池田市史 史料編(昭和42年発行)では、笑山霊忻禅定門としている。
(後略)。
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塩増山 大広寺の山門
池田勝正の事が記載されているようです。池田勝正は、どこでどのように死亡したのか、判っていません。また、池田勝正の墓と伝わる墓塔が、三田市小柿・田中地区にあり、ここには勝正に従っていた武士の家系の家もあるようです。

しかし、その場所だけでは無く、摂津池田家の菩提寺でもある大広寺が、池田勝正の死亡について把握していた事がわかる記録がありました。勝正の墓があるという事なのかどうか、この記述からは判断出来ませせんが、これまで公式には、勝正の墓の存在が確認されていません。
 大広寺は荒木村重が摂津国を支配した時代に、伊丹の有岡城建設と供に移転し、その後元に戻っているようですから、その時に紛失などしたのかもしれません。ただ、これを記した「元禄6年(1693)4月」は、慶長年間(1596-1615)に池田知正が池田へ大広寺を旧地に復した後、本格的に復興する頃で、確認のためにこういった覚え書きを残した可能性もありますね。ちなみに元禄7年、本堂など主要な施設が再建されているようです。
 また、『摂北古金石新資料』に紹介された、「笑岩正忻禅定門」なる人物は、勝正の法名「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」と「岩」が共通して入れられていて、もしかすると同じ系譜の一族であるのかもしれません。

さて、何れにしても大広寺の代表である「第16世雲峰」が、元禄6年(1693)4月の時点で、勝正の墓石の存在について認識しているのですから、それはそれで意義のある事だと思います。
 今回のこの要素を知った事で、勝正の謎解明が、飛躍的に進んだ訳では無いのですが、その全体を把握するための要素がいくつか増えました。
  • 勝正は4日に亡くなったらしい。年月は不明。
  • 法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」である。
  • 元禄6年(1693)4月の時点で、大広寺が勝正の死について把握していた。この頃それらの確認を行い、墓石も探そうとしていたのか。
今後とも続けて、調べを進めていきたいと思います。道のりは遠いですが...。


◎参考ページ:池田氏関係の図録(伝池田勝正墓塔)



2016年5月3日火曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の木部村と武将下村氏について)

摂津国豊島郡細川郷(庄)内の下村氏は、同郡内から成長を遂げた戦国領主池田氏に早い時期から被官化していたと考えられる。
 実際にはもっと早くから確認できるのかもしれないが、筆者が池田勝正の活動に主眼を置き、その活動を追っている関係で、享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの史料しか確認できていない。以下で扱う資料は、そういった状況でのものである事を予めご了解いただきたい。
 それから、下村氏の本拠である木部村とそこに関係する寺社、また出来事、歴史的遺物なども併せて示し、包括的に理解を深めたいと考える。

先ず始めに、他の項目と重複するが、現在既に論説されている木部村とそれに関する寺社を示してみる。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。


◎木部村(池田市木部町)
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川と合流する。池田村より北上してきた能勢街道は、村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降は、すべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。
     木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しない、という条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が、池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】
  • 池田備後守光重寄進状 昭和11年7月 林田良平稿「大広寺年表」所載
    一相乗實(池田知正)並びに池田三九郎為、木辺村於、米10石御寺納候。田数別紙之在り。仍って後日為寄進件の如し。
       慶長10年(1605)10月吉日 池田備後守光重(花押)
        大広寺御納所
    【池田郷土研究第8号12頁:例会281回(昭55・5・11)蝸牛驢文庫所蔵】

◎曹洞宗 総持寺末 竹林山 松操寺(池田市木部町)
  • 字北条にあり。竹林山と号し、曹洞宗総持寺末なり。寛文2年(1662)8月、下村五郎右衛門の創立にして、大広寺18世雲山の開基と伝えられる。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:松操寺】
  • 木部天神社(紀部神社)前の旧道を少し北へ行くと、五月山山麓の竹林に包まれて「松操寺」があります。ここまでは車の騒音も聞こえない、ひっそりとした佇まいの尼寺です。
     開山は「下村五郎右衛門」という人で、地元では「ごろよみ」と呼ばれていました。寛文2年(1662)大広寺末として、18世により建立されました。ご本尊は釈迦牟尼仏で台座には笹りんどうの紋があって、珍しいことに獅子に乗っておられます。お釈迦様が獅子に乗られたのか、獅子が潜り込んだのか、どちらでしょうか。下村五郎右衛門の祖母の持仏であったとも伝えられていますから、400年以上昔の仏像です。両脇には、達磨大師・天元大師の木像があります。また、小さいけれども創建当時の地蔵菩薩が安置されています。
     長い間無住の時代があって、竹藪にポツンと在った草庵に、籠職人が住み込んでいた事もありました。庵主が入られて現在7世となります。本堂は、周りに増築されていますが、柱など創建当初のまま、焼けることも無く江戸時代初期から修復を重ねて350年近くの年月を経て、今日に至っています。(中略)。
     戦後は政教分離が徹底され、檀家の変遷のある中で、寺院の維持・保存は非常に難しくなってきました。院主のご苦労が偲ばれます。【改訂版 池田歴史探訪:松操寺】

◎曹洞宗 総持寺末 松尾山 永興寺(池田市木部町) 
  • 松尾山と号し、曹洞宗大広寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。長禄2年(1458)2月、「永公」の創立なり。
     永興寺開山堂(いち名位牌堂)の十一面観音は、左手に水瓶(薬瓶)を提げ、右手で錫杖を立てている。ちょっと見慣れない姿だが、是れがいわゆる長谷式で、大和国長谷観音本尊の写しである。長谷寺は、天平時代に藤原房前が本願となって稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)合作のものを安置したが、現在のものは天文7年(1538)8月1日に成ったのだという。
     恐らく現本尊と同じものが古くからあって、天文年間(1532-55)にその形式を襲ったのであろう。分家が古く、本家が新しいという様な事は、理屈に合わないからである。なお錫杖を持っているのは、地蔵の兼相を表すものだとされている。
     ところで、永興寺の十一面観音は、元は木部天神の神宮寺松梅寺の本尊であったという。だいたい、松と梅は天満天神とかかわりの深いものだから、そんな名の寺に同神の本地とされる十一面観音を祀ったのは当然だろう。
     それは兎に角、この像は一木造りで、高さ110センチメートル、宝冠型のまわりに化仏を前後2体、左右3体、現在頂上に1体を配置する略式であるが、頂上仏は失われていない。それから首だけが妙に継ぎ足しの様にみえるのは、そのところだけ金箔が押し直された為か。なお左手と持物、足先が後補、台座も年代が下る。
     時代は彫眼の向き、肩の線、腰のくねり、衣丈の具合等、はっきり藤原式である。ただ中期か末期かに迷わされる。(池田市史)【池田市内の寺院・寺社摘記:永興寺】
  • 永興寺は、木部天神宮の赤い鳥居の右側の坂道を少し登ると、長尾山を望む高台にあります。このお寺は、室町時代の長禄2年(1458)、僧「永公」の開祖と伝えられますから、応仁の乱直前の540年を超える古いお寺です。永公がこの地に来たとき、粗末な庵(いおり)に十一面観音が祀られてあり、ここで一泊したところ、観音のお告げがあり、寺を建立したと伝承されています。
     ご本尊の十一面観音立像は、藤原時代1100年程前の作です。桧一木造りで、頂上仏が失われていますが、池田市重要文化財に指定されている貴重な仏像です。本堂裏の墓地には、古い歴史を語る、多くの宝塔・墓石が樹木に囲まれて森閑と並んでいます。心落ち着く風情です。
     隣地にある天神宮とは、昔は神仏習合(奈良時代に始まった神と仏の信仰を融合調和する思想の表れ)によって敷地がつながっていたそうです。以前、木部天神宮の神宮寺であった松梅寺がありました。【改訂版 池田歴史探訪:永興寺】

◎曹洞宗 静居寺末 少林寺・退蔵峰 陽松庵(池田市吉田町) 
  • 観応2年(1351)天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年(1776)3月、淡路の領主稲田九郎兵衛祖先菩提のため再建せりと。境内九百坪を有し、本堂・庫裏・書院・方丈・廊下・衆寮・如幼斉・侍者寮・経蔵・山門・開山堂・禅堂などあり(大阪府全志)。
     本寺は有名なる天桂禅師留錫の道場であって、享保6年(1721)禅師を招請して中興の開山とした(寺史による)。彼の禅師の名著「正法眼蔵辨註(20巻)」「驢耳弾琴(7巻)」「報恩篇(3巻)」等は当時、眠れる法城に向かって獅子吼された書であって、当山は禅師由緒の地である。今尚は、其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の「正法眼蔵辨註」は、門外不出の書として当山に尚蔵されている。禅師は「正法眼蔵辨註」を享保11年に起稿され、同14年春に脱稿されている。そして6年後の享保20年(1735)12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず、時々其名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰(じんかん:人の住むべきさかひうち)を隔てて小丘によれる僻陬(へきすう:僻地)の寺院であって、幽翠静寂の勝地である。
     近時都人士が、煤煙の地を離れて当山に集い、提唱を聴く者甚だ多しと世間では、当山を一(いつ)に吉田の天桂と呼んでいる。禅師の遺蹤(いしょう:人の行ったあとかた)を偲ぶ名であろう。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:陽松庵】
  • 細河谷南斜面の日当たりの良い適度に乾燥した土地は、我国有数の松の産地で、五葉松(ヒメコマツ)、柏槙などの生産で有名です。池田の文化に多大な影響を残した連歌師「牡丹花肖柏」の号「肖柏」も松・柏に因んでいます。
     同様に松に因む参禅道場「陽松庵」の開山は、観応2年(1351)室町時代、京都天龍寺開山の夢想国師(疎石)と伝えられています。その地は木部北条にありました。その後、四国阿波蜂須賀候は、深く天桂禅師にに帰依され、創建より362年後の正徳3年(1713)、その家老である稲田九郎兵衛によって天桂禅師を招請し、堂宇を再建することを発願されました。
     享保6年(1721)、木部の牡丹屋下村小兵衛も天桂禅師に深く帰依し、所有する吉田の現在地を寄進し、稲田氏と共に天桂禅師を中興開山として新築移転建立されました。
     陽松庵は禅寺としての伽藍配置が良く整っていて、経蔵・放生池・山門・法堂・仏殿・鐘楼・座禅堂・客殿・庫裏・浴室・東司などを備えて、創建当時のまま修復を重ね、現在に至るまで保存されている池田屈指の古刹といえます。(中略)。
     天桂禅師(1648-1735)の墓所は、禅師自らが示された西側山麓の石段を登りつめた所にあります。そこには禅師が示された楠木が代々植え継がれています。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:陽松庵】

◎紀部天満宮(池田市木部町) 
  • 現在の紀部神宮、旧称木部天満宮の所在は池田市木部。当郷産土神として、崇敬甚だ厚く、祭神菅公の千載に変わらぬ忠烈精誠を仰がざるはない。創建の年代は詳らかならざるも、所伝に依れば、天神系紀国造(きのくにみやつこ)の末裔である木部氏(紀部氏)此の地に居りて祖神天道根命(あめのみちねのみこと)を斉祀し、氏の大神として尊崇されるもの、即ち当社の起源にして、後一条天皇の正歴4年(993)勅使菅原爲理太宰府に下り、菅廟に正一位太政大臣を贈り、霊代を奉じての帰途に、神託を畏みて分霊を島上郡日神山(ひるがみやま:上宮天満宮(天神社)現大阪府高槻市天神町)と当社に奉祀し、次いで、日神山の神を上宮天神、当社を木部天神と称え奉りたるものなり、という。
     天神系紀国造の氏族夙くこの地に住して、其の祖天道根命を祀り、氏神として斉き奉りたりしが、後年菅公を配祀して、天神宮と公称せしものなるべしが、正親町天皇朝の天正年間(1573-92)織田氏の兵火にかかり、社殿・神宝・古記録など悉く鳥有に帰し、今や徴すべき史料はない。
     以来、当地の名族下村五家、宮家として、京都吉田殿の免許を受け、神事を奉仕する事、実に明治40年に至れりという。
     上記は、義川百合女氏の論文を摘記させていただいたのですが、義川氏は最後に「而し、現社号は昭和26年宗教法人法に依り、上記の古文献・記録に従ひ許可されたるにて、神宮の称号は府下希有のものたるべし。」としています。【池田市内の寺院・寺社摘記:紀部天満宮】
  • 畑天満宮と区別するために「木部天満宮」としましたが、地元では「天神宮さん」と呼ばれています。本殿に掲げられている額には、「天満宮」と書かれていますので、天満宮が正しいと思いますが、称号が何時変わったのか明らかではありません。別に紀部神社とも呼ばれています。
     当社のご祭神は、言うまでも無く菅原道真公です。菅原道真は、藤原時時平の讒言によって、太宰府に左遷されて、延喜3年(903)59歳で亡くなりました。以来、天神信仰が全国的に拡がり、各地に「天神さん」として祀られていますが、ここの天神宮は、道真公と直接の由来があったように思います。と言いますのも、かなり古い社で少なくとも14世記南北朝時代には祀られていたように思います。火災には遭っていないようですが、長い間、宮司が不在で、古文書などは散逸してしまっているために、全く不明です。しかし、寛政から天保年間(1789-1843)の頃、最も繁栄していた様です。その後、明治・大正・昭和の初期まで、厚い信仰が続いていました。
     現在の本殿は、100年余り前の建立と思われますが、境内の数百年を経るケヤキの大木や石垣などに歴史の重みが感じられます。木部は「城辺」とも記録され、池田の原住民「佐伯部」の城(とりで)があたっと伝えられる平安時代からの集落でした。五月山は佐伯山と呼ばれていました。
     また、木部は大規模牡丹栽培の発祥地として500年もの歴史と主産地としての繁栄がありました。牡丹屋小兵衛が著名で、今も牡丹屋と呼ばれる下村家が健在です。現在、吉田にある陽松庵は、もとは木部にありました。陽松庵の建立に、牡丹屋小兵衛の大きな尽力がありました。
     木部天満宮は、阪神大震災で社務所が倒壊し、大きな被害を受けました。しかし、整備された神社とは、また違った神秘さと、歴史のミステリーが感じられます。
     当社のお祭りは10月24日・25日の秋祭りです。最近は祭日直近の土曜日に行われます。だんじりは、木部と新宅の2台があります。(中略)。現在は木部のだんじりだけが、2つの赤提灯を先頭に、太鼓の音色も勇ましく、大人・子ども70〜80人が曳いて、木部町を一巡します。保存会の方々のお陰で、元気な子どもたちも大いに一日を楽しみます。【改訂版 池田歴史探訪:木部天満宮】

既述のように木部村は、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、享保17年(1732)の人口は329人。この規模で神社(神宮寺)1に寺が3つと陽松庵を持つ。細川郷六ヵ村の中で木部村の石高が特に高いわけでもないが、他の村の寺数が大体は2つであるのに比べて、倍の数を保有している。

次に、戦国時代当時の資料を見てみる。永享元年(1429)8月に発行された『春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠三帳』に、春日社柛供料所摂州豊嶋郡桜井郷本田分として、17坪・23坪などの給人で「下村五郎兵衛」と見える。これが下村氏についての史料上の初見ではないかと思われる。また、年記は未詳ではあるが、天文15年と推定される、6月1日付けの池田信正による、今西家(春日社領垂水西牧南郷目代)への神供米切出注文の中に給人として「下村両人」と見える。その後も神供料に関する記録に下村姓が見られ、天正4年(1576)分にも小曽根分として「下村分」が見える。
 そして、これらの給人の多くは、池田氏の被官であったと思われる。下村氏は、春日社領に関わる行動もしていた。早い段階の記述に見える下村氏は、士分の活動をしていたのかどうか、他の史料が無く、今のところ不明ではあるが、地域の有力者や村の防衛のために武士として活動していた一派もあっただろうと思われる。
 また、池田氏の当主が長正に代わると、下村氏は更に深く、その政治体制に関わるようになっていく様子が窺える。史料では年記を欠くが、永禄2年と思われる10月15日付けで、今西橘五郎へ宛てた音信では、池田勘介正行・荒木与兵衛尉宗次・寺井与兵衛尉綱吉・宇保平三郎安家・大井新介宗久・村田善九郎秀宗と共に、下村彦三郎仲成が名を連ねている。内容を以下に示す。
※豊中市史(史料編1)P129

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急度折紙以って申し候。仍て小曽根村井■(井関?)之事、段別一斗六升懸けられ由候。百姓等申し候。如何有り之儀候哉。前々堤切れ候時に、引き懸けなど有るべく候。当年過分に懸けられ候事。各々承引仕り難く候。この由百姓中へ聞かせ仰されるべく候。恐々謹言。
※■=米遍に斤
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続いて、当主が勝正の時代、池田氏は活動範囲が最も広くなる。大和国奈良へ軍を入れる中に、下村重介なる人物が見える。『多聞院日記』5月19日条に、
※増補 続史料大成(多聞院日記2)P14

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一、昨夜宿院ノ城へ夜打シテ池田衆損了。寂福院へコミ入了。事終次第也(下村重介死了。百計ノ大将ト云々)。坊舎オモコホチ了。並金龍院ヲモフルヰ了。日中後尊蔵院ヲモコホツ由也。定テ宿院辻之城ノ火用心二、坊ヲ可壊取之由被申歟。浅猿浅猿。
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下村重介は、奈良宿院城の夜襲に失敗し、戦死した模様。この時の重介は、100人程を采配する大将であったらしいが、大将が戦死したと伝わる程の戦闘であるから、他にも死傷者を多く出しているのだろう。この戦いについての記述が他になく、詳しくはわからない。
 その後、下村氏については、直接的史料では見られなくなるが、伝聞資料や系図、軍記物などで下村市之丞なる人物の行動が見られる。ただ、これは豊島郡細郷の下村氏とは別家系かもしれないが、参考までにあげてみたい。
 
『岡藩豊後中川氏諸士系譜(豊後竹田市立図書館所蔵)』に、下村市之丞勝重(下村伊賀守成兼長男)の項目がある。以下にその部分の内容を抜粋してみる。
 ちなみに下村成兼とは、下村仲成とは「成」の字が共通しており、通字を冠していたかもしれない。これは、今のところ個人的な想像に過ぎないが...。また、「市之丞」は正式な官位の名乗りではない。本拠地が「市場」であるためか。
※荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P147

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一、同(永禄)12年(1569)1月4日、三好勢本圀寺の御所に押寄候に付、伊丹兵庫頭・池田筑後守を始め渡辺宮内少輔・萱野長門守・田能村伊賀守・有馬伊予守・白井主水正・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・長柄八郎左衛門・安威三河守・畠田但馬守・(中川)清秀様・布引舎人助・荒木弥助・長目清助・桜塚庄兵衛等摂州を打立、公方家之御味方に参る。(中略)。
一、元亀元年(1570)9月、荒木信濃守村重池田城に在りて勝正か余類退治の時、清秀様・下村市之丞・粟生谷兵衛尉・安威三河守・瓦林越後守以下村重か下知に依りて、自身馬を進め人数を出し、残党共の要害に押寄壱人も不残悉く討取。
一、元亀3年(1572)8月28日白井河原合戦荒木信濃守村重和田伊賀守惟政と合戦の節、市之丞は荒木方にて、清秀様・粟生谷兵衛尉等一同に上の郡勝光寺に勢揃いして馬塚に出張し、和田勢と相戦い和田方の鉄砲頭十河扶之助を討捕。
一、市之丞儀、荒木幕下に有之時、何れの合戦にや無比類高名を顕し、村重差所の刀を引出物として賜る、其刀子孫伝来す。刀長二尺五寸、作出雲道永。
一、天正6年(1578)11月、荒木謀反之節、清秀様茨木御籠城、依之市之丞御加勢として茨木城へ参上。
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とある。また、同じく『諸氏系譜』に、何名かの下村姓の由緒が見られる。参考までにあげてみる。
※摂津市史(史料編1)P528、530、532

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第12巻
此巻にも又摂州菅家之一族、永禄年中清秀公之旗下に属する輩記之。
【下村総蔵】其祖下村次郎左衛門者播磨国赤松之支族にして、播州三木郡下村に居る。永禄年中摂州に入て伊丹家に属、其後清秀公之旗下に属す。
第17巻
此巻にも摂州にして室町公方の御家人、公方御浪人の後、大祖の旗下に属する輩記之。
【下村弥五郎】其祖下村市之丞、代々摂州島下郡下村の領主にして、室町公方の御家人たり。永禄の末、和田伊賀守に所領を奪われ、荒木信濃守に付きて本領安堵を望む。元亀3年(1572)8月、白井河原合戦の節、清秀公と御相備にして白井河原出張す。夫れより後終いに清秀公の御幕下と成る。
第20巻
此巻にも元亀・天正之頃より大祖之旗本に有て、年月不詳輩記之。
【下村九郎左衛門】其祖下村太郎太夫、山崎合戦に軍功有、主帳に見ゆ。夫れより以前、大祖の旗下に有と云う。其の来る事、元亀・天正の始めなるべし。
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上記の下村氏姓は、何れも摂津国内に縁を持つ出自らしい。豊島郡細郷の下村氏とは、直接の関係は無いかもしれない。
 それからまた、『中川史料集』では、白井河原合戦での下村市之丞について、詳述しているので、市之丞の登場部分を抜き出して紹介しておく。
※中川史料集P15(北村清士 校注)

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一、28日暁、白井河原へ御出陣に依って付き従う人々、「老職御備頭」熊田千助資勝、池田次郎長政、森田彦市郎吉俊、森村次郎大夫正家、田近新次郎長祐、中川淵之助重定、菅杢大夫相雄、野辺弥次郎村清、森田半右衛門、辻六郎兵衛、弟同助右衛門、萱野五右衛門正利、安西弥五太兵衛、上島新左衛門正恒、弟同与兵衛、弟同理左衛門、弟同庄右衛門、弟同猪右衛門、飯田七助、丸山孫六、永田伝内、嫡子同右衛門秀盛、森市兵衛、田島伝助、右の輩を始めとして、御備えの人数押し出す。荒木方より加勢として、馳せ加わる人々、粟生兵衛尉氏晴、熊田孫七資一、下村一之丞勝重、鳥養四郎大夫、既にして打ち立たんとし給う。(中略)。卯辰(午前7時)の刻の頃には、荒木の軍勢3,000の人数、郡山より馬塚にかけ、東向きに陣を敷く。和田伊賀守は、茨木の城主、茨木佐渡守重朝を語らい、1,000余人を従えて糠塚より、西向きに備えを堅む。(中略)。太祖引き続きて隙もあらせず、突いてかかり給う。粟生兵衛尉、熊田孫七、下村市之丞、鳥養四郎大夫、中川淵之助、田近新次郎、菅杢大夫など息をもつかず突撃すれば、和田が旗本崩れて八方に逃げ走る。(中略)。二本靡きの指物この靡きは、伝助取って御供す。荒木は太祖の横合にかかり、敵の色めくを見て、先手旗本一同にかかり、自身も太刀打ちして茨木佐渡守を組み打ちにす。郡兵大夫をば山脇源大夫討ち取り、十河杭之助は下村市之丞討ち取り、永井隼人を三田伝助組み打ちにし、池田久左衛門尉は槍を合わせし時に、和田方より槍下につき伏せられたるもまた起き上がり、能く敵を組み打ちにす。その余り和田方の名ある勇士共、66人悉く討ち死にす。雑兵は数を知らず。終いに和田方総敗軍となる。既に軍散じければ、太祖は御人数をまとめ、荒木が前に御出あり、戦いの次第御披露あり。同夜、荒木は郡山村に陣取り、味方の軍労を慰めんがため、池田より諸白数十樽取り寄せ、酒宴を設く。其の席にて諸士に感状を与う。此の時下村市之丞進み出で、今日の合戦は信濃守殿軍略を以て、敵を引き掛け、前後を駆り隔てらるる故に、御勝利となる事もちろんなれども、清秀よく塩合を見定め横槍を入れて、和田勢を突き崩せしより、敵一同に崩れ立ち、伊賀守・佐渡守も討ち死にせしむ。今日の勝利全く清秀の手柄なり、御杯を始められ一番に清秀に賜れと申せば、荒木もさこそ思いつれ、某たとへ先手を切崩すとも、鬼神と呼ばるる伊賀守を旗本を以て、二の見をせば六つか然るべし、清秀横槍の働きを以て味方の勝利となる。剰え和田が首を討取らるる事、今日一番の功名紛れなし、といって杯を進ぜられんとて、太祖へさして御勲功を賞す。此の御働きに依って、呉服台500貫の地も領し給う。(後略)。
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このように、下村市之丞は、武士として大変有能であったらしい事が述べられている。また、池田家中でも重く取り立てられて事もあり、「勝重」という諱は、当主勝正からの偏諱であったのかもしれない。

しかしながら、この下村市之丞が豊嶋郡細郷出身であるかどうかは、今一度慎重に考えるべき資料があるので、それも示してみる。
※摂津国豊嶋郡熊野田村古跡見聞書(竹田市立図書館蔵)

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摂津国豊島郡熊野田村古跡見聞書
 安政4年(1857)12月15日書 下村市之丞

御咄申し上げ候口上之覚え

私儀此の度摂津国豊島郡山田之庄下村市場と申す所は先祖之旧地に付き、是れに罷り越し代々之墓にも参り、先祖市之丞旧宅且つ同姓も御座候に付き、是れに暫く滞留仕り候。(後略)。
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この『見聞書』によれば、下村市之丞の縁故地は、摂津国嶋下郡山田庄下村市場であるとしている。
 この下村市之丞の主家である中川家自体は、池田家中での活動として「春日社領垂水西牧南郷柛供米切出分注文」の給人として、天文年間(1532-55)から見られるので、古くから池田家との接点がある。
 そんな中で個人的に、中川清秀そのものの起源が、多少縁起を担いだ起源を挿し入れているのではないかと感じている。清秀自身に武士の才能があり、諸々の活躍で大身に成長した事は間違いない事ではあるが、中川家が成長しきった時代性もあったのか、派手な縁起をその成り立ちの中に求めることがあったのかもしれない。
 中川家の、池田家中時代の動きを追うと、どうも唐突に感じられる事象もあるように感じている。だからその周辺の人物についても、そういった風潮の中で謂われが形成されている可能性もあるのではないだろうか。その土台がウソという訳ではない。
 他方、下村市之丞の本拠地とする山田市場は、その名の通り「市場」がある重要な地域であり、また小野原方面からの街道と千里丘陵の南側の街道の交点でもあり、土豪として成長したり、重要な人物がそこに入っても不思議では無い。ただし、嶋下郡であるこの場所は、摂関家領垂水東牧に属する。
 後に、嶋下郡山田の下村氏も中川家の転封に従う一派と旧地に残る一派が出て、ここでも運命を分かつ出来事があったようである。
 いずれにしても、精査するためには他にも情報を集め、状況証拠をもって見る必要がある。下村市之丞については今のところ、その家系が、豊嶋郡細郷の下村氏と同じかどうかは断定できない

戦国時代の池田家中及び荒木村重に属した下村氏の動きを時系列にまとめてみると、
  • 池田城の防衛上、要所である木部村の有力者下村氏が、天文年間(1532-54)には池田氏と関係が深まっている事が確認できる。
  • 池田長正の当主時代になると、池田家の公文書に下村氏が署名する程に地位を向上させ、取り立てられている。
  • 永禄10年(1567)5月、下村重介が100名程を率いる大将として奈良へ出陣し、戦死したらしい。
  • 永禄12年1月、京都本圀寺・桂川合戦に下村市之丞が出陣しているらしい。
  • 元亀元年(1570)の池田勝正追放に、下村市之丞が加わって、勝正残党を討つ行動を取っているらしい。
  • 元亀2年8月、白井河原合戦に下村市之丞が従軍して活躍し、名のある武将十河杭之助を討ち捕ったらしい。この時は荒木村重が率いる一団に属し、中でも中川清秀と共に行動して、手柄を立てた模様。
  • その後、池田家中が再び内訌を起こし、池田一族と荒木村重が争った時には荒木方に属し、ここでも活躍していたらしい。これらの功に対して村重から下村市之丞へ「出雲道永」作の刀が贈られている模様。
  • 天正6年秋、荒木村重が織田信長から離反した時、一時的にはそれに従うも、村重から離れた清秀に同調し、織田方となった模様。下村市之丞はその後、清秀と行動を共にするようになったらしい。
となる。

摂津豊嶋郡下村家はそういった経緯を辿り、江戸時代に至って家を保ったと思われる。ただ、下村一族の全てが同一行動をとった訳ではない。豊島郡に残った一派(代々庄屋を勤める)と中川家と共に豊後国へ移った一派などがあって、その時代の求めにより、それぞれが判断し、それぞれの涯分を護ったようである。

豊島郡の下村氏について、その本拠地の様子と時代による活動を見たが、やはりこれ程に戦国領主摂津池田氏と深く関係しているからには、城を持ったであろう事は、想像に難くない。しかもその場所は、要所である。それが『日本城郭全集』や『日本城郭大系』に記述されている「木部砦」であろう。以下に再度、引用してみる。
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
また、記述の陽松庵の項目を見ると、同庵の前身は観応2年(1351)天龍寺開山の夢想国師の開基で、その頃は今の木部町字北条にあったと伝わる。今現在、字北条には竹林山松操寺がある。ただ、「字北条」とは現在の細川小学校から南側あたり一帯も含まれ、厳密には、陽松庵の前身施設がどこにあったのか、今のところ不明である。
 一方、江戸時代の享保6年(1721)に、新築移転して陽松庵となった場所は、下村小兵衛による土地の寄進で事業が実現している事から、このあたりも下村氏に縁の場所であった事が判る。
 ここは川辺郡との境目で、戦国時代には重要な場所でもあったため、陽松庵の造営に際して、そういった経緯があったこと自体、大変興味深い。

それからまた、永興寺は、長禄2年(1458)の創建時には、大広寺末であった。大広寺は池田氏の菩提寺であるが、永興寺は下村一族の菩提寺であり、歴代の墓塔もある。永興寺創建の頃の長禄2年は、当主充正が主導して池田氏が台頭してくる年代でもあり、その頃に大広寺末として木部村に永興寺を開山した事も興味深い。
 ちなみに、永興寺は、木部天神の神宮寺であった松梅寺の本尊である十一面観音を引き継いでいるらしい。

一方で細郷の本拠の下村氏は、江戸時代にも牡丹の栽培を続け、その道で全国に名を知られるようにもなっていた。以下、資料を引用して紹介する。
※広島史話伝説(第2号)已斐の巻P148

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◎已斐園芸植物の元組 -植木屋こと下村次郎右衛門-
花を好んだ二代将軍、徳川秀忠の妹「振姫」を妻にもらった、浅野家初代広島城主長成は、当時上流社会の諸国大名たちの間に流行していた。愛花、盆栽趣味に凝ることは、当然のなりゆきで、特に江戸時代吹上御苑に花壇を造り、自らその範を示すほど園芸好きの兄秀忠に刺激された振姫が、未だ見ぬ安芸の国へ転勤するについて、荒大名福島正則の跡を受け継ぐだけに、一層「花」の事を先に考えた事は、人情の然らしめたものであろう。
 元和5年(1619)7月4日、世子光晟を伴い、海路紀州を発し、8日夕方、はやくも広島城に到着、紀州37万6千5百石から、振姫の持参金と称せられる5万石を加え、合計42万6千5百石で、広島城主となった浅野名晟は、広島に転封を前に、元和2年1月19日、家康の三女「振姫」と結婚し、一子光晟をあげた。ところが、振姫は産後の日立ちが悪かったか、どうかして、結婚の翌3年8月29日、光晟を産んで間もなく急死した。この振姫は、生前特別牡丹花を好んでいたらしく、今の大阪府池田市に居住していた、牡丹造りの名人、牡丹屋こと下村次郎右衛門を同行する事となっていた。
 しかし、結果からみると、振姫の愛した牡丹の花は広島でその開花をみたものの、振姫の死語その墓前をかざる花となってしまった。振姫は安芸国広島の城下を見ぬままに紀州の地で他界した。
 牡丹屋次郎右衛門は、予定通り新城主とともに広島城下に赴任すると、国泰寺付近に宅地をもらい、その後城主の命により直ちに牡丹造りの適地を探し歩いた結果、已斐の地に白羽の矢を立てた。
 已斐の地は旧已斐小城を囲んで、その小茶臼山を抱くように、大茶臼山、抽ノ木山などが連峰をなして、北西から吹いてくる寒風を遮り、南面して暖かい土地で牡丹のみならず、園芸植物には理想的な適地であること等報告して、ここに屋敷地の下賜を受けて牡丹造りに精だし始めた。
 その屋敷跡はもと百花園のあった小高いところ、已斐住民が住み着いた五ツ井戸のうちの一つ、松本井戸のある上堤一帯で、園芸造花には最適の地であった。
 この牡丹園下村次郎右衛門は、植木職人であるといっても、下村姓を許されている浅野候お召し抱えの人であるから、ただ単なる下級職人といった風の者ではなく、名字につきものの帯刀をも許された家柄であった。、ということであるが、その後、下村家の末裔は如何になって行ったであろうかは、極めて興味ある問題である。
 浅野長晟公に従って現在の大阪府池田市細川から広島に来た。初代植木屋次郎右衛門より数えて八代目、現当主下村卓爾氏(82歳)はいまも八十二歳の老齢ではあるが、大阪市旭区に健在であるから、その父から聞いた記憶を辿って左記「已斐植木屋元祖 下村次郎右衛門系譜覚帳」の項に述べてみよう。(後略)。
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また、細郷の下村氏は「牡丹屋」との屋号で、大東亜戦争(太平洋戦争)前には、「大日本帝国牡丹元組」なる全国的な牡丹生産振興組織を主導し、会報などを発行していた。
 『広島史話伝説(第2号)』に紹介された、初代下村次郎右衛門は、万治3年(1660)に没している。またその名も、細郷木部村の松操寺を創立(寛文2年)した下村五郎右衛門と名付けの共通性があり、兄弟や血縁の近い一族である事を想像させる。
 
上記にあげた様々な木部村と下村氏についての要素と歴史は、個々別々のものでは無く、出所としては一つであろうと思われる。現在のように、何の縁故や謂われ無く交わる事が難しい時代にあって、ここにあげた要素のそれぞれは、偶然に結ばれたものでは無いだろう。
 今後、これらに興味を持った人々が、それらを更に深く、広く研究される事を祈りつつ、この試みが、そのキッカケになれば大変嬉しい。




2016年4月28日木曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)

細郷(細川庄)は、古くから開け、久安寺を始めとした、非常に古い開基を持つ寺が多くあります。また、江戸時代の開基であっても、再興としての意味合いを持つ寺も多く、非常に古い時代の寺宝を持つ寺も多くあります。神社も然りです。
 細郷内には曹洞宗の寺院が多く、大広寺末寺及び同寺に関わりを持つ寺院が4つ(無二寺・東禅寺・松操寺・永興寺)あります。五月山南側の戦国領主池田氏の菩提寺である、曹洞宗大広寺と関わりを持つ寺が多い事は、非常に興味深いです。

五月山南麓にある池田城は、池田氏の成長過程で何度も戦乱に巻き込まれて落城していますが、発掘調査に関する研究では、落城の度に城郭そのものの縄張りも拡張・強化されています。これと同時に、五月山と城の関係を考え直し、落城しないための領域概念の再構成も行っていたとも想像されます。
 それらの永続的な防衛概念の構築と実践で、池田城は次第に落ちにくい城に変貌している事が歴史を追えば明らかとなります。池田城は、単立の存在ではないでしょう。
 五月山の裏から山上を取られて攻められたり、包囲されたりする事を避けるために、細郷に影響力を及ぼすことを池田氏が考えたであろう事は、想像に難くありません。研究によれば、史料上でハッキリし始めるのは、文安年間(1444-49)頃からとされ、池田氏が細川庄の代官請などを得ているようです。また、文明11年(1479)には、中河原村の代官職を得た池田若狭守の活動が見られるようになります。時代を経るにつれ、池田氏は細郷への影響力を強めた事と思われます。
 ちなみに、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)は、江戸時代を通じて、ほぼ幕府領で、同じく同時代に全期直轄領であった池田郷と関連を持たせた支配を行っている事からみても、これらの地域は防衛上、連続性を持たせる事が必須となっていたと思われます。
 それから、細郷は川辺郡との境目でもあり、隣接して多田神社があります。戦国時代は国や郡の境目は曖昧な事も多く、細郷の本所(領家)と多田院との境目争いも度々あったらしい事から、細郷は多田院御家人とは文化が違い、実質的な経済関係も全く異にしていたようです。

そういった状況から細郷は、永禄・元亀年間(1558-70)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)
 やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。伝承もある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
 
池田城を本城と考えた場合、重要な街道を多く通す細郷にも、支城機能を要所持たせていたと考えられ、それらの可能性を思索するために、細郷の歴史的経緯を村毎に詳しく考えてみたいと思います。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。


◎細川庄
  • 現池田市の北部、久安寺川(余野川)流域にあった庄園。近世の細郷六ヵ村の地に比定される。「後鳥羽院熊野御幸記」建仁2年(1201)10月25日条に「此宿細川庄成時沙汰也」とみえ、この時、熊野御幸に際しての雑事である長柄宿(現大淀区)の沙汰を当庄庄官成時が行ってる。ところで当庄は、建長5年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、後堀河天皇の中宮鷹司院藤原長子知行の一処として「知足院殿新立庄内 摂津国細河庄」とみえ、知足院すなわち藤原忠実のとき立庄されたことが知られる。鷹司院へは、同目録によると寛元2年(1244)に近衛家実から譲られている。正応6年(1293)4月日の鷹司兼平譲状案(鷹司家文書)によると、その後当庄は鷹司院から鷹司兼平の手に移っており、この時兼平からその息子兼忠に譲られている。ただ、当庄はこの時金蓮華院領となっており、金蓮華院と鷹司家の関係は、応安4年(1371)3月6日の勘解由小路兼納譲状(広橋家文書)によれば、本家と領家であった。同譲状によると、文保年間(1317-19)勘解由小路兼仲が当庄領所職を得たらしく、その後同家が同職を相伝、建武3年(1336)には勘解由小路光業が、光厳上皇より当庄の知行を安堵されている(同年8月27日「光厳上皇院宣」下郷伝平氏所蔵文書)。
     当庄は多田院(現兵庫県川西市の多田神社)に近接していたために、この間、同院との間で境相論が起こっている。正安元年(1299)11月10日の六波羅下知状(多田神社文書)によると、当庄雑掌行智が多田院地頭代道教と山野などについて争ったことがみえるが、同下知状によれば、これ以前の正元年間(1259-60)にも相論があった。いずれも多田院の勝訴に終わっている。そのほか国衙や住吉社(現住吉区)から年貢所当(正税)をめぐって、しばしば濫妨をうけている(貞治3年9月日「勘解由小路家雑掌有賢申状」広橋家文書)。ところで永和元年(1375)7月25日の諸堂造営棟別銭郷村注文(多田神社文書)によると「多田加納村々」の中に、細川庄の名がみえ、このころ多田院の加納地となっていたことが知られる。また「康富記」文安5年(1448)8月5日条によると、細川庄本家職の請負代官に守護細川氏の被官池田筑後守充正がなっている。なおいつからかは不明だが、細川庄は三条家領となっており、康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付に「三条師殿御家領(摂州細川庄段銭)」とみえ、3貫500文を納入している。【地名:細川庄】

◎細郷
  • 現池田市の北部、久安寺川(余野川)流域にあり、近世の伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部の六ヵ村をいう。中世は細川庄の地で、戦国期には細川村と記されることもあった(明応4年12月22日「細川政元奉行人斎藤元右奉書」多田神社文書)。元和初年の摂津一国高御改帳に「綱郷」とみえるが細郷の誤写であろう。上記六ヵ村で、高1745石余となっている。当郷は植木の産地として知られ、「摂津名所図会」に「名産種樹、細河谷より出づる。京師、浪速及び諸国へ出す。すべてこの辺の地理、北の方山岳多く寒を防ぎ、南の方晴れて陽気早し、ゆえに諸木繁生の名地なり」とある。承応2年(1653)大内裏が炎上し、紫宸殿の左右の桜・橘が焼け枯れたため、明暦元年(1655)郷中の接木の巧者六蔵なる者が御所に召され、橘の接木に成功し「橘兵衛」の名をもらったと伝えられる。
     この話しは川辺郡長尾(現兵庫県宝塚市)にもあり、両地ともに植木の元祖を主張している。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると細郷谷は、梅・桃・李・梨・栗・柿などの産物とともに「樹芸」があり、接木・挿木・取木などで「珍弁異花ノ名品」を多く出していたことが記され、この頃には世に知られていた。安永3年(1774)大坂天満(現北区)の植木商が株仲間を結成する時、細郷六ヵ村と、川辺郡山本村(現宝塚市)が反対し、30株の株入を認めさせている(大阪市史)。これは、村々で植木を扱う商人の株入りが認められたことで、当郷にも植木を扱う在郷商人が広く存在したことを示している。以後、当郷で育てられた植木は「池田の植木」として発展していった。【地名:細郷】

◎木部村(池田市木部町)
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川と合流する。池田村より北上してきた能勢街道は、村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降は、すべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。
     木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しない、という条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が、池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】
  • 池田備後守光重寄進状 昭和11年7月 林田良平稿「大広寺年表」所載
    一相乗實(池田知正)並びに池田三九郎為、木辺村於、米10石御寺納候。田数別紙之在り。仍って後日為寄進件の如し。
       慶長10年(1605)10月吉日 池田備後守光重(花押)
        大広寺御納所
    【池田郷土研究第8号12頁:例会281回(昭55・5・11)蝸牛驢文庫所蔵】

◎中河原村(池田市中川原町)
  • 木部村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、その左岸を余野道(摂丹街道)が通る。村域東部は五月山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄2年(1226)11月15日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が、中川原段銭として1貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明11年(1479)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が200疋を進納している。
     元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。【地名:中河原村】

◎東山村(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】

◎古江村(池田市古江町)
  • 木部村の北西にあり、細郷の一村。村の南西側を猪名川が南東流し、村の南端で久安寺川と合流する。北部は山地で、南部に耕地が広がる。東部を能勢街道が南北に通り、街道に沿って集落がある。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に「古江村」とみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)、幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると349石余。宝暦10年(1760)の村明細帳(森家文書)によると、家数68(うち寺1・道場1)・人数161、牛12、溜池2、草刈野山1(六ヵ村立会)、村民の余業として木柴苅・木綿稼をし、池田や伊丹(現兵庫県伊丹市)の市場に売出した。年貢米は津出しで、神崎浜(現兵庫県尼崎市)へ運んだ。猪名川・久安寺川に挟まれたように立地する当村ではあるが、干損所であった。しかし、大雨の時には両川の水が合流するところから、出水する場合が多く、水損も多かった。曹洞宗無二寺と、初め片岡惣道場とよんでいたが、宝暦3年(1753)、寺号を免許された浄土真宗本願寺派如来寺がある。なお無二寺境内には貞和5年(1349)5月3日の銘を持つ石造宝篋印塔があり府指定文化財。【地名:古江村】

◎吉田村(池田市吉田町)
  • 古江村の北東にあり、細郷の一村。村の南東端部を久安寺川が南西流する。村域の北部および西部は山地で、集落は山麓平地に点在。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳で細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれ、以後幕末まで幕府領。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると131石余。細川神社、曹洞宗陽松庵・同慈恩寺がある。【地名:吉田村】

◎伏尾村(池田市伏尾町)
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野街道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。
     慶長10年(1605)摂津国絵図には、伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉国高調に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川(現兵庫県加古川市)の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎真言宗 大澤山 久安寺(池田市伏尾町)
  • 高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
     天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
     
    久安寺寺号勅額(近衛天皇宸筆)
    文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書く(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
     文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
     境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
     慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
     楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。(中略)。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。【地名:久安寺】

◎曹洞宗 大広寺末 鼓瀧山 無二寺(池田市古江町)
  • 無二庵そのものは、延宝4(1676)浪速の人井関某が、自分の職業上、航海の安穏を祈って創立したものであるが、それまでこの辺りは、海光山等覚寺なる古刹があった。行基の創立で、寿永の乱(1182-85)に焼かれたと伝えるが、その法灯を無二庵が継いだので、恐らく等覚寺址の石塔群をも収めたものと推察。、とあります。
     また、大阪府全誌には、無二庵は字北垣内にあり、鼓滝山と号し池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、聖観音を本尊とす。永禄5年(1562)正月、僧曇清の開創にして、其の後再建せりと云う。【池田市内の寺院・寺社摘記:無二寺】
  • 無二寺のある古江は古墳もある、古代から人が住む街道筋でした。古江は「シノブ梅盆栽」の名産地としても知られている土地柄です。余野川に架かる中川原橋を渡って、田中園芸を北へ入り、三叉路を西へ柵に沿って進むと、右手に無二寺が見えて来ます。このお寺は、和泉式部の墓とされる宝篋印塔(供養塔)があることで有名です。無二寺となる以前は、海光山等覚寺というお寺があって、行基の開創と伝えられていますから、1300年も昔の話しです。その後、寿永の乱で焼失し、廃寺となって、永禄5年(1562)に僧・曇清が無二寺として創建、天正の乱で再び焼失しますが、延宝4年(1676)に井関某によって再興されます。
     現在の本堂は30年ほど前に建立されたものです。ご本尊は、釈迦牟尼仏です。墓地には、等覚寺当時の墓石が残されていて、室町初期の阿弥陀像石仏(二体を一つにした)や室町末期の光明阿弥陀像石仏等と共に大阪府指定文化財となっている和泉式部の宝篋印塔があります。宝塔には貞和5年(1349)の銘がありますので南北朝の頃のものです。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:無二寺】

◎等覚寺址(池田市古江町)
  • 古江北方にあり、伝えいう当寺は天平年間僧行基の開基なりしが寿永年中の兵燹にかかり悉く鳥有に帰せしと。今は田甫となりて遺址の見るべきものなきも字地に寺名及堂塔址を残せりと。(大阪府全志)【池田町史:等覚寺址】

◎真宗 西本願寺派 八幡山 如来寺(池田市古江町)
    古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
    • 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
    • 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
    • 良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。
    • 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
  • 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
     お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者、「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
     ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
  • 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【池田町史:如来寺】

◎曹洞宗 陽松庵末 長尾山 慈恩寺(池田市中川原)
  • 字深谷にあり。長尾山と号し、曹洞宗 陽松庵末にして、毘沙門天を本尊にする。由緒は詳らかならず。もと字長尾にありしが、明治21年(1881)2月15日当所に移転せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:慈恩寺】
  • 地元では古くから「吉田の毘沙門さん」とよばれて信仰されて来ました。住所が中川原となっていますが、これは土地を寄進された元の所有者が中川原の人であったために飛び地となっています。元は、伏尾ゴルフ場北の山頂近くにあって、細郷(細河谷)北方の守護神として祀られていましたが、明治時代現在地に移されました。(中略)。もとは真言宗でしたが、江戸時代に永平寺曹洞宗に改宗されました。しかし、現在も護摩が焚かれ、真言密教の名残があります。
     境内には元長尾山頂上にあった江戸時代後期の道標があって、「妙見江ぬけ道」と刻まれています。また参道石段右手の地蔵さんも道標となっています。
     平成16年(2004)から境内に品種の異なる100鉢の蓮の栽培を始められて、夏の7〜8月には見事な花が色とりどりに咲き、心を和ませてくれます。大変なご苦労があると思います。慈恩寺は、長い間無住職の時代があって、現在の住職は4世にあたります。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:慈恩寺】
  • 字深谷にあり、長尾山と号し、曹洞宗陽松庵末である。)【池田町史:慈恩寺】

◎曹洞宗 静居寺末 少林寺・退蔵峰 陽松庵(池田市吉田町)
  • 観応2年(1351)天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年(1776)3月、淡路の領主稲田九郎兵衛祖先菩提のため再建せりと。境内九百坪を有し、本堂・庫裏・書院・方丈・廊下・衆寮・如幼斉・侍者寮・経蔵・山門・開山堂・禅堂などあり(大阪府全志)。
     本寺は有名なる天桂禅師留錫の道場であって、享保6年(1721)禅師を招請して中興の開山とした(寺史による)。彼の禅師の名著「正法眼蔵辨註(20巻)」「驢耳弾琴(7巻)」「報恩篇(3巻)」等は当時、眠れる法城に向かって獅子吼された書であって、当山は禅師由緒の地である。今尚は、其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の「正法眼蔵辨註」は、門外不出の書として当山に尚蔵されている。禅師は「正法眼蔵辨註」を享保11年に起稿され、同14年春に脱稿されている。そして6年後の享保20年(1735)12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず、時々其名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰(じんかん:人の住むべきさかひうち)を隔てて小丘によれる僻陬(へきすう:僻地)の寺院であって、幽翠静寂の勝地である。
     近時都人士が、煤煙の地を離れて当山に集い、提唱を聴く者甚だ多しと世間では、当山を一(いつ)に吉田の天桂と呼んでいる。禅師の遺蹤(いしょう:人の行ったあとかた)を偲ぶ名であろう。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:陽松庵】
  • 細河谷南斜面の日当たりの良い適度に乾燥した土地は、我国有数の松の産地で、五葉松(ヒメコマツ)、柏槙などの生産で有名です。池田の文化に多大な影響を残した連歌師「牡丹花肖柏」の号「肖柏」も松・柏に因んでいます。
     同様に松に因む参禅道場「陽松庵」の開山は、観応2年(1351)室町時代、京都天龍寺開山の夢想国師(疎石)と伝えられています。その地は木部北条にありました。その後、四国阿波蜂須賀候は、深く天桂禅師にに帰依され、創建より362年後の正徳3年(1713)、その家老である稲田九郎兵衛によって天桂禅師を招請し、堂宇を再建することを発願されました。
     享保6年(1721)、木部の牡丹屋下村小兵衛も天桂禅師に深く帰依し、所有する吉田の現在地を寄進し、稲田氏と共に天桂禅師を中興開山として新築移転建立されました。
     陽松庵は禅寺としての伽藍配置が良く整っていて、経蔵・放生池・山門・法堂・仏殿・鐘楼・座禅堂・客殿・庫裏・浴室・東司などを備えて、創建当時のまま修復を重ね、現在に至るまで保存されている池田屈指の古刹といえます。(中略)。
     天桂禅師(1648-1735)の墓所は、禅師自らが示された西側山麓の石段を登りつめた所にあります。そこには禅師が示された楠木が代々植え継がれています。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:陽松庵】
  • 字渓谷にあり、少林山、退蔵峯と号し、曹洞宗静居寺末なりと、観応2年天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年3月淡路の領主稲田九郎兵衛祖先の為め再建せりと、境内900坪を有し、本堂、庫裡、書院、方丈、廊下、衆寮、如幼齋、侍者寮、経蔵、山門、開山堂、禅堂等あり。(大阪府全志)本堂は有名なる天桂禅師留錫の道場であって享保6年禅師を招請して中興の開山とした。(寺史に拠る)彼の禅師の名著『正法眼蔵辨註』(20巻)『驢耳弾琴』(7巻)『報恩篇』(3巻)等は当時眠れる法城に向かって獅子吼された書であって当山は禅師由緒の地である。今尚は其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の『正法眼蔵辨註』は門外不出の書として当山に尚蔵されて居る禅師は『正法眼蔵辨註』を享保11年に起稿され同14年春に脱稿されて居る。そして6年後の享保20年12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず時々其の名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰を隔てて小丘によれる僻陬の寺院であって幽翠静寂の勝地である。近時都人士が煤煙の地を離れて当山に集まり提唱を聴く者甚だ多しと。世間では当山を一に吉田の天桂と呼んで居る、禅師の遺蹤を偲ぶ名であろう。【池田町史:陽松庵】

◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
  • 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
     その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
     東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
     円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
     本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝えらる。)【池田町史:圓城寺】

◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
  • 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
  • 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
     当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
     本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】
  • 東山字上條にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。)【池田町史:東禅庵】

◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
  • 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
  • JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
     苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
     現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
     当寺は地元旧家である一樋家の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
     境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】
  • 中川原字下門にあり薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。 【池田町史:松雲寺】

◎真宗 東本願寺末 大雲山 専行寺(池田市中川原町)
  • 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
  • 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
     このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
     当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
     昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】
  • 字南條にあり、大小山と号し真宗東本願寺末なり。 【池田町史:専行寺】

◎曹洞宗 総持寺末 竹林山 松操寺(池田市木部町)
  • 字北条にあり。竹林山と号し、曹洞宗総持寺末なり。寛文2年(1662)8月、下村五郎右衛門の創立にして、大広寺18世雲山の開基と伝えられる。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:松操寺】
  • 木部天神社(紀部神社)前の旧道を少し北へ行くと、五月山山麓の竹林に包まれて「松操寺」があります。ここまでは車の騒音も聞こえない、ひっそりとした佇まいの尼寺です。
     開山は「下村五郎右衛門」という人で、地元では「ごろよみ」と呼ばれていました。寛文2年(1662)大広寺末として、18世により建立されました。ご本尊は釈迦牟尼仏で台座には笹りんどうの紋があって、珍しいことに獅子に乗っておられます。お釈迦様が獅子に乗られたのか、獅子が潜り込んだのか、どちらでしょうか。下村五郎右衛門の祖母の持仏であったとも伝えられていますから、400年以上昔の仏像です。両脇には、達磨大師・天元大師の木像があります。また、小さいけれども創建当時の地蔵菩薩が安置されています。
     長い間無住の時代があって、竹藪にポツンと在った草庵に、籠職人が住み込んでいた事もありました。庵主が入られて現在7世となります。本堂は、周りに増築されていますが、柱など創建当初のまま、焼けることも無く江戸時代初期から修復を重ねて350年近くの年月を経て、今日に至っています。(中略)。
     戦後は政教分離が徹底され、檀家の変遷のある中で、寺院の維持・保存は非常に難しくなってきました。院主のご苦労が偲ばれます。【改訂版 池田歴史探訪:松操寺】
  • 字北絛にあり、竹林山と号し曹洞宗総持寺末なり。寛文2年8月下村五郎右衛門の創立にして、大廣寺18世雲山の開基と伝えらる。(大阪府全志)【池田町史:松操寺】

◎曹洞宗 総持寺末 松尾山 永興寺(池田市木部町)
  • 松尾山と号し、曹洞宗大広寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。長禄2年(1458)2月、「永公」の創立なり。
     永興寺開山堂(いち名位牌堂)の十一面観音は、左手に水瓶(薬瓶)を提げ、右手で錫杖を立てている。ちょっと見慣れない姿だが、是れがいわゆる長谷式で、大和国長谷観音本尊の写しである。長谷寺は、天平時代に藤原房前が本願となって稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)合作のものを安置したが、現在のものは天文7年(1538)8月1日に成ったのだという。
     恐らく現本尊と同じものが古くからあって、天文年間(1532-55)にその形式を襲ったのであろう。分家が古く、本家が新しいという様な事は、理屈に合わないからである。なお錫杖を持っているのは、地蔵の兼相を表すものだとされている。
     ところで、永興寺の十一面観音は、元は木部天神の神宮寺松梅寺の本尊であったという。だいたい、松と梅は天満天神とかかわりの深いものだから、そんな名の寺に同神の本地とされる十一面観音を祀ったのは当然だろう。
     それは兎に角、この像は一木造りで、高さ110センチメートル、宝冠型のまわりに化仏を前後2体、左右3体、現在頂上に1体を配置する略式であるが、頂上仏は失われていない。それから首だけが妙に継ぎ足しの様にみえるのは、そのところだけ金箔が押し直された為か。なお左手と持物、足先が後補、台座も年代が下る。
     時代は彫眼の向き、肩の線、腰のくねり、衣丈の具合等、はっきり藤原式である。ただ中期か末期かに迷わされる。(池田市史)【池田市内の寺院・寺社摘記:永興寺】
  • 永興寺は、木部天神宮の赤い鳥居の右側の坂道を少し登ると、長尾山を望む高台にあります。このお寺は、室町時代の長禄2年(1458)、僧「永公」の開祖と伝えられますから、応仁の乱直前の540年を超える古いお寺です。永公がこの地に来たとき、粗末な庵(いおり)に十一面観音が祀られてあり、ここで一泊したところ、観音のお告げがあり、寺を建立したと伝承されています。
     ご本尊の十一面観音立像は、藤原時代1100年程前の作です。桧一木造りで、頂上仏が失われていますが、池田市重要文化財に指定されている貴重な仏像です。本堂裏の墓地には、古い歴史を語る、多くの宝塔・墓石が樹木に囲まれて森閑と並んでいます。心落ち着く風情です。
     隣地にある天神宮とは、昔は神仏習合(奈良時代に始まった神と仏の信仰を融合調和する思想の表れ)によって敷地がつながっていたそうです。以前、木部天神宮の神宮寺であった松梅寺がありました。【改訂版 池田歴史探訪:永興寺】
  • 南條にあり、松尾山と号し、曹洞宗総持寺末なり。【池田町史:永興寺】

◎臨済宗 妙心寺派 超伝寺(池田市木部町)
  • 字南條にあり、厳島山と号し、臨済宗妙心寺末なり。【池田町史:超伝寺】

◎明神社(池田市伏尾町)
  • 久安寺の門前にありますが、阪神大震災でさらに被害を受けて、参詣する人も少ない状態です。神明社というのは、平安末期以降、伊勢神宮の神霊を祀った神社で、全国各地にあります。ここ伏尾の神明社は、天照大神と天満天神を祀ってあります。のちに熊野大権現・愛宕大権現・大原大明神などが、合祀されているようです。
     灯籠に延暦年間(782-806)の年号がありますので、1200年を遡る歴史ある古社です。今は善慶寺地内の「設殿」として、伏尾町自治会の管理となっていますが、郷域の氏神として、往時は大坂の商人からも厚い信仰があったようです。
     伏尾町の役員が参加して、2月・夏・秋と年に3回の祭礼が行われています。久安寺の院主が祭礼を司り、僧侶であるが神式の玉串奉てん読経という、神仏合体の形式で行われるのは珍しい。夏の祭礼には太鼓みこしや屋台が出て賑わいます。【改訂版 池田歴史探訪:明神社】

◎細川神社(池田市吉田町)
  • 吉田町の北端部山麓に鎮座する。祭神は不詳。旧村社。「延喜式」神名帳にみえる「細川神社」は、その所在が不明であったが、享保年間(1716-36)幕府の命によって並河誠所が、神体を船具とする吉田村の産土神、すなわち当社に比定した。元文元年(1736)式内社として、幕府から社表石が寄進された。安政4年(1857)社殿の再建がなされ、社蔵棟札に「修覆摂州豊島郡細川大神御社殿奉再興者也 両村氏子中」とあり、吉田村・東山村の二ヵ村の産土神となっている。明治40年(1907)伏尾の天満宮、中河原の素盞烏尊神社、古江の八幡神社を合祀して、旧五ヵ村の産土神となった。【地名:細川神社】
  • 慈恩寺山にある。今、毘沙門天と云って、久安寺奥院にあたる。祭神・創建年月は詳らかでないが、往時、この社に金皷(ごんぐ)があったと云われる。細郷社の産土神である。
     金皷について、昭和14年刊の『池田町史』に、吉田町の細川神社に、天文年間(1533-55)の金皷があると書いてあったが、調査の結果、昭和8年(1933)7月10日発行の「雲泉荘山誌 巻之四」によると、山荘の持ち主の歿後、売り払われ金皷の所在は再び不明となっている。【池田市内の寺院・寺社摘記:細川神社】
  • 細川神社は、吉田町北部丘陵の麓にあります。道路から奥まった所にあるので、ちょっと解りにくいのですが、樹木に囲まれた静寂な神域です。鳥居をくぐり、赤い小橋を渡り、境内に入ります。伊居太神社と共に「延喜式」神名帳(927年)に記載されている古いお社です。
     ご祭神は、細川水神・通船神(猪名川通い船)を御神体とする伝承があります。本殿の右手に「細川社」と刻んだ石碑がありますが、これは、大岡越前守の支援を受けた「並河誠所」(江戸時代の儒者で京都の人、伊藤仁斎の門人、並河天民の兄)が、大坂町奉行所の指令によって訪れ、細川社を延喜式内社として認定したことから建てられたもので、270年前の石碑です。明治天皇もここを訪問され、参拝されています。
     祭日は10月23日の秋祭りで、戦前まで吉田・東山・伏尾・中河原・古江の各村から、多いときには6台の太鼓神輿が出たそうです。現在は尊鉢地域の五社神社宮司が祭祀を司っておられます。【改訂版 池田歴史探訪:細川神社】
  • 吉田慈恩寺山にあり延喜式内の古社なれど祭神詳らかでない。猶社に金皷あり、其の銘に、「天文5年8月吉日 細郷荘 吉田天神」と記されて居る。古より細郷莊の産土神である。【池田町史:細河神社】

◎紀部天満宮(池田市木部町)
  • 現在の紀部神宮、旧称木部天満宮の所在は池田市木部。当郷産土神として、崇敬甚だ厚く、祭神菅公の千載に変わらぬ忠烈精誠を仰がざるはない。創建の年代は詳らかならざるも、所伝に依れば、天神系紀国造(きのくにみやつこ)の末裔である木部氏(紀部氏)此の地に居りて祖神天道根命(あめのみちねのみこと)を斉祀し、氏の大神として尊崇されるもの、即ち当社の起源にして、後一条天皇の正歴4年(993)勅使菅原爲理太宰府に下り、菅廟に正一位太政大臣を贈り、霊代を奉じての帰途に、神託を畏みて分霊を島上郡日神山(ひるがみやま:上宮天満宮(天神社)現大阪府高槻市天神町)と当社に奉祀し、次いで、日神山の神を上宮天神、当社を木部天神と称え奉りたるものなり、という。
     天神系紀国造の氏族夙くこの地に住して、其の祖天道根命を祀り、氏神として斉き奉りたりしが、後年菅公を配祀して、天神宮と公称せしものなるべしが、正親町天皇朝の天正年間(1573-92)織田氏の兵火にかかり、社殿・神宝・古記録など悉く鳥有に帰し、今や徴すべき史料はない。
     以来、当地の名族下村五家、宮家として、京都吉田殿の免許を受け、神事を奉仕する事、実に明治40年に至れりという。
     上記は、義川百合女氏の論文を摘記させていただいたのですが、義川氏は最後に「而し、現社号は昭和26年宗教法人法に依り、上記の古文献・記録に従ひ許可されたるにて、神宮の称号は府下希有のものたるべし。」としています。【池田市内の寺院・寺社摘記:紀部天満宮】
  • 畑天満宮と区別するために「木部天満宮」としましたが、地元では「天神宮さん」と呼ばれています。本殿に掲げられている額には、「天満宮」と書かれていますので、天満宮が正しいと思いますが、称号が何時変わったのか明らかではありません。別に紀部神社とも呼ばれています。
     当社のご祭神は、言うまでも無く菅原道真公です。菅原道真は、藤原時時平の讒言によって、太宰府に左遷されて、延喜3年(903)59歳で亡くなりました。以来、天神信仰が全国的に拡がり、各地に「天神さん」として祀られていますが、ここの天神宮は、道真公と直接の由来があったように思います。と言いますのも、かなり古い社で少なくとも14世記南北朝時代には祀られていたように思います。火災には遭っていないようですが、長い間、宮司が不在で、古文書などは散逸してしまっているために、全く不明です。しかし、寛政から天保年間(1789-1843)の頃、最も繁栄していた様です。その後、明治・大正・昭和の初期まで、厚い信仰が続いていました。
     現在の本殿は、100年余り前の建立と思われますが、境内の数百年を経るケヤキの大木や石垣などに歴史の重みが感じられます。木部は「城辺」とも記録され、池田の原住民「佐伯部」の城(とりで)があたっと伝えられる平安時代からの集落でした。五月山は佐伯山と呼ばれていました。
     また、木部は牡丹の発祥地として500年もの歴史と主産地としての繁栄がありました。牡丹屋小兵衛が著名で、今も牡丹屋と呼ばれる下村家が健在です。現在、吉田にある陽松庵は、もとは木部にありました。陽松庵の建立に、牡丹屋小兵衛の大きな尽力がありました。
     木部天満宮は、阪神大震災で社務所が倒壊し、大きな被害を受けました。しかし、整備された神社とは、また違った神秘さと、歴史のミステリーが感じられます。
     当社のお祭りは10月24日・25日の秋祭りです。最近は祭日直近の土曜日に行われます。だんじりは、木部と新宅の2台があります。(中略)。現在は木部のだんじりだけが、2つの赤提灯を先頭に、太鼓の音色も勇ましく、大人・子ども70〜80人が曳いて、木部町を一巡します。保存会の方々のお陰で、元気な子どもたちも大いに一日を楽しみます。【改訂版 池田歴史探訪:木部天満宮】
  • 木部中絛にあり、菅原道真を祀る。勧請の年代は詳らかでない。縁起によれば中古織田氏の兵燹に罹り社殿記録等鳥有に帰し、古を徴するに由なも勧請は余程以前の事と伝えらる、かの鬱叢たる社頭の老樹は厳として千古を語り由緒の深きを偲ばしむるものがある。当地の名家下村氏宮座として明治41年まで神事に奉仕せりと明治5年村社に列し、同41年12月神饌幣帛料供進社に指定される。【池田町史:天神宮】




2016年4月13日水曜日

戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社

現代社会のように、個人の生命と財産を守る権利や義務が客観的には遠く、多分に主観的であった時代には、個人の基本的人権を守るためには集団に属する外無く、そういう社会単位の中で、精神的な欲求を満たす様々な要素が存在します。それは、現在社会よりも深くて広く、それを求める苦しい時代だったためとも感じます。あらゆる階層でそれらは求められ、全国に通じるブランド力を持つ要素から、土着の要素まで、様々な宗教的要素が摂津池田家の支配地域内にあります。当時の社会を理解する上でも、宗教的要素を考察することは欠かせないと思います。
 その領域には非常に古い歴史を持つ遺物が多く残りますので、それらを当時、どのように感じ、利用していたかも理解できたらと思います。
 また、池田家との関係を持つ宗教施設には、当然密接な関係にもありますので、情報網としての役割や同時に有事には軍事施設(拠点)としても機能した事でしょう。現に江戸時代には、そのような役割を寺は持っています。
 それぞれの成り立ちや経緯から、その可能性について考えてみたいと思います。ここでは、細郷の外側の地域の要素を取り上げます。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。


◎曹洞宗 塩増山 大広寺(池田市綾羽)
  • 五月山の中腹にある。曹洞宗。塩増山と号し本尊は釈迦如来。大広寺略記(寺蔵)によると、応永2年(1395)のちに総持寺(現石川県鳳至郡門前町)の住持となった天厳宗越の開山という。文明年間(1469-87)池田城主池田充正は当時の住持祥山に帰依、諸堂宇を再建し、さらに五月山上に望海亭を建て修禅の場とした。当寺の創建を充正と伝えるのは、その遺徳をたたえ開基として奉祀してきたことによる。山号について「摂津名所図会」は「むかし此山中に池あり。潮の満干あして海水の如し。当寺を創建の時池を埋み、其旧蹟を遺して山号を塩増山という」と記す。
     天正3年(1575)池田知正(重成)は織田信長の石山本願寺(跡地は現中央区)攻めに出陣したが、その留守中に家臣の荒木村重に池田城を支配され、当寺は伊丹(現兵庫県伊丹市)に移転させられた。その地は後に大広寺町となったという(大広寺略記)。慶長の初め知正により旧地の現在地に復興された。同9年(1604)に知正、翌10年に甥で養子の三九郎が没し、当山に葬られた。知正の弟で三九郎の父池田光重は同年両人の画像を寺に納め、さらに同14年には追善菩提のため梵鐘を寄進している。
     塔頭に泉福院・明悟院・陽春庵があったが、明治8年(1875)泉福院は大阪に、同11年明悟院は豊中(現豊中市)に移転、陽春庵は陽春寺と改称し独立した(大阪府全志)。墓地上段の歴代住持の墓塔の傍らに知正と三九郎の墓である五輪塔が2基ある。それに並んで天文・慶長年号の一石五輪塔が多数あり、墓地の西口には「乾逆修永禄7年甲子3月15日」の刻銘のある花崗岩製地蔵石仏が立つ。本堂玄関前の血天井は前掲略記によると、永正5年(1508)池田落城の際、池田家菩提寺である当山に城主貞正以下が逃げ込み、自刃した血の痕の縁板を天井に用いたものという。
     なお当山は古くから文人墨客とのかかわりがあり、文明12年には京都南禅寺僧で詩人としても有名な景三が祥山の依頼で望海亭記(寺蔵)を著し、永正頃連歌師牡丹花肖柏が止宿、池田氏一族に連歌の愛好者を生んだ。下って文化元年(1804)田中桐江撰文の牡丹花隠君遺愛碑が建てられ、文政9年(1826)の肖柏の300年忌には山川正宣によって牡丹花翁三百年忌懐旧和歌一巻(寺蔵)が当寺に納められた。【地名:大広寺】

◎大広寺村(伊丹市宮ノ前)
  • 伊丹郷町を形成する15ヵ村の一村。郷町から中山寺(現宝塚市)へ向かう街道に位置する。地名の由来は摂津池田村の大広寺を荒木村重の時代に移転させたことにちなむ。有岡落城後に寺は池田に戻った(「穴織宮拾要記」伊居太神社蔵)。文禄伊丹之図に村名がみえ、寛文9年(1669)の伊丹郷町絵図には村はなく、大広寺畠が載る。村高は天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では伊丹内大広寺畑として高40石余。元禄郷町でも伊丹町(村)と一括だが、享保20年(1735)の摂河泉石高調や天保郷帳では伊丹町から分離されて高44石余。ただし天保郷帳には「伊丹町之内」と注記されている。領主の変遷は初め幕府領、寛文元年近衛家領、延宝3年(1675)に幕府領に戻り、天和元年京都所司代稲葉正通領になるが同3年再び幕府領に戻り、貞享3年(1686)武蔵忍藩領、文政6年(1823)幕府領に戻り、明治維新を迎えた(伊丹市史)。宝暦5年(1755)の付込帳(伊丹市立図書館蔵)では家数は百姓7・水呑8・店借45。(後略)。【地名:大広寺村】

◎大広寺末 曹洞宗 向泉山 自性院(池田市渋谷)
  • 池田村の東に位置し、北東は畑村に接する。渋谷村は五月山から南に連なる大地上にあり、村の南西端を能勢街道が通る。上渋谷村と称したこともある(元禄郷帳)。慶長10年(1605)の摂津国絵図に村名がみえ、高247石余。元和初年の摂津一国高御改帳では、幕府領村上孫左衛門預であるが、その後麻田藩領となり幕末に至る。(中略)。ところで、上渋谷村は古くは南畑村と称し畑村と一村であったという伝承があること(大阪府全志)、産土神は畑村の天満神社であること、上渋谷村集落が畑村の西畑集落と連なり一村の観を呈することから、南畑の地が畑村から分立して成立した村と推定されている。当村は台地上村落であることから、農耕には溜池灌漑が重要な役割を果たした。年不詳の増補御領地雑事記(森本家蔵)には多くの池が記される。天文元年(1532)大広寺の六世雪岫の創立と伝える曹洞宗自性院がある。【地名:渋谷村】
  • 創建は天文元年。大広寺六世雪岫大和尚禅師(せっしゅうだいおしょうぜんじ)の開山と伝えられています。始祖は玄那莫道大和尚禅師(げんなばくどうだいおしょう)で、本堂裏に昭和6年六世建立の歴代住職墓碑があります。村寺として、上渋谷の人々の篤い信仰からの寄進による建立であったと思います。
     現在の本堂は阪神大震災で全壊に近い被害を受け、平成15年12月に再建されたものです。この時に古い遺物が大分散逸したようです。もとは東側の墓地の場所に本堂・庫裏があって、西側は雑木林が鬱蒼と茂っていました。南側に以前の三門が残されていて往時が偲ばれます。現在の境内は広く明るく、新しい「観音石像」で摂北第25番札所となっています。両脇は達磨大師・天元大師木像が安置されています。
     ひと際目立つ巨木が有名な「カイズカイブキ」で池田市の史跡・名勝・天然記念物の指定を受けています。創建の頃、当時珍しかったこの木が植えられました。寺と共に500年近く経て来た生命力に感動します。説明板には350年と書かれています。幹の太さは根元が約4メートル、高さは約13メートル、枝は14メートル程も茂っています。春には花を咲かせ実をつけます。
     関西では生垣や庭木に良く使われる樹木です。自然環境が変化する中で、巨木の今後の生育が心配されます。無住の時代があって、現在の住職は10世に当たります。【改訂版 池田歴史探訪:自性院】
  • 渋谷村は、経緯があってその村名に落ち着いたらしいが、「渋谷」と名付ける理由もまたあったはずで、それが何であるのかは解らない。同村は、その経緯からすると、南畑村から上渋谷村の名を名乗る事を経ていたらしいが、戦国時代の年記未詳であるが、永禄11年と推定される2月3日付の史料に、渋谷対馬守なる人物が確認できる。これは池田城主の池田勝正が、摂津国垂水庄南郷目代今西宮内少輔への音信で、「渋対(渋谷対馬守某)」が使者に立っている。渋谷姓は、幕府関係社にも居るため、その系統の人物の可能性もあるがしかし、可能性としては畑村の渋谷氏の可能性が高いように思える。
     畑村の中に「渋谷」にゆかりを持つ何かがあって、それが村の名前に変わっていったのではないかとも思われる。渋谷対馬守という有力者にちなむものかもしれないが、詳しくはわからない。渋谷氏については、この1点の史料しか、今のところ見出せていない。後に台頭する荒木村重は、基本的に前政権の人材を登用しない傾向であり、村重の活動で見られないという事は、池田氏政権で用いられた土着の人物であったのかもしれない。
     また一方で、畑村には、荒木姓も多い。これも何か気になるところでもある。もしかすると、鉱物の採掘などの関係があったかもしれない。
     畑や渋谷は、五月山からの古道が通じていて、高山方面などの奥地へ繫がっており、南北に通じる近世の巡礼道と呼ばれる道と交差する。山と里との結節点ともなっている。この道は、人の行き来も多かったらしく、その要素もあって人が集まり、村が大きくなったようである。他方、その事は戦国時代においては、要所であり、有力者が輩出される素地もあり得たと考えられる。【俺】

◎大広寺末 曹洞宗 圓通山 吉祥寺(池田市畑)
  • 渋谷村の北東に広がる大村で南北に長い。北部は五月山から北東に連なる山地帯。集落はその南の山麓部に点在する。文禄3年(1594)9月浅野弾正の行った検地帳写(奥村家文書)によると、村高356石余で名請人は138人。同検地は畑村一村でなされているが、当時から集落は東西二つに分かれており、「在西」「在東」と記した記録もある(同文書)。慶長10年(1605)摂津国絵図には東畑村・西畑村合わせて356石余と記すが、江戸時代を通じ行政的には常に畑村一村で扱われている。しかし、実質的には東畑・西畑の区別があったことは奥村家文書などに明らかで、村域が広かったこともあってか庄屋2・年寄4・百姓代2という村役人構成をとっている(同文書)。
     元和初年の摂津一国高御改帳では幕府領村上孫左衛門預196石余、旗本山田清大夫知行160石となっているが、その後麻田藩領となり幕末に至る。(中略)。
     「摂津名所図絵」は村内名所として石積滝(石澄滝)、秦山の喬松三株をあげる。この喬松は衣懸松で、呉織(くれは)と穴織(あやは)の二女が絹をこの松にかけ、干したとの伝承をもつ。産土神は天満宮で、文禄4年に再建され、この時同社の宮座が結成された。この再建のため村の32軒の者が草山を財源にあて、その年貢代として永定米一軒2合1勺を弁納することにし、この子孫および分家が宮座株となった。(中略)。
     曹洞宗吉祥寺は、天文21年(1552)大広寺六世雪岫の弟子正治の創立。同宗西福寺は天正5年(1577)僧門仙の創立という。【地名:畑村】
  • 山手線バス停「畑」下車、少し東へ行くと山側に地蔵さんがあって、坂道を登ったところに吉祥寺があります。「西福寺」「自性院」と共に大広寺末の禅寺がまとまっています。「西畑」「東畑」「渋谷」それぞれ一村一寺となっています。昔は寺を通じて寺社奉行が寺の管理と村人の支配や訴訟を司っていました。
     吉祥寺も東畑の村寺として、村人によって維持されてきました。当寺の開山は室町時代後期、天文21年(1552)大広寺六世雪岫禅師の弟子、僧・正恰(せいこう)と伝えられています。ご本尊は阿弥陀仏坐像となっています。同じ禅寺でも釈迦牟尼仏(西福寺)や観世音菩薩(自性院)とご本尊が違います。
     本堂正面に掲げられている瑞光殿の額は当寺の古い歴史を語っています。戦国時代・江戸時代を経て、450年間戦乱や無住職の時代もあって現在に至っています。【改訂版 池田歴史探訪:吉祥寺】

◎大広寺末 曹洞宗 玉蔵山 西福寺(池田市畑)
  • 石垣のある高台に禅寺らしい飾りけのない簡素な佇まいに心が落ち着きます。西畑・東畑村の村寺として住民が長い間、親しみ守り立てて来た暖かさを感じます。境内に村の子ども達が集まって、鬼ごっこやチャンバラごっこなどをして騒ぐ様子が目に見えるようです。
     開山は天正5年(1577)、大広寺の明仙大和尚禅師と伝えられます。ご本尊は釈迦牟尼仏両脇に道元禅師・瑩山禅師(けいさんぜんじ)木像が安置されています。【改訂版 池田歴史探訪:吉祥寺】
  • 玉蔵山と号し、曹洞宗の総持寺末で、釈迦牟尼仏を本尊に天正5年(1577)の創立で、天保10年(1839)の再建であります。大正11年(1922)に火災に遭って焼失しましたが、同年に再建して今日に至っております。門前の枝垂れ桜は美しい花を咲かすと云われています。【池田市内の寺院・寺社摘記:西福寺】

◎真言宗 待兼山 高法寺(池田市綾羽)
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◎浄土真宗 本願寺派 大西山 弘誓寺:ぐぜいじ(池田市綾羽)
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◎日蓮宗 京都本満寺末 瑞光山 本養寺(池田市綾羽)
  • 日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒書によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には六代将軍徳川家宣の御台所熙子(天英院)が、近衛基熙の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また熙子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。元禄4年(1691)から同8年にかけて、壇越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があつかったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えたことにより呉春と改名したことに由来する。彼の襖絵が残る。【地名:本養寺】
  • 井戸の辻から「呉春酒造」の前を過ぎ、「稲束家」を左手に五月山の麓近く足下に「本養」の道標が地中に半分埋まっている細い路地を左へ入ると「本養寺」があります。
     当寺は酒造家「西大和屋」山川氏の菩提寺であると共に「呉春寺」とゆかりの深いお寺です。創建は室町初期、応永16年(1409)近衛前関白左大臣道嗣の末子「日秀上人」の開山とされる由緒ある古刹で、創建時は広大な敷地に多くの塔頭(庵)を有する池田屈指のお寺でした。しかし、荒木村重の伊丹「有岡城」築城に伴って伊丹へ移転させられ、天正7年(1579)有岡城落城で再び池田に還ったとの説もありますが、記録は残っていません。一説では9世が伊丹に「本泉寺」を建立した記録があります。いずれにしても天正年間の移り変わりを経て、次代の歴史を歩むことになりました。
     元禄7年(1694)には本堂が再建され、同14年(1701)には庫裡が再建されました。やがて天明2年(1782)京都から「川田田福」を頼って「松村月渓(呉春)」がやってきて、この本養寺に寄寓し7年間を過ごしました。
     その間の呉春の活躍と影響は、池田の文化に大きな花を咲かせました。本養寺には呉春の襖絵や屏風など数々の作品が残されています。呉春は、与謝蕪村、川田田福をはじめ、日初上人、荒木蘭皐、井関左言、稲束太忠、山川星府、桃田伊信、松村景文などと交際を広め多方面の文化を育みました。その後も西大和屋山川家は本養寺を檀那寺として尽くして第11代目中興の祖と云われる「山川正宣」は町の国学者として偉大な功績を池田に残しました。荒木梅閭、荒木李𧮾、阪上竹外、阪上呉老、井上遅春、山川星府、松下一扇などと交際し、リーダーとして影響を与えました。
     門脇の傍らに元禄12年(1699)建立の「南無妙法蓮華経」の名号法界塔があり、その横には「歯痛止地蔵堂」があります。書院の(宝永5年(1708)建立)呉春の襖絵「若松と鶴」。また松鶴の間、柴狩の間の「欄間」は貴重なものです。
     墓地には「山川正宣」(1790 - 1863:74歳歿)の墓、俳人「山川星府」の墓、俳人「阪上呉老」の墓があります。現在の本堂は、平成7年に再建されました。【改訂版 池田歴史探訪:本養寺】
  • 綾羽町は、安永6年(1777)の池田村惣百姓連印證によりますれば、「寺垣内」と呼んでいました。地内町と呼ばれ綾羽町となっております。日蓮宗に属しておりまして「瑞光山」と号し、院を洞妙と呼んでいます。本尊は、一塔両尊四天日蓮上人であります。応永16年(1409)5月洛陽本圀寺第5世「日伝」の嫡弟玉洞院日秀(近衛前関白従一位左大臣道嗣の子)当地に来錫(?)の際、時の道俗(僧侶と普通の人)貴賤が一宇を創立しました。即ち日秀上人の開山であります。
     近衛家より天正10年(1582)に現境内及び寺内町の宅地7反歩(1反は約992平方メートルで、約300坪)余を、又閑院宮八百姫上田一反歩余を各霊牌に附して寄進しております。現在の境内は500坪余でありますが、本堂、庫裡、書院、玄関、鐘楼堂、四足門、薬医門、刹堂、祖師堂、妙見堂などがあります。
     元禄4年(1691)の檀頭の山川㽵右衛門など外一統が協力して本堂及諸堂内改築に着手し、同8年落成しておりますが、更に明治41年から大正2年までの間に大修理を施して、殆ど旧観をを呈するに至りました。開山より現在に至るまで、実に40数代であり、約500年を経て悠々ご隆昌と聞いております。
    ◎勝手門
    元和年間(1615 - 1623)に徳川家康の娘聟の松平忠明は、夏の陣の後の大坂再建を計画し、その内で寺院の整理を行いました。畢境(つまり)真宗寺のみを町中に止め、その他は周辺部に全部移して「寺のみの町」を造ろうとりました。こうして出来上がったその一つの寺町である谷町八丁目に日蓮宗の本長寺も含まれましたが、昭和40年に天王寺〜天満橋〜北大阪と続く新道路の拡張工事のために当初からの門が破棄されることとなりました。その寸前に当本養寺の難波瑞竜師が貰い受けて、勝手門にされたという経緯があります。
     即ち大阪から移建されて入れ替わっているのですが、従前より在ったものより却って古い建築物でありましたので、気付かれる人も少なく、上記の理由を知っている人も余り無いのではないでしょうか。そして形式は、薬医門で本瓦葺に板蛙股を置き、正面蛙股下には貫を突してありますが、その全てに桃山風が残っています。
    ◎当寺は酒造家で有名な東・西大和屋の菩提寺でありまして、境内の東書院は大和屋の一建立にかかります。寺域には大和屋一門の墓所があります。東大和屋の山川星府と西大和屋の第11代の主人公であった山川正宣については「人物」で記述します。
    ◎蕪村の門人で、月渓と号して絵画と俳句をよくしました。松村呉春が若かりし時、俳友井筒屋庄兵衛と称した呉服商の川田田福の世話で、西大和屋の食客となっていた頃、一時期この寺の東書院に寄寓して、天分の丹青を練り、後日四条派の揺籃をなしたと云う由縁の寺であります。
     呉春の在池田時代の号は、存白・存允白と称して、世人は、在池田時代の創作を「池田呉春」と呼んでおりました。そして当時には呉春の大作襖絵の「めくり」が保存されておりまして、過去に調査された結果が、池田市史に記載されております。「めくり」は非常に汚損されていて、墨絵の淡彩が赤黒く焼けていて、もはや紙そのものの「ゆう(本質)」を失っていて、触ると粉々となる仕末の模様が記されております。
     同寺には立派な涅槃図が保管されております。即ち、紙本着色、本紙の幅1メートル90センチ、天地2メートル64センチですから相当の大作です。裏には各時代の由来書が沢山あって、それを纏めますと大体下記の様になると記されています。
    1. 寛永20年(1643) 軸の損傷で表具のやり直し
    2. 元禄3年(1690) 要修理のため大和屋一門及び菊屋などの女性ばかりから募財して完了
    3. 天保8年(1837) 3度目の修理を山川屋などが費用を受け持って完了
    この絵は弘治元年(1555)に土蔵入道浄久(18才)によって描かれ、同人から寄進されたものです。 【池田市内の寺院・寺社摘記:本養寺】

◎浄土宗 不断山瑞雲院 西光寺(池田市新町)
  • 浄土宗。不断山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、天文15年(1546)京都知恩院の徳誉光然の嫡弟で、万里小路秀房の子息満誉祐円が諸国造化の途次当地に止宿、一宇を建立したのに始まる。元禄9年(1696)誠誉のとき諸堂の再建がなされたという。「蓮門精舎旧詞」には「不断山西光寺起立不知、開山善蓮社満誉上人和尚、生国姓氏等不知」とある。山号は、この地にもと一草堂があり、念仏を唱える者があとを絶たない事より不断堂と俗称されていたことによると伝える。本堂前には浄瑠璃「関取千両幟」で知られる力士猪名川政右衛門の墓碑があり、「旭誉円月岳映禅定門」と法名を刻す。また墓地には江戸時代の池田の文人墨客の墓が多数ある。境内に十王堂がある。【地名:西光寺】
  • 西光寺は旧「西国巡礼」に沿って、池田の名酒「緑一」吉田酒造の酒蔵と隣り合う主要街道にあって、道行く人の絶えないメインストリートでした。門前には「右能勢街道・左篠山道」(現在の位置は逆)の道標があって往時が偲ばれます。
     当寺は古くは「不断堂」と呼ばれていました。このお堂に念仏を唱え参るひとが絶えなかったという意味でしょう。
     西光寺となったのは天文15年(1546)京都総本山知恩院の第27世徳誉大僧正の弟祐圓和尚が信徒と共に再建されて名付けられました。現在の本堂は元禄10年(1697)に修理され、文政5年(1822)に再建されたものです。ご本尊は、阿弥陀如来立像でm鎌倉時代の運慶・快慶など慶派の作と伝えられています。脇侍に、姿勢菩薩・観音菩薩が安置される、いわゆる阿弥陀三尊です。
     庫裏は阪神大震災で被害を受けて再建されていますが、以前の建物は元禄12年(1699)のもので書院の「落とし掛け」や「欄間」は建築上傑出したものでした。現在の庫裏に当時の欄間が残されています。本堂の他に十王堂(地獄閻魔大王・十王信仰)、地蔵堂、八幡社、愛宕大権現などの建物がありましたが、その一部が残されています。
     西光寺は文人墨客の往来や町屋との繋がりが深く、墓地には著名人の墓碑が数多くあって、それを物語っています。酒造家の鍵屋・大和屋をはじめ、稲束家の菩提寺として寺は支えられてきました。表境内東側には名力士「猪名川政右衛門」、漢学者「樟蔭翁(山口正養)」、西側には俳人「阪上稲丸(呉服絹の編者)」と大和屋歴代の大きな五輪塔の墓碑があります。また、庫裏の裏側墓地の無縁仏塔群の中に、荒木蘭皐(あらきらんこう)、荒木李𧮾(りけい)、荒木梅閭(ばいろ)の墓があります
     荒木蘭皐は著名な仏教学者富永仲基(とみながなかもと)の弟で11歳の時、酒造家鍵屋の荒木平兵衛の養子となりました。その後、蘭皐は、儒学者田中桐江(たなかとうこう)の門人として学び、その子の李𧮾や梅閭という偉才を育て、池田の文化に多大の功績を残しました。それぞれの人物についての説明は、この頁では省きましたが、ぜひ名前だけは覚えていただきたいと思います。
     ちなみに荒木平兵衛は、荒木村重の直系5代目に当たる人です。墓地は大広寺にあります。【改訂版 池田歴史探訪:西光寺】

◎浄土宗 柳林山 栄根寺(川西市寺畑) ※今は栄根寺遺跡史跡公園になっている。
  • 栄根寺(えいこんじ)は、柳林山と号する浄土宗寺院の跡。聖武天皇の勅願所として建立されたという。文安年間(1444-49)作という栄根寺縁起(大阪府池田市西光寺蔵)によれば行基の開基、多田満仲らが信仰したといい、本尊の鎌倉期の霊験談が記される。中世には多田院に棟別銭を納めるなど同院の勢力下にあった(→栄根村)。
     戦国期に荒木氏の伊丹城落城のとき本堂・伽藍が焼失したが、寺基は残り、寺領も継続された。豊臣秀吉の時代に寺領を召し上げられて、次第に衰退していった。境内除地は東西55間・南北54間で、薬師堂・阿弥陀堂・地蔵堂がある(天保3年「寺畑村明細帳」寺畑部落有文書)。
     寺跡に残された薬師堂には平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像があり、県指定文化財。平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅するが、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されている。【地名:栄根寺跡】
  • 栄根寺の現在は川西市花屋敷1丁目にある浄土宗寺院、山号は桜林山。縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作らせたのがはじまりという。最近発掘調査により寺畑1丁目の栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認される。本尊薬師如来坐像(県指定文化財)は平安時代の作。縁起は、源満仲による再興と、本尊の霊験談を伝えている。中世後期には、12町歩余の当寺領の反銭を、多田院が徴収している。天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃し、1631年(寛永8)から西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。執筆者: 熱田公【Web版尼崎地域史事典『apedia』
  • 西光寺は荒木村重の末裔である池田に戻った荒木氏が檀家となっている関係の深い寺でもある。その西光寺が、村重の家系の荒木氏の縁故地である栄根一帯の栄根寺を早い時期に関わりを持ったことは大変興味深い。全く縁も所縁もないはずはないだろう。この事は、伝承にある荒木村重と池田家の関係を実証する一つの証拠でもあるように思われる。【俺】

◎浄土宗 知恩院末 竹原山・玉蓮院 法園寺(池田市綾羽)
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◎あわん堂(池田市上池田)
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◎浄土宗 医王山 神願院 寿命寺(池田市西本町)
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◎真言宗 多羅山 若王寺 一乗院(池田市鉢塚)
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真言宗 鉢多羅山 若王寺 釈迦院(池田市鉢塚)
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◎真言宗 別格本山 清光山 常福寺(池田市神田)
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◎伊居太神社:いけだじんじゃ(池田市綾羽)
  • 五月山の西麓部に鎮座。祭神は「日本書紀」応神天皇37年・41年条にみえ、日本に機織・裁縫の技術を伝えた工女の一人穴織大神といい、ほかに応神天皇・仁徳天皇を祀る。「延喜式」神名帳の河辺郡七座のうちの「伊居太神社」に比定される。旧郷社。社伝によると応神天皇41年渡来して以降穴織は、呉織とともに機織・裁縫に従事、同時にその技術の指導に努めたが、応神天皇76年9月両工女は没した。仁徳天皇は両工女の功に対して、その霊を祀る社殿を建立、穴織の社を秦上社、呉織の社を秦下社と称したのが当社の始まりという。
     その後も代々天皇の崇敬を受け、延暦4年(785)には桓武天皇の勅により社殿が再建され、応神・仁徳両天皇が相殿として祀られるようになったという。
     延長年間(923-931)には兵乱で社地を失ったが、天禄年間(970-973)多田満仲が再興、以来武将の社殿修造が続いたといわれる。後醍醐天皇は宸翰を秦上社と秦下社に与え、以来秦上社は穴織大明神と称し、秦下社は呉服大明神というようになったと伝える。
     下って慶長9年(1604)豊臣秀頼の命によって片桐且元が社殿を造営した(大阪府全志)。同座地は旧豊嶋郡域で、前述の式内社伊居太神社の河辺郡とは矛盾する。これについて「摂津志」は「旧、在河辺郡小坂田に(中略)池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也。中古遷建本社于此、因改里名曰伊居太又改社号曰穴織」と、もともとは河辺郡小坂田(現兵庫県伊丹市)にあったが、中古、当地に遷祀されたとの伝えを記す。一説に、その時期は南北朝時代で池田氏によって遷祀されたという(「穴織宮拾要記」社蔵)。なお現兵庫県尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があり、当社が現在地に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所の塚口村(現尼崎市)に近いことから、この地域に鎮座地があったともいわれる(川西市史)。
     末社として両皇大神宮・猪名津彦神社などがある。伊名津彦神社などがある。猪名津彦神社は文化12年(1815)に字宇保の稲荷社(現猪名津彦神社)の床下の石窟より出てきた骨を納めて祀ったといわれている。例祭は10月17日。古くは1月14・15日の両日、長い大綱で綱引きを行ったといわれている。本殿は全国で例のない千鳥破風三棟寄せの造りである。境内には観音堂があったが、栄本町に移転。本尊として十一面観音像が祀られていた。なお呉服神社の近くに姫室とよばれる古墳があったが、これは穴織を葬った地と伝えている。【地名:伊居太神社】
  • 伊居太神社蔵の『穴織宮拾要記(あやはのみやじゅうようき)』にある記述に、「九月塚口村(現尼崎市塚口)へ御輿祭礼ニハ四十二人ハ家々之将束騎馬にて出る、両城主(池田・伊丹)ハ警護之供也。此祭事ハ清和天皇御はじめ被成候。天正之兵乱二御旅所も焼はらい神領も取りあげられ田ニ成下され共当ノ字所之者池田山と云名残りより、其後世治り在々所々ニ家作り、四年めニ九月十七日麁相成御輿を造り、池田・渋谷・小坂田としてむかし之総て還幸をなす所ニ、伊丹やけ野ひよ鳥塚と云所ニて所之百姓大勢出、むかし之勝手ハ成間敷と云、喧嘩してはや太鼓打棒ニて近在より出、御輿打破られ帰り、是より止ニ成り...(以下略)」
     この記述をみるかぎり、9月は塚口村への御輿の御渡りは清和天皇の時代からの重要な祭事で、当時の有力者池田氏と伊丹氏等が後援して、42軒の神人が騎馬装束で供をするならわしであったのが、荒木村重の乱で御旅所が焼き払われ神領も取り上げられた。だが、塚口には池田山という字名も残っているので、世間も治まって4年目になるので(天正9年:1581)新たに御輿をつくり、復興最初の神事として9月17日、塚口の池田山をはじめ、昔の習わしに従って所々の地を回り、伊丹の南のひよ鳥塚(現伊丹市伊丹6丁目)までやってくると、付近の百姓が出て、早太鼓を打ち鳴らし近在の人々を大勢集め棒などで御輿を打ち壊し従供等と喧嘩となり、以前のような勝手なふるまいを許さないと神幸を妨害した。結果それ以後神幸は実施されなくなってしまった。
     清和天皇は別として、天正の乱あたりからおおよそ60年後に書かれたと思われるので、かなり信頼してもよいのではないかと思う。伊居太神社にとっては、塚口神幸は重要な意味があったのだろう。(後略)。【池田郷土研究 第17号:伊居太神社と池田山古墳】 
  • 現池田市の伊居太神社は、麻田 茂氏の研究によれば、(1)式内伊居太神社の原鎮座地は、塚口の池田山ではないか。(2)阿知使主等が停泊した地は、古代海が伊丹段丘の東側猪名川沿いに深く入り込んだ地(伊丹には絲海の名が残る)塚口の池田山付近が考えられる。(3)池田山古墳は猪名川水系古墳群で最古。(4)伊居太神社の祭神は塚口古墳群(猪名川水系古墳群)を築造した氏族集団の祖が池田山古墳の主。(5)古代猪名川水系の両岸は同一生活圏。、としている。【池田郷土研究:「伊居太神社と池田山古墳」:麻田 茂】 
  • 猪名川を圧迫するように東から西へ張り出した五月山の山麓に伊居太神社が立地し、池田の町の防衛上も重要な場所にある。伊居太神社のすぐ西側の眼下に街道を通し、この街道はすぐ北にある木部付近で能勢・妙見・余野街道(摂丹街道)と分岐する。逆に言えば、北部地域からの街道が伊居太神社眼下で合流する。
     また、伊居太神社からは、五月山山上へ通じる山道が3本程ある。池田城からも伊居太神社への道がある。その途次に、的場と云われた場所がある
     中世の戦国領主にとっての祭祀の場所は必ず必要であるし、その主催者としての素養も地域を束ねるには必要とされていた事が近年の研究では注目されてもおり、戦国時代に大きな勢力を持つに至った池田氏にとっても、同様であったであろう事が推察できる。そういった関係もあってか、室町時代と伝わる寺宝も多く所蔵している。その中に、眉間部分を鉄砲で撃ち抜かれたような穴が開いた、錆びた雑賀兜がある。こういった寺宝がある事から見ても、池田城主とのつながりをうかがえるし、当社の宮司は、池田城主の家臣と伝わる家柄でもある。
     ただ、荒木村重の乱(天正元年頃と同6年〜7年)で火災などに見舞われ、それ以前にあったかもしれない文書などは残っていないのが悔やまれる。
    追記:神社蔵の兜は、鎧兜を研究している研究者にも有名な兜であるが、神社側はこれを「朝鮮兜」として展示している。一見して判るし、これは朝鮮兜の類いではない事を断言できるが、なぜそのように表記するか尋ねたところ、韓国の研究者が神社を訪ねたおり、この兜を朝鮮兜だとしたところから、以来そのようにしているとの事だった。
     それを聞いた筆者は、色々な意味で、恐ろしさと憂いを感じた。この兜は、歴史群像シリーズ 図説 戦国時代の実戦兜にも載録されているが、そこでも朝鮮兜では無いと断言している。【俺】
  • 小括として、伊居太神社は、河辺郡尼崎に近い池田山古墳あたりまで謂われを持ち、当時もそれらを意識していたと思われる事から、この根源(核)である伊居太神社の命脈を池田家に持つことは、関連地域の領有や関わりの根拠になり得、それを保持する意味は十分にある。
     池田勝正の時代、尼崎本興寺に宛てて禁制(永禄8年10月15日付)を下す程の実力を持つようになる。こういった転機で、地域に様々な影響力を持ちやすくなるようになるのだろうと思う。池田氏側に、その正当化の種を元々持っている訳なのだから。
     その後に興る、荒木村重の勢力は池田氏時代の要素を否定せずに抱え込む事で、穏やかに領地を拡げていく事ができる。そういった経緯は、荒木村重の乱によって、徹底的に破壊され、伊居太神社や春日社などの関係社は、その後に再び元の姿に戻そうとしたようだが、時代と諸権力(権威)がそれを許さず、池田・荒木氏が統治した時代、世の移り変わりを『穴織宮拾要記』が記録しているのではないかと思う。春日社も池田ブランドを利用して、失地回復図ったのではないかと思われる。【俺】

◎小坂田村:おさかでんむら(大阪空港敷地内となり現在住所表記なし)
  • 猪名川左岸の氾濫原にあり、中村の東に位置する。北は豊島郡今在家村・宮之前村(現大阪府池田市)、東は同郡麻田村(現同府豊中市)。「延喜式」神名帳に載る河辺郡「伊居太神社」はもと当村内に鎮座していたが、南北朝期に摂津池田に移転したとも(「拾要記」伊居太神社文書)、文和3年(1354) に当村内に同社末社を勧請したとも伝承する(享保4年「伊居太神社棟札」正智寺蔵)。当村の伊居太神社の祭神は「日本書紀」応神天皇条にみえる機織技術を 伝えた渡来縫工女の穴織で、穴織の実名小坂が地名の由来と伝承する(前掲棟札)。足利尊氏が同社を再興した頃、小坂田は荒地になっていたともいう(「穴織宮拾要記」)。豊島北条の条里が敷かれ、かつては条里遺構がよく残り五の坪などの小字もあった(享保16年「村絵図」小坂田文書)。
     文禄3年 (1594)矢島久五郎によって検地が行われたという(「上知に付庄屋日記」小坂田文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高305石余、初め幕府領、元和元年 (1615)旗本太田領、寛永11年(1634)太田康茂が改易になり幕府領に戻ったと思われる。寛文2年(1662)旗本服部氏(貞仲系)に300石が分知されて相給となり、明治維新を迎えた(伊丹市史)。(中略)。
     明治15年(1882)の戸数52、人口262(呉布達丙七号)。産土神は伊居太神社。 伊居多神社とも書き穴織大明神と称した。浄土真宗本願寺派正智寺と正福寺があった(前掲村明細帳)。正智寺は寛永14年正西の代に木仏免許、正福寺は同年 教西の代に木仏・寺号免許という(末寺帳)。
     昭和11年(1936)からの大阪第二飛行場の建設で大部分が敷地になり、同15年からの拡張に伴い住民は移転した。かつての集落は現在の空港ビル付近にあたる。伊居太神社は現池田市の同名社に合祀、正智寺は同市井口堂3丁目に移転した。【地名:小坂田村】
  • この小坂田村にも荒木姓があり、この村の移転の折、桑津村に移ったとの事。その荒木さんにお話しを聞く機会があり、荒木村重について伝わっている話しを聞いた。有岡城での戦いの時(天正6年の謀反の時か)、有岡からの途中、小坂田で馬を替えて池田へ向かった。、との話しが伝わっているらしい。また、地面を掘ると、かわらけや須恵器のようなものがたくさんあって、それを投げ割って遊んでいた。、との体験談もお聞きした。その時にメモは取らず、自分の記憶に頼っているため、若干記憶違いがあるかもしれないが、色々と戦国時代の言い伝えもあるらしい。場所的に西国街道と能勢街道の等距離にあり、村の規模も比較的大きいため、小坂田村は重要な役割を持っていたのかもしれない。

◎塚口村と池田山古墳(尼崎市塚口本町)
  • 塚口村は、森村の北に位置し、北は御願塚村(現伊丹市)。字名に安堂寺・明神・又太郎免・楽馬・上慶長・下慶長・西塩辛・東塩辛・山廻・花折があった。中世から塚口御坊(現真宗興正派正玄寺)の地内町として栄えた。
     文明15年(1483)9月に本願寺蓮如が有馬温泉(現神戸市北区)での湯治の帰路に猪名野・ 昆陽池(現伊丹市)を経て神崎に向かっているが、その途中塚口に立ち寄り、「塚口ト云フタカキトコロニ輿ヲタテ、遠見シケルホドニ、アマリノオモシロサ ニ、シバラク休憩シケリ」と述べている(「本願寺蓮如摂州有馬湯治記」広島大谷派本願寺別院文書)。蓮如との関係は明確ではないが、正玄寺は応永16年(1409)創建の寺伝を持ち、文明3年7月に本堂が焼失、同6年に経豪が下向して再建されたと伝える。塚口には同寺を中心として碁盤目状の道筋が通り、方2町の周囲をめぐる土塁と濠の一部が現存しており、戦国期以降に発達した地内町と同様の景観を今に伝えるが、成立に至る経過や町の様相、一向一揆との関係などは不詳。かつて城山・城ノ内の地名があったという。
     天正6年(1578)11月に荒木村重が籠城する有岡城(現伊丹市)を包囲する織田信長方の陣所の一つに塚口郷がみえ(「中川氏御年譜付録」大分県竹田市立図書館所蔵)、12月11日には丹羽長秀らが同郷に砦を築いて在番する事が定められた(信長公記)。丹羽長秀らの軍勢が配置され、翌7年4月の配置替えの際にも同様に陣所となっている(中川氏御年譜付録)。9月27日には織田信長が陣中見舞いのため塚口の長秀の陣所に立ち寄った(信長公記)。有岡城落城後の同8年には信長から禁制が下付され(同年3月日「織田信長禁制」興正寺文書)、同 10年10月には、山崎合戦に勝利した羽柴秀吉が禁制を与えている(同月18日「羽柴秀吉禁制」同文書)。(後略)。【地名:塚口村】
  • 池田山古墳のあった塚口一帯は、その名の通り、かつては大小の古墳が点在し、大正年間でも20余基を数えた。そのうち最大のものが当墳で、市街地化によってほとんどが姿を消し、当墳も昭和13年(1938)頃には痕跡すらとどめなくなった。大正末年の記録では南西向きの前方後円墳で、全長約71メートル、後円部径約52メートル、前方部の幅約25メートル。一部に周濠の跡を残す。主体部は竪穴式石室であったらしい。鏡・刀剣・土器などが出土し、5世記前半の築造。【地名:池田山古墳】

◎下坂部村:しもさかべむら(尼崎市下坂部)
  • 久々知村の東に位置し、古代部民坂合部の居住地であったかと推定されている(尼崎市史)。文安2年(1445)の興福寺東金堂庄々免田等目録帳(天理大学附属天理図書館蔵)に雀部寺領として大嶋庄・浜田庄とともに下坂部庄がみえ、田数は62町7反小であった。(中略)。
     当地の伊居太神社の社名は「延喜式」神名帳に河辺郡の小社としてみえる。旧豊島郡域の大阪府池田市綾羽2丁目に同名社があり、「摂津志」はもとは河辺郡小坂田村(現伊丹市)にあったものが中古池田の地に遷祀されたとの伝えを記す。この説は有力であるが、同社が池田に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所が当地に近い塚口であることから、当地を小坂田に比定し、本来の鎮座地であったとする説もある(川西市史)。【地名:下坂部村】

◎五月山愛宕神社(池田市綾羽)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

◎天満宮(池田市畑)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

星の宮(池田市建石町)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

八坂神社(池田市神田)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

池田住吉神社(池田市住吉)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

◎五社神社(池田市鉢塚)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。




2016年4月10日日曜日

戦国時代の摂津国池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々

戦国時代という、後世のその名付けの通り、日常的に武力行使の政治解決が行われていた時代には、政治的機構と設備、体制は軍事と一体化しているため、分けることが難しいのですが、かといって一緒にしてしまうと、膨大になってしまい、思考と理解の集中が効率的では無くなるので、一旦、分けて考えることにしたいと思います。
 以下、摂津池田氏に関わりの深い村々について、ご紹介して、考えていきたいと思います。理解が進む中で、これらの要素を一体化させて、当時の世界を理解できるようになればと思います。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。


◎宇保村:うほむら(池田市宇保町)
  • 池田村の南東部にある字名。承元2年(1208)3月19日の女清原氏田地売券案(勝尾寺文書)に「在豊嶋北条宇保十九条二里卅四坪内」とみえるのが早く、嘉禄2年(1226)11月18日の有馬淡治田地売券(同文書)・同3年10月12日の土師恒正田地売券案(同文書)にもみえる。このうち嘉禄2年の売券の端裏書に「くれはのたのけん」とあり、また同3年の売券案には売地である「宇保十九条卅四坪之内」の四至に「限南呉庭寺地」がみえ、宇保村は呉庭庄に含まれる地であった事が知られる。中世後期、池田氏の本拠地として池田に町屋ができ発展してくる頃には宇保村の名は史料に登場しなくなる。近世、池田村の中の字名としてもみえるが、宇保町・宇保村の呼称はみえない。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)では宇保に庄屋1、職業無記載(百姓と思われる)32戸で、農村地帯となっている。安永9年(1780)の書上写(小西家文書)では宇保分として139石4斗6升9合が記される。【地名:宇保村】
  • (前略)。坂上氏の先祖は、この猪名津彦神社の祭神「阿知使主・都加使主」で、池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から招いて仁徳天皇に奉った人物です。この様な由来で宇保は坂上氏の拠点となって来たのでしょう。宇保にはもと坂上氏の菩提寺「禅城寺」があって、「池田の観音さん」として有名でした。
     この地には猪名津彦を葬ったと思われる横穴石室の円墳と小さい祠がありました。今も境内に巨石や300年を越える樹木の切り株が残っています。文化2年(1805)石棺が開けられると、中には朱に染まった遺物が発見されました。伊居太神社の神官がこれを持ち帰って、境内に埋葬しなおしました。
     長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳の御神体は、昭和33年(1958)髙床式本殿と拝殿が建てられて再び御神体が勧請されて祭られたのが、現在の社殿です。巨石のいくつかは石垣に利用されました。戦後伊居太神社の神輿が、建石町衆によって宇保の猪名津彦神社まで巡幸した事もありました。
     お祭りは伊居太神社の夏越祭・秋例祭に合わせて行われています。(中略)。神社の再建も地車も祭りも全てが地元宇保の方々の努力によって、行事として伝承され、歴史上有重要な史跡として保存されてきました。【改訂版 池田歴史探訪:猪名津彦神社】
  • 中世後期に、摂津国内で大きな勢力に成長した池田家中で、「宇保」の名字を冠する人物が確認される事から、宇保を根拠地とする豪族が居たことは確実である。また、摂津国春日社領垂水西牧神供米方々算用帳には、池田氏から荒木村重に統治の実権が移っても宇保氏の給分が見えるし、村重が没落した後の村重の二男村基などの音信にもその名が見える事から、宇保氏は代々非常に信頼される関係を築いていたとも想像される。宇保対馬守某は、村重の使いとして先方を訪ねる程の信頼を受けている。村重は旧池田家体制の人材を基本的に用いない方針だったと思われる中で、珍しい例でもあろう。ただ、天正4年あたりからは、領土拡張の中で人材不足からか、徐々に登用の傾向にはあるようだ。
     さて、宇保氏の根拠地である宇保は、江戸時代にも池田郷と一体化したような感覚を持つ地域でもあり、いわば、池田郷の南の触覚のような存在とでもいえるだろう。南から北上してくると、宇保を経たり、至近の道を通って池田郷に入ることとなる。また、宇保は、少々小高くもあり、周囲への視界も開けている。そういう立地に城や館城のようなものを備えていた事と思われる。【俺】

◎栄根村と栄根寺跡:さかねむらとえいこんじあと(川西市栄根及び寺畑)
  • 小花村の南西、最明寺川下流域の左岸に位置する。壱之坪の地名がある。「住吉大社神代記」に「河辺為奈山」は「坂根山」とも号すると記され、東は猪名川と公田、南は公田、西は御子代国の境の山、北は公田と羽束国の境を限るという範囲であるが、河辺・豊島両郡の山をすべて為奈山と称するともいう。また昔、大神が土蜘蛛を討って坂の上に宿寝をしたので坂寝山と名付けたという。
     [中世]正中2年(1325)閏正月日の小戸庄地頭代覚円申状(武田健三氏所蔵文書)に「栄根村」とみえ、領家預所弁房と当庄名主源八らは弁房の兄多田院政所代土肥孫九郎や多田院御家人らと徒党を組み、小戸庄内の当村にある地頭居所を襲って刃傷・強盗に及んだと地頭代は訴えている。正平7年(1352)2月12日の後藤基景軍忠状(後藤文書)によると、赤松則祐について後藤基景が、同6年9月伊川城(神戸市西区)を出て須磨城(現同市須磨区)・神呪寺(現西宮市)の戦いを経て、29日坂根と稲野で南朝方と合戦している。なお稲野は古代にみえる為奈野の地名を継承するものであろう。
     永和元年(1375)多田加納村々として「丹後脇 栄根寺領 二十家・西畑 栄根寺領 五十六家」が多田院に棟別銭を納めており(同年7月25日「諸堂造営料棟別銭村注文」多田居神社文書)、地内の栄根寺が同院の勢力下にあったことが知られる。応永4年(1397)から同9年にかけて、栄根寺は多田院と借物・沽却田について争っているが、多田院の理が認められている(同5年6月13日「京極氏奉行人連署奉書」・同9年3月14日「左衛門尉某遵行状」同文書など)。文明18年(1486)の多田庄段銭結解状(同文書)によれば、多田庄新田分のなかに栄根寺領一二丁五反半(うち現作七丁五反半)がみえ、五貫八二文を納付。
     永正3年(1506)の多田庄段銭結解状(同文書)では田数の変化は無いが、一貫六七三文を納付している。この栄根寺領田が坂根にあったものか明らかではない。なお天文-弘治年間(1532-58)頃に丹波八上(現篠山市)の波多野一族の荒木氏が小戸庄栄根に移り、のち池田勝正に仕えるようになったという(「荒木略記」内閣文庫蔵)。(後略)。【地名:栄根村】 
  • 栄根寺(えいこんじ)は、柳林山と号する浄土宗寺院の跡。聖武天皇の勅願所として建立されたという。文安年間(1444-49)作という栄根寺縁起(大阪府池田市西光寺蔵)によれば行基の開基、多田満仲らが信仰したといい、本尊の鎌倉期の霊験談が記される。中世には多田院に棟別銭を納めるなど同院の勢力下にあった(→栄根村)。
     戦国期に荒木氏の伊丹城落城のとき本堂・伽藍が焼失したが、寺基は残り、寺領も継続された。豊臣秀吉の時代に寺領を召し上げられて、次第に衰退していった。境内除地は東西55間・南北54間で、薬師堂・阿弥陀堂・地蔵堂がある(天保3年「寺畑村明細帳」寺畑部落有文書)。
     寺跡に残された薬師堂には平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像があり、県指定文化財。平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅するが、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されている。【地名:栄根寺跡】
  • 現在は川西市花屋敷1丁目にある浄土宗寺院、山号は桜林山。縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作 らせたのがはじまりという。最近発掘調査により寺畑1丁目の栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認される。 本尊薬師如来坐像(県指定文化財)は平安時代の作。縁起は、源満仲による再興と、本尊の霊験談を伝えている。中世後期には、12町歩余の当寺領の反銭を、多田院が徴収している。天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃し、1631年(寛永8)から西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。執筆者: 熱田公【Web版尼崎地域史事典『apedia』

◎久代庄と久代村:くしろのしょうとくしろむら(川西市久代)
  • 久代庄は、猪名川左岸にあった中世の庄園。庄名は近世の久代村に継承される。貞応2年(1223)3月日の蔵人所牒案(東洋文庫所蔵弁官補任裏文書)に「久□(代)庄内いまいち並豊島市」とみえ、当庄の市を含む摂津国・河内国の諸市・津などに対して、書物を入れる櫃を朝廷の納殿に年貢として造進させるため国司・領家・地頭・神人らの濫妨を停止し、檜物を扱う商人の往反の煩いをなくすよう命じている。
     弘安元年(1278)10-12月の勘仲記紙背文書中の某申状によれば、久代村で尚高入道が濫妨をなし、百姓を責めるので、もはや滅亡しつつあるという。先師・祖師宛置くところの仏事云々ともあるので、寺院の支配下にあったものか。南北朝内乱時、当地は南朝方が支配し、正平7年(1352)紀伊国を本拠とする小山隆長に「久志呂庄」が安堵されている(同年3月24日「後村上天皇綸旨」小山文書)。文明14年(1482)頃のものと思われる摂津国寺社本所領並奉公方知行等注文(蜷川家文書)によると、久代村は京都北山霊鷲寺領で、当知行の注記がある。室町末期も久代村は同寺の支配下であった(「久代村古記録」吉川家文書)。享徳2年(1453)の段銭配当田数は16町6反280歩、文明18年、明応3年(1494)はもとに24町5反で、文亀3年(1503)の即位、永正16年(1519)の公方御成、永禄2年(1559)の御殿修理など、しばしば課された段銭や棟別銭の配符や納切符が写されている。天文12年(1543)には「徳政之御礼不足」について3貫文を「追打」されている。
     また「久代村惣社」は春日社で、同3年3月21日に柱立棟上があり、願人は久代東大隅守平豊実・久代中加賀守平光家、地下老衆神主(4人)、御当若衆15人・東条老衆2人であった。久代東・久代中は地侍級の者かと思われるが、地下老衆などの信仰組織があったことが注目され、2町余の堂宮田、2町9反大の祭礼田もあり、所在地・面積・斗代と配分先・作人名などを記した記録もみられる。春日社の信仰組織は同時に惣の組織であったのかもしれない。これらの文書類は江戸時代に筆写・整理されて伝わっている。【地名:久代庄】
  • 久代村は、久代庄から近世には久代村として継承される。村は加茂村の南に位置し、上之台(台地)と里(平地)に分かれる。「摂津国風土記」逸文(中臣祓う気吹く抄)に「河辺の郡、山木の保。籤稲の村」とみえ、このクシシロは当地が遺称地とされる。仁徳天皇の代に津直沖名の田で、もとの名は柏葉田といったが、罪の代償に差出す田として田串を立てたので、籤稲の名がついたという。中世の久代庄の遺称地。
     天正8年(1580)8月、織田信長は当地を池田信輝の嫡子之助の所領として宛行っている(川西市史)。慶長絵図に「久我村」とみえ、高528石余、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では「久代村」とあり、同4年の高528石余のうち永荒当川成48石余で、取箇307石余のうち36石余は神田村(現大阪府池田市)出作分で、また75石は大豆納とされている(「免状」「年貢皆済状」吉川家文書)。(中略)。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社(現春日神社)、法華宗真門院久成院・一向宗覚正寺(現浄土真宗本願寺派)・同宗徳通寺(現真宗大谷派)がみえる。【地名:久代村】
  • 久代村にある春日社の祭神は天児屋根命・天津児屋根命。旧村社。北東の低地にあったが、江戸時代に移したと伝える。本殿(寛政3年修理)は安土桃山時代の余風を残す江戸時代初 期の建築とみられ(川西市史)、県指定文化財。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社とみえ、除地は東西90間・南北60間 で、天文3年(1534)の勧請とし、神主は宮座大老(32人)より順に勤め祭祀をつかさどると記す。久代新田村は寛永4年(1627)当社の分霊を勧請しているが、神主は久代村宮座が支配していた(宝暦11年「久代新田氏神宮座氏子争論申合書」同文書)。【地名:(久代)春日神社】

◎久代新田村(川西市東久代)
  • 久代村の東、猪名川の右岸に位置する。天正年間(1573-92)猪名川左岸の神田村(現大阪府池田市)の多数の百姓と久代村の少数の百姓により開発されたことから、文禄3年(1594)の神田村検地帳では同村の新田高66石余と登録された(川西市史)。寛永2年(1625)の改で94石余。文禄3年の本田畑(久代)・新田畑(新田分)は寛永2年までは免状一紙の下札であったが、改以後は免状が分紙(久代村と久代新田分)で交付されたという(以上「久代村古記録」吉川家文書)。慶長国絵図では久代村に含まれるものと考えられる。正保郷帳では高94石余。延宝6年(1678)の検地高112石余。元禄3年(1690)に再び検地が行われ、高192石余で、本高94石余が158石余に引き上げられた(久代村古記録)。さらに新開が進み、天保郷帳では高354石余。領主の変遷は久代村(高3石余分)と同様。氏神春日大明神は久代村春日神社より勧請、久代村宮座17人が支配、境内の立木による小社の建立や勧進興行をめぐって久代新田の氏子と争論となるが、宝暦11年(1761)落着した(吉川家文書)。現在は廃社。【地名:久代新田村】
  •  池田家はこの久代庄の代官職を得て、久代村と深く関わっている。久代村の侍衆は、池田氏の被官となっているらしく、池田家中の「大西殿」や池田正弘が、久代村の侍分と思われる田舟備後守佐賀に久代村宮分などの儀について「申付」をしている事から、上下関係があった事がわかる。また、庄内の段銭徴収の明細に「城殿江御礼」「殿ヨリ御出シ分」とみえ、これらは池田氏を指すと考えられる。また、久代庄の給人・段銭徴収明細などの中に「飯尾分」「大広寺分」「刀根山江うけ取ノ礼」などとあり、池田氏に関すると思われる人物や組織、場所が見られる。
     池田氏・荒木氏の没落後、新たな社会秩序の中で近世時代に移るが、このように池田氏との関わりの深い土地柄でもあるために、久代村の開発が、「池田の人々」も関わって行われるようになる。【俺】

◎刀根山(豊中市刀根山)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。



2016年4月9日土曜日

戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える

どこで、どのように確認すれば良いのかわからないまま、個人的には「城」というのは、軍事・政治的に展開するためには、本城と支城で構成されている事が、必要不可欠であったと考えています。更に踏み込んだ言い方をすると、「郡」単位を支配領域に持つ、いわゆる戦国領主にとっても、それは当然の原理であっただろうと思います。

上は天皇から、下は名主・諸座構成員に至るまで、日本国中隅々に下達、また、徴集、動員を行うには、制度・仕組みが無ければ維持させる事ができません。これが機能していなければ、社会の永続はあり得ません。

そして、特に戦国時代末期の頃を見てみると、地域毎の特徴はあると思いますが、その中にも組織を維持する仕組みが無ければ、生きていけません。ましてや戦国時代ですから、「軍事」という直接的に生き死にをかけた行動も必要です。
 人間は、一人では絶対に生きる事ができず、必ず帰属しなければなりません。また、組織に属していても、それ以上に大きなチカラに対する時には、共同してそれに対処しようとします。
 人間が他の動物と違うところは、それを可能にする意思疎通・伝達能力を持つ事にあります。人間の歴史は、正にそれの記録ではないかと思います。

ちょっと前置きが長くなりましたが、そういう摂理から考えて、摂津国豊嶋郡を中心とし、近隣の数郡を支配下に置く池田氏ともなれば、本拠である池田城が単体で存立していたはずが無いと考えています。永禄11年秋には摂津守護を幕府から正式に任じられているのですから、その時点では既に、そういう規模と実力を持つ家だった事は間違いありません。
 池田氏と血縁関係にあったりする氏族の本拠地や支配地にある政所はもちろんの事、軍事的に必要な要地を領内各所に置いていた、と個人的には考えています。
 特に軍事的に、池田城の支城の事について考えてみると、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『大阪府(兵庫県)の地名』が基本的な資料になるように思います。

一方で、池田という都市そのものの維持・増殖行動にも注目すべき点があるのではないかと思います。都市そのものの生態というか、都市が活力を持ち続けるための、主導者(役)としての池田氏の立場という要素もあったように思います。
 池田は街道を多く交差させる都市でもあり、それらと共存、また、利用する行動特性もあったと考えられ、日常的には産業・商業利用もされていたでしょうから、重要拠点にあたるところは、池田氏が縁組みするなどして、特別な関係を築いていたのではないかと思います。
 
その他、見聞きしたり、個人的に考えるところも加えて、以下に思索として、まとめてみたいと思います。前述のように、何を以て本城と支城の連携機能とするか、や範囲も難しいところですが、今は感覚的な部分も含めて、取りあえず池田城の支城群として上げてみます。その他、関係の深い周辺の村々や寺社を分けてご紹介したいと思います。
 これらは、北側は細河地域全域、南側の領域感覚としては、箕面川から北側の範囲。西側は猪名川を越えて、平井の段丘のあたりを想定しています。

先ずは、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、自己調査【俺】、その他【書名・出典名】としておきます。

◎望海亭跡(池田市綾羽)
  • 望海亭の記

    摂津池田村に寺有り。大広と云う。前の総寺祥山禅師之を主る。師、目は雲霄を視、機は仏祖を呑み、曹洞下の老尊宿なり。其の俗譜を論ずれば、則ち日本国管領畠山源君の葭莩なり。華と謂ふべし。池田筑後の守藤充正、夙に師の風を欽び攸を相て創基せるもの、此の寺是なり。山を負ひ海に瀕し、殿宇翼如たり。而して亭を山頂に置き、偏して望海と云う。先に是余等持の官寺に居り、師某人を以て介と為し、亭記を作らんことを求む。夫れ望海楼なる者は、白傅の唐に於ける、東坡の宋に於ける、惟肖の本朝に於ける文は以て賑ひ、詩は以て貼る。千古の佳話なり。余未だ嘗て身ら歴て之を目撃せず、縦い其の萬が一を髣髴すと雖も、小社の阿房を賦すや笑ふべし。求むるに随ひ辭するに随ひ、茲に年有り。庚子のの夏、師適々事以て洛に入り、一日余が小補の斗室に訪ね、話次いで又亭記及び、求めて已まず。是に於て就きて亭の望海と為せし所以を詳らかにするなり。亭南に面し、南は乃ち滄海なり。而して天王の浮圖雲間に層出し、住吉の松原波底に鼓動す。東南に跨ぐ者三州、曰く紀、曰く泉、曰く河、斯に咽喉す。呉綾蜀錦、盬鐵銜艫相逐ふ者は、商売の往来なり。官租軍給、粟麥連檣絶えざる者は、行使のの運漕なり。紅粧翠蓋、盃盤狼藉、青蒻綠蓑、煙雨勃窣、太守水嬉を張くるなり。漁翁鈎瀬を下るなり。野老謳歌して水田漠々たり。市人言語して城府潭々たり。摂人の其の楽しみを楽しむなり。沙鴎翔びて岸柳暗く、宿雁驚きて渚蓮に飛ぶ。夜潮月を吹き銀山鐵壁前に粉砕し、海市雪を映じ、珠宮貝闕、上に湧現するが若きに至っては、亭上の四時なり。亭上の朝暮なり。之を欄檻の上に翫び之を袵席の間に接するは、蓋し偉観なり。余師の説く所を聞き、寸歩を移さずして此の亭に優遊す。紅塵の萬頃の滄波と為るか、滄波の十丈の紅塵と為るか、得て知らざるのみ。余に一説あり、洞上に最上乗の禅有り。名付けて寶鏡三昧と云う。嗚呼、水天際無く一波起らず、滄海は豈一面の寶鏡に非ずや、此の亭は豈一箇の鏡臺に非ずや。海中有る所の色像、豈胡来古現、漢来漢現に非ずや。師は此の三昧に入り、機に応じ物に接し、遠くは曹山の洞水を取り、近くは永平の峨山を取り、五位功勲、三種滲漏、皆鏡中より流出し、天を蓋ひ、四来の学者をして、此の光影を弄び、同に三昧を証せしむ。亦た大ならずや。言未だ既らずして師起ちて袵を斂め、亭記成れりと云う。
     文明12年6月吉日書す。前の等持 横川の叟景三。
     
    望海亭廃せられて既に久し。記も亦た其の原本を失う。星霜再び移らば、即ち名勝復た伝ふる由無し。故に旧圖に據り故趾を求め、石を建て記を勒し、以て不朽を要むと云う。
     古の深山の庵の跡をしも 千代まで見よと残す石碑
                            邑人 山川正宣誌
                            大阪 呉策書
    【池田郷土研究 第18号 大廣寺望海亭碑文小考:吉田靖雄】

◎池田城下の家老屋敷群(池田市旧市街地)
  • 一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
    ※■=欠字
    【穴織宮拾要記 末(抜粋)】

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎東山砦(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】
  • 正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士 ○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
  • 第十代城主池田知正は勝正の弟で久左衛門、のち民部丞を経て備後守となった。(中略)。知正は嗣子がなかったので、弟光重の子幼名於虎丸の三九郎を養子にしていた、知正歿後三九郎が家督を継いで豊臣秀頼に仕えたが、慶長10(1605)年7月28日僅か18才で歿した。大広寺に墓が残る。
     知正の弟光重は、弥右衛門と称した、知正、三九郎相次いで歿したので、東山村にいた光重がその家督を継ぎ、秀頼に仕えて備後守となった。(後略)。【城主池田氏略記:林田良平】
  • 東山村は、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)の中では最も大きな石高を持ち、集落も最も大きい。また、地理的にも、五月山の北側の斜面の守りで、山上の尾根道へ繫がる何本かの山道を持ち、ここからは比較的緩やかに上る事ができる。更に、村の眼下を走る摂丹街道、北の水平方向には妙見街道がよく見える。
     池田城の裏を固め、重要街道を押さえるためには、東山村は非常に重要であったため、ここの有力者山脇氏と池田氏は深く結びついていて、池田姓を名乗る一族扱いであった。伝承や言い伝えでは、最後の自主的な池田氏の当主知正と東山村に居た光重は兄弟であったとしている事から、知正も山脇系池田氏だったのであろう。重要な地を得るため、池田家中から血の濃い人物が山脇氏と姻戚関係を持ったのだろう。
     そんな環境にあるので、東山村自体が館城のように機能していたと思われ、村の中央には広場のような場所(クルマのすれ違いのために近年拡げられたらしいが...)もあって、独特の構造ももっているように見受けられる。村そのものも大きく、細郷の中心的な村でもあった。もっとも、村同士の交流はあまり無いらしいが...。【俺】

◎木部砦:きべとりで(池田市木部町)
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山麓にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川を合流する。池田村より北上してきた能勢街道は村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降はすべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しないという条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】

◎神田砦:こうだとりで(池田市神田)
  • 神田の東方、小字菅井にあり、今は田畑あるいは宅地となっている。地名は城垣内の名を残している。天正年間(1573-91)、池田城主勝正の甥池田備後守が居住していた。池田城陥落の後も備後守は当城にいたが、慶長9年(1604)3月18日、卒去してより廃城となった。【全集:神田砦】
  • 城垣内の地名を残すが、遺構は全く存しない。『摂津志』では「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とし、『大阪府全志』では「天正年中池田勝正の臣池田備後守の守」る所とし、備後守死去の慶長9年3月18日以降、放棄されたとする。また、『北豊島村誌』では、池田弥右衛門尉光重の拠った所とするなど、諸説あるが、なお未詳。【大系:神田砦】
  • 八坂神社は、猪名川左岸、早苗の森に鎮座。祭神は素戔嗚尊。旧神田村社。(中略)。神宮寺であった常福寺蔵の慶長16年(1611)の奥書のある清光山常福寺縁起によると天元元年(978)の創建。社伝によると、天正7年(1579)織田信長の伊丹城攻撃の兵火にかかり焼失、それ以前は不明という。慶長15年、池田豊後守光重がその嫡子の成人を祝って当社を再建、現存の本堂はその時に建立されたもので、一間社流造、檜皮葺の桃山時代の様式を伝え、国指定重要文化財。(後略)。【地名:八坂神社】
  • 常福寺は、高野山真言宗。清光山と号し、本尊は千手観音。慶長16年(1611)の奥書を持つ清光山常福寺縁起(寺蔵)によると、天平3年(731)の開創で、行基が自作の千手観音を安置したという。当寺二世の海然大徳は、真言密教を極め、種々の法験を示したといい、寺伝によるとその法験によって天元2年(979)現在の八坂神社の祭神(縁起は牛頭天王とする)が降臨したという。その後、同社の神宮寺として隆盛したようで、長徳4年(998)一条天皇は勅願所とし、現寺号を下賜。承保2年(1075)白河天皇は源頼義に命じ、正安3年(1301)には後伏見天皇が北条貞時に命じてそれぞれ堂宇を修補させたという。天正6年(1578)10月、伊丹城の城主荒木村重が織田信長にそむいた時、常福寺衆徒は荒木氏に同心し籠城との流言が広まったため、翌7年寺領没収され、堂舎も焼き払われた。その復興に尽力したのは池田備後守光重で、慶長11年本堂が再建され、以後仏供料として50石下付したという。寺蔵文書中に慶長7年3月17日付けの光重自筆除地免状がある。慶長15年の棟札(「池田市史」所引)には珠徳院・西之坊・玉蔵坊などの支院がみえるが、江戸時代には玉蔵院・珠徳院・西福院があった。玉蔵院は明治37年(1904)新潟に移り、他の二院は同41年当寺に合併された(大阪府全志)。境内北の土蔵前に「願主 右衛門尉藤原景正 正応六」と刻した花崗岩製宝篋印塔の基礎があり、当寺梵鐘は天和2年(1682)の黄檗僧高泉の銘がある。(後略)。【地名:常福寺】

◎今在家城(池田市豊島南)
  • 北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。【全集:今在家城】
  • 城の内・城の淵という地名があるが、遺構はまったく残っていない。『摂津志』に「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とあり、天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:今在家城】
  • 神田村の南東にあり、東は轟木村。西は川辺郡下河原村(現兵庫県伊丹市)。村のほぼ中央を西国街道(山陽道)が東西に通り、村の西部で南西流から南流に方向を変えた箕面川と交差する。19世記初頭の山崎通分間延絵図に、この辺りの箕面川に「平日水ナシ」と記され、橋も架けられていない。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高561石余で、うち392石余が麻田藩領、259石余が旗本船越三郎四郎永景領。麻田藩領は元和年間(1615-24)以降のことで、幕末まで続く。船越領は慶長4年(1599)以来と推定され、寛文10年(1670)にはうち209石余が分家三郎四郎景通に分知され、以後当村は麻田藩・船越本分家の相級地となり、幕末に至る。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調は、麻田藩領を東今在家村、船越本分家領を西今在家村と記す。東今在家村については「摂津名所図会」にもみえ、行政村としてではなく、東西の今在家村の区別があったと思われる。(後略)。【地名:今在家村】

◎西市場城(池田市豊島北)
  • 西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城址で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の三面に水田を巡らして暗渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は、観応年間(1350-51)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【全集:西市場城】
  • 『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【大系:西市場砦】
  • 神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。(中略)。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが史料上の確認は得られていない。(後略)。【地名:西市場村】

◎豊嶋中之島城?(池田市住吉)
  • 西市場村の東にあり、村の北境を箕面川が南西流する。元和年間(1615-24)以降、麻田藩領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高70石余。溜池に寛永14年築造という丁田池があった。浄土真宗本願寺派の正光寺がある。【地名:中之島村】
  • 以前、2001年に「池田中之島城?」として記事を書いたが、その頃は核心に至らず、提起的な形で文を終えた。それを今の時点で再び取り上げてみたい。その記事の中でも触れているが、中之島村は、江戸時代の後半に村を移動して現在地にある。元あった場所は、轟木村の北側の箕面川の脇(あられのトヨス工場付近)で、ここが度々水害の被害を受けるので、より高地の現在地に村を移した。
     この場所は、待兼山の丘陵が標高を下げながら、西に張り出した台地の西端に立地する。中之島村にある正光寺は、陸軍参謀本部陸地測量部の明治18年の輯製図では、村の北側に独立的に描かれている。
     ちなみに、江戸時代になると、西国街道周辺の池田市南側にあった村は、ほとんどが麻田藩領となって、池田村と切り離されてしまい、文化的な分断が永年続いた。
     それらの事を併せて考えると、旧地に城があったかどうか検討すると、水害被害を受けやすい場所に常設の軍事的拠点を作るかどうかは若干いぶかしむところがある。また、西市場城・今在家城との位置関係が近すぎるように思える。
     しかしながら、地図をよく見ると、稜線が続く部分に人工的な方形に加工されたような50メートル四方の場所があるので、ここを少し高くして、施設などをそこに備えていたとすれば、その目的としては、北側にある才田村(出在家村)・尊鉢村からまっすぐ南へ伸びる道に対するものだったかもしれない。この道は、能勢街道から石橋村を経ずに、小坂田村や原田村へ通じる幹線でもある。
     一方、正光寺の位置に城跡があった場合は、東市場村を意識し、そこへの道に対する目的があったのではないかと思われる。
     もし、西市場・今在家・中之島に城があった場合、今在家と中之島は、箕面川の南にあって、防御力としては低くなるが、2つの城で相互補完する目的があったかもしれない。そういう観点では、城を作る理由は無くも無いだろう。また、関所や管理施設も兼ねたような、政治的な意味合いを持った、施設だったかもしれない。どちらの推定地も左程の距離は無く、東西に300メートル程の差である。どちらにあったとしても、目的は変わらないだろう。【俺】
    ※参考ページ:池田城関係の図録(池田中之島城?)

◎加茂城(川西市加茂)
  • 加茂城は旧加茂村字「上加茂」にある。一帯に「城屋敷」「城垣内」などの小字名があり、伝承では荒木義村(吉村)の居城という。義村は「荒木系図」によると、村重の父で、信濃守を称し、摂津池田六人衆の一人であった。天正6年(1578)に荒木村重が有岡城に籠もった時、織田信長がこれを攻めるため、嫡男の三位中将信忠をここに配置したと『信長公記』にある。そして信忠転戦後の翌年4月には、塩川国満・伊賀七郎・伊賀兵左衛門らがこれを守っていた。【大系:加茂城】
  •  栄根村の南、最明寺川下流域の大地上に古くから開けた上加茂村と、東部の猪名川沿い平地部の下加茂から成なる。(中略)。上加茂にある中世城館の跡は、加茂城とよばれ、付近に城屋敷・城垣内などの字が残るが、遺構は残らない。伝書では荒木義村の居城という。義村は村重の父とされる。天正6年の有岡城攻めの時に「賀茂」は織田方の付城の一つで、当初は織田信忠の陣所となるが、翌年4月には塩川国満・伊賀七郎・伊賀平左衛門らが入城している(信長公記)。【地名:賀茂村】

◎原田城(豊中市原田元町)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。




2016年3月26日土曜日

中岡嘉弘氏著 改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)という本

中岡嘉弘氏は、私と同じく池田郷土史学会の会員でもあり、池田の郷土史について、色々と教えていただいています。中岡さんは1930年のお生まれで、京都のご出身。1950年代から池田にお住まいです。
 京都出身という事もあるのだと思いますが、生活の中で身についた歴史的知識というものがあるので、池田の歴史についても広く、深く観察されています。その広さと深さに私は溺れるばかりですが、お話しをお聞きすると、色々勉強になります。
 また、中岡さんは、ライオンズクラブにも所属され、地域活動にも熱心に取り組んでおられます。私も出来る範囲で見習いたいと思いますが、追いつくことはできなさそうです。

その中岡さんが2009年(平成21)に出版された、改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)は、その集大成ともいえる本で、自ら取材された池田市内各所の寺社・史跡・遺跡が網羅されています。平凡社から刊行された大著、日本歴史地名大系ともまた違った、地元目線の詳細な記述ですし、本を片手に地域の文化財を気軽に訪ねられるように、記事内容・装丁なども工夫されています。
 この年、池田市は市制70周年を迎えた年で、その記念としてもふさわしい内容です。この3年前に、池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)を出版されています。

最近また、池田歴史探訪を読み直していて、改めてその凄さを感じている次第です。

残念ながら、どちらも今は品切れで、手に入れることが難しいのですが、図書館などでご覧いただけますので、是非ご一読下さい。
 このサイトでも、池田勝正と関係する記事を抜粋してご紹介できるように準備をしてみたいと思います。ネットを通して、中岡さんの取材力で池田の文化力が伝わったらいいなと願っています。ご期待下さい。


中岡嘉弘著 改訂 池田歴史探訪



2016年3月20日日曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)

古江橋を経て多田へ続く道(1970年頃か)
政治的問題を解決するため、武力行使が一般化していた戦国時代には、摂津国豊嶋郡細河庄(郷)は、摂津国人池田氏にとっても重要な地域でした。
 しかし、そういう場所でありながら、研究や解明がほとんど進んでいません。今も池田市域内は文化圏が3つに分かれているような感覚があります。北部の細河、中央の池田、南の石橋、という感覚です。
 この感覚は、実のところ、物理的な根本的要素が大きく変わっていない事から、昔も今もそんなに変質していないかもしれません。北の細河地域は、池田との間に五月山が楔のように存在する事から、どうしても行き来が阻害され、気持ちというか、感覚的に文化の乖離ができていきます。実際、近代の池田市の地域構成史を見てもそれが分かります。
 しかし、戦国時代となれば、そうも言ってられません。直接的な生死にも関係しますし、利益や権利、生活を侵されないように、互いに結束する事が必要になります。そんな中で、木部村で頭角を現す下村氏や東山村の山脇氏といった勢力は、池田氏とも関係を深くしていきます。それもやはり、必然の事であったと考えられます。

既に発表されている大阪府の地名1 -日本歴史地名大系28-(平凡社刊)などの通説や池田市史での見解も参考にしなあら、私が見聞きした事も加えて、この細河地域と池田城(池田氏も含む)について、考えてみたいと思います。

以下の要素について、それぞれご紹介し、まとめてみたいと思います。


摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺
細河庄内の木部村と武将下村氏について
細河庄内の東山村と武将山脇氏について
◎細河庄内を通る街道
◎細河庄と周辺
◎細河庄での牡丹の花卉栽培

【参考】
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考えてみる
戦国時代の摂津国池田氏の地域支配及び軍事に関わる周辺の村々
戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺
戦国時代に池田市の木部町にあった木部城
 

【出典】
写真:グラフいけだ1970年12月 特集:ふるさとのみちしるべ
   発行:池田市役所 / 編集:市長室・秘書課広報係